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公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:86分
監 督:ジェイソン・アイズナー
出 演:ルトガー・ハウアー、グレゴリー・スミス スリック、モリー・ダンズワース、ブライアン・ダウニー、ニック・ベイトマン、ロブ・ウェルズ 他
列車に無賃乗車して、町から町へ流浪する初老の男。何十年もそういう生活を続けている彼は、仕事を求めて“ホープタウン”という町に降り立つ。しかしそこは、犯罪組織のボス・ドレイクが牛耳る暴力に支配された町だった。ドレイクの息子のスリックとイヴァンは父親の威を借りて殺戮のし放題だが、住民はおろか警察までも黙認する有様。そんな中、娼婦アビーがスリックに誘拐される現場に遭遇した初老の男は、スリックを殴り気絶させ、警察に突き出した。しかし、警察署長がドレイク一味と通じており、逆にスリックによって胸をナイフで切り刻まれ、ゴミ捨て場に放り出されてしまう。すっかり懲りてしまった初老の男は、芝刈り機を購入してそれで商売をしようと考え、屈辱的な仕事でなんとか資金を集める。いざ、芝刈り機を買いに質屋を訪れると、武装強盗が押し入ってくる。初老の男は、店にあったそっとガンを手にして、強盗を次々と射殺。これをきっかけに、町のドラッグの売人やポン引き、小児性愛者などを次々と血祭りにあげていく。やがてメディアも、世直しするホーボー(浮浪者)として取り上げ始め話題になり…というストーリー。
ろ
本作は、タランティーノとロドリゲスが“グラインド・ハウス”のフェイク予告編をコンテストを開催したときの、グランプリ作なんだって。確かに、ノリは“グラインド・ハウス”のそれ。
ホーボーは『マチェーテ』のダニー・トレホがやりそうな役で、『バッド・アス』の世直しオヤジのプロットがダブる。悪が蔓延る町に部外者の男がやってきて世直しするというのは、あまりにありがちなプロット。でも、それに“やりすぎ”な演出を加えることで、特徴を出している作品。要するに、ムチャクチャでグチャグチャにグロ表現を連発させているのだ。もはやスプラッター映画の域。
ここまでやればある意味“新鮮”と評価されるのも理解できるが、『ホステル』で具合の悪くなってしまったレベルの私なので、いかにもウソっぽく作られてはいるものの、やっぱり気分が悪くなってしまった。
さらに、ハリウッドのお約束である、“子供は死なない”というタブーをあっさり侵し、スクールバス内で火炎放射器を放ち焼き殺し断末魔まで聞かせ、さらに殺人をTV放送して、子供にメッセージを送り、トラウマを受け付けるという悪虐な演出。
不自然なくらい“芝刈り機”をフィーチャーするから、最後にドレイクを倒すときの仕掛けなんだろうな思っていたが、あんな使い方(観てくれたまえ)。誰も五体満足でオチを迎えられないという、救いようの無さ。
グロくてもいいのだが、せめて、ホーボーやアビーがブチ切れた後、スッキリするような爆発を観せてくれればよかった。病院の新生児室を前にして語る真っ当な説教の内容からすると、ホーボーがまともな神経の持ち主であることは明白。その正義の心の化身であるかのごとく、神々しいばかりのヒーローに、彼を仕立て上げたほうがよかったのではなかろうか。
この手の作品でスッキリできないと、興収を上げるのは無理。もう一つ、突き抜けられれば快作に成り得た。タランティーノやロドリゲスとの違いは、何だろう。キャラクターの“強い意思”“一貫した方向性”“偏愛”かな。本作は、いずれの要素も無いもしくは中途半端ではないかな。どうすれば映画は面白く感じるのか?という研究に値すると思う。
#製作国は、アメリカと書かれていたりカナダと書かれていたり。どっちだ?
公開年:2010年
公開国:アメリカ
時 間:96分
監 督:ジェームズ・ガン
出 演:レイン・ウィルソン、エレン・ペイジ、リヴ・タイラー、ケヴィン・ベーコン、ネイサン・フィリオン、グレッグ・ヘンリー、マイケル・ルーカー、アンドレ・ロヨ、ショーン・ガン、スティーヴン・ブラックハート、リンダ・カーデリーニ 他
コピー:
正義の心で悪をKILL
特殊能力ゼロ、モテ度ゼロ、体力微妙──なりきりヒーローが世界を救う
子供の時からいじめられつづけ、いいことなんか無かったブサイク中年男のフランク。彼が人生を振り返って、良かったと思えることはたったの2つ。泥棒が逃げた方向を警官に教えてヒーロー気分になれたことと、自分とは不釣合いなほど美人なサラと結婚したこと。しかし、サラはヤクの売人ジョックと恋仲になり、フランクの元から去ってしまう。失意のどん底のフランクは、突然、神の啓示を受ける。最愛の妻をヤクの売人という悪魔から救うために、正義のヒーローなれと。フランクは、自作のコスチュームを作り、“クリムゾンボルト”と名乗り、街をパトロールし、レンチを武器にチンピラをぶちのめしていく。そんな彼の行動は、ネットやTVニュースで次第に話題となっていく。市民を襲う犯罪者として…。そんな彼の前に、コミックショップの店員リビーが現れ、自分を相棒にしろと、突然押しかけてきて…というストーリー。
誰もが『キック・アス』を思い浮かべるでしょう。だって素人がコスプレしてヒーロー気取り。しまいにはネットやTVニュースで有名になっちゃう。そして女の子のヒロイン仲間が出てくる。ほぼ同じプロットだもの。パクりか?なんて思われるかもしれないけど、公開年は同じだし、たぶんそれはない。
『キック・アス』にあって本作にないもの。それは“スタイリッシュ”。
本作にあって『キック・アス』にないもの。それは、小汚さ。エグさ。作品自体がパンツのシミみたいなイメージだ。
主人公のフランクは、ヘタレキャラどころか、ちょっと頭のネジが緩んでいる。はっきりいって社会不適合者である。対人関係をうまく構築できない、何らかの精神的な障害の持ち主のように見える。そんな彼が、職場のダイナーでヤク中の女性と出会った瞬間に電撃が走り、そのまま結婚にまっしぐら。でも、もちろんうまくいわけがない。妻に去られた後の彼の行動は、アホ丸出しだし、どう考えても逃げた妻が、そこまで固執する価値のある女性にみ映らない。
その愛する妻が、ヤクの売人に寝取られて、打ちひしがれた末に、自作ヒーローとなる契機も、神からの啓示。でも、所々登場するこの“啓示”が彼の特質をよくあらわしている。“啓示”という形をとっているから、外部からの意見に従っているように見えるけれど、結局は彼の内なる声にしたがっているということ。つまり、自分がこうだと信じたことは正しいことだと、基本的に疑わない人間だということである。これはパーソナリティ障害の人の特徴である。
でも、この視点は面白い。ヒーローとは、自分の行いが“正”であり、他人から歓迎される行為であると、疑わない者だから。そりゃ、たまに自分の行動の正当性を悩むヒーローはいるけど、最終的にはやっぱり正しいんだ!ってことになる。だって、そうじゃないとヒーローなんかやってられないもの。でも、現実にそれができる人間は存在するとすれば、こういうパーソナリティ障害の人なんじゃね?と。
ただ、私だけかもしれないが、このフランクを見ていると、なにかじんわり涙が出てくるというか、身につまされるというか…。何故かよくわからないのだが、自分の切り取った一部が巨大化したような、分身のように思えてきて、いままで感じたことがないような、変な“共感”覚えてしまった。私も少し病んでいるのかもしれない。
さらに、パートナーに立候補するエレン・ペイジ演じるリビーも、同様にパーソナリティ障害っぽい性格傾向。しかし、フランクは、悪は許せない!妻を救う!っていう目的があって行動しているのに対して、彼女は制裁を加えること自体が目的。目的と手段の区別がすぐに付かなくなる思考回路の上に、性的にも攻撃的にも欲望を抑えられないというやっかいな人物。
そんな彼女に引っ張られて、フランクの行動も加速せざるをえなくなってくる。
たしかに『キック・アス』のクロエたんは、顔の筋肉が思わず緩むほどかわいかった。対して、本作のエレン・ペイジは、こっちの顔が苦笑いになるほどのトホホっぷりだ。でも、エレン・ペイジの“汚れ役”への徹しぶりはすごい。あっちの果て方から、命の果て方まで、自分のポジションが良くわかっているんだろうけど、あそこまでやられるともう何も言えない。嬉々としてザクッザクやってる様子に、何かを超越した生き物の姿が滲んでいるようだ。彼女の演技を見るだけでも、本作を観る価値があるといってもいいすぎでは無いと思う。
ラストの壁。『メアリー&マックス』と同じ感動がそこにあった。こんなアホな話なのに、『サイン』のラストのような、“大いなる力”への畏怖と敬服を感じてしまう。そう、フランクは最後、悟ってしまうのである。
ああ、ヤバいもの観ちゃったなって感じ。私の中では、『キック・アス』を超えてしまっている。お薦め。
負けるな日本
公開年:2007年
公開国:アメリカ
時 間:122分
監 督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出 演:トミー・リー・ジョーンズ、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン、ウディ・ハレルソン、ケリー・マクドナルド、ギャレット・ディラハント、テス・ハーパー、バリー・コービン、スティーヴン・ルート、ロジャー・ボイス、ベス・グラント、アナ・リーダー 他
受 賞:【2007年/第80回アカデミー賞】作品賞、監督賞(ジョエル・コーエン・イーサン・コーエン)、脚色賞(ジョエル・コーエン・イーサン・コーエン)、助演男優賞(ハビエル・バルデム)
【2007年/第74回NY批評家協会賞】作品賞、助演男優賞(ハビエル・バルデム)、監督賞(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)、脚本賞(イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン)
【2007年/第65回ゴールデン・グローブ】助演男優賞(ハビエル・バルデム)、脚本賞(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
【2007年/第61回英国アカデミー賞】助演男優賞(ハビエル・バルデム、トミー・リー・ジョーンズ)、監督賞(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)、撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
【2007年/第13回放送映画批評家協会賞】作品賞、助演男優賞(ハビエル・バルデム)、監督賞(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
コピー:世の中は計算違いで回る
ハンティング中に、銃撃戦が行われたと思しき麻薬取引現場に出くわしたモス。複数の死体が横たわる中、200万ドルの大金を発見すると、危険を承知で家に持ち帰る。その後、魔が差して現場に立ち戻ってしまったことから、殺し屋シガーに追跡される身となってしまう。妻を実家に帰し、必死でシガーの追跡から逃れようとする。一方、ベテラン保安官のベルも、モスが事件に巻き込まれたこと察知し行方を追い始めるが、その先々で死体ばかりに遭遇。理解を超える状況に辟易する彼だったが…。というストーリー。
昨日の『ダークナイト』で思い出してしまった本作。
ジョーカーに負けず劣らず(いや、それ以上)の存在感、アントン・シガー。気色の悪い髪形に、屠殺用のエアガンのボンベを引きずる姿は、映画史に残る伝説キャラになったといってもよかろう。かといって、屠殺用エアガンにこだわりがあって、そればかりを使い続けているってわけでもないのが、また不気味だったりする。
『ダークナイト』の前年の作品で、同じテーマといってもよいだろう。これまでの価値観の埒外の存在がヌラーっと追いかけてくる恐ろしさ。
下卑た人間でも、損得の価値観くらい共有できそうなものだが、こだわるポイントやや引っ掛かるポイントのさじ加減がまったくもって不明で、会話すら成立しそうもないおそろしさよ。
コイントスで殺すか否かを決める様子は単なるギミックなのか。自分以外の大いなる者(シガーの場合は運)に自分の行動を任せる様子は、宗教の教義という大いなるものに、自分の行動規範を預けてしまうという原理主義者の行動に通じると私は思う(まあ、原理主義者だけではなく、血液型で性格の基本パターンが決まると思っている、アホな日本人も同じだけど)。
最後に、殺すかどうかを自分で決めることができないことをたしなめられるわけだが、正論を突きつけたところで、彼らの行動が改まるわけでもないところが、また怖いわけだ。
これまで価値観や倫理観の元に行動する保安官。家族の安穏のために目先の利益(簡単にいえば金)に走る男。裏家業ながら自らの職業意識で動く殺し屋。事情や経緯は色々あれど、理解できなくもないこの3人が、アントン・シガーという怪物に翻弄されるのである。かなりのクレイジーな地獄を見てきたベトナム帰還兵すら理解できないってんだから、もう次元からして違うってこと。
最後、トミー・リー・ジョーンズ演じるベル保安官が、妻に朝食で見た夢を語るシーンでブツっと終わる。「もう、俺にゃあ理解できんわ…」で終わるのか、「確かに訳のわからん世の中になったけど、死ぬまで信念を貫かんと生きている意味がないんちゃうか?引退してる場合じゃないんじゃねーの?」と思ったのか。さてさて。私は後者であることを祈るのだが、コーエンはどう表現したかったのか。
シガー程度のネジの外れた人間はゴロゴロ存在するであろうアメリカ。彼らにとって、単なるフィクションですまされないものを感じたことは、想像に難くない。
はたしてお金の行方は…とか、最後の奥さんは殺したの?…とか、本作はいろいろ投げっぱなしな部分が多い。主筋の伝えたい部分以外は、観た方々で考えてくださいってことなんだろうけど、こういう割り切りは好き。そこで、お約束な勧善懲悪的なカタルシスを求めるような、そんなレベルのステージに、もうコーエン兄弟はいない。
全編にわたって緊張感を維持し続けており、さすがコーエン兄弟といったところ。彼らの作品はすべて大好きだが、まさか『ファーゴ』に匹敵するような作品がまたまた生まれようとは…。強くお薦め。
負けるな日本
公開年:1976年
公開国:アメリカ
時 間:114分
監 督:マーティン・スコセッシ
出 演:ロバート・デ・ニーロ、シビル・シェパード、ジョディ・フォスター、ハーヴェイ・カイテル、ピーター・ボイル、アルバート・ブルックス、ジョー・スピネル、マーティン・スコセッシ、ダイアン・アボット、ヴィクター・アルゴ、レオナルド・ハリス 他
受 賞:【1976年/第29回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(マーティン・スコセッシ)
【1976年/第11回全米批評家協会賞】主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ)、助演女優賞(ジョディ・フォスター)、監督賞(マーティン・スコセッシ)
【1976年/第42回NY批評家協会賞】男優賞(ロバート・デ・ニーロ)
【1976年/第2回LA批評家協会賞】男優賞(ロバート・デ・ニーロ)、音楽賞(バーナード・ハーマン)
【1976年/第30回英国アカデミー賞】助演女優賞(ジョディ・フォスター)、作曲賞[アンソニー・アスクィス映画音楽賞](バーナード・ハーマン)、新人賞(ジョディ・フォスター「ダウンタウン物語」に対しても)
【1994年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
【1976年/第19回ブルーリボン賞】外国作品賞
コピー:ダウンタウンのざわめき…街の女 光のカクテル…濡れたアスファルト けだるいジャズの吐息… ニューヨークの夜が、ひそやかな何かをはらんで いま、明けてゆく…
ベトナム帰りの青年トラヴィス、夜勤のタクシードライバーをやりながら、社会の汚さに不満を覚えていた。ある日街で見かけた大統領候補者の選挙事務所に勤めるベッツィという女性が気になり、押しかけて次第に親しくなっていくのだが、彼女をポルノ映画館に誘ったことで絶交されてしまう。自分ではどうにもならない苛立ちから、闇ルートで銃を入手し、体を鍛え始める。彼の頭の中である計画が沸き上がっていたのだ…というストーリー。
スコセッシが本作のリメイクをやるとかやらないとかって情報を聞いたので、改めて観てみようかなと(本当かどうか怪しい情報だけど)。散々いろんな人々が解説しているので、今回はちょっと違った観方を。
トラヴィスは、拭いがたい社会への違和感、そして、周囲の人間がその違和感を感じていないかのように振舞っていることに対する更なる違和感を覚えている。とはいえ、自分の“正義”は周囲に理解されず、自分のコントロール下からは遠く離れた存在であると、半ば諦めている。かといって、社会への興味を失っているわけでもない。
トラヴィスがポルノを観てもさほど興奮していないことから、彼が諸々の感覚が他者よりも鈍感であることが判る。視覚的に捉えられる感覚から生じる彼の頭の中にある複雑で高尚ともいえる観念とは裏腹に、肉体的な感覚は若干麻痺しているものと思われる(だから、急に過激なトレーニングを始めても苦ではない)。この感覚の麻痺が先天的なものなのか、ベトナム従軍経験によるものなのかは、説明されていない。
痛みを感じない人間は、他者の痛みを慮ることができない。ひいては他者が感じる心の痛みにも共感することができない人間になってしまう。人間は、頭の中で社会観を形成するが、それを元に行動すると大抵は痛い目にあう。頭の中と現実との乖離を“痛み”として認識し、修正していく。ゴツゴツした岩が、川の流れにもまれて丸い石になるように、社会とのコンタクトで痛い目にあって次第に丸い人間になっていくわけだ。しかしトラヴィスはその痛みをいまいち感じない。だから、永遠にゴツゴツした岩のまま、社会にぶつかり続けることになるのだ。
他者の痛みに鈍感だから、自分の中の社会正義と異なるものを排除することに、躊躇はなくなる。彼にとって、自分の価値観と異なる政治家を抹殺することも、少女に売春させる奴らを退治することも同列なのだ。
社会とうまくやれない人も、犯罪者になってしまう人も、こういう傾向が強いな…と最近考える。
そして、本作の不思議な魅力の一因だが、徹底的に暴力に耽溺していく人物にも関わらず、なぜか聖人化されるという不思議さ。カトリック社会の文学においてはよくある手法らしいが、その発想の根源が何なのか、私には未だにわからない。でもなんともいえない雰囲気を醸し出しているのは認めざるを得ない。
昨日も名前を出したが、『ノーカントリー』のシガーも、同様の人物だと思う。しかしシガーの方はいささか人間離れした怖さ。トラヴィスの方は常人との境界があまりはっきりしていないし、よく観察すると同様の雰囲気の人はけっこう周囲にいるので、逆に怖くなる。
未見の人は是非観てほしい。とても30年以上前の作品とは思えない。お薦め。
#ジョー・ペシがポン引き役で出てくるのだが、筋骨隆々で何か笑えてしまう。
負けるな日本
公開年:1998年
公開国:アメリカ
時 間:119分
監 督:トニー・ケイ
出 演:エドワード・ノートン、エドワード・ファーロング、ビヴァリー・ダンジェロ、フェアルーザ・バーク、エイヴリー・ブルックス、ステイシー・キーチ、エリオット・グールド、イーサン・サプリー、ガイ・トーリー 他
ノミネート:【1998年/第71回アカデミー賞】主演男優賞(エドワード・ノートン)
コピー:兄さん、僕たちの物語は憎しみの歴史にピリオドを打てるだろうか。
消防士だった父親が黒人に殺されたのをきっかけに、デレクは白人至上主義の組織に入り、その思想にのめり込んでいく。ある日、デレクは車を盗もうとした複数の黒人を殺害し服役。その後、兄のデレクを尊敬する弟ダニーも、組織に出入りするようになる。ダニーは兄の出所を待ちわびたが、数年後に出所したデレクは別人のように変わっており…というストーリー。
パッケージのイメージから、ネオナチなんかをテーマにした、もっと仰々しいストーリーだと思い込んでいた。まったくの食わず嫌いでいままで未見だったのだが、まったくの見当違いで、もっと早く観ておけばよかったとすら思う。
人種差別というのは、不満・ストレスの理由を、手近な差異に結び付けているだけで、真の理由ではない場合がほとんど。デレクの父からデレクへ、デレクからダニーへと、もっともらしい理論の刷り込みが行われるが、“もっともらしい”だけ。この“もっともらしい”点が話しをややこしくしているすべての原因である。実はさほど根深くもややこしくもなく、差別している側もされる側も、このもっともらしいだけで、因果関係もなにもない点を論破できないことが問題なのである。そして往々にして、その解決のためには暴力が用いられ、そうなってしまえば、単なる暴力の連鎖だけが続くのである。
どの演者もとても迫力のある演技だが、エドワード・ノートンの狂気の演技は特にすごい。緊張感が伝わってきて、観ているだけで筋肉に力が入ってくる。米アカデミー主演男優賞にノミネートされているが、その年に獲ったのは『ライフ・イズ・ビューティフル』のロベルト・ベニーニ。『ファイトクラブ』大好きのワタシ的にはエドワード・ノートンのほうがふさわしく思える。
ただ、ストーリー的に、若干難点があると思われ、受賞に至らなかった理由はそこかも(本来、ストーリの不備が演技賞に影響を及ぼしてはいけないんだけどね)。
刑務所で偶然出会うある黒人との関わりで、デレクは急激に改心していくわけだが、平気で無慈悲に躊躇無く暴力を振るう彼が、あの程度で改心するというのは、いささかバランスが悪い。オカマを掘られることと、人種差別思想が、同じ程度の重みだって言っているようなものだものなぁ。
最後はガツンとくるラストで終わるのだが、はたしてこの連鎖は終わるのか否か。答えを明確にださないで、終わる。それでよい。あとは実社会でということだ。
未見の人は是非観るべき。人種差別主義者のインチキを見抜くための見識も深まるだろうし、DV野郎がどういう態度で人を支配していくのかもよくわかって対処のお勉強にもなるだだろう。お薦め。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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