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image1814.png公開年:2009年
公開国:デンマーク、ドイツ、フランス、スウェーデン、イタリア、ポーランド
時 間:104分
監 督:ラース・フォン・トリアー
出 演:シャルロット・ゲンズブール、ウィレム・デフォー、ストルム・アヘシェ・サルストロ 他
受 賞:【2009年/第62回カンヌ国際映画祭】女優賞(シャルロット・ゲンズブール)




セックスの最中、目を離した隙に幼い息子がベビーベッドから出て窓へよじ登り、転落死してしまう。妻はその哀しみと自責の念から心を病んでいく。セラピストである夫は、自ら妻の治療にあたろうとするが、懸命な努力は実らず妻の症状は悪化する一方。夫は、彼女の心の中の闇を克服するために、森の奥深くにある山小屋に連れて行くことにするのだが…というストーリー。

前々から観ようと思っていたが、聞き及ぶ内容からすると、気力・体力ともに整えておかないとヤられてしまいそうだったので、これまで延び延びに。昨日の緩い映画は、ワンクッション置いたと思っていただければ。

相変わらずのラース・フォン・トリアー監督。キッついシチュエーションで、観ているだけでつらくなるにもほどがある。内容は、もうSM映画なんじゃないかと思えるほどエスカレートしていく。おそらくボカしが入っているのは日本版だけなのだと思うが、見えないせいでかえって怖い。

妻も夫婦間のカウンセリングはよろしくないといっているし、夫自身もやるならやるで厳格なルールが必要があるといっているわけで、根本的に危うい状況。途中からその厳格なルールは破られても、“治療”は続けられるのだが、その前からまともなカウンセリングになっていないように思える。大体にして、夫も子供の死のダメージを受けているはずなので、治療を施される側のはずなのに。

“アンチクライスト”とは何なのか。正直、一回この作品を観たくらいで、トリアー監督が何を言いたいのか、整理できないので、以下は思ったままの走り書きみたいなものだと思って欲しい(結論はない)。

アンチクライストは直訳すれば反キリスト者なのだが、それは大抵“悪魔”であるとされる。では、その悪魔とはなんなのか。DEVILとはちょっと違う。だって彼らは元々神なのだから。単なる違うということは、キリスト教の埒外にいる存在ということではなかろうか。

妻は、「自然は悪魔の教会」と言う。これはどういう意味か。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教において自然とはどういう存在か。実は、単純に“母なる大地”というイメージではない。これは、これら一神教が湧き出た土地が、肥沃な土地ではないから。基本的に自然は人間に対して仇なすものという前提だ。いやいや、カトリックだって収穫物に感謝したりするでしょ…と思うかもしれないが、それは土着の宗教を吸収した結果(シンクレティズム)でしかない。だから、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教において輪廻転生という概念はない。死んだ人間は、この世が終わりがくるまで“どこか”にモラトリアムしていて、いざその時になるまで審判を待つ。だから生まれ変わりなんてのは、教義に反する。
さて、豊かな森は、生き物の集合であり、その死は生に直結する。我々日本人には、永遠に引き継がれる命という概念があっさりと腑に落ちる。でも、彼らはそうではない(すくなくとも教義上は)。つまり、森=非一神教=アンチクライストの象徴てことか。

ANTICHRISTのTが♀である点。本作では、妻の宿る悪魔性が刻々と描かれている。「フロイトは死んだ」。確かに現代心理学において、フロイトの夢診断レベルをそのまま適用するなんてことはない。そんなことをしたら馬鹿にされるし、実際的外れな治療になる。でも“死んだ”か? まるでニーチェが「神は死んだ」というのと同じレベルでまことしやかに用いられるが、死んではいないだろう。フロイトは事象を分析し、仮定を挙げて、当時のできる範囲で実証を試みただけであり、後の研究者たちが別の発見や結論に至ったからといって、彼の行いや視点が“死んだ”わけではない。
フロイトといえばヒステリーの研究がある。当時は女性特有の病といわれたが、彼は、ヒステリーの原因は幼少期に受けた虐待等が引きおこす精神病理だといった。これを否定するならば、本作で夫がやっている治療は何だ? という話になる。病理として片付けられない人知の埒外の問題だということになる。つまり悪魔。そういうことか。
本作には過激シーンをカットした“カトリック版”なるものが存在するらしい。はたしてカットされた“過激”とは何なのだろう。多分、文字通りの肉体損壊がらみのシーンだけではないと予測する。カトリックは三位一体が教義だが、四位一体だという指摘もある。父・子・精霊に加えてマリア信仰がそれだという。その根源は母性である。でも、本作の妻は子の死を悲しむ傍らで、虐待を続けていたと示唆される。それどころか、その死は未必の故意であったとも。そのような母像はカトリックでは受け入れられないはずだ(『カントリー・ストロング』においても、子殺しだとバッシングされ続けていたのは、そのためである)。

ふと、♀は女性記号なのか? と頭をよぎる。もしかしてエジプト文字のアンク記号だったりして。アンクの力を信じる者は一度だけ生き返ることができるとか。ここでも、輪廻転生に繋がるなぁ。
私には、他の宗教と一神教とのコントラストしか見えてこなくて、本作が、特にキリスト教社会の限界を主張しているように思えて仕方が無いのだが。
#まあ、トリアー監督の場合、自分の出生の秘密とか、母性に疑問を抱くだけの理由があるからなぁ…。

自分で投げ捨てたレンチの在り処がわからなかったり、一瞬にして性格が切り替わるところなど、妻が多重神格に犯されているような表現。だが、やはり単なる多重神格とは違うような…。
森にいった後は、何が現実で何が幻想なんだか判然としない。これは夫も、徐々に精神的に影響を受けた…と判断してよいのか否か。私は森にいったこと自体、夫の幻想なんじゃないと思えるほど。なぜか、床下にレンチがあると疑うことなく、床を破る夫。どうして判る? 現実ではありえない。やはりこれは幻想の中の出来事か。幻想だとしてもむしろ夫側の幻想という暗示か?出産しながら逃げる鹿、喋るキツネ、頭を砕いても鳴き続けるカラス、これを見たのは夫だしな。

大体にして、三人の乞食とは何ぞや。もう、ここまできて、私の脳は力尽きたみたいだ。同じように、カトリックの人が観て失神したという『パッション』と比較すると、私の脳は100倍くらいフル回転した。これだけのことがちょっと思い出しただけでつらつらと浮かんでくるほど。
エグい描写(チョッキンとか)があるので、また観る気がおきるかどうかわからないが、その他の要素だけなら間違いなく2年に一回は見直すレベル。好きか嫌いかどちらか選べといわれれば“好き”といわざるを得ない。
なぜかわからないが、キリスト教圏に産まれなくてよかった…という思いが頭を去来する。とにかく観る前は、体調を万全にしておくべし。私が皆さんにいえることはそれだけだ。




負けるな日本

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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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