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image0293.png公開年:2003年 
公開国:アメリカ
時 間:131分
監 督:アラン・パーカー
出 演:ケヴィン・スペイシー、ケイト・ウィンスレット、ローラ・リニー、ガブリエル・マン、マット・クレイヴン 他
コピー:あなたはこの結末に納得できますか…




テキサス州。哲学科の大学教授デビッド・ゲイルは、良き家庭人であり、死刑制度反対運動の活動家だったが、現在は活動団体の同僚女性に対するレイプ殺害の罪で死刑が確定し収監中。彼は死刑執行直前になり、女性記者ビッツィーを指名し、多額の報酬と引き替えに独占インタビューを許可する。はじめはゲイルの有罪を確信していたビッツィーだったが、インタビューを重ねるうちに、冤罪を疑うようになり…というストーリー。

二度目の鑑賞。当時、まったく注目していなかった…というか、本作のことを全く知らなくって、昔やってた深夜番組(矢口ひとり)で、矢口真里が紹介したの聞いて借りて観た始末。アイドルタレントから情報を得るとは、映画の対するワタシのアンテナ、低かったなぁ。

ケヴィン・スペイシー出演作品では、『セブン』『ユージュアル・サスペクツ』『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』の3本は、“冷静な狂気”っていう共通点で大好きなのだ。恨みや怒りにまかせたバーサーカー(狂戦士)モードじゃなくって、着々と遂行するリアルな悪魔の所業的な感じが良い。

自分の信念のために、ここまで自己犠牲できるか?って疑問を呈する人がいるが、別に不自然でもなんでもない。自己犠牲とはいえども自分の信念のために自分の生命を使っているだけ(もはや他人のためではない)。それに、白血病で余命幾許も無い人と、家族も職も信頼も失って社会的価値が喪失し生きる意味を失った人間にとって、自分の信念のために身を賭すことくらい何てことはないだろう。

また、「冤罪の可能性があるから死刑はやめよう」なんて方向になるなんて有り得ないという人もいるが、それは民主主義システムに対する見識不足である。
死刑執行のためには州知事がサインするわけだが、なぜ州知事がサインする仕組みになっているかというと、行政の誤りによる冤罪を水際で防止するため。最後の最後に住民が選出した人間が判断を下すということ。その判断基準は、被告と検察の意見を冷静に判断して…ということではなく、完全なデュー・プロセスが求められる。つまり、検察側に一切の落ち度が無いことが条件で、その間の捜査に微塵の瑕疵があっても、その利益は被告のものとなるのが原則。つまり、まず犯人であることが明々白々だったとしても、証拠の採取において手順を逸脱している場合は、その証拠は証拠とみなされず、場合によってば無罪となるわけ。無実じゃないけど無罪ってこと。これが大原則である。
日本人はよっぽど行政に信頼があるのか(“お神”っていくらいだからね)、このデュー・プロセスが軽視されていて、多少証拠に問題があっても証拠として採用されてしまう。だから自白だけで死刑が確定されて冤罪が多々発生するのだけれど
でも、テキサス州の場合は、はじめっから知事はそういうチェック機関であろうという意思すらなく、死刑囚は殺すべきという考え方なわけで、そこが問題なわけ。

ただ、話をややこしくしているのは、死刑制度反対運動家たちが、自分の行動に自己矛盾があるのに気付いていないことである。
本来あるべき行動とは何かというと、まず、知事に現行法制上のあるべき視点で職務遂行することを求め(きちんとチェックしてね…ということ)、死刑廃止云々はその次の段階にすべきことである。しかし彼らはそうはできない。日々執行されていく死刑に対して、冷静になれないから。あげくのはてに、知事と討論しても、死刑制度に犯罪抑止力はないとかなんとか理由を言って、知事に死刑執行を止めさせようとする。基本的に知事は法律を遂行しているにすぎないわけで、その知事に死刑をさせないように脅しをかけて仕向けるのは、それはそれで民主主義システムからの逸脱。まず、死刑制度を廃止する立法がなされるように、立法府(議員)なり有権者なりに理解してもらうことに注力すべきなのだ。本来あるべき姿を求めていながら、脱法を求めているという矛盾。死刑廃止の問題が一向に進まないのは、これも一因である。
日本でもこの現象は発生していて、死刑廃止論者の弁護士が姑息な手段で司法の運営を阻害したり、死刑廃止論者の誹りをさけるために法務大臣が死刑執行のサインをしない例など多々ある。法務大臣が法律に決められた期日に死刑を執行しないのは、法律違反なのに平気で法を破る。大臣が法律を破るなんて法治国家として有り得ない行為なのだが、かといって誰も指摘しないばかりか、死刑執行にサインすると悪魔のように報道される。かといって死刑廃止が選挙の論点になったことすらない。日本も変な国である。
まあ、極論から言えば死刑を廃止しようがしまいがあまり状況は変わらないとは思う。死刑になることを前提に自暴自棄に犯罪を犯すケースも増えるだろうし、だからといって最高刑を無期懲役にしたところで、厭世傾向の人間が社会から隔離されたいがために犯罪を犯す場合も出てくるだろうし、多分きりがないだろう(なんか物理の世界の不確定性原理みたい)。個人的には死刑執行官の負担軽減のために無期刑を最高刑にしたいところだが(日本の死刑執行プロセスでは、心を病んでしまう執行官が多いことだろう)。

閑話休題。以下、若干ネタバレ。

で、はっきりと本作内で語られているわけではないのでが、私は次のような感じだったと考える。
ゲイルとコンスタンスは、自身の状況が切羽詰った段階になってはじめて真の問題に気付いたんだろう。枝葉の問題は捨象されて、根本原則である「冤罪の可能性」とその恐ろしさを国民に身をもって理解させるべきであると。いままで色んな方向に発散していた行動が、この一点に集約するのだがら、それは実に強烈かつ効果的な行動になる。そこに“死を厭わない”という冷静な狂気が加わるのだがら、さらに…である。

ゲイルの執行に間に合ったらどうなっちゃったのだろう?とか、ビッツィーが最後のビデオを公開したらどうなる?とか、それらがシナリオ上の穴だという人もいるのだが、それは誤り。本作のシナリオがすごいのは、仮にどっちにころがっても、目的は果たされるということである。国民は“人間は誤りを犯す”ということを思い知らされたわけだが、もし、これが狂言だと知っても、“人間は騙される”ということを痛感する。いずれにせよ、取り返しのつかない死刑はもっと慎重になるべきだと思うはずだから(必ずしも死刑廃止になるとは限らないけれど)。
#だから、本作のコピーは的外れだと私は思うよ。

ちなみに、最後の手紙は、ゲイルの賢さを表現していて好きな演出。2つの効果があるね。一つは父親はレイプ犯などではなかったという息子へのメッセージ。そして、夫を信じることができず、死に追いやることに繋がったかもしれないという負い目を一生背負って生きさせる、という妻への究極的な復讐。たまりませんなぁ。
#オペラの伏線も好き。

まあ、観終わってみれば、主筋はすごくシンプルなストーリー(死刑廃止のために考えたある計画ってだけ)だと気付くのだが、周りの味付けがよく練られていて実に秀逸なのだ。まったく無受賞・無ノミネートなのだが、こんなに無視されるほど出来の悪い作品では決してない。強くお薦めする。

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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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