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公開年:1959年
公開国:フランス
時 間:97分
監 督:フランソワ・トリュフォー
出 演:ジャン=ピエール・レオ、クレール・モーリエ、アルベール・レミー、ジャン=クロード・ブリアリ、ギイ・ドゥコンブル 他
受 賞:【1959年/第12回カンヌ国際映画祭】監督賞(フランソワ・トリュフォー)、国際カトリック映画事務局賞(フランソワ・トリュフォー)
【1959年/第25回NY批評家協会賞】外国映画賞
パリの下町に住む12歳の少年アントワーヌ・ドワネル。学校ではいつもいたずらばかりして先生に叱責され、成績も悪く、通うことが苦痛でならない。稼ぎも少ないくせに趣味の車にばかり興じる父親や、残業と偽り浮気を重ねる母親は、アントワーヌのことを放任状態に。夫婦仲も悪く、毎日繰り広げられる口論を寝袋にくるまって聞かされる日。そんなアントワーヌの楽しみは映画を観ることだけだった。そんなある日、アントワーヌの書いた作文の宿題がバルザックの盗作であると指摘し、学校の先生は停学を命じる。居場所がなくなった彼は、独立して生きていく旨を手紙にしたため、家でしてしまう…というストーリー。
原題は“400回の殴打”っていう意味らしいけど、邦題の“大人は判ってくれない”のほうがぴったりだわ。この邦題を考えた人は天才。『あるいは裏切りという名の犬』に匹敵(あら、両方ともフランス映画だわ)。
この時代の古い作品は、いくら名作といえども時代独特のもたつきが感じられることが多いけれど、本作はするっと最後まで飽きずに観ることができた。いい感じの疾走感がある。音楽の使い方もカメラカットも編集の仕方も“新しい”と思う。それゆえに“ヌーヴェルヴァーグ”っていわれるのかな。
まあ、私だって子供だった頃があるので「大人は判ってくれない」って気持ちはわかる。彼の家庭環境や学校での扱われ方は確かにやるせない。
途中で母親が気持ちを切り替えて一生懸命にかまっていたときはおとなしくなりかけていたので、単に親の愛情の欠乏だという方向にしたいのかもしれない。でも、いろいろなすれ違いがあって不幸にもこんな状態に…って感じじゃなく、多分にアントワーヌ本人の性格傾向に問題があるよう見える。それは、単なるやんちゃの範疇を大きく超えて、アスペルガー症候群的な傾向すら感じられる。そのせいなのか、理解こそできたが共感はまったくできなかった。
それどころか、境遇の悪さをたてにとって、自分の主張が正当化される…というような反社会的性格傾向がみえる。それは、アントワーヌだけでなく、周りの大人たちの様子にも伺えるところが実に興味深かった。これが、“フランス流”の個人主義の有態なのか、「社会全体でなんとかしてもらえるんでしょ?」的な感覚がにじみ出ているような感じ。
人権主義さ標榜しておきながら、結局、肝心な部分は社会(政府)がなんとかすべきでしょ…という乖離状態って、権利は主張するけど、それに伴う義務は無視するのと同じ。こんな感覚だと、お題目だけすばらしい誤った政策にほだれて痛い目にあっちゃうよ。移民政策の失敗もこういう感覚がベースにあるからなのかも。
自由・博愛・平等を掲げている国だけれど、裏を返せば、掲げなければ実現できないということも意味しているわけで、フランス国民って簡単に社会主義や全体主義に傾きやすいのかもしれないね。
周りの顔を覗ってばかりいていると指摘される日本が、実際はどっぷり個人主義であるのと、本質的に真逆に見えるのも不思議で面白い。
まあ、ラストは投げっぱなしの極みって感じだけど、だからといって、その後を丁寧に描かれても、それはそれで興醒めすると思うんで、これでいいんだろう。
社会を漂流する子供に、大人は碇も救命ボートも差し出さない。政府という大船も一時しのぎの小島と最低限の食料を善人顔で差出しはするが、その受け取り方が悪いときには頭を叩く。う~ん。
負けるな日本
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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