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公開国:アメリカ、カナダ
時 間:86分
監 督:ジョン・シュルツ
出 演:カーター・ジェンキンス、オースティン・バトラー、アシュリー・ティスデール、アシュリー・ボーチャー、ヘンリー・ヤング、リーガン・ヤング、ドリス・ロバーツ、ロバート・ホフマン、ケヴィン・ニーロン、ジリアン・ヴィグマン、アンディ・リクター、ティム・メドウス、マレス・ジョー、トーマス・ヘイデン・チャーチ、ジョシュ・ペック、J・K・シモンズ、カリ・ワールグレン 他
数学が得意なトム・ピアソンは、頭が良いことでかえって学校でいじめられている。だから、わざとテストで悪い成績になるように手を抜いたが、今度は両親から大目玉を喰らうことに。ピアソン一家は夏休みに借りた別荘にいくことになっていたが、自分のことを判ってくれない両親や、自分を馬鹿にする姉や妹と一緒に過ごすのがイヤなトムは、成績を落としたことの罰として家に居残りしようとするが、強制的に連れて行かれる。別荘には、祖母と叔父一家もやってくるが、ガキ大将の従兄弟とは相性が悪く、さらにいけすかない姉の恋人まで押しかけてくる始末で、まったく楽しくなりそうな気配はなし。そんな時、突然TVが映らなくなったため、トムがアンテナ修理を命ぜられ屋根に昇ると、そこには小さなエイリアンたちが潜んでおり…というストーリー。
ストⅡパロディとか、日本サブカルにかなり媚を売ってるのに、日本では未公開という悲しい作品。目立った役者も出ていないし、ストーリーもありがちだし、肝心のエイリアンが愛嬌も無けりゃ格好いいわけでもないので、致し方ない…とは思う。子供の喰い付きが悪そうなのが致命的。本国でもコケたという噂だし、劇場公開するにはかなりの勇気を要する。おそらく、小さい子供に観せたら、すぐに飽きると思う。
メジャーな作品と比べれば、シナリオも映像技術もレベルはそれほど高くないは間違いない。宇宙人が登場してくるまでが、長く感じる。タイトルからして宇宙人がくるのが明白なのに、ウザい家族親族ネタが20分くらい繰り広げられる。また、大人たちが宇宙人の存在に気付かないというありがち且つ稚拙とも思える演出や、主人公のいじめられかたもステレオタイプ極まりない。
しかし、ここのところ重い作品ばかりだったので、あえて軽いものを…と思ってチョイスしたわけだが、結果として案外愉しめた。人間をリモコンで操るというくだりが、たいしたアイデアじゃないのはわかっているんだけど、サクサク、ヌルヌル動く感じが、妙にしっくりきて何か愉快なの。この1点だけで、充分(裏を返せば、この点以外はおもしろくない…ともいえるのだが)。
レンタル料金100円なら、OKだと思う。幼稚だとは思うけど不快にはなることは無いもの(加点もないけど明確な減点もない)。特にこれ以上の感想も思い浮かばないほどの、ユルさ。でも、土曜の夕方とかにTV放映してたら何気に見入っちゃうレベル。
でも、このクラスのB級作品で、しっかりとCGで作りこんでくるアメリカさん。日本も早く安価で短納期でこのレベルのCGが使えるようになってほしい。大都市圏にあるクリエイター系の専門学校じゃ、2DアニメのCG技術者しか養成しとらんのかねぇ。3Dのテクニックを習得した人はゲーム業界にいっちゃうのかしら。とにかく映画の世界での3D技術者の裾野が広がっていないように思える。映画じゃ喰えないのかなぁ。実写との合成とか単純な3DCG技術だけでは済まないから、養成が必要だと思うんだけど(まだ、アメリカに修行にいかないといけない業界のレベルなのかな)。
負けるな日本
公開国:日本
時 間:99分
監 督:深作欣二
出 演:菅原文太、松方弘樹、田中邦衛、中村英子、渡瀬恒彦、伊吹吾郎、金子信雄、木村俊恵、川地民夫、渚まゆみ、内田朝雄、三上真一郎、名和宏、中村錦司、曽根晴美、大前均、国一太郎、大木悟郎、志賀勝、唐沢民賢、榊浩子、小林千枝、 東竜子、川谷拓三、宮城幸生、山田良樹、疋田泰盛、壬生新太郎、木谷邦臣、松本泰郎、西山清孝、奈辺悟、福本清三、片桐竜次、北川俊夫、梅宮辰夫、小池朝雄 他
昭和21年、呉敗戦直後の無秩序状態の広島・呉。復員後ぶらぶらとしていた広能昌三は、とある事件で人を殺め服役する。服役中、土居組若頭・若杉を兄弟杯を交わすと、先に出所した若杉の尽力で出所。広能の行動力は山守組々長・山守義雄の目にとまり、山守組の身内となる。その後、勢力拡大を目指す山守が、土居組との抗争を繰り広げていく中、元々土居組組長と仲が悪かった若杉は、対立の末に破門となり、兄弟分の広能を通じて山守組の客分となる。これにより土居組長殺害の機運が熟し、若杉がその実行に名乗りを上げるが、仲違いしたとはいえ親子杯を交わした相手を殺すことで、兄弟分が親殺しの汚名を着ることを良しとしない広能が、代わりに名乗りを上げるのだったが…というストーリー。
先日の『ドーベルマン刑事』で、そういえば『仁義なき戦い』ってきちんとは観ていないかも…と思いレンタル。子供の頃、ものまね番組とかで金子信雄の物まねをする人をみて、ポカーンだったことを思い出す。本作での金子信雄を演技をみてやっと理解した。
迫力とテンポは、多くの人が魅了される理由があっさりと腑に落ちるほどの圧巻。スタイリッシュさが皆無なことが、わざと出そうにもだせない汚れ具合を醸し出しており、画力の一助になっている。特にキャラクター付けを意図的になっているわけではないのに、溢れるほどの個性は、演者の力のおかげだけではなかろう。むしろ、説明不足ともいえる不親切な演出が、それに観客は振り落とされまいと喰いついて行く感じ。
ポラギノールのCMみたいに静止画で繋ぐシーン(もちろんCMのほうがパクってるんだろうけど)、こういう効果をこの手の作品にサラッと入れられるのは、なかなかスゴイ。
深作欣二って、ある意味様式美の人だな…と感じたのだが、かといって、市川昆のような様式美とは異なる。両者とも実にマンガ的な画づくりをする人だとは思うのだが、深作欣二のほうがマンガ家に近い印象。その違いはラストシーンで顕著だと思う。
日本のマンガ家って、おもしろい展開をつくってそれを続けることはうまいけど、いざ話を終わらせようとするときちんと終わらせられない人が多いでしょ。むしろ、なにもしないで突然打ち切りになったほうが、この世界が永遠に続いているようで、逆にいいんじゃないかと思えるど。本作は、たしかに葬儀場でピストルをぶっ放すという印象的なシーンではあるが、ストーリーとしてはなにも終わっていないし、すっきりもしない。
このおもしろい世界が永遠に続けばいい。そういう世界観。実にお祭り的な作り方だと思うが、そういう面は、私は好きじゃない。映画はきっちりおわらせてナンボだからね。
でも、始終マンガ的だったからこそ、世界観に魅了される人が続出し、続編が次々と作られたのも事実。その効果やおもしろさを否定するわけではない。
不思議なことに、昨日観た『ゴッド・ファーザー』との共通点が多々。ヤクザとは無縁だった男が、とあるきっかけにより大仕事をやって名を馳せるが、同時にしばらく一線から姿を隠す。覚せい剤に手を出す輩が出てきて、それを反対する元来のファミリー・ビジネスを良しとする勢力と抗争になる。単なる裏社会のルールうんぬんではなく、経済ヤクザに変貌する過程を描いている。
この共通点は、国は違えども同じヤクザのファミリービジネスをリアルに扱おうとすれば、当然直面する問題ばかりなので、共通してしかるべき…と捉えるべきなのか、それとも仁義なき戦いが、マフィア映画の影響を受けているからなのか…。
納得できない演出も散見される。
拘置されているならいざしらず、実刑をくらっているのに保釈金で出てくるとか、ちょっと意味がわからなかった。今でも、よく、有名人が逮捕された後に保釈されると、金さえ払えば放免になるのか。ムッキー!!って怒る人がたまにいるけど、この映画で勘違いした人が少なくないんじゃなかろうか。しかし、戦後まもなくとはいえ、保釈金を積めば禁固刑が終わるなんてシステムはなかったはずなので、これはシナリオのミスなのだろうか。一応、事実を元に書かれた手記が元なのだが、原作でもこの記述はあるのか、映画シナリオ上のポンコツ勘違いなのか。
#サンフランシスコ講和条約締結による恩赦のほうは、実際にあったのかもしれない。でも、今ではこうことで刑事犯が出てくることはまずないだろうから、非常に時代の違いを感じさせてくれる。
また、はじめに米兵に襲われてた女が、最後のほうに出てた山方&坂井の女だって、気付かないよね。気付けないってことは、あの時に助けたことが事始みたいなものなのに、助けた女は結局こんなありさま…みたいな悲哀を感じた観客はほぼ皆無。無駄な演出だと思う。
“実録”モノとすることで、その荒さが不問になっているという印象はるが、本作も『ゴッド・ファーザー』に負けず劣らずのキレキレ演出で、多くの人に影響を与えたと思う。とはいえ、意外と観たことがない人は多い作品だろう。ヤクザ映画だと忌避していた人も、珍味を食べるつもりで観ることをお薦めする。
#辰兄の消えっぷり…
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:175分
監 督:フランシス・フォード・コッポラ
出 演:マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ジョン・カザール、ダイアン・キートン、ロバート・デュヴァル、リチャード・カステラーノ、タリア・シャイア、スターリング・ヘイドン、ジョン・マーリー、リチャード・コンテ、アル・レッティエリ、フランコ・チッティ、エイブ・ヴィゴダ、ジャンニ・ルッソ、ルディ・ボンド、アレックス・ロッコ、シモネッタ・ステファネッリ、アンジェロ・インファンティ 他
受 賞:【1972年/第45回アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(マーロン・ブランド※受賞拒否)、脚色賞(フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ)
【1972年/第7回全米批評家協会賞】主演男優賞(アル・パチーノ)
【1972年/第30回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、男優賞[ドラマ](マーロン・ブランド)、監督賞(フランシス・フォード・コッポラ)、脚本賞(フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ)、音楽賞(ニーノ・ロータ)
【1972年/第26回英国アカデミー賞】作曲賞[アンソニー・アスクィス映画音楽賞](ニーノ・ロータ)
【1990年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
第二次世界大戦が終わった1945年。ドン・ヴィトー・コルレオーネの屋敷では、娘コニーの結婚パーティが行われている。その華やかな宴の裏、ビトーの書斎で、彼は何人もの友人の表立っては相談できない頼みごとを親身に聞き、解決してやっていた。特に報酬を要求するわけでもなく、その恩は、いつかヴィトーが呼び出しをしたときに返せばよかった。それが彼らの掟である。そんなある日、麻薬ビジネスとしようとしているソロッツォが、一緒に商売をしようとコルレオーネ一家に相談を持ちかけてくる。しかし麻薬を嫌うヴィトーはこの話を断る。政界や警察をコネのあるコルレオーネ一家と袂を分かてば、麻薬ビジネスの成功はありえないと考えるソロッツォは、ヴィトーを排除したいと考え…というストーリー。
えっと…なんで本作を観ようと思ったかというと、昨日の『ストリング』で、タイトルロゴの操り人形の手元の絵を思い出したから(ただそれだけ)。
マフィアというものの好き嫌いは別にして、一つの家父長制度の類型が、本当の意味での小さな家族単位と、社会を一つの家族と見た場合の両方において実現されている、イタリア移民の社会。そこでの“ファーザー”とは何なのか。それが時代の変化と他文化との軋轢の中でどう対処を迫られるのか。何を大事にして何を捨てていくのか。
なぜ父は彼マイケル堅気にしたかったのだろう。他の子供たちとは違う持ってもって生まれた輝きが、自分ですら持っていないものだと感じ取っていたから。彼の政治家たちとの付き合いも、商売上のメリットだけを考えてのことだけではなくて、マイケルの将来を視野に入れてのことだったのだろう。さて、ドンとして非情になっていくマイケルは、その天賦の才を輝かせたのか、無駄にしたのか…。
ヴィトは、金儲けと家族の幸せを両立させていた。しかし、長男のソニーだけでなく、マイケルも娘のコニー(その婿であるカルロはもちろん)、誰一人両立することができていない。ラストシーンの姿を見るとマイケルもヴィトのようにうまくやれているとは言いがたい。
シナリオの構成としてなかなかユニークだなと思うのが、ヴィト中心に話が展開されると思いきやズドンとやられて画面から消える点。そして、いない時間も相当長い。もちろんその間は、もうひとりの主人公マイケルにスポットがあたっていくわけだが、ナイーブで堅気が既定路線だったはずのマイケルが諸々の感情の爆発や悲劇を経験して、次の“ドン”へと変貌(というか成長)してく様が展開される。
じゃあ、それでヴィトはフェードアウトしていくのかといえばそうではなく、次の世代がビジネスに比重を置いていく中、自分はファミリーの部分だけを見つめていくと決めたかのように引退し、そして最後は孫と遊びながら死んでいく。
タイトル自体も、マフィアのボスとカトリックでの名付け親のダブルミーニング。大きなストーリーの潮流もダブルの渦が重層的に渦巻いている…ということだね。
前回観たときとは、また違う観点での気付きや想像が沸いてくる。名作というのはこういうものなんだろうな。重ねてみるごとに違った味が染み出してくる。NHKの大河ドラマを3時間のダイジェストにしたとしても、ここまで濃くはならないだろう。コッポラの才能が日本刀のようにキレキレに発揮された文句なしの名作。
負けるな日本
公開国:デンマーク
時 間:93分
監 督:アンデルス・ルノウ・クラルン
出 演:ジェームズ・マカヴォイ、キャサリン・マッコーマック、デイヴィッド・ヘアウッド、クレア・スキナー、イアン・ハート、サマンサ・ボンド、デレク・ジャコビ、ジュリアン・グローヴァー 他
コピー:あなたは、誰とつながっていますか?
マリオネットの世界。すべての生き物は空から垂れる糸で繋がっており、頭の糸が切れると死んでしまう。そんな世界にあるバロン王国は、数百年に渡って周囲の国と激しい争いが繰り返していた。年老いた国王カーロは、王国が犯した数々の悪の所業を悔いて王子ハルに王位継承する旨の遺書を遺し、自ら命を絶つ。しかし、王位を狙う王の弟ニゾは、遺書を破棄。王の死をバロン王国と敵対するゼリス族長サーロの仕業に見せかける。そうと知らないハル王子は父の仇を討つため、家臣エリトと共に復讐の旅へと出るのだが…というストーリー。
頭の糸が切れると死ぬ、他の糸に関してはパーツ取替えができる…実にユニークな発想。
だから、この世界には屋根なんか存在しないし、洞窟なんかに入ることもできない(とはいえ、いまいちそういう設定が徹底されていない点がないわけではないけど)。格子が中空につるされていて、糸が固定されることで身動きできないというデザインの牢屋は、実に慧眼。日本も文楽で似たような試みはできるとおもうんだけど、古い様式だけに縛られてるよね。こういうダイナミズムを忌避する文化は廃れていくよね。
「王の弟と息子の王位継承争い」「異民族征服・侵略」「敵勢力間の禁断の恋愛」「王子が身分を隠して旅」「預言者」etc…とよくある神話の類型の塊みたいなストーリー。まあ、王の弟と息子の王位継承争いなんて、日本でも壬申の乱っつーのがあったくらいで、人間の根源的性格という意味でも普遍的な内容ってことだね。あまりにありがちなストーリーなので、後半飽きてはくるけど、そこは世界観の魅力と操演の妙技で持ちこたえる。
ものすごくよく動くマペットで、実に表情豊かで、特に目、瞼の動きが秀逸である。ただ、目は動くんだけど口が動かないというところに、限界はあったりする。口が動かないだけに、吹替えの声優は必要以上の過剰さが求められるところなのだが、大半の声優はタレントさんなのだ。
字幕を負っているとせっかくの操演を味わうことの邪魔になるので、吹替えがいいのは間違いない。でも、草なぎ剛、中谷美紀、劇団ひとり、優香、 香取慎吾…、う~ん、もうしわけないが、中学校の学校祭の演劇レベルなのだよ。せっかくの良作が、これで凡作に落ちてしまった感じ。
ヨーロッパのアニメとか、こういう客寄せ目的のタレントをつかわんといけない法律があるわけもあるまいし。まあ、米アニメとかは製作元がうるさいから勝手なことができないけど、欧アニメとかは日本の配給会社がプロモーション名目で好き勝手にやってるってことなんだろうけど。でも、それで、せっかくの作品が毀損されてしまっては元も子もないと思うけどね。
最後の鳥のシーンは、糸を落とす必要はあったのかなかったのか。半ば夢のシーンのようなものとはいえ、“糸”のルールだけは破ってはいけない気がするのだが…。
#志村、後ろ、後ろ! (笑)…って、思った人は私だけではあるまい。
公開国:ブルガリア
時 間:89分
監 督:カメン・カレフ
出 演:フリスト・フリストフ、オヴァネス・ドゥロシャン、サーデット・ウシュル・アクソイ、ニコリナ・ヤンチェヴァ、ハティジェ・アスラン 他
受 賞:【2009年/第22回東京国際映画祭】東京サクラグランプリ、最優秀監督賞(カメン・カレフ)
ブルガリアの首都ソフィア。イツォはアーティストとして成功することができず、薬物に溺れてしまっている。現在は治療しているが、それでも酒に溺れる日々を繰り返していた。そんな彼は、食事の帰り道に、トルコ人旅行者一家がネオナチと思しきグループに襲撃されているのに遭遇する。思わず助けに入るものの、反撃されて怪我を負ってしまう。しかし、イツォはそのグループの中に、しばらく合っていなかった弟ゲオルギの姿を見つけるのだった。その後、トルコ人家族の父が重症を負ったため入院することになったが、イツォは娘ウシュルに一目惚れして…というストーリー。
めずらしいブルガリア映画。東京国際映画祭でそれなりの評価をうけての、国内リリースってことかな。でも、邦題は悩んだようにみえる。原題のEASTERN PLAYSだとちょっと意味がわからない。日本のほうがよっぽどEASTだし。ブルガリアの政治・社会情勢を踏まえての内容だから、そうとわかる題にしようとしても、ブルガリアを冠すればヨーグルトを連想しちゃう。まあ、首都名にしておくか…と。そして、各地で民主化運動がおこってるし、そういう感じの作品かな? と引っかかってくれれば儲けモノ…ってことで“夜明け”と。
実際の内容は、民主化とか体制批判っていう内容ではないので、的外れではあるのだが。
ネオナチに巻き込まれていく弟、心を病んでいて薬漬けの兄、トルコからの旅行者の娘。この3人が、移民問題や右翼化が顕著なブルガリアでどう絡んでいくのか…というのが焦点。でも、結論をいっちゃうと、あまり明確なメッセージはない。
だって、移民政策自体にも問題があるのは明白だし、それを政治に利用している人がいる(社会問題の原因を移民に押し付けて目をそらそうとしている勢力がいる)以上、こういう状況になるとはあたりまえだと思う(元々ヨーロッパには、ジプシーに対するアレルギーとかあるしなぁ)。
民主化なんてのは制度さえ導入すれば成立するわけではない。自分や家族以外の人々に対して良いことをしてあげよう、便利にしてあげよう…、そういう気持ちの人が雨後の筍のように現れないと、まともな国にはならんのよ。だから、市場原理主義や金儲けに走る人が一時的によく見えても長期的にはおかしくなってくる(基本からはずれてるんだから)。そこにきづくべき。いや、気付いても、そんな殊勝なことできるわけんーじゃんって、ことになるんだよね。そこが“民度の差”ってやつなんだけど、一言で片付けるのは、何か悲しいわな。とにかく、この物語からは、まったく希望が感じられない。若者から未来を掴もうという気概が伺えず、まるで暗闇の世界に見えてそら恐ろしいくらい。
最後、改心した(のかよくわからん)弟が見ず知らずの彼女をつれて兄のところに転がり込み、不自然ではあるが何かを変えようとする雰囲気を醸し出して終わる。尻切れトンボだよなぁ…って感じだったのだが、調べたら、主演の俳優さんが撮影中に急逝したことできちんと終われていないんだって。でも、それを消化不良の言い訳にされても困るし、そんな中途半端な状態なのに無理やりまとめるのもどうかと思うわ。
移民問題の根が深いことはよくわかった。そして、悩めるブルガリアの状況もわかったのだ。でも、これはドキュメンタリーのほうが適している内容。伝えたいことを表現方法(もしくは表現能力)のミスマッチを強く感じた作品。
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:112分
監 督:デレク・シアンフランス
出 演:ライアン・ゴズリング、ミシェル・ウィリアムズ、フェイス・ワディッカ、マイク・ヴォーゲル、ジョン・ドーマン 他
ノミネート:【2010年/第83回アカデミー賞】主演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ)
【2010年/第68回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](ライアン・ゴズリング)、女優賞[ドラマ](ミシェル・ウィリアムズ)
【2010年/第26回インディペンデント・スピリット賞】主演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ)
【2010年/第16回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ライアン・ゴズリング)、主演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ)
コピー:愛を知る誰もが経験のある、しかし誰も観たことのないラブストーリー
結婚7年目のディーンとシンディは、かわいい娘との三人暮らし。かつては愛し合っていたが、今、二人の間の溝は深まるばかり。シンディは病院で忙しく働いていたが、ディーンが酒ばかり呑み仕事に就こうとしないことに嫌気がさしていた。しかし、ディーンのほうは、家族が一緒に暮らしていけさえすればいいと思っており、彼女がなぜ働くことを求め続けるのが理解できない。そんな不和を解消するために、ディーンは夫婦で旅をすることを提案するのだが…というストーリー。
演者の方々には、誰一人として何の不満もない。しかしこの映画が観客に何を伝えたかったのか。私にはよくわからない。
幸せそうに見えるけれど、ちょっとギクシャクする夫婦。まあ、どこの夫婦でもそんなもんだろうが、この夫婦には、単なる不和とは違うそれ以上の何かギクシャクした雰囲気が漂う。仲が悪そうな二人なんだけど、二人とも老人にはやさしかったりして、良い面はよく似ている。それなのに、何故険悪なのか…その理由は、追々わかるんだけど、その微妙な雰囲気を出せているだけで、役者の人たちはスゴイと褒めておこう。
この二人の出会い(過去)と別れに向かう様子(今)とを交互に見せながらストーリーは進むんだけど、今の話なのか昔の話なのかが、地味に判断しにくい。夫ディーンの髪の量で判断できるけど(笑)、あとは話の文脈とか、険悪な雰囲気だけで判断するしかなくて。実は、画調を変えているらしいんだけど、ちょっと区別つかない。もっと明確に違いを出したほうがよかったな。
(以下、ネタバレ)
店で偶然男に出会った後の車でのいざこざと、彼女の昔の行動が出てきたところで、もう、娘がディーンとシンディの子じゃないってのが、わからない観客はいないだろう。さて、それを踏まえてどういう展開になるか…が映画の見せ所なのだ。し・か・し…、なんと、特に目をみはるような展開はない。過去の回想では、他人の子だということがわかっていながら結婚に踏み切る。しかし、現在では別れを迎える。ただ。それだけ。本当に、それ以外、何もないの。
男は懐の深いとこを見せつつ好きな女をモノにする。女は都合の悪いことを色々背負ってくれる男を手入れる。そういう打算が重なり合って愛という美名を装って結婚する気色悪さ。破綻することなんか明々白々だし、ストーリー構成的にも別れるのは見え見えなのに、それをダラダラと見せられる苦痛。結局何が言いたかったのか。若気の至りを戒めているのか? 怠惰や姦淫は罪ですよ…とでも言いたいのか?もしかして、この放り出されたような余韻を愉しめというのか?
ラストに“BLUE VALENTINE”どーんと画面に出されても、「お、おぅ………」状態。自分の経験とオーバーラップして、「わかる、わかるわ~」とかになる人じゃないと愉しめないのかもしれないな。私の趣味には合わなかった、そういうことだと思う。
負けるな日本
公開国:日本
時 間:90分
監 督:深作欣二
出 演:千葉真一、ジャネット八田、松方弘樹、岩城滉一、松田英子、川谷拓三、藤岡重慶、志賀勝、小林稔侍、室田日出男、穂積隆信、鈴木康弘、阿波地大輔、星野じゅん、成瀬正 他
新宿警察署は、発見された焼死体を沖縄県石垣島出身の玉城まゆみと断定。まゆみの知人だった元暴走族の三迫長栄を逮捕する。そこに、まゆみの母親からの依頼で、遺骨を引き取るため、沖縄県警の刑事・加納錠治がやってくる。しかし、加納は新宿署の結論に疑問を感じ、独自に捜査をはじめ…というストーリー。
トンデモ作品を求めて手に取ったのだが、監督が深作欣二でちょっとびっくり。
原作をほぼ知らないのだが、なんとなく伝え聞いたキャラクターや作風とエラく異なる気がする。変えること自体は映画は映画だから別によい。しかし、深作欣二のお上嫌いを表現するために、沖縄を引っ張りだしたのかな…、そう思うと、浅くて下品な小細工に思える。下品エロに放送禁止用語にシャブ描写満載で、深夜でも地上派放送は無理な感じ。昔の作品とはいえ、トルコ大使館から苦情がきそうなレベル。というか、死語も多くてよくわからん符丁の嵐。
川谷拓三、室田日出男、岩城滉一、松方弘樹、藤岡重慶、志賀勝、小林稔侍と、それこそ 『仁義なき戦い』的な面々が端役で登場。主役の千葉真一なんか霞むレベル。
#ジャネット八田(タブチくん嫁)とか、もう相当なおじさんおばさんじゃないと判らないレベルだね(わたしも正直、よくわからん)。
DVDに付いてる予告編映像をみると、なんか怪獣映画の宣伝みたいで、おもわずニヤリとしてしまう。いかにも東映な仕上がり。
骨太アクションや加納のハチャメチャっぷりに、しばらくは興味深く観ることができた(なかなか愉しめたよ)。でも、終盤になるにつれて、同じノリが連続し、正直飽きた。また、アクションでは『仁義なき戦い』ばりの野太さをみせてくれたのと対照的に、“事件の謎解き”の部分がさっぱりダメ。事件の謎(というか真相自体)は、そんなに悪くない内容なのに、判りにくい上にそれを面白くみせようという演出が皆無。松方弘樹がスカしなのとか、見せようによっては、おもしろくできると思うんだ。
まるで、張り手一本で戦ってるような演出なのだが、もしかして 深作欣二って話を重層化したり、無骨さとメロウな感じとかを織り交ぜて表現したりとか、苦手な人なのかな。
マグナムで松方弘樹をぶっ放すまでは、まあ良しとしても、最後のステージのシーンにはあきれるばかり。まったく“締め”になっていない。あれなら、なにもしないでブツっと終わったほうがましである。
#でも、あれ、マグナムか?
私なら、こうしただろう。
加納は美樹に沖縄に帰ろうと告げたが、彼女はステージに戻る。彼女を追いかけてステージに向かう加納(←ここまでは一緒)。しかし、豚を持ち込むな! と警備に阻止されて会場には入れず。警備員の目を盗んで楽屋に。賞が発表になることで、バタバタしていて、すんなり美樹の楽屋に入れる。受賞の様子を楽屋内のモニタで見る加納。しかし、モニタから目を落とすと、注射が散乱。複雑な表情の加納は、だまってその注射器を処分する。美樹の唄をバックに会場を去る加納。→その後は一緒でいい。
こんな感じだな。これで、無常感とかむなしさとか出るでしょ。
一本調子な上に尻切れトンボになってしまい、トンデモ作品として名を残すこともできなかった中途半端さ。且つ、原作とも乖離しているので原作ファンの興味も惹かない。誰も得しなかったという作品。お薦めしない。
#松田英子って『愛のコリーダ』の人か?こういう役しか廻ってこなかったんだろうね。辞めたくなるよなぁ。
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:107分
監 督:フローリア・シジスモンディ
出 演:クリステン・スチュワート、ダコタ・ファニング、マイケル・シャノン、ステラ・メイヴ、スカウト・テイラー=コンプトン、アリア・ショウカット、ライリー・キーオ、ジョニー・ルイス、テイタム・オニール、ブレット・カレン、ハンナ・マークス、ジル・アンドレ、レイ・ポーター、アリー・グラント、ブレンダン・セクストン三世 他
ノミネート:【2010年/第19回MTVムービー・アワード】キス・シーン賞(ダコタ・ファニング、クリステン・スチュワート)
1975年、ロサンゼルス。ジョーン・ジェットはロックバンドを仲間を集めていたが、女性ロックバンドなど存在しない時代、誰にも相手にされなかった。そんなある日、プロデューサーのキム・フォーリーと出会い、自分の思いを伝えると、彼は少女だけのバンドに売れる予感を感じ、メンバーを集める。一方、普通の少女でいなければいけないことや、自分の音楽の趣味を共感できる友達がいないことに不満を感じていたシェリー・カーリーは、派手な服とメイクでクラブに出かけると、そこでキムの目にとまり、ジェットのバンドのボーカルに抜擢される。こうして、平均年齢16歳のガールズ・バンド“ランナウェイズ”が結成されるのだったが…というストーリー。
申し訳ない…というか、本当に何の予備知識もなく、レンタル時もパッケージの謳い文句も何もみないで借りたので、舞台が1975年だと、中盤を過ぎても気付かなかった。
だって、ファッションもデザインも一周廻ってアリ状態だし、貧しい様子も今のアメリカじゃ存在する感じなんだもの(あれ? もしかして今のアメリカ市民の貧困具合って、この時代と同じレベルなんじゃねー?)。
日本ツアーになって、また変な“ニッポン”表現満載だのぉ~なんて感じだったのだが、さすがにその古臭いブラウン管TVはないでしょ、オブジェ? なんて思ったところで、ハッと気付いた。「これ現代じゃねえ…」って。そして、最後、「アイ・ラヴ・ロックン・ロール」が掛かる。え?え?もしかして実話かよぉ!!!!! すまん、私、洋
楽詳しくないのよ。洋楽に詳しい人ならジョーン・ジェットって聞いたらピンとくるんだろうね。
なんか、バンドがダメになりかけたあたりから、ストーリーがグズグズになって、普通なら発奮するなり、仲直りするエピソードなりが盛り込まれて最後は大爆発! みたいな展開になるはずなのに、グズグズのままなのは変だなぁ…とは思っていたんだ。実話ならしゃないわ。
バンドの楽しさ、それもガールズバンドの楽しさみたいなものが伝わってくるので、多少下品な表現があっても音楽少女たちにお薦めしたいところなんだけど(ディズニー系の音楽系はお行儀が良すぎるからね)、あまりにも品行方正&遵法という概念が欠けていて、一緒に観るのがはばかられるレベル。
また、クリステン・スチュワート演じるジョーン・ジェットと、ダコタ・ファニング演じるシェリー・カーリーが二枚看板みたいになってるのが、それが面白さの足を引っ張っている。知名度としてはジョーン・ジェットのほうなんだろうけど、人間ドラマとしてはシェリーに焦点を当てるべきで、むしろジョーンは脇役でよい。演出上も、ジョーンは溢れるバンド愛を見せてくれるが、シェリーとの間に特別な感情があったように見えないのが致命的。
シェリー・カーリー自身が原作のお話なので、シェリー目線を貫き通してもよかったと思うのだが…。
さらに、本作の演出が稚拙だな…と思うのは、時間がどのくらい経過したのか、ピンとこないこと。世界ツアーまで、あれよあれよと数ヶ月で上り詰めたよに見えるけど、実際は2、3年は経ってるんでしょ? 最後、喧嘩別れするスタジオのシーンだけど、この時点ではほとんどレコードなんか出していない状態で空中分解したように見える。でも、実際は何枚もLPを出している(ウィキペディア調べ(笑))。ある程度の成功を掴んだ末に…って感じに見えない。
そして、一時的なチャンスは逃したかもしれないけど、むしろ、方向性の違うシェリーと、離れたほうが正解だよねと、誰もが思ってしまうので、別にハラハラしない。また、「人生を取り戻したい」というシェリーだが、彼女が家を離れたことで何かを失ったようにも見えないし、元々取り戻すような家庭でもない。実際に半ば自堕落な生活を送ってるだけだし、こっちとしては「はあ?」状態で、何一つ共感できないから、最後、ラジオを通してジョーンにコンタクトを取ったシーンみ、ぜんぜん感慨深くない。
時代背景なんかを考えると、ものすごく面白くなる題材だと思うのだが、事実&原作に縛られちゃった感じ。バンドの楽しさが伝わってくることだけが唯一の救い。特にお薦めはしない。
ダコちゃん、こんな役やらんでもいいんちゃうの?と思ったわ。
#「韓国にガールズバンドができた…」とかジョーンが言うんだけど、これってなんのこと?唐突じゃね?そんなバンド本当に存在したのか?(また、へんなゴリ押し工作なんじゃねえの?笑)
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:91分
監 督:ウディ・アレン
出 演:ラリー・デヴィッド、エヴァン・レイチェル・ウッド、パトリシア・クラークソン、ヘンリー・カヴィル、エド・ベグリー・Jr、マイケル・マッキーン、コンリース・ヒル、ジョン・ギャラガー・Jr、ジェシカ・ヘクト、キャロリン・マコーミック、クリストファー・エヴァン・ウェルチ、オレク・クルパ 他
コピー:これぞ、ハッピー・エンディング
偏屈な初老の物理学者ボリスは、かつてはノーベル賞候補になるほどの天才で家庭も築いていたが、自殺未遂を機にすっかり落ちぶれ、寂しい独身生活を送っている。近所の子供に悪態を付きながらチェスを教えるなどして、日々をやり過ごすボリスだったが、ある日帰宅すると、若い娘が泊めて欲しいと押しかけてくる。南部の田舎町から家出してきたメロディという娘に、幾ばくか同情した彫りすは、渋々ながらも数日間だけ泊めてやることにする。知的レベルも常識も年齢もまったく異なる二人の会話はかみ合うことはなあったが、なぜか、メロディはボリスを愛してしまい…というストーリー。
1977年の『アニー・ホール』から、一足飛びに2009年の本作に続いたのは、間違いだったかもしれない。もうちょっと間の作品を挟めばよかったかも…。
偏屈な男が、知的レベルは自分より低いが見た目美しい女性と交際し、その女性の知見が高まったあと、捨てられる…というプロットは『アニー・ホール』とまったく一緒。焼き直しなんじゃないかと思ったほど。もしかすると、意図的に狙ったのか?とも思ったのだが、そういう面での作為的な笑いは感じられず。画面の向こうに話しかけるボリスに、周囲の子供が「一人で話してる!」とか指摘するところなんか、笑いどころなのかどうかもよくわからない。『アニー・ホール』のときのキレキレの演出は鳴りを潜めた感じで、むしろ、グレードダウンした印象が拭えない。
「ハイゼンベルクの不確定性原理」等々、物理素人の私でもピンとくるようなキーワードこそ出てくるが、ボリスの発言から彼が天才物理学者である片鱗が見えてこない。私の知識が乏しくて物理通の人ならニヤリとできるのか、演出上の失敗なのかはよくわからないが、とにかく私にはそうは見えなかった。
とはいえ、焼き直しに感じたとしても、知的な格差のある二人の日々の生活は、なんとなく面白くて、それなりに見ごたえはあった。しかし、母親が登場したあたりで、くっだらないアメリカドラマになりそうな雰囲気が漂って一旦鑑賞を中断。まあ、我慢して鑑賞を再開すると、“内なる自分に正直に生きる”という流れに変貌する。フリーセックスやホモセクシュアルに目覚めるメロディの両親。両方とも敬虔なクリスチャンであり愛国者だったのに。そういう共和党的な価値観を否定したいのかもしれないが、手法が古臭くはないだろうか。挙句の果てには、メロディまで、自分の肉体的な性の欲求を認識するに至り、別の男に走る。結局は、ボリスが良しとする永遠の愛はない!とか固定観念は捨てろ!とかいうポリシーどおりの人種に彼らが変貌と遂げるんだけど、当のボリスは再自殺してしまう。
これ、どういうことやねん。世間の何も考えていないやつらのポリシーとか行動様式なんてのは、偉そうに言っていてもこの程度の薄っぺらなものなんだってことをいいたいのかな?それに比べて、俺はそれより何枚も上まで考えてるんだぜ! メタ意識を持っているから私は天才(キリッ!)とか、そんな程度で周りを見下されてもね…。なんかトホホ感ばかりで笑うに笑えないのは私だけか?
大体にして、自殺したらたまたま歩いてる女性がクッションになって助かりましたって…。、その女性と病室で話すことにリアリティがないし(ふつう、傷害罪で逮捕でしょ)、仲良く会話して付き合っちゃうとか、笑うに笑えない。その女性が占い師で…とかも、笑うところらしいけど、面白くもなんともない。
時間が経過するにつれて、内容が汚れていき、最後には後ろ足で砂をかけられたみたい。これ、なかなかの駄作だと思うんだけど…。
負けるな日本
公開国:日本
時 間:141分
監 督:山下敦弘
出 演:妻夫木聡、松山ケンイチ、忽那汐里、石橋杏奈、韓英恵、中村蒼、長塚圭史、山内圭哉、古舘寛治、松浦祐也、青木崇高、山本浩司、山本剛史、中野英樹、菅原大吉、康すおん、中村育二、山崎一、あがた森魚、三浦友和 他
コピー:僕たちは、“何を”信じるのか──
1971年。若きジャーナリストと革命家。二人の出会いが引き起こした衝撃の事件。激動の時代に翻弄された若者たちのすべて
東大安田講堂事件が起きた1969年に大手新聞社に入社した沢田。彼は、新左翼運動への共感を抱きつつも、比較的穏健な「週刊東都」の記者として働くことに葛藤していた。1971年のある日、先輩記者の中平の所に活動家を名乗る梅山という青年が接触してくる。沢田は取材に同行。梅山は、自分を“京西安保”の構成員であるといい、「武器を強奪し、4月に決起する」と語ったが、その信憑性は測りかねるものであった。しかし沢田はそんな梅山に親近感を抱き、交流を深めていく。その後、梅山は学生仲間と共に「赤邦軍」なる組織を結成し、自衛隊を襲撃して武器を奪うという計画を沢田に明かす。沢田は自分に取材させてほしいと頼むのだったが…というストーリー。
松山ケンイチが持っている危うい雰囲気が役柄にマッチしている(訛りは気になるけど)。
本作は全共闘世代と括られるアホ世代が、そう呼ばれる所以たる若き日のお話。現在、企業のトップや社会のリーダーとして活躍する世代でありながら、アホを振りまき続けている“例の世代”だ。原作者が経験した内容ってことでいいとおもうんだけど、妻夫木聡演じる主人公の名は沢田で、原作者は川本で、本名なのかフィクション名なのかは、よくわからん。
日本人は、老人を敬って然るべきというエトスを持っているが、この学生運動世代には、その敬いが向けられることはないと思う。将来、リアル姥捨て山・爺捨て山が繰り広げられることだろう。
ゆとりだバブルだと、下の世代がどう形容されようが、この世代は救いようがない。なんといっても奴らは犯罪者とその共犯者みたいなものだから。当時を省みて反省しているならまだしも、武勇伝のように語るやつが未だに存在するからね。そして、中途半端な左翼思想にかぶれたその人たちは、未だに中共・朝鮮大好きだもの。過激な手法をやめて、別の穏健な手法に切り替えて、中国・韓国押しを続けている売国奴世代といってもよい。
本作の主人公“梅山”の話す内容を聞けばわかると思うけど、“革命”とやらがやりたいだけで、その先になにかがあるわけではない。本来“革命”ってのは目的のための手段のはずだが、手段が目的に変わってしまっていて、且つそれに気付かない。もしくは気付いていても、そういう渦の中にいる自分に快感を覚えているから、見えないフリをしている。そういう狂人なのである。中途半端に弁だけはたつのでタチが悪いのだが、正に“平気で嘘をつく人々”である(あなたの身の回りにも、いるはず)。
いまだにそういう世代は、現体制が壊れさえすればいいとおもっているので、平気でいろんな事件をでっちあげる(南京“大虐殺”だぁ、慰安婦“強制連行”だぁと)。本気で造反有理が正しいと思ってるから、救いようがない。彼らが持っているのは単なる“破壊衝動”。それを満たすだめだけに、知識を使う。でも、社会はそんなに簡単には壊せない。思うようにならないときの衝動はどこに向かうか。組織の内部に向かって、仲間を壊し始める。本作では、それが法廷での罵りあいの泥仕合という形であらわれるが、他の組織では内ゲバという形になる。私の経験上、こういう人間こそ社会に潜む“悪魔”なのだ。お気をつけあそばせ。
さて、本作は、そんな奴らを美化したいの揶揄したいのか。
梅山には観客の誰一人として共感はできないのは明白で、奴らが堕ちて行く様子を眺める…そんな感じ。梅山は、ただのソフィストでテロリスト。それ以上でもそれ以下でもない。こういつらが“思想家”だっていうんなら、私は偉大な哲学者って名乗っても問題なし。
梅本の出身や生い立ちを表現しなかったことからも、たんなる“悪魔”として表現したかったんだろうと解釈する。しかし、映画の演出上、メインキャラの厚みが出ないことに繋がるので、マイナスでもあり、諸刃の剣ってところ。
刺された自衛官が、絶命するまでに這うシーンを長まわししているのを見ると、こういう罪もない命が無碍に殺められたのだ…という表現だと思う。やつらの所業がいかに愚かかという主張と捉えた。
この程度の内容で140分超えって長くないかね?と思ったのだが、最後までみると致し方ないと思った。自称革命家としても梅本があまりに小物臭すぎて、映画全体のメッセージが「社会に潜んでいるこんな傾向のクソ人間に気をつけなはれや!」って感じになりかける。それでは、チンケな映画になってしまうので、時代が丸ごとクレイジーだったかもしれないけど、その血みどろのお祭り騒ぎに参加しない道だって十分に選択できたのに、しなかったんぜ、お前らは!というメッセージにしたい。だから、最後に、有罪になってクビになった後、ふらりと立ち寄った飲み屋で知人に出会うシーンが差し込まれる。どうしようもなかった彼(見下していた彼)は、今は平穏に市井の人として生きている。それに比べ、理想に燃えていて賢いとおもっていた自分はこんなありさま。
#「何で信じちゃったのかなぁ」なんて言われても、知らんけどね。
学生運動やってた世代には気をつけろ!日本にこういう時代があったことを知らない若い世代は観るべき…というか知っておくべきかな(その上の世代も再確認という意味で)。最高に面白いとは言い難いけど、小難しい本やドキュメンタリーを観るよりはいいでしょ。
#そんな中、唯一の良心といえる存在が忽那汐里演じるモデルの子。事実とはいえ、3年後に死んじゃいました…って、なかなかヘビーな顛末なのよね(そっちで1本ドラマがつくれるレベル)。
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:117分
監 督:シャナ・フェステ
出 演:グウィネス・パルトロー、ティム・マッグロウ、ギャレット・ヘドランド、レイトン・ミースター、マーシャル・チャップマン、ジェレミー・チャイルズ 他
ノミネート:【2010年/第83回アカデミー賞】歌曲賞(Hillary Lindsey、Troy Verges、Tom Douglas“Coming Home”)
【2010年/第68回ゴールデン・グローブ】歌曲賞(Troy Verges、Hillary Lindsey、Tom Douglas、Bob DiPiero“Coming Home”)
カントリー界のスター歌手ケリーは、ダラスでおこしたライブ中の事故の治療のため、リハビリ施設に入っていた。しかし、治療半ばにして、マネージャーの夫ジェームズが段取りした復活ライブツアーに無理やり出演することに。彼女は、入院中に知り合い、その歌声に惚れたボーと前座に推薦。ジェームズは若い新人歌手チャイルズを帯同させ、その二人とともにツアーを薦めていく。いくつかの失態を重ねながらも、徐々に以前の輝きを取り戻していくケリーだったが、ツアーのラストステージ、因縁のダラスを迎え…というストーリー。
一人の女性カントリー歌手の復帰を通して、変化・成長していく人々の様子を綴ったストーリーである。
カントリーってよく日本の演歌に比定されたりするけど、ちょっと違う。もっとナショナリズムとかパトリオット的な感覚を多分に含むよね。
また、音楽性云々よりも、カトリックとの関係が深いように見える。だから、ケリーは、子供を死に至らしめてしまったことを、“子殺し”だと延々とバッシングされるわけだ。
ただ、ストーリー展開上、何で彼女がバッシングされているのかの詳細は、終盤になるまでぼやかす。ダラスの出来事ってなんだ?って感じで、観客の興味を引っ張る。
ボーが、場末の酒場に戻っていくのが、本作の一つの答えでもある。ツアーの大観衆の前で歌うカントリーは、カトリックの教義とは真逆の許しのない社会の中にあった。そんな世界で歌うカントリーなんか偽者じゃないのか?心を通わせてこそ歌う意味があるんじゃないのか?
もっともらしいんだけど、マルクスがいうところの“疎外”っていう概念だね。流通したりメディアを通して人に伝播するときには、そういう感覚を覚えるのが自然なの。そこの割りきりができないと大商いにはならない。そして、夫はそっちが普通だと思っている人で、ケリーの心境を軽く考えてしまう。彼女の心は癒されるどころか、ますます荒んでいく。
こじれてしまったけど、少なくとも心の拠り所になってくれたボーには幸せになってもらいたい。そのボーと一緒に歩むのか、自分と同じ道を進むのかはわからないけれど、チャイルズには自分と同じ失敗は犯して欲しくない。そう思ったケリーは、チャイルズに歌手として何を大事にすべきなのかを実践して見せる。そして…。
全体的には、さほどドラマチックなストーリーではないんだけど、演技も歌もみんなウマいので、見ごたえばっちりの人間ドラマ。久々に心の機微を読み取ることにおもしろさを覚える作品。軽くお薦めしたい。
未公開作品らしいんだけど不思議。そんなに悪くないでしょ、これ。グウィネス・パルトローは本当に歌ってるのか?そうだとしたら相当ウマいなぁ。
#土地の広さの問題もあるかもしれないけど、大スターでもバスでツアーなんだなぁ。機材だけバスで送って、本人と取り巻きは飛行機の方がいいんじゃないのかね。不思議。
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:101分
監 督:マーク・ラファロ
出 演:クリストファー・ソーントン、マーク・ラファロ、ジュリエット・ルイス、ノア・エメリッヒ、ローラ・リニー、オーランド・ブルーム 他
コピー:夢を叶えるための、奇跡──
かつて“デリシャスD”という名でDJとして活動していたディーンは、現在、事故のために車いす生活を余儀なくされている。生活にも困窮し、ホームレスが集まる地区で車に寝泊りしている。神父のジョーはディーンを励まし続けたが、障害者向けの施設に入れというジョーの薦めに納得できず、また、再び音楽と向き合う気持ちにもなれずにいた。そんなある日、彼は自分が手をかざすと、人々の病を治癒してしまうということに気づく。ジョーは、その力は神からの贈り物であり、人々を治療すべきだと、ディーンを説得するのだったが…というストーリー。
主演の人の脚本らしい。ホームレスのミュージシャンへの道!みたいな話かと思っていたら、スピリチュアルな変な方向に急ハンドルが切られる。ジャケット画像と内容が違いすぎて、珍作の予感がプンプン。臭う、臭うよ。
怒りにまかせて能力を発動しちゃうのは判らんでもないが、『グリーンマイル』みたいに、悪いものを入れたりするのかなと思いきや治しちゃうのかが理解できん。彼は、治すだけなんだ(ちょっとシュール)。
自分の能力について開き直った後、ものすごいカオスな展開になる。さらに右へ左へと急ハンドルが切られ、急に法廷とか~。ハンパじゃないドリフトっぷり。いよいよとっ散らかってまいしました。
宗教的な話に見えて、宗教界の現実をディスってるようにも見える。仏教徒のオーランド・ブルームが出演しているのを観ると、カトリック批判か?とも思ったのだが、そうでもないようだ。
#なんでこんな作品ででとるんじゃ?と思うくらい不釣合いだし。
アメリカには、クリスチャンロックとかクリスチャンパンクとかあるでしょ。この作品もそういうコンセプトだと思う。結局、“神の御業”を褒め称えたい、そういうことだろう。
#日本人にはピンときまへんな。
最後、何であの変なインチキセミナーみたいなのに誘ってきた車椅子の男を治してやる気になったのか、心理はよくわからん。
“流れのままに…”みたいなことをいいたいのかもしれんけど、悪いことと良い事が等価交換であるべきだと思っているなんて、一神教を教義とする宗教においては、まだまだ信心が足りませんな。
手放しでお薦めはできないが、なかなかの珍作で、興味深い内容ではある。
#ジュリエット・ルイスは、相変わらず気持ち悪い女を演じさせたらピカ一だなぁ。
負けるな日本
公開国:アメリカ
時 間:89分
監 督:デヴィッド・リンチ
出 演:ジョン・ナンス、シャーロット・スチュワート、アレン・ジョセフ、ジーン・ベイツ、ローレル・ニア、ダーウィン・ジョストン 他
受 賞:【1978年/第6回アボリアッツ・ファンタスティック映画祭】黄金のアンテナ賞
【1978年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
印刷工のヘンリーは、付き合っているメアリーから、子供を身篭って、すでに出産したことを告げられる。責任をとって結婚し、ヘンリーの家で新婚生活を開始するが、その赤ん坊は鳥のような奇形の子供で、絶えず甲高い声で泣き続ける。メアリーはその声のせいでノイローゼになり、とうとう実家に帰ってしまう。ヘンリーは仕方なくその子の面倒もみるが、次第に心を病んでいき…というストーリー。
『アニー・ホール』の主人公が監督の投影と思われるように、本作の主人公も間違いなくデヴィッド・リンチの投影に違いない。よく、キャラクターが勝手に動き出すなんていう表現があるが、そりゃ自分なんだから思うままに動くよね。案外、傑作っていうのは、現実の人物の投影であることが多いのかもしれない。
『アニー・ホール』もキレキレ演出だったけど、本作はそれに輪をかけてキレッキレのキレである。ただ、キレている方向性はもう“あっち”の世界である。
自分の中にある女性や家庭や子供というモノに対する漠然として不安の具現化と解釈するのは簡単だし、脳内世界といってしまえばそれまでなんだけど、カフカの『変身』の斜め上を行く、陰湿ともいえる湿り気と虚無感が漂う世界観、それに加わる有無を言わせぬクレイジーっぷりに、観ている私はただ立ち尽くすのみであった。
この年代の特撮っていうのは、いくらリアルだーうまく作れているだーと褒めたところで、所詮作り物だよな…って思いが頭の片隅にあるもの。だが、本作の“赤ん坊”のクオリティは「もしかして本物なんじゃね?」とすら思わせるほどで、一線こ超えている。そして、そのリアルさが、より一層不安感を煽るのである。
これは映画史にのこる特撮技術によるクリーチャーと断言してよい。1976年においてこのデキは異常。リンチ監督は、この赤ん坊をどうやって製作したのか、語ったことがあるのだろうか。
また、その赤ん坊の泣き声が、いい大人の私ですらノイローゼになりそうで。胃から出血しそうなくらいのストレス。
はっきりいって、ストーリーは難解というか、理解することを放棄したくなるレベル。でも、何度か観ればだんだんと味が出てくるからこそカルトムービーとして名を馳せてるんだろう(肝心の、消しゴム頭の意味はよくわからんけど)。
でも、私が今後、何度も観たくなるかどうか…自信ねえなぁ(笑)。
それにしても、これがリンチ監督のデビュー作っていうんだから。製作がリンチ本人だとしても、こんな映画の完成までに付き合いきったスタッフもスゴイわ。
お薦めはしないよ。だって、「お前が薦めたから観たけど、毎晩変な夢見るわ!どうしてくれるんじゃ!」っていわれても責任取れないもん。
負けるな日本
公開国:オーストラリア
時 間:95分
監 督:パトリック・ヒューズ
出 演:ライアン・クワンテン、スティーヴ・ビズレー、トム・E・ルイス、クレア・ヴァン・ダー・ブーム、ジョン・ブランプトン 他
妊娠中の妻の健康を気づかい、田舎に転勤願いを出した若い警察官シェーン。出勤初日だったが、引越し荷物から仕事で使用する銃が見つからず、そのまま署に向かう。署員たちは変わり者が多い上に、田舎なりの独自のルールだらけで戸惑うシェーン。特に所長は部外者を嫌っている様子で、シェーンに厳しく接する。そんな中、刑務所から凶悪殺人犯が脱獄したというニュースが飛び込む。所長をはじめ署員はもちろん、町の住人までが、脱獄犯に対して過剰に反応する。署長は脱獄犯人がこの町に必ずやってくると信じて疑っていない様子で…というストーリー。
日本では劇場未公開作品。脱獄犯がアボリジニの血を引いているってことだから、舞台はオーストラリアってことでいいんだよね?
冒頭から、妊婦のお腹の膨らみに違和感があり、イヤな予感が漂う。とはいっても、緊迫感漂う警察サスペンスの雰囲気を醸し出そうとしており、もしかして掘り出しものか?と期待できなくもなかった。しかし、ボロは早々に現れてきて、何かもたついた印象に溢れてくる。これは編集がヘタクソだから。キレがものすごく悪い。
新人警官と他の警官たちのやりとりはもっとスリリングにできたと思うのだが、イヤミな感じを出しただけで、それ以上のものがない。その後、主人公シェーンと署長たちとは、仲間意識が芽生えるのか始め以上に対立するのかは判らないが、いずれにせよ、その後の展開を考えると、もっとストレスをためておくべきだったと思う。
脱獄犯という“嵐”を軸にストーリーは展開していくはずなのだが、なぜか唐突に“豹”の存在が示唆される。「ここはアフリカじゃない」だって。そりゃ、こっちのセリフだっての。まさか、脱獄犯と豹の両方を出す気なのか?と、珍作の予感がプンプンしてきて、ワクテカ状態。
脱獄犯はなかなかの殺しっぷりで、ジェイソン状態。とはいえ所詮はおっさんなので、ここまえ非情に躊躇無く殺せるには理由があるはずなのだが、しばらくは彼のバックボーンは全然語られない。もちろん彼のバックボーンこそが、サスペンスのオチになるのだが、もうちょっと小出しにしたほうが、興味を惹きつけられたと思う。
その他、妙な点が散見される。初動において犯人の行動を完全に読み間違った署長は、しばらく画面に出てこない(なんでじゃ)。いくら田舎の町だからといって、一般人が極端に少ない。なんといっても町中には女性の姿がない。署長一派とバーのじいさんしかいない。こんな状態で町中が皆殺しになる!とかいわれても、あんたたちしかいないなら、大した被害じゃねーや…って感じで、緊迫感が削がれる。
また、主人公は常に部外者のスタンスであり、どちらかと言えば狂言回しに近いのだが、かといって、肝心の謎解きの部分で深く活躍するわけではないというのが、なんとも盛り上がりに欠ける。
最後は、なんとか復讐劇としてピシっと締めることができており、ギリギリセーフって感じ。豹については、脱獄犯の孤独な戦いの象徴でもあるし、主人公のアウトサイダーとしての立場を表してもいる。そして、この二人に生まれたシンパシーみたいなものの象徴でもあるだろう。ただ、やはり“豹”てのは唐突としか言いようがない。
凡作。お薦めもしないが特別非難もしない。まあ、根底には白人どものアボリジニ虐待・虐殺があるのは明白。オーストラリア人の最大のコンプレックスであり、歴史上最大の恥部。日本人とオーストラリア人では、当事者として受け取り方が異なるんだろう。
負けるな日本
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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