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公開年:2010年
公開国:日本
時 間:127分
監 督:原恵一
出 演:冨澤風斗、宮崎あおい、南明奈、まいける、入江甚儀、藤原啓治、中尾明慶、麻生久美子、高橋克実 他
受 賞:【2010年/第20回日本映画プロフェッショナル大賞】ベスト10(第10位)
コピー:ただいま、サヨナラした世界。
死んだはずの“ぼく”は、「抽選に当たりました」と、あの世で声をかけられる。“ぼく”は生前に大きな過ちを犯したが、再挑戦のチャンスが与えられたという。“ぼく”は自殺したばかりの中学生・小林真の体に入り、“ぼく”が犯した罪を思い出すため下界で修行することに。しかし、家庭は不和状態だし、学校の友達もいない上、密かに恋心を抱いていたひろかが援助交際をしていたりと、真を取り巻く環境は悲惨な状況。“ぼく”はこれまでの真の都合はお構いなしに、思うように振る舞い始めるのだが…というストーリー。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』『河童のクゥと夏休み』と独特の輝きを放ち続ける原恵一。
本人の人柄なのか、訴えているメッセージはとても素直というか、悪く言えば青臭い。これまでの作品の味は、彼が伝えたいそのメッセージを、その内容とはギャップのあるキャラクター(幼稚園児や河童)が体現することで、生まれてきた。でも、原監督の良さってその現実と非現実のギャップがないと生まれないものなのか?訴えたい内容にみあった等身大のキャラでは、その味は生じないのか?直球勝負では商売にならないのか?いや、原恵一ならできるはず!と思っていたので、本作には期待していた(期待していたなら、劇場に足を運べよというツッコミはあると思うが)。
オチ前までは、かなりよいデキだと思う。“ぼく”は誰なのか?という軸と、真はなぜ死んだのか?という軸。そして、“ぼく”の魂と真の環境が合わさることによって生じる変化。この3本がうまく生きたシナリオになっていると思う。
しかし、原作アリの作品なのでオチについて原恵一のセンスを問うつもりは無いのだが、正直、私のセンスとは合わなかった。私なら、どういうオチにしただろう。必ずしも魂の時間軸と、修行している時間軸が、同列である必要はないわけで、真の体に入った魂が、実は母親の魂で、母親(自分)はその後に自殺する…なんて感じとかね。母親じゃなくてひろかや兄でもいいかも。どっちにそろちょっと救いがないけど。少なくとも、真の体に入った魂は誰なのか?って部分は、ストーリーの大きな軸のはずなので、あんなだれにでも予想のつくオチにだけはしない。
#まあ、“ぼく”が犯した罪を思い出すことと、真として生活することを“修行”としてリンクさせるためには、あのオチしかないので、半ば諦めてはいたんだけどね…。
等身大のメッセージだといっても、母親の浮気の話や、売春している女子中学生の話を子供に見せるのもどうかと思う。じゃあ、本作のターゲットはかつて中学生だった大人ということなのか。だとすると、ちょっと青臭すぎやしないか?
原監督が“かつて中学生だった大人”を明確に意識してこれを作ったとするならば、やはり原恵一という人が、ピュアすぎるのかもしれない。
大抵の大人はもっと粗雑で無慈悲で汚いし、こういう思いをした後に、もう一枚くらい壁を越えて大人になっていると思う(客観的な視点を持つこと。受動的な超自我から能動的な超自我の獲得って感じかな)。だから、本作程度の踏み込み方くらいでは、“心が大きく揺れる”まではいかないと思うのだ。はっきりいって刺激が少ない。悪く言えばヌルいと思う。せめて星新一程度の毒は放り込んでもらえないものだろうか。
とりあえず、次は“大人の直球”を観せて欲しい。それがうまく作れないようだったら一旦、クレヨンしんちゃんのレベルに立ち返って欲しいかな(やっぱり、ギャップの中でしか原恵一の良さは光らないのかなぁ)。
お薦めもしないが非難もしない。
#玉電の跡を歩くくだりはブラタモリで見たのと同じだったね。しっかり取材はしていたと思うんだけど、電車の動画の線をCGでつくってしまったのは、味が無かったね。
負けるな日本
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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