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image1943.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:100分
監 督:ジョナサン・レヴィン
出 演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット、セス・ローゲン、アナ・ケンドリック、ブライス・ダラス・ハワード、アンジェリカ・ヒューストン、マット・フルーワー、フィリップ・ベイカー・ホール、サージ・ホード、アンドリュー・エアリー、ドナ・ヤマモト、シュガー・リン・ビアード、イー・ジェー・ツァオ、サラ・スミス、ピーター・ケラミス、ジェシカ・パーカー・ケネディ、ダニエル・ベーコン 他
受 賞:【2011年/第27回インディペンデント・スピリット賞】新人脚本賞(ウィル・ライザー)
コピー:人生、あきらめるには早すぎる。

シアトルのラジオ局で働く27歳のアダムは、恋人レイチェルと同棲中。酒もタバコもやらないし日々の運動も欠かさない健康的な青年だったが、最近背中の痛みを感じて病院にいくと、5年生存率が50%のガンと診断されてしまう。早速、きつい抗がん剤治療に入るアダムを、恋人のレイチェルは励ましてくれるし、親友のカイルはいつもどおりの能天気な態度で接してくれる。認知症を患う夫を持つ母親は、あいかわらず煩わしいが、彼女なりに受け止め気を使ってれる。そして、主治医に薦められた研修中の心理療法士キャサリンのセラピーを受け、一緒に化学療法を受ける患者たちとも友人になる。そうして、アダムは病気なんかに負けずに、前向きに闘病生活を送ろうとするのだったが…というストーリー。

ジャケット画像を見れば、主人公がガンになるお話ってのはわかりきっている。ガンであることが発覚するまで、見え見えの展開に付き合わないといけないんだろうな…なんて思っていたのだが、スムーズに展開。決して、乱暴な編集なわけではない。無駄なく、うまいこと導いてくれる感じ。全体的にも、作為的な無理な盛り上げがなく、一気に観れちゃう。するすると飲めるいいお酒みたいな出来映え。
ガンという重いテーマながら、軽妙にまとめた秀作…なんてありきたりな評価はしたくないんだけど、まさにそれなんだからしょうがない。気丈に振舞いながらも、ゆっくりと現実を受け止めるのと比例して、虚無感や何でだ! という重いが勝ってくる。それと反比例して周囲の人と関係が洗われていく。そう、まさに“ブラッシュ”されていく感じ。全部がウマくいくわけじゃないんだ。

命に直結する病気だから、否が応でも死に向き合わざるを得ないし、逆に受け止め切れなくて普通に振舞っちゃうんだろう…なんて思うかもしれないけど、ここまで重くなくても、麻酔をかけて手術をしなけりゃいけないことになると、誰でも万が一を考えるものだ。経験者なら共感できる描写が、ちりばめられているなぁ…と思ったら、脚本を書いているウィル・ライザーの体験が元になっているお話だった。そして、劇中でも親友役を演じているセス・ローゲンは、ウィル・ライザーの実際の親友で、製作までやっている。そりゃ、違和感ないわけだよ。
親友も母親も、これ以上やると興醒めするって線がキープされているし、認知症の母親の夫も、変に感動させるネタとかにしないところがいい。とにかく、演出も演技も“適度”。

アダムは、火山の噴火のニュースを見て、自分が手掛けていた番組制作のことを思い出す。一瞬、あ!オレは仕事やりかけだ! って思うんだけど、それ以上は何もない。シナリオ上、ここはもっと生かさないといけないところだろ!って言いたい人は多いと思う。でも、案外こんなもんなんだよ、実際。
死を目の前にして、別に放り出してもいいかな…っ気になったのか、どうしようもない…って悟ったのか、いがいとさらっと流せちゃっう。思い出して執着するとか、そういう展開じゃないところが秀逸。ホント、入院しちゃうと、まあ、後は任せるわ…って気になるもんだよ。そして、実際、世の中なんとかなるもんなんだわ、これが。

結構、いろんな映画ネタがちりばめらているのも面白かった。映画LOVEの溢れる映画でもある。是非観てほしい一作だな。

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imageX0071.Png公開年:1981年
公開国:日本
時 間:112分
監 督:相米慎二
出 演:薬師丸ひろ子、渡瀬恒彦、風祭ゆき、大門正明、林家しん平、酒井敏也、柳沢慎吾、岡竜也、光石研、柄本明、佐藤允、北村和夫、寺田農、藤原釜足、円広志、角川春樹、斉藤洋介、三國連太郎 他




女子高校生の星泉は、アメリカからの帰国の途、成田空港で車に轢かれて死んでしまった父・貴志と、火葬場での最後の別れを惜しんでいた。その後、泉が自宅マンションへ帰ると、マユミと名乗る女がおり、自分は父の愛人で「自分が死んだら泉と一緒に暮らして欲しい」という父の手紙を携えていた。父の死だけでなく、愛人がいたという事実にショックを受ける泉だったが、なし崩しでマユミと暮らすことに。翌日、泉が通う学校の校門に、黒いスーツを着こんだ大勢の男たちが並び、学校中が大騒ぎになる。警戒する先生や生徒たちをよそに、泉は校門に歩みを進めると、泉はその男たちの車に乗せられて、汚ない事務所に連れていかれるのだった。そこは、目高組というヤクザの事務所。実は、泉は先代の親分の血縁で、後継者にとの遺言を残し死んでいたのだった。はじめが頑なに拒否した泉だったが、渋々承諾。しかし、目高組は4人しか子分のいない小さなヤクザ組織で…というストーリー。

角川映画は結構観ている方だと思うんだけど、本作は初見。三國連太郎、渡瀬恒彦、柄本明とそれぞれの演技はすばらしい。でも、全部、その味は消されている。意図的に消してるつもりは無いだろうが、このシナリオじゃどうにもならんし、すべて薬師丸ひろ子が持っていく流れになっている。そういう意味で間違いなくアイドル映画。結果として、ほぼ新人に近い薬師丸ひろ子が映画のすべてを引っ張っていく。そして主題歌まで歌い、それが流れるラストで映画の締めまでしっかり担う。

その後の角川アイドル路線に繋がるわけだけど、ヘロイン、レイプ、ヤクザと、今のアイドル映画ではとてもあり得ない内容。そのあり得なさは、荒唐無稽と言い換えてもいい。地上派で放送するのは難しいレベル。プロットをかいつまんでみるとわかるが、シナリオ上のイベントはとにかく暗い。『Wの悲劇』もそれなりにドロドロしていたけど、ここまではエグくはない。後発の原田知世には、こんなことはさせなかったし、こなせもしなかっただろう。

出来映えを揶揄する人も多いけど、こんなマンガな内容をマジメ実写映画としてまとめたら、箸にも棒にもかからないくらいくだらなく見えるはず。陳腐ともいえる演出で、逆にバランスが取れていることに気付くべき。クレーン車でシャブコンの中にちゃぽんちゃぽん漬けるシーンが、まともな映画として成立するわけがない。成立しているのは、ユニークな相米慎二の若き感性のおかげなのだ。
三國連太郎演じるフトッチョが、なんで地雷で足が吹っ飛んだフリを四六時中してなくちゃいけないのか、意味不明だろ? 張り付けになった薬師丸ひろ子が、フトッチョの娘がよく口ずさむのと同じ歌を口ずさむんだけど、普通は娘がよく唄っていた歌だから、ちょっとひるむ…とかそういう展開があって然るべきでしょ。でも、スルー。演出の無策さを通り越してシュールの域でしょ。もう、この映画を作っている側もシャブ中なんじゃねえかって思えてくる。

また、30年以上前の作品だけど、日本であって日本でないみたいな様子に、ちょっと驚いてしまった。ある意味、時代劇。リアルタイムに当時を知らない人にとっては間違いなく珍作。そして、この薬師丸ひろ子の容姿のどこに、当時の人はアイドル性を感じたのか、素直に疑問を感じてしまう。

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imageX0074.Png公開年:1989年
公開国:アメリカ
時 間:125分
監 督:テリー・ギリアム
出 演:ジョン・ネヴィル、サラ・ポーリー、エリック・アイドル、オリヴァー・リード、ジョナサン・プライス、スティング、ロビン・ウィリアムズ、ユマ・サーマン、ヴァレンティナ・コルテーゼ、アリソン・ステッドマン、ウィンストン・デニス、チャールズ・マッケオン、ジャック・パーヴィス、ビル・パターソン、ピーター・ジェフリー
 レイ・クーパー 他
受賞:【1989年/第43回英国アカデミー賞】プロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞

18世紀後半のドイツ。トルコ軍の攻撃に晒されていた海岸沿いの町は、飢えと貧困に苦しみ、城壁の中は廃墟と化していた。そんな中、ロイヤル劇場ではヘンリー・ソルト一座による『ミュンヒハウゼン男爵の冒険』が興行されていたが、突然本物の・ミュンヒハウゼンを名乗る老人が突然乱入してくる。彼は、トルコ軍の攻撃の目的は自分だと主張し、なぜ自分がトルコ軍の標的になっているかのいきさつを舞台上で話し始める。それは、エジプト旅行の帰途、サルタンとトカイワインをめぐる賭けをした時のお話。お互い、バロンの命と1人で持てるだけの財宝を賭けたが、4人の家来、俊足のバートホールド、射撃の名手アドルファス、驚異的な肺活量のグスタヴァス、怪力のアルブレヒトのおかげでバロンが勝利する。その時、怪力アルブレヒトが宝物庫の宝物を全部持っていったため、サルタンは怒りに狂い、それ以降バロンの首を狙っているという。ところが、あまりにも荒唐無稽さに、観客は誰も信じない。しかし、一人だけ信じてくれる10才の少女サリーに励まされ、トルコ軍をやっつける約束する。バロンはかつて一緒だった4人の家来を捜す決心をするが…というストーリー。

ミュンヒハウゼン症候群の病名の元になった人。『ほら男爵の冒険』の主人公だけど、架空の人ではない。現実のミュンヒハウゼ男爵もなかなか掴みどころのない人。テリー・ギリアムが着目するのもうなずけるトンチキなキャラクターだ。ただ、あんまり日本人には馴染みはないよね。自分も正直、観ていてピンときていなかったし。

ギリアム作品の中ではあんまり評判のよく無い『ブラザーズ・グリム』だけど、個人的には好き。それに近い雰囲気を持っているし、且つ、完全に子供が観られる作品を目指しているのは好感が持てる。
月の王の妻が何で変な声を出しているのか?ってサリーが質問すると、ばつが悪そうに「足をくすぐっているから」って答えるミュンヒハウゼン。でも、実際に足をくすぐっている。思わず「本当にくすぐってんのかーい」ってツッコんでしまう。おそらく、親子で一緒に観ていたら変な空気になるだろう…ってところまで狙っているんだろうなと。

映画の黎明期、メリエスの世界を彷彿させるような映像世界も悪くない。ただ、荒唐無稽なのは一向に構わないんだけど、砲弾に掴まって飛ぶとか月の世界とかまでは、ちょっとやりすぎかな…とも。なんか、ムダにバタバタした感じは否めない。でも、ギリアム監督じゃなければ、もっと興醒めしていただろう…ってのが救い。

もうちょっとシナリオ的にどうにかならなかったのかな…と思う点も。
サルタンとのいざこざが本当だったのなら、“本当”として直球で描けば良い。でも、トルコ撤退後のそこに、4人の家来はいない。そうじゃないなら、なにか別の現実のトルコ撤退のストーリーが並列で流れていてもよい。そこに現実として横たわるトルコ軍の撤退をどう捉えてよいのか。深く考えるなというのは簡単かもしれないが、煙に巻きたいなら、いろんな解釈ができる余地や仕掛けを用意すればよかったと思う。いや、そこをウマくやることこそ、この作品のキャラクターを扱う醍醐味だったんじゃなかろうか。
そう考えると、なんとも微妙な出来映えか。息切れした感じがする。

英語を喋っているからってことだけじゃなく、雰囲気が全然ドイツっぽくないのも、気になった。調べてみたら、ロケ地イタリアでやんの。全体に漂う、このカレーはもう一晩ねかせたほうがいいんじゃない?的なしっくりこない感じは、そこからくるのかも。ほぼセットなんだから、どうにでもなりそうなのにね。

まあ、いずれにせよ、一部の人の好みにはドンピシャで合うかもしれないけど、多くの人はそれほどでも…って感じの作品かな。
#ユマ・サーマンって掃き溜めに鶴みたいな役はマッチするね。この頃のの彼女はユニークな魅力があって素敵。

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imageX0073.Png公開年:1963年
公開国:日本
時 間:92分
監 督:杉江敏男
出 演:森繁久彌、久慈あさみ、中真千子、江原達怡、小林桂樹、英百合子、加東大介、東郷晴子、三木のり平、淡路恵子、池内淳子、藤山陽子、雪村いづみ、フランキー堺、ジョージ・ルイカー、河津清三郎、塩沢とき、峯丘ひろみ、小沢憬子、中野トシ子、大友伸 他



アメリカへの視察を終えて戻った太陽ペイントの堂本社長は、すっかりアメリカかぶれになってしまい、人前で妻にキスをしたり、会社でのレディファースト励行、役職で呼び合うことの禁止、社費で飲み歩くことの禁止などを幹部に指示する。あまりの変わりように秘書課長の木村や山中営業部長もあきれてしまう。そんな頃、木村に縁談が持ち上がり、山中部長の紹介で九州在住のタミエと見合いすることに。木村は大ノリ気で、結婚に至った場合の媒酌人を堂本にお願いすると、見合い結婚など日本の古い因習だと一蹴され、大いに悩んでしまう。その後、自社塗料を使用した若戸大橋の開通式に招待された堂本社長に帯同して、山中・木村も九州を訪れ…というストーリー。

『拝啓天皇陛下様』とか『豚と軍艦』とか、古い日本のコメディよりの作品もなかなかいいもんだな…ということで、本作を鑑賞。森繁久彌の直球コメディ作品って実は観たことが無かったんだよね。
“社長漫遊記”って言葉自体が耳に残っていたんだけど、これが一作目ってわけじゃなくて、本作は社長シリーズの21作目だそうだ。うん、この一作で何かを作り上げようとか、伝えようとか、そういう意気込みは一切なし。まあ、役者の演技は、森繁ら男性陣も女性陣も肩肘張っていなくて安心して観ていられるんだけど、ストーリー展開の配分とかが慣れに慣れきっていて、練られた感が一切ない。行き当たりばったりシナリオで、役者とスタッフの慰安旅行的な意味合いで製作されてるんじゃなかろうかと思うくらい(実際そうなのかも)。

構成が特に変。九州にいく前と後の配分バランスがおかしい。フランキー堺演じるのキャラクターとしての扱いが中途半端。木村の見合いの件が転がすだけ転がしといて投げっぱなし。正妻が九州までやってきてその後に展開があるのかと思いきやばっさりと終わっちゃう。フリに一切のオチが無く、まるであの宴会芸がメインのよう。

この緩い作風を良いと思うか否かがすべて。20作以上も続くってことは、「まってました」といわんばかりのお約束、いい意味でのマンネリが当時の人の心を捉えたんだろう。残念ながらこのシリーズは初見なので、そのいい意味でのマンネリってのが、何なのかは良く判らなかったけど。

リアルタイムで愉しんだ人が懐かしむならまだしも、改めて再発掘するような作品じゃない。多分、このシリーズはもう観ないと思う。

 

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image1983.png公開年:1960年
公開国:日本
時 間:107分
監 督:大島渚
出 演:桑野みゆき、津川雅彦、小山明子、渡辺文雄、芥川比呂志







霧深き夜。新安保闘争で結ばれた野沢晴明と原田玲子の結婚式が行われていた。野沢はかつて学生運動の指導者で、今はあり新聞記者をやっている。そこへ、指名手配中の後輩の太田がやってくる。太田は、六・一五闘争の時に、国会に向ったまま行方不明になった北見の話を始め、彼が行方不明になったのは野沢と玲子のせいだとなじるのだった。さらに、会場に野沢と同期の宅見が現れる。彼は10年前に起こった”あるスパイ容疑事件”の末、自殺した高尾の過去が告げられ、党のやり方を厳しく糾弾するのだった…というストーリー。

もうね、♪体を鍛えておけ~♪って歌で、頭がおかしくなりそうになったよ。彼らのクレイジーさを象徴する歌だった。

これ、公開から4日で上映中止になったっていう逸話がある作品。何か内容が過激だとか問題があるとかそういう側面があるのかと思ってたんだけど、単に興行的に失敗するのが見え見えだったから止めただけでしょ。だって、映画としては、つまらんもん。上映中止に憤慨して大島渚は松竹を止めたらしいけど、大島渚としたら意図どおりの出来映えだったから、なんでやねん!って気持ちだったんだろうね。だけど、金払って観たら、こんな内容で、あんな終わり方だったら、いい加減にせいや! 金返せや! って怒る人が7割はいると思うよ。

娯楽要素が微塵もない作品なんだけれども、製作意図はよくわかる。平気で5分以上ワンカットのシーンとかがあるし、演者のセリフなんか咬んでもそのまんま使う。セクトのリーダーみたいな人なんて、わざと咬んでるんじゃないかというくらい、定期的に咬む。とにかく、リアルな緊迫感を出そうとしている。実験映画っていう人もいるけど、製作側はそういう計算はないと思う。

最後の終わり方も意図はすごく良く判る。いくら否定しようが折れることなく詭弁を弄する救いようのない馬鹿がリーダー気取りで、他人を糾弾しつづける声が響くなか、「どうしようもねえや…」って思いと、「こんなこと一緒にやってきた自分てなんだったのか…」って思いとが入り混じった、途方も無い虚無感と脱力感に襲われている。でも、もう時間は戻らない。

でも、いくら当時の出来事の知識があったとしても、安保闘争を身近で感じていないと、やっぱりピンとこないんじゃなかろうか。それは、当時の人も一緒で、地方の人とかデモをやってるのを尻目に普通に生活していた人には、ピンとこなかったと思うんだ。
日米安保成立から時間をおかずに製作され公開されていて、異例のスピードだったのかもしれない。製作した本人は自分の鼻の効き具合と馬力に自画自賛するほどだったかもね。でも、世の中の人々の記憶の忘却のスピードや、移り気の速さはそれ以上だと思うのよね。

でね、今の私たちがこれを観て感じることが一つだけあると思う。残念ながら、この作品に登場する救いようのない馬鹿どもは、現在だと年金をもらっていい年齢になったくらい。つまり、いまの経済界や政界で、第一線でございますって顔をしているわけだ。全共闘世代とかだよね。学生運動してた頃のことを、自慢げに話す、あの恥ずかしい馬鹿どもだよ。
この登場人物たちの、ペラペラ喋っている内容を聞けばわかるでしょ。問い詰めてももっともらしいことではぐらかすてばかりの奴。自分が追い詰められると相手の粗をみつけてそこを攻撃して悪者のレッテルを貼る奴。経団連の米倉とか、坂本隆一とか、そういうやつらの言い草そのまんまなの。

この映画の最後は、自己批判とか総括とかいう共食い状態になるんだけど、この思考回路は、行き着くとこまで行くと、日本赤軍なんかで行われていた陰惨な内ゲバになる。そういうオチまで歴史上刻まれてるのに、この世代は救いようのない馬鹿だから、いまでもエラそうにしてるよね。
そろそろ、下の世代が突き上げてご退場していただくしかないんだけど、ソフトにご退場していただくことになるか、ハードにご退場していただくことになるのか。これから10年、見ものだけど、多分後者だろうね。

別に観なくちゃいけない作品ではないな。というか、107分は別のことに使ったほうが世のためだな。

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imageX0072.Png公開年:1982年
公開国:アメリカ
時 間:121分
監 督:ジョン・ミリアス
出 演:アーノルド・シュワルツェネッガー、サンダール・バーグマン、ジェームズ・アール・ジョーンズ、マコ、ジェリー・ロペス、ヴァレリー・クイネッセン、マックス・フォン・シドー 他
受 賞:【1982年/第40回ゴールデン・グローブ】新人賞(サンダール・バーグマン)



有史時代をはるかに遡るハイボリア時代。ある日突然、平和な集落を騎馬隊が襲撃する。その首領タルサは、コナン少年の目の前で刀匠の父と母を惨殺。コナン少年も多くの子供たちと一緒に捕虜となり、製粉工場の車輪を押す苦役に就かされる。やがて子供たちは力尽き、15年後にのこったのはコナン一人だけとなった。狂人な肉体となった青年コナンは、闘技士として売られるが、戦歴を重ねた後に自由の身となる。その後、モンゴル人のサボタイと仲間になり、タルサがいるというザモラの国へ赴く。そこに建つ蛇の塔に大蛇の目という宝石があることを聞き、盗みに入ると、そこでた女盗賊ヴァレリアと出会い…というストーリー。

東欧と西アジアの交わりあう世界観が、ダイナミック且つ新鮮。ハスキー犬のみたいな、アホっぽいつぶらな瞳のシュワちゃん演じるコナンの魅力がハンパない。シュワちゃんの魅力だけで引っ張っるB級作品かと思いきや、実はそこそこお金はかかっていて、大蛇のマペットのデキは良いし、コナンを蘇らせるときに襲ってくる、悪霊の合成もなかなかウマい。そして、こんな筋肉ファンタジー作品なのに、脚本にオリヴァー・ストーンが名を連ねているという驚き。

シナリオのセクションごとに目的がはっきりしていて、小難しいところが一切なく、頭を使わず気楽に観ることができる。親の敵であり、愛する女の敵でもある邪教集団への復讐はどのように結実するのか。なんとも判りやすい。
だが、逆に言えば行き当たりばったりな部分も多いといえる。あの人並みはずれたマッチョボディで普通に潜入しようと思う発想とか、タルサの軍勢が何千人もいるとかいわれていた割にはラルサが普通に馬で走っていて簡単に襲えちゃうとか、コナンの親を殺した頃はちゃんと中世の騎士みたいな風貌だったのにいつのまにか革ジャンきた荒くれ者みたいになっていたりとか、ヒロインは一人の法則が発動して王女を救った瞬間に一人死んじゃうとか、風呂敷を広げるだけ広げた末にナレーションで終わるという、荒業。けっこう都合主義すぎて、微笑ましい失笑が満載である。
一回も観たことが無いと思っていたが、お蛇様に精神を乗っ取られ、行き着くところまでいくと化身してしまうという演出で思い出した。この蛇に化身しちゃうシーンの記憶はあったね。

「コナンはキンメル族だから泣かない。かわりに俺が泣く」こういう、ヒロイックファンタジーにピッタリなノリがとても面白い快作品。まあ、わざわざレンタルして観るほどか…といわれると微妙だけど。

#マコ岩松が亡くなって、もう6年も経つのだな…。

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image1982.png公開年:2007年
公開国:アメリカ
時 間:106分
監 督:クレイグ・ギレスピー
出 演:ライアン・ゴズリング、エミリー・モーティマー、ポール・シュナイダー、ケリ・ガーナー、パトリシア・クラークソン、R・D・レイド、ナンシー・ビーティ、ダグ・レノックス、ジョー・ボスティック、リズ・ゴードン、ニッキー・グァダーニ、カレン・ロビンソン 他
ノミネート:【2007年/第80回アカデミー賞】脚本賞(ナンシー・オリヴァー)
【2007年/第65回ゴールデン・グローブ】男優賞[コメディ/ミュージカル](ライアン・ゴズリング)
【2007年/第13回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ライアン・ゴズリング)、脚本賞(ナンシー・オリヴァー)
コピー:彼が恋に落ちたのは… 等身大のリアルドール!

アメリカの小さな田舎町。そこに住む26歳のラースは町の人から“ミスター・サンシャイン”といわれるほど、心優しき青年。ラースは、兄夫婦が住む家のガレージを階層した部屋に一人で住んでおり、友人も少なく、特に女性と話すこともままならないくらいシャイで、兄夫婦はそんな彼をものすごく心配していた。そんなある日、ラースは突然兄夫婦に、インターネットを通じて知り合った女性を紹介すると告げる。二人は驚きつつもすごく喜んだのだが、ラースがつれてきた女性は、何とインターネットで購入した等身大のリアルドール。ラースは“彼女”をビアンカと呼び、元宣教師でブラジルとデンマークのハーフで、足が不自由だと紹介する。困惑した兄夫婦は精神科医に相談するが、医者は当面ラースの妄想に話を合わせることを薦める。そこで、町の人たちにも事情を説明し、協力を仰いて、“ビアンカ”を生身の女性として扱うことにするのだったが…というストーリー。

一応コメディにカテゴライスしたが、笑うための作品ではない。そして、リアルドールを前面に出しているとはいえ、決してゲテ物作品ではないということ。

簡単に言ってしまえば、人生における“通過儀礼”の物語。人との関わりを苦痛に感じる男ラース。それは精神的なものじゃなく、物理的な苦痛を伴うほど。ライアン・ゴズリングの演技がなかなか良い。単に精神的にトラブルを抱えた、簡単にいってしまえば頭のおかしくなった人…とは、思えない微妙な線を演じきっている。

なんでラースはそういう考えを持つようになってしまったのか…ということが、ゆっくり、ゆっくり紐解かれていく。“ラブ・ドール”を愛でるラースの目線は、変態のそれではなく、人であるという確信を伴う。それを、“病気だから”と受け止める町の人々。もちろんはじめは笑いの種になるけれど、元々ラースに悪い感情を抱いていないし、小さい町だからなのか、案外うまくいってしまう。

コミュニケーション障害が現代病といえるかどうかはわからないけれど(昔からあったとは思うよ)、社会的に求められるコミュニケーション技術が多様で複雑になっているのは事実だと思う。そういう観点からも、なんとなく観客も許容できるし、ラースが素朴でピュアだからこそ、突拍子もない内容ながらもこのシナリオが受け入れられる要因になっていると思う。

私がイマイチ消化しきれていないのは、単に、ラースが病気だから…という理由だけでお、町の人たちがそこまでするか?という点。彼らも、その人形を通して、何かを得ているのでは?ということ。別に、病院のボランティアの仕事を与えたり、そこまでする必要はない。いや、ラースの手前そうしたとしても、実際に子供の中に放り込む必要はないわけだ。
何故そこまでするのか。そうすることで、町の人々も何かのロールプレイをしていたんだろうと思う。そのロールプレイとは何なのか。他者への無償の献身かな…と思うのだが、それ以上の何かがあるような気もする。
#途中でテディベアに救命処置を施すシーンがあるが、あれも繰り広げられていることがロールプレイである証拠の一つだと思う。

大人になるために通過儀礼を経ていないラースなので、ビアンカとの関係は、無意識にプラトニックなものに留まっている…という設定。それが無意識だ…っていうところがミソ。まあ、映画としてはこのラインを死守したことが、作品が成立した要素だったかも(さすがにこの線を越えたら、ただの変態映画になっちゃうものな)。

途中で、出てくる両親の墓が、一つのヒントになっていて、お母さんがすごく早くなくなっているということ。兄は母親の死を受け止めて、必死に母の代わりをしようとする父親との軋轢も経験している。でも弟のラースは、年齢的にもっと小さかったので、それに対する軋轢はなくて、案外、表面的には素直に受け入れてしまったに違いない。
兄は、弟ラースに対して、自分が逃げてしまったことを誤るのだが、そのシーンを見ても、ラースがいまいちピンときていない様子が伺える。むしろ、兄の謝罪を聞いて、それって問題だったのか…と改めて気付かされている感じ。

そういう“あたりまえ”が自分にはなかったことに気付くにつれ、“彼女”ビアンカとの別れが加速してく。途中から、町の人がビアンカを単独でパーティに連れ出そうとするあたりから、ビアンカとの口げんかが始まる。“ミスター・サンシャイン”だったかれは、おそらく初めて女性と対立する。
無意識にビアンカとの別れを選択…というか、ロールプレイしている感じ。里子に出された子供が、母親の肩口に乗っかって下にすべる落ちるアクションをしたりするのを思い出した(生まれてくる様子を無意識に再現しているらしい)。その、無意識にビアンカを葬ろうとしている彼の選択が、ちくちくと観ている人の心を刺激する。

そして、当初は困惑していた兄夫婦が(特に妻が)、ビアンカを葬り去ろうとしているラースの行動に逆に困惑してしまうという状況が滑稽でもあり、せつなくもある。子供の成長にとまどう親の姿に似ているが、とまどっている当の本人たちが、実際に出産を間近に控えているというのも、一つの隠喩かもしれない。

きっと、私の心も多かれ少なかれ、何かを忘れてここまで生きてきたから、この作品に何かひっかかりをおぼえるんだと思う。他の作品にはない、滑稽さとせつなさが絶妙にミックスした作品。人の成長ってなんだろうな…と考えさせられる作品。強くお薦め。

 

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image1958.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:101分
監 督:マシュー・チャップマン
出 演:チャーリー・ハナム、リヴ・タイラー、パトリック・ウィルソン、テレンス・ハワード、クリストファー・ゴーラム、ジャクリーヌ・フレミング 他
コピー:生と死の境界線。彼は何故そこに立つのか。




男がビルから飛び降りようとしているとの通報を受け、刑事のホリスは現場へ急行する。現場ではギャビンという男が、高層ビルの屋上の縁に立っていた。ホリスは早速説得にあたったが、ギャビンは「12時調度に自分が飛び降りなければ、ある人が死んでしまう」という。単なる自殺願望者ではないと悟ったホリスは、説得しつつ事情を尋ねると、ギャビンはこのような事態になった理由を説明し始める。それは、ギャビンと彼の隣に引っ越してきた美しい人妻シェーナと、その夫でキリスト教のジョーの間におこった出来事だった…というストーリー。

“Ledge”ってのは建物の出っ張ったところとか崖みたいになったところを指すみたい。ギャビンが飛び降りようと経っている場所のことだろうね。“12時の死刑台”という副題が、いかにもサスペンス的な印象与えるが、それほど直球ではない。売り文句を色々考えたんだろうけど、残念ながら失敗している。でも、宣伝が難しい作品なのは、確かにその通りだと思う。


結構よく出来たシナリオで、ギャビンが一体何故そこから飛び降りるハメになったのかを、全編にわたって辿っていく。その説明で、約100分をひっぱっていくのだが、構成の配分が見事で最後まで飽きることがない。そして、説得に当たっている刑事も、自分の妻がひた隠しにしていた秘密を知ってしまったところで、正直、他人が飛び降りようがどうしようが知ったこっちゃない状況だったりする。刑事とギャビンとのバランスもしっかり取れている。

メインの登場人物である3人は、それぞれ外面的にはしっかりとした人物である。ギャビンはホテルの副支配人だし、シェーナは大学に通う人妻。その夫は宗教バカではあるが仕事を持っており確固たる意思を持っているように見える。むしろギャビンのゲイの同居人のほうが、HIVに感染してしまい職も失い、変な新興宗教まがいのセミナーにはまっていて、弱い存在に見える。
しかし、外面的にはしっかりしていそうな彼らの心には深い傷がある。そして、それぞれが救いを求めて行動しているのだが、それぞれの立場と経験の違い故に軋轢が生じる。

(以下ネタバレ)
おそらく観る人によって感想はかなり異なるのではなかろうか。簡単にいえば、姦通した二人と狂信者のどちらに共感の度合いが傾くか…というバランスが、人によって違うだろうということ。私は、狂信者、特にキリスト教原理主義者の救いようのない不寛容さに、とても不快感を感じているので、その夫に同情する気は一切なかった。自分がどん底にいたときに救ってもらったという、“感謝”という衣をまとった後ろめたさに支配されて、彼女は自分自身を偽り続けるしかない状況。これは何かおかしいのではないか?と思いつつも、そこを越えることができない。
さて、彼女はどうもがいてくのか。彼女が学生でもあるという設定が、実は肝だと思う。開眼して世の中を知っていけばいくほど、人は自分や自分の置かれた環境に対して疑問を抱くようになってく。夫の不寛容も、ゲイに対する嫌悪感も、自分で考えることを止めて、思考を他人の考え方に委ねてしまうというある意味“無知”から生じていると思う。

本作が、あまり評価されていない理由を探すとすれば、あまりにも救いのないオチであること。そして、彼が死なねばならない理由が無いことと、もうちょっとウマいこと処置できなかったのかよ…という思いが湧いてくるからだろう。
だけど、“納得”できるよく練られたシナリオだった。お薦めしたい一作。

#最近、ちょっと気付いたんだけど、日本語吹替音声が無くてで“デカ字幕”が付いているDVDって、なかなかいい内容なのかも。おそらく、吹替音声を付ける予算は無いんだけど、それじゃしのびないから、せめて字幕だけでも大きくしようっていうロジックなんじゃないかな。



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image1994.png公開年:2011年
公開国:香港、中国 
時 間:115分
監 督:ピーター・チャン
出 演:ドニー・イェン、金城武、タン・ウェイ、ジミー・ウォング、クララ・ウェイ、リー・シャオラン 他
コピー:挑むは、偽りの真実。




1917年の雲南省の小さな村で、両替商に押し入った2人組の強盗が、紙職人ジンシーともみ合っているうちに死んでしまうという奇妙な事件が発生した。事件を担当する捜査官シュウは、死んだ強盗の一人が名手配中の凶悪犯イェンだと気付く。イェンは武術の達人だったことから、いくらジンシーが必死に抵抗したとしても、丸腰の彼が偶然倒してしまうことがあり得るか?と疑問を抱く。さらに死体をくまなく調べると、高度な殺しのテクニックが使われている可能性が上がる。シュウは、真面目でおとなしいジンシーの素性を疑い始めるのだが、ジンシーは村を救った英雄として祭り上げられ…というストーリー。

金田一耕助の中国版かな…と思ってレンタル。金田一耕助の世界観である、因習が残る地方の村と、戦後まもなくの何でもありの舞台っていうのは、中国にもマッチするに違いない。いや、むしろ中国のほうが面白くなるかも…。

大変期待したのだが、原題は“武侠”なんだな。ここがその作品にポイントだった。
前半は予想したとおりに、派遣されてきた捜査官が、比較的近代的な捜査技術を用いて、真犯人を捜してく流れ。身なりも特徴的で、物腰はやわらかく、そのくせ鋭い考察力で、金田一耕助に近い。ちょっとく薬でやられちゃってるところは、原作の金田一耕助に近い。きっかけとなった事件は解決したものの、ジンシーの行動や死体の状況がどうも引っかかり、村の英雄に祭り上げられたジンシーを、個人的に調査をする。この流れはなかなか興味深い。

しかし問題は、推理劇からアクション劇にシフトするところの、違和感がハンパないことだ。そして、その間、主人公と思っていた金城武演じる捜査官シュウが、お留守になってしまう。というか、前半に作り上げたキャラが台無し状態に。
所詮香港の作品なので、カンフーアクションを差し込まなければ観客も満足しないは仕方が無いにしても、ジンシーが主役に踊り出るのはまずい。この構成のマズさが、敗因だと思う。
#というか、こういう内容なのに、“捜査官”にスポットをあてる邦題ってのが騙す気マンマン、悪意満載なんだよね。

過去に発生した猟奇殺人で、二人に繋がりがあったというのは、悪いシナリオではない。しかし、肉屋での猟奇殺人が、個人による犯罪ではなく、組織犯罪だったという流れは興醒めする。日本人にはこういう集団での猟奇殺人がピンとこないから。中国人は日本人こそ、軍でおぞましいことをやったではないか! というかもしれないが、残念ながらそれはほぼ中国側の捏造である。日本でこういうことが起こるのは、個人もしくは少数での犯行。金田一耕助で猟奇殺人の犯人が集団だったなんてことないでしょ。桐野夏生の『OUT』でせいぜい4人だもんね。日本人のメンタリティにはそぐわないんだ。自分たちにそういうことができるから、相手もできるだろうと勝手に思い込んでいるのだろうが、集団行動で抑制が効かなくなるのは中国人の特徴である。文革も反日デモでも証明済だろう。

犯人にリアリティが感じられなければ、サスペンス物はつまらなくなる。というか、後半は謎解きなんかどうでもよくって、単なる、1対他のアクション物に変貌してしまう。冒頭で紹介されていた猟奇殺人犯の例は、個人だったのにね。なかなか練られているな…と思ったのに、“七十二地刹”って…、実にがっかりさせられた。

捜査官シュウがジンシーを助ける理由が、中途半端な贖罪意識というのもいただけない。彼を助ける強固な理由が欲しかった。そして最後は落雷で解決って、いくらなんでもさ。凡作以上の評価を出せる要素がない。期待していただけに残念。

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image1996.png公開年:2010年
公開国:日本
時 間:109分
監 督:片山一良
出 演:花澤香菜、森川智之、仙台エリ、大原さやか、矢島晶子、乃村健次、三木眞一郎、磯部勉、廣田行生、川澄綾子、久野美咲、藤田圭宣 他
コピー:願えば奇跡は────必ず。




ある日、致死率100%の謎の石化病、通称『メドゥーサ』が世界中に蔓延。人々はその恐怖に恐れ慄く。そんな時、化学メーカーのヴィナスゲイトは、治療法が確立されるまで発病者をコールドスリープする方法を提唱。しかし、コールドスリープ装置の収容人数は160人までで、資格者を世界中から選抜することに。資格者に選ばれた少女カスミは、古城の地下に建設された施設“Alice”で深い眠りにつく。やがて、資格者たちが目覚めると、施設内は巨大ないばらと謎の怪物だらけになっており…というストーリー。

偶然だが、昨日の『キラー・エリート』とSAS繋がりだった。
原作のマンガを知らないから、うまくまとまっているかとか、そういうことはよくわからん。

ヒットしたという噂は聞かないので、それほどの興収ではなかったのだろう。でも、日本アニメでこういう作品が製作できるのだ…というのは、大きな意味があるはずで、“萌え”とかキャラクターものに偏執する日本アニメ業界(ゲーム業界も同じだけど)に、希望の光を当てるもの…のはずなのだが、それほどヒットしなかったというのが、業界というか市場の現状ということなんだろう。

一般の人が“アニメ”に抱いているイメージとは乖離していて、『アイデンティティー』とかそういうハリウッド作品が好きな人は、大好物。何故、彼らが生き残っているのか? とかは似ているよね。原作者は、そういうハリウッド作品が好きで、多分に意識しているのだろう。あやうく夢オチになりそうな勢いだったし、なんとなく予想のつく展開ではあったが、よく練られていて好感が持てた。子供がゲーム好きで、その知識通りのモンスターやダンジョンになっているところなども、微妙にミスリードになっている(意図的か偶然かはわからないけど)。同好の志だな…って感じがした。

ただ、個人的には、若い女性がぐにょぐにょと変体して異形の物になるいうパターンがキライなので、オチだけは気に入っていない。私は、仮面ライダーは大好きだけど『仮面ライダー THE NEXT』の敵のディテールは大嫌いで、それと一緒。おまけに、分離体だった…というのも気に喰わない。
(ネタバレ)
いくら双子でも、記憶や意識のコピーはできないと思う。そのオチが判明してから、主人公の自我がまがい物としか思えず、共感が薄れてしまった。彼女の自我を保つ、演出上の工夫が欲しかった。
また、バスなどにCGを使っているけど、原画に使用するのはかまわないが、CGによる着色の陰影が作品全体の質感から浮きまくっていて興醒めする。特に、いかにもアニメアニメしている、主人公や女子供キャラとの雰囲気の乖離が甚だしい。そのあたりの、ビジュアル的に世界観を構築するという部分で、難点が見られる。

しかし、それ以外は、非常に愉しめて、一気に観終わった感じ。サイコサスペンス的あハリウッド映画がお好みの人は、先入観を持たずに是非観て欲しい。旧作のレンタル料金なら絶対に損をしたとは思わないはず。お薦め。日本アニメが、こういう路線で利益を出せるようになると未来はあると思う。

#安藤賢司って、SICとかの原型師の人かしら。彼のデザイン画はたしかに画集を出たら欲しいってくらい味があるからね。いいオファーだったと思う。ちょっと『エイリアン』へのオマージュが過ぎた感はあるけど。

 

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image1993.png公開年:2011年
公開国:オーストラリア、アメリカ
時 間:117分
監 督:ゲイリー・マッケンドリー
出 演:ジェイソン・ステイサム、クライヴ・オーウェン、ロバート・デ・ニーロ、ドミニク・パーセル、エイデン・ヤング、イヴォンヌ・ストラホフスキー、ベン・メンデルソーン 他
コピー:彼らは、実在する。



1981年。殺し屋に嫌気がさして引退し、オーストラリアで恋人と静かに暮らしていたダニー。しかし、彼の元に、殺し屋の師匠だったハンターが人質にされているポラロイド写真が送られてくる。ハンターは、オマーン族族長の息子達を殺害した三人のSAS隊員を暗殺するというミッションに失敗し拘束されていたのだ。ダニーはハンターを救うために、そのミッションを引き継ぐことに。ダニーは、デイヴィスとマイアーというかつての仲間に協力を依頼し作戦を遂行するが、彼らの前に“フェザー・メン”という元SAS隊員で構成された謎の組織が立ちはだかる…というストーリー。

車を見て、かろうじて数十年前の話なんだな…ということが判る。クライヴ・オーウェンが演じた役が原作者に当たるのかな?話自体どこまで、真実かどうかわからないけど、イギリスの中東での暗躍っぷりはヒドいものだったからね。いくらイギリス政府が否定しても、まあ、このくらいのことはあっただろうな…というリアル感はある。今の中東問題の原因の半分以上はイギリスのせいだといって過言じゃないから。

ただ、中盤までは、どうにも引っかかる所が多くて、いまいちノリ切れない感じ。
なんで、殺された息子の報復のために、罪の告白の証拠が必要なのか。適当に誰かを殺して復讐しました…じゃ許されないってのは何となく理解できるけど、そんな自供なんか拷問で強要できるだろうし。また、なんで事故に見せかけて暗殺しなければならないのか。イギリスとオマーンの間で揉め事が表面化すると、政治的に不都合があるってことなんだろうが、拉致して秘密裏に処分したっていいじゃないか(実際、そういうことになるし)。なんで、オマーンのじいさんは、無意味にハードルを上げているのか…。

また、“フェザーメン”がSASを守るための組織だっていうのも、いまいち判りにくかった(フェザーメンって常識?)。また、旅行代理店を装っている黒人の行動の真の目的も、その立ち位置も、判りにくい。

正直、百戦錬磨のSAS相手に暗殺を遂行していくというスリリングな展開のはずなのに、演出が地味で眠くなる。画面を良く見ていないと見落としそうになる演出も多くて、ヨソ見していたせいで、それってどういうこと? って感じで何回か巻き戻した。
ミッションも完了して、ああ、凡作だったな…とあきらめたところで、残り40分。ここからは、急にアクションも派手になるし、出てる意味あるのか? と思っていた彼女も、やっと機能してくる。別の監督か?ってくらい、テンポが良くなる。こういう追い詰められてからのブチ切れ展開は、ジェイソン・ステイサムのお得意。

それ以前に、デニーロ演じるハンターが、強いんだか弱いんだか。そんなに凄腕なら、捕まるんじゃねえよっていう思いが湧いてくる。だから、きっとハンターも裏切ってたりするんだろうな…なんて思っていたのだが、全然そんなことはなかった。なんか、イマイチな役柄。

単なる悪役だと思っていた、クライヴ・オーウェン演じるスパイクも、信用していたSASから裏切られることになるのだが、最後の最後まで、ダニーと敵対し続ける。せっかく、メイン級の役者を三人揃えたんだから、協力プレーをする展開も観たかったような気がする。
まあまあの作品。

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imageX0070.Png公開年:1961年 
公開国:日本
時 間:108分
監 督:今村昌平
出 演:長門裕之、吉村実子、三島雅夫、小沢昭一、丹波哲郎、山内明、加藤武、殿山泰司、西村晃、南田洋子、中原早苗 他
受 賞:【1961年/ブルーリボン賞】作品賞




横須賀にアメリカの軍艦が入ると、米兵相手のキャバレーや飲み屋が活気付く通称・ドブ板通り。そこで、売春稼業で一儲けしていたヤクザの日森一家だったが、当局の取り締まりを受けてしまい商売ができなくなってしまう。そこで、米軍基地から出る残飯で養豚をすることを思いつく。基地の残飯処理の担当であることハワイ出身の日系アメリカ人サキヤマに賄賂を渡し、なんとか畜産業を軌道に乗せるのだった。日森一家のチンピラ欣太は、豚の飼育係を任されたる。彼は、この仕事を成功させて、恋人春子と所帯を持つことを夢見ていた。そんなある日の早朝、欣太は兄貴分の鉄次にたたき起こされる。鉄次は流れやくざの春駒の死体を処分するのを手伝えと命ずる。万一の場合は兄貴の身代わりに服役しろ、そうすれば幹部だ…と言われ、単純な欣太は安請け合いしてしまうのだったが…というストーリー。

今村昌平監督作品自体、あまり観たことがないが、やはり名監督といわれる人は、初期作品でも一味違うもんだな…と。喜劇にカテゴライズされてる場合があるが、“コメディ”とはちょっと違う。浅はかで愚かな人たちだけど、一生懸命生きている様子が滑稽だということ。直球で喜劇をやってるのは、鉄次役の丹波哲郎だけ。もう、晩年はバラエティ番組でイジられてばかりの人だったけど、先日の『日本沈没』も本作も役者として良い仕事をしているね。
野村芳太郎のコメディが面白かったので、戦後のこの手の作品にちょっとハマりぎみなのかも。

戦後の混乱の中、米軍のおこぼれで生きる人々。それが悪いというわけではなく、そうしないと生きられない人もいるし、ちょっとした日本人とのプライドを捨てるだけで少し裕福な生活ができるという現実がそこにある。そのプライドの川を越えるか越えないか。
米軍のおこぼれで生活し、それに多大に依存している生活。なんとかうまくやっているようにみえて、実はアメリカに首根っこを掴まれているような生活でいいのか?という問いかけ。男は残飯を貰い、女はオンリーになり、ちょっと生活が豊かになる。で、豊かになるだけならいいとしても、そういうおこぼれ生活をしていない人を見下し始める。見下されたほうも、うらやましがったりする。そんな状況を俯瞰で観て、なんか滑稽だな…と。”軍艦”がアメリカのことであるのは間違いないのだが、“豚”にはそういう色んな意味が含まれる。そういう視点の作品。
ラストの春子の旅立ちのシーンは、印象的だし感慨深かった。ただ、今でも米軍基地があるところでは、多かれ少なかれ、似たような状況であるというのが、笑えないわな。沖縄とか。

ウィキペディアを見たら、春子役の吉村実子は芳村真理の妹とか。まあ、似てなくもないか。凛としたイメージがドブみたいな世界の中で光る。でも、パッと輝くような晴れやかなイメージじゃなくって、若いのに鈍い色を放っているような感じ。デビュー作なのに、すんごくいい味を出してるんだけど、いきなりこういう汚れ役をやると、当時の映画界を考えると、路線の変更は難しかったろうね。

ドブをのた打ち回る“豚”たちの生き様を愉しんでほしい。軽くおすすめ。

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image1986.png公開年:2007年 
公開国:アメリカ
時 間:96分
監 督:フランク・A・カペロ
出 演:クリスチャン・スレイター、エリシャ・カスバート、ウィリアム・H・メイシー、ジョン・ギャラガー、マイケル・デルイーズ、サッシャ・ノップ、デヴィッド・ウェルズ、ランドルフ・マントゥース、フランキー・ソーン、ジェイミソン・ジョーンズ 他




冴えない会社員のボブは、同僚たちをいつか殺してやろうと、デスクに銃と銃弾を潜ませていたが、実行に移すことはできず、乱射することやビルを爆破することを夢想するだけの日々をおくっていた。しかし、とうとう堪忍袋の緒が切れて、銃を撃とうと決心したそのとき、一発の弾丸をデスクの下にころがしてしまう。それを拾おうとデスクの下に潜り込むと、突然銃声が。起き上がると、そこにはボブと同じように会社で馬鹿にされていたコールマンが無差別に銃を乱射しているではないか。そして撃たれた人の中には、ボブが密かに心をよせていたバネッサも。瀕死のバネッサの息の根を止めようとするコールマンを、ボブは射殺する。次の日、ボブは社員を救ったヒーローとして一躍有名になり、副社長の昇進を命ぜられるのだったが…というストーリー。

ストレスを極限まで募らせているハゲのおっさん。家に帰れば帰ったで、金魚の会話を妄想するような、ヤバイ男。そんなサイコぎみのヘタレ中年が、ただただキレまくる作品かと思いきや、まさか別の社員が乱射。ほんの一瞬の差で、凶悪犯の道とヒーローの道が分かれてしまう。予測の一枚上をいく展開と、スピード感。寝ながら観ていたのだが、思わず起き上がってしまうぐらい、惹き込まれた。

(ネタバレ注意)
お気に入りの女性を助けたのはいいが、半身不随になってしまい、何で殺さなかった!と罵られる始末。そんな余生が耐えられない彼女は、ボブに殺してくれと懇願する。いつも周囲のいいなりの彼が、それを正面きって断ることができるはずもなく、ましてや彼女に人生の尊さを説くなんてことができるわけもない。
なんだかんだで、半身不随にならなければ、関係などできるはずもなかった二人。ボブは献身的にバネッサの世話をし、バネッサもボブに感謝とも愛情ともつかない感情を抱き始める。でも、一歩間違えれば、自分が乱射犯人となって、彼女を誤射していたかもしれない。それに、こんなことでも無い限り、彼女が自分を頼りにしてくれるなんてことはあり得ないわけで、この関係を素直に受け入れていいのかどうか。彼女の気持ちを本物なのか?と、彼はずっと疑念を抱き続けるのだ。

一方、会社では幹部に昇進。なにか創造的な仕事が待っているのかと思いきや、仕事なんだかどうだかわからない業務ばかりなのに、なぜかリッチな待遇が与えられる。確かに夢のような生活。しっくりこないにせよ、彼はそんな夢のような展開に満足できるのか、馴染めるのか…。

なかなか魅力的なプロットなのに、本作は日本未公開。なぜか。それはひとえにラストの内容による。

(さらにネタバレ注意)
すべてボブの妄想でした…というオチがわかりにくのだ。妄想でした…というオチが悪いわけではない。あの、一発の銃弾を落としたところから、すべて彼の妄想だったという演出らしいのだが、社長がバネッサの家から出て行った後、自分の家に戻り、次の日になって元の服を着て会社に乗り込んだ…と解釈すれば、別に時系列的におかしくないんだもの。
突然、オフィスの飾りつけは無くなるし、弾丸が転がっている。そしてバネッサは生きている。ただ、あれ?それはバネッサ?似た人?投影?とか色々な可能性は浮かんできて、妄想だったんだ…とスッと入ってこないんだもん。妄想ってことでいいんだよね?ね?と、私は15分くらう戻して観なおすのを2回繰り返したわ。
途中に出てくる、精神科医が差し出したメモとかもよくわからない。そんなメモどっかに出てた?と、そっちは頭から早送り観なおしたけど、出てこなかった(と思う)。わかったのはボブの筆跡だってことだけ。

また、半身不随になった彼女とのストーリーが魅力的だった分、そっちはそっちで観てみたかったという思いが残るのが、妄想じゃないという可能性を無意識に探ったようだ。

最後の15分の演出だけ整理すれば、「ユーリカ!」って感じで、すべての糸がほぐれていくような快感を、観客に感じさせることができたと思う。作り直してくれないかな。

拍手[3回]

image0549.png公開年:1994年
公開国:アメリカ
時 間:114分
監 督:レス・メイフィールド
出 演:リチャード・アッテンボロー、エリザベス・パーキンス、ディラン・マクダーモット、マーラ・ウィルソン 他
コピー:信じれば,愛の奇跡は起こります。




ニューヨーク西34丁目にある老舗デパートのコールズは、営業不振でライバルデパートに買収されようとしている。クリスマス恒例の感謝祭パレードのイベント責任者のドリーは、クリスマス商戦で結果が出せなければ、いよいよ買収は決定的という状況の中、淡々と準備を進めていた。しかし、サンタ役で雇ったトニーが酒に酔って失態を連発し、とてもパレードに出られる状態ではなくなってしまった。困り果てたドリーは、居合わせた白いひげの太った老人クリスに、サンタ役を依頼する。クリス老人は、まるで本物のようで、パレードは大好評。それをうけて、デパートのクリスマスセールでのサンタ役も依頼。クリス老人が引き受けるために出した条件は、自前の衣装を着ること。そう、彼は自分を本物のサンタだといって憚らないのだ。クリス老人は、売り場の一角で子供たちや親の相談に乗るのだが、他の店が安ければ気前よく紹介してしまうという始末。コールズの重役はそんな彼の言動を問題視するが、結果的にそのサービスが大好評となり、コールズはクリスマス商戦で圧倒的な売上を記録し、買収を逃れるのだった。そんなコールズの躍進に立腹したライバルデパートの社長は、クリスを貶めるために部下に命令をし…というストーリー。

リメイク作品のようだが、元は知らない。そのせいなのか、1980年代っぽい古臭さが漂う。

私は、クリス老人は本当のサンタなのだ…という前提で作品を観ていたのだが、もしかするとこの作品は、本当にサンタなのか、サンタと思い込んでいる老人なのか、ぼかしているつもりなのか?ちょっと、事情通すぎて何でそんなこと知ってるの?ってことはあるんだけど、その他は、衣装を持っているだけで魔法的な何かをするわけでもない。トナカイに話しかけていたのだって、べつに頭のメジのはずれた老人なら変じゃないし。普通に老人ホームに帰っていくし、手話ぐらい知っていたって不思議じゃない。でも、サンタなんぞ生まれてこのかた信じたことがない私が、作中の彼は本物のサンタなんだという前提で観進めていたということは、私の心が素直だということ(笑)?

すごく吹き替えの出来映えが良くて、子供に観せても安心のクオリティなのだが、結果的には子供が最後まで付いていけない作品だったりする。それは、法廷での大逆転のネタ。1ドル紙幣に我々は神の存在を信じると書いている。存在の証明できない神を信じると、国家発行の紙幣に印刷されているほどなのに、我々法的機関がサンタを信じることに、なんの問題があろうか!ってオチ。大人は、そりゃあ大岡裁き万歳”だろうけど、この作品を観るド直球の小学生低中学年とかは、「はあぁ?」でしょ。子供と一緒にみてると、子供の頭に“?”が浮かんでるのが手に取るようにわかるし、どういう意味?って聞かれても子供に説明しにくいという、非常にやっかいな作品。もうちょい、何とかならなかったのか。
#いや、もしかして、子供向けにするつもりはないのか???

もう一つのストーリーの流れとして、ドリーと娘のスーザン、そしてドリーの恋人のブライアンの関係がある。スーザンが母親のせいでサンタを表立って信じることができなくなっているという設定はよい。そしてドリーがなんでそんな人間になってしまったのか…という理由もよい。でも、一番わからんのが、なんでブライアンがドリーのことを好きなのか?がうまく描けていないこと。簡単にいってしまえば、劇中の場面からは、ドリーを好きになる要素が見当たらないということ。そのせいで、ブライアンが法廷でがんばっちゃうのを、いまいち熱く応援できないんだよね。よって、ラストのハッピーエンドも、胸アツにはならない。

クリス老人を罠にはめた部下二人が、最終的に“I believe.”バッチを付けていたのは、ちょっと溜飲が下がったけど、前任のアル中サンタに罰を当てるのを忘れてるなぁ。

まあ、難点はあるけど、愉快で安心な良作。子供には一度は観せる作品かと。あ、世の中には、サンタを信じさせてる家があるのか。これ観たら、あれ?もしかして本当はいないのか?と、勘の鋭い子は感づいちゃうんじゃないか?そういう意味では、やっぱり子供向け作品じゃないのかも。

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プロフィール
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クボタカユキ
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一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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