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公開年:2013年
公開国:アメリカ
時 間:96分
監 督:ロベルト・シュヴェンケ
出 演:ジェフ・ブリッジス、ライアン・レイノルズ、ケヴィン・ベーコン、メアリー=ルイーズ・パーカー、ステファニー・ショスタク、マリサ・ミラー、ジェームズ・ホン、ロバート・ネッパー、マイク・オマリー、デヴィン・ラトレイ 他
コピー:成仏しやがれ!





ボストン警察のニック・ウォーカーは、同僚のボビー・ヘイズと、押収品の麻薬の横流しで小遣い稼ぎをしていたが、罪悪感からもう止めるとヘイズに伝える。すると、任務遂行中にヘイズに銃撃され死亡してしまう。犯罪者の銃で殺害されたため、任務上の殉職をして処理される。ふと目が覚めると、“R.I.P.D.”という天上組織の面接を受けている。その組織は、死後も現世に留まり、人間の姿で悪事を働くゴーストたちを取りしまるという、あの世の警察組織だった。ニックは警察官というキャリアを買われてスカウトされたのだ。この仕事に就くか魂が消滅するかの二者選択を迫られたニックは、R.I.P.D.で働くことを受け入れる。彼の相棒は、ベテラン・エージェント、ロイ・シーファス・パルシファー。地上に戻り妻のジュリアと再会できると思い、自分の葬儀に出席し彼女に声をかけるのだが、不審者扱いされてしまう。なんと、ニックの現世での姿は、おいぼれ中国人爺さんだったのだ。一方、ロイはブロンドの美女姿。釈然としないながらも、ゴーストの取り締まりをはじめるが、ロイは元19世紀のガンマンで、その破天荒ぶりにニックは目を丸くする…というストーリー。

またケビンベーコンがクソ悪役やってらぁ…と思いつつ、一番わかりやすい便利な役者さんだなぁと。

設定のポイントは、現世の人には別の姿に見えてるっていうところ。思いつきとしては非常におもしろいんだけど、じゃあ現世にいるときの姿を、金髪美女と中国ジジイにすりゃいいのかっていうと、そうはできない。ニックとロイの間では、普通に見えてるっていう設定だから。
私は、現世にいる間はニックとロイの間も金髪美女と中国ジジイに見えるっていう設定にしたほうが、演出上は正しかったと確信している。でも、そうすると、ジェフ・ブリッジスが怒るわなぁ。でも、作品を成立させるためには、それが正解。おもしろいのに設定が生きていないのが、非常に残念。
まあ、その難点は、企画・製作の問題であって、監督の責任ではないだろう。

R.I.P.D.でニックを面接した女性プロクターのスカート丈の長さにセンスを感じる。その他、ロイは19世紀のガンマンとか、おもしろいギミックが散りばめられてるんだけど、それも生かし切れていない感じ。プロクターがロイに気がありそうって部分も、話の主筋に絡ませることができていないし。

『MIB』『コンスタンティン』『ゴーストバスターズ』『ゴースト』のミックスかな。観客の誰もがそう思ったに違いない。そこは逆手にとってもっとパロディ色を出すとか、やれそうなことはあったよね。

色々弱い。もうちょっとブっとんだ演出ができたら、シリーズ化もあったよね(まさか、予定ないよな?)。

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公開年:1995年
公開国:アメリカ
時 間:100分
監 督:ピーター・ホートン
出 演:ブラッド・レンフロー、ジョセフ・マッゼロ、アナベラ・シオラ、ダイアナ・スカーウィッド、ブルース・デイヴィソン、ニッキー・カット、エイブリー・イーガン、レニー・ハンフリー 他





12歳のエリック。夏休みに11歳のデクスターが引っ越してくる。デクスターは母親と二人暮らし。彼は幼い頃の輸血のせいでHIVに感染してしまっており、体も弱く学校には通っていない。はじめはHIV患者ということで戸惑っていたエリックだったが、徐々に言葉を交わすうちに、心が通じ合うようになる。一方、エリックの家も母親と二人暮らしだったが、日々の生活に追われ息子のことを顧みようともしない。HIVの知識もなく、ただ闇雲に接触を禁じるばかりの母親に、友達付き合いをしていることを知られるわけにはいかず、見つからないようにこっそりと遊ぶ日々が続くのだった。デクスターの母親は、はじめて息子に友達ができたことに甚く喜び、エリックを夕食に招く。そこで、デクスターの食事に注意が払われていることを知ったエリック。もしかすると食事療法でHIVが治療できるのではないかと考え、普段デクスターが食べないチョコレートを食べ続けてみたり、ルイジアナの医師がある植物からHIVの特効薬を発見したという新聞記事を発見し、河原の植物を煎じて飲ませたりする。しかし、エリックが煎じた草が毒草で、デクスターが病院に担ぎ込まれてしまう。そのせいで、デクスターと付き合っていたことが母親に発覚してしまい…というストーリー。

20年前なので、HIVに対する一般の感覚はあんなもんだったと思うけど、エリックの母親の態度は腹が立つのを通り越して悲しくなってくる。エリックの母親がなかなかのクソ人間で、無知ゆえに、子供を思うあまり息子を殴ってしまったのだ…と、好意的に捉えられないレベル。変な表現かもしれないけど、そのおかげで「このクソババァめ!!」で済んだと思う。町の人が全員あんな態度を取っているシーンなんかがあったら、私の心は折れていたかも。
エリックの同級生のワルガキどもは、エリックの反論で納得していたからね。あれは、本当に心が救われるシーンだったわ。

で、後半は、友達付き合いを禁止された二人が、無茶な逃避行をする。馬鹿だな…と思いつつも、そうするしかないよな…という納得感。そして、エリックはもちろん、残り少ないであろう寿命のなかで成長していくデクスター。

自分の状況を鑑みて泣くことがないデクスター。泣くをことを知らないのか、泣くことを忘れたのか。あまりに出来過ぎな少年ゆえに、嘘臭さを感じないわけではない。重いテーマだが、所詮はフィクションなので、こういう都合のいいキャラが鼻につく人がいるかもしれないね。

旅から戻された後、エリックの母親が発狂してそうなものなんだけど、最後のあたりまででてこないというのも、少し不自然かも。まあ、出てきたら出てきたで、方向性が変わっちゃったかもしれないんだけど、あまりにクソ人間に描きすぎたせいで、罰も当たらずに終劇するのが、消化不良に思える。

これまでの数々の虐待が露見して、父親が引き取ってもいいんだよ?みたいな流れになるけど、デクスターのお母さんがさみしがるだろうからここにいてやるわ!って言い放って、母親がオヨヨヨ~と泣き崩れる程度の仕打ちはしてほしかったわ。

いやぁ、こういうお涙頂戴モノで、めずらしくズッポり観入ってしまった(疲れてんのかな)。

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公開年:2012年
公開国:オランダ
時 間:89分
監 督:ポール・ヴァーホーヴェン
出 演:ピーター・ブロック、ヨフム・テン・ハーフ、サリー・ハルムセン、ロベルト・デ・ホーフ、ハイテ・ヤンセン、リッキー・コーレ、カロリーン・スプーア、ピーテル・ティデンス 他






会社経営者のレムコは、妻と2人の子どもに恵まれた豊かな生活を送っていたが、唯一の欠点は、愛人が切れることがなかったほどの女好きであること。レムコの50歳を祝うパーティが開かれたが、そこに、今は日本で暮らしているはずの愛人ナジャが突然現れる。彼女は妊娠しており、レムコが父親であることを匂わせて去っていく。妻は、もし父親がレムコであれば離婚すると言い放つ。そんな中、共同経営者が、中国企業への身売り話を持ってくる。一方、娘の親友であるメリルは、実はレムコと関係を持っており…というストーリー。

いきなりドキュメントぽいかんじでスタート。おまけに監督登場。どゆこと?
本作は、冒頭4分間の映像を公開し、その後の脚本を一般公募するという手法。役者もアマチュアをオーディションで選出するという。ポール・ヴァーホーヴェンがなんでこの作品を撮ろうと思ったか、そして、彼のキャリアと映画観が滔々と綴られる。

ヴァーホーヴェンは、以前やったことに再び精力をつぎ込むことはイヤだという。同じことを繰り返すのは商売人のやることであり、芸術家、創造的職業人がやることではない。クリエイターのひとつの姿勢としてアリだと思う。これが、金を稼ぐことが主目的か、社会への影響を主目的にしているのかの境目かもしれない。冒頭から、なかなか慧眼な発言だ。確かに、『ロボコップ』『トータル・リコール』『氷の微笑』『スターシップ・トゥルーパーズ』とバラバラっちゃあばらばらだ。同じSFカテゴリでも、根っこが異なる。
日本にも、こういう監督が生まれてほしい。でも、生まれるためには、こういう確固たるポリシーが必要なんだな。

それはそれとして、DVDの特典映像っていわれても納得できてしまう内容。これは映画なのか?まあ、そういうドキュメンタリー作品なんだろうと諦める。続いて、撮影の様子が綴られ、公開に向けての記者会見などの様子が。と、そこまでいって、さあご覧ください…てな感じで、突然本編が始まる。このDVD、なんつー構成だよ。

なんじゃこれって思っていたら、内容がクッソおもしろい。公募した脚本をまとめただけにしてはよく練られている。シナリオの作り方についても、前半のドキュメンタリー部分で語られているのだが、完成形を観たら彼の言っていたことがよくわかる。どんなシナリオでも良い部分が必ずあって、その良いポイントをカテゴリ分けして整理していて、そのデータに基づいて素人のシナリオを繋げているのだという。ヴァーホーヴェンって職人だわ。

ストーリー運びに淀みが無く、且つ穴がないというレベルの高いシナリオ。登場人物は、それぞれの思惑を抱えてバラバラに行動している。元愛人の妊娠、妻の疑い、共同経営者の裏切り、継続中の愛人の愛でで動揺しきりの主人公。レムコを偽装妊娠で騙そうとする元愛人。実はその元愛人と通じている共同経営者。愛人の娘と親友でありながら、友達付き合いは継続している学生。夫の愛人に気を寄せる息子。どこか一つが明らかになる度に、ストーリーが展開していく。

なんだかかんだいって、最終的に収まるところに収まって、勧善懲悪、火遊びが終わった若者が未来に向けて歩き出すという終わり方なのも優秀。

これ以上、内容は言わない。観てほしい一作。

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公開年:1996年
公開国:アメリカ
時 間:121分
監 督:スパイク・リー
出 演:チャールズ・S・ダットン、イザイア・ワシントン、ヒル・ハーパー、アンドレ・ブラウアー、トーマス・ジェファーソン・バード、オシー・デイヴィス、アルバート・ホール、ハリー・レニックス、リチャード・ベルザー、デオウンドレ・ボンズ、ガブリエル・カソーズ、バーニー・マック、ウェンデル・ピアース、クリスティン・ウィルソン 他




1995年10月14日。2日後に、ワシントンで黒人の自由と権利を訴えるミリオン・マン・マーチ(100万人の大行進)が行われる。そこに参加するためのバスツアー一向がロサンゼルスを出発する。参加者は、様々な事情の12人の黒人たち。裁判所の命令に従い犯罪を犯した実の息子を鎖で繋いだまま参加しているエヴァン。キャリアはほとんどないくせに口だけ達者な俳優フリップ。その他、ゲイのカップルや、イスラム教信者、片親だけが黒人の警察官。そしてベテラン添乗員のジョージも黒人だ。そんな彼らを、映画学校の学生エグゼビアはビデオカメラに収めていく。フィリップのゲイ嫌いに端を発し、諍いや反目の堪えない旅が続く。そんな中、バスがエンストし、替りのバスと運転手がやって来るのだが、新しい運転手リックはユダヤ人で…というストーリー。

監督がスパイク・リーなんで、妙に暴力的だったり、黒人バンザイ的だったりするのかと、ちょっと敬遠していたのだが、これ、隠れた名作だと思う。名作は言い過ぎかもしれないけど、スパイク・リー作品の中では異色で出色。偏見に聞こえるかもしれないがSEXシーンはないし、暴力シーンも喧嘩する部分はあっても暴力じゃない。

むしろ、“だから黒人はダメなんだよ…”っていう部分にイヤというほどスポットを当てている。無口なヤツは誰一人としていないという、口だけは達者だが、論理も我慢する姿勢も欠落している人間ばかり。コツコツ努力するとかできんのか?と思っていると、長老格の爺さんは、一生懸命文句も言わず働いてきたが、結局クビになった…とか語り始める。ただ、本当に黒人だからなのか?という気がしないでもないところがミソ。
イスラムかぶれは、元クリップスで何人も殺していると吐露。イスラムに出会ったから救われたとかなんとかノタマワって罪は無い…みたいな態度をとる(もちろん同乗してる警官は黙っちゃいない)。結局、マイノリティをこじらせている人間ばかり。

黒人差別に反発を抱いているくせに、冒頭からゲイカップルはガンガン差別される。途中でやってくるユダヤ人運転手のこともガンガン罵倒する。絶対に折れないし絶対に謝らない。あれ?俺も差別する側なんじゃね?とか絶対に考えない。
途中で、なぜか黒人をバカにしまくる黒人が乗ってくる。もちろん放っぽり出されるのだけど、その段になっても、あれ?自分も同じことやってね?とか思わない。その男、そこに気付かせるヒントをたくさん出しているのに誰も気づかない。黒人には反面教師という概念はないのか?と。

こんな感じで、人間性ははっきりしているので、揉め事が始まるとおもしろい。むちゃくちゃな理論で押収しまくるのに、全然終わらない。終わるタイミングは、別の揉め事か事件がおこるときだけ。

興味深かったのは、ツアー参加者の多くが民主党支持だってこと。まあ、経緯を考えれば、当然なのかもしれないけど、黒人だけじゃなくヒスパニックやらの支持を集めた現政権の無能っぷりを見ると、被差別意識を傘にきたまま、いつのまにかマジョリティになってしまうことの悲劇が見て取れるようだ。

なぜか、ゲイの人だけ共和党支持だったのだが、そこは、きっとエスプリのきいた部分なんだろうけど、アメリカ情勢に疎い私には、何を意味しているのかよくわからなかった(多民族主義を標榜しているような態度が、かえって差別しているように見えるとか?)。

すごく政治的だけど、末端のリアルな黒人社会の縮図を見せてくれた作品。

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公開年:1969年
公開国:アメリカ
時 間:113分
監 督:ジョン・シュレシンジャー
出 演:ジョン・ヴォイト、ダスティン・ホフマン、シルヴィア・マイルズ、ジョン・マッギーヴァー、ブレンダ・ヴァッカロ、ギル・ランキン、バーナード・ヒューズ、ルース・ホワイト、ジェニファー・ソルト、ゲイリー・オーウェンズ、ジョーガン・ジョンソン、アンソニー・ホランド、ボブ・バラバン、ポール・ベンジャミン 他
受 賞:【1969年/第42回アカデミー賞】作品賞、監督賞(ジョン・シュレシンジャー)、脚色賞(ウォルド・ソルト)
【1969年/第19回ベルリン国際映画祭】国際カトリック映画事務局賞(ジョン・シュレシンジャー)
【1969年/第4回全米批評家協会賞】主演男優賞(ジョン・ヴォイト)
【1969年/第35回NY批評家協会賞】男優賞(ジョン・ヴォイト)
【1969年/第27回ゴールデン・グローブ】有望若手男優賞(ジョン・ヴォイト)
【1969年/第23回英国アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(ダスティン・ホフマン)、監督賞(ジョン・シュレシンジャー)、脚本賞(ウォルド・ソルト)、編集賞、新人賞(ジョン・ヴォイト)
【1994年/第23回アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品

テキサスに住む青年ジョー。彼はカウボーイスタイルに身を包み、ニューヨーク行きのバスに乗り込む。彼は自分の容貌を武器に、さみしいニューヨークの金持ち婦人達を相手に男娼として一儲けしようと考えていた。しかし現実は厳しく、客は見つからない。ようやく一人の女性を引っかけるが、相手は実は娼婦で、逆にお金を巻き上げられる始末。そんな中、スラム街で足の不自由なペテン師ラッツオと出会う。ラッツオが売春を斡旋している人間だということを知り、手数料として10ドルを手渡したのだが、実はラッツオはホモ専門の手配師だった。騙されたと知ったジョーは激怒したが、始終咳き込んでいて無一文の彼に、それ以上怒る気力も失せてしまう。手持ちの金が無くなったジョーはホテルを追い出されてしまう。ラッツオは自分の室へ来るように薦め、男娼の仕事も自分がマネージャーをやるという。次第にジョーとラッツォの間に友情のようなものが芽生えていくが、仕事は一向に見つからず、おまけにラッツォの体調は悪くなる一方で…というストーリー。

なんで“カウボーイ”じゃなくて“カーボーイ”なのかは不明。車は無関係。最後、バスには乗るけど、タイトルにするほど重要じゃないし。むしろカウボーイスタイルこそ、ジョーのトラウマの表出であり、重要なポイントなのにな。邦題なんか後で変える例はいくつかあるんだから、真夜中のカウボーイに変えて再販すべきだね。

全然、本編と関係ないんだけど、ジョーがTVをザッピングするシーンで、画面に『ウルトラマン』が一瞬出てくる。スカイドンとジャミラ。そして本物のBGMも。権利無視だな。日本での放送から2年も経ってないと思うんだけどね。あと、一瞬『ジャズシンガー』の場面も出てくる。まあ、映画トリビアかな。
ダブル主演扱いだと思うが、完全にジョン・ヴォイドはダスティン・ホフマンに喰われちゃった感じ。外国人の美醜の感覚はよくわからないけれど、ジョーの容姿を見るに、なんで男娼で大儲けできると思った?と小一時間説教した気分になってしまった。まあ、稼ぐホストとかも必ずしも美男子というわけではないから何とも言えんのだが。

まあ、その辺の勘違いを含めてジョーという人格だということなのかもしれないが、それならば、ジョーをもうちょっと丁寧に描くべきだったかな…と感じる。
誰しもが、「仕事しろよ」と言いたくなるわけだが、頑なに他の仕事はしない。何故そこまで男娼にこだわるのか、それも何故カウボーイスタイルにこだわるのか。何故ニューヨークなのか。何度も挟まれるジョーの回想シーンから、それを判断しろ…ということなんだと思うが、いまいち腑に落ちない…というか、スパっと繋がらない。おばあさんの恋人のこと?自分の恋人がレイプされたこと?大体にして自分が犯人扱いされたことは、事実なの妄想なの?等々。

逆にラッツオの生い立ちが全然語られない。ジョーの回想がおもしろくもなんともなかったこともあり、そっちが気になってしかたがなかった。情報を与えられた方の興味を失ってしまい、逆に情報が不足している方に興味が沸いてしまうという、情報ツンデレ現象だな。

殺伐としやニューヨークの片隅で、ドブネズミのように生きる、2人の奇妙な友情を描いているのだが、いかにのニューシネマという感じ。ノンポリで、観客をどこに誘導するでもない。ニューシネマ作品は、意外と政治的なメッセージ性が直接的に出ているものが多いから、個人的には好みの匙加減に仕上がっていると感じた。

あのパーティってアンディ・ウォーホル主催っていう設定なんだね。そこは1970年前後のサイケな雰囲気が満載。だけど、その他は古いと感じさせないね。だからなんだ…ってストーリーなんだけど(まあ、それがニューシネマ)、目が離せない演出。お薦めかな。

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公開年:2012年
公開国:イギリス
時 間:94分
監 督:ダスティン・ホフマン
出 演:マギー・スミス、トム・コートネイ、ビリー・コノリー、ポーリーン・コリンズ、マイケル・ガンボン、グウィネス・ジョーンズ、シェリダン・スミス ルーシー・コーガン先生 アンドリュー・サックス、トレヴァー・ピーコック、デヴィッド・ライオール、マイケル・バーン、ジョン・ローンズリー、ヌアラ・ウィリス 他
ノミネート :【2012年/第70回ゴールデン・グローブ】女優賞[コメディ/ミュージカル](マギー・スミス)


イギリスの郊外に、引退した音楽家が暮らす老人ホーム“ビーチャム・ハウス”がある。実はハウスは資金難で存続の危機にあり、そこで暮らす往年の著名な音楽家たちによるコンサートを開催し、なんとか資金を集めようと準備を進めていた。ハウスにはかつてカルテット(四重奏)で一世を風靡した仲間であるレジー、シシー、ウィルフがそこに暮らしていた。レジーは若者へ音楽の講義をするなど、未だに音楽への情熱に溢れている。シシーはかつてのキュートさを維持したまま老いていたが、最近は痴呆の症状が見られ、時々手がつけられなくなっていた。ウィルフは若いころ以上に女性を追いかける面倒な老人になっていた。そんな中、カルテットの最後の一人であるプリマドンナのジーンが突如入居してくることに。かつて、彼女との婚姻届をだした9時間後に、彼女の浮気で離婚するハメになったという過去を持つレジーは、怒り心頭。しかし、離婚後の彼女は大スターになっており、おまけにかつてのカルテットが復活するとなれば、コンサートは大盛況、資金難は一気に解消するのは間違いなかった。背に腹は代えられぬと、カルテット復活を了承するレジーだったが、肝心のジーンは、老いてしまい声の出なくなった自分を恥じ、歌を封印してしまっており…というストーリー。

エンドロールで写真とかその後についてのエピソードとかが出てくるので、実話ベースの作品かな。
こういう同業者が老いた後に生活する施設が存在することがすごいと思ってしまった。よく、日本の共同体意識とかを指摘する外国人がいるけど、基本的に日本人はどこの外国人よりも“個人主義”だからね。ちょっと前の老人世代が、老人会やら寄り合いで集まっている方が異常で、おそらく今後はもっと個人主義が進んでいくと思う(というか戻っていくと思う)。それに、よくイギリス映画で描写される“組合”に対する意識の違いも感じる。あきらかに日本とは違う老人の姿が描かれている(どちらが良いとか悪いとかではない)。

ダスティン・ホフマンの初監督作品なのだが、彼のコネクションなのか人望なのか、超有力俳優ばかりが集っている。
はっきりって、ストーリーは凡庸極まりない。凡庸なだけではなく、老人ばかりなので、とにかく何もかもが遅い。時間の流れが違うんじゃないかと思うほど遅い。その遅さの中でじっくりと演技を魅せているのがすごい。マギー・スミスはもちろんだけど、シシーを演じたポーリーン・コリンズの痴呆の演技がうますぎる。完全に呆けているならまだしも、普段は普通で(とはいえ天然キャラなんだけど)、ふと痴呆状態に突入する。普段のおとぼけキャラなので、一瞬正気なのかボケてるのかわからなくなって、あ~今ボケちゃっててるな…っていうハラハラ感がすごい(老人だからってできるものではない)。もちろん映画なんで、ボケられると困るタイミングでボケちゃう。

実は、男って純情だよね…というお話で、胸が熱くなるというか痛くなるというか…。共感できるけど、絶対女は反省も改心なんかしないし、老いた今、選びやすい選択肢がただそこにあっただけだと思うよ…っていうヒネた見方をしちゃう私。まあ、その辺は観てくだされ。まあまあ。

#『MIKADO』ってそこまでポピュラーなのね。

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公開年:1986年
公開国:アメリカ
時 間:94分
監 督:フランク・オズ
出 演:リック・モラニス、エレン・グリーン、スティーヴ・マーティン、ヴィンセント・ガーディニア、ジェームズ・ベルーシ、ジョン・キャンディ、クリストファー・ゲスト、ビル・マーレイ、ティシャ・キャンベル 他
ノミネート :【1986年/第59回アカデミー賞】主題歌賞(Mean Green Mother from Outer Space/作詞:ハワード・アシュマン、作曲:アラン・メンケン)、視覚効果賞(Martin Gutteridge、Lyle Conway、Bran Ferren)
【1986年/第44回ゴールデン・グローブ】作品賞[コメディ/ミュージカル]、音楽賞(マイルズ・グッドマン)


スキッド・ロウの花屋で働くシーモア・クレルボーン。小さい頃に店主に拾われて育てられたことに恩義を感じて、薄給で奴隷のようにコキ使われても、大人しく従っている小心者。そんな彼が密かに心を寄せているのが、同僚の女店員オードリー。グラマーでオシャレな金髪女性だったが、いまひとつ知恵の足りない女性で、サディストの歯医者と付き合っており、いつも暴行されたり理不尽な態度で振り回される日々を送っていた。痛めつけられる彼女を見ても、気弱なシーモアは何をすることもできない。そんな彼の唯一の趣味は植物を可愛がること。ある皆既日食の日、中国人が経営する花屋で見たことない鉢植えの植物購入したシーモアは、その植物に“オードリー2”と名づけて育て始める。しかし、いくら水や肥料をやっても弱っていくばかり。何気なく傷ついた指を近づけた時、なんとオードリー2は血を舐めはじめたではないか。血を吸うと元気になって成長を続けるオードリー2。やがて、その植物見たさに客が押し寄せて、店は大繁盛。店主はオードリー2をきちんと育てるように命令するが、もう、自分の血を与えることが限界だったシーモアは、あることを思いつき…というストーリー。

スタートして、まず、何でミュージカル仕立てやねん!と思ったのだが、元がミュージカル作品なんだね(さらに大元はロジャーコーマンの映画らしいけど)。まあ、曲はとても楽しいし、なに一つ問題はない。セットとかショボいなぁ…とは思ったんだけど、逆に舞台みたいな感じで、ミュージカルコメディとして、いいさじ加減なのかも。

何にド肝を抜かれるかって、“オードリー2”の造形。今なら間違いなくCGになるだろうけど、CGか?と見まごうほどのなめらかな動き。どういう材質?どうやって動かしてる油圧?エア?ワイヤ?フレーム?セットのショボさも、むしろオードリー2を際立たさるためなのかい?と思うほど。映画史に残る特撮技術(というか出来映え)。

変態歯医者役の『花嫁のパパ』等のスティーブ・マーティンの怪演が光る。すぐに彼だと気付かないほど、あまり彼がやっていない役柄。主人公が一線を越える重要なターゲットなのだが、“かわいそう”とか“やれやれー!”とかいう極端な反応を抱かせないという、絶妙なポジションを作り上げるという、大仕事をやってのけている。
オードリーは、まちがいなく美人じゃないんだけど(笑)、『マーズ・アタック!』でサラ・ジェシカ・パーカーが演じた馬鹿インタビュアーみたいな感じで、アホ可愛い。
一方で、ビル・マーレイは、ゴリゴリのアメリカコメディが好きな人は楽しいのかもしれないけど、“いつもの”ビル・マーレイでちょっと邪魔くさい。

この植物って、なんの比喩なんだろう。普通に考えれば、抑え込んでいたシーモアの欲望の象徴なんだろうけど、『グレムリン』の日本批判の隠喩のように、何かをディスってたりするのかしら。まあ、いずれにせよ、植物のエサになるし、恋敵は排除できるしっていう一挙両得のブラックな思いつきが、ドロドロすることもなく楽しく描かれている。逆に、楽しすぎちゃって、もっとブラックでも良かったかも…と思うほど。

何で街の人々があの植物の虜になっちゃったのか?とか理由付けすると、内容が深まったかも。たとえば、植物が不満を持っている人だけに反応するフェロモンを出しているとか(不幸で貧しい人ならすぐに寄ってくるし、喰ってもあまり問題にならないという、独特なロジック)。さらに、最後の爆発に街の人も巻き込んじゃうなんていう映画ならではの演出が加わると完璧だったと思う。良作。

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公開年:1992年
公開国:イギリス、ロシア、イタリア、フランス、オランダ
時 間:94分
監 督:サリー・ポッター
出 演:ティルダ・スウィントン、シャルロット・ヴァランドレイ、ヒースコート・ウィリアムズ、ロテール・ブリュトー、ジョン・ウッド、ビリー・ゼイン、ジミー・ソマーヴィル 他
受 賞 :【1993年/第47回英国アカデミー賞】メイクアップ賞
【1993年/第6回ヨーロッパ映画賞】新人監督賞(サリー・ポッター)




16世紀末、エリザベス一世の治下。晩餐会の席で女王に詩を捧げたオルランドは、晩餐会後に呼び出される。彼の若さを愛した女王は、“決して老いぬこと”を条件に屋敷を与えると、まもなく女王は崩御する。以降、オルランドは女王から与えられた永遠の若さと命を保つ使命を全うするがごとく、実際に歳を取ることがなくなってしまう。オルランドの父が亡くなると、彼はユーフロジニと婚約するが、新国王ジェームズ一世に謁見するためにやってきたロシア大使の娘サーシャに一目惚れしてしまう。二人は愛を育み、一緒に旅立つ算段を立てるが、落ち合う場所に指定していたロンドン橋にサーシャは現れることはなかった。ショックを受けたオルランドは昏睡状態となり、6日後に目覚めると、愛の詩を作ることに没頭するようになる。詩作の能力を向上するために、有名な詩人に師事するが成果は出ず、挙句の果てには才能のかけらもないと罵倒される始末。その後、中東の国へ大使として旅立ち、10数年が経過し…というストーリー。

何の予備知識もなしに鑑賞し始めたのだが、いきなり数十年経過しているのに、容姿に変化がないところで、おやおや?となる。正直、かなり混乱して、別人か?とか色々考えて、ネットで調べてしまったよ。

原作はヴァージニア・ウルフ。正直彼女の作品は読んだことはないが、『めぐりあう時間たち』でニコール・キッドマンが演じた役が彼女か。この、“愛”とは何かを求めて永遠の命を生きるという設定が、非常にユニークで秀逸だと思う。大正~昭和初期に活躍した人だと考えると、このSFファンタジー的なテイストは、慧眼に値する。すごい作家なんだろうな。

結婚という形態に対する疑問、愛を求めるという行為自体に対する興味、肉欲と超えた国や宗教という社会基盤を超える普遍の愛の発見、性を超えることによって生物としての愛を素直に受け止めるというスタンス、無条件で愛すべき存在を得ることによって知る“無償の愛”。こうやって、誰しもが口にする言葉ながらも、共通の価値観として存在していない“愛”について、不死により存在しうる同一人格が、様々な角度から“愛”という概念を照らし見る様子が描かれている。
単なるフェミニズムやトランスジェンダーのお話だと捉える人もいるだろうが、そんな単純な内容ではないと思う。

時代が進んでいることを、服装や建物なので感じさせてくれるなど、衣装や美術がとてもすばらしい。イギリス文化の流れが興味深く追える作品でもある。しかし、その割には目が飽きるのはなぜか。綺麗にまとめすぎているのかもしれない。

最後の天使は、宗教的なアイコンではなく、“愛”が肉体や社会を超えた存在であることを表現しているのかもしれないが、私にはむしろ短絡的な落とし所に見えたのが残念。まあ、高尚な方向に倒れすぎているところを、あえて揺り戻してインパクトを狙ったと考えれば、そう悪くもないか。

哲学的な思索がお好きな人には、良い息抜き作品だと思うが、娯楽作品としてはお薦めしがたいかな。

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公開年:1976年
公開国:アメリカ
時 間:112分
監 督:エリア・カザン
出 演:ロバート・デ・ニーロ、トニー・カーティス、ロバート・ミッチャム、ジャンヌ・モロー、ジャック・ニコルソン、ドナルド・プレザンス、ダナ・アンドリュース、アンジェリカ・ヒューストン、テレサ・ラッセル、ジョン・キャラダイン、シーモア・カッセル、ジェフ・コーリイ 他
受 賞:【1976年/第49回アカデミー賞】美術監督・装置(Gene Callahan[美術]、Jack Collis[美術]、Jerry Wunderlich[装置])


ハリウッドの大手映画製作所の敏腕プロデューサー モンロー・スターは、鋭い感性で現場を切り盛りして、数々のヒット作を手掛け、異例の若さで製作部長の地位に上り詰めた。最愛の妻を亡くしている彼は、それを忘れようとするがごとく仕事に邁進していた。しかし、モンローの才能を認めえないものは誰一人いなかったが、芸術性を尊重しすぎて利益をないがしろにする態度を最近取るようになり、古参の役員たちが反発を強めていた。そんな中、カリフォルニア沿岸を地震が襲う。モンローが撮影所の被害状況を見に行くと、亡き妻にそっくりの女性を見つける。気になって仕方がないモンローは、その女性を調査させて見つけ出す。彼女の名はキャスリン。その後、パーティで偶然彼女を発見したモンローは、何とかデートの約束をする。デートの日、口付けを交わし急速に距離を縮めるのだったが、キャスリンは、婚約者がいる旨を手紙にのこし去っていくのだった…というストーリー。

海外のシナリオライターが書いたシナリオのノウハウ本だったと思うのだが、そこで悪い例として本作が上がっていた(書籍名は忘れちゃった)。題材になっている作品を観てみようと思ったのだが、本作はどこにいってもレンタルされていない。2012年になってやっとレンタルが開始された。

モンローのモデルになった実在の人物が存在するらしいが、そんなことはどうでもいい。いざ観てみると、DVD化されてこなかった理由がよくわかった。上にあらすじを書くだけで、ぐったりしてしまうくらい、ストーリーに締まりがない。
妻に似ている女を見つけた。(ちょっと時間が経過)。身元がわかったので会いに行く。いい年こいたおっさんがドキマギ。(ちょっと時間が経過)。偶然パーティで出会う。なんとかデートにさそう。(ちょっと時間が経過)。デートする。フラれる。イライラする。モンローにひそかに恋心を寄せる若い女性が、何か感づく。フられたはずなのに、モンローとキャスリンは何度か会う。でも結局別れる。イライラする。結婚したと電報がくる。もっとイライラする。共産党員の作家組合員と喧嘩する。重役から疎まれてクビになる。おしまい。

なにが面白いのかと。

ちょいちょい無駄に時間が空いてテンポは悪いし、何が繰り広げられているのか、迷子になるシーンばかり。ヘタクソな文章を読んでいると“目が滑って”何も頭に入ってこないということがあるが、本作もずるずると目が滑って何も入ってこない。監督も役者陣も豪華なのに。なんでこうなった。

これと同じ原作が、宝塚で上演されていたりするんだよなぁ。何がおもしろいんだか本当にわからない。わからないものはコメントできない。ここまで脳が拒否しつづけた作品はめずらしい。さようなら。

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公開年:1993年
公開国:オーストラリア
時 間:121分
監 督:ジェーン・カンピオン
出 演:ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、サム・ニール、アンナ・パキン、ケリー・ウォーカー、ジュヌヴィエーヴ・レモン、タンジア・ベイカー、イアン・ミューン、ホリ・アヒペーン 他
受 賞:【1993年/第66回アカデミー賞】主演女優賞(ホリー・ハンター)、助演女優賞(アンナ・パキン)、脚本賞(ジェーン・カンピオン)
【1993年/第46回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ジェーン・カンピオン)、女優賞(ホリー・ハンター)
【1993年/第28回全米批評家協会賞】主演女優賞(ホリー・ハンター)、脚本賞(ジェーン・カンピオン)
【1993年/第60回NY批評家協会賞】女優賞(ホリー・ハンター)、監督賞(ジェーン・カンピオン)、脚本賞(ジェーン・カンピオン)
【1993年/第19回LA批評家協会賞】女優賞(ホリー・ハンター)、助演女優賞(アンナ・パキン)、監督賞(ジェーン・カンピオン)、脚本賞(ジェーン・カンピオン)、撮影賞(スチュアート・ドライバーグ)
【1993年/第51回ゴールデン・グローブ】女優賞[ドラマ](ホリー・ハンター)
【1993年/第47回英国アカデミー賞】主演女優賞(ホリー・ハンター)、プロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞
【1993年/第9回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞
【1993年/第19回セザール賞】外国映画賞(ジェーン・カンピオン)

19世紀半ばのスコットランド。口がきけない未亡人のエイダは、ニュージーランドの入植者スチュワートに嫁ぐために、幼い娘フローラと一台のピアノと共に旅立つ。ピアノはエイダが感情を表現する唯一の道具であり、彼女の分身ともいえる物。長い船旅を経てニュージーランドに到着するも、スチュアートは迎えにきておらず、エイダとフローラは海岸で一夜をすごす。日が昇るとスチュアートが現地人の人足を引き連れてやってきたが、ピアノは重すぎるので置いていくという。エイダは強行に反発するが聞き入れてもらえない。ピアノと離れることができないエイダは、毎日のように娘と一緒に、ピアノを弾くために海岸を訪れる。そんな彼女の姿を眺めていたスチュワートの友人で、マオリ族と一緒に生活してすっかり同化している白人のベインズ。彼は、スチュアートに対して、自分の土地とピアノを交換しようと持ちかける。ベインズはピアノを自宅に運ぶが、それに激昂するエイダ。ベインズは、黒鍵の数だけピアノの弾き方を教えてくれれば、ピアノを返却するという。仕方なく受諾し、レッスンを開始するエイダだったが…というストーリー。

本作のサントラCDを持っている。というか、本作でマイケル・ナイマンにハマって他作のサントラも何枚か買ったほど。DVDの時代になって、さあて改めて観てみようなんて思ったのだが、なんとレンタルしていない。少なくともここ15年は間違いなく存在しなかった。『シリアルママ』『アダムス・ファミリー』なんかど同じく、いろんな事情でレンタルがされていなかった。もういい加減にせいや!と、ネットオークションで買おう探したが、これがなかなか高い(かといって1000円以上出すほどの情熱はない)。ここにきってやっとTSUTAYAがレンタルを開始。えらいぞTSUTAYA。

本作公開の後、日本でも『失楽園』ブームみたいな“不倫”ブームがおこったけど、そういう下卑たムーブメントとは圧倒的に地平の違いを感じる。

ホリー・ハンター演じるエイダは口がきけないのだが、口が利けないことで世事と一線を画すことが許されており、そのおかげで一児の母親でありながらひたすらピュアでいることが許されている。ピュア=心がきれいだと純粋だとかいうことではなく、直情的、本能に忠実…という方が近い感じ。
彼女のコミュニケーション面の問題を埋める役割もしている娘フローラは、逆に社交性が発達しており、ほぼ幼児であるにもかかわらず、時に大人のように振舞う。そのため、場面によっては大人と子供が逆転したような箇所もある。

登場人物のユニークさというか変態っぷりはなかかなのもの。

結婚とはいえ、ニュージーランドで本国と同じような生活はできるはずもなく、エイダは厄介払いで嫁に出されたようなもの。スチュワート側だってお手伝いと性処理の相手を調達したようなもので、根本的にまともな人間関係が構築できるスタート地点にいない。それでもなんとかなると思っているスチュワートの鈍感さ。ベインズはピアノを家に運べたのに、スチュワートは運ばない。どれだけ費用がかかるのかしらないが、迎えた新妻の大事な物を簡単に放棄するように命じる男に、魅力を感じるわけがない。

じゃあ、そのベインズはどうかというと、まあ変態オヤジですわ。レッスンを口実に触るは、脱がすわ。ピアノが大事だからといって、それを受け入れるエイダもエイダなのだが、まあそこは理解できなくはない。しかし、一線を越えるところはほぼレイプ状態で、その後、すっかりベインズになびいてしまうという展開。というか、ピアノなんかおかまいなしに欲情しまくて、鼻息を荒くしてベインズの家に突進する始末。さすがの娘もそりゃおかしいんじゃね?となるのだが、それでも止まらない。

2人の関係に気付きはじめてベインズの家に様子を見に行くスチュワート。ことがおっぱじまったら、コラーって乗り込めばいいのに、壁の隙間やら床下からずっとのぞいているという変態っぷり。じゃあ、それを許すのか?っていえば、そんなこともなく、最終的にが激昂してエイダの指を手斧で切っちゃうという気違いっぷり。まあ、恥をかいたっていう思いはわからんでもないが、もっとやりようがあるだろう。こういう展開になると、変態おやじだとおもっていたベインズが、えらくまともに見えてくるから不思議。

こういう話の流れだけおうと、変態メロドラマみたいだけど、ポイントポイントで感情を表現する象徴的な場面が美しく差し挟まれているのが本作の特徴。それこそが、本作の芸術性。最後のあれだけ大事にしていたピアノを沈めようと決心するくだりや、その後に海に引きずりこまれる流れなど、彼女の変化をエピソードでうまく表現していると思う。
義指をつけてピアノを弾いたときのコツコツという音が、特に印象的だった。これまで自分の感情をピアノで表現してきた彼女だが、以後、彼女のピアノの音にはあの義指の音が必ず付いている。あの音は、彼女が人として成長するために必要だった傷を覆うかさぶたであって、その傷跡を含めて“人間”だっていう象徴になっている。うまいよね。

こういう不倫物は基本的に興味ないんだけど、それでも美しかった、観てよかったと思えるのだからよっぽどの名作。お薦め。

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公開年:2011年
公開国:イギリス、アメリカ、アラブ首長国連邦
時 間:124分
監 督:ジョン・マッデン
出 演:ジュディ・デンチ、ビル・ナイ、ペネロープ・ウィルトン、デヴ・パテル、セリア・イムリー、ロナルド・ピックアップ、トム・ウィルキンソン、マギー・スミス 他
コピー:インドの風がささやいた。やりたいように、やればいい。





イギリス。40年連れ添った夫が多額の借金を残したまま死んでしまったイヴリン。息子夫婦の世話になるのはイヤな彼女は、家を売却し、インドにある高齢者向けリゾート“マリーゴールド・ホテル”で暮らすことを決意する。その他、退職金を娘の事業に投資したが失敗されてしまったダグラスとジーン夫妻はインドで安価に暮らそうと考える。股関節の手術が必要になったが国内では半年待たねばならないミュリエルは、インドの病院を紹介される。元判事のグレアムは、思い出の人を探すためにかつて生活していたインドを訪れる決心をする。独身貴族ノーマンは、人生最後のロマンスの相手を探すために異国の地を目指す。結婚と離婚を繰り返しているマッジは、お金持ちの夫を探すためにインドへやってくる。みんな、マリーゴールド・ホテルのネット広告をみてやってきたのだが、ボロボロの実物を見て愕然とする。しかし、決して裕福ではない彼らは、簡単に帰国することはできない。改装中とうそぶく若い支配人のソニーは、やる気だけはあるがまったくホテル経営のノウハウがわかっていない。ホテルの設備にはもちろん、インドという国自体に圧倒されてうんざりしながらも、徐々に自分たちの生活を掴み始める7人だったのだが…というストーリー。

あくまで私見なんだけど、インドが舞台になる映画は多いけど、所詮は逃げてきた人たち、現実から逃避するための舞台…でしかないことが多いように思える。そういう“逃げ”が前提になっている作品は、いまいち好みではない。『食べて、祈って、恋をして』とか『ダージリン急行』とか。私、ウェス・アンダーソンは好きだけど、それでもインドが舞台であることで、いい効果があったとは感じていない。

一癖ある7人の老人がインドにやってくる。7人がきれいに揃って同じスケジュールでやってくるっていうのは、いまいちリアリティに欠ける気がしないでもないが、まあ、映画だしね。
7人それぞれに事情が…というか、半分異常がクソ人間。色ボケが2人、人種差別者が1人、究極的に性格の悪いババァと言いなり夫。ネタバレぎみだけどゲイのじいさんが1人。最後の一人は純粋にお金がないが息子の世話になりたくないという頑固ババァ。最後の頑固ババァが、とってもとってもまともに見える。

開始から40分くらいまで、そんな老人たちが、インドの暑さと風習にやられ続けて苦闘する。正直、モタモタした展開。老人それぞれのキャラに深みを持たせるエピソードが繰り広げられるべきだが、しっかり観ていないと、エロじじぃと言いなり夫、イロボケばばぁと性悪妻のキャラクターが混同するほど。

話が全然集約されていかない中、車椅子ばあさんの人種差別のエピソードが、アクセントになっていく。しかし、これが若干消化不良ぎみ。同じ、使用人というシンパシーから、不可触民の娘に同情するという展開はわかる。それはわかるのだが、なんであそこまでの人種差別主義者に至ったのかというくだりがスポっと無視されているから、カウンターとして彼らを受け入ていく変化が生きてこない。

カーストが単なる上下差別構造なんじゃなく、不可触民も一種の職能ギルドであるということが、微かにうかがえることは評価したい。インドのカースト制度が南アメリカみたいな、単純な二極構造じゃないことが、インドの発展を阻害していることがよくわかる。

各自、個別にエピソードを展開させていくが、終盤になっても、死んだのが、ゲイじじぃなのか、色ぼけジジィなのか、一瞬わからなくなる。これは見た目が似ているとかじゃない。一応、判事のほうは心臓が悪い…とうくだりはあったけど、エロじじも年甲斐もなくがんばっちゃったからか?とか思っちゃうんだよね。
かといって、意図的にどっちかわからなくした演出ってわけでもなさそう。“インド”のようなダラダラゆるゆるしたピリっとしない演出のせいだと思う。

ただ、先の短い老人が、老人ホームじゃないところで、次の生き方を見つけるお話は、他にはなかったし、まだまだ、ユニークな老人を放り込めば、おもしろいお話はつくれそうな気がする。色々、文句はいったけど、まあまあの出来栄え。とにかく観客も、インドだもんしょうがいないよ…っていう心持ちで観ればよいのだと思う。あぁ、観客にそれを気づかせるのが目的なのか。なら、正解の演出なんだろうな。

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公開年:1991年
公開国:アメリカ
時 間:106分
監 督:マイク・ニコルズ
出 演:ハリソン・フォード、アネット・ベニング、ビル・ナン、ミッキー・アレン、ドナルド・モファット、ナンシー・マーチャンド 、レベッカ・ミラー、ジェームズ・レブホーン 他
コピー:失くした過去と真実の愛を求めて ヘンリーの心のさすらいは始まった…




ニューヨークの敏腕弁護士ヘンリー・ターナーは、その日も、失態のせいで患者に告訴された大病院の弁護をして勝訴。そんな仕事は絶好調の彼だったが、一方で、多忙のために妻と娘との関係はうまくいっていなかった。そんなある日、煙草を切らしたので近所の店に買いにいったところ、偶然にも強盗に遭遇し、狙撃されてしまう。病院に搬送され何とか一命を取り留めたものの、彼は記憶喪失になり、妻子のことすら思い出すことができず、おまけに手足に麻痺が残ってしまった。自分が何者かすらわからない不安の中、頑なに心を閉ざすヘンリーだったが、トレーナーのブラッドレーの明るい人柄に助けられ、リハビリを続ける。そして、妻子のことが思い出せないまま、妻サラと娘レイチェルの待つ家に戻ることとなった。ヘンリーが自分達のことを覚えていないだけでなく、仕事にも復帰できずに生活が困窮していく中、二人は強い失望を感じるが、かつての彼とはまったく違う純粋で優しさ溢れる姿に、幸せを感じはじめ…というストーリー。

冷静に観察すると、ハリソン・フォードの演技がヘタというわけでないのだが、ハンソロが、障碍者になってもいまいちピンとこない感じ。これは、あまり“色”の付いていない役者か、もっとコワモテで悪い印象の役者をアサインすべきだったのかも。彼では、はじめから印象が良すぎるもの。

事実を知っていながら、依頼者の勝利のために事実を覆い隠す、ある意味“悪徳”弁護士。特段、事故前の彼が特別にイヤな人間だったというと、パワフルで仕事熱心な人という印象しか無くて、弁護士の業務を考えると正常な。だけど、やっぱり一般人の感覚からすれば悪徳以外の何者でもない。そんな有能な悪魔がすべてを剥ぎ取られ、本来の人間性のみで行動する。

もちろん周囲は、社会的なポジションこそ“彼”であると捉えているわけだし、“悪魔”の彼の友人なわけだから、当然“悪魔”。「私たち友達なのよ…」と真実を聞きだしておきながら、「他では話さないことをお薦めするわ…」って、友達の鬼畜っぷりがスゴい。
反面、記憶を失ってからヘンリーが心を通わせるようになった人々の善良さが、彼の本性の美しさを証明する演出。

とはいえ、弁護士事務所の雇い主は、そんな彼を仕事に復帰させる。もちろん使い物にはならないのは承知で。すごい温情。しかし、その恩を仇で返すヘンリー。自分の過去の所業を知って、病院のミスの証拠を原告に渡してしまう。人間としては良いのかもしれないけど、良かろうが悪かろうが、過去の自分がやってしまったことなので、それはそれとして受け止めるべき事案。
この行いを、正しいと思えるか否かが、分かれ目だろう。あえて判断の分かれる行動を入れるという演出なのか、単に心を入れ替えた人間の善行として入れた演出なのか、ちょっと微妙なところ(後者なら、ちょっと浅はかな演出かも)。

その後、妻の秘密のすったもんだを経て、最後は、子供の未来を考えた行動をとるという展開。まあ、家庭内の問題なので、それはそれでいいんだけど、さっきの会社に対する背任行為をごまかしているような感じがしないでもない。

ただ、単純なお涙頂戴ではない点は評価したい。まあまあの内容。でも、邦題はNG。

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公開年:2006年
公開国:アメリカ
時 間:137分
監 督:トッド・フィールド
出 演:ケイト・ウィンスレット、パトリック・ウィルソン、ジェニファー・コネリー、ジャッキー・アール・ヘイリー、ノア・エメリッヒ、グレッグ・エデルマン、フィリス・サマーヴィル、ジェーン・アダムス、セイディー・ゴールドスタイン、タイ・シンプキンス、レイモンド・J・バリー、メアリー・B・マッキャン、トリニ・アルヴァラード、サラ・バクストン、トム・ペロッタ、ヘレン・ケアリー、マーシャ・ディートライン 他
受 賞:【2006年/第73回NY批評家協会賞】助演男優賞(ジャッキー・アール・ヘイリー)
コピー:心の中で、大人と子供が揺れている。幸せ探しの物語。

ボストン郊外の閑静な住宅街ウッドワード・コート。ビジネスマンの夫と3歳の娘と、ここに引っ越してきて間もない主婦サラ・ピアースは、“公園デビュー”するものの他の主婦連中といまいち馴染めずにいた。そんな主婦たちの話題の的となっていたのが、公園に息子をつれて訪れる一人の男性。彼女たちは彼を“プロム・キング”と読んでいた。彼の名はブラッド・アダムソンといい、ドキュメンタリー作家として成功している妻キャシーと暮らし、司法試験合格を目指しながら主夫をしているのだ。主婦連中たちは、サラに彼に話かけて連絡先を聞き出すようにけしかける。くだらないと思いつつも主婦連中たちを驚かせてやろうと、ブラッドとハグをしてキスをするように頼んで実行。その様子に驚いた主婦たちは慌てて公園から立ち去るのだった。しかし、はじめは単にふざけただけだったのに、両者はお互いのことが気になって仕方がなくなってしまうのだった。そんな中、性犯罪で服役していたロニー・マゴーヴィーという男が街に戻ってくることがわかり、街は騒然となり…というストーリー。

アメリカのリベラル層にウケの良さそうな作品の常連になりつつあるケイト・ウィンスレット。『おとなのけんか』『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』『ホリデイ』と、既存の夫婦関係、男女関係の形に不満を抱き、はみだしていく役柄が多い。一線を越えたら、歯止めが利かない激しさを見せるキャラクターばかりで、すこし食傷気味かも。ただ、微妙にだらしないボディと野暮ったさを漂わせても不快にならないという、絶妙な容姿が功を奏している。

はっきりいって不倫のお話なので、不快に感じて当然のはずなのに、頭ごなしに否定できないなにかが、このストーリーにはある。決して不倫肯定ではないし、こういう状況ならそうなっても仕方がないという、安易な擁護でもない。あの夫なら、イヤになっても仕方がないと思う反面、だからといって、他の妻子持ちの男に走っていいわけがないとも思う。適当に折り合いをつけるか、はっきり決着をつけるか…が正しいわけだが、とりあえず刹那的な関係と続ける。いい大人だけど、子供の行動。

相手のブラッドも、弁護士を目指して主婦しているんだけど、本人は本心ではやる気がない。でも、妻に養ってもらっている以上そんなことはいえない。で、勉強のために図書館にいってるはずなのに、ボーっと若者がスケボーやってるのを眺めていたりする。そんな無駄な時間を費やすくらいなら、はっきり妻にいって別の仕事も見つけるなり何なりするべき。でもそうしない。子供の行動。

そういう、子供な大人の話だけならば、なんてことのないストーリーなんだけど、その不倫話と平行して、任務中に誤って子供を殺害してしまった元警官のラリーが、性犯罪者ロニーに執着していく姿が描かれる。こっちは結構ヘビーでエグくて、過ちと償いについて焦点が当たっている。対立関係なのに、両者とも、。自分と社会との間に横たわる乖離と、どう折り合いをつけるべきなのかという問題を抱えている。
さらに両者の間に、ロニーの母親が絡んで、不穏な未来を予期させる。

母親はそんなロニーでも何とかなると信じている。しかし、ロニーがプールにいくと、そこにいた子供たちが全員プールから出てしまうというシーン。一応法的にはセーフなのでそこまで町ぐるみで忌避しなくても…と思うけど、間違いなく子供を観察するためにゴーグルとシュノーケルと持ってプールに突入しているロニーにはヒく。もう、彼の性的嗜好は抑えることは不可能。
一方、自分が死んだ後、この息子はやっていけないことを理解している。だから、お見合いさせようとする。もちろん子供にしか興味のないロニーはノリ気じゃない。ところが相手の女性がちょっと心を病んでいる感じ。なんで病んじゃってるのかな?その理由が判ると、ロニーのスイッチが入ってしまう。相手女性は幼い頃に性的暴行を受けていたのだ。すると、帰りの車で女性を見ながら自慰行為をする。もう救いようがない。このシーンで、猛烈な絶望感を覚えてしまった。どんな人間でも生きる価値があると彼の母はそう思っているであろうが、そんな建前はガツーンと破壊されてしまう。

ラスト、サラは逃避行のために約束の場所に。ブラッドも約束の場所に向かうが、なぜかスケボーしちゃう。なんでや。男は目先の興味に流される子供だということか。
サラは夫と再構築するのは困難だろうし、彼女が本当に求めているのは実はブラッドというわけでではない(別にブラッドじゃなくてもよいという意)。はたして、その後の彼女はどうなるのか?そこは描かれない。

一方のロニーは劇的行動に走る。それをこれまでの反感を超えてラリーが救出する。はたしてラリーは、実は二人に共通点があったことに気づいたのか。それもはっきりとは描かれない。

正直にいうと、何が言いたい作品なのか私にはピンときていない。でも、社会と折り合いを付けたくても付けられない苦悩みたいなものに、シンパシーを感じる作品ではあった。悪くない。ちょっとお薦め。
#サラのナレーションは不要。

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公開年:2006年
公開国:オーストラリア
時 間:99分
監 督:ムラーリ・K・タルリ
出 演:テリーサ・パーマー、ジョエル・マッケンジー、クレメンティーヌ・メラー、チャールズ・ベアード、サム・ハリス、フランク・スウィート、マルニ・スパイレイン 他
コピー:2時37分──そのとき孤独が世界を満たす。
それぞれに深い悩みを抱える10代たち──自ら命を絶つのはだれなのか?




放課後の高校。一人の女生徒が部屋の中から何がが倒れる音を聞き、その部屋のドアを開けようとするが鍵が閉まっている。呼びかけても返答がない。騒ぎを聞きつけた教師が鍵を壊して開けると、部屋の中には血溜りができていた。一体何があったのか。時間はその日の朝に戻る。成績優秀なマーカスは、弁護士の父を尊敬し自分も弁護士を目指しているが、常に両親からプレッシャーをかけられており、成績に一喜一憂し苦しんでいた。一方、彼の妹メロディはサッカー好きの普通の女子高生だったが、兄とは違い成績もよくない自分は、両親から愛されていないと思いこんでいた。スポーツマンで人気者のルークは、自分の力を鼓舞し、2人の友人と一緒に、弱いものイジメを繰り返していたが、そのターゲットは、体に障害を持つイギリスから転向してきたスティーブンと、ゲイであるとカミングアウトしたショーンだった。スティーブンは自分の体のことでこれ以上家族に心配をかけまいと、自分がイジメられていることを言うことができない。そしてショーンは、カミングアウトしてから両親からも見捨てられてしまっていた。家庭志向の強いサラは、ルークと付き合っており、卒業したら彼と結婚したいと考えていたが、ルークが自分に好意を持っていないような気がして仕方がなかった。6人の若者はそれぞれ苦悩していたが…というストーリー。
血で溢れている床。誰かが死んでいた模様。さて誰か…。人間ドラマというよりも、謎解きサスペンスである。それも編集・構成を駆使した仕掛け。
6人に対する、白黒映像のインタビュー。このインタビューが、“誰か”が死んだ後に行われたものなのか、それより前に撮られたものなのかはわからない。そりゃあ、死んだ後ならインタビューが存在するわけがない。でも、事件でもない限り、そんな深刻なインタビューを撮るシチュエーションなんかあるか? やっぱり、この中の誰かなのかな? そういうことも含めて、わからないようにして、色々考えさせる演出である。

6人がそれぞれ、結構重い問題を抱えているのだが、より深刻な人が、シフトしてく構成がおもしろい。もちろん深刻な人ほど、“誰か”の招待である可能性は高まるわけである。
(以下、ネタバレ)

おしっこ漏れちゃう人、ゲイの人、実はゲイだった人…。後から後から厳しい事情が判明してくる。でも、最後にとてつもないピンチに陥っていることわかる人がいて、完全に「こいつか~」となるわけだが…さて、“誰か”はそいつなのか。
で、最後に答え合わせになるのだが、「え?誰?」ってなって、頭から早送りして確認しなおしてしまったくらい。まあ、97%、当たらないだろう。思春期の不安定さを表現したいなら、演出的には正解だし、人の生き死にのドキドキと、予想外の驚きを与えたいなら、そっちの意味でも正解。派手さこそないが、よくまとまった作品だと思う。

ただ、シナリオ上、強くひっかかったのが、おしっこ漏れちゃう人。尿道が二本あって片方が制御できなくて、どうしても漏れちゃうという先天的な障害の持ち主。とてもかわいそうなんだけど、疑問なのが、“なぜ手術しないのか?”という点。2本あるんなら片方ふさげばいいだけじゃないか。難しい手術だとは思えない。そして、その障害を学校側が知らず、ただ漏らし癖のある人間だと思い、教師までもが蔑む状況。そんなことありえるか?そのことで学校でいじめられていることを家族には隠したいという感情はわかるのだが、それを家族が知らないとは考えにくく、放置していることが不自然。
もう、この1点の設定だけが、作品の質を落としていると思う。実におしい。

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プロフィール
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クボタカユキ
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映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
自己紹介:
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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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