[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
公開年:1987年
公開国:アメリカ
時 間:151分
監 督:スティーヴン・スピルバーグ
出 演:クリスチャン・ベイル、ジョン・マルコヴィッチ、ミランダ・リチャードソン、ナイジェル・ヘイヴァース、ジョー・パントリアーノ、ベン・スティラー、伊武雅刀、ガッツ石松、山田隆夫 他
受 賞:【1988年/第42回英国アカデミー賞】作曲賞(ジョン・ウィリアムズ)、撮影賞(アレン・ダヴィオー)、音響賞
1941年の上海。イギリス租界で生まれ育ったジェイミー少年は、学校の勉強よりも飛行機に夢中。日本とイギリスは開戦しており、日本軍はイギリス租界に迫ってきていたが、それでもジェイミーは日本の零戦に憧れており、零戦のパイロットになることを妄想していた。両親とともに仮装パーティに参加したジェイミーは、退屈になって会場を抜け出す近くの野原へ。そこには日本軍の一小隊が。日本軍の侵攻の手がすぐそばまで迫っていること実感し、ジェイミーの一家も上海からの脱出を決意するのだが、時すでに遅し。市街地に侵攻してきた日本軍の銃弾が飛び交いパニック状態になる中、ジェイミーは両親とはぐれてしまうのだった。命からがら自宅に戻ったジェイミーだったが、両親は戻ってこず、一人で家に残された僅かな食料で生き延びねばならなかった。その食料もすぐに尽き果て、街をさまようジェイミー。そんな彼をベイシーとフランクの2人のアメリカ人が助けるのだが、結局は彼らもジェイミーを売ろうとしていたのだ。家に金目のものがあるといって、売られることを避けたジェイミーは、2人を家まで連れて行く。しかし、既に家は日本軍に接収されており、出てきた日本兵に3人は捕まってしまい、収容所送りになってしまうのだった…というストーリー。
あの時代の租界という特殊な空間の雰囲気が、とても味わい深く表現されていると思う(もちろん実際の様子は知らないが)。それよりも、主演が、クリスチャン・ベイルだったことに気付き、驚いた。現在の彼の片鱗が、この時点でしっかりと見て取れる。冒頭から4年経ったとは思えないが、それは、スピルバーグの演出のせいであり、クリスチャン・ベイルの責任ではない。
#ベン・スティラーが、気をつけないと彼だとわからない。
本作は、イギリスの小説家バラードの体験が元になっているとのこと。原作と本作の描写が同じかどうかは不明だが、パールハーバーのころなので、この頃の中国は、国民党政府と共産党の間で内戦の真っ最中だし、上海以外の租界なんかはどんどん日本軍に押さえられている。
日本は、白人様の国々から不平等条約をやら経済ブロック化の餌食となり窮々とした状態。とどめのハルノートで開戦するしか道はなくなり開戦という流れである。
この頃の蒋介石政権は日独伊に宣戦布告。もちろんその後ろ盾はアメリカで、金も物資も供給されている。この頃から現在まで、アメリカが世界の燃焼促進剤であることは変わりがない。よく南京大虐殺といわれるが、何をもって“大”というかは脇に置くとしても、蒋介石の戦術はゲリラ戦法。軍事法規的にいえば、ゲリラ(民間人の格好をして市民に紛れた兵士)は殺されても、後で文句をいうことができない。戦争とは、統一したユニフォームをきたチーム戦で、観客が手をだしたら殺されても仕方がないというルールになっている。話は逸れるが、今、どこかの国が攻めてきて、他国軍が市街地を行進していたとする。それに対して、角材を振り回して殴りかかって、逆に殺されたとしても、あとで賠償を求めることはできない。非戦闘員の格好で攻撃を仕掛けたゲリラという扱いになるから。ちなみに、軍服とか統一した制服を着ていないと、捕虜になることもできない。
だから、本作の説明で、ジェイミーが捕虜になった…と書かれているものがあるのだが、市民が捕虜になることはありえない。彼らはあくまで収容されたのである。
何が言いたいかというと、子供の主人公の目を通した社会を描いていることが、事実考証的になにか不自然に感じられることの免罪符になっているな…ということ。だから、収容所内部の話ばかりで、パールハーバーと原爆投下以外の軍事的なイベントは語られない。
スピルバーグの意向なのかも知れないが、まったくもって日本軍が悪者として描かれていない。伊武雅刀演じる軍曹が、主要された市民に対して暴力を振るうシーンがあるのだが、癇癪もちのおっさん程度にしか描かれておらず、そういう傍若無人な振る舞いの後にも、ちょっとした人間らしい行動がワンセットで表現されていたりする。
#しかし、こういう演出がアメリカ人には不満に映った模様(まあ、奴らの感覚じゃ、理解は無理だわな)。
これは、一人の少年が生き抜くために、何をしてきたか、“人間”の何を見てきたか、どう変っていくのか…という部分に焦点を当てたいのであり、改めて戦争の裁きを行うためのものではないのだ、ということなんだと思う。逆に言えば、きちんと考証して、実は、中共がいうような大虐殺やそれに準じる残酷な行為などが、常態的に行われいたわけではない…という結果に至ったがゆえの演出方針というわけではない。
そういうノリを見切ってしまうと、うそ臭い描写も許容できるようになってくる。日本軍を真正面から悪者として描いていないからといって、日本描写が正しいわけでもない。ジェイミーの家にいた日本兵のシルク生地の浴衣みたいなのをきて、ねじり鉢巻の兵士集団とか(何のパーティやねん)。蘇州の収容所が、何やら巨大なスタジアムに見えたのだか、あんなもん当時存在したのか?とか。本当に蘇州の収容所に特攻隊がいたのか?とか。
蘇州の収容所に入ると、一般市民を強制労働させるくだりがある。そんなことをやったんならC項戦犯に該当するのだが、原作が体験小説ということを考えると、ある意味“告発”であり、かなり重い演出だと思う。しかし、そのシーンだけでその後、そんなシーンは出てこない。脚本家が事柄の重さを認識せずに、軽くさしはさんでしまったのかもしれない。
極めつけは、800㎞先の原爆の光が見えるたってところだろう。少なくとも、あんな形の光が見えることは、あり得ない。ただ、バラードが何か光るものを見たのは否定できない。原爆が上空の電離層に影響を与えて、光を見せたことはありうるから。でも、スピルバーグをはじめ、スタッフはその辺はよくわかっていなかった模様。まるでそう遠くないところに原爆が落ちたような(長崎と上海がものすごく近いよな)感じ。なにもしらない欧米人はこのシーンを見て、信じる人もいただろう、そんなわきゃないと思っている我々は、幻を見た…っていうシーンだと思うわけである。
過酷な現実の中で、子供らしさどころか人間らしさまで失ってしまうという展開なので、娯楽作品といってしまうと怒られそうなのだが、壮大なアドベンチャーであり、グローイングアップムービーだと思う。佳作。
公開年:2006年
公開国:カナダ、アメリカ
時 間:83分
監 督:グレッグ・ハミルトン
出 演:グレッグ・ハミルトン 他
ミャンマーで1500年の歴史を持つ伝統競技“チンロン”。籐製のボールを数々の足技を駆使して蹴りあうという、フリースタイル・フットボールに似た競技。チンロンに魅せられたカナダ人音楽家グレッグ・ハミルトンは、独学でチンロンの練習を重ねるが、とうとう我慢できなくなり、ミャンマーを訪れる。本場のテクニックはあまりにも高度で、独学で得たテクニックはまるで通用しなかったが、その後、何年もミャンマーを訪れるのだった。黒人と白人のハーフとして生まれたグレッグは、両親の離婚後施設で育てられ、家族の温かみを知らなかったが、チンロンのトレーニングを通して、ミャンマーの人たちとの間に家族愛にも似た感覚を覚えるようになる。やがてグレッグは、チンロンの上級チームのメンバーとして活躍することを夢見はじめ…というストーリー。
セパタクローかな?と思ったのだが、ああいうゲーム性は皆無。輪になった6人が、延々と玉を蹴り続ける。何をもって“競技”とするか?だが、何と勝ち負けがないというのだから、これは競技とはいいがたい。
日本の蹴鞠なんかと同じルーツを持つものだと思うが、行事的だったり、様式美を追求する方向には発展していない。技の数は200以上もあるそうで、いずれも格闘技ばりの超絶技巧を必要とするので、舞踏とはいい難い。掴みどころがないなぁ…と思っていると、その第一の魅力として、プレーしていうちにトランス状態にも似た感覚になるとのこと。ミャンマー人のインタビューにおいても、日常の雑事をすべて忘れて没頭できるのだという。集中の具合と、肉体の使い方と、独特のリズムのせいで、脳内麻薬出まくりなんだろうね。玉を蹴る時に生じる独特の音も、一役買っていると思う(なかなか心地よい)。もう、チンロンはチンロンだ…と思うしかない。
本当に、子供から老人までみんながプレーしてる。プレイヤーには女性もいて、一緒にプレーしている。ものすごくポピュラー。
監督も製作もグレッグ本人。最低限のスタッフだけで撮影していると思うだが、その後の映像処理…といっても静止画のコラージュ程度の処理なのだが、これがなかなか効果的。チンロンの技巧以外の部分にも、見入ってしまう何かがある。本作のカメラマンは、地味にウマいと思う。
もうちょっと技の解説をすべきだったとは思う。そういう解説的な側面、特に競技としてのチンロンに興味を沸かせるには、必要だろう。本作では、グレッグが覚えようと苦労する2,3の技の解説しかしていない。もっと技を体系づけて説明したほうがよい。それもこれも、監督のグレッグ自身が、狂ったようにハマってしまっており、その楽しさを伝えようとはしているが、冷静になれていないためだと思う。客観視できる、別の監督が必要だったのかも。
とはいえ、チンロンに没頭していく様子はよく伝わってきた。その“トランス状態”の一端は感じることができたと思う。本当にユニークなドキュメント作品だった。あ、でも、一切オチはないよ。グレッグがんばれー!って感じでもないし、ただただ、異国の文化を垣間見る愉しさがそこにある。
公開年:1996年
公開国:アメリカ
時 間:95分
監 督:ジョー・ライト
出 演:ジム・キャリー、マシュー・ブロデリック、レスリー・マン、ジャック・ブラック、ジョージ・シーガル、ダイアン・ベイカー、ベン・スティラー、エリック・ロバーツ、エイミー・スティラー 他
受 賞:【1997年/第6回MTVムービー・アワード】コメディ演技賞(ジム・キャリー)、悪役賞(ジム・キャリー)
不動産会社に勤めるスティーブンは、同棲していた恋人ロビンと仲違いしてしまい、新しくアパートを借りるハメに。ケーブルテレビの加入申し込みをしたのだが、設置工事が約束の時間にやってこない。約束の時間から4時間もたって“ケーブルガイ”がやってきたが、そいつが妙に馴れ馴れしくて奇行を繰り返す。普通じゃないと思いつつも、タダで全チャンネルを見られるようにしてくれたので、お人好のスティーブンは彼の言いなりになってしまう。しかし、“アニー・ダグラス”と名乗るケーブルガイは、留守番電話にびっしりとメッセージを残したり、スティーブンが仲間とバスケットを楽しんでいる所に突然乱入してきたり、ロビンとヨリを戻そうと新居に招いていい感じになっているところに押しかけてきたりと、つきまといはじめ…というストーリー。
巻き込まれ系のドタバタコメディ…と思いきや、早々にサイコスリラーに変貌する。ジム・キャリーの演技は、本当に怖いし、かなりイライラする。いや、それが狙いの作品だから正しいんだけど、年齢を重ねてくるとこういうイライラが苦痛になってくるね。
実は、あまりプロットに緩急がない作品。ケーブルガイの攻撃が連続する構成で、それがどんどん蓄積されていって、最後に爆発するという展開。ケーブル番組をタダ見させて恩を着せるっていう手口なのだが、彼にとって何の元手も必要ない。犯罪の設定として、以外とよくできていると思う。
さて、彼の目的は何なのか?サイコパスなのはわかるし、原因が母からの愛の欠如が原因だといいたいのは判る。判るんだけどピンとこない。求めているのは母の愛だとして、何で男性に付きまとうの? 女性へのストーキングに偏りそうなもんだけどなぁ。
そういう疑問が湧くのだが、そこから目を逸らせてくれるのが、ベン・スティラー演じる元・子役の裁判のニュース。これが後の話にどう関わってくるのかな?という意識が、ユニークな味付けを生んでいると思う。
サイコスリラーで終わるのかと思いきや、最後に、急激に社会性の強いメッセージをぶち込んでくる。そして、そこに冒頭から延々と挟んできたベン・スティラーのくだりを絡めてくる。なかなかやってくれるシナリオだと思う。逆にいえば、もっとがっぷりと絡めてくるのかと思いきや、いい肩透かし(まあ、監督の顔出しとしてはこの程度が正しいけど)。
ケーブルガイが弁護士に扮してやってくるシーンであることに気付く。『フィリップ、きみを愛してる!』のキャラクターをかなりダブってる。『フィリップ、きみを愛してる!』が評価されないのは、既視感に影響があるのかもしれない。
すごくデキがよいんだけど、また観たい作品かというと、絶対にそうは思わない作品(実は、大昔に観た時も、途中で止めていたような気がする)。いや、本当に疲れるくらい怖いと思うもの。
公開年:1974年
公開国:アメリカ
時 間:112分
監 督:サム・ペキンパー
出 演:ウォーレン・オーツ、イセラ・ベガ、ギグ・ヤング、ロバート・ウェッバー、エミリオ・フェルナンデス、クリス・クリストファーソン、ヘルムート・ダンティーネ 他
コピー:百万ドルが 俺を動かしたのか! その首が俺を走らせたのか! 25人の命を血に染めて 愛と暴力に散った ベニーの生きざま
メキシコの大地主エル・イェフェは、娘のテレサを妊娠させたのがアルフレッド・ガルシアであることを知り、その首に100万ドルのの懸賞金をかけるのだった。同時に部下のマックスをメキシコ・シティに派遣して、殺し屋のクイルやサペンスリーにガルシアの居場所を探らせるのだった。場末のバーでピアノ弾きをしているベニーは、ガルシアを探し回っている彼らの話から、儲け話の臭いを嗅ぎ取る。ガルシアのことは知っていたが、知らぬ振りをしたベニーには、心当たりがあった。自分の情婦エリータがガルシアと会っていたのではないか?と疑っていたのだ。エリータを問い詰めると、案の定浮気をしていたことが発覚。開き直ったエリータは、ガルシアが別れた直後に車に轢かれて死んだこと、そして既に故郷の墓場に埋葬済であることを白状するのだった。浮気の事は腹立たしいが、まとまった金で人生をやり直したいと考えていたベニーは、埋葬されているガルシアの首を掘るだけで、楽に金が手に入ると考えた。ベニーはマックスを訪ね、ガルシアの首を1万ドルで渡す約束を交わすのだった。ベニーは、ガルシアの埋葬場所を知っているエリータを無理矢理連れて、墓場を目指すのだったが…というストーリー。
その死体になった男と、自分の情婦が寝てたっつーのに、ブチ切れるでもなく、一緒のベッドで寝るベニー。いくら、彼女しか埋葬場所を知らないといっても、呑気にいつもどおりに一緒に寝ている場合じゃないよ。さらに、股間のしらみのかゆさで目覚めるベニー。「シーツを替えとけ!」と怒るが、シーツのしらみじゃないよ、それ。
エリータは、ベニーとの結婚を夢見る女…みたいな描写が入るのだが。バイカーにレイプさせられそうになったとき、私が我慢すれば…とか悲劇を装いつつ、結構受け入れちゃってるという、クソっぷり。
ベニーはベニーで、教会にいこうっていっても後で…でごまかすばかりだし、墓は下に戻すっていうくせに、絶対に現状回復できないくらい乱暴に掘ってるし。金さえあれば…、今までは運がなかっただけ…と、人生の一発逆転を狙う基本ダメ人間なのね。
娘の妊娠にブチ切れる地主のおっさんは、それでも倫理観に溢れた人間なのかも…と思いきや、殺し屋派遣するわけだし、登場人物全員が、不道徳、不倫理なのばっかり。そういう、下卑た人間たちの受け入れがたい姿を観ることを強いる作品で、実にペキンパーらしい。スローモーションのシーンとか、独特の乱射シーンとか、彼らしい演出も盛りだくさん。
(ちょっとネタバレ)
もう彼女との幸せな未来は無くなってしまう…という展開に。でも、大金を掴むという目的に向かって首を運び続ける男。でも、エリータの影がずっと付きまとうようになってしまう。
何でドライアイスに水をかけるのか?とか、かごを大事にしてるのかと思ったら、自分で蓋へっぱがしちゃうとか、なんじゃそりゃ?っていう行動が散見されるが、そこはベニーがちょっとアホだっていう描写だと思うことにする。
散々苦労した挙句に、ベニーが金を受け取らなかった理由はなんなのか。首はいらんといわれたのだから、金も首ももってかえって、もう一回丁重に葬ればよろしい。その後、自滅状態で、結局、葬ることもできないという無策っぷり。
女が死んだのは、こんなくだらない依頼をいたやつが悪い!という考えに転換した瞬間が、大事なはず。追っ手2人を殺したときは、まだ、金と首を交換しようとしていた。つまり、気が変ったのはその後ということになる。こんなに大勢の人間が死んだ。一体誰の目論見でこうなっちまんたんだ。そいつが悪い!ってね。その変化した瞬間が、演技で伝わってこないのが、本作の唯一の難点だと思う。
そこがはっきり表現できていないもんだから、ホテルで真の依頼主を探る場面も、こいつらは1万ドルを俺にくれようとしているけど、もっと貰うに違いない!という考えで、依頼主を探そうとしているように見えてしまう。そこがあやふやだから、最後の最後になって突然に金はいらねえ!とかいい始めたように見えちゃうから、観客は「はぁ?」となるのではなかろうか。つまり、主演のウォーレン・オーツの演技がいまいちだってことかな。
まあ、ちょっと難はあるんだけど、破滅的・退廃的な雰囲気がプンプン漂う良い映画だと思う(まあ、賞レースからは、当然の埒外だけど)。
公開年:1992年
公開国:アメリカ
時 間:132分
監 督:アレックス・デ・ラ・イグレシア
出 演:カルロス・アレセス、アントニオ・デ・ラ・トレ、カロリーナ・バング、マヌエル・タリャフェ、アレハンドロ・テヘリア、エンリケ・ビレン 他
受 賞:【2010年/第67回ヴェネチア国際映画祭】銀獅子賞(アレックス・デ・ラ・イグレシア)、脚本賞(アレックス・デ・ラ・イグレシア)
1937年、スペイン内戦時。ハビエル少年の父は人気道化師だったが、公演中、政府軍に強制的に従軍させられ反乱軍と戦うハメに。ピエロの姿のまま鉈を振り回し、一小隊を全滅させるほどの大活躍を見せたが、力尽きて反乱軍の捕虜となってしまう。その後、ハビエルは、強制労働させられている父を救出しようとするが、失敗し、父を殺してしまう。心に傷を追ったハビエルは、父の言いつけ通りに“泣き虫ピエロ”となし、冴えない人生を送っていた。ある日彼は、人気道化師セルヒオ率いるサーカス団に入ることに。セルヒオは団の絶対支配者で、団員を服従させていたが、彼の人気によってサーカスが運営できている事実と、あまりの狂暴さ故に誰一人逆らうものはいなかった。ある時、セルヒオが団員兼愛人のナタリアに暴力を振るっている場面を目撃。ハビエルが彼女を介抱すると、2人の仲は急激に深まっていく。それに感づいたセルヒオは、嫉妬からなのかますます暴力を振るうようになり…というストーリー。
フランコ軍が大暴れする内戦時に、巻き込まれるピエロ。それが、ピエロの扮装のまま大鉈をブンブン振り回し、バッタバッタと反乱軍をなぎ倒していくというクレイジーな姿にしびれさせてもらった。これは面白いかも!と思ったのも束の間、内戦時代の話はスルっとおしまい。ハビエル少年がおっさんになった後に、時間が急激に進む。
暴君が支配するサーカス団と、純朴なおっさんハビエルの間の不協和音をずーっと聞き続けるような展開。その不協和音の発生元は愛人ナタリア。セルヒオに支配されてるのかな?と思いきや、実は暴力を振るわれながら犯されるのが、嫌いじゃない女。ただ、普段はあまりに暴力的すぎてうんざりしてるもんだから、物腰の柔らかくて何でも言うことを聞いてくれるハビエルと一緒にいるのも気分がいいな…と。うまいこと両方と付き合おうとしているクソ女。
もちろん、純朴おっさんのハビエルが、そんなことに気付くはずもなく、セルヒオと別れるべきだ!と真剣に考えちゃう。
そこからハビエルは暴走しはじめて、セルヒオを襲撃し瀕死の重傷を負わせてしまい、そのまま逃走。つっ裸で森に逃げ込み野人のような生活を送るという謎の展開に。ここで彼は気が狂ってしまった模様。一方のセルヒオも、命は落とさなかったものの二た目と見られない顔になってしまい、もちろんまともにピエロをやることも敵わず、こちらはこちらで凶暴性を増していく。なんつータイトルの作品だ…と思っていたのだが、本当にタイトル通り、2人にピエロが狂ってしまい、最後に決闘するという内容なのだ。
その後、両者はクレイジー度を増していくのだが、思い出したように、反乱勢力(元政府軍なのかな?あまりスペイン史に詳しくないし時代が微妙だからなんともわからん)が登場。内戦当時のハビエルの父を知っている人間とかが出てくる。私がこれは面白いと思った内戦時のエピソードは、単にハビエルが、父の狂気を引き継いでいるのだ!という設定のためだけだった模様(なんという無駄というか中途半端な演出だろう)。
特にハビエルの狂気は突き抜けてしまい。顔に刃物や熱したアイロンで傷とつけて“泣き虫ピエロ”を刻み、銃を乱射しながら街に繰り出すという展開に。この辺から話がぐちゃぐちゃになっていく。
最後には決闘するわけだが、いつのまにナタリアは、体に布をあんなにグルグル巻きにしていていたのか?とか、あのバイクのターボの人の行動に意味があったのか?単なる笑い要素だとしたら、あまりにスベってはいないか?という、大きな疑問を湧かせるオチに。
これがヴェネチア国際映画祭の脚本賞なんだよね。もうちょっとヨーロッパ史とかバックボーンが把握できていれば、ピンとくるものがあるんだろうか?
公開年:1992年
公開国:アメリカ
時 間:132分
監 督:デヴィッド・セルツァー
出 演:マイケル・ダグラス、メラニー・グリフィス、ジョン・ギールグッド、リーアム・ニーソン、ジョエリー・リチャードソン、フランシス・ギナン、パトリック・ウィンチュウスキー、シルヴィア・シムズ、シーラ・アレン 他
受 賞:【1992年/第13回ラジー賞】ワースト作品賞、ワースト主演女優賞(メラニー・グリフィス)、ワースト監督賞(デヴィッド・セルツァー)、ワースト脚本賞(デヴィッド・セルツァー)
コピー:生きるために、愛。輝くために、勇気。戦火と悲しみの壮大なロマンの中で、今、男と女が燃えあがる。
1940年、ニューヨーク。第二次世界大戦の中、アメリカも参戦すべしという世論が強まっていた。ユダヤ系ドイツ人の父とアイルランド人の母の間に生まれたリンダは、ドイツ語ができたことから、弁護士リーランドの事務所に秘書として採用される。しかし、リーランドは数週間事務所を空けたり、不自然な口述筆記をさせるなど、弁護士らしからぬ行動をしていたため、勘の鋭いリンダは、彼を諜報部員だと見抜くのだった。秘密を共有した二人は、やがて上司と秘書という関係を超えて惹かれあうようになる。しかし、アメリカが参戦を決定。リーランドは米軍戦略事務局の大佐という本来の姿で、ヨーロッパ戦線に派遣される。自分の帰りは待つな…と言い残し旅立つリーランド。リンダはそのまま通信傍受の組織で働きながら、軍の通信の中からリーランドの情報を探し、彼の無事を祈る日々を繰り返すのだった。それから半年、帰国したリーランドと再会するリンダ。リーランドは、ドイツに潜伏させていた諜報員が殺害されたことから、新たな諜報員を選出して送り込む任務を担っていた。それを聞いたリンダは、ドイツにいる叔母一家を救い出すチャンスと考え、自ら志願するのだった…というストーリー。
ラジー賞のオンパレードだが、まったくバカにされるような出来映えではないと思う。意味不明。本作は面白いと思う。映画好きな女性が、その知識を発揮してスパイになっちゃうとか、スパイの上司と恋仲になっちゃうとか、メロドラマというか、まるでハーレクイーン小説だ。正直言って、本作のメラニー・グリフィスは美しいとはいい難い。もしかすると、女性は感情移入しにくかったりするのかもしれないが、まっすぐな性格とか、折れない心の持ち主であることは、うまく表れているのではなかろうか。さほど器量の良くない女性が、地位のある男性に大事にされながらも、お転婆を発揮して危険に飛び込んでいき、やっぱいピンチになる。だけど、男はそんなお転婆さんを見捨てることなく救いにくいる展開は、女心をくすぐる要素満載。これが、都合のよいプロットであることは認める。しかし、それは悪いことだろうか。映画とはそういう創作物なのではないのだろうか?
#ちなみに彼女は、現在アントニオ・バンデラスの嫁である。
老女のインタビューから始まる冒頭。もちろん彼女は主人公の後の姿である。ということは、彼女は絶対に死なない…ということが明白なわけで、それじゃサスペンスとして成立しないじゃないか!というツッコミもあるだろう。この後、彼女がいくらピンチになろうとも、絶対に死ぬことはない…それどことか長生きしちゃうんでしょ(笑)。だが、見せたいのそこじゃないのだ。ただ、舞台がナチスドイツであり、かつユダヤ迫害を扱っていることから、シリアスに受け止められてしまったのだと思う。あまりにもフィクションすぎる展開に、アンマッチさや不謹慎さすら感じた人がいたかもしれない。しかし、その先入観をとっぱらえば、ただの素人女性が、邦題のとおりに嵐のなかで輝いていく様子を十分に愉しめるはずだ。
どんどん、ヤバいところに足を踏み入れていく主人公。ただ無茶をするというだけでなく、常に、作戦に期限が切られているという設定も秀逸。適度な緊張感を醸成していると思う。もちろんその期限はギリギリのところで守られることはなく、次のヤバいところに踏み入れることに繋がる。
コメディと捉える人もいそうなくらいマンガで、まるで韓国ドラマかよ!ってところもあるのだが、肩の力を抜いて鑑賞すれば絶対に愉しめるハズ。ラジー賞のことは気にせずに観てほしい一作。
#このレベルの作品を平気で貶すセンスだから、私は常々、ラジー賞に存在意義など無い!と主張しているのだ。的外れな上に、微塵の愛も感じない否定など罪悪でしかない。
公開年:1988年
公開国:アメリカ
時 間:173分
監 督:フィリップ・カウフマン
出 演:ダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ、レナ・オリン、デレク・デ・リント、エルランド・ヨセフソン、パヴェル・ランドフスキー、ドナルド・モファット、ステラン・スカルスガルド 他
受 賞:【1988年/第23回全米批評家協会賞】作品賞、監督賞(フィリップ・カウフマン)
【1988年/第42回英国アカデミー賞】脚色賞(ジャン=クロード・カリエール、フィリップ・カウフマン)
【1988年/第4回インディペンデント・スピリット賞】撮影賞(スヴェン・ニクヴィスト)
1968年のプラハ。トマシュは大変有能な脳外科医だったが、女性にはだらしなく、画家のサビーナら多くの女性と交際する奔放な独身生活を謳歌していた。ある日、出張で訪れた郊外のカフェでウェートレスのテレーザと出会う。テレーザもトマシュを一目で気に入り、彼の家へ押しかけていき、そのまま、男女の関係となり同棲生活が始まる。トマシュとテレーザは、カメラが趣味のテレーザに写真家の仕事を紹介するのだったが、一方でトマシュとテレーザの関係も継続していた。やがてトマシュとテレーザは結婚するのだが、テレーザは常に他の女の影を感じ苦しみ続ける。その苦しみが頂点に達した頃、ソ連がチェコに軍事介入。テレーザはソ連軍の民衆弾圧の様子をカメラに収め続け、自由を訴え続けるのだったが、ソ連軍の弾圧は強まる一方。同様に、職場での自由な振る舞いを病めないトマシュへの風当たりは強くなり、居場所を失った二人は、一足先に亡命していたサビーナを頼って、スイス・ジュネーブへと逃避する。そこで、テレーザはカメラマンの職を得るが、トマシュは医者になることができずペンキ職人となる。そんな状況でも彼の女癖は変わりなく、またもやテレーザを悩ませることに。耐えられなくなった彼女は、手紙を残しプラハへ戻るのだった…といストーリー。
『ライトスタッフ』の監督だが、同様に本作も長い。はじめは、単なるエロ映画である。ちょっとアプローチすりゃあ簡単に女がなびき、相手も遊び以上の何かを求めるわけじゃないのだから、そりゃあそんな生活になる。とにかく、複数の女性と絡み合う描写のオンパレードである。正直、乳と陰毛ばっかりで
胸焼けしそうになる。
そんな中、いままで付き合ってきたのとは違うタイプの女性に出会う。とはいえ、テレーザもトマシュの魅力に簡単にやられてしまうわけで、女性としては大差ないのだが、“普通”の感覚なので、相手が女遊びを止めなければそりゃあ苦しむ。他の女性と何が違うかって、距離感が違う。あれだけプレイボーイ三昧のくせに、懐に入られてしまったものだから、あっさりと結婚してしまう。
トマシュはものすごくだらしない男に映るが、見方を変えれば、“性”と“愛”の混同を一切しない人間だともいえるわけで、もしかすると逆に清い人間なのかも…と思えてくる(もちろん世間がそういう見方をしてくれることはないわけだが…)。
あぁ、こんな男女のごちゃごちゃを延々と見せられるのか…とうんざりしかけたところで、ドンパチがはじまる。何の予備知識もなしに見始めたもので、本作がプラハの春を舞台にした作品であることを知らなかった。急にストーリーが締まってくる。
舞台が変ると、今度はテレーザが奔放さを発揮する。カメラマンとしてソ連の暴挙を撮影し、西欧のメディアに流し続ける。トマシュも政府の姿勢には元々批判的だったので、理解できなくはないのだが、なんでそこまで正面きって危険を冒すのかまでは理解しきれない。
そんなレジスタンス的な活動にも限界がきて、ジュネーブへ逃げるわけだが、そうなるとまたもやトマシュのターンである。その後はこの応酬の繰り返しである。
最後は破滅的な終わり方をしたわけだが、それは便宜上、話を終結するための方便みたいなもので、たいした重要ではないと私は考える。問題は、自分も相手の気持ちをわかろうとするために浮気をしてその罪悪感に苛まれた後、田舎暮らしをはじめた結果、はたして彼らは幸せを得たのか?という点である。他にめぼしい女性のいない田舎なので浮気のしようがない。政治とも無縁。そんな仏門に入ったような状態で得られた安穏は、天国なのか地獄なのか。欲求に正直という意味でピュアな二人の行く末は、破滅しかないのだ…という解釈だと、ちょっと悲しいな。
いやあ、わたしには難しい作品だったな。
公開年:1986年
公開国:アメリカ
時 間:103分
監 督:ジョン・ヒューズ
出 演:マシュー・ブロデリック、アラン・ラック、ミア・サラ、ジェニファー・グレイ、ジェフリー・ジョーンズ、ヴァージニア・ケイパーズ、クリスティ・スワンソン、リチャード・エドソン、チャーリー・シーン、マックス・パーリック 他
ノミネート:【1986年/第44回ゴールデン・グローブ】男優賞[コメディ/ミュージカル](マシュー・ブロデリック)
サボりの常習犯である高校生のフェリス。その日はテストだったが仮病でズル休みして、遊びに行くことに。姉ジニーは、そんな見え見えのウソに騙される両親に呆れると共に、自分には厳しくあたることを腹立たしく感じていた。休んでばかりで出席日数不足で卒業ができなくなりそうなものだが、フェリスは会社のコンピュータをハッキングして欠席日数のデータを改竄していたのだ。それに気付いたルーニー校長は激怒し、フェリスがズル休みしている証拠を掴み、留年させてやろうと躍起になるのだった。そんなことはつゆ知らず、病欠中の親友キャメロンを誘って、彼の父親が大事にしているフェラーリに乗って出発。さらに学校に親族が死んだとウソの電話をかけて、ガールフレンドのスローアンを呼び出すことにも成功。3人は、街に繰り出すのだったが…というストーリー。
フランス映画の邦題みたいな格好良さだが、高校生がサボって冒険する一日を描いたコメディで、サボりの常習だから、別に“突然”でもなんでもなくて、内容とはマッチしていない、何となくな題名。
悪い内容ではないのだが、好みではない…これに尽きる。この監督さんは、その後、『大災難P.T.A.』『ホーム・アローン』『34丁目の奇跡』を手掛けており、どちらかと言えば大好物の部類なのだが、本作はいまいちズレている。
まず、観客にメタ目線を向ける演出が好みではない。いや、この手法がNGというよりも、中途半端。心の声の表現ならば、もっとはっきりと効果的に使えばよい。
弟は何でもウマイことやって、私はまったく相手にされない…っていう姉ジニーのポジションもピンとこない。何なのか?本当にフェリスは好き勝手し放題。ちょっとしたピンチはあるのだが、基本的にすべてが都合よくまわっていく。この主人公の姿は面白いだろうか? むしろ頭から最後まで何の変化も無いフェリスは“背景”であって、真の主人公はジニーとキャメロンにすべきだと思う。しかし、ジニーとキャメロンにはスポットを当てきれていない。キャメロンが親離れを決意するとか、ジニーがボーイフレンドを見つけて開眼する…とか、その程度では描写が不足。もっと先まで描くべきだったと思う。ジョン・ヒューズは、何を見せるべきなのか、誤ったと思う。
別の例をあげれば、『トムとジェリー』のジェリーが無双すぎるようなものだ。10分ならおもしろいかもしれないが、それ以上は飽きる。せめて、最後はスローアンからフラれてしまって、そこから調子がくるって大ピンチになる…なんていう展開にするところだが、微塵もなし。
ただ、後の作品の萌芽がはっきり見て取れる。ルーニー校長がフェリスの家に侵入しようとするすったもんだは、『ホーム・アローン』の以外の何者でない。フェリスはなんでもうまくいってしまうが、それの完全に間逆が『大災難P.T.A.』だ。
後の作品のこと考えれば、好意的に観ることはできなくはない…が、やはり好みじゃないかな。
#最後の、校長がスクールバスに乗るシーンも、いまいちオチていないし。
公開年:1967年
公開国:日本
時 間:80分
監 督:円谷一
出 演:小林昭二、黒部進、桜井浩子、石井伊吉、二瓶正也、津沢彰秀、布地由起江、荒垣輝雄、平田昭彦、藤田進、松本朝夫、富田浩太郎、稲吉千春、加藤勉、鈴木邦夫 他
科学特捜隊日本支部のハヤタ隊員は、パトロール中に赤い光球と青い光球を発見し、それらを追尾したが、赤い光球に接触してしまい墜落してしまう。重態となったハヤタの意識に、謎の生命体が話しかける。彼はM78星雲人と名乗り、正義の心を持つハヤタの命を奪うこととなってしまったことを悔いていた。そして、そのお詫びとして自分の生命を与え、一心同体となるといい消えていくのだった。その頃、科学特捜隊の他のメンバーはハヤタを捜索にきていたが、青い玉の正体である宇宙怪獣ベムラーが出現。ハヤタはM78星雲人から得た知識をもとに、ベムラーの探査を指示。科学特捜隊は総力を挙げてベムラーを対峙するのだった。その後、地球には数々の怪獣が出現するようになり…というストーリー。
謝罪するウルトラマンのペコリはちょっとかわいい。ハヤタ隊員からすればいい迷惑な話で、ウルトラマンはとにかく平謝りせねばならないところなのだが、色々説明している時にフフフとか笑っちゃう不謹慎っぷり。ウルトラマンはなかなかのKYっぷりを見せてくれる。
昔はTV放送をそのまま上映するブローアップ版が多かった。本作もTV放送分のフィルムをまとめたものなのだが、ちょっと工夫が施されている。
まず、驚くべきことに、初めて地球に出現した怪獣ベムラーをウルトラマンが倒すのではなく、科学特捜隊が倒すという設定に替わっており、これがなかなか新鮮。最終回のゼットンは、科学特捜隊が倒すという展開なのだが、その萌芽はここのあるのかもしれない。
また、半分くらいまでウルトラマンに変身しないという構成。それも初仕事のレッドキング戦は、科特隊のメンバーは見ていない。はじめて人間がウルトラマンを見るのが、2/3経過したゴモラ戦であり、一本の映画として成立するように、腐心している様子が伺える。
#さすがにAタイプからBタイプに替わってしまうのは仕方がないか…。
ただ、一点だけ残念なことがあって、大阪でゴモラと初対決するウルトラマンを見て、子供がウルトラマンを認識しているのだ。まあ、TV放送を前提に考えれば不自然でもなんでもないのだが、せっかくオリジナル的な構成できているのだから、むしろ本劇中では、“ウルトラマン”という単語を使わなくてもよいくらいだ。子供は偶然βカプセルを拾って、それを届けるだけで十分だったと思う。
…ということからも判る通り、終盤はちょっとダレてしまい、コンセプトを貫き通せていないが残念。完遂していたら特撮史に輝く作品になっていたと思うのだが…。
公開年:1994年
公開国:アメリカ
時 間:93分
監 督:ケヴィン・スミス
出 演:ブライアン・オハローラン、マリリン・ギリオッティ、リサ・スプーノアー、ジェフ・アンダーソン、ケヴィン・スミス、ジェイソン・ミューズ、スコット・モシャー、スコット・シャッフォ、アル・バーコウィッツ 他
受 賞:【1994年/第47回カンヌ国際映画祭】ユース賞[海外作品](ケヴィン・スミス)
ニュージャージー州のコンビニエンス・ストア“クイックストップ”で働く青年ダンテ・ヒックス。21歳の彼は、とある出来事でやる気を無くし、大学を休学している。ある日、休みのはずなのに、朝6時から店長の電話で叩き起こされ、休みを返上して働くハメに。その日は、友人たちと丸一日ホッケーをするはずだったのに。おまけに、その日はまるで厄日のようで、禁煙団体が抗議に訪れたり、恋人ベロニカの性癖を知ってしまったり、高校時代の恋人ケイトリンの婚約記事を見つけてしまったり、友人の葬式でエラいことになったり、子供にタバコを売った容疑をかけられて罰金を命ぜられたり…。隣のレンタルビデオ店で働くランダルは、何度も店を抜け出して遊びにきては大騒ぎをする始末。すっかり疲れきったところに、結婚するという記事が載った昔の恋人が店にやってきて…というストーリー。
ちょっと変な言い方かもしれないけど、映画のデビュー作ってこんな感じで撮ればいいんだよな…ていうお手本のような作品。店員の卑近な日常を題材にして、うまく膨らませているシナリオだ。決して痛快でもないし、問題作でもないし、コメディなのに大爆笑させられるわけでもないが、気負いすぎずに一本作り上げるというのが大事なんだと思う。
#リュック・ベッソンは、同じような長編デビュー作を白黒作品で撮ったわけだが(『最後の戦い』)、あれは非凡すぎて参考にならない。
たいした役者も使えないし、予算も技術も無いわけだから、シナリオとアングルと編集で勝負しなくてはならない。無い無いづくしを克服していく先に輝きが出現すれば、監督としてやっていける芽があるのかもしれない。
ダンテと客たちのやりとりが、軽妙で生き生きしているので飽きない。まあ、最後の山場として一人ご臨終しちゃうのだが、だからといって何が盛り上がるわけでもなけりゃ、教訓めいたことがあるわけじゃない。最後のランダルとの大喧嘩だって、“知るか、テメェが悪いんだろ”って言ってるだけだしね。
ただ、この監督さんの作品は、あまり見かけまへんな(笑)。『世界で一番パパが好き!』『コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら』くらいかな知っているのは。とはいえ、なかなか侮れない作品…ということで。
公開年:2012年
公開国:アメリカ
時 間:129分
監 督:オリヴァー・ストーン
出 演:テイラー・キッチュ、アーロン・ジョンソン、ブレイク・ライヴリー、ジョン・トラヴォルタ、ベニチオ・デル・トロ、サルマ・ハエック、デミアン・ビチル、エミール・ハーシュ、サンドラ・エチェべリア、シェー・ウィガム、ゲイリー・ストレッチ、ホアキン・コシオ、レナード・ロバーツ、ジョエル・デヴィッド・ムーア、ショーン・ストーン 他
コピー:野蛮の限りを尽くしても、最愛の女は取り戻す。
植物学者のベンと元傭兵のチョンは、経歴も性格も正反対だが大親友。かつてチョンが戦地から持ち帰った大麻の種を元に、ベンが植物学者としての知識を最大限に投入して育成。その高品質さゆえに、彼らが大麻販売事業は大成功し、ひと財産を築くのだった。2人は、共通の恋人オフィーリアとともに、カリフォルニア州の高級リゾート、ラグーナ・ビーチで優雅に暮らしていた。そんなある日、彼らに、メキシコの巨大麻薬組織バハ・カルテルが接触してくる。彼らは業務提携を迫ってきた。納得できない条件だったが、表立って拒否すると何をされるかわからない。特にベンは商売も潮時と考えていたことから、事業を丸ごと放棄して3人で国外に逃亡しようと計画する。しかし、2人のノウハウがどうしても欲しいバハ・カルテルの女ボス・エレナは、オフィーリアを誘拐し事業への協力を迫るのだった。やむなく指示通りに従う2人だったが、オフィーリアを1年監禁すると聞かされる。オフィーリアを解放してほしければ、身代金が必要だという。どうしてもオフィーリアを救いたい2人は金をかき集めるがどうしても足りない。そこで、麻薬取締局の悪徳捜査官デニスと、かつての傭兵仲間の協力を得て、バハ・カルテルの現金輸送車から300万ドルの現金を奪い、エレナの弁護士アレックスの仕業に見せかける計画を立てるのだったが…というストーリー。
大麻取引に、主人公の一人は傭兵あがり、一人の女性を共有。ヒッピー上がりのオリヴァー・ストーンが好きそうな内容ではある。プロットはものすごくおもしろいくて、なかなかのクライム・サスペンスなのだが、おそらく原作がおもしろいのであって、監督がいい仕事をしているわけではない。
まず、話が動き始めるまで40分以上。ものすごくテンポが悪い。いろいろ設定が複雑なのはわかるのだが、これくらいの内容で、この展開の遅さはないかな(100分程度でまとまる内容だと思う)。もしかしてオリヴァー・ストーンてヘタクソなんじゃね?と疑いたくなる。
大体にして、オーの語りで入る意味あっただろうか。オーが誘拐されている最中の、ベンとチョンの行動についても彼女のナレーションが入るのだが、この演出は正しいだろうか?
エレナは自分が交渉している相手が傭兵上がりであることを知らないのだろうか?そんなの何の問題にもならないと思ってるのか?また、エレナとオーが、親しくなっていく様子を描く意味はあっただろうか。描くなら描くで、実の娘との距離を埋めたい彼女の欲求と、ビジネスの駒として扱うべきであるというシビアさの間で揺れるとか、心の揺れを描くべきではなかろうか。
作戦の大部分は傭兵仲間の協力によって成り立っている。こんな危険な仕事に協力してくれるのだから、チョンと深い絆があるんだろう。でも、まったく彼らについてはスポットが当たっていない。
ラドがエル・アズールに通じるのは良いとしても、裏切り方が中途半端だし、“暴君”としてのの描き方が古臭い。デル・トロ演じるラドが一番の敵役のはずなのだが、あまりすっきりとした終わり方になっていない。
なかなか面白いのに、これだけ不満が湧いてくるってスゴイ作品だ…なんて思っていると、ラストがアゴがはずれるくらいのクソ演出だった。若ぶった演出かな。ダサすぎて救いようがないかも。
アフリカにいるかもしれない?って、オーは自分のこと語っているのではないのか?本当にオーのナレーションの意味がわからないわ。
正直、「ラリってんじゃねえか?この監督…」と思ったよ。別の監督が撮ったら、快作になっただろう。残念。
公開年:1998年
公開国:アメリカ
時 間:134分
監 督:スパイク・リー
出 演:デンゼル・ワシントン、レイ・アレン、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ロザリオ・ドーソン、ゼルダ・ハリス、ビル・ナン、ジョン・タートゥーロ、ロネット・マッキー、ネッド・ビーティ、ジム・ブラウン、レナード・ロバーツ、ヒル・ハーパー、ジョセフ・ライル・テイラー、ミシェル・シェイ 他
ノミネート:【1999年/第8回MTVムービー・アワード】ブレイクスルー演技賞[男優](レイ・アレン)
リンカーン高校に通うジーザス・シャトルズワースは、バスケットボールの天才プレイヤー。卒業を迎える今、大学に進むのかNBAに入るのか、彼の進路は注目の的。その決断まであと一週間と迫っていた。一方、ジーザスの父親ジェイクは、6年前に妻(ジーザスの母)を殺した罪で服役中していたが、刑務所の所長からある取引を持ちかけられていた。実は、州知事がバスケットで有名な地元ビッグ・ステート大学のOBで、どうしてもジーザスを母校のチームに入れたいと考えていた。そこで、ジーザスからビッグ・ステート大の奨学生になる確約と取り付ければ、15年の刑期を大幅に短縮してやるという裏取引だった。ジェイクは労働釈放の名目で一週間だけ出所する。目の前に突然現れた父を強く拒否するジーザス。母親を誤って殺してからというもの、父と息子の間には深い溝ができており、ジーザスは徹底的に父を無視するのだった。監視する刑事から、早く契約を獲るように脅される中、ジェイクは、仮住まいのアパートの隣室に住む売春婦ダコタと心を通わせるようになり…というストーリー。
導入部が、全然ジャケット画像のイメージと違ってちょっと面食らったものの、すぐに引き込まれた。
高校バスケットのヒーローで、本当は明るい未来に喜び溢れる日々のはずなのに、ものすごくつらいという状況。もちろん経験したことはない状況だが、高校生には厳しい。
そんな彼には、相談できる両親はおらず、それどころか守らねばならない妹がいる。せめて、現在の保護者がまともであればいいのでが、世話になっている叔父は、ジーザスが将来手にするであろう大金を当てに彼を追い詰める。チームのコーチも、彼に恩を着せ、さらに金を貸そうと迫ってくる。そういうあからさまな態度ならば、ジーザスも警戒のしようがあるのだが、実は、信じていた人もすべてクソ人間だということが見えてきて、一週間の間に彼を絶望させる。
一人、チンピラの親玉みたいな真っ赤なベンツに乗ってる男が出てくる。古い知り合いらしいが、あきらかにそっちの世界の人間で、ジーザスの周囲の人間の中では、一番ヤバそうな人。だけど、不思議と彼の忠告が一番マトモだったりする。ドラッグ、女、そういう誘惑にお前は勝てるのか? 周りはおまえを応援しているように見えるが本当にそうなのか? お前が裕福になった途端、足を引っ張ろうとしているぞ…と。町の中で唯一そいつがマトモだっていう状況。
一方のデンゼル・ワシントン演じる父親自は、自分が望んでいたように息子がバスケの道で花開かせようとしていることを誇らしいと思っているし、息子の人生の大事なポイントであることはわかっているのだが、何もしてあげることができない。そんな時に、思いもよらず、裏取引を持ちかけられる。
ジェイクは決して悪い人間ではないのだが、良い人間ともいい難い。所詮、バスケのことしか息子に教えなかった、それも、ちょっとマトモとはいい難いヒステリックな指導方法しかしてこなかった父親である。さらに6年も疎遠。ちょっとクズぎみの男に共感なんかできないと思う人もいるだろう。それでよいと思う。彼がそれほどマトモな人間ではない…というのが重要な味付けになっているから。
この作品の微妙なところは、ジェイクが、本気で刑期を短くしてもらおうと考えていたのか、息子にアドバイスができればそれでよいと思っていたのか?という点。まだ幼い妹のことを考えれば、前科者とはいえ、そばにいてあげられるメリットは小さくない。はじめは前者だったけど、だんだん後者だけでもいいかな…と考えがシフトしていったという感じかな。最後は騙された形になるわけだが、息子の大事な時にアドバイスができたことで満足できたと信じたい。嫁の墓参りもできたしね。
ベンツに乗っていた男もビッグ・ステート大が最良と思っていた模様。どう考えても不正な取引を持ちかけた知事の要望が、最良という構図が、なかなか微妙な味わいを生んでいると思う。
本作のプロット自体は薄いと思う。だけど、すごく濃く感じる。息子と父親の周りの時間が止まってるっていうか、空気の粘度が高いって感じ。そんなにストーリーに重要に関わっているわけじゃないけど、ミラ・ジョヴォの演技は、その粘度を高める役割に十分貢献していると思う。
なかなかの良作だと思う。
公開年:1983年
公開国:アメリカ
時 間:113分
監 督:ジョン・バダム
出 演:マシュー・ブロデリック、ダブニー・コールマン、ジョン・ウッド、アリー・シーディ、バリー・コービン、ジュアニン・クレイ、ケント・ウィリアムズ、デニス・リップスコーム、ジョー・ドーシー、アーヴィング・メッツマン、マイケル・エンサイン、ウィリアム・ボガート、スーザン・デイヴィス、ジェームズ・トルカン、デヴィッド・クローヴァー、ドリュー・シュナイダー、ジョン・ガーバー、ダンカン・ウィルモア、ビリー・レイ・シャーキー、ジョン・スペンサー、マイケル・マドセン、エリック・スターン、アラン・ブルーメンフェルド、モーリー・チェイキン、アート・ラフルー、ウィリアム・ ・メイシー 他
受 賞:【1983年/第37回英国アカデミー賞】音響賞
北米防空司令部は、核ミサイルの発射命令が実際に機能するか確認するため、演習を行った。しかし、22%の兵士が核ミサイル発射のボタンを押すことを躊躇うという結果に。これはシステムに人間が介在する限り避けられないと主張するマッキットリック博士は、すべてコンピューターにまかせるべきだと主張する。バリンジャー将軍は強く反対するが、防衛プログラムを搭載したコンピューター“WORP”が採用され、各地のミサイル発射拠点には兵士が配置されなくなってしまった。シアトルの高校生デイヴィッドは、学校の成績は悪かったが、コンピュータ技術に関しては天才的。学校のコンピュータに、自宅のパソコンから電話回線を介して侵入し、自分の成績を書き換えたるなどしていた。ある日、コンピューター雑誌を読んでいると、プロトヴィジョン社が新ゲームを発売するという広告が目に止まる。売り出し前にタダで遊びたいデイヴィッドは、プロトヴィジョン社のコンピューターにプログラムがあるに違いないと考え、プロトヴィジョン社のある地域の電話番号に総当りでアタックをかける。数日後、とある正体不明のコンピュータへの接続に成功。複数のゲームプログラムを発見するが、その中には、砂漠戦争、生物科学戦争、世界全面核戦争と物騒なものが。それらプログラムにはパスワードがかかっていて起動できないプログラムのリストにあった“フォーケン”について調べると、コンピュータの権威で既に死亡していることが判明。同級生のジェニファーのの言葉をヒントに、フォーケンの息子の名前“ジョシュア”を入力すると対話式のプログラムが起動しはじめる。そしてデイヴィッドとコンピューターは世界全面核戦争ゲームをすることになるのだが…というストーリー。
公開当時は「ありえねー」状態だったと思うが、30年以上経った今となっては、むしろリアル感が満載だ。実際に政府組織のサーバにクラッキングなんていうのは、たまに聞く話。ヒューマンエラーについての議論なんて、今こそ一般的な話題。未来をいってた作品だね。冒頭の“訓練”の緊迫感がハンパないのだが、舞台背景をすっかり説明しきっているというのも秀逸。
この監督さんの計算通りだったのかどうかは微妙なところなのだが、本作には、これぞ映画の醍醐味っていう要素が詰まるだけ詰まっている。巻き込まれ系であり、弱者の大冒険であり、クライシス物であり、大権力の追跡から逃れるサスペンスであり、プログラムの秘密を追う謎解き物語であり、そのために旅をするロードムービーであり、世界を救うヒーロー物であり、俯瞰で見れば高校生に手玉に取られる国防システムというシニカル風味満載だし、もちろん純粋なSFである。
高校生の主人公なんかどうでもよくなっちゃうくらい、すっかり話しが大きくなりすぎるのだが、最後に一山、デイヴィッドに見せ場をつくるところもウマい。最後の“ジョシュア”との対戦も、人工知能という興醒めしがちな要素も、コンピュータに現実の世界では勝ち負けなんか存在しないことをシミュレートさせて、“つまらない”という結論に導くというオチ。往々にして反戦メッセージが臭くなりがちだけど、それがシニカルさの裏に潜んでいる程度に抑えられているのもGOODだと思う。
彼女の役割が不要かな?と思わせつつ、きちんと背中を押す役割を果たしている。本当に無駄の無い、娯楽作品のお手本のような作品。名作だと思う。
公開年:2000年
公開国:アメリカ
時 間:102分
監 督:ダーレン・アロノフスキー
出 演:エレン・バースティン、ジャレッド・レトー、ジェニファー・コネリー、マーロン・ウェイアンズ、クリストファー・マクドナルド、ルイーズ・ラサー、キース・デヴィッド、ショーン・ガレット、ディラン・ベイカー、ピーター・マローニー 他
ニューヨーク・ブルックリンのコニー・アイランドにある団地に住む老女サラ。定職につかない一人息子ハリーと一緒に暮らしているが、ドラッグ常用者の彼は、しばしば彼女の唯一の楽しみであるテレビを質屋に入れては、ドラッグを買っていた。その度に質屋からテレビを買い戻す彼女。そんなある日、彼女が大好きな視聴者参加型クイズ番組から出演依頼の電話が入る。息子の高校卒業式に着た思い出の赤いワンピースを着て出場しようと考えたが、まったく入らない。そこでダイエットを決意。ダイエット本に従ってグレープフルーツダイエットを開始するが、一向に体重は減らないし、空腹で眠ることすらできない。追い詰められた彼女は、アパートの住人から、食欲を減退させる薬を処方してくれるという医者を紹介してもらう。一方ハリーは、友人のタイロンとともにヘロインの密売を始める。仕入れたヘロインに混ぜ物をして売り捌くという稚拙な手口だったが、意外にも売れ行きは好調で、ハリーはデザイナー志望の恋人マリオンと一緒に、ファッション関係の店を開くことを夢見るようになるのだが…というストーリー。
昨日の『リアリティー』と同じく、テレビ番組の出演を夢見て暴走する人が登場する。ただし、本作は、なんで暴走しちゃうのか…という部分が“喪失感の埋め合わせのため”という形でしっかり描かれている。夫を亡くし、唯一の希望だった息子が、定職もなくドラッグに溺れているという現実から目を背けたい彼女に舞い込んだテレビ出演の電話(といっても、選ばれる可能性があるという電話なんだけど)。思い出のドレスを着て出ようと考えたわけだが、その赤いドレスを着た思い出の中の自分はまだまだ美しく、夫も存命でそこそこ裕福。そして、息子には輝かしい前途があった。ああ、あの時に戻れれば…、その思いがすべて番組出演するということに向いていく。
もちろん、テレビに出たからといって、元に戻るなんてことはないのだが、そこにすがりたくなるほど、彼女は孤独で希望を失っているのだ。そして、“薬”の使用すら躊躇わなくなる。
一方の息子は、ヘロインで一発当てようと考える。そこそこ軌道に乗ってしまうのがタチの悪いところだが、もっとタチが悪いのは、品質の確認と称して自分もヘロイン中毒になってしまうこと。結局は母子共々、重度の薬物中毒になっていく。久々に家に帰った息子は、そんな母の状況を見て、その薬はドラッグと一緒だから止めろと忠告する。薬物には詳しいからわかるんだよ!と。
その会話の中で、息子の仕事がうまくいっていること、結婚も考えている恋人がいることを知ったサラ。ああ、本当に幸せなあの頃が戻りつつあるのだ!となってしまい、ますます高揚し、止めることができなくなるという皮肉。
その後は、破滅へのジェットコースタームービーだ。母子だけじゃなく、恋人マリオンも沈み続ける。ジェニファー・コネリーの体当たり演技。この作品の頃はすでに30歳だと思うが、欧米人らしからぬ若々しさと廃人なり汚れきった姿の振幅がものすごい。翌年『ビューティフル・マインド』でオスカーを獲るわけだが、その布石として十分すぎる仕事。
友人タイロンの描写が、他のキャラクターと比較すると薄いかな…なんて思ったけど、サラとマリオンでお腹一杯だからその程度でいいや…って思うくらい。
アッパー系かダウナー系かと聞かれれば、間違いなくダウナー系な作品。薬に限らず、“依存すること”の怖さを描ききった作品だと思う。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |