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image0658.png公開年:2003年 
公開国:アメリカ
時 間:126分
監 督:ヴァディム・パールマン
出 演:ジェニファー・コネリー、ベン・キングズレー、ロン・エルダード、ショーレ・アグダシュルー、フランシス・フィッシャー、ジョナサン・アードー、ナヴィ・ラワット、カルロス・ゴメス、キム・ディケンズ、レイ・アブルッツォ、マルコ・ロドリゲス、アキ・アレオン 他
受 賞:【2003年/第70回NY批評家協会賞】助演女優賞(ショーレ・アグダシュルー)
【2003年/第29回LA批評家協会賞】助演女優賞(ショーレ・アグダシュルー)
【2003年/第19回インディペンデント・スピリット賞】助演女優賞(ショーレ・アグダシュルー)
コピー:失って、初めて気付いた。求めていたのは、家<ハウス>ではなく家庭<ホーム>だったと…。

結婚生活が破綻して夫に去られ、仕事もせず悲しみに暮れていたキャシーは、小額の税金未納が原因で家を差し押さえられ追い出さてしまう。行政の手違いがあったと判明したものの、既に家は競売によって他人の所有となっていた。購入したのは、政変でイランを追われアメリカに亡命してきたベラーニ元大佐の一家。愛する妻ナディと息子のため、この家で人生をやり直そうとしていたのだが…というストーリー。

『真珠の耳飾りの少女(GIRL WITH A PEARL EARRING)』と同様に、直訳の邦題。“砂”が中東からの難民であるベラーニ一家なのはわかるが、キャシーがなんで“霧”なのか意味は良く判らない。

いやいや、こんなひどい話は久々である。脚本が悪いとかそういう質の問題ではなく、純粋にストーリーがヒドい。社会問題、家族問題、民族問題、宗教問題、色々な問題を絡みあわせて問いかける正統派ドラマだとは思う。しかし、ベラーニ大佐は善意の第三者であり落ち度はない。取得価格の4倍の値段で引き取れという主張を貪欲だと思う人がいるかもしれないが、正当な市場価格の範囲であり、それが証拠に買い手は訪れている。自由の国に亡命してきて、やっと幸運を掴みかけたところで、自堕落で無責任な連中に踏み潰されるのだ。やってられない。
それどころか、本来、ベラーニ一家はキャシーが自殺しようが知ったことではないのに、傷ついた小鳥に同情して転売を諦めようとまでする。ベラーニの過去や性格には色々難はあったのかもしれないが、他人の痛みを感じることができる善良な家族なのだ。こんな奴らの所業のために破滅するなんて、どんな悲劇的なシーンを見せられても、泣くに泣けない。腹立たしいだけである。この映画で涙したという人がいるのだが、神経がよくわからん。

特に、キャシーの性格には微塵も同情する部分が無い。父性をもとめるキャシーゆえに副保安官に惹かれる。しかし、この関係が自分と同じようなさみしい人間を作り出すことに気付いても、ベラーニにも父性があることに気付いても、時すでに遅し。
散々好き勝手やった人間やイジメをしていた人間は、往々にして「あの時はごめんね」で済むと思っているようだが、やられた方の傷がそんなもんで補われるわけがない。

映画なんだから、ブチ切れて、関係者を皆殺しにしたっていいと思ったくらいだが、そうはならなかった。まあ、そういう原作なんだろうからしかたないけ、。監督のヴァディム・パールマンもウクライナからの移民だったらしいので、本当のところはブチギレしたかったのではないか…と予想する。

とにかくこんな納得のいかないイライラストーリーにも関わらず観続けられたのは、ベン・キングズレーとショーレ・アグダシュルーの神懸りといっていいくらいの演技と眼力のおかげ。その点は評価したいが、やっぱり不快なストーリーが優ってしまうので、お薦めしない。

#めずらしく内務調査部が悪役ではない作品かな。

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image0614.png公開年:2003年 
公開国:イギリス
時 間:100分
監 督:ピーター・ウェーバー
出 演:スカーレット・ヨハンソン、コリン・ファース、トム・ウィルキンソン、キリアン・マーフィー、エシー・デイヴィス、ジュディ・パーフィット、アラキーナ・マン、アナ・ポップルウェル 他
受 賞:【2003年/第29回LA批評家協会賞】撮影賞(エドゥアルド・セラ)
【2004年/第17回ヨーロッパ映画賞】撮影賞(エドゥアルド・セラ)
コピー:謎の天才画家フェルメールの名画に秘められた物語が 今、解き明かされる。

1665年、オランダ。タイル職人であったグリートの父が事故で失明。彼女は家計を支えるため画家フェルメールの家で奉公をすることに。フェルメール家は、家庭内不和状態ながらも子沢山で、その喧騒の中、彼女は日夜働き続ける。ある日、アトリエの窓拭きをするグリートの容姿から、フェルメールはに新作を描く意欲が沸く。さらに、彼女の色彩感覚に着目し、顔料の調合を手伝わせるようになる。しかし、周囲はフェルメールとグリートの関係を誤解しはじめ…というストーリー。

『宮廷画家ゴヤは見た』に続いての画家モノ。ただし、こちらは歴史劇要素は薄い。フェルメール自体が結構ナゾの人物だし、モデルもよくわかっていないし、それを逆手にとっておもしろく膨らませる着想が、たいへんすばらしい(原作がね)。このような、史実を捻じ曲げることなく、最大限にフィクションを展開させた作品は好みである(小氷期で運河が凍りに覆われる様など、よく研究されていると思う)。実話かと錯覚するほどの出来栄え。インスパイアの極み。

とはいえ、ストーリーがいささか単調であることは否めない。しかし、本作の見所はそこだけではない。映像美である。技術上のポイントは、フェルメール作品の色彩や構図を映像で表現している点。絵画を切り取ったようなカットが随所にちりばめられており、いくら鈍感な人でも気付くに違いない。衣装、セット、メイク、ライティングの究極的なこだわりが渾然一体となった技術である。米アカデミー賞では、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞の3つにノミネートされているが受賞にいたらず。合わせ技一本で、なんらかの賞を受賞させるべきなのだが、適当な枠の賞が無かったという極めて不幸な例だろう(さすがに特別賞を与えるほどではないのだが)。

未見の方には、お薦めしたい作品である。

以前、『ママの遺したラヴソング』のレビュで、スカーレット・ヨハンソンの半開きの口がアホっぽいと書いたことがあったが、真珠の耳飾りの少女自体が半開きの口だからね。面白いキャスティングだとおもったし、同じポイントに着目する人はいるんだなと。まあ、絵と少女とスカーレット・ヨハンソンは全然にてないけどね。

#スカーレット・ヨハンソンの吹替えが、あまりよろしくない。かといって字幕を追うとステキな画に集中できないという、本作もこのジレンマを抱えた作品である(っていうか、吹替え声優、もうちょっとしっかりしろってハナシなんだけど)。

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imageX0008.png公開年:1963年 
公開国:イタリア
時 間:140分
監 督:フェデリコ・フェリーニ
出 演:マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、クラウディア・カルディナーレ、サンドラ・ミーロ、バーバラ・スティール 他
受 賞:【1963年/第36回アカデミー賞】外国語映画賞、装デザイン賞[白黒](Piero Gherardi)
【1963年/第29回NY批評家協会賞】外国映画賞


映画監督のグイドは、日々の精神的・肉体的な疲れを癒す為、温泉に療養に出掛けるが、そこでも仕事や生活から逃れれられない。仕舞には、自分が温泉で余生を過ごす老人達の中にいるという幻覚まで見始める始末。そうこうしつつも映画制作は進行していくが、映画の内容は決まらないし、出資者への対応も苦痛極まりない。彼は次第に、自らの理想の世界へと現実逃避していく…というストーリー。

これを、「はっかにぶんのいち」と読むか「はちとにぶんのいち」と読むかで年齢がわかってしまうかな。昔は帯分数を‘か’と教えていたからね。独身女性の方々はお気をつけあれ(笑)。

かねてから観たいと思っていたのだが、近隣ではレンタルしておらず、BSで放送していたのをガッチリ録画。その後、しばらく溜め込んでいたのをやっと鑑賞。フェリーニの作品は、過去に『サテリコン』しか観たことがない。

冒頭の温泉保養所のシーンで北野武の『監督ばんざい!』が思い出された。調べてみると、北野監督自身が『監督ばんざい!』は影響をうけて作られていると発言している模様(私の映画観も鍛えられてきたかな(笑))。個人的に追い詰められていく芸術家の様子を、映像として表現する点など、影響どころか、基本アイデアはそのままに見えるけど。

はじめの夢のシーンで、いきなりいいパンチをかましてくれる。現実と夢想の境界をあいまいにする表現は洗練されていて、現代でも陳腐さを感じさせない。いいセンスの持ち主であることが、否が応でも判る。
全体的に美しい映像の連続ではあるが、アップショットの連続が多くて、空間が感じられない場合が多い。個人的に気に入らない点ではあるが、おそらくそれも狙いなのでよしとする。
その映像にドンピシャな音楽や、わからないまでも場の空気づくりに貢献している流麗なイタリア語もすばらしく、是非とも吹替えではなくイタリア語でご覧あれ、と、言いたいところ。しかし、映像に集中したいので吹替えで観たくもあり、このジレンマ、非常に苦しい。
#まあ、BS放送は字幕版だったので選択肢はなかったが、やはり映像に集中したかったので、吹替えでみたかったかな。

一般に難解だといわれているけれど、ここ数年のデイヴィッド・リンチに比べれば、かわいいものかと。とはいえ、映画史に残る名作と評されることが多いからといって、うかつにそれに乗っかって、わかったふりをすると怪我をしそう。正直に言うと、『サテリコン』もかなりの謎作品だったが、本作も同等レベルの謎作品だった。最終的に何がいいたいわけ?という問いは、おそらく無意味で、『マルコヴィッチの穴』のごとく、フェリーニの脳内が表現されていると考えれば、たしかによくできていると思われる。ただ、それが面白いかどうかは、別問題。

お薦めというわけではないが、美術館で絵画を鑑賞…的なノリで一度観ておくとよいかも…という作品。といっても、お薦めしたところおで、DVDレンタルしていないところが多いようではあるが…。

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image0953.png公開年:2006年 
公開国:アメリカ
時 間:143分
監 督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出 演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子、アドリアナ・バラッザ、エル・ファニング 他
受 賞:【2006年/第79回アカデミー賞】作曲賞(グスターボ・サンタオラヤ)
【2006年/第59回カンヌ国際映画祭】監督賞(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)
【2006年/第64回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]
【2006年/第60回英国アカデミー賞】作曲賞[アンソニー・アスクィス映画音楽賞](グスターボ・サンタオラヤ)
コピー:神は、人を、分けた。

モロッコ。山羊飼いのアブドゥラは知り合いから一挺のライフルを買い、ジャッカルを駆除するようにと二人の息子アフメッドとユセフに与える。兄弟は遊び半分で射撃の腕を競い合い、一台のバスを撃つ。そのバスには、アメリカ人夫妻リチャードとスーザンが乗っていたが、二人は3人目の子供を亡くしたことで関係が悪化し、その関係修復のための旅行の最中だった。そして、銃弾が運悪くスーザンの肩を直撃し、バスは医者のいる村へと急ぐ。一方、夫妻がアメリカに残してきた子供マイクとデビーの面倒をみるメキシコ人不法滞在者である乳母のアメリアは、息子の結婚式に出るため帰郷する予定だったが、夫妻が戻らず困り果てる。彼女は仕方なく、マイクとデビーを連れてメキシコへと向かう。日本。妻が自殺して以来、父娘関係が冷えきっている東京の会社員ヤスジローと女子高生の聾唖者チエコ。チエコは満たされない日々に絶望する生活を送っているが、そんな中、モロッコの銃撃に使用されたライフルの所有者がヤスジローであることが判り…というストーリー。

モロッコ人、アメリカ人、メキシコ人、日本人の4つのストーリーは、奇異ともいえる繋がりを見せながらも、別々の流れで展開。完全に並行ではなく、時間軸はずらされているが、もうすでに、『21グラム』『クラッシュ』とにたような味付けの作品を見ているので、目新しくも感じないし、あまりよい効果を得られているようにも思えない。群像劇だが、最後に話をつなげて一つの流れにする気はないらしく、4つの悲劇の羅列といってよいくらい。

だが、いろいろ批判はあるようだが、個人的には嫌いなセンスではない。
人間は不完全で愚かで、偶然によってふれあい、ちょっとした思いやりのなさで離れる。世界は人のぬくもりを乞うが得られない人でできあがっている。その刹那な空気感を愉しむ映画かなと。この映画が伝えたいことって何かな?って、色々考えたくなるんだけど、あまり社会的な意味とか政治的な意味を考えないほうがいいような気がする。世界各地で、同じ人間が同じ時間を過ごしているのに、どうして世界はこんなにばらばらなのか、それだけを味わえばいいんじゃなかろうか。それ以上のことを期待すると“バベル”というタイトルが、あまりにも仰々しくなっちゃう。軽く考えることにする。

実に、日本のパートは不要だという意見が多い。たしかに、モロッコとアメリカの出来事と日本のエピソードは、テイストにかなりの乖離が見られる。日本パートとそれ以外のパートの2軸といってもいいくらい。加えて、日本パートの性的倒錯要素が濃すぎて、そのおかげで、全体のテーマのバランスが崩れてしまったように見える。またまた加えて、違和感を感じる日本描写が多すぎて集中できない。もうすこし、細かい部分に違和感を感じないように、日本人のアドバイスをうけることはできなかったのだろうか。話の主筋とは関係ない部分で無駄な引っかかりを残しすぎ。例えば、いかにもアメリカ人的に中指立てたり、渋谷のクラブ名“J-POP”だとか、いくら外国のできごととはいえ未成年の容疑者の顔を報道したりとか、自分名義の猟銃を海外に持ち出して、さらに海外に置いてきてしまうとか、猟銃で妻が自殺した事件を所轄の刑事が知らないとか。
#おそらく、モロッコ人にも文句をいいたい部分があるんだろうなあ(笑)

まあ、昼間から屋外で薬物摂取してるとか、チエコの行動がいくらなんでも不自然に感じられるという点は、性的虐待があるのかな?と匂わせている感じなので百歩譲ってよしとするけど、なにやら、日本はそういう性的に倒錯した人間の巣窟みたいな(それこそ女体盛りが日常行われてるような)目線でつくられてるような気もして、なんかしっくりこないけど。

監督は、チエコ役には、幼さが残る高校生の未熟な肉体を期待したと予測されるが、菊池凛子の裸は、アメリカ人から見れば子供にみえるのかもしれないけど、不健康な成人女性にしか見えない(肌のコンディションがよろしくない)。そういう部分も含めて、思うことは、彼女は演技がよかったからノミネートされたんじゃなく、いろんな意味で監督の意図を超えちゃったからノミネートされたのではないかと。ただ、それが、偶然なのか計算なのかが把握できなかった。明確にこりゃあ計算ずくでやってるな、、、とアカデミー会員に伝わっていれば、受賞したのではないかと思われる。
#その後の菊池凛子の仕事を見ると、どうやら偶然らしいと思われるので、受賞させずに正解だったかも、、とは思う。

日本パートとモロッコパートで子供の性に焦点を当てているが、はじめはもっとこの要素が強くて、製作過程で変遷していったのかなとも思える。また、鶏の血と撃たれた血をリンクさせるような稚拙な演出と感じる部分もあり、よく練られているようで、練りきれていない部分も散見される。そのくせ尺は長い。もう一回、腕まくりして編集しなおせば、すっきりとよい作品になった気もするが、まあ、それもこの監督の味というかクセというか。これでも『21グラム』よりは、よくなってると思う。

監督のメッセージを読み取ろうみたいな感じで、肩肘張って見なければ、十分愉しめると思う。それなりにお薦め。10%くらいの人がよかったといい、50%くらいの人が文句いいながらも、まあまあだったという、そんなところかな。

#役所広司の無駄遣い。

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image0153.png公開年:2007年 
公開国:アメリカ
時 間:92分
監 督:ロバート・レッドフォード
出 演:ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ、トム・クルーズ、マイケル・ペーニャ、デレク・ルーク、アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・バーグ 他
コピー:何のために戦い、何のために死ぬのか──?




大統領への野望を抱く上院議員アーヴィングは、自身の対テロ対策理論をもって世論の支持を得るため、女性ジャーナリスト・ロスを呼びつけ、特別に情報をリークすることで有利な報道をするように仕掛ける。しかし、その持ちかけに“裏”があると確信した彼女は、逆にその真相を明らかにしようと考える。その頃、アーヴィングがリークした情報ネタである、アフガニスタンにおける対テロ作戦は遂行されており、その作戦には戦争に身を投じることを選択した2人の若者アーネストとアリアンが参加していた。一方、そのアーネストとアリアンの恩師である大学教授マレーは、二人の選択に戸惑いを覚えていた…というストーリー。

①野望を抱く政治家とその裏を探るジャーナリストの会談。
②教授と生徒の真に目を向けるべきことがらについての話し合い。
③対テロ作戦に参加した2人の学生の様子。

この三本の話によって、光を三方から当てて、皆さんには何が浮かび上がって見えますか?というアプローチ。その手法自体は決して悪く無いが、最終的には、皆さん持ち帰って考えてくださいというラスト。演出のおかげで、最後はなんとなく考えされられたような気になるのだが、冷静になってみると、巧みな仕掛けがあるわけでもないし、これってよくないよね…という以上に何かが見えるわけでもない。観終わったあとに、複数の線が繋がって、その潮流によってカタルシスが得られる…というようなこともない。

でも、三者に共通して存在する異様な部分を、はばかりながら指摘してみよう。それは、全員が分不相応な“万能感”の持ち主たちということ。自信を持つことは結構なことだが、自分の能力を客観的に見ることができず、自分がデキるはずというもっともらしいが根拠のない確信について、疑うそぶりすらないこと。この万能感は周囲を不幸にする。もっと別の表現を使えば、彼らの中に謙虚の文字がないこと。案外、アメリカの問題は、そんな卑近な感覚の欠如のせいなのではなかろうか。簡単にいうと“驕り”。
欧米の学生はリベートで鍛えられているから、日本人の交渉力の無さとは雲泥の差だ…という意見がある。たしかにそのとおりかもしれないが、でも、リベートの勝利は真実の勝利ではない。時間内のリベートに勝つだけなら、恥知らずの詭弁者にはかなわない。それなら、口下手な人間は永遠に負け続けることになるのか?他人を傷つける表現をよしとしない奥ゆかしい人間は負け犬か?相手に理解してもらうために気長に教育する親や先生は愚か者なのか?そうではないだろう。私は日ごろ、それでも人間は前に進まなければ行けないんだという趣旨のことを書いているが、アーヴィングのように、過去を切り捨て、もっともらしい自論を武器にして、ただただ未来に向かって強引に突き進もうとする政治家を良しとはしたくない。

また、資本に左右され、風見鶏になってしまったマスコミと、その結果無関心になる国民の姿を指摘しているが、それを嘆くことに意味があるとは思えない。逆に、国民全員がギラギラと政治問題に注視し続ける国が、私にはマトモだとは思えないから。程度の問題。バランスの問題。100か0かしか選択できない、アメリカの馬鹿さ加減がよく浮き彫りになっている。誤解を恐れずに言えば、彼らは“中庸”という状態に耐えられないのだろう。
#そう考えると、正しいかどうかは別として、池上彰みたいな政治と国民のギャップを埋める調停者みたいな人が自然発生して、ゴールデン番組が成立する日本って、とても健全な気がしてくる。

と、色々考えると共感できる部分も無きにしもあらずだが、実のところ、レッドフォードの共和党批判作品なのかな…とも。そう思いはじめると、本作の価値がどんどん落ちていく。もっともらしいけど、何か煮え切らないし、観点がずれている気がする。

ほとんどがメリル・ストリープとトム・クルーズの二人劇が占めており、舞台の二人芝居でも通用しちゃうくらいなんだけど、異様に台詞も多くて、眠くなりそう(吹替えで観たけれど、字幕を追ったらならさぞ大変だったと思う)。もし、トム・クルーズが、もっともらしい詭弁を弄するアホを意図的に演じているなら大したものなのだが、こいつならまじめに演じてもアホに見えるという監督の意図にハマッただけという可能性もあるので、彼の演技を単純には評価しにくい(笑)。で、結局、メリル・ストリープに救われちゃたのかなぁ…と。こまった時のストリープ頼みか。
決して悪い作品ではないけれど、最近はやりの書籍『これからの「正義」の話をしよう』に出てくる事例の域を出ていない。“映画”としては、光の当て方がストレートすぎるので、角度を工夫しなければいけないと思う。映画の芸術性という側面をすっかり忘却して製作された作品かなと。

#私がこの映画から得た慧眼は、大人とはいくつもの決断を重ねた人のこと…ってことかな。

決してこういう種類の作品の否定はしないけれど、金払って何でモヤモヤやイライラを持ち帰らねばいかんのか…と、そう思いたくない人は観ないほうがよい。

#邦題は、まとはずれだし、センスもない。作品自体を馬鹿にしているのか、客を馬鹿にしているのか、もしくは配給会社が馬鹿なのか、いずれにせよ“馬鹿”なんだろう。もういい加減、会議で邦題を決めるのをやめたらどうだろう。万人が納得するものを目指すと、結局万人が満足しないというのは、商品開発のセオリーだと思うのだが、なぜそれに気付かないのか…。
 

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image0433.png公開年:2001年 
公開国:イタリア
時 間:99分
監 督:ナンニ・モレッティ
出 演:ナンニ・モレッティ、ラウラ・モランテ、ジャスミン・トリンカ、ジュゼッペ・サンフェリーチェ、シルヴィオ・オルランド、クラウディア・デラ・セタ、ステファノ・アコルシ、ソフィア・ヴィジリア 他
受 賞:【2001年/第54回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ナンニ・モレッティ)
コピー:生きているときは、開けてはいけないドアでした。


神科医のジョバンニは、妻パオラ、娘のイレーネ、息子のアンドレアと4人暮らし。ある日、アンドレアが海の事故で亡くなってしまう。ジョバンニは、事故の日、息子とジョギングをしようとしたところを急患の往診に出てしまったことを悔やみ、自分を責め、遂には仕事もやめてしまう。家族はいつまでも悲しみに沈み続け、崩壊寸前に。そんなある日、息子のガールフレンドから、息子宛にの手紙が届く。パオラはそのガールフレンドとの接触を試みるが…というストーリー。

なにやら妙に意味深なコピーだが、別に息子の部屋にはたいした秘密はない。それどころか映画の見所とはまったく無関係で、集客のためだけに奇を衒っているという、実にタチの悪いコピー。非常に不快。

ご覧のとおりパルム・ドール作品で、ネット上の感想を読めば、そりゃあ高い評価ばかり。でもあえて言わせてもらう。つまんないよ。これは。なんの予備情報も無しに本作を観ることがでいるならば、アリなのかもしれないけれど、DVDのパッケージを見れば、息子が死ぬことは丸わかりなので、死ぬまでが長い長い。本当に才能のある監督ならば、この程度のあらすじがわかったとしても、それなりに飽きさせない+αがあるはず。ワタシは耐えられずに一度、観るのをやめてしまったくらい。この監督の才能を評価する声が多いけれど、緻密な計算の結果、この雰囲気ができあがっているようには見えない。ラッキーパンチのポテンヒットに、ワタシには見えるけれど。

百歩譲って好意的に観るとしよう。
かけがえのないものを失ったことに対して、どんなにつらくても前に進まなければいけないことは、実は、家族全員が理解している。理解はしているけれど、この喪失感を乗り越えるためには、一つ何かが必要。それはなにか。喪失したのは形のある息子だけではない。息子に何かをしてあげる自分達の姿も喪失したのだ。でももう、葬られた息子には何もしてあげようがない。息子に死やその理由にいくら執着しても、息子の部屋を整理しても。そこに息子に関わりのあった人物が。彼女にできるだけ施すことで、前へ歩みだすためのエンジンの種火になる…。そういう感じかな。

だけど、感性が合わないとしか言いようがない。世の評判は高いが、ワタシはお薦めしない。

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image1214.png公開年:2002年 
公開国:アメリカ
時 間:101分
監 督:スティーブン・ソダーバーグ
出 演:ジュリア・ロバーツ、デヴィッド・ドゥカヴニー、キャサリン・キーナー、メアリー・マコーマック、ニッキー・カット、メアリー・マコーマック 他
コピー:ロサンゼルス、ハリウッド。裸(フル・フロンタル)の心を抱えて 誰もが少し誰かと つながっている



ビバリーヒルズの高級ホテルで映画プロデューサー、ガスの40歳の誕生パーティーが開かれる。そのパーティーに招かれる者や招かれない者、それぞれの一日が始まる。リストラ宣告がもっぱらの仕事の人事部長リーは、雑誌ライターで脚本家の夫カールに離婚を告げる置き手紙を残して出勤。その手紙にも彼女の浮気にも気付かないカールは雑誌社を解雇される。リーの愛人は映画スターのカルヴィン。彼は、人気女優のフランチェスカと映画を撮影中。一方、劇作家のアーサーは、今夜が初日だというのにセリフが入っていないヒトラー役の俳優に悩まされつつも、ネットで知り合ったリーの妹のマッサージ師リンダとのデートに気もそぞろ。そのリンダがホテルの一室を訪ねると、大物映画プロデューサーのガスが待っており…。

はっきり言っちゃっていいのかどうかわからないが、これは単なる実験映画でしょう。そういい切っていい。映画学校の生徒に、群像劇というのはどういうものですか?と聞かれたらこの映画を見せればいいと思うが、典型的な群像劇ではあるが、おもしろいか否かはそれとは別である。
大抵、群像劇というのは、多くの糸が展開が進むごとに1・2本の糸に撚られていくものだが、本作は最後にできあがるのが“縄のれん”みたいなもの。失敗しているわけではなく、元々ソダーバーグにそれらを集約するつもりは見受けられないのだ。ストーリー自体も特段の盛り上がりも、はっとさせられるような場面があるわけでもなく、悪くいえば思いついたシチュエーションを詰め込んだだけ、そんな感じ。

#こういうもものを作るのが許されるとは、ソダーバーグは巨匠扱いなのね。

民生用カメラでの撮影も実験の一つかと。ジュリア・ロバーツが2キャラ演じていてややこしいのも、ただややこしいだけで特段の効果がない。本当に思いつきで実験しているよう。しかし、撮影現場の和気あいあいな感じが、なぜだか伝わってくるのが不思議である。

実験的な変わった映画とか、不親切な難解さを好む人は観るとよい。娯楽も感動も考えされらるものもない。それを承知の上ならばどうぞ。ワタシは二度とみないし、知り合いには薦めない。
#まあ、そりゃあ賞とは無縁だろうさ。

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image0185.png公開年:2002年 
公開国:フィンランド、ドイツ、フランス
時 間:97分
監 督:アキ・カウリスマキ
出 演:カティ・オウティネン、マルッキィ・ペルトラ、マルック ペルトラ、アンニッキ・タハティ、ユハニ・ニユミラ、カイヤ・パリカネン、ユハニ・ニエメラ、カイヤ・バカリネン 他
受 賞:【2002年/第55回カンヌ国際映画祭】審査員特別グランプリ(アキ・カウリスマキ)、女優賞(カティ・オウティネン)
【2003年/第38回全米批評家協会賞】外国語映画賞(アキ・カウリスマキ)
コピー:人生は前にしか進まない

ヘルシンキを訪れた一人の男が、公園のベンチで突然暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負う。彼は病院で奇跡的に意識を取り戻すが、一切の記憶を失っていた。身分証もなく自分の正体がわからぬ彼に、コンテナで暮らす一家が手を差し伸べ、彼らと共に穏やかな生活を送り始める。ある日、救世軍の炊き出しを貰いに行くと、そこで救世軍の女性イルマと出会い、好意を抱くのだが…というストーリー。

昨日の『ヴェラ・ドレイク』と同様、場面の繋ぎ方に非常に特徴のある作品。観ていただければわかるのだが、場面の切り替わり直前に、見得を切ったような演技とか、突然中空を見つめてスタスタと動いたりとか(ジョジョ第三部のラストのコマみたい)、とにかくキメようとするのが実に面白い。こういう書き方をしちゃうとコミカルな映画かと誤解されるかもしれないが、そうではなく、実の味のある表現。
随所随所のセリフもかっこいいのが多く、「俺がうつ伏せに死んでいたら仰向けにしてくれればそれでいい」とか「バカだなあ」とか、とにかく、ワンシーンのどこかでキメようキメようとする。

記憶を失くした男の話なんて、けっこう凡庸だとは思うが、これら演出の波状攻撃と、コピーにあるように、とにかく前に前に展開するのが小気味良い。記憶を失くしたからこそ発揮される裸の人間性。実にステキ。
#めずらしく、うまいことつけたコピーである。

気付く人も多いかと思うが、主演のマルック・ペルトラは、『かもめ食堂』にちらりと出ている。本作でも、離婚が判明して新たな門出…という時に入るレストランが日本レストランで、箸で寿司を食べ、バックには日本の歌が流れる(ホノルル~♪、、、(笑))。フィンランドと日本の文化交流だね(そうか?)。

中年男女(それも十人並みの容姿)の恋愛なんてちょっと気持ち悪いと思うかもしれないが、ものすごく味のある、映画らしい映画なので、是非是非観て欲しい。強くお薦め。

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image0100.png公開年:2004年 
公開国:イギリス、フランス、ニュージーランド
時 間:124分
監 督:マイク・リー
出 演:イメルダ・スタウントン、フィル・デイビス、ジム・ブロードベント、ピーター・ワイト、ヘザー・クラニー、ダニエル・メイズ、アレックス・ケリー、サリー・ホーキンス、エディ・マーサン、ルース・シーン、ヘレン・コーカー、マーティン・サヴェッジ、アラン・コーデュナー、レスリー・シャープ、ジム・ブロードベント、フェネラ・ウールガー、リチャード・グレアム、シネイド・マシューズ、サンドラ・ヴォー 他
受 賞:【2004年/第61回ヴェネチア国際映画祭】金獅子賞(マイク・リー)、女優賞(イメルダ・スタウントン)
【2004年/第39回全米批評家協会賞】主演女優賞(イメルダ・スタウントン)
【2004年/第71回NY批評家協会賞】女優賞(イメルダ・スタウントン)
【2004年/第30回LA批評家協会賞】女優賞(イメルダ・スタウントン)
【2004年/第58回英国アカデミー賞】主演女優賞(イメルダ・スタウントン)、監督賞[デヴィッド・リーン賞](マイク・リー)、衣装デザイン賞(ジャクリーヌ・デュラン)、衣装デザイン賞(ジャクリーヌ・デュラン)
【2004年/第17回ヨーロッパ映画賞】女優賞(イメルダ・スタウントン)
コピー:すべてを赦す。それが、愛
ヴェラ・ドレイク、彼女には誰にも言えない秘密があった。

1950年、ロンドン。夫と2人の子どもとの貧しい生活を送る主婦ヴェラ。家政婦として働きながら、近所で困っている人がいれば、甲斐甲斐しく世話をするほどの彼女には、家族にすら打ち明けられないある秘密がある。彼女は望まない妊娠で困っている女性たちに、堕胎の手助けをしていたのだ。しかし、ある日、処置をした若い娘の容態が急変し…というストーリー。

とにかく、重い重い内容で、息が詰まるようなのだが、びっくりするくらいスムーズに感じる。ヘタな監督ならば、とても苦しくて観ていられなかったに違いない。それは、場面の繋ぎや編集がものすごくうまいおかげ。増長な台詞や演技を極力排除していて、ダラダラと続ける必要はない所はスパっと切って、後は観ている側の想像にまかせている。妙技の域。
イメルダ・スタウントンが多くの受賞をしていて、確かし、役ではなく、まるで本物のヴェラを観ている気に、誰もがなったに違いない。しかし、ワタシ個人としては、監督のマイク・リーや編集のジム・クラークの方を強く評価したい。いくらイメルダ・スタウントンの演技がすごくても、彼らの力なくしては、彼女の演技も生きはしなかっただろうから。是非この編集の技を味わって欲しい。稀に見る職人技だと思う。

ストーリーの話に移る。

欧米社会、特にキリスト教社会では中絶問題は社会的に重大なファクターである。もちろん日本だとて諸手を挙げて肯定されることはないが、キリスト教社会では、その重みはまるで違う。
困っている人がいるからと、深く考えずに惰性で堕胎している彼女は、ただの浅はかなおばさんに見えなくもない。たしかに泣き崩れる彼女は困った人の為だったと言っているし、代金ももらっていないし、自分は悪かったと宣言もしている。でも、彼女は完全なる確信犯。警察に見つかるまでは、微塵も自分の行いを悪いと思っていなかったと思う。捕まった当初は子供には知られたくないと繰り返し、ある意味自分の行いの重さよりも、自分勝手な価値観を振り回していることからも、それが伺える。

しかし、刑務所のほかの受刑者との会話で、他の受刑者が出所した後にも同じ行いを(おそらく商売として)繰り返していることを知り、そして自分の行いが、表面的には同じ行為であることを認識する。その悪魔的な罪の重さと、天使のような無垢さの共存。そんな彼女が刑務所の中をふらふらと歩く姿に、なんとも言えぬ答えのない鉛のような重さを感じる。でも、最終的に、観る側に考えさせる、ある意味投げっぱなしの終わり方をしており、よくいえば考える余白を残しているといえるが、中絶問題の是非を正面切って問いたいののか?といわれると、そうではないのかも…と思わせる。
それよりも、最後の固まった家族の食卓の長回しが象徴するように、家族が突然犯罪者となってしまったら、残された家族は?という視点のほうが強いのかもしれない。

#いずれにせよ、この日本の配給会社は付けたコピーはずれているかな。

いずれにせよ、作品として、観ている側に思想やモラルの押し付けは何も無い。しかし、もう一度言うが、あまりのストーリー展開と演技のうまさのせいで、まるで実世界を覗いているような気分となる。重い題材ゆえに避ける人もいるとは思うし、何度も繰り返し観られる作品ではないが(そういう私もその一人だったが)、強くお薦めする。
 

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image0809.png公開年:2002年 
公開国:スペイン
時 間:113分
監 督:ペドロ・アルモドヴァル
出 演:ハビエル・カマラ、ダリオ・グランディネッティ、レオノール・ワトリング、ロサリオ・フローレス、ジェラルディン・チャップリン、パス・ベガ、ピナ・バウシュ、カエターノ・ヴェローゾ、ロベルト・アルバレス、セシリア・ロス 他
受 賞:【2002年/第75回アカデミー賞】脚本賞(ペドロ・アルモドバル)
【2002年/第28回LA批評家協会賞】監督賞(ペドロ・アルモドバル)
【2002年/第60回ゴールデン・グローブ】外国語映画賞
【2002年/第56回英国アカデミー賞】オリジナル脚本賞(ペドロ・アルモドバル)、外国語映画賞
【2002年/第15回ヨーロッパ映画賞】作品賞、監督賞(ペドロ・アルモドバル)、脚本賞(ペドロ・アルモドバル)、観客賞[監督賞](ペドロ・アルモドバル)、観客賞[男優賞](ハビエル・カマラ)
【2002年/第28回セザール賞】EU[欧州連合]作品賞(ペドロ・アルモドバル)
コピー:深い眠りの底でも、女は女であり続ける。

4年前、交通事故に遭い昏睡状態に陥ったアリシア。看護士のベニグノは4年間彼女を世話し続け、決して応えてくれることのない彼女に向かって毎日語り続けていた。一方、女闘牛士のリディアもまた競技中の事故で昏睡状態に陥り、彼女の恋人マルコは彼女に付き添いながらもただただ哀しみに暮れている。ベニグノとマルコは病院で顔を合わすうちに、言葉を交わすようになり、次第に友情を深めるのだったが…というストーリー。

重いテーマながら、さらっとするっと、何一つ引っ掛ること無くごく自然に展開。こんなにスムーズに気持ちが乗っかる映画は、初めてかも…なんて、アルモドバルすげーなぁと思いながら観ていたのだが、それは中盤まで、そう思わせること自体が引っ掛けだったか。

(以下ネタバレ)

まず、ベニグノがレイプしたのかどうか。実際はしていないかもしれないという見方をする人もいる。そりゃ直接、そのシーンはないので、やってないと解釈することは可能なんだけど、そうじゃないと、まったく方向性の違う話になっちゃうし、死産だったてことは、DNA検査して容疑が固まったことを明確に示しているわけで、そこを疑うのは、やっぱり野暮だと思う。ということで、ベニグノがレイプしたということで話をすすめる。

ベニグノとマルコは、それぞれ昏睡した愛する女性のもとにいる、ある意味同じ立場の男同士なんだけど、ベニグノはただただ疑うことなく愛を傾ける。マルコはただただ喪失感ゆえに落ち込むだけ。さらに時間が経過すると、ベニグノは、彼女が昏睡状態でなければ、まずありえないであろう、彼女と結婚することを望み始め、逆にマルコは、実は彼女が別れを決めていたことを知り、ショックで去ろうとする。まったく逆の行動をとる二人なのに、その間にはなぜかシンパシーが。
まあ、マルコは外国人で、過去の恋人とのつらさとか、不安定な職業とか、“孤独”というキーワードで共通していて、そういったひずみみたいなものが、ベニグノにたいする興味・情という形で発現しているということなんだろう。

愛に渇望する男同士ゆえ理解しあうってことなんだろうけど、やっぱりベニグノのは愛なのか?という疑問に、ぶち当たる。“無償の愛”“一途な愛”“純愛”といえば聞こえはいいが、単なる一方通行の執着を愛と呼ぶかな。
そして、つきつめて考えれば、世の中の人が声高にいっている“愛”っていうのは幻想なんじゃないか?ってことをベニグノを通して気付かせてくれる。
ベニグノは死にアリシアは目が覚める。やはり無償の愛は尊いんじゃないかと思わせてておいて、マルコとバレーの先生の会話になる。マルコは「単純ですよ」といい、バレーの先生は「単純じゃない」という、案外、それが答えかも。男は愛をシンプルだと思いこみ、女はそうじゃないと思う。そのコントラストを表現するためには、アルモドバル的にはレイプするところまでもっていかないといけなかったのかもしれない。しかし、結果からいえば、あまりに不快なできあがり。
別に、本作におけるレイプの非道徳さをどうこういっているのではない。だって映画だから、殺人だろうがレイプだろうが、必要であれば表現すればいい。ただ、それまで流麗に展開していたのに、流体オブジェの液体のとろーんと流れる表現なんかをもってこられると、ワタシ的には趣味が悪すぎると感じざるを得ない(例の無声映画も同様)。アルモドバルは、いつもちょっと有り得ないようなシチュエーションをつくってグイグイ展開していくんだけど、このレイプってさほど有り得ないシチュエーションでもないところが気持ち悪さに繋がっているんだよね。普通の感覚なら、サイコホラーどこかスナッフムービーくらい気持ち悪い話なんだから。もうちょっとリアルさが削がれるくらいじゃないと、引いてしまう。

だから、意識不明の女性をレイプする酷い映画だと観る人が相当数いて当たり前。共感できないと思うひとがいて当たり前。申し訳ないけれど、これは脚本の演出上の足かせであって、もうこの設定にした以上、評価が真っ二つに分かれるのは必然。なのに、なぜか諸手を挙げて色々な脚本賞を受賞しているのが、腑に落ちない。賞をあげるだけじゃなくって、どの部分をどう評価・解釈して賞をあげているのか、説明して欲しいと思いたくなる。

たくさんの受賞歴だけで、さぞやおもしろいんだろうと予想して観ると、痛い目にあうかも。坂口安吾とか芥川龍之介なんかと同じカテゴリだと思えばいいんじゃなかろうか。ああ、そうか、ワタシも、他のアルモドバルと似たような感じだという先入観でみたからダメだったんだな。坂口安吾とか芥川龍之介と同じカテゴリ。うん、我ながら言い得て妙かも。お薦めしないわけではない。ただアクは強い。

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image1104.png公開年:2006年 
公開国:スペイン
時 間:120分
監 督:ペドロ・アルモドヴァル
出 演:ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ、ローラ・ドゥエニャス、ブランカ・ポルティージョ、ヨアンナ・コボ 他
受 賞:【2006年/第59回カンヌ国際映画祭】女優賞(ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ、ロラ・ドゥエニャス、チュス・ランプレアベ、ヨアンナ・コボ、ブランカ・ポルティージョ)、脚本賞(ペドロ・アルモドバル)
【2006年/第19回ヨーロッパ映画賞】監督賞(ペドロ・アルモドバル)、女優賞(ペネロペ・クルス)、音楽賞(アルベルト・イグレシアス)、観客賞(ペドロ・アルモドバル)
コピー:ママ、話したいことがヤマほどあるの。
女たち、流した血から、花咲かす。

失業中の夫と一人娘パウラと暮らすライムンダは、10代の頃に、父母を火事で亡くしている。ある日、夫がパウラに関係を迫り、抵抗したパウラに刺し殺されてしまう。ライムンダは娘を守るために、夫の死体を隠す。すると、今度は故郷に住んでいる伯母の急死の報せが。ライムンダの姉ソーレが葬儀に訪れると、死んだはずの母イレネを見掛けたという村人たちの噂を耳にする…というストーリー。

アルモドヴァルお得意の女性の生き様シリーズ。いつもシリアスで重く感じるんだけど、冷静になって振り返ってみると、けっこう荒唐無稽な展開が多くて、実はあまりリアルじゃないエピソードばかり。それでもグっと心をとらえちゃうんだからアルモドヴァルの力量、おそるべし。もう名人芸の域かもしれない。

その点は本作も同様なのだが、いままでと違い、あからさまにサスペンス要素やミステリー要素が盛り込まれている。おや?いつもと毛色が違うか?と思わせるのだが、結局はいつもどおり女の生き様でムンムンした話に終着。アルモドヴァルを知らない人は、夫の処理のその後の顛末や、母親の存在はどうなるのかとか、それらがどういうオチになるのかについて執着してしまい、不完全燃焼と感じてしまうかもしれない。悪く言えば、半ば投げっぱなしで、未処理で終わる点に不満を抱くかも。まあ、でも、彼の作品はそんなものなので、慣れるしかない…というか、同じアホなら踊らにゃ損というか、そういうノリだと割り切って観たほうが幸せになれる。

それにしてもいつも以上に、セリフの緻密さが光る。冒頭の「未亡人が多いのね」がいい例だが、何気ないセリフの多くが伏線になっていて、ある意味油断も隙もないというか(笑)。まあ、こなれすぎて、いささか角が取れてしまった感は否めないが、映像も音楽も、これまでの作品に増して良いので、間違っても飽きることはないだろう。

仮に趣味に合わないという人がいても、つまらないとまで言う人はほとんどいないはず。最低でも良作評価保証作品なので、お薦めする。

ペネロペはこれまでの出演作の中で、一番のデキだろう。
 

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image1091.png公開年:2003年 
公開国:イタリア
時 間:109分
監 督:ガブリエレ・サルヴァトレス
出 演:アイタナ・サンチェス・ギヨン アドリアーナ・コンセルヴァ ジュゼッペ・クリスティアーノ ジュゼッペ・ボッキーノ ジョルジオ・カレッチア ステファーノ・ビアゼ ディーノ・アッブレーシャ ディエゴ・アバタントゥオーノ ファビオ・アントナッチ マッティア・ディ・ピエッロ 他
コピー:
その夏、少年は大人への扉を開けた


1978年、南イタリア。小さな地方の村に住む10歳の少年ミケーレは、廃屋の裏の穴の中に、鎖に繋がた少年を発見。恐ろしさのあまり誰にもその存在を打ち明けることはできなかったが、どうしても気になって何度も穴に通う。やがて、穴の中にいた少年フィリッポに水や食料を運ぶうちに、だんだんと友情を感じ始める。しかしある時、ミケーレ父や父の友人と称する大人たちが交わす、フィリッポにまつわる会話を聞いてしまい…というストーリー。

(いきなりネタバレなんだけど)

綺麗な田園風景と少年たちのさわやかなストーリで始まり、監禁された少年の秘密でナゾは深まり、最後は劇的な冒険譚に…と、褒めたかったのだが、残念ながらそうはならなかった。

父親は金持ちの息子の誘拐に関わって、村で監禁し、自分の子供がそれを見つけて…というプロットはとても良いと思う。しかしその後は、子供が子供なりの正義感で勇気をもってムチャしてくれたりしないと、全然盛り上がれない。さらに、その犯罪もチンケで面白みがない。それなりにハラハラドキドキの演出といえばそうかもしれないけれど、勇気、友情、正義感なんかをクローズアップして盛り上げることができる場面は多々あった。それなのに、わざとかと思うほど、その期待を削いでくれる。後半1時間くらいは、くしゃみが出そうなのに出ない状態がずっとつづくような、モヤモヤした時間が続く。まったくもってすっきりしない。最後にカタルシスを感じる終わりにすることはいくらでもできるたのに、全然である。最後、“グッジョブ!”って感じでミケーレは微笑むけど、映画全体は全然グッジョブで終わっていない。

フィリッポが見つかるまでと、友情を育むあたりがモタモタと長いのだが、そう考えると、正味楽しめる部分の時間は非常に短い。もうすこし別の傍線のストーリーがあって、並行して進めてもいいくらいである。誘拐された親のくだりとか、誘拐にいたった馬鹿大人たちのすったもんだとか、、、盛り込める要素はいくらでもあったのに。誘拐仲間の若者に見つかって車に乗せられたところとか、その若者に母親が食ってかかったところとか。

]悪くないと評する人もいるのを承知の上で、あえて厳しいことを言わせてもらうと、これは、きちんと完成しているとはいえない作品である。感動もカタルシスもない、観ている側にどういう気持ちになってほしいのか、まったく伝わってこない作品である。特段、観る必要のない作品である。お薦めしない。

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image1309.png公開年:2007年 
公開国:アメリカ
時 間:158分
監 督:ポール・トーマス・アンダーソン
出 演:ダニエル・デイ=ルイス、ポール・ダノ、ケヴィン・J・オコナー、キアラン・ハインズ、ディロン・フレイジャー、バリー・デル・シャーマン、コリーン・フォイ、ポール・F・トンプキンス、デヴィッド・ウィリス、デヴィッド・ウォーショフスキー、シドニー・マカリスター、ラッセル・ハーヴァード 他
受 賞:【2007年/第80回アカデミー賞】主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2008年/第58回ベルリン国際映画祭】銀熊賞[監督賞](ポール・トーマス・アンダーソン)、銀熊賞[芸術貢献賞](ジョニー・グリーンウッド:「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の音楽に対して)
【2007年/第42回全米批評家協会賞】作品賞、主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、監督賞(ポール・トーマス・アンダーソン)、撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2007年/第74回NY批評家協会賞】男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2007年/第33回LA批評家協会賞】作品賞、男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、監督賞(ポール・トーマス・アンダーソン)、美術賞(ジャック・フィスク)
【2007年/第65回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](ダニエル・デイ=ルイス)
【2007年/第61回英国アカデミー賞】主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)
【2007年/第13回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、音楽賞(ジョニー・グリーンウッド)
コピー:欲望と言う名の黒い血が彼を《怪物》に変えていく…

20世紀初頭。交渉を有利進めるために孤児を自分の息子として連れ歩く山師ダニエル・プレインヴュー。ある日ポールという若者から、自分の故郷に油田があるはずとの情報を得て、西部リトル・ボストンへ向かう。油田の痕跡を発見したダニエルは、即座に土地の買い占めに乗り出す。しかし、同業者の参入、ポールの双子の弟で住人の信頼を集めるカリスマ宗教家イーライとの確執、息子の事故など、様々な苦難がダニエルを苦しめる…というストーリー。

ディズニー配給には似つかわしくない、ハードな作風。
PTA作品は、いつも私が思い描く予定調和の、その上の展開を観せてくれるので、いつも好感をもって鑑賞している。今回も冒頭の10分以上台詞なしという演出や、強烈な個性の主人公、そしてPTA作品には常連(?)ともいえるカリスマ教祖的なキャラと、じつに“らしい”仕上がり。
とはいえ、中盤を越えても、一体何が言いたいのかテーマが掴めない難解な作品で、終盤になってようやく見えてきた。

“資本主義とは?”が、主題だと私は解釈した。

どういうことか。あくまで私見(というか、経済学上の自論)であることをお断りしておく。
資本主義がなぜ発展したか?というのには明確な理由がある。マックス・ウェーバー的に言えば、資本主義の基本理念は、「周りに何かしてあげて、それに対して適切な利益を得るのは、神の御心に沿っている」ということである。これはプロテスタントの行動様式であり、カトリックでは周りに何か施したからといって利益を得るのは神の教えに背くとされていた。つまり、プロテスタントの考え方こそが、資本主義を発展させたというのが、ウェーバーによる社会学的理論である。

でも、どうだろう。実際の経済活動において、周囲の利益のために何かをしようと常に考えている人がそんなにいるか?いないだろう。いないなら資本主義は発展しなかったのではないか?資本主義を発展させるための、もう一つ別のエンジンがあったんじゃないのか?というのが、ワタクシの理論である。

で、それはなにか。先に行ってしまうと、それは“ニアリー・イコール理論”。何と何が≠(二アリー・イコール=近似)かというと…
①周囲の人が幸せになるように労働をし、適切な対価・利益を得ること。
②対価・利益を得るために、周囲が求めそうなものを予測して、それに向かって労働すること。このまったく目的と行動が間逆の行為が、表面的には同じように見える…という、奇跡のような事象が、資本主義経済を発展させたのだ。①の目的は周囲への施し(愛といってもよい。②の目的は金(欲望といってもよい)。でも、表面的にはどちらも他者に満足してもらい対価を得る行為にしか見えない。愛ゆえの行動と、欲望ゆえの行動が、同じ動作になるとは!これを奇跡と言わずしてなんというか。仮に欲望だけをエンジンとして行動しても、資本主義経済は発展してしまう。むしろ欲望の塊の人間は、競うように資本主義経済発展に貢献するというわけである。

でも、まあ、日本もヒルズ族の所業と、その没落を見てきたわけだから、その“奇跡”にも穴があることは、なんとなくお判りかと思う。周りが求めそうなもの…というラインに収まっているならまだまだセーフなのだが、次第に、儲かるものは周囲が求めているものとイコールだと勘違いし始める(原因と結果がひっくりかえっているのに)。残念ながら、儲かるからといって周囲への愛と同意とは限らない。もう、散々聞き飽きただろうが、“儲かればいいのか?”という意見に繋がるわけだ。
(そこを詳細に説明するには別の理論を引っ張りだしてこないといけないので、ここでは割愛するが、)資本主義では、構造的に資本(財貨・資材)が一時的に偏って集まってしまう場合もあるし、誰も得をしないのに仕組的にお金になってしまうケースもあるし、偏在した資本を利用して有利な立場をつくってさらに儲けることもできる。

で、答えをいってしまえば、資本が目の前に“偶然にも集まってきた”人は、周りの人のためにどんどん投資しなくてはいけないのであるが、それをせずに、私欲を満たしたり、実際の利益を伴わない投機に使ったりすると、資本主義は破綻するのである(ああ、だれか、共著でいいから、一緒に論文にまとめてくれる人は、いないかなぁ…)。

で、二アリー・イコールなので、微かな差異が生じるわけだが、その差異は何か?“THERE WILL BE BLOOD”、つまり愛の変わりに血が流れるってことである。宗教としての愛(イーライ)も否定し、家族愛(HW)も踏みにじり、心は荒みに荒みきっても彼は財を成していく(資本主義は発展してく)のである。こういう欲望をエンジンにして、アメリカ経済いや世界経済は成り立ってきたのさ!本作は、そういう映画である。で、これが良いとも悪いとも主張していない、その目線も具合がいい。

、、、そして、こういう映画をディズニーという世界企業が配給する。ちょっぴりゾっとするでしょ。私は、はじめは(妙に長いし)イマイチな作品かな?と思っていたけれど、このテーマが見えてきた途端、猛烈におもしろく感じてきた。そう思えば、ダニエル・デイ=ルイスの欲の権化として、振り切った演技は実に見事。数々の受賞もさも在りなん。
個人的にはすごく楽しんだけど、お薦めしていいかどうかは悩むなあ(笑)。娯楽映画としては掴みどころがないし、大体にして長いんだもの(今日のレビューが長くなっちゃうくらい)。

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image0519.png公開年:2002年 
公開国:アメリカ
時 間:107分
監 督:M・ナイト・シャマラン
出 演:メル・ギブソン、ホアキン・フェニックス、ロリー・カルキン、アビゲイル・ブレスリン、M・ナイト・シャマラン、チェリー・ジョーンズ 他
コピー:それは──決して気づいてはいけない兆候(サイン)




牧師グラハムは、最愛の妻を悲惨な事故で亡くしてしまい、その無慈悲さから神に疑念を抱き牧師を辞める。農夫となったグラハムは、弟と2人の子供たちと共に平穏に生活していた。そんなある日、畑に巨大なミステリー・サークルが突然出現。それ以降、不審な人影が現れるなど奇怪な出来事が続発し…というストーリー…。

公開当時、劇場で観た。宇宙人モノみたいなCMだったけど、私には何かピンときていた。それはあくまで単なる仕掛けに違いないと。観終わったあと、発売されたらすぐにDVDを買おう!と思ったのを覚えている。私の予感は的中。本作はシャマラン監督作のなかで飛びぬけてお気に入りである(とかいうと、私だけが本作を評価してるみたいな言い方に聞こえるかもしれないけど、実際に興収34億円の大ヒット作だったんだけどね)。、、、と話すと、“はあ?”みたいな顔をされることが多々ある。宇宙人がでてきたとこで笑っちゃったけどね…とか、なんか細かいところでツッコミどころ満載じゃね?とか言われる始末。
申し訳ないが、そう仰る方々は、本作をどっきり映画とかパニックムービーとしてご覧になっているのだろう。私の観ているポイントは全然そんな部分ではないのだ。

本作のテーマは、カソリックでよく言うとことの“神の遍在”。というか、本作では特定の宗教の枠を越えて“人知を超えた大いなる存在”っていうものにアプローチしてみた作品(話は前後するけど、何で今、本作を観たかというと、『フェイク』の作中で、ジョニー・デップ演じるドニーが、ベッドの娘に神の遍在を問答するシーンがあって、思い出しちゃったからなんだけど)。

人間という生き物は、説明のつかない事象に対面した時、それが何なのか理由を見つけないと我慢できない生き物である。様々な自然の事象や生命の不思議、その理由や成り立ちはどうなっているのか。しかし、その探究心はある意味高尚かもしれないが、裏返せば悩み続けなければいけない苦痛の種でもある。その命題が人知の手に負えないものであれば、その苦痛は永遠に続くものにすら感じられる。
そこで、適当な答えを見つけることで安心を得ることが多々ある。その一つが宗教である。それに対して、いい加減な答えで納得するんじゃなくって、追試可能なレベルで検証しようとするアプローチが科学である。

往々にして両者は対立する(西洋の場合は)。宗教は科学が進めば、これまでリアルストーリーと信じていたものが“ファンタジー”とした貶められる。かといって“リアル”と信じ続けても、ファンダメンタリスト達の所業は歴史や様々な事件を見れば判るとおり、かえって宗教の存在価値を下げている。じゃあ、科学だけですべてが解決するかというと、科学が定説と主張したものだって時代が経てば誤りだということも多々あるし、根本的になんでもかんでもすぐに答えが見つかるわけではない。科学だけで人間の心が平穏になることはあり得ないのだ。

で、本作の、「人知を超えた大いなる“何か”はある。だけど、宗教や科学だけで解決しなくちゃいけないわけじゃないよ。“ある”ということを受け止めるだけじゃだめなのかい?」っていう目線。誤解を恐れずに表現すれば、きわめて東洋的。これが、私は大好きなのだ。
グラハムは、再度、牧師の服に袖を通すわけだけど、同じ牧師の服を着ていても、昔の彼とその目線を獲得したラストの彼は、まったく別モノ…ということである。申し訳ないが、多くの人が目くじらをたてる宇宙人のギミックなんて、この目線を語るための単なる味付けにすぎない。

ということで、未見の人には、強くお薦め。私の意見を押し付けるつもりはさらさらないけど、単なるパニックムービーでもホラームービーでもないことだけは判ってほしい。

もし、私が本作のような映画を作ることができたら、満足感でその後は腑抜けになってしまいそう。実際、シャマラン監督のその後の作品はイマイだから、あながちハズレでもない気はするけどね。私の中では、本作にてシャマラン監督は終わってる。『千と千尋の神隠し』の途中で、私の中の宮崎駿が終わったのと同じに。

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