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公開年:2008年
公開国:アメリカ、ドイツ
時 間:124分
監 督:スティーヴン・ダルドリー
出 演:ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、デヴィッド・クロス、レナ・オリン、アレクサンドラ・マリア・ララ、ブルーノ・ガンツ 他
受 賞:【2008年/第81回アカデミー賞】主演女優賞(ケイト・ウィンスレット)
【2008年/第66回ゴールデン・グローブ】助演女優賞(ケイト・ウィンスレット)
【2008年/第62回英国アカデミー賞】主演女優賞(ケイト・ウィンスレット)
【2009年/第22回ヨーロッパ映画賞】女優賞(ケイト・ウィンスレット)
【2008年/第14回放送映画批評家協会賞】助演女優賞(ケイト・ウィンスレット)
コピー: 愛は本に託された
1958年のドイツ。15歳のミヒャエルは気分が悪かった自分を助けてくれた偶然出会った21歳も年上の女性ハンナと知り合う。病気から快復した後、毎日のように彼女のアパートに通い、いつしか男女の関係に。やがて、ハンナはミヒャエルが読書好きであることを知り、本の朗読を頼むようになる。だがある日、ハンナは勤務していた市鉄で事務職に昇進することになり、それを境にミヒャエルの前から姿を消してしまう。8年後、ハイデルベルク大学の法科習生となったミヒャエルは、ナチスの戦犯の裁判を傍聴する。そしてその被告席に座るハンナの姿を見つけるのだった…というストーリー。
実は、中断につぐ中断で観終わるまでに数ヶ月掛かっている。なんでかというと、電車で観ていたので、あからさまなヌードシーンで周りの目が気になったから。これを、不必要なヌードシーンという人もいるようだが、私は必然性のあるヌードだと思う。変に隠したりすると、不必要に隠微な感じが増幅されたり、二人の間の感情が“愛”のように見えてしまう。それは絶対に避けるべきだと思うので、赤裸々な描写で正解だろう。
(以下、ネタバレ)
重罰になる可能性すら甘受するほど、文盲であることを恥じるバックボーンというか精神構造が見えないのだが、そこは慮るしかない。まあ、保釈直前のミヒャエルとハンナの会話を聞く限り、ハンナが普通の思考ロジックとか感情とは逸脱している様子は見てとれる。自分が情を交わした相手だからというよりも、人間として欠けた何かを見つけてしまったミヒャエルの悲しみは、私は良くわかる。愛を傾けている人なのに、決定的に分かり合えないことが判ったことの苦痛。それでも、なんとか庇護してあげられないものか…と、手を差し伸べられないかと考えている自分。諸々が織り交ざって涙が出てくるのだ。
親子ほど年の離れた女性との初恋なんだけど、彼にとってはおねえさんと坊やの火遊びじゃないんだよね。彼の愛はまもってあげたいという父性の発露。離婚をしてからテープを送り始める彼の律儀さというかマジメさというか、彼女に対する純真さもよく表現されていると思う。その反面、ハンナは最後まで“ぼうや”と言い続けるという、このギャップがまた痛々しい。
傍聴しているあたりの、学生達の行動も実によくて、ミヒャエルの心を揺さぶるのに充分寄与している。
一方のハンナは、牢獄のなかで文字を覚えるわけだが、それを獲得して何を失ったのだろう。実は、この点が私にとって一番よくわからなかった所なのだったりする。そのコンプレックスから開放されて、次のステップ(人間らしい感情?)に進んだのか?それも何かピンとこない。
でも、死んでよかったんじゃないかな…って思えてしまうほど、彼女の痛々しさだけは伝わってくるけど。
いつものことだが、この『愛を読むひと』という邦題が嫌い。別に“愛”を読んでなんかいないと思うのだ。原作邦題の『朗読者』のほうがマッチしていると思うが、劇場公開作としては弱いのでどうしてもというならば『朗読者~愛を読むひと』とでもすればよかっただろう。
ラストはあまり気持ちの良いものではない。
ユダヤ系の団体が、本作はナチスに好意的だといって非難をしたらしい。別にホロコーストを正当化する気などさらさらないが、完全な悪魔のように描かなければクレームを付けるという姿勢が本当に気に喰わない。こういうマイノリティの暴走を私は許さない。迫害の被害者だからといって、数千年前に聖書で約束された土地だからと言って、住んでいた人間を追い払うクレイジーな行為が正当化されるわけがない。私にはイスラエルを支持するユダヤ人を一生理解できるとは思えない。
缶を受け取ったことで、“小さな赦し”を表現したつもりかもしれないが、それすらピンとこない。
彼女が文盲だったといわれて、彼女が罪をかぶって、他の人間が軽い罪だけでのうのうと生きている!という所に目が行かなくなってるだけで、もう、生き残った娘にとって善悪とか法と罰とか、そういうことはどうでもよくなっているのだな…と思って、なんか不快になってしまった(なんか、似たような精神構造のお国が他にもあるような気がするが…)。
ケイト・ウィンスレットは、覆い隠したい過去と、望んでも得られるはずのない未来の間に生きる、ある意味“虚無の女”をしっかりと演じきっていると思う。はじめ、ニコール・キッドマンはハンナ役だったらしいが、彼女だったらクソみたいな作品になっていて気がする。
年上女性との甘くて危険な初恋が、ナチス裁判と絡むなんて実に新鮮だし、反面、ちょっと間違えればトンデモ話になりそうなところをしっかり成立させているのが秀逸だと思う。お薦めしたい。
負けるな日本
公開年:2005年
公開国:アメリカ
時 間:74分
監 督:スティーヴン・ソダーバーグ
出 演:デビー・ドーブライナー、ダスティン・アシュリー、ミスティ・ウィルキンス 他
郊外にあるソフトビニール人形工場に勤務するマーサとカイル。突然の大量注文により工場は大忙しとなたっため、若いシングルマザーのローズが入社する。カイルとローズはすぐに親しくなり、これまで平穏だったマーサとカイルの間に、微妙な空気が漂い始める。ある日、ローズが週末にデートをしたいので子供の面倒を見て欲しいとマーサに依頼する。臨時収入がほしいマーサは快く引き受けるが、いざ当日ローズに家にいくと、デートの相手としてカイルが現れ…というストーリー。
実は昨日の『ガールフレンド・エクスペリエンス』と1枚のDVDにまとめられている作品(だからジャケット写真も同じね)。同じ監督の短編だから…という理由だけではなくて、この二作は共通点が多い(ある意味、連作なのかも)。
『ガールフレンド・エクスペリエンス』が都会の底辺で生きる女の生き様を切り取った作品だとすると、本作は郊外の工場で働く底辺で生きる女のお話。父親の介護をする独身女で、工場勤務だけでは生きていくのもやっとなワーキングプア。
娼婦という生き方も女性ならではだが、親の介護をする姿も女性らしいといえばそう。細かい設定はわからないが、親の介護のために彼女自身が多くのものを失っており、それを強く抑圧して生きている(それを、デイヴィッド・リンチばりのトランス演出で表現)。
#残念ながら、この演出が取って付けたようでいまいちピンとこなかったりする。
娼婦という生き方に納得しているようで普通の生き方を無意識に求めていたように、本作では、喜びのない抑圧された人生に諦めているようでいて、無意識に女性として生きることを諦めきれないでいる(明示こそ無いが、カイルに好意をもっていたのかもしれない)。
また、『ガールフレンド・エクスペリエンス』に現役のポルノ女優を起用しているように、本作のキャストも素人さんばかりらしい。
ただ、残念ながら“バブル”というタイトルや、人形工場が、何かの隠喩なのかよく判らなかったりして、ちょっと入り込めない壁みたいなものを感じてしまった(年のいったシングル女性に共感できなかったからかもしれない)。まあ確かに、短編2本抱き合わせでちょうど良い内容ではある。特段お薦めはしないが、一緒にみることでいくらか意味が出てくるかも。そんな程度。
負けるな日本
公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:77分
監 督:スティーヴン・ソダーバーグ
出 演:サーシャ・グレイ、クリス・サントス、マーク・ジェイコブソン 他
ニューヨークのマンハッタン。エリートたちを相手にした高級エスコート嬢として働くチェルシーは、彼女はセックスだけでなく、本当の恋人と過ごしているような経験を売りにして、1時間2000ドルを稼いでいるフリーランス。顧客の理想のガールフレンドを演じるために、ファッションや自己研鑽への投資を怠ることがないプロである。さらにビジネスを発展させるために、ウェブサイトを立ち上げたり、影響力のある評論家の推薦してもらうなどの努力を重ねている。その一方、彼女の仕事を理解する恋人クリスと同棲もしている。クリスはエリート相手のスポーツジムでトレーナーをしているが、仕事に行き詰まりを感じ始めていた時に、男性だけで行くラスヴェガス旅行に顧客から誘われる。クリスがそのことをチェルシーに打ち明けると、2人の関係はぎくしゃくし始め…というストーリー。
元々、インディーズ出身のソダーバーグなので、この手の作品はお得意なんだろう。都会の1ページを、ポートレートとして切り取ったような、アート臭すら漂う作品である。
ただ、都会の1ページとはいえ、写し出しているのは都会の底辺。高級“エスコートガール”なんていっているが、所詮は娼婦である。セックスがあるときもあれば無いときもあるわけだが、それは男性側の趣味が多様化しているだけのこと。
(短編ゆえにかなりネタバレになってしまっている。これから観る人は、以下要注意)
そんな彼女が、「自分はこんなレベルじゃない」と言わんばかりにのし上がろうともがき続ける。とはいえ、どんな策を講じようが、結局は自分の時間には限りがあるわけだから、回転数を上げるか時間単価を上げるしかないので、ビジネスとして拡大にしようにも限界があるはず。
しかし、その反面、信じるのは自分だけ!みたいな感じのくせに、“人間学”とかいうエセ科学をどっぷり信じており、行動様式はそれに侵食されてしまっている。
そんな足掻きの結果、特に好転したことは無く、むしろ失ったものが大きい有様。挙句の果てには、“人間学”的に相性のいい客にめぐり合ったと言って、客とは親密にならないというルールを破ってまで旅行を敢行。ある意味、娼婦の生活に疲れて、普通の女として生きることを選択したようにも見えるが、当然そんな白馬の王子様はいるわけもなく。カウンセラーみたいなおっさんにも、最後にはネチネチと気持ち悪く言い寄られるし、一体男ってなんなのさ…、そんな感じで、結局、元のレベルのビジネスに戻ってしまう。
彼女の“EXPERIENCE(経験)”の先に何があったのか。
現役ポルノ女優が主演をしているのだが、フィジカルな接触に躊躇するそぶりを微塵でも見せようものなら一瞬にして興醒めしてしまったと思うので、(語弊はあるが)本物に演技してもらったのは正解だろう。
本作に出てくる人間すべての共通しているのは、“愛嬌”とか“人懐っこさ”とかが無いところ。それが“愛”なんていう気は毛頭ないけれど、人間と人間の間に必要なものって、そういうものなんじゃないかな…と感じさせてくれた。
#欠けた人間は同じように欠けた人間と呼び合うのかもしれない。
まあ、多くを語らない分だけ、色々考えさせてくれる作品。飛びぬけて面白いわけじゃないのだが、嫌いじゃない一本ってところかな。軽くお薦め。
負けるな日本
公開年:2005年
公開国:アメリカ
時 間:144分
監 督:ロン・ハワード
出 演:ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウィガー、ポール・ジアマッティ、クレイグ・ビアーコ、ブルース・マッギル、パディ・コンシダイン、コナー・プライス、アリエル・ウォーラー、パトリック・ルイス、ロン・カナダ、デヴィッド・ヒューバンド、ローズマリー・デウィット、リンダ・カッシュ、ニコラス・キャンベル 他
受 賞:【2005年/第11回放送映画批評家協会賞】助演男優賞(ポール・ジアマッティ)
コピー: ――心で語り継がれる《奇跡の実話》――
妻と3人の子供と暮らすボクサーのジム。しかし、将来を嘱望されていたが右手の故障により、ライセンスを剥奪され引退することに。折りしも世の中は大恐慌で、ジムは失業者の一人として日雇労働者として家計を支える。そんなある日、元マネージャーのジョーから、一夜限りの復帰試合の話が舞い込む。相手はとても勝ち目のない新進気鋭の選手だったが、負けても得られる報酬で家族を救えるという一心で試合を引き受ける…というストーリー。
実在のボクサーのお話だが、この作品の素晴らしいところは、この人物を通して、何かの人生訓みたいなものを押し付ける気がないこと。
この映画をみて、何が言いたいのかわからんという人がいるかもしれない。でも、映画というのは明確なメッセージ性があって然るべきというその発想が誤りだと私は思う。
この映画のテーマは家族愛だという人がいる。間違っているとは言わないが、ロン・ハワードはそんな押し付けをする気はないと思う。彼は、純粋にブラドックの生き様を知ってグっときた。そのグッときた感情をそのまま映画として伝えることにした。ねえねえ、みんなもこの人を見てグッとこないかい?なんでグッときたかなんて、説明させんなよ。みんなが俺と同じようにグッとくればそれでいいのさ。
そして彼は、自分がグッときた感じを毀損しないように、一生懸命に作った。そして私もグッときた。いちいち考える必要なし。そういう作品だと思う。
あの社会状況の下にいた場合、自分だったらどうするか。自分がブラドックだったら。自分が妻の立場だったら。特異な人物として描いているわけではないので、ものすごく投影しやすい。共感しやすい。そして、自分もそういう選択をするかもしれないな…という感情と共に、彼らと一緒にラストに向かっていくという、観ている側と作品との一体感。実在人物の映画は数あれど、この作品の描き方の手法は素晴らしいと思う。
本作を観て、ただ感動を押し付けられているだけで薄っぺらいなんて感じる人は、べたべたで判りやすい韓国ドラマでもご覧になっていればよろしい。おそらくこの作品は、感性のリトマス試験紙的な映画だと思う。この映画がおもしろくないと感じる人は、私と映画の趣味が合うことはないだろう。
もう一点、特筆すべきなのは、肝心のボクシングシーン。『ロッキー』はもとより『ミリオン・ダラー・ベイビー』なんかと比較しても、ボクシングシーンのリアルさというか緊迫感がハンパない(ちょっと『レイジングブル』がどうだったか思い出せないのね№1と断言するのは避けておこうかな)。
快作。強くお薦めする。
負けるな日本
公開年:1998年
公開国:アメリカ、デンマーク
時 間:133分
監 督:ビレ・アウグスト
出 演:リーアム・ニーソン、ジェフリー・ラッシュ、ユマ・サーマン、クレア・デインズ、ハンス・マシソン、リーネ・ブリュノルフソン、ピーター・ヴォーン 他
窃盗の罪で19年の刑期を終えて仮出獄したジャン・バルジャンは、行く先々で宿泊を断られ、屋外で寝ていたところ教会の司教に救われる。しかし、教会の銀食器を盗み、憲兵に捕まってしまう。翌朝、憲兵たちはバルジャンを教会につれていき、銀食器がここから盗まれたことを確認しようとしたが、司教は「銀器は私が与えたものだ」と言い、さらに銀の燭台もバルジャンに渡してしまう。司教の慈悲深さに心を打たれたバルジャンは、改心を決意するのだった。その9年後、彼はヴィゴーの工場主兼市長として、尊敬を集める存在になっていた。しかし、新任の警察署長ジャベールに正体を見破られてしまい…というストーリー。
私の記憶にあるレ・ミゼラブルは、「まんが世界昔ばなし」とか小学校の図書館の本のレベルで、単なる改心した正直者のお話だった。フランス王政打倒!(六月暴動)なんてのは無かったので、ものすごく新鮮だった(というか、ここ大事だよね)。
盛りだくさんのエピソードをきれいにまとめているのだが、そんなレベルをはるかに超えて名作でしょう、これは。
原作では、結婚した娘夫婦のくだりから、ジャン・バルジャンの死まで描かれるが、本作はそこまで到達せず。でも、ここで切ったこと自体が出色。テーマは“真の自由”だから、そこまでで充分。あそこで切るからこそ、王政からの自由を掲げる六月暴動との対比が生きる。
難点は、ジャヴェールの死。“法”というものに絶対的な信頼を置いているのだ!という描写がすこし不足しており、単に感情面で偏執的になっているだけに見えるのが難点。自分が不利益を被っても法に従うという部分(表現されていないわけではないんだけど)を、もう少し厚くすれば、ラストもすっきり納得できたかも。そうすれば、ジャン・バルジャンの最後の微笑の意味も変わってきたかもしれない。
さりげなくユマ・サーマンの演技がよろしい。あんまりガリガリじゃなくって、あんまり死にそうには見えないけれど、世の中ガリガリになる病気だけじゃないし、工場勤務していたことを考えれば、筋肉質な腕も、それはそれでリアルかと。
何の受賞歴もないけれど、これは予想外のデキだった。赦しって何、心の開放って何…と、素直に考えることができた、お薦めの一本。
負けるな日本
公開年:2008年
公開国:アメリカ
時 間:102分
監 督:テリー・ジョージ
出 演:ホアキン・フェニックス、マーク・ラファロ、ジェニファー・コネリー、ミラ・ソルヴィノ、エル・ファニング、エディ・アルダーソン、ショーン・カーリー、コーデル・クライド、アントニー・コローネ、ゲイリー・コーン、ジョン・スラッテリー 他
コピー:あの日、あの場所で、すべてが変わった。
突然の事故で最愛の息子を失った家族。調査を依頼した弁護士は、ひき逃げ犯人その人だった……。
大学教授のイーサンは、妻グレースと2人の子どもジョシュとエマの4人家族。平穏な日々を送っていたが、ある夜、息子ジョシュがイーサンの目の前でひき逃げにあってしまい、命を落としてしまう。ひき逃げをしたのは同じ町に住む弁護士のドワイト。息子ルーカスを約束の時間までに門元妻ルースのもとに送り返そうと焦っていたのだ。その時に轢いた子供が死んだことを知り、罪の意識に苛まれながらも、子供との関係や仕事まで失うことに躊躇して自首できずにいると、なかなか進展を見せない捜査に業を煮やしたイーサンは、独自に事故調査を進めようと、ドワイトが勤務する弁護士事務所に依頼へやってきて…というストーリー。
『ホテル・ルワンダ』の監督なので、本作もまるで実話ベースなのかしら…と思うほど現実感のある仕上がり。
事故直後とその後の展開で、キャラクターの心持ちが変遷するというか入れ替わる様子が面白い。また、それがニ軸ある。
一つは妻エマと夫イーサン。始めは妻エマが精神的ダメージを大きく受け、家事すら手につかないのだが、残された娘を大事に育てることこそ指名と感じ着実に立ち直ろうとする。反対に夫イーサンは、泣き崩れる妻をフォローして何とか家族を崩壊させないために平静を保っているのだが、見えないところで事故に対する納得のいかない思いを追求するうちに、次第に家族を維持していこうという気持ちが優先されなくなってくる。そして、いつしか妻と夫の心持ちは入れ替わっていく。
もう一方の軸は被害者の父イーサンと加害者のドワイト。初めは納得の行かない息子の死に直面したイーサンに同情できるのだが、だんだんと暴走して周囲に悪影響を及ぼしてく様子に、見ている側も「おいおい」という気持ちが膨らみ、彼への共感が薄れていく。一方のドワイトは、自らの素行の悪さから離婚している男で、息子と離れたくないという思いだけでひき逃げから逃げ廻っており、非常に腹立たしい。しかし、自首しようと心に決めるものの、状況的にうまく噛み合わずそれができず、そうこうしている間に、何とか今後息子が受けるであろうダメージを軽減するためにできることをしてやろうという思いが伝わってきて、悪い奴だとわかってはいつつも共感度は増していく。
#火の鳥 鳳凰編みたいだね
演者のチョイスも非常によくて、真面目につくられている作品。逆にもうちょっと過度な演出をしてもいいんじゃないか?って思うくらいなのだが、これは昨今の映画が、ドラスティックすぎたり、奇を衒いすぎたりするので、相対的にそう感じるだけであって、むしろあるべき映画の姿なのかもしれない。テリー・ジョージという名前、覚えていたほうがいいかな…と。佳作。軽くお薦めする。
負けるな日本
公開年:2007年
公開国:イギリス、フランス
時 間:94分
監 督:ガース・ジェニング
出 演:ビル・ミルナー、ウィル・ポールター、ジェシカ・スティーヴンソン、ニール・ダッジェオン、ジュール・シトリュク、エド・ウェストウィック、アンナ・ウィング、エリック・サイクス、アダム・ゴドリー、エイサ・バターフィールド、アダム・バクストン、エドガー・ライト 他
ノミネート:【2008年/第62回英国アカデミー賞】新人賞(ガース・ジェニングス)
コピー:ボクたちの、想像力と友情が世界をちょっとだけ変えるんだ。
1982年のイギリス。郊外の町に暮らす少年ウィルは、父親のいない家庭に育った小学5年生。家族が戒律の厳しい教会に
1982年のイギリス。小学5年生のウィルは母子家庭で、かつ家族が戒律の厳しい教会に所属しているため、TV・映画だけでなくすべての娯楽を禁じられる生活をしていた。そんなつらい生活の中でも、持ち前の豊かな想像力を発揮し、彼の聖書の中はカラフルな絵とストーリーで満ち溢れていた。そんなある日、とあることから学校で一番の悪童リー・カーターと知り合いになる。そして、彼の家で生まれて初めての映画『ランボー』を観て、強い衝撃を受ける。すっかりランボーに夢中のウィルは、リーが兄のビデオカメラを無断借用して製作しようとしていた自主映画に協力し、自ら“ランボーの息子”を演じるのだったが…というストーリー。
2007年製作にもかかわらず、日本での公開は2010年で、レンタル開始にいたってはつい最近という作品。なんでこんなにタイムラグが発生したのやら。ランボーの映像を映像を普通に使用しているので、版権の調整とか面倒くさそうだな…とは思ったけれど、それが理由ではなかろう。単に日本の配給会社の食指が動かなかっただけかな。
抑圧された生活をおくる少年が、ランボーを観たことで変わっていく…というこのプロット自体はものすごく魅力があるのだが、実際みていると薄味というか、とてもボヤけている。余計な調味料をブチ込んでしまったようなそんな感じ。
例えば、フランス交換留学生のくだりが、なぜフランスからの交換留学生でなくてはいけないのか?その学校に元からいるああいうキャラの生徒や、転校してきた金持ちの子供とかではいけなかったのか?フランスに帰るしょぼーんな彼からもイマイチ感じるものはなくて、やっぱりフランス人であることのメリットが感じられない。
#まあ、イギリス・フランス合作なのはわかるけど、それはそれ、これはこれでしょ。
また、リーがあんなに兄に対してコンプレックスを持っていたと感じさせる演出が前半部分に不足していて、ちょっと唐突に感じる。リーの家庭環境が不遇なのはわかるが、なぜ兄だけに固執しているのか、なんで同じように母親に対するコンプレックスは無いのか?とか、ちょっとディテールが甘い気がする。
あの、わけのわからん教会の集会で時計を並べているくだりとか、よく意味のわからない部分も多い。
映画作りへの魅力の感じ方のズレや、友情への重きの置き方のすれ違いなど、二人の間に生じているズレを巧みに表現することこそ大事なのでは?と思うのだが、肝心なその辺は、フガフガしていたりする。
個人的には、本作に流れる英国特有の閉塞感が、どうにもこうにも性に合わない。本作だけでなくイギリスのコメディ作品の多くが、判で押したように、貧しい階級がその状況から抜け出すチャンスが与えられておらず、且つ、大人も子供もあきらめているように見えるのが、非常に不快。特に学校が出てくる作品で、その傾向は顕著。イギリスの教育現場のニュースなどを聞く限り、それが事実らしいのがまた心苦しい。
イギリスでは校長に大きな裁量が与えられているのだが、その裁量が生徒たちの自由な行動を制限しているだけでなく、排他的な方向に作用しているのが非常に奇妙(気に喰わない生徒は入学させなかったり、恣意的な校則をつくったりね)。社会主義的管理方法が骨の髄まで染み込んでいる世代による老害が発生しているのかな。
それが、こうやってコメディ映画の中の夢まで奪っているというのがなんとも…。日本に教育現場が特段いいとは思わないのだが、海外の教育現場を見ると、まだマシと思えることが多いのが悲しい。
そして、先日に『ウィッカーマン』同様に、時代錯誤な教義を子供に押し付けるコミュニティが普通に存在する気持ち悪さよ…。
ただ、とにかく彼らが映画を作っている様子は、純粋に“楽しそう!”と感じる。映画を愛すること、ひいてはモノつくりの素晴らしさを改めて感じられる一作であることは間違いない。あれがコンテストになんとか応募できて…みたいな展開ではなく、ああいう終わり方であったのが本作の救い。この一点において、最後に心が動いたことは認めよう。すべての杜撰さは、とりあえず帳消しにしても良かろう…そう思うほど。軽くお薦め。
#というか、最後の展開のイメージが先にあったんだろうな。
負けるな日本
公開年:2000年
公開国:アメリカ
時 間:136分
監 督:ガス・ヴァン・サント
出 演:ショーン・コネリー、F・マーレイ・エイブラハム、アンナ・パキン、ロブ・ブラウン、バスタ・ライムス、マイケル・ピット、マイケル・ヌーリー、リル・ゼーン 他
コピー:あなたが教えてくれた、人生がこんなに美しいこと。
ジャマールは、ニューヨーク・ブロンクスの公立高校に通う16歳の少年。友人とともに得意なバスケを愉しむ毎日だったが、実は、読書や自分の思いを書きためるほど文章を書くことが大好き。しかし、勉強好きと周囲から思われるのを嫌い、ひた隠しにしていた。ある日、友人たちにそそのかされて、ミスター・ウィンドウとあだ名される謎の老人の部屋に忍び込むジャマール。何も取らなかったが、あわてて飛び出したせいで、リュックを置き忘れてしまう。リュックの中にはジャマールが書きためていた自分の創作ノートが入ってた。リュックを取り返してもらおうか、老人のアパートの前で考えあぐねていると、部屋の窓からリュックが落とされる。戻ってきたリュックの中のノートには赤字で老人の批評がびっしりと書きこまれており…というストーリー。
一風変わった老人と前途有望ながらも問題を抱える若者が出会い、人生の手ほどきを受けるというプロットは『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』と非常に近い(脳裏をかすめた人も多いに違いない)。日本だと職人の師弟の間でこういう関係は見られるが(料理人修行のストーリーとかね)、普段の生活の延長の中ではめずらしい。邪悪ではあったが『ゴールデン・ボーイ』もそんな感じだったし、アメリカでは比較的自然なことなのかもしれない。打算的に依存しているわけでもないし、単なる馴れ合いでもなく、年の違いを超えて大人同士として礼儀をわきまえて付き合う姿は、非常にスマートに感じる。
生活環境が悪い中で自分の才能を開花させようとする若者と、世間との関係に失望し自分の才能を発揮する機会を閉ざしてしまった老人。出会うはずのない二人が文章という共通点をきっかけに出会う。各々の生活にはそれぞれの解決すべき問題があり、お互いに影響を与え合うことで、それぞれが変わっていくというのは、良いシナリオの王道である。
実に巧みで「やられた!」と思ったのは、バスケ部仲間との軋轢のくだり。きっと、この感じの悪い金持ちライバルとは、もうひと悶着あるっていう伏線のセットアップなんだろうな…って思っていたのだが、実はフリースローのためだけの前フリで、本筋の悪役ではないというスカし。わざとはずしたのか?って思わせるための伏線って、そこに使うかー!っていう驚き。こういうスカしは大歓迎。
そのバスケ部のライバルに代わって、本筋の悪役になるのが、作文のクローフォード教授。クローフォード教授とは、フォレスターも過去に関わりがある。ジャマールとフォレスターの直接関係だけでなく、ジャマールとクローフォード教授の関係、フォレスターとクローフォード教授の二つの関係が、さらに関係するという、関係の二重構造も実に巧みだと思う。最終的にクローフォード教授をとっちめるくだりは、溜飲を下げるに充分(こういう輩は社会に多いからね)。『YAMAKASI』みたいな、チョンボはやらかさない。
盛り上がりや話のダイナイズムは『セント・オブ・ウーマン』のほうが上だと思うけど、まとまりや巧みさという観点ではは本作のほうが上だし、丁寧でかつ自然な仕上がりに非常に好感が持てる。
最後の相続のくだりがいるかいらないか、好みの分かれるところだろう。でも、マット・デイモンが出てくるのには、思わずニヤリとしちゃうし、本作が、ガス・ヴァン・サントの中で、『グッドウィルハンティング』の正統な流れってことを表しているとも言える。
とにかく、シナリオのセオリーをはずしておらず、穴が無い。難点は、結局二人の主人公は、素晴らしい才能の持ち主で、私たちポンコツとは違うってことだけ(笑)。それを、共感できない決定的な壁と感じた人には、おもしろく思えないかもしれない。問題はその程度で、とにかく実にうまいので、お薦めしたい。
#私が褒める作品は、案外、受賞歴が無かったりする。一般的な感覚とズレてるのかなぁ。
負けるな日本
公開年:2007年
公開国:ノルウェー
時 間:90分
監 督:ベント・ハーメル
出 演:ボード・オーヴェ、ギタ・ナービュ、ビョルン・フローバルグ、エスペン・ションバルグ 他
ノミネート:【2008年/第21回ヨーロッパ映画賞】エクセレント賞(Petter Fladeby:音響デザインに対して)
コピー:特急よりも、各駅停車
オスロのアパートで一人暮らしをしているノルウェー鉄道の運転士オッド・ホルテン。これまで勤続40年。ついに67歳の定年を迎え、いよいよ明日の乗務をもって最後の勤務となる。退職前日ということで、同僚が送別会を開いてくれたのだが、ちょっとしたことで同僚の家に入ることができなくなり、別宅に迷い込んでしまう。ついついそこで眠り込んで朝をむかえ、最後の最後で人生初の遅刻をして担当の列車に乗り遅れる。こんな運転士生活の幕切れに落胆し、生活リズムまで乱れ始めたホルテンは、これまでの人生で関わることのなかった出来事や人々と関わることになり…というストーリー。
冒頭の運転席の映像と音楽の組み合わせは好み。北欧映画のライティングや撮影技術も元々好きなので、技術的な穴は感じなかった。キレイにできていると思う。ストーリーの独特のテンポも性に合う方だと思う。とにかく40年同じリズムを刻んでいた主人公なので、あえても淡々とした雰囲気を維持しようとしているのだと思う。これが退屈と感じるか“味”と感じるか。おそらく、かなりの人がイマイチと思うだろうが、私は許容範囲だった。
ただ、邦題にあるところの“はじめての冒険”の部分が実につまらない。ちなみに、残念ながら本作にはそんな冒険は登場しない。確かに、40年間、判で押したような生活の連続なのだから、こんな散歩のようなはみだしも冒険だってことなのかもしれないが、原題にそれが無いことからわかるように、邦題の勇み足、ズレた邦題である。
彼が遅刻するまでが導入部であって、その後の展開が本筋のはずだが、その本筋で発生する出来事が、ことごとくおもしろくない(悪いけど、とてもコメディにカテゴライスする気になれない)。
プールで泳いでみたり、これまでやったことのないことに踏み出すのだが、観ていてそれほどドキドキを感じないし、ホルテンさんの中に生まれているであろう変化が伝わってこない。そう、人の良さそうな小市民なので、サラリーマンは共感を得られそうなものなのだが、まったくホルテンに共感をもつことができないのだ。それどころか、同じ人間という感じもしない。キャラクターの練りが甘くて、監督自身も共感していないのでは?とすら感じる。
#ホテルで「最後は飛行機で帰ろうと思う」って、本人も自分を変えようとしていたりとかしていて、なんかキャラにぶれがあると感じる(その段階では、まだ、頑なにルーチンワークに徹してるべきなんじゃないのかな。演出的に)。
ちなみに、DVDジャケットの制服で犬を抱いている写真を見て、最後の勤務ですったもんだのドタバタに巻き込まれるんだろう…なんて、大抵の人は予測するだろうけど、そんなものは存在しない。そして、その予測は単に裏切られるだけで、替わりのものが与えられることはない。
船を売るくだりにいたっては、そのすったもんだが、あまりにもへたくそなドタバタ(売ったことにどれだけの意味があったのかもよくわからない)。最後の連結器ガッチャンコなんていう演出は、よくもあんな陳腐な表現を恥ずかしげも無くできたものだと、ちょっとウンザリしてしまった。まあ、簡単に言えば、はじめの掴みがピークで、あとはどんどんトーンダウンしていくだけの作品である。ん~、こんなに辛らつに非難するつもりは無かったのだが、字にしていくと、悪い点しか浮かんでこない。もったいぶっておけば芸術っぽく見えると、勘違いしているのでは?と、イヤなことを言いたくなる。
したり顔で、アンディ・ウォーホルの真似っこした絵を自慢されたみたいな感じ(伝わんねーか(笑))。もちろんお薦めしない。
負けるな日本
公開年:1941年
公開国:アメリカ
時 間:119分
監 督:オーソン・ウェルズ
出 演:オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、ドロシー・カミング、エヴェレット・スローン、アグネス・ムーアヘッド 他
受 賞: 【1941年/第14回アカデミー賞】脚本賞(ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ)
【1941年/第7回NY批評家協会賞】作品賞
【1989年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
テーマパークのような大邸宅“ザナドゥ”で、かつての新聞王ケーンは“バラのつぼみ”という謎の言葉を残して死ぬ。彼の生涯をまとめたニュース映画の製作が進んでいたが、製作者はその誰でも知っているような内容に不満を抱き、ケーンが最後に遺した言葉の謎にスポットを当てるように、記者トンプソンに指示する。彼は、二人目の妻で歌手のスーザン、後見人の銀行家サッチャー、ケーンの新聞社で右腕だったバーンステイン、かつての親友リーランド、大邸宅の執事など近しかった人物に取材を重ねるのだったが…というストーリー。
昨日に続き古い作品。『第三の男』より古くて、DVDの画質はものすごく悪い。オリジナルネガが紛失しているからだと思うが、デジタル技術でもうちょっと修復してほしい(まあ、ブルーレイでやるだろうけど)。
#でアメリカ国立フィルム登録簿には、上映ネガが登録されてるんだろうな。
映画検定的にいえば、近距離から遠距離までピントを合わせるパン・フォーカスってやつが有名だけど、それだけじゃなくて、幼少時代・青年期・晩年を、撮影技法を変えることで表現している所に、入魂のほどが覗える。
冒頭の臨終から、生い立ちを語るニュース映画を差込んで、「こんなんじゃダメだー」的に現実に話を戻し、そこから生い立ち探しが始まるという古臭さを一切感じさせない構成・編集。1941年っていたら、第二次世界大戦にアメリカが参戦したかしないかのころ。当時観たら、ものすごく斬新に感じたと思う。
私が資本主義社会に毒されているのか(笑)、一番マトモな人間はケーンに見えた。いや、ケーンだけがまともに見えるのだが、私の頭はおかしいだろうか。周囲の人間は、ケーンのことを傲慢で強引に思い通りに事を進めるいけすかない奴だと言っている。しかし、思い通りにならないことをケーンのせいにして、自分の愚かさを省みず、そのくせ彼を利用しようとしている。そしてその浅はかな計算がばれないように、時にはへりくだり、時には彼の傲慢を糾弾するという、ものすごく気持ちの悪い人間たちに見える。
薔薇の蕾のくだりは、画質が悪くて、燃えたのが何なのか非常にわかりにくかったが、まあ理解はした。彼が求めていたものが、母の庇護、簡単に言うと無条件の愛情を与えられるべき時期に与えられなかったってこと。しして、それが何と引き換えになったのか。その引き換えになったものを恨んでいたゆえに異様な浪費に繋がったんですよ…と。まあ、なんでそれが、あそこまで支配欲・権力欲を発揮することになるのか…については、実在の出版王ハーストというモデルがいたからだろう。
一見、我の強い人間も、結局は生い立ちや周囲の環境によって形成されているのだよ…という意味ならば、その観点には同意する。とにかく、ケーンに感じるシンパシーで、ストーリーにぐいぐい引き込まれたのは事実である。
そしてこの斬新な映画を、この時25歳のオーソン・ウェルズが初監督・主演してるっていうんだから驚く。青年から晩年のメイクもなかなか自然だし、技術的な穴は少ないね。製作年の古さと、それを感じさせないギャップという意味では、数ある映画の中では随一といえるだろう。見にくい面は否めないけど、それを押してでもお薦め。
負けるな日本
公開年:1989年
公開国:アメリカ
時 間:100分
監 督:スティーブン・ソダーバーグ
出 演:ジェームズ・スぺイダー、アンディ・マクダウェル、ピーター・ギャラガー、ローラ・サン・ジャコモ、ジェームズ・スペイダー、ロン・ヴォーター 他
受 賞:【1989年/第42回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(スティーヴン・ソダーバーグ)、男優賞(ジェームズ・スペイダー)、FIPRESCI[国際映画批評家連盟賞](スティーヴン・ソダーバーグ)
【1989年/第15回LA批評家協会賞】女優賞(アンディ・マクダウェル)、ニュー・ジェネレーション賞(ローラ・サン・ジャコモ)
【1989年/第5回インディペンデント・スピリット賞】作品賞、監督賞(スティーヴン・ソダーバーグ)、主演女優賞(アンディ・マクダウェル)、助演女優賞(ローラ・サン・ジャコモ)
【2006年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
弁護士のジョンと専業主婦のアンは、理想的な夫婦。しかし、ジョンはアンの妹シンシアと肉体関係にあり、アンはジョンとの夫婦生活に違和感を感じ精神科のカウンセリングを受ける日々。そんなある日、ジョンの旧友グレアムが彼ら夫婦を訪れる。グレアムと関わることで、アンの内面に潜んでいた自分自身が浮かび上がり、これまでの生活が偽り満ちていると思えてきて…というストーリー。
けっこう好きな監督ソダーバーグだけど、そのデビュー作を観るのははじめて。というか、当時、このタイトルのビデオをレンタルするのが、なんとなく憚られただけなんだけど。もう、そんなこと気にする歳ではない。
一言でこの作品を表現しろといわれれば“寸止め”かな。相手の心に踏み込むことで人生が変わっていくような内容ではあるけれど、すべての人間関係がザクっと刺さっていない感じ。そう、あらゆる関係が“ためらい傷”レベルの影響しか与えていない。この寸止めで生じている空気感を良いと思うかどうか。
決して悪い作品だなんて思っていない。むしろかなり好意的に観た。しかし、若干26歳にしてパルムドールを獲った作品ではあるが、そこまで高い評価に値する作品かどうかは微妙。というか、カンヌの選考委員が独りよがりでアーチスト気取りの馬鹿なのか、もしくは他の作品がポンコツだったかだと思う。
#ちなみに、今村昌平の『黒い雨』も候補だった年だね。
こういう寸止め演出というのは、その余韻と必要以上に演出しない手法のせいで、見ている側の想像に拠るところが多い。自分の気に入ったものは認めるけど、気に喰わないものは認めないような人だって、自分の想像したものは、自分の描いた好みの想像なわけだから、評価は高くなるのはあたりまえ。自分大好きなやつらばかっかりだもの。他人の作品を評価してるんじゃなくて、自分の想像力を評価してるだけなんだよね。
そして、こんな若い奴が金もかけずにこんな作品をつくった。俺こんな奴みつけたわ!って、パトロン感覚が加わる(カンヌには、こういう“ニッチ”志向が強くある)。
やっぱ、カンヌ映画祭はセンスには会わない。私の中ではラジー賞と同レベルだと思う…って、書いたところで、ラース・フォン・トリアー監督が“ヒトラーに共感”発言したことで、カンヌ映画祭から追放というニュースが入り込んできた。ほーら、馬脚を現したぞカンヌ映画祭。あの程度の発言で追放とは恐れ入るよ。いくらヒトラーが大悪人だろうと、その人生において彼が感じたことについて、一部たりとも共感しちゃいけないなんて、何様のつもりだ!別にホロコーストを賞賛したわけじゃあるまいし(ましてや、少し心や病んでる人間をつかまえてさ)。くだらねー、私がカンヌに参加してたら、途中で帰ってくるわ。そんな恐ろしい映画祭。なんで、ユダヤ団体やイスラエルにいちいちヘコヘコしなきゃならんのか意味わからん。彼らは“絶対正義”ではない。ほんとウンザリ。まあ、9割がクソみたいな映画しか賞がもらえない映画祭だから、どうでもいいけど。こんな映画祭、やめちまえばいいんだ。
閑話休題。
ただ、この空気感に目が離せなくなるのは、カメラワークがたくみだから(カメラマンがいのか、ソダーバーグのコンテがいいのかは、わからないけれど)。最近、毎度毎度同じことを言っていて申し訳ないんだけど、メインキャラの二人が、作品の中で大きく変化してく様子を描いているという、シナリオの基本中の基本ができているし、そして、変化を及ぼしている要因、つまり“セックス”と“嘘”と“ビデオテープ”が直球でタイトルになっているという、「ソダーバーグ、わかってるなぁ~」って感じ。巻き起こってることは、けっこうエグい話なのに、これをサラッ
とした後味に纏め上げているこのセンス・力量、そしてこれがデビュー作っていう驚き。一定の評価と期待を集めるのは強く理解できるし、実際に後々その期待には応えてくれているわけだから(だんだんデキが悪くなってると揶揄されることはあれど)。
それに、今回レンタルしたDVDには、吹替音声が付いていなかったんだけど、口調による感情表現が効果的な作品なので、久々に原音声で観てよかったなと思えた作品だった。
パルムドール!ってことで、過剰に期待しなければ、非常に愉しめる作品。軽くお薦め。でも、30歳台以上むけかな…という気はする。
負けるな日本
公開年:2000年
公開国:アメリカ
時 間:144分
監 督:ロバート・ゼメキス
出 演:トム・ハンクス、ヘレン・ハント、クリストファー・ノース、ニック・サーシー 他
受 賞:【2000年/第67回NY批評家協会賞】男優賞(トム・ハンクス)
【2000年/第58回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](トム・ハンクス)
コピー:世界の果てで 彼の旅が始まった…
運送会社FEDEXに勤務するチャックは、クリスマス・イブに急遽海外へ出張することに。自社貨物機で東南アジアへ向かうが、嵐により機が炎上し、太平洋上に墜落してしまう。奇跡的に一命を取り留め、南太平洋の無人島に漂着。生き残った同乗者はおらず、チャック一人で救助を待ち続けることに…というストーリー。
昨日の『幸せの1ページ』で、無人島繋がりで思い出した。久々に観なおした。前に観た時は、無人島での生活がもっと見たくて、帰還後のジメっとした展開がいまいち好きになれず、それほど評価が高くなかった(だって、無人島から脱出できるのかどうか、ストーリーをまったく知らずに観ていたからね)。
おおよそのストーリーを把握した上で改めて観ると、当時感じなかった、ものすごくいい味があることを、再発見してしまった。最後の、答えの無い感じもイマイチ感があったのだけれど、今観ると、ものすごく共感できる(歳をとったってことなのか)。
スケート靴を使って歯を抜いて気絶しちゃうと、“4年後”って、そのズバっとぶった切った演出に、当時は“おいおい…”思ったものだ。それなりに長い作品なので、収めるために切ったんだろうなと思っていたが、今はそうは思わない。本作のシナリオ(および編集)のすごいところは、観客が予想できちゃうこと、そしてその予想通りになることは、映像的に作らない。だって想像できたんなら、別にわざわざそれをなぞる必要ないでしょ?ってこと。この英断は、シナリオライターとしてできるようでなかなかできない。でも、絶対に必要なスキル。ホント、今となっては尊敬に値するデキ。
#目が覚めて、髪がチト焦げてた…とか、そんなくだり見せられてもウンザリだもんね。
やっぱり、歳を重ねたからかもしれないけど、帰還してからの、知人との再会の空々しさ、そして、愛の顛末の重さ・物悲しさに、グっとくるものがある。チャックのような経験まではしなくても、こういう感覚や、自分では抗いようのないことってあるからねぇ。
これだけ前面に出てきていながらフェデックスは一切投資していないけど、そりゃわかるよ。だって、フェデックスが一生懸命に運んでいるものは、本当に価値のあるものなのか?って捉えられなくもない。最後に、届かなかった荷物を配達して廻って、“届けてるのは物質じゃなくて人の気持ちですよ”なんて感じでフォローしても、物質文明の空々しさは拭いようがないものね。ここでも、明確な答えは提示しない。そういう何も語らない余韻が、ものすごくいい雰囲気を醸し出している。
『フォレストガンプ』の原作には、フォレストが南の島に落ちてしばらく現地で生活するエピソードがあるんだけど、映画ではバッサリ無かったので、それが補完されたようで、なんかうれしい。
何度観ても、海に漕ぎ出した後のシーンは、力が入る。実際、孤島の場合、ああいう三角波が立って、小船では出にくいんだろう。墜落して無人島生活っていう荒唐無稽な内容ながらも、考証面での穴がないから、リアルさにかけるなんて思う人がだれもないはず。
10年以上経ってわかる、“残る名作”。若いころに観て、その時はいまいちだと思った人。騙されたと思ってもう一回観てごらんなさい。お薦めする。
負けるな日本
公開年:2001年
公開国:アメリカ
時 間:116分
監 督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出 演:ビリー・ボブ・ソーントン、フランシス・マクドーマンド、ジェームズ・ガンドルフィーニ、アダム・アレクシ=モール、マイケル・バダルコ、キャサリン・ボロウィッツ、リチャード・ジェンキンス、スカーレット・ヨハンソン、ジョン・ポリト、トニー・シャルーブ、リリアン・ショーヴァン 他
受 賞:【2001年/第54回カンヌ国際映画祭】監督賞(ジョエル・コーエン)
【2001年/第27回LA批評家協会賞】撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
【2001年/第55回英国アカデミー賞】撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
コピー:髪型を変えるように少しだけ人生を変えたい
1949年、カリフォルニアの田舎町サンタローザ。床屋に勤務するエド・クレインは、多くを望まず平凡で物静かな生活を送っていた。ふとしたことから妻ドリスと彼女が勤めるデパートの店長デイブが浮気をしているのではないかと疑い始めたが、仮にそうだったとしても、彼の心が大きく揺れることは無かった。そんな時、他の町からやってきた客から、ドライクリーニング店を始めるために出資者を探しているという話を聞かされ、あること思いつく。それは、ドリスとの不倫をネタに相手のデイブを恐喝し、出資金を調達すること。そして、それは実行に移され、一時は思い通りに事が運んだかに見えたが…というストーリー。
カラー版もあるのだが、作られた経緯が不明。殺人モノでありながら、白黒であることによってファンタジー然とした雰囲気が生まれているくらいで、白黒で充分。透明感すら感じる。ちょっと変化球ながらもニューシネマ的な終わり方もよい。
無口でさえない男だが、大言を吹聴するわけでもないし、社会に恨み節をいうわけでもないし、現状を受け止め物事にも動じない、ある意味クールなキャラ。現代においても、むしろ理想に近い小市民像で、共感を覚える人するらいるのではないか。
それが、「自分は変われるかも…」と、ちょっぴり抱いたことが、変転につぐ変転を産むという、まさにコーエンの真骨頂。話が展開するたびに本筋からズレてきて、最後には取り返しがつかなくなっちゃう、っていう流れは、今となっては良くあるテイストだけど、そういう真似っコしたような作品は、所詮真似っコで、先が読めてイライラしちゃう。本作は、ごく自然に、鑑賞者の頭に“?”と“!”とつけることに成功している。この巧みさよ。
それに、実は別に主人公が床屋である必然性も無かったりするんだけど、特殊技能でありながら凡庸なルーチンワークという両面を兼ね備えた床屋という職業にスポットを当てたのが慧眼。この1940年代の男性の髪型というギミックが時代の雰囲気と男の役割をうまく表現する一助に。そして、世の男性と社会を俯瞰で眺めている立場というのも効果的である。
他のキャラ設定も巧みでバリエーション豊富な上にメリハリが効いているし、最終的にロズウェルのくだりまで持ち出しているのに、しっくりハマるのもめずらしいと思う。もう名人の領域。めずらしくカンヌで高評価の作品と、好みがあった。強くお薦めする。
負けるな日本
公開年:2010年
公開国:アメリカ
時 間:120分
監 督:スティーヴン・アンティン
出 演:シェール、クリスティーナ・アギレラ、エリック・デイン、カム・ジガンデイ、ジュリアン・ハフ、アラン・カミング、ピーター・ギャラガー、クリステン・ベル、スタンリー・トゥッチ、ダイアナ・アグロン、グリン・ターマン、ジェームズ・ブローリン 他
受 賞:【2010年/第68回ゴールデン・グローブ】歌曲賞(ダイアン・ウォーレン“You Haven't Seen The Last of Me”、Sia Furler、クリスティーナ・アギレラ、Samuel Dixon“Bound to You”)
コピー:この声で、夢への扉を開けてみせる。
かつては大盛況だったショー・クラブ“バーレスク”も、今や経営難。現オーナー兼ダンサーのテスは、舞台監督ショーンと経営の建て直しにやっきになるが、まったく客足は回復せず、このまま借金が返済できなければ抵当に入っている店は奪われてしまう。そんなある日、アイオワの田舎町からスターを夢見てロスとやって来たアリが、偶然バーレスクにふらりと立ち寄り、その華麗なショーに心奪われてしまう。いつかは自分もこのステージに立ちたいとしがみつき、なんとかウェイトレスとして雇ってもらいチャンスを狙うのだった…というストーリー。
最近、音楽モノでスパッと決まった作品が無かったので、本作を楽しみにしていて、新作でレンタルしてしまった。しかし、ステージのパフォーマンスは満足だったのだが、映画としては次の2点のおかげでがっかりだった。
1点目。口パクだったバーレスクのショーを本物に変えて、客足を取り戻していくのだが、確かにその生歌が認められていく様子は楽しい。しかし、その後、生歌だってことが明確にわかる演出がされていなくって、生歌なんだか口パクなんだか、見た目ではあまり区別つかない。「おお、生歌の迫力~!」って感じがせず、代わり映えがしなくてピンとこないのはちょっと致命的。シェールが自分のステージのリハをするシーンだけど、あれは生歌か?口パクか?それすらよくわからん。これではね…。
2点目。歌とダンスの面白さを伝える映画なんだから、経営難は歌とダンスで解決してほしい。ところが、一休さんばりのトンチで解決してしまう始末。肩透かしも甚だしいのだが、それを通り越してバカじゃなかろうかと思う。
そんなこんなの稚拙なシナリオなおかげで、2時間の映画が3時間くらいに感じるという、音楽映画でありながらこのテンポの悪さ。シェールが『マーズ・アタック』に出てきそうなビジュアルだとか、そんなツッコミなんかどうでもよくなるくらいがっかり。ステージシーンは良いのに、その他がポンコツすぎる。期待していただけに、残念な作品。お薦めできない。
負けるな日本
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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