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公開年:2008年
公開国:アメリカ
時 間:104分
監 督:ペイトン・リード
出 演:ジム・キャリー、ゾーイ・デシャネル、ブラッドレイ・クーパー、ジョン・マイケル・ヒギンズ、テレンス・スタンプ、リス・ダービー、ダニー・マスターソン、フィオヌラ・フラナガン、サッシャ・アレクサンダー、モリー・シムズ、ブレント・ブリスコー、ロッキー・キャロル、ジョン・コスラン・Jr.、スペンサー・ギャレット、ショーン・オブライアン他
受 賞:【2009年/第18回MTVムービー・アワード】コメディ演技賞(ジム・キャリー)
コピー:それは、今まで誰も気づかなかった幸せになる方法
銀行で貸し付けを担当しているカール。離婚以来、友人からの誘いをいつも断り、仕事でも申請を却下し続ける毎日。ある日、親友の婚約パーティまでもすっぽかしてしまい、友人から“生き方を変えない限り、お前はひとりぼっちになる”と脅され、その改善に、とあるセミナーへ参加することに。セミナーの主宰者から、意味のある人生を送るためには、そんなことに対しても全て“イエス”と言うのだと説かれ、そのとおりイエスを連発していくと、不思議なことに物事が好転し始め…というストーリー。
近年観たジム・キャリー作品は、「ナンバー23」「エターナル・サンシャイン」と、非コメディ系。その間に「ディック&ジェーン 復讐は最高!」というコメディ映画があるようだが、見ていない。予告を見た限り、「ブルース・オールマイティ」なんかの方に近そうだが、いかがなものかな…と鑑賞。
彼のコメディ系作品は、SFとかファンタジーとか非現実的な要素が、幾分入っていることが多いが、今回はそういう魔法チックな仕掛けはなしだった。ストーリは予告にあったとおり。後ろ向きな人生を送っていた男が、参加したセミナーの主宰者から、意味のある人生を送るための唯一のルールはなんでも“イエス”と言うことだ、と説かれる。それを実行していくと、次第に物事が好転し始める…、というモノ。本当に予告の通り。
とあるバラエティTV番組の新作映画紹介コーナーでは、予告以上に内容を説明していたのだが、あれは全部のストーリーを言ったに等しかったな。「ああ、予告で言ってたとおりだなぁ…」と既視感すら漂う始末。じゃあ、つまらなかったのか?と聞かれれば、否。実に、おもしろかった!
事前に内容がわかっていたようなものなのに、おもしろかったというのは、スゴイことではかなろうか。なんでおもしろかったのか?と、すっかり楽しんだ本人が、振り返って自己分析するというのは、ちょと難しい作業のような気もするが(理由を考えながら楽しんでるわけじゃないからね)、できるかぎりがんばって挙げてみよう。
・後ろ向きというよりは、もはや偏屈に近い主人公のキャラクターなのだが、かといって、在り得ないほど特異な人物にも思えない。むしろ、うまくいかない時の自分に思えて、かなり感情移入できた。
・“イエス”“イエス”を連発して、様々なことが起こるのだが、わらしべ長者のように、「さすがにそこまで連鎖しないだろう~」的な無理は感じなかった。なにせ、世の中に普通にありそうなことに対して、個別に“イエス”といっているだけなので、本気でやろうと思えば、自分も同じ状況になる。個人融資を連発してかえってうまくいっちゃう…なんて、今のご時勢、本当におこってもおかしくない。
・銀行の上司の趣味だって、恋する女性のいろんな活動だって、そういうセミナーの存在だって、変わってはいるけど、実際ありえなくもない。最後のオチだって、そういうセミナーが存在するなら、そういう行動を取ったって別に不思議ではない。
そうか。設定、シナリオ、全てにおいて、実際にありえなくもない線を絶対に外さないように展開しているから、「それはないだろう」的な興醒めを一切感じさせないで、そのおかげで、ストーリーに引き込まれ、没頭することができたのだ。これは絶妙なシナリオの勝利だ。
で、ライターは誰かというと、ニコラス・ストーラー、ジャレッド・ポール、アンドリュー・モーゲルの3人がクレジットされている。他作品で脚本経験があるのは、ニコラス・ストーラーだけで、「ディック&ジェーン復讐は最高!」に携わっているのだが、これも共同脚本。この人の才能のおかげかどうかよくわからないなぁ。
とにかく、それなりにがんばっているのに、イマイチうまくいかないなぁと、日々感じている人ならば、本作を観ることで、少なくとも小石2・3個分は気が晴れるのは間違いないので、お勧めする。
#そういえば、前にも、生き方を変えるルールを実行していく…的な作品があったような、、、。そうだ、『ペイ・フォワード』だ。まだ未見なので、観て比較してみることにしよう。
公開年:1959年
公開国:アメリカ
時 間:78分
監 督:エドワード・デイヴィス・ウッド・ジュニ
出 演:グレゴリー・ウォルコット、トム・キーン、デューク・ムーア、モナ・マッキノン、ダドリー・マンラヴ、ジョアンナ・リー、トー・ジョンソン、ライル・タルボット、ベラ・ルゴシ、ヴァンパイラ、クリスウェル、ジョン・ブリッケンリッジ、トム・メイソン、トム・ニー他
続いて、『プラン9・フロム・アウタースペース』。
地球各地で目撃される空飛ぶ円盤。宇宙の支配者の命令で人類に戦争をやめるよう忠告しに地球を訪れた宇宙人たちは、彼らの存在すら認めない米国政府の態度に、ついに“第9計画”をもって応じるが…というストーリー。
『エド・ウッド』では、この映画のスポンサーになってもらうために、キャスト全員をバプテスト教会に帰依させているシーンがある(実話のようだ)。宗派変え程度は、アメリカ人にとって抵抗が無いものなのか、とんでもないことなのだが映画への情熱がそうさせたのかは、よくわからない。
で、内容だが、これは確かにヒドい。“史上最低の映画監督”の称号は、この映画をつくった彼に与えられたものということらしいのだが、頷ける。本作は、あまりのつまらなさのために劇場公開されず、TV局にフィルムを安く買い叩かれ、その後、深夜にヘビーローテされたそうだ。そのため、公開されなかったにもかかわらず、逆にアメリカ人の記憶に焼きつく結果となったらしい。
ヒドい点を挙げればキリがないのだが…
・ルゴシのシーンは、同じフィルムの使いまわし(ルゴシが死去してしまったため)。本当に同じカットが何回も出てくる。代役のシーンはバックショットか顔隠し。
・セットが学芸会レベル(学習机・カーテン・板・ダンボール、、、)。
・夜なんだか昼なんだか、わからない(数秒のなかで黒い空と白い空のカットが混在する)。
・科学知識皆無(水素爆弾は気体を破壊した爆弾????)。
・なんで宇宙人の存在を知らしめるために、地球人の死体を操作するのか????
・クリズウェルによるプロローグとエピローグは、何を言いたいのか完全に意味不明。
断片的にシーンを撮って、後から辻褄あわせのパッチワークをしたとしか思えない。クラクラくること請け合いで、悪夢の中に突き落とされた気分だ。僕はどうしても最後まで一発で見続けることができずに、4回ほど寝て(気絶して)しまった。深夜放送を見たアメリカ人も、さぞよく眠れたことだろう。続いて『グレンとグレンダ』をレンタルする計画もあったのだが、とても耐えられそうもなく断念した。
物事を完璧にこなさないといけないような強迫観念に追われている人が見ると、“適当でいいんだ、、”と気楽なれる映画かもしれない(この映画のレベルは、“適”しても“当”たっていないのだが…)。
#ちなみに、芸人のなだぎ武や浅越ゴエが所属する「ザ・プラン9」の由来はこの映画タイトルらしい。
公開年:1955年
公開国:アメリカ
時 間:69分
監 督:エドワード・デイヴィス・ウッド・ジュニ
出 演:ベラ・ルゴシ、トー・ジョンソン、ロレッタ・キング、トニー・マッコイ、ハーヴェイ・B・ダン、G・ベックワー、ポール・マルコ他
田舎町の沼で謎の失踪事件が続発。クレイグ警部補が捜査に乗り出そうとしたところ、そこへ新聞記者をしている婚約者ジャネットが現れる。ネタをつかんだ彼女は沼のほとりの屋敷が怪しいとにらみ、調査をはじめるがほどなく何者かに捕らわれてしまい…というストーリー。
『エド・ウッド』のレビュにて、散々エド・ウッドを持ち上げたものの、『エド・ウッド』で描写されている彼の行動は、やっぱりトホホなのだ。「一体、どんだけヒドいんだ???」とますます興味が増幅し、その後、ウッド作品『怪物の花嫁』『プラン9・フロム・アウタースペース』の2作をレンタルし、鑑賞した。
まず、『怪物の花嫁』。
『エド・ウッド』によれば、薬物中毒のルゴシの扱いに苦慮したり、出資者として期待したロレッタ・キングに役を与えたが実は無一文だったり(恋人フラーの役を譲ったのに)、今度は精肉屋を騙して出資させることに成功するも、精肉屋の素人息子を主役にするハメになったり、勝手に映画会社の倉庫から巨大ダコのぬいぐるみを拝借したりと、まさにメチャクチャ。ドタバタ喜劇のシナリオか?とあきれてしまうほどだが、すべて実話というから驚きだ。
で、そのハチャメチャな舞台裏の結実が『怪物の花嫁』。内容は、マッド・サイエンティストの暴走話なのだが、まあまあ、正直いってつまらない。
それでもなんとか楽しめたのは、『エド・ウッド』の劇中にて『怪物の花嫁』のシーンを再現しており、それと同じ場面が出てくるとニヤリとできたからに他ならない(ティム、やるなぁ!という意味で)。それが無ければ、最後まで見られなかったかもしれない。タイトルも、はじめは“核の花嫁”だったらしいが変更され、ストーリーとは無関係になっているし(別に“怪物の花嫁”になる人がいるわけではない)。本編は68分だが、2時間くらいに感じてしまった。
残念だが、皆さんの人生の時間を無駄にしないためにも、『怪物の花嫁』は見ないことをお勧めする(ツッコミながら楽める映画ですらない)。どうしても見るのであれば、『エド・ウッド』と1セットで見ると、いくらか楽しめるだろう。
公開年:1994年
公開国:アメリカ
時 間:127分
監 督:ティム・バートン
出 演:ジョニー・デップ、マーティン・ランドー、サラ・ジェシカ・パーカー、パトリシア・アークエット、ジェフリー・ジョーンズ、G・D・スプラドリン、ヴィンセント・ドノフリオ、ビル・マーレイ、マックス・カセラ、リサ・マリー、ジョージ・スティール、ビフ・イェーガー、ビル・キューザック、ジュリエット・ランドー他
受 賞:【1994年/第67回アカデミー賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、メイクアップ賞(YOLANDA TOUSSIENG、VE NEILL、リック・ベイカー)
【1994年/第29回全米批評家協会賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、撮影賞(ステファン・チャプスキー)
【1994年/第61回NY批評家協会賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、撮影賞(ステファン・チャプスキー)
【1994年/第20回LA批評家協会賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、撮影賞(ステファン・チャプスキー)、音楽賞(ハワード・ショア)
【1994年/第52回ゴールデン・グローブ】助演男優賞(マーティン・ランドー)
コピー:世界で最低の映画監督の世界で一番素敵な夢
映画監督になる日を夢見る映画青年エドは、性転換をした男性の物語の映画化話を知り、プロデュサーのもとへ押しかける。本人も服装倒錯者だった彼は、3日間でシナリオを書き上げ、さらにふとしたきっかけで出会った往年のドラキュラ俳優・ベラ・ルゴシを出演させることを条件に、その映画「グレンとグレンダ」で監督デビューを飾るのだが…というストーリー。
ティム・バートン作品は大好きで、長編のほとんどを鑑賞しているが、この『エド・ウッド』だけは未観だった。なぜ見ようとしなかったかというと、他のティム作品とはノリが違うな…と感じていたから(本音を言うと、駄作なのでは?と思ったから)で、食指を伸ばさずに今まできた。しかし、近頃読んだ映画関係の書籍に、“史上最低の映画監督 エド・ウッド”についての記述があり、彼本人に興味が沸いてしまい、是非見てみたいという気に…。とはいえ、なにせ“史上最低”ということなので、いきなり彼の作品を見る勇気は無く(笑)、とりあえず、ティム作品で感触を確かめてみることに相成った。
演者で特筆すべきは、マーティン・ランドー。彼は、ベラ・ルゴシ役。ルゴシは今日のドラキュラ像をつくった役者である(藤子不二夫『怪物くん』のドラキュラなどに見られる典型的なイメージは彼によるもの)。漫画『浦安鉄筋家族』の十三階段ベムのエピソードに出てくるドラキュラのイメージ画はそのままルゴシなのだが、まさに『浦安』から飛び出してきたようで、実に愉快だった(『浦安』を知らない人も多いだろうが…)。エド・ウッド同様に、ルゴシも演じることに執着し続け、そして同時に苦む。その様を見事にランドーは演じきっている。彼はこの演技によって、アカデミー賞助演男優賞をはじめ、アメリカ国内の多くの映画賞を受賞をしているが、納得である。
話は少し脱線する。
「こんなアイデアが浮かんだので小説を書いてみたい」とか思うことがあっても、結局、最後まで書き上げることができない(それどころか、書き始めることすらできない)という人は多いのではないだろうか?小説ではなくても、創作の思いを形にできない人は多いだろう。私はまさにそれである。いつかは…などと思っても、形にしなければそんな思いはゴミ同然。自戒の意味も含むが、私は、どんな駄作であっても(見たり読んだりした後に「時間を返せ!」と怒りたくなるようなモノだとしても)、作品を発表できる形にしたことに対しては、作者に一定のリスペクトをする(だから、私が“この映画は見なくてよい”とか“見ないほうがよい”という場合は、そのリスペクトを超える、マイナス点があるということだ)。
本作にて、デップ演じるエド・ウッドが、細かいことを気にせずにバタバタと映画を作るさまは、じつに滑稽なのだが、私には、とてもとても羨ましく思えたのだ。そして、同時に悲しくなったのだ。彼は生きた証を残したけれど、このままなら私にはそれが残せそうにもないということが。自分は“史上最低”ですらないと感じると同時に、“史上最低”は立派な称号であることに気付いたのであった。
ティム・バートンは「私はエド・ウッドだ」と言ったそうだ。いろいろな制約・トラブルがあっても、嬉々として映画を作り続ける態度にシンパシーを感じたのではなかろうか。デヴィッド・リンチやサム・ライミ、クエンティン・タランティーノも彼のファンのようで、オタク傾向の強いアーティストの琴線に触れるのかもしれない。受賞に至っていないが、本作がカンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされているのも、そういう部分がよく表現できているからなのだろう。
本作は、いつかは私も…と思いながらいつまでも行動をおこせない人が見ると、ちょっぴり力の沸く作品かもしれない。
公開年:2008年
公開国:タイ
時 間:93分
監 督:プラッチャヤー・ピンゲーオ
出 演:ジージャー、阿部寛、ポンパット・ワチラバンジョン、アマラー・シリポン、イム・スジョン、タポン・ポップワンディー他
コピー:この蹴りに世界がひれ伏す!!!!!!!!
日本の大物ヤクザとタイ人女性ジンを両親に持つ少女ゼンは自閉症だったが、たぐいまれな身体能力の持ち主。ビデオで観たアクションをすぐに自分の技にできるほど。成長したゼンは、最愛の母ジンが白血病に冒されていることを知り、多額の治療費を工面するため、母ジンが金を貸していた人々を訪ねて回収をしようと考えるのだったが…というストーリー。
『マッハ!!!!!!!!』のピンゲーオ監督の作品。正直なところ『マッハ!!!!!!!!』の後の『七人のマッハ!!!!!!!』(製作)も『トム・ヤム・クン!』も、大して変わり映えがなかった(というかむしろグレードダウンしていた)ので、まったく本作も期待していなかった。ただ、主人公が女性という点と、阿部寛が出演しているという点と、本国のタイでは『マッハ!!!!!!!!』の動員記録を塗り替えるほどヒットしたという情報から、一縷の期待を抱き鑑賞に至る(別に阿部寛のファンということではなくて、東南アジアの映画がピンポイントで一人の日本俳優にオファーするということは、あまり無かったように思われたので興味が)。
本作を観終わった後、実に複雑な気持ちにさせられてしまった。まず好意的な面を先に。比較的低予算な映画として評価すれば、負ける日本映画は多いだろう。比較しやすいアクション映画を例に出せば、『少林少女』などは完全に負け。細かいところはともかくとして、観客をストーリーに引き込む力は圧倒的に本作が上である。ストーリー運び、カット割り、無駄を極力排除した編集の力などが長けているのだろう。漠然とした表現になってしまうが、“いい雰囲気”が作れている点においては、今の日本映画ではなかなか勝てるものは無いかも…とまで思わせる。
続いて否定的な面。『マッハ!!!!!!!!』『七人のマッハ!!!!!!!』『トム・ヤム・クン!』を通して、この監督の作品に共通する点なのだが、終盤が(大抵はボスとの最終決戦だが)、すべてグダグダなのだ。本作も同様。正直、またかよ…と思ってがっかりしてしまった。基本設定や最終決戦に至るまでプロセスは明確に頭に描けているのだろうが、オチはぼんやりしたままで製作を進めているのだろう。これでは話にならない。どのくらい話にならないかというと、落語の「まんじゅうこわい」を例にしてみよう。まんじゅうを怖いという変わったヤツがいる。いたずらのつもりでどんどん饅頭を投げ入れる。怖い怖いと聞こえてくるので面白がる。とはいいながらも、様子がおかしいので覗いてみると、実はまんじゅうは大好物でをパクパク食べている。
普通は、この後「本当はいったい何が怖いんだい?」と聞き「おいしいお茶が怖い」というオチになるのだが、この映画では、「こら!だましやがったな!」「わぁー、ばれたー」といって終わるようなレベルなのだ。工夫もヒネリもない(細かいことを言えばキリが無い。日本への手紙をストップできる力をもつタイマフィアのボスが、なんでケリをつける気になったのか、その心変わりのプロセスがよく分からない。阿部寛が死んだんだか死んでないんだか良く分かららない演出で、その意図が中途半端。最後のアクションはメリハリがなくただただ長い)。
そのくらい、オチがグダグダだと思っていただければよい。観終わった後に、カタルシスを得ることを期待してはいけない。
あと、良い面でも悪い面でもないのかもしれないが、主人公が障碍者という設定から、日本でのTV放映はないだろうと思われる。「お嬢さんには脳の障害が…」と言われているが、表面上の症状は自閉症のようだし、実際どういう障碍なのかは良く分からない。障碍に対して無知と思われも仕方が無い面があり、いくら映画とはいえこういう扱いは、ちょっと視聴者には許容されないだろう。
ちなみに、原題はCHOCOLATEなのだが、べつに映画にでてくるマーブルチョコレートがストーリー上重要なわけでもなく、印象的なアイコンというわけでもない。むしろシリカゲルのほうが印象的。ピンとこないタイトルだ。
このように功罪両面を含んだ、色々考えさせられた映画ではあったが、自分のベスト映画300本リストを作れといわれて、本作をいれる人は少ないだろう。そういうレベルの作品だと思う。それが私の評価だ。ただ、頭が疲れていて、あまり考え事をしないで、軽い気持ちで、ぼーっと夕暮れに見る作品としては、なかなかありだとは思う。
最後に、一鑑賞者が偉そうなこといって申し訳ないが、ピンゲーオ監督には、オチを締める能力を早く身につけてもらいたいものである(国内の評価で天狗になってもらってはいい迷惑である)。
公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:163分
監 督:ザック・スナイダー
出 演:マリン・アッカーマン、ビリー・クラダップ、マシュー・グード、カーラ・グギーノ、ジャッキー・アール・ヘイリー、ジェフリー・ディーン・モーガン、パトリック・ウィルソン、スティーヴン・マクハティ、マット・フルーワー、ローラ・メネル、ロブ・ラベル、ゲイリー・ヒューストン、ジェームズ・マイケル・コナー、ロバート・ウィスデン、ダニー・ウッドバーン 他
コピー:知ってはならない、真実がある──。
かつて、“ウォッチメン(監視者)”と呼ばれる世界の重大事件に関わり、人間人々を見守り続ける特殊能力者たちがいた。しかし、1977年、政府は彼らの活動を禁止、ある者は引退し、ある者は非合法に活動を継続していた。1985年、未だニクソン大統領が権力を持ち、ソ連との核戦争が危ぶまれる緊張状態のアメリカで、エドワード・ブレイクという男が高層ビルから突き落とされる事件が発生。そのそばには血の付いたスマイルバッジが落ちていた。スマイルバッジは、かつてブレイクがスーパーヒーロー“コメディアン”として活躍していたときのトレードマークだった。同じくかつてウォッチメンの一人だった“顔のない男”ロールシャッハは、陰謀の臭いを嗅ぎとり、独自に調査を解しするのだったが…というストーリー。
監督は「300」続いてアメコミの映画化のザックス・スタイナー。「300」では独特のビジュアルセンスを見せてくれたが、本作でもその才能は際立っている。
ヒーローたちが次々と殺される…みたいな感じで、バットマンとおぼしき人が攻撃されているCMだったので、なにやらアメコミヒーロー総出演的な作品を想像していたのだが、まったくの勘違い。出てくるのは、私には馴染みのないウォッチメンオリジナルのヒーローたち。バットマンと勘違いしていたのは、ナイトオウルというキャラク
ターだったようだ。
バットマンくらいメジャーなキャラクターなら知っているが、正直、「ウォッチメン」という作品自体、まったく知らなかった(結構有名なアメコミのようだ。それもDCコミック)。思い込みが外れたまま、半ば置いてきぼり状態で、観進めることになったのだが、本作は、ヒーローこそ出てくるが、ヒーロー作品ではないことが、15分くらいで分かる。
CMの言葉通りに、ヒーローが殺されていく現在と、歴史的事件への関与や、その能力や特権を逆に疎ましく思う世論によって彼らが衰退していった過去が、交錯しながらストーリー進行していく。殺しの犯人探しが、現在でも違法に活動を続けている唯一のヒーロー“ロールシャッハ”を狂言回しにして進められていくのだが、存命ヒーローたちが、あまりにも人間くさく(良くも悪くも)魅力的で、なかなかよい。
で、結局残り30分が過ぎ、いざ謎解きという段になると、この映画の真のテーマが明らかになってきて、地滑りのように話が変わってしまう(そのテーマというのは「地球が静止する日/地球の静止する日」でレビュした通りなので、そちらを参照してほしい)。
公開年:2008年
公開国:アメリカ
時 間:104分
監 督:スコット・デリクソン
出 演:キアヌ・リーヴス、ジェニファー・コネリー、ジェイデン・スミス、キャシー・ベイツ、ジョン・ハム、ジョン・クリーズ、カイル・チャンドラー、ロバート・ネッパー、ジェームズ・ホン、ジョン・ロスマン 他
ノミネート:【2008年/第29回ラジー賞】ワースト前編・リメイク・スピンオフ・続編賞
コピー:人類が滅亡すれば、地球は生き残れる。
公開年:1952年
公開国:アメリカ
時 間:93分
監 督:ロバート・ワイズ
出 演:マイケル・レニー、パトリシア・ニール、ヒュー・マーロウ、サム・ジャッフェ、ビリー・グレイ、フランシス・ベイヴィア、ロック・マーティン他
ある日、謎の巨大物体が地球に飛来し、アメリカ政府が厳戒態勢を敷く中、宇宙からの使者がクラトゥが降り立つ。あらゆる分野の専門家を集めた対策チームが組織され、クラトゥに対する尋問が試みられるが…というストーリー。
本作はリメイク作品で、前作とオチが異なるなどと伝えられていたので、律儀にも両方観てみた(邦題は、“が”と“の”が違うが、原題は同じ)。オチの違いは確かにあったが、作品の根本テーマを違えてしまうようなものではない。そこに着目することに、さほど意味は無いので、リメイク版を観て、よほど気に入ったのでもなければ、旧作はあえて観るまでもないと私は思う。
それよりも、この作品の根本テーマは、日本人にはピンとこないのではないだろうか、と思えてしかたが無い。何を言いたいかというと、一神教を信奉する文化下にいないと、ただの宇宙人来訪によるパニックムービーとしか感じないだろう…ということだ。
もう少し説明を加えるならば、こういうこと。大いなる父・万能な神の存在を根本とする宗教があり、多くの人がそれを信じて社会を形成している。時が経って、都市化が進み、科学技術が向上し、無神論者が増え、アノミー状態になりかけた社会がそこにある。この由々しき状態を打破するためには、人間はどうすればいいのだろう…という不安が存在するということだ。
説明するまでもないが、日本人は一神教民族ではないので、「父なる神の喪失」的な不安はピンとこないだろう。日本でも、UFOが飛んできてすごいテクノロジーを見せてくれれば、こんなことをしている場合じゃないと開眼して、世界中が団結して戦争が無くなるんじゃないか、なんてことを言う人はいるけれども、そのレベルの感覚とは違うのだと思う(私も日本人なので“思う”としかいえないのだが)。
アメリカ人は、今でも多くの人が進化論を受け入れない(聖書の記述と異なるから)。“本気”で信じない。だから教科書にも載せない。偉大なる万能の父の喪失(と、それに抗うこと)は、社会として大きな現実問題だろう。そういう社会で作られた映画だということを前提に観なくてはいけない。よって、欧米の人は、心根の深いところで、引っかかるものを感じながら、この映画を観ているのかもしれないということだ。
そんな、重大なテーマだというなら、他にも同様のテーマの映画があるのでは?と思いたくなるだろうが、そのとおり。びっくりするほど同じテーマの作品が、次の年に公開されている。一見関係なさそうだが、それは『ウォッチメン』だ(奇しくも本作の後に観たので、すぐにレビュする)。もう、このテーマは、普遍的であるといってよいのだろう。
ちなみに、新作の方の宇宙人は、現世で善行を積もうが悪人だろうが、“神”側の都合で(問答無用で平等に)消滅させているところから、プロテスタント(というかWASP)の“神”像が強く反映されていると私には思える。旧作のほうは、お行儀よくしていれば攻撃しないよという条件提示があるが、新作では、あくまで、宇宙人が勝手に猶予しようと思っただけである。ユダヤやカトリックの神像とは異なる。
で、結局、本作の評価は?と聞かれるならば、「特に観なくてもよい」というのが、私の答えである。社会学的・比較文化的な観点を加えないと面白く感じられなかったし、血縁のない親子の愛というヒューマニズム的な設定や、自然との対立というエコ的な誘導を加えて、私が考察した宗教的な部分をわざと見えにくくしている作為が感じられ、あまり快くない。純粋なパニックムービーとしてみるならば、決して一流とは言えないので、お勧めはしない。
公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:90分
監 督:ジェームス・マンゴールド
出 演:アリアンヌ・フィリップス、ジョン・キューザック、レイ・リオッタ、アマンダ・ピート、ジョン・ホークス、アルフレッド・モリーナ、クレア・デュバル、ジョン・C・マッギンリー、ウィリアム・リー・スコット、ジェイク・ビジー、プルート・テイラー・ビンス、レベッカ・デ・モーネイ、カーメン・アルジェンツィアノ、マーシャル・ベル、マット・レッシャー、ホームズ・オズボーン、フレデリック・コフィン、スチュアート・M・ベッサー 他
コピー:ここに集まったのではない。ここに集められたのだ。
激しい豪雨の夜、郊外のモーテルに、交通事故で大ケガをした妻アリスを運び込む男ジョージが舞い込む。救助を要請するが豪雨のせいで電話は不通。アリスをはねたのは女優キャロラインの運転手のエド。エドは助けを呼ぶために病院へ車を走らせる。途中で車が故障した娼婦パリスを乗せ、病院へ向かうが、道路が冠水しており引き返すことに。さらに引き返す道で新婚夫婦ルーとジニーの車も合流。4人はそろってモーテルへと向かうのだが…というストーリー。
ジェームズ・マンゴールドは「17歳のカルテ」の監督だ。狂気の匂い的な部分は共通していなくもないが、同じ監督と感じさせる部分はほぼ無いように思える。雇われ監督的な仕事だったかも。まあ、その点は、この映画のイイところとは無関係なので、気にしなくてよいだろう。
この作品は、紹介するのが非常に難しい。その理由は『シックス・センス』と一緒。“星新一”的というか、オチを説明せずして作品のエッセンスを語ることが容易ではないから。でも、私はとても好きな作品で、見終わったとき(というか意味が判ったとき)のカタルシスは、『シックス・センス』以上だったかも。
(以下ネタバレ)
なぜなら、私は『24人のビリー・ミリガン』(書籍)や『ファイト・クラブ』が大好きだから。
『24人のビリー・ミリガン』は解離性同一障害(多重人格)の症例を紹介した本だが、その後半では、複数の人格が統合される様子が書かれている。もっとも同書では、その場面はぼんやりとしたイメージで表現されているだけなのだが、それに着想を得てたのは、間違いない。でも、パクりという以上に、大きく昇華できている。いい膨らませ方だと、評価していいだろう。正直、やられた!と思ってしまったくらい。
一部、気になる点はある。それは、解離性同一障害の症例として、こんなのはありえるのか?という部分。複数の人格は、小学生くらいのが一人、あとは成人した人格が多数である。分離した人格の年齢は、分離した時点の年齢になりそうなものなのだが、そうならば、小学生くらいに一度分離した後、成人するまで分離は行われずに、相当成人してから何度も繰り返し分離したことになる。また、現実の患者よりも年齢が上なのでは?と思える人格も存在するが、そういうことも在り得るのか?
このような点を度外視したとしても、この仕掛けと、最後のオチで、十分楽しめると思うので、強くお勧めする作品である。犯人はだれだ?実は自分だ…的な作品が頻発した時期があって、食傷気味になっている方も多いだろうが、そういった作品群からは、頭一つ抜き出ていると思ってよい。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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