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公開年:2010年
公開国:フランス
時 間:97分
監 督:エマニュエル・ローラン
出 演:イジルド・ル・ベスコ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・レオ 他
コピー:これは、世界を変えた男たちの軌跡






1959年5月にフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭で上映されてから50周年を記念して製作されたドキュメンタリー。カンヌでトリュフォーは監督賞を受賞。その直後、ジャン=リュック・ゴダールが『勝手にしやがれ』を発表し、“ヌーヴェルヴァーグ”の潮流は確固たるものとなっていく。両名は同志として強い友情で結ばれていたが、1968年の5月革命を境にして、ゴダールは政治活動に傾倒して商業映画から距離を置くようになり、トリュフォーはあくまで映画職人の道を歩み続け、政治観の違いが2人の間を切り裂いていく。また、『大人は判ってくれない』で主演したジャン=ピエール・レオは、2人の監督の間で翻弄されていく…というストーリー。

『勝手にしやがれ』を観たつもりでいたんだけど、本作で紹介された場面を見てもどうにも記憶がない。どうやら観たつもりになっていただけの模様。早々に借りてこねば。

ゴダールとトリュフォーが若くして第一線の映画監督になっただけでなく、並行して映画批評家としてズバズバと他人の作品をブッた切っていたという事実に驚いた。今、こんなことやったらフルボッコになるだろうけど、新進気鋭の作家というポジションと、当時のフランス映画界というか芸術界自体が、ものすごく閉塞していて、このような“揺れ”を待望していたと思われる。ただ闇雲に批判するのではなく、フランス映画界に必要なスキルをもった海外の監督(ヒチコックなど)をリスペクトして冷静に分析するという、前向きな態度に貫かれていた点も重要だ。

ヌーヴェルヴァーグ”といえば映画史上の重要な基点であり、劇的なパラダイムシフトという捉え方をしていたのだが(編集方法など、ヌーヴェルヴァーグ前後の違い本作では解説してくれている)、このムーブメントが半年ちょっとしか盛り上がっていなかったという事実にもまた驚愕(期間に関しては諸説あるが)。

やはりフランスというお国柄だが、政治ムーブメントに強い影響を受けてしまう。1968年には五月革命でカンヌ国際映画祭が中止に。日本の学生運動も同じだが、反体制という旗印を掲げるものの政治的主張の本質はいまいちボヤけている。なぜか“フリーセックス”などの主張も入り混じってきて、一部はセクト化して自滅の方向へ、その他はしれっと転向という、雨散霧消で終わってしまう。結局は暴れたかっただけじゃね?という気がしないでもないが、そういう時代だった。
で、ゴダールは、カンヌ中止を訴える側になったが、トリュフォーは関わらなかったというわけ。

個人的には同年代を生きていた、サルトルとかの関わりなんかが語られることを期待したのだが、同じ左派寄りでも思想のパラダイムが全く異なるのかもね。

まあ、なるほどなぁ…と映画史のお勉強になった作品。

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公開年:2006年
公開国:カナダ、アメリカ
時 間:83分
監 督:グレッグ・ハミルトン
出 演:グレッグ・ハミルトン 他








ミャンマーで1500年の歴史を持つ伝統競技“チンロン”。籐製のボールを数々の足技を駆使して蹴りあうという、フリースタイル・フットボールに似た競技。チンロンに魅せられたカナダ人音楽家グレッグ・ハミルトンは、独学でチンロンの練習を重ねるが、とうとう我慢できなくなり、ミャンマーを訪れる。本場のテクニックはあまりにも高度で、独学で得たテクニックはまるで通用しなかったが、その後、何年もミャンマーを訪れるのだった。黒人と白人のハーフとして生まれたグレッグは、両親の離婚後施設で育てられ、家族の温かみを知らなかったが、チンロンのトレーニングを通して、ミャンマーの人たちとの間に家族愛にも似た感覚を覚えるようになる。やがてグレッグは、チンロンの上級チームのメンバーとして活躍することを夢見はじめ…というストーリー。

セパタクローかな?と思ったのだが、ああいうゲーム性は皆無。輪になった6人が、延々と玉を蹴り続ける。何をもって“競技”とするか?だが、何と勝ち負けがないというのだから、これは競技とはいいがたい。
日本の蹴鞠なんかと同じルーツを持つものだと思うが、行事的だったり、様式美を追求する方向には発展していない。技の数は200以上もあるそうで、いずれも格闘技ばりの超絶技巧を必要とするので、舞踏とはいい難い。掴みどころがないなぁ…と思っていると、その第一の魅力として、プレーしていうちにトランス状態にも似た感覚になるとのこと。ミャンマー人のインタビューにおいても、日常の雑事をすべて忘れて没頭できるのだという。集中の具合と、肉体の使い方と、独特のリズムのせいで、脳内麻薬出まくりなんだろうね。玉を蹴る時に生じる独特の音も、一役買っていると思う(なかなか心地よい)。もう、チンロンはチンロンだ…と思うしかない。

本当に、子供から老人までみんながプレーしてる。プレイヤーには女性もいて、一緒にプレーしている。ものすごくポピュラー。

監督も製作もグレッグ本人。最低限のスタッフだけで撮影していると思うだが、その後の映像処理…といっても静止画のコラージュ程度の処理なのだが、これがなかなか効果的。チンロンの技巧以外の部分にも、見入ってしまう何かがある。本作のカメラマンは、地味にウマいと思う。

もうちょっと技の解説をすべきだったとは思う。そういう解説的な側面、特に競技としてのチンロンに興味を沸かせるには、必要だろう。本作では、グレッグが覚えようと苦労する2,3の技の解説しかしていない。もっと技を体系づけて説明したほうがよい。それもこれも、監督のグレッグ自身が、狂ったようにハマってしまっており、その楽しさを伝えようとはしているが、冷静になれていないためだと思う。客観視できる、別の監督が必要だったのかも。

とはいえ、チンロンに没頭していく様子はよく伝わってきた。その“トランス状態”の一端は感じることができたと思う。本当にユニークなドキュメント作品だった。あ、でも、一切オチはないよ。グレッグがんばれー!って感じでもないし、ただただ、異国の文化を垣間見る愉しさがそこにある。

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公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:132分
監 督:デヴィッド・ゲルブ
コピー:シンプルを極めると、ピュアになる。







東京・銀座の地下にある鮨店“すきやばし次郎”。10席程度の小さな店ながら、5年連続で『ミシュランガイド東京』の三ツ星を受け、87歳の店主・小野二郎は世界で最も高齢の料理人としてギネス認定されている。アメリカ人監督デヴィッド・ゲルブは、来日中に“すきやばし次郎”の鮨と出会い、その芸術性に感動して映画制作を決意。一ヶ月に渡る密着取材を敢行する。二郎の“職人”としての姿勢や、息子・隆士や弟子たちを通して垣間見える偉大な“父”への経緯と葛藤を、カメラは克明に収めていく。

おまかせコースで1名3万円。鮨以外は、付き出しもデザートも何も出ない。脇目も振らず食べちゃえば、ヘタすれば15分で食べ終わっちゃう。もちろん、私なんかのレベルじゃ、おいそれと行ける店ではない。無理して行こうと決めても、大体にして2年後くらいの予約しかできない。

まあ、なんでそんな値段になっちゃうのか、日本人ならなんとなくわかるだろうが、外国人にゃあアメージングだろう。素材から仕込みの手間まで細かく紹介し、さらに後身の職人の育成についてまでを綴っていく。料理人の世界が厳しいのは東西に差はない。フランスやイギリスのレストランの厨房に入れば、ほぼ無給で、奴隷以下で足蹴にされる日々が続く。日本でも中途半端な洋食の店だと、人を人とも思わない扱いをする例は聞く。それに比べて“すきやばし次郎”はどうだろう。息子・隆士は、店に入った若い人が突然いなくなることが間々あるという。厳しいのだろう。でもその厳しさとは欧米のそれとは異なる。奴隷のごとき扱いをうけるて厳しいのではない。これから職人になるために眼前に伸びる“道”が厳しいのであり、その道程を想像して耐えられなくなって辞めていくのである。
私は、この手の職人映像が大好きである。ドキュメンタリーではあるのだが、所謂ドキュメントとは赴きが異なる。こういう形で、東洋と西洋の比較文化するのは一番日本を理解させることが出来ると思う。東京オリンピックまでに、日本を紹介するPR映像は多々作られるだろう。でも、安易なサブカル紹介や観光地紹介ではなく、本作のような作品が多く作られることを私は期待する。
日本人監督ではないからこその、着眼点、角度というものが多分に含まれている。日本人なら予定調和的に“あたりまえ”として見落とす部分に、きちんとスポットが当たっているのが、非常に良い。

一つ(というか非常に大きな一つ)本作には問題がある。冒頭から最後まで、山本益博がぺらぺらと講釈をたれるのでうんざりしてしまうという点だ。というか台無しといってよい。個人的な好き嫌いで申し訳ないが、私、山本益博が大嫌い。実際はどうか知らないが、山本益博の発言に料理人への愛が微塵も感じられないから。言葉では料理人を持ち上げているが、結局、そういう評価している俺カッケーという風にしか聞こえてこない。根本的に彼がうまい!といってもうまそうに思えないのだからしょうがない。
二郎さんもそれなりに昵懇に付き合っているようなので、当人同士は何のわだかまりもないのだろう。でも、おまかせセットをはじめてお試しで食べさせてもらったのは私…なんて発言に、それが事実だろうとうんざり。

道を極めるっていっても、本人は極めたとは微塵もおもっておらず、これでもまだダメか、まだダメか…の繰り返し。ある意味、地獄道ともいえるが、地獄道でなければ歩いた気にならないというのが本物の職人というものなのだ。こんな生き方ができる人なんて、5000人に1人も存在するのだろうか(私にはできない。打算的だから)。
でも、自分にはできなくても、そんな道程、生き方ががすばらしいとは思える価値観を持っているのが日本人なのかな。そう思える一作だった。でも、改めて言うが、山本益博は邪魔。あんたの道はこの作品にはいらない。

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image2045.png公開年:2010年
公開国:ケイシー・アフレック
時 間:134分
監 督:オタール・イオセリアーニ
出 演:ホアキン・フェニックス、アントニー・ラングドン、キャリー・パーロフ、ラリー・マクヘイル、ケイシー・アフレック、ジャック・ニコルソン、ブルース・ウィリス、ダニー・デヴィート、ベン・スティラー、ショーン・コムズ、ジェイミー・フォックス、ビリー・クリスタル、ダニー・グローヴァー 他
コピー:信じた私が、バカでした。



二度オスカーにノミネートされた演技派ホアキン・フェニックスは、2008年末に突然引退を発表。さらにラッパーへの転進を宣言したことで、全米は仰天する。その後、髭を伸ばし放題の風貌で奇行を繰り返すと、ファンや俳優仲間たちから同情と心配の声が寄せられるのだった。ところが二年後、この騒動は義弟のケイシー・アフレックと一緒に仕組んだ、フェイク・ドキュメンタリー映画の撮影だったことを発表するのだった…。

当初は、ホアキンも、過剰に反応したり、どうやって蔑んでやろうかと、ここぞとばかりにもっともらしいことを言って悦に入っている半業界人みたいな奴らを炙り出して、滑稽に描くことが目的だったと思う。これまで成功していた人間が、自業自得とばかりにズルズルと滑り落ちていくのを見ると、嬉々として追い討ちをかけようとする人種は確かにいる(意外に男性の中にそういうのが多い)。
擦り寄ってくる気分の悪い奴らにうんざりしていたんだろう。気持ちはわかる。

しかし、いくら嘘だといっても、その嘘を何年も続けていれば、それに対するリアクションは“事実”として積み上げられていく。さらに、ホアキンが自らも予想外の失態を重ねることで、だんだんとて追い詰められていく。はじめは、嘘の周りで踊る人々の様子をシニカルに切り取るはずだったのに、自分も踊っていることに気付き焦り始めると、もう俯瞰でこの出来事を見つめる余裕は無くなっていく。
ホアキンがプレーヤーになっていく一方で、はたしてケイシー・アフレックは客観的な目線を持ち続けていられたのか?フレームの中にあまりいないからわからないだけで、かなりギリギリの線だったと思う。

試写会後の会見後に「ウソでしたー」と明確に種明かししたそうなのだが、実は本作を観ただけだと、実は最後まで虚実はわからない。これが本作のおもしろさであり、作品としての価値だと思う。
マスコミのウソや、世論が形成されていく様子。大衆が冷静さを失っていく様子など、本当にこれをケイシー・アフレックが明確に意図していたかは甚だ疑問だが、実にしっかりした問題提起になっていると思う。佳作。

#ただ、まあ、ネタだったとはいえ、2年も映画の世界から離れていたわけで、実際、休養したかったんだとは思うのよね。本作から2012年の『ザ・マスター』まで仕事がこなかったのは、計算通りだったとは思えないけど(この騒動のイメージが強烈すぎて、映画では使いにくいもの)。

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image2025.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:91分
監 督:アレックス・ステイプルトン
出 演:ロジャー・コーマン、ジュリー・コーマン、ジーン・コーマン、ロバート・デ・ニーロ、ジャック・ニコルソン、マーティン・スコセッシ、ロン・ハワード、ジョナサン・デミ、ピーター・フォンダ、ブルース・ダーン、ポール・W・S・アンダーソン、クエンティン・タランティーノ、アラン・アーカッシュ、ポール・バーテル、ピーター・ボグダノヴィッチ、デヴィッド・キャラダイン、ジョー・ダンテ、パム・グリア、ゲイル・アン・ハード、ジョナサン・カプラン、ポリー・プラット、ジョン・セイルズ、ウィリアム・シャトナー、ペネロープ・スフィーリス、メアリー・ウォロノフ、ジム・ウィノースキー、アーヴィン・カーシュナー、イーライ・ロス、フランシス・ドール 他
コピー:タランティーノが吠える!スコセッシが語る!そして、ジャック・ニコルソンが泣く!!
 B級映画の帝王、独立映画の神、アメリカ映画界最重要人間コーマン――その恐るべき映画製作への執念。

メジャーな映画スタジオと一線を画し、低予算のB級映画を製作・監督しつづけた男ロジャー・コーマン。これまで50作以上監督し、400作以上製作または製作総指揮するも、ほぼ黒字にしているという驚くべき経営手法に加え、超低予算で過酷故に“コーマンスクール”とも呼ばれる製作現場から、ジェームズ・キャメロン、ジョナサン・デミ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン、ピーター・フォンダ、ロバート・デニーロ、マーティン・スコセッシ、フランシス・F・コッポラ、ロン・ハワード、ガス・ヴァン・サントなどの巨匠や名優を輩出している。しかし、予算や技術的限界を超える冒険をしないため、低予算映画の王者と呼ばれ、その業績は正しく評価されてこなかった。そんなロジャー・コーマン本人のインタビューと、弟子とも言える巨匠や大物スターのインタビューを元に、彼の映画製作の軌跡と溢れる映画愛を綴った作品。そして2008年に2008年アカデミー賞名誉賞を受賞するまでを追う。

ロジャー・コーマンが誰かを私は知らなかった。フィルモグラフィーを見ても、正直言って一つも観た作品がない。かろうじて『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』だけは知っていたが、観たことはない。しかし、ジャック・ニコルソンやらスコセッシがロジャー・コーマンの凄さとその業績を滔々と語るのである。自分の知らない世界に遭遇したこの衝撃、久しく感じていなかった衝撃。

おまけに彼がこれまで作ってきた作品が紹介されるのだが、これまたものすごいB級。いやC級。最新作の『ディノシャーク』とやらも、大学の自主制作作品かよって感じ。ホラーだSFだといっても特殊撮影もクリーチャーもぬいぐるみレベル。エド・ウッドと同じカテゴリの人なのかと思っていたら、決定的に違うのが、興収的には黒字にしているという事実。そりゃ、そうでなきゃ映画を作り続けるなんて不可能だものね。今の映画は興収でペイしなくても、TV放映権やDVD販売で埋め合わせできるけど、昔はそうはいかない。そこでほぼ黒字化できているって相当凄いことだと思う。

いや、凄いことは凄いのかもしれないけど、それってセコセコとクオリティ無視で作ったからじゃないの? と誰でも思う。しかし、コーマンの弟子たちは、そうじゃないんだ…と、語る。
『The Intruder』(1962年)という南部アメリカを舞台にした黒人差別を扱った作品がある。これが唯一コーマンが赤字にした作品らしく、アメリカ国内では非常に評判が悪かったのだが、内容が非常に良く、海外では評価されていたと。『ミシシッピー・バーニング』の26年も前で、時代が早すぎたんだと彼らは言うが、確かにそのとおりで、紹介されている内容をみると非常によい内容で、メッセージ性も高い。それほど先見の明は高いんだ、彼は能力が低いから下品でB級なさ区品ばかり作ってるんじゃないんだよと。

さらに、かの『イージー・ライダー』(1969年)も、コーマンの『ワイルド・エンジェル』(1966年)という作品があったからこそなんだと。フォンダ、ホッパー、ニコルソンは、当時AIP所属のコーマンへのリスペクトを込めて製作をお願いしたのだが、AIPの経営陣がデニス・ホッパーが監督をすることに難色を示して、撮影スケジュールが3日遅れたらホッパーを解雇するという失礼な契約を押し付けてきたために、頓挫したのだと。その後、企画をコロンビアにもっていって大成功。APIの奴らが損したことをニヤニヤと語るニコルソンの悪ガキっぷりが実に面白い。
#でも、コロンビアに持っていったから結局コーマンは製作してないんだけどさ。

『スター・ウォーズ』の登場で、映画界がすべて変わってしまったというくだりは実に興味深い。SFに対するアプローチの仕方は、コーマンたちがやってきあ方向性と同じだったのに、客が高額な制作費をかけたもの以外は観なくなってしまったと。そりゃそうそうだろう、そんなみみっちい恨み節を言われてもなぁ…と思ったのだが、実はコーマンが言いたいことはそこではなかった。
本当にそこまで費用をかけなければ同じ感動を観客に与えることができないのか? といっているのだ。制作費と観客に与える感動に損益分岐点があって、その点をちょっと越えたところを狙えばいいのだと。制作費が余るならそれで社会奉仕でもしろよ! とまでいう。確かに、世の中にはそれだけの制作費をどこにつかったのだろう…と、思う作品が大量にある。いやでも、それって普通狙ってできるもんじゃない。そこが判らないからこそ、観客が求めているであろうものを予測して、それこ超えるよう、そして驚かせようとフルスロットルでがんばる。やりたいことを追求していけば、当然制作費は高騰していく。損益分岐点が判るということはある意味天才。そして天才だからこそ、B級の旗手どまりなのだ。
別の見方をすれば、損益分岐点があらかじめわかるということは社会主義経済みたいなもの。メジャー映画会社がやっていることは、競争による自由主義経済。つまり、社会主義と資本主義の戦い。資本主義であるメジャーから見れば、社会主義のコーマンは目の敵にされて当然の帰結である。コーマンを支持している人たちが、どっちかといえばリベラルな人が多いのも頷けるというもの。

彼ほどの才能があればメジャーで活躍することは容易だったに違いないが、彼はそうしなかった。意地を張っているわけではなく、どうしてもそれはできなかったんだろう。弟子たちが“大物”になってくことを羨むでもなく、こつこつとできることをやり続ける。自分でもよくわからないが、コーマンの生き方に何故か魅力というかシンパシーを感じてしまった作品。

#タランティーノは、何を業界の顔役みたいにふるまってるのか、何か鼻につくのだが…

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image1659.png公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:111分
監 督:ケニー・オルテガ
出 演:マイケル・ジャクソン 他
ノミネート:【2009年/第15回放送映画批評家協会賞】ドキュメンタリー賞
コピー:誰も見たことのない彼に逢える。




2009年4月からマイケル・ジャクソンの亡くなる2日前(6月23日)の間の、ロンドン公演“THIS IS IT”の長時間に及ぶリハーサルを記録した映像を基にした、ドキュメンタリー作品。

おそらく、ツアーDVDの特典映像とかライブメイキングDVDのためになんかに撮っていたものだろう。なので、いくら映画として編集しているからといって、これをドキュメント映画といいきっていいのかは少し疑問。

ステージに使う予定だった映像は、大変デキが良くてお蔵入りにするのは勿体無いレベルなのは間違いない。これだけの投資がすべておジャンになるのが勿体無くて、映画だろうがDVDだろうが、貪欲に回収してやろうという了見だともいえるが。
リハーサルのシーンが主体だが、とにかくダンサーのクオリティが高い。個人的には特撮映像を作っている様子がおもしろかった。リハなので、本気の歌唱じゃない部分もあるのだが、かえって「ああ、生歌なんだな…」ということが判る。また、本気じゃないからこそ、歌唱力の高さが判るという点も。大人数で大掛かりなステージだから、しっかりリハをしないといけないわけで、そのおかげで、本番と遜色ない鑑賞に堪えうる内容になっている。

でも、さすがに、終盤はネタがなくなってきた模様。バンドの女性ギタリストなどに焦点が当たっていく。たしかに格好いいのだが、MJ好きは満足いくだろうが、そうでもない私はちょっとダレる。画面を見ないで音だけ聞いていた時間が多かったかも。

それにしても、ここまで大掛かりなコンサートを催すアーチストがマイケル・ジャクソン以外にいるのだろうか。後にも先にもいないのではなかろうか。彼の大ファンじゃなくても稀有な才能だったことを、いやでも知ることになる作品。

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image1997.png公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:81分
監 督:サーシャ・ガヴァシ
出 演:スティーヴ・“リップス”・クドロー、ロブ・ライナー、ラーズ・ウルリッヒ、レミー、スラッシュ、トム・アラヤ、スコット・イアン 他
受 賞:【2009年/第25回インディペンデント・スピリット賞】ドキュメンタリー賞(サーシャ・ガヴァシ)
コピー:30年間夢を諦めなかった男たちの夢と友情を描いた、笑って泣けるウソのような本当のお話!!

1970年代に結成し、80年代初頭にスラッシュ・メタルの旗手として脚光を浴びたカナダのバンド“アンヴィル”。1984年に日本で開催された「スーパー・ロック・フェスティバル」にはボン・ジョビらと共に招待されたほどで、現在活躍する多くの人気バンドに影響を与えたといわれているが、その人気は続かなかった。20年以上経ち50代になった今、ヴォーカルでリーダーのスティーヴは給食配給センターで働いており、ドラムのロブは無職。新たなギタリストとベーシストの二人を加えてバンド活動を続けてはいるものの、地元のライブハウスで少人数を前に演奏するだけ。今なお成功を夢見てバンドを止めようとはしない彼らに、ヨーロッパツアーの話が舞い込むのだが…というストーリー。

監督は、子供の頃にアンヴィルのファンだったらしいが、単純な復活ストーリーに仕上げなかったところがおもしろい。うまいこと転がってかない人生。ヴォーカルのリップスとドラムスのロブは、絶対的に仲がいいわけではなく、物凄くモメる。おそらくこれまでも、同じようにモメてきたんだろうが、それが解消されてバンド活動を続けることがでいるのが興味深い。

単にバンドが好きだから続けているのだと考えることもできる。しかし、本人も辛いと感じているのは「崖から飛び降りるのは容易」というセリフからもわかる。売れないバンドをを続ける苦痛と、やめてしまったあとの苦痛を天秤にかけて、後者が勝っているから続けているという見方もできる。もっと気楽に、遊び要素を増やしてやれば気はいいのかも知れないけど、一度味わってしまった、プロとしてのステージの快感が忘れられないんだろう。ランナーズハイと一緒で、バンドで快感を得てしまうと止められなくなるのは理解できる。はたして、惰性なのか執念なのか。こればかりは判然としない。
ただ、実力がないとは思えない。監督もなんで売れないんだろう…と思いながら作っているのが滲み出ている。

こういう人は、日本にもいるとは思うし、これからどんどん増えるような気がする。しかし、“№1にならなくてもいい、元々特別なオンリーワン”的な考え方では、このアンヴィルのような執着とは違ったものになるだろう。“オンリーワン”って、そう考えるのがいい場面があることは認めるけど、子供が言い訳に使ったら本当に害悪なセリフだと思う。偏見なのは承知で言うけど、“ゆとり世代”を象徴する歌。音楽の教科書なんかには載せるべき歌詞ではないと私は思う。

もう一点、注目すべきは、家族の反応。一方の家族は夫が夢を追うことに、好意的とはいわないまでも仕方ないと応援しているのだが、ロブの姉なんかはうんざりぎみ。リッチな生活なんか求めちゃいないんだけど、普通の生活すらできないことに疲れが見える。私なら家族がこういう反応見せている段階で、この形でバンドを続けることを躊躇しそうだ。周囲のこの反応を彼らは感じ取れないのだろうか。それとも全部受け止めたうえで続けているのだろうか。周囲への感受性が足りない人間が、アーチストとしての感受性や創造性を発揮できるものだろうか。私の感覚では理解できない部分だ。
語弊があるのを承知で言うが、周囲や家族の反応は、精神遅滞児を暖かく(というか仕方なく)見守っているのに近い感じがする。一般人の正論など通じない次元なので、こうするしかないんだろう。

数十億人いる人間の中で、こうやってしがみつく人間がいたって、何一つおかしいことはない。何かやりたいことがあるのに、何だかんだ理由をつけて、続けなくて後悔するよりは良いような気がする一方で、素直に夢を追う人は美しい! と言いにくくなる作品だったりする。

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image0622.png公開年:2004年
公開国:アメリカ
時 間:98分
監 督:モーガン・スパーロック
出 演:モーガン・スパーロック、アレクサンドラ・ジェイミソン 他
ノミネート:【2004年/第77回アカデミー賞 】ドキュメンタリー長編賞(モーガン・スパーロック)
【2004年/第10回放送映画批評家協会賞 】ドキュメンタリー賞



2002年11月、モーガン・スパーロックは、極度の肥満に至った女性2人が“肥満になったのはハンバーガーが原因だ”としてマクドナルド社を訴えたが、マクドナルド社が因果関係を否定したニュースを見て、あることを思いつく。彼は、本当に肥満とファストフードの間に因果関係がないのかを証明するために、1日に3回、30日間、マクドナルドのファストフードだけを食べ続けることにするのだった。そして、健康のための運動はやめ、店員から“スーパーサイズ”を勧められたら絶対に断らないというルールも加えて、実験に挑むのだが…というストーリー。

よく海外の人は、日本が粛々と集団行動するのをみて、飼いならされた民族だの、権力に簡単に支配されている国民だの揶揄するが、少なくとも自分でそう行動したほうが最終的に特だと納得して行動している。だから、薦められたからといって薦められるがままに食べることはしないし、仮に薦められるがままに食べたからといって、食べたのは自分の選択の結果だ、自分が悪かったという思考しか浮かばない。
ところが、アメリカ人は、自分のせいだとは微塵も思わない。アメリカ人は、簡単に権力に従ってしまう人間の集まりだと認めているに等しい。
精神的に自立していない国民性…言い方を帰れば家畜と同じなので、これを食えと言われえたらそのまま食ってしまう。家畜に気をつけろといってもできるわけがないだろ?だから気をつけなくちゃいけないのは、餌を与えるほうなのだ。だからマクドナルドは訴えられて然るべきだ!と。訴えている側は、自分が“家畜”だと表明したうえで、人のせいにしているのだ。

こんなロジック、日本人だったら馬鹿馬鹿しいと思うだろ?でもアメリカ人はそうは思わない。自分の判断で生きていないって、それって生きているといえるのか?何が自由の国なのか。笑わせるね。

登場する人間が、ハンバーガーを食べ続けたら体を壊した…だからハンバーガーは体に悪い食べ物だ!と主張する。アイスクリームを食べたら心臓発作で死んだ…だからアイスクリームは体に悪い食べ物だ!と主張する。
我々日本人は、食べ“続けた”から悪い、なんでもほどほどにしないといけないな…と思う。魚だって寿司だってそれだけ食べ続けてりゃ体を壊す。醤油を飲み続けりゃ死ねるだろ。あいつらは、日本食がヘルシーだとか言ってるけど、死ぬほど食べ続けてもまったく体に影響がないとでも思ってるんじゃないのか?アメリカ人は底抜けの馬鹿だと思う。

多額の宣伝費を使って子供を洗脳するのが悪い。そんな宣伝をされたら洗脳されて当たり前じゃん!そこで思考はストップ。洗脳されない子供を作ろうとは思わない。まあ、出てくる給食業者なんかの様子をみてりゃわかると思うけど、結局、自分以外の自国民への愛が皆無だってこと。

やっぱり、本作は話の焦点がずれていると思う。いや、はじめはズレていても、話が進むにつれて真の主張が浮かんでくるのなら理解できるのだが、ズレたままで終わると思う。似たような作風のマイケル・ムーアなんかは、正しいかどうかは別として、それなりの答えを導き出すけど、本作はそれが薄い。よく毎日食べましたね…という感想以外に何もない。それにこんなことをしなくたってどうなるかは、予想が容易につくので、この人がどうなっちゃうの?という興味も沸かないし。

このテーマで、この程度のオチしか導き出せないとするならば、今後この監督は、非常に苦労することになると思う。一発屋、それもこのスマッシュヒットの成功に溺れて、似たようなことを繰り返してどんどん小粒になって消えていくと思う。

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image1120.png公開年:2010年
公開国:アメリカ、イギリス
時 間:90分
監 督:バンクシー
出 演:ティエリー・グエッタ、スペース・インベーダー、シェパード・フェアリー、バンクシー、リス・エヴァンス 他
受 賞:【2010年/第26回インディペンデント・スピリット賞】ドキュメンタリー賞(バンクシー)




ロス在住のティエリー・グエッタは、ストリートアーチストに興味を持ち、警察の取り締まりに屈することなく、彼らの活動を追い続けカメラを向け続けていた。やがて、伝説の覆面芸術家バンクシーの作品や行動を映像に収める機会を得て、さらにか彼と親交を深めるようになる。その後、バンクシーはティエリーに、これまで取りためた映像を編集して、一つの映画にすることを依頼するが、その出来映えがあまりにひどく、彼の映像センスの無さにバンクシーは愕然とする。彼を映像の世界から遠ざけようとした際に、アート活動に目を向けることを薦めると、その気になってしまったティエリーは、アートの才能など無いにも関わらず、分不相応な巨大なイベントの立ち上げに邁進し…というストーリー。

冒頭は、バンクシー以外のアーチストの活動を紹介し、それらが撮影したティエリーの目線で語られる。その後、ティエリーとバンクシーとの出会いと、親交が深まる様子が描かれるのだが、ここまでは実に退屈な内容で、どこが良くて数々の受賞をしているのかさっぱり判らない状態(上にはインディペンデント・スピリット賞しか書いてないけど、もっと規模の小さいインディ系の映画賞をたくさん受賞している)。

私がお堅いつまらない人間なのかもしれないが、“インベーダ”さんとか、アンドレを貼り続けている人の活動が、迷惑極まりない。自分の家や会社の壁や塀にあんなものを貼られたり描かれたりしたら、憤慨すると思う。はっきりいって芸術として美しくもないし小汚いし、あれを剥がすには相当のコストが掛かる。とても腹立たしく感じられた。

で、続いてバンクシーの活動が紹介される(というか監督自身の活動なんだけど)。ここで、バンクシーという男の作品が、何で評価され高値で売買されるのか、はっきりとわかる。角辻の壁の下の方に描かれたネズミの絵ひとつとっても、そのアートセンスが段違い。間違いなく許可なく勝手に描いているのだが、これなら描かれても文句ないかな…って、建物の持ち主の怒りとかを押さえ込み、厳密な法解釈とかをなぎ倒すだけのパワーがそこにある。いや、むしろ描いてくれてありがとう…のレベル。
正体を明かさずに活動しているのも、単に違法なことをしているからパクられないように顔を隠したいということではなく、きちんと違法なことであることを認識した上で、それでもやる意味があるからやってるんだよ、そのギリギリの先に何かがあるんだよってことだと思う。他のアーチストは何が悪いわけ?って姿勢だから不快に感じる。

ところが、本作は後半になってガラリと趣を変える。これまで、ストリートアーチストを撮影しつづけていた(だけの)ティエリーに、バンクシーが映画制作を依頼すると、驚愕するくらいにポンコツ映像に仕上がる。このまま映像の仕事を続けさせるわけにいかないバンクシーは、リップサービスでユーもアート活動してみりゃいいじゃん!なんて行っちゃったら、ティエリーがその気になっちゃう。
元々頭のネジが飛んでる人なのかもしれないが、これまでアート活動なんかしたこともない人間が、バンクシーの真似をしていきなり単独アートイベントをぶち上げる。それどころか、すったもんだの末になぜか成功して、現代アートの旗手として持ち上げられリッチマンになってしまうという、斜め上の展開に。
MBW(ティエリーのアーチスト名)の作品は、他の現代アート作品のコラージュ、いやパクりでしかない。そこの創造性を見出すことが難しいほど。一周廻って、そのオリジナリティの無さに、大衆が現在の世相を勝手に投影したのか。なぜか、お客さんは彼の作品を絶賛するのだが、私にはさっぱりピンとこない。監督のバンクシーもMBWの作品には批判的で、この現象に不快感を表すことを隠さないし、苦言も連発する。

なんだこれは?という展開になるのだが、これは、現代アートというか、今の“アートビジネス”を批判しているのだろう。私は至極納得する。意図してかどうかはわからないが、途中で村上隆の作品がチラっと映る。私が村上隆作品にに抱いている感情と、バンクシーがティエリーに抱いている思いは一緒。そりゃ村上隆は芸大出だしキャリアも積んでいるんだろうけど、その作品に独創性もアート性も一切感じない。今の現代アートビジネスってのは虚業だし、バブル的で、今のマーケットに本物を見分ける力は無い。だから表現の舞台は街の中ってこと。彼が覆面で活動しつづける意味が、そこにもある。

後半になって急激に、社会性の高い視点になる。何を主張したい作品なのか?にハッと気付くと、ゾワっとするおもしろさが表出する作品。大衆は愚かであり賢い…という深いテーマがじわじわと染み出す、デキの高いドキュメンタリー。なかなかの佳作だった。軽くお薦めしたい。

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image1757.png公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:91分
監 督:ルイ・シホヨス
出 演:シャルロット・ゲンズブール、ウィレム・デフォー、ストルム・アヘシェ・サルストロ 他
受 賞:【2009年/第82回LA批評家協会賞】ドキュメンタリー長編賞(ルーイー・サホイヨス)
【2009年/第35回アカデミー賞】ドキュメンタリー賞
【2009年/第15回放送映画批評家協会賞】ドキュメンタリー賞

60年代に「わんぱくフリッパー」の調教師として活躍したが、その後イルカの保護に目覚め活動をしているリック・オバリー。和歌山県太地町で行われているイルカ漁を収めるべく、地元民との攻防をくりひろげた様子を綴ったドキュメンタリー。

下種な映画だろうと思っていたが、ここまでヒドいとは。

論理破綻がヒドくて、ちょっと精神を病んでいるのではないかと思える部分が多々ある。
「①水銀の残留濃度が判れば日本人はイルカの肉を買わなくなるはずだ」 → 「②わからせるためには、大地の入り江の様子を見せるしかない」…って、①から②の流れがまったく意味不明。流通しているイルカ肉の水銀濃度が問題なら、市場から妥当な数の抜き取り調査をして、その肉に含まれる残留水銀値を第三者機関に測定してもらって、その結果を日本人に公開するのが、正しい流れだろ。

自分が悪いと思ったことはだれしも悪いと思って然るべきだという発想のみで邁進し続ける。そして、その邁進が具合が「ヒャッハーッ!」状態のアドレナリン全開で、オレこんなことやったるんだぜ~~っ見せびらかし状態。こんなカメラつくってやったぜー!(ヒャッハー) etc…
こいつらの中にある戦闘DNAはどうしよもないな。戦う相手がいなかったら、むりやり相手を作ってでも戦う。そりゃイラク戦争もおこすわ。9.11もおきるわ。イラク戦争の失敗を経てもまだイランを攻撃する気マンマンでっせー!とか平気で言うもんな。クレイジー。「子供を殺されたイルカはそれを認識できている」。家族を殺されたイラク人やベトナム人も、それを理解してるけどね。

賢いイルカは喰うべきでないってことは、賢くない生き物を喰っても問題なしってことになる。じゃあ賢くない人間は“喰う”のだろうか?確かにヤツラは歴史上喰ってきた。
かつて、白人さんたちは、ラテンアメリカ米を発見し上陸する際に、ローマ教皇に確認したそうな。「ここにいる人間の姿をした生き物は、我々と同じ人間でしょうか?」と、同じ人間(隣人)であればもちろん殺すはずはないわけだが、その後先住民がどうなったかという結果を見れば、その時の回答がどうだったかわかるだろう。彼らは「半人間」だと。だから生かすも殺すも自由だ…となった。人間は神から自由に行動することを許されている(神に背かない範囲で)。自然も生物も自由にしていいんだ。そういうこと。まあ、後になって新大陸の人間も同じ人間だ…と訂正されるが、時既に遅しである。
で、本作の白人さんたちが何をやっているか。私たちがかわいいと思っているイルカちゃんを殺すなんて、こいつらは人間じゃねえ。こんなやつらには何やってもいいんだ…ってロジックは変わりない。

私はイルカもクジラも喰わんからどうでもいいんだけど、賢い賢くないの問題じゃなんだよ。私らは他の生き物を喰らわないと生きていけない業を背負ってる。だから、クジラだろうが、チキンだろがポークだろうがビーフだろうが野菜だろうが、すべてに感謝して食べる。殺していい生き物なんかいないけど、そうせざるを得ないから、「いただきます」「ごちそうさま」と毎回感謝しながら喰うんだ。ヤツラは根の部分で違うんだよなぁ。
#まあ、もっと速やかに殺してやれや…という指摘は、謹んで承るけどな。

「日本には出る杭は打たれるという諺がある。だから日本には環境保護団体は存在しない(キリッ!)」んだってさ(笑)。

こういう作品に長編ドキュメンタリー賞なんぞを与える、米アカデミー賞をはじめアメリカの映画賞自体がクソってことだと思う。ほとんどが自分たちがやっていることを追っていて、自分たちの行動を追ったドキュメンタリーになっちゃってるんだけど、こういうのもアリなのか?(まあ、マイケル・ムーアの『華氏911』がドキュメンタリーなんだから、同じっちゃあ同じか)。
私が米アカデミー賞の何かを受賞したら、受賞のステージ上で、「私の作品を評価してくれた方々には深く感謝をします。しかし、2006年に『THE COVE』に賞を与えたような団体からの賞を私が受け取るわけにはいけません。謹んでお返しします…」と、その場にオスカー像を置いて帰ってきたい(誰かやれ)。

観ないで批判するのはフェアじゃないから観るべきっていうけど、これは観る必要ないかな。WASPと私たちが別の生き物であることを痛感させられるだけ。巻き込まれないように注意しないといかんな(いまさらながら)。ここまでコケにされたら戦争してもいいレベルだけど、それは相手の望むところだから毅然&冷静に…ってところだな。

IWCでのブラジルの発言はおもしろいな。クジラの増加が漁獲量に影響するなんて非科学的だそうだ。南米の漁業はどうなっていくかねぇ…。



負けるな日本

 
 

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image1081.png公開年:2002年
公開国:カナダ、アメリカ
時 間:120分
監 督:マイケル・ムーア
出 演:マイケル・ムーア、チャールトン・ヘストン、マリリン・マンソン、マット・ストーン、ジョージ・W・ブッシュ 他
受 賞:【2002年/第75回アカデミー賞】ドキュメンタリー長編賞(マイケル・ムーア、マイケル・ドノヴァン)
【2002年/第55回カンヌ国際映画祭】55周年記念特別賞(マイケル・ムーア)
【2002年/第18回インディペンデント・スピリット賞】ドキュメンタリー賞
【2002年/第8回放送映画批評家協会賞】ドキュメンタリー賞
【2002年/第28回セザール賞】外国映画賞(マイケル・ムーア)
コピー:こんなアメリカに誰がした?

1999年4月20日、アメリカ・コロラド州リトルトン。早朝からボウリングをプレーしていた2人の少年は、その後大量の銃を手に彼らの通うコロンバイン高校へと向かった。そして、銃を乱射し12人の生徒と1人の教師を射殺し23人を負傷させた後、自殺した。なぜアメリカでは銃犯罪が多いのか?その疑問の答えを探すため、マイケル・ムーアはアポなし突撃取材を敢行する…というストーリ-。

やはり、『エレファント』を観てから本作を観たほうが、事件当時の雰囲気や緊迫感はよく伝わってきたし、マイケル・ムーアの問いもごもっともに思える。以前に本作を単独で観た時よりも腑に落ちたと思う。

私はマイケル・ムーアという人の手法は好きではない。実際、他の作品では、あまりにも恣意的な誘導や、フェアじゃない突撃取材や、「ちょっとそれは卑怯なんじゃ…」と思わざるを得ないシーンが多い。キツイ言い方をすると、この人の行動の7割くらいはクズだと思う。しかし、そう感じている私でも、この作品には価値があると思う。なぜか。

それは、本作に限って言えば、あまりぶっ飛んだ思いつきによる疑問からスタートしていないから。要するに銃問題というシビアな問題であることに加え、ホヤホヤの事件が問いのきっかけだからである。
そして、その問いかけは、まず仮説が設定され、愚直にその仮説が正しいか否かを検証する。そしてその答えが成立しなければ、また別の仮説…という流れが繰り返される。この仮説を立てる→検証する…という繰り返しは、科学者の態度であって、至極真っ当と言わざるを得ない(言い換えれば彼らしくないといえるのだが)。
本作において、アポなし突撃取材は、仮説の検証に用いられている。リアルな現状を把握するためには突撃のほうが望ましいわけで、その点も実に理に適っているといえる(他の作品では、問題をおこしている人に突撃取材して追い詰めることばかりやっている。本作にも一部あるけれど)。

で、こういう検証過程が評価されたのであって、突撃取材や無茶な行動が評価されたのではないことをマイケル・ムーア本人が理解しているのか?ということなのだが、残念なことに判っているとはいい難い(いや、判っているが彼の内なる衝動を抑えられないのかもしれない)。
多分、マイケル・ムーア作品の中で、本作は奇跡の作品なんだと思う。お薦めの作品。まあ、本作を観てアメリカ社会がうらやましいなんて思う人はいないでしょ。

#ん~、『エレファント』にボーリングのくだりは一切出てこない…。サント監督はこの点は重要視していなかったってことか。それにしても、、『エレファント』がいくら緊張感やスリルがあっても、本作の最後に出てくる実際の事件の監視カメラ映像にはかなわんな…。



負けるな日本

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imageX0024.png公開年:2003年 
公開国:アメリカ、スペイン
時 間:100分
監 督:オリヴァー・ストーン
出 演:フィデル・カストロ、オリヴァー・ストーン
コピー:アメリカが上映を拒絶した問題作





チェ・ゲバラと共にキューバ革命を遂行し、社会主義国家を築いたカストロを、『プラトーン』『ナチュラル・ボーン・キラーズ 』のオリヴァー・ストーン監督が2002年、3日間に渡ってインタビューしたドキュメンタリー。革命期から冷戦時の歴史的なエピソードの真相や、カストロ本人の素顔に迫る作品。

この映画を観るかぎり、カストロ自身は魅力的な老人に見える。自分を偶像化することを禁止していることからも、少なくとも毛沢東のように救いようのないアホではないことは明白である。
それ故にアメリカに住むキューバ人は、この映画をアメリカで公開することに反対したわけだ。彼らを苦しめた張本人がステレオタイプな独裁者ではないという、そういうイメージが植え付けらるのを良しとしないから(まあ、カストロが好々爺であることも事実だし、苦しめられたキューバ人がいるというのも事実だと思うので、どちらが正しいというわけではなかろう)。

人は考える生き物だが、同時に考えを止める生き物である。見方を変えると、人間は色んなことに関心を抱く、そこから謎を生み出す。しかし、その謎のすべてに引っかかっていては、生物活動を維持するのもままならない。だから、さほど必要でないことは捨てる。考えない。
生きることを捨ててまで考える生物ではないということだ。だから、考えることを生きる主目的とする哲学者が生まれるのは、巨大な都市なのだ。だから、物乞いと哲学者の数は絶対に相関があるはずだ。今の日本でいえば、ホームレスの数とエセジャーナリストの数には相関があるはずだ(歴史の必定だと思うんだけど、みんなはどう思う?)

閑話休題。何が言いたいかというと、カストロのようなタレント性を持った人だからといって、同じようなカリスマ的指導者になるわけではないだろうということだ。おそらく、考えることをやめた大衆が、引っかかりを感じながらも生活のために捨てた“考え”に、答えを提示してくれる人物が現れ、“すっきり”したから、その答えを提示してくれた人物を崇めるのだ。そして、今後も提示し続けてくれそうならば、ますますカリスマ性を増していく。大衆が考えることを止めざるを得ない状況と、且つその状況が同時に人々の不満を募らせるものであること。そこに、“答え”を携えるものが登場したときに、同様のことがおこるわけだ。
共産主義がキリスト教の一種だと言われるのは、その発生過程が宗教と同一だから。そういうこと。
#ソ連もキューバも、宗教を否定しながらも、教会が存在するのが不思議なところだよね。

さて、この状態をみんなはうらやましいと思うかい?私は思わない。どういう状況であれ考えを止めることを私は望まないから。そして、誰かの考えに無条件で賛同し、それどころか賛美するなどということに堪えられそうもないからだ。

これを読んだ人は気付くと思うが、大衆が考え始めると、ほどなくこの体制は終わる。体制を維持するためには、その体制を産んだ状況を維持すればよい。簡単言えば、貧しいままにしておくか、情報を遮断すればいいのだ。
つまり、まだキューバが体制を維持できているということは、この両方が存在することを意味している。
多くの共産主義・社会主義が、長く体制を維持できたにもかかわらず、そして国家が豊かな国家を標榜していながらも、決して裕福にならなかったのには、理屈があるのだ。
よく、北朝鮮はあんなに貧しいのに何で体制を維持できるのだろう。よっぽど暴力的に抑圧されているに違いない…という意見を聞くが、その見方は実は誤っている。貧しいがゆえに維持できているのだ。だから、もっと困窮すれば、自然に北朝鮮は崩壊すると思ったら、大間違いなのだよ。

おっと、作品のデキではなく、社会学の講義になってしまったね。でも、ドキュメンタリー映画だからしょうがない。こうやっていろんなことを考えさせる映画なのだ。そして、常に反米気質のオリヴァー・ストーンだからこそできた映画。
ただ、敵の敵は味方という理屈で生まれた友情は、お互いの息がかかるほどの距離になると、さすがに違いが鼻についてくる。その臭いの違いが、予定調和のインタビューに微妙なゆらぎを与えていて、そのゆらぎに先に何かを見せてくれるわけだ。とにかくインタビューする側のあからさまな思想の押し付けのない、よいインタビュー映画だと思う。

まあ、ここからは余談になるけど、カストロから、自分が世界の理を把握した気になっているおごりを感じざるを得ない。だから、人類が滅びに向かっていることは、複雑な数学など不要で、簡単な算数程度があれば理解できると言い放つ。
物事を簡単に考えようとする態度が楽観主義から生じているならば問題はないが、それは短絡主義と表裏一体。毛沢東しかり社会主義国家の指導者は、必ずこの誤りの轍を踏む。これ以上、長々語る気はないが、この1点において、カストロはポンコツである。そしてポンコツであるがゆえに、大衆から支持される。ああ、社会性動物たる人間の性よ。

#オリヴァー・ストーン、カウンセリングにこだわりすぎじゃね?




負けるな日本

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imageX0021.png公開年:1962年 
公開国:アメリカ
時 間:67分
監 督:ジェームズ・アルガー
コピー:ウォルト・ディズニーの「大自然の冒険ドラマ」






家畜を次々と襲い悪魔のように恐れられる狼の群れがいた。そのリーダー・ロボはお尋ね物となり多額の賞金が懸けられる。人々はロボを捕らえるため、様々な手段を試みるが、賢いロボは罠をことごとく回避する。とうとう、名うてのハンターがロボ討伐に動き出し、いよいよ追い詰められていく…というストーリー。

私、子供の頃、ファーブル昆虫記派で(そんな派閥あるのか?)、シートン動物記は好みじゃなかったので、あらすじ程度しか知らない。BSでやってたのに何気に録画して観ることに。この作品、多分レンタルしていないと思う。

とりあえずドキュメンタリーに分類してみたけど、“野生の王国”仕立てって感じ。ドキュメンタリーとフィクションが入り混じったような不思議な作品である。
シートン動物記の内容に沿って、狼の生態を撮影したってことかな???と思ったけど、私の記憶にある“狼王ロボ”とはなんか違うような気がする。もしかすると、撮影できた数々のシーンを元に、後付でストーリーをつくったのかもしれない(でも、そうでもしないと、シートン動物記の内容にそって、必要な自然動物のシーンを撮影するのは不可能に近いからなぁ)。

何の悪意も害もない作品。小学生の理科室とか視聴覚室とかで見せられそうな感じ。でも、残念ながら本作は、このブログで紹介する作品群と同列に扱ってよいのか悩む作品ではある。仮にレンタルされていても金を払うに値するかは微妙なレベル。もちろんお薦めはしない。

とはいえ、こういう当たり障りのない作品が観たい時期なのかもしれない。こういう大きな震災があったときって、こういう動物もののフィルムってすっと頭に入ってくる。作為の少なさがすごく心地好い。
各TV局も、バラエティ放送を通常通り流す努力もいいんだけど、動物系のフィルムを放映するのっていいかもしれないよ。弱肉強食で若干ハードな場面があっても、案外、これも単なる自然の出来事…として受け止めるスイッチが入るようだ。心を整理するには効果的なツールかもしれない。

#とりあえず、丸木橋を落とせば目的は達成できたんじゃないの?ってツッコみたくなるんだけどさ…。






負けるな日本

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image1494.png公開年:2005年 
公開国:ドイツ、オーストリア
時 間:92分
監 督:ニコラウス・ゲイハルター
ノミネート:【2006年/第19回ヨーロッパ映画賞】ドキュメンタリー賞(ニコラウス・ゲイハルター)
コピー:「いただきます」って、だれに言いますか?
きっと、誰かに教えたくなる。食べ物があなたの食卓に並ぶまでの、驚くべき旅。



人間社会に流通する食物が、どのような過程を経て食卓まで届くのかを撮影したドキュメンタリー。野菜・果物・家畜・魚などが、高度に機械化された工場にて、システマチックに生産・処理されている過程をありのままに映し出した作品。

音楽もナレーションも字幕も何もないという、あるようでなかった形式のドキュメンタリー。今後、同様の手法のドキュメンタリーを作成しても、本作の真似といわれてしまうわけで、正にやったもん勝ちな作品。

ジャケットには牛さんの部位がデザインされてるし、PG-12ってことになっているし、もしかしてちょっとグロいシーンとかある?なんて身構えてしまったけど、多少解体の時に内蔵とか血が出る程度で、畜産のプラントならばあたりまえの光景。むしろ、ショッキングに映るかもしれない部分は意図的に排除しているような印象。よっぽど農業高校の生徒のほうが、ショッキングな経験をしているでしょう。
とはいえ、確かに動物の解体の場面は緊張してしまうし、その自分のドキドキ感とは反対に、作業している人の淡々とした感じに、はじめはものすごく違和感を感じるに違いない。畜産関係だけじゃなく、農業とか漁業関連のシーンも多いからかもしれないが、30分を過ぎると、そういった動物解体のシーンもさほど気にならなくなる。むしろ、システマチックな感じが妙に心地よく感じられ、トランス状態になってしまうという、この不思議な感覚。
何のプラントなのかくらいは字幕があったほうがいいという人もいるようだが、私は絶対に不要だと思う。外国旅行にいった先にたまたま工場や農場があったので、ふらっと立ち寄ってぼ~っと見てました…、そんな感じかな。

製作した人はあまり意識していなかったと思うが、畜産にしても農業にしても、国によって手法がかなり違うということに気付く。たとえば、ひまわりのような植物(油の原料かな)を採取するために、薬剤で枯らしてから刈り取っているが、ちょっと日本では考えにくい。個人的に一番怖かったのは、岩塩の採掘場かな。もちろん日本にはないのだが、地下深くの空間で、あんなに広い範囲を柱もなしに広げるなんて、恐ろしくて恐ろしくて。

これを観て、ベジタリアンになろうと決める人が稀にいるかもしれないが、そういう感性の人とは私は合わないだろうな。ぎゃー、人間はなんて罪深いんだ!って、そこで思考が止まる人は、その罪を背負って死ねばいいと思う。人間は、動物だろうと植物だろうと、その命を奪わないと生きていけない“業”を背負っていることを、再確認させてくれる。これは、大人になる前に観ておいたほうがいい作品かも。観た後の「ごちそうさま」の重みは変わってくるに違いない。

ほんとに、観る前は予想だにしなかった、おだやかな心持ちになることができた作品。私はお薦めしたい。

#理由はわからないが、何故か「一生懸命働かなきゃなぁ…」って気持ちになった。

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プロフィール
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クボタカユキ
性別:
男性
趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
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一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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