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公開年:2012年
公開国:日本、アメリカ
時 間:107分
監 督:ピーター・ウェーバー
出 演:マシュー・フォックス、トミー・リー・ジョーンズ、初音映莉子、西田敏行、羽田昌義、火野正平、中村雅俊、夏八木勲、桃井かおり、伊武雅刀、片岡孝太郎、コリン・モイ他
コピー:戦いの果てに、わかり合えるのか――





1945年8月30日。日本はポツダム宣言を受諾した日本に、ダグラス・マッカーサー率いるGHQが降り立つ。日本の占領統治と共に、A級戦犯の容疑者たちの拘束を開始する。マッカーサーは、日本の文化にも精通しているボナー・フェラーズ准将に対して、真の戦争責任が誰にあったか、特に戦争における天皇の役割りや実際の権限について、10日間で調べるように命ずるのだった。連合国側は天皇を戦犯として法廷に引きずり出し処罰するように求めていたが、フェラーズは、それを行えば日本国民による激しい抵抗は必至と考えていた。なんとかその状況になることを防ごうと考えたが、近衛文麿など関係者への事情聴取を行っても、日本独特の意思決定のあり方に混乱する一方で、まったく真実は見えてこない。一方、フェラーズは、大学生の頃に恋愛関係にあった日本人留学生アヤの行方を探るよう、運転手兼通訳の高橋に命じていたが、彼女が教員をしていた静岡の大部分がアメリカ軍による空襲を受けていたことを知り…というストーリー。

ロシア製作の『太陽』(2005)以降、普通にこういう作品が製作されるようになって嬉しい。この時代のことは日本史でも詳細はやらないし、やったとしても日教組教師がまとも授業をするはずもなく。

天皇を死刑にすれば、日本の統治は非常に困難になるという、現場サイドの事情が発端だとはいえ、もしかして帝国っていってるくせに天皇って全然権限なかったんじゃね?というところに目をつけたのは、GHQなかなか。

当時の軍事国際法に照らしても、市街地への爆撃など許されるはずもなく、アメリカのやってきたことは不法行為。それでも勝ったものが正義という時代である。A項戦犯などという概念を持ち出して事後法で裁いたのはご承知の通り。なんでもアリだったのに…である。

大日本国帝国憲法は欠陥憲法である。陸軍大臣と海軍大臣には現役武官だけが就任できる。逆に言えば軍人にしかなれない。すべての大臣が決定しなければ組閣ができない。組閣ができなければ国の運営ができない。そうなると、軍人さんが政府の方針が気に食わなければ、陸軍大臣、海軍大臣への就任を断るなり保留するなりすれば、政府の首根っこを掴むことができる。何なら就任することを条件に、軍に有利な条件を飲ませることも可能なのである。

ああ、学校の先生がいうとおりに、それで軍が暴走しちゃったんだな…と考えるのは尚早。開戦は日本の“野心”が原因、パールハーバーの奇襲許すまじとアメリカ人は言うが、昭和12年あたりから、アメリカは対日経済封鎖を繰り返し行って、日本を窮地に追い込んで行った。昭和16年にはABCD包囲網に石油の対日全面禁輸である。これは、いわゆる軍事的な戦争をせずに交戦するという、アメリカが仕掛けた戦争である。
海外と輸出入ができなければ、国内がどうなるかは明らか。家族が飢えて死ぬのを指をくわえてみているバカはいない。いくら今の日本人が平和ボケしているといっても、同じように家族が飢え死ぬとなれば、戦いを決意するだろう。
で、意を決して戦いを決めれば、伝達の不備で奇襲だといわれ、それもルールに則って軍事施設だけを攻撃したにも関わらず非道だと恨まれる。こんな理不尽なことがあるだろうか。それも、兵器で市街地を爆撃して何十万人も殺すような奴らにね。
天皇の名の下に狂信した?自分の大事な人たちの命が危うかったから。これが真実だ。

ああ、戦争はイヤだイヤだといっているだけの人が多いが、どうすれば巻き込まれないかを考えようともしない人は、同じことを繰り返す。歴史を顧みない人はマヌケだ。身もふたもないけど、戦争に巻き込まれたくなければ、経済的に外国に首根っこをつかまれないこと。これに尽きる。
ちょっと話は逸れるけど、電力を火力・水力・原子力の3つに発電方法を分散している理由もこれ。
さらに燃料の入手先も政治的に地域的に分散。どれか一つに絞ったほうが、維持とか楽に決まってるけど、そうしない。どこかのルートが閉じてもすぐに困窮しないように考えている。話は変わるけど、原発動かさなくてもやっていけるじゃん!とか言うバカがいるけど、動かさなくてもすぐに詰まないように考えてあるんだからあたりまえ。だからといって、ずっとこの状態でいけば、次の一手で簡単に窮する。外国の言いなりにならざるを得なくなる。そんなに原発がいやなら、それに代わる何かを考えないとだめ。新エネルギーの確立推進の具体的な指針を出させることと、確立後にすみやかに移行することを条件に、原発を再稼働を認めるというのが、今の答え。

戦争がない世界がいい?いやいや、先ほど言ったよね。第二次世界大戦のアメリカは、軍事的な戦争をせずに交戦するという、新しい戦争方法を遂行したって。そして今も、ロシアに対して同じ手法で仕掛けてるでしょ。今も“戦争真っ最中”だということを、しっかりと認識しよう。

閑話休題。

事実かどうかは知らないが、フェラーズ准将は、恋人がいるかもしれないから静岡への空爆を避けようと工作していたという。まあ、身勝手な話。この恋愛ストーリーにかなりの比重が咲かれているが、これがないと本当にドキュメンタリーみたいになっちゃうので仕方がない。結果的に悲恋で終わっているのも悪くなかったし、ここは許容しよう。

ヒアリングを重ねれば重ねるほど誰に戦争の責任があるのかよくわからなくなるという、まるで『藪の中』。欧米人には理解できない状況に困惑しながらも、とうとう天皇との面談にまでこぎつけるマッカーサー。
いわゆる玉音方法のレコード原版めぐって、軍部が皇居に押し寄せて皇宮警察と戦闘なったという。不勉強でそういうことがあったことを私は知らなかった。これを知っただけでも観た意味があった。本作は、関屋宮内次官による証言な、なかなか重要なポイントとなっている。
すべての責任は私にあると言う天皇に対して、一緒に今後の日本を考えていこうと、途端に態度が軟化するマッカーサー。実は、結局誰が原因なのかはわからないとも捉えられるオチ。
そりゃあ、無理だ。実はアメリカが仕掛けた戦争なのに、そのアメリカが犯人探ししてるんだもん。見つかるわけがない。なんとシュールなオチかと。

ちなみに、対米戦争は別にしても、日中戦争は侵略だろ?日本が悪いだろ?と嬉々として語る人がいるが、当時、植民地化は不法行為ではない。現在の価値観や法で過去を裁いてはいけない。

ちょっとグダグダな演出も垣間見れるが、好き嫌いは別として日本人は観ておくべき作品なのかな…と思う。特に20代、30代前半くらいの人は。

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公開年:1959年
公開国:日本
時 間:105分
監 督:市川崑
出 演:船越英二、ミッキー・カーティス、滝沢修、浜口喜博、石黒達也、稲葉義男、星ひかる、月田昌也、杉田康、佐野浅夫、中條静夫、伊達信、伊藤光一、浜村純、潮万太郎、飛田喜佐夫、大川修、此木透、夏木章、竹内哲郎、早川雄三、志保京助、守田学、津田駿二 他
受 賞:【1959年/第10回ブルーリボン賞】撮影賞(小林節雄)



フィリピン戦線のレイテ島。田村一等兵は上官から病院に行くことを命ぜられたが、その程度では入院できないと医者から追い返されてしまう。戻った田村は、その旨を上官に伝えるが、再び病院に行けと追い出されてしまう。隊の食糧はすでに底をついていており、田村のような労働力にならない隊員は、ただの厄介者なのだ。どこにも行くところがない田村が病院の傍の林に行くと、田村と同様に入院を断れらた兵隊は、何人も横たわっていた。彼らに合流したものの、翌日、病院が爆撃を受けて壊滅。再び田村は一人で荒野を彷徨うことに。海に近いひとけのない村に立ち寄った田村が民家を物色していると、そこに男女が入ってくる。恐怖から女の方を銃殺してしまった田村は、民家から塩を奪って逃走。罪悪感から銃を捨てて丸腰で山中を歩いていると、芋畑を発見。そこで別隊所属の3人の兵士と出会うのだったが…というストーリー。

戦地の悲惨な状況を目の当たりにする一兵卒の主人公の行動…という『ビルマの竪琴』と似たようなシチュエーション。こういう作品って“反戦映画”って紹介されることが多いけど、戦争の悲惨さを描いたら反戦映画って短絡的だなと、いつも思う。悲惨で極限的な舞台設定でドラマを作りたいだけっていうのはイカンのか?と。

市川崑に反戦の心が無かったなんていう気はないけど、映画の舞台として良かったから扱っているだけだと、私は思うよ。金田一耕助シリーズだって、終戦間もない設定だから面白い(ちょっと設定が後になる病院坂とかはおもしろくないじゃん)。

田村が女を銃殺した村に教会があったことから、キリスト教信仰にまつわるテーマを指摘する人もいる。しかし、人間が人間たりえる最低ラインを死守しようと必死になっている田村の姿の、そのギリギリの先に宗教的な視点が見え隠れするだけで、別にキリスト教の宗教観を表現しているわけではないと思う。永松のカリバニズムとキリスト教が対峙しやすいという側面もあるだろうが、いずれにせよ、本作は一つの宗教観で収まりがつく内容でもないし、逆に言えば宗教観を持ち出すような観方をするのは無粋で、純粋にホラーやサスペンスとして観るほうが、監督の意にかなっている気がしないでもない。実際、私はそういう観方で愉しめた。
私の市川崑観を押し付ける気はないけど、裏を考えずに素直に観るべき監督だと思うんだよね。

白黒ながらも、暑さがむんむん伝わってくる画。南方なのに全然ウェット感がない。実際は雨も降るしジャングルだし小川も流れてる。でも、テーマ故なのか、ものすごく乾いている感覚に襲われる。観ていて苦しくなる画ってすごい。

船越英二はまあ彼だとわかるが、ミッキー・カーティスは全然いまの面影がない。二人とも演技はうまくない。特に本作の船越英二はダイコンくさいけど、なんかそのダイコン芝居が、極限な感じをうまく涵養しているような。その他の脇役の演技がしっかりしているだけに、逆に際立つのだ。これも含めて市川演出だとしたら、それはすごい。

決して楽しい作品ではないけれど、映画史に残る良作だと思う。

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公開年:1985年
公開国:日本
時 間:133分
監 督:市川崑
出 演:石坂浩二、中井貴一、川谷拓三、渡辺篤史、小林稔侍、井上博一、浜村純、常田富士男、北林谷栄、菅原文太、佐藤正文、茂木繁、保木本竜也、川崎博司、山口眞司、永妻晃、清末裕之、井上浩 他






1945年夏。ビルマ戦線の日本軍は、物資・食料が不足する中、連合国の猛攻を受け、タイへ撤退を続けていた。撤退する部隊のひとつ井上小隊は、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教えており、隊員達は歌によって結束と強め、苦境を乗り越えていた。隊員のひとり水島上等兵は、音楽の才能があったのか、ビルマ伝統の竪琴サウン・ガウを巧みに弾きこなし、隊員たちの心を癒していた。小隊が国境に近づいたあたりで、日本は降伏。武器を放棄して投降した彼らは捕虜となり、南のムドンにある捕虜収容所に送られた。山奥の三角山には降伏しない小隊が未だ交戦を続けており、このまま降伏しなければイギリス軍は全面攻撃を開始し、間違いなく小隊は全滅する。彼らを助けたい井上隊長はイギリス軍と交渉し、説得役として水島を行かせることに。しかし、期限までに説得することができず、イギリス軍は攻撃を開始。水島もそのまま行方不明となってしまうのだった。水島は運よく戦火を逃れて、生き残ることができたのだが…というストーリー。

なんで水島がビルマに残ろうと思ったのか、隊の人々は理解できない。捕虜といっても虐待されるわけでもなく、いずれは日本に帰れるのだから、水島がなんで戻ってこないのかさっぱり理解できない。戻ってこない理由が思い浮かばないから、似ている人が現れてもたぶん違うだろう…ということになる。

かといって、水島と隊員たちがすれ違う演出がハラハラするか…といわれれば、そうでもなかったりする。

私がこの作品で一番しっくりこないのは、水島が一人で日本兵の供養をすると、そこまで頑なになった理由である。それが妥当か?納得できる?ということ。

水島は、投降しない小隊の説得に失敗して、結果として全員死んでしまう。責任を感じて供養しなくては…という気持ちになるのは理解できるのだが、でもそれは、その小隊だけをきっちり埋葬すれば終了する話。死んだ日本人全員を供養する!というモチベーションにまではならないだろう。

その後、日本兵の死屍累々を見るのだが、確かに供養したいという気持ちにはなるかもしれない。でも、待てよ。彼は突然ビルマにやってきたわけではない。これまでずっとビルマ戦線で戦ってきたわけで、敵味方ともに多くの死者が出ただろう。撤退中も多くの死体を見ただろう。今になって突然、供養しなくては!!!と目覚めるのは違和感を覚える。

その後、イギリス人修道女が日本兵を供養しているのを見て、苦悩(というか悶絶)する。ああ、国籍分け隔てなく供養している人もいるのに、私は帰ろうとしているのか…っていう苦悩なのかな。でも、イギリス人が供養しているのに、日本人がしないなんて情けない…っていう感情だとしたら、なんかズレている気がする。そう、水島はその後も日本兵を供養する!とは言うのだが、他の国の死者も供養するとは言っていないのだ。あのイギリス人修道女の行いを見たのにだ。むしろ、ずっと日本人、日本人といい続けているのって鬼畜の心じゃないか。何も学んでいないじゃないか。

どうにも納得できない私は、原作はどうなのかな?と調べた(といってもwikipedia)。そこに書かれていた原作の内容を読んで、至極納得できた。原作では、三角山の小隊の説得に失敗し玉砕した後、人食い部族に捕らえられ、毎日ご馳走を食べさせられた後に、丸焼きにされそうになるのだ。しかし、偶然強風が吹いて火が消えてセーフ。きっと精霊が怒っているのだと動揺する部族の前で、とっさに竪琴を奏でたら、またまた偶然風が止んで、こりゃすげえや喰うのやめよう!ってなって生き残る…っていう内容。そんな、ギリギリの体験したら達観しちゃて、もう後の人生は供養のために捧げます…くらいの心持ちになるわな。ものすごい説得力。

神の意思にかなった行動とは何なのか?そんな高尚なことはちっぽけな私にはわからないけれど、少なくとも今自分が善行だと思うことを全力でやることは、きっと神の意思に近づいているに違いない…といった感じの非常にプロテスタント的なセンスを感じるのだが、市川崑にそういう宗教的バックボーンがあったかは不明。でも『おとうと』も『野火』もキリスト教的な要素があるよね。

ちなみに市川崑は1956年にも『ビルマの竪琴』を作っている。レンタル屋で見つけたら比較してみようと思う。

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imageX0075.Png公開年:1983年
公開国:日本、イギリス
時 間:123分
監 督:大島渚
出 演:デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティ、ジャック・トンプソン、内田裕也、ジョニー大倉、室田日出男、戸浦六宏、金田龍之介、三上寛、内藤剛志、本間優二、石倉民雄、飯島大介、アリステア・ブラウニング、ジェイムズ・マルコム、クリス・ブラウン 他
受 賞:【1983年/第37回英国アカデミー賞】作曲賞(坂本龍一)
コピー:男たち、美しく…。


1942年、日本統治下にあるジャワ島の山岳地帯にある日本軍俘虜収容所。捕虜の英国陸軍中佐ロレンスは、日本の滞在経験があり、通訳を命じられていた。ある日の明け方、ロレンスは、軍曹のハラに起こされる。連れて行かれた閲兵場には、オランダ兵デ・ヨンと朝鮮人軍属カネモトが横たわっていた。カネモトはデ・ヨンの独房に忍び込み彼をレイプしたとのこと。あまりの不名誉な出来事に、ハラは上官への報告なしに独断で処分を行うことを決め、その証人としてロレンスに立ち会うように命じる。そこに、収容所長ヨノイ大尉が現れ、ハラを制止。自分がバビヤダで行われる軍律会議から戻ったあとに正式に処分すると告げ、出立する。ヨノイは、輸送隊を襲撃した後に捕虜となった陸軍少佐ジャック・セリアズの裁判に出席。反抗的な態度を崩さないセリアズに、ヨノイは興味を抱き…というストーリー。

『日本の夜と霧』の流れで本作を鑑賞。
どうして日本はこんなことをしてしまったんだろう…という思いで、この作品は作られた…という解説を見たことがあるが、はっきりってそんなのは的外れだと私は思う。だって、この作品で描かれている日本軍が、それほどクレイジーには見えないから。
捕虜の扱いが非人道的だったっというが、他の戦争映画を観たってこれと同じかこれ以下である。ヨノイの乱心は演出上の問題だから別として、この部隊の捕虜の扱いはむしろ良いように見える。そして、ジョニー大蔵演じる朝鮮出身のホモ軍人。おそらく“カネモト”という名前は、日本が押し付けた名前だといいたいのかもしれないが、ちょっと調べれば判ることだが、“創氏改名”っていうのは、「氏」を作ってもいいよ、「名前」を変えてもいいよっていう許可だからね。日本風の名前にしたければどうぞってこと。そしてその朝鮮人は日本っぽい名前をつけたんでしょ。
もしかして朝鮮人は軍の中でもヒドイ扱いを受けていたと主張したいのかもしれないが、差別されるどころか同じ軍隊で同じように階級を与えられているじゃないか。これを平等といわずしてなんというのか。

そういう、日本叩きをしたくてしたく仕方が無いのに、結果として全然それができていないところが、この映画の“ぼやけ”に通じている。結局は、『日本の夜と霧』の劇中で繰り広げられた自己批判と総括を同じレベル。これが戦争の真の姿だと? 私にはよくわからない。

劇中、ローレンスが語る、日本全体は憎むけど、日本人個人個人は憎めないというセリフや、戦後のエピローグでのローレンスとハラの会話は「どっちも犠牲者」という内容に終始する。
まるで、集団としての日本の悪行の当然の帰結であって、個人は悪くないんだ…といわんばかりだが、まさかABCD包囲網を知らんわけでもないだろうし、東京大空襲も原爆投下も立派に国際法違反だぜ。大体にして舞台となった東南アジアは、イギリスとオランダの植民地で、そっちはそっちでその利権を守ろうという戦いだったじゃないか。そこから目を背けた演出なんて、絵空事にしかうつらないわな。

そういう浅い知見を削ぎ落としたら何が浮き彫りになってくるのかといえば、ゲイ表現である。いや、むしろそればかりが見えてくる。男と女の間に友情はあり得ないってのと同じノリで、男と男の間の愛情はこうやって涵養されるものだよ…って言っているように見える。だけど、なんだかわからん。

その後、左翼のポンコツ理屈なんかが簡単に通らなくなった世の中で大島渚が生み出したのは『御法度』。結局、内ゲバ的なエログロとゲイ表現しか残らなかったのではないか。これが大島渚の限界だった。
この作品が作品たりえているのは、ビートたけしと坂本龍一というキャスティングの勝利。そして彼の音楽、それがなければ駄作だったろう。
シナリオ的にも、セリアズの“弟への後悔”というのが、イマイチ生かせてないしなぁ。

これは、坂本龍一の音楽のPVで、それにデヴィッド・ボウイとビートたけしと坂本龍一本人が出ているんだよ!と思ってみるとものすごく良質に感じられるよ。これと『ラスト・エンペラー』と『王立宇宙軍』のサントラは買って持っているんだ(あたりまえっちゃああたりまえだが、王立宇宙軍の音楽にすごく近い)。

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imageX0058.Png公開年:1959年
公開国:日本
時 間:109分
監 督:佐藤允、中谷一郎、鶴田浩二、上村幸之、三船敏郎、中丸忠雄、南道郎、瀬良明、上原美佐、雪村いづみ、中北千枝子、横山道代、塩沢とき、沢村いき雄、江原達怡、桐野洋雄、中山豊、山本廉、夏木陽介、堺左千夫、ミッキー・カーチス、笠原健司、手塚茂夫 他




昭和19年、第二次世界大戦末期。北支戦線の将軍廟という町に荒木と名乗る従軍記者が現れる。彼は大久保という交戦中に中国人慰安婦と心中したという見習士官の死に興味を抱き、彼が死んだ場所である独立第九〇小哨へ向おうとする。そこは、素行の不良な兵士ばかりを集めた小哨隊で、“独立愚連隊”と呼ばれており、本体から離れた敵が多数出没する危険な丘陵地帯に駐屯していた。実は荒木は、大久保見習士官の実兄で、弟の死の真相を知るために、記者に成りすましていたのだった…というストーリー。

いかにも日本の戦争映画って感じのタイトルなので、反戦要素満載なのかと思っていたが、まったく違った。中国大陸出征中の部隊で繰り広げられる、謎解きミステリーになってる。それに、最後の戦闘シーンは、戦争映画というよりも西部劇みたい。馬賊の登場がぴったりな舞台になっている。主人公・佐藤允の顔力が凄まじくて、無頼な雰囲気にぴったりである。
昨今、韓国が大騒ぎしている従軍慰安婦だが、この映画で描かれている従軍慰安婦像が、いろいろな資料を勘案すると正しい描写である。兵隊なんかよりもずっと高給取りの職業慰安婦。軍が運営しているわけではない。

それにしても、三船敏郎の無駄遣い。出番はちょっとだわ、頭のおかしくなった部隊長の役だわ、早々に退場するわ。まあ、プローモーション的な意味だとは思うけど、ちょっとヒドいな。上原美佐と三船敏郎のコンビは『隠し砦の三悪人』とどっちが先かな。1958年だからこっちのほうが後だね。

本当に犯人が誰なのかは簡単にわからなくて、石井軍曹のフェイクも効果的だった。戦火の中での恋愛模様や、主人公の恋愛に対する飄々とた態度もなかなか魅力的(慰安婦や馬賊の娘なんだけど、みんなキュート)。実に見ごたえあったなぁ。お薦め。
#ミッキー・カーチス?あの運転手?ふーん。

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クボタカユキ
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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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