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公開国:チェコスロヴァキア、イタリア
時 間:71分
監 督:ミロス・フォアマン
出 演:ヤン・ヴォストルチル、ヨセフ・シェバネク、ラディスラフ・アダム、ヴラティスラフ・チェルマク、フランティシェク・デベルカ 他
ノミネート:【1968年/第41回アカデミー賞】外国語映画賞
チェコの田舎町。消防署幹部の面々は、退役した元消防所長が不治の病に侵されていることを知り、記念品を贈ろうと考える。地元民との交流パーティを催し、そこを贈呈の場としよと考えた。目玉の出し物は“ミス消防士コンテスト”や景品の抽選会。消防署幹部の面々は、このパーティを成功させようと努力するものの、コンテストの参加者がさっぱり集まらず、必至で若い女の子に声を掛けまくる始末。おまけに抽選会の商品が、ちょちょこ無くなってしまう。監視をしても、やっぱり無くなってしまう。そんなドタバタの中、パーティはスタートするが、集めた女の子たちは、恥ずかしがってステージから逃亡。さらに、会場近くの家が家事になってしまい、あわてて緊急出動するのだが…というストーリー。
『カッコーの巣の上で(1975)』『アマデウス(1984)』などで知られるミロス・フォアマン監督の作品。プラハの春より公開年が古いので、チェコにいた頃に作られた作品だろうか。
何も考えずに観ていると、じいさん、おっさん連中が、くだらないドタバタを繰り広げているだけに思える。意図は不明だが、景品のテーブルの下で情事にはげんでみたり、コンテストに出す女の子を別室に集めて破廉恥なことをしてみたり。それがおもしろいなら別に問題はないのだが、「くだらね~~」って感じでもなかったりする。笑いのセンスが有るとか無いとかの次元ではなく、“笑い”という文化が当時のチェコスロヴァキアにあったのか?という疑問すら湧くレベル。
ただ、あまりに笑えないので、逆に考えてしまうわけだ。そして、気付いてしまうわけだ。そういえばここは消防署だよな?それにしては、いわゆるファイヤーマン的な人が存在しないことに。そう、まともに動けそうにもないおっさんばっかりなのだ、この消防署。冒頭に若者が一人出てきたが、アホヅラだ。
そのおっさんたちは、もちろん本業ではないパーティに全力投球。幹部と思しき人たちが、真剣にどうでもいいことに対して、ああでもないこうでもないとマジメに談義を重ねて、その議論の結果としてあらぬ方向に向かってしまうか、議論の途中で別の事柄が発生してしまい無駄な議論になってしまうかのいずれかなのだ。
おや、これは、社会主義国家における役人達を揶揄しているのではなかろうか?こういうドタバタ喜劇を繰り広げるキャラクターというのは、愛嬌がある姿に大抵は描かれるものだが、本作の消防署員には、あまりそれがない。とことん、無能で存在価値がない生物に描かれている。その極めつけが、消防士なのに、まともに防火ができないという姿。
鎮火後にパーティ会場に戻ってくると、景品が全部無くなっているという衝撃(?)の事態に。電気を消すので盗んだ人は正直に戻してくださーい、なんて小学校で泥棒騒ぎがあったときの教師みたいなことをやっちゃうと、なんと電気がついたら署員が景品を戻そうとしている。ヤバイってことで、またもや署員が集まって談義するのだが、そこでも「正義より対面の方が大事」なんていうトンデモ結論に達してしまう。でも、これって膠着した官僚組織にはありがち。いざ、パーティ会場に戻ると市民はすっかりいなくなっており、すっかり信用がガタ落ち。
この作品は、公開1 週間で上映中止になったらしいが、いかに政府が鈍感だとしても、自分達がターゲットになっていることに気付くだろう。まあ、そういう政府批判というバックボーンがあってこそ、意味が通じる作品。笑いというのは、ストレス状態からの開放という側面がある。そのストレス状態が現代の我々にはピンとこないものなのだがら、繰り広げられている笑い自体にピンとこないのは、あたりまえ。仕方が無い。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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