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公開年:2009年
公開国:デンマーク、イギリス
時 間:93分
監 督:ニコラス・ウィンディング・レフン
出 演:マッツ・ミケルセン、マールテン・スティーヴンソン、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・シーヴェス 他







スコットランド人の権力者バルデの奴隷となっていた男。片目であることからワン・アイと名づけられたその男は、超人的な戦闘能力を持っていた。ワン・アイは、自分を監視していた男たちやバルデを皆殺しにして脱走。自分の世話係だった奴隷の少年アーと一緒に旅に出る。その道中、聖地エルサレムを目指す、ヴァイキングの一行と遭遇。ヴァイキングたちはワン・アイたちを仲間に引き入れて、船に乗り込む。深く濃い霧に包まれたまま何日も航行した末、未開の土地に到達するのだったが…というストーリー。

『ドライヴ』の監督さんの作品で、『ドライヴ』の一つ前。一人の寡黙で孤独な男がヘビーな生き様をみせてくれるという点では共通点はあるかも。でも、正直、本作は意味不明だった。

北欧神話がベースにある模様で、その知識があると少しは判るのだろうか。片目だからオーディンとか?

何せ、主人公のワン・アイが一言も喋らないし、彼を知っている仲間がいるわけでもないし、作風もドグマ95ばりに回想シーンがないので、彼が何でそんなに無双なのか…とかバックボーンが一切不明。もっとツライのは、脱走したのはいいけれど、どこにいきたいのか方向性が見えない。挙句の果てに、他人の旅にくっついていってしまうという、主体性の無さ。事件に巻き込まれてくっついて行かざるを得ないというわけではないのだから、ぶらり旅に等しい。

くっついていった旅の一行は、エルサレムの奪還とか言っているから十字軍なのかと思っていたのだが、ヴァイキングさんたちだとか。ヴァイキングの時代っていつやねん。調べたら西暦800年から250年間くらいらしい。ヴァイキングにキリスト教は浸透していたのか?とか、色々疑問は生じるが、まったく明るくない。
とにかく、船で延々エルサレムを目指すので、ぶらり旅とはいえ途中下車はできない。途中でやるのはいざこざで殺すだけ。

てな感じで、ストーリーはよく判らないし陰鬱だし、バトルシーンがはじまるとやっと目が醒めるくらいの内容しかないのだが、わざわざ“第一章 憤怒”とか“第二章 沈黙の戦士”などと、仰々しく章分けされている。章ごとに山場があるわけでもなく、眠気覚ましに挟んでいるんじゃないかと思うほど(実際、寝ちゃって、章が飛んだので巻き戻した。そういう意味では便利かも)。それに加えて、銀残しみたいな沈んだ画質で、同じデンマーク出身のトリアー監督の臭いを感じる。影響を受けているとか、関係があるとかは不明。

多分に哲学的な内容を含んでいるのでは?と窺わせるのだが、それを突き止めてやろうって気分にさせてくれないのが、この作品の力の無さか。結局、最後にワン・アイが見た幻覚(?)の意味もわからず、突如出現した人々の正体もわからず終了。

監督の製作意図とは真逆になるとは思うけど、実際は喋らないワン・アイだけど、心の中では、クソ喋ってるって設定で、心の声をガンガンガンガン、これでもかこれでもかって入れたら、すげーおもしろくなると思う。

まあ、いずれにせよ、つまらなかった。借りるな警報レベル。

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公開年:1965年
公開国:日本
時 間:170分
監 督:(総監督)市川崑
受 賞:【1965年/第18回カンヌ国際映画祭】国際批評家賞(市川崑)、青少年向最優秀映画賞(市川崑)
【1965年/第19回英国アカデミー賞】ドキュメンタリー賞[フラハティ賞]、国連賞





1964年に開催された東京オリンピックをの、市川崑による長編記録映画。競技の記録だけではなく、東京オリンピックが開催されるまでの経緯にはじまり(戦争により東京開催が中止になっているなど)、開催までの社会や街の姿、会場設営の様子、そしてはじめて大量の外国人を受け入れた人々の反応までを記録している。開催された後も、競技の結果だけでなく、その競技自体を興味深く紹介したり、競技以外の裏方の仕事にスポットを当てているが、それらを含めてあくまでスタイリッシュに綴りきった作品。

特に、2020年の東京オリンピックが決まったから借りたわけではない。今まで観ていない市川崑作品を続けて借りているだけ。

アジア発のオリンピック、それも一度返上しての改めての開催ということ、その盛り上がりたるや想像に難くないところなのだが、今のように、日本の各地方から安価に東京にいける時代ではないから、大半がTV放映の鑑賞だっただろう。そのせいもあってか、本作は興行収入12億超の大ヒットだったそうだ。

試写すると、ときの大臣たちから、こんなのは記録映画じゃねえと大バッシングで、今私たちがレンタル版で観ているのは、東映からのダメ出しで再編集したものらしい。その時に日本人金メダリストやオリンピックで作った建築物の様子などを差し込んだとのことなので、もしかして東洋の魔女とかも入ってなかった?それはないか…と言いたいところなのだが、正直、日本の選手がメダルを獲るシーンは、なにか流れが途切れるというか取ってつけた感じだったりするので、あながち間違いじゃないかも。
#文句をつけたオリンピック担当大臣ってのが河野一郎。河野洋平の親。センスの悪い一族なんだろう。北方領土の返還がうまくいかなかったのもコイツの責任が大きいしな。日本に仇なすクソ一族だわ。
その後、オリンピック記録映画としては異例の、カンヌで受賞してしまうということで、面目躍如。

閑話休題。“記録か芸術か”という当時の議論もわかるのだが、私は本作の独特の視点自体が、とてもすばらしいと思う。誤解を恐れずに変な例えをしてしまうけれど、宇宙人が地球に降り立ち、たまたまやっていたその星の人々が集うイベントを記録したような感じ。BOSSのCMのトミーリージョーンズの目線みたいだと思う。だから、普通なら有名選手にスポットあてたり、それこそ結果を残せなかった日本人選手もくまなく記録して、それこそ映画ニュースばりのナレーションを全編に入れるところだろう。でも、宇宙人の目線だから、競技だろうが観客だろうが職員だろうが設備だろうが、好奇心の向くすべてがが等しく着目されているのだ。
不思議とSF映画チックに映るのはそのせいかもしれない。

ちなみにこのときは、開催が10月だった。ドーハなんか10月開催を主張して落選しちゃったけど、別に問題ないってことだよね。日本も本当は10月くらいがベストなのにね。絶対7~8月開催じゃなきゃダメってのは、ここんところの商業主義のせいなんでしょ。

さて、2020年はこれを超えるオリンピック映画がつくられるのか?っていうか、今のオリンピックに記録映画を作るっていう概念があるのか?

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公開年:1980年
公開国:日本
時 間:158分
監 督:深作欣二
出 演:草刈正雄、渡瀬恒彦、夏木勲、千葉真一、森田健作、永島敏行、ジョージ・ケネディ、ステファニー・フォークナー、オリヴィア・ハッセー、グレン・フォード、ロバート・ヴォーン、チャック・コナーズ、多岐川裕美、緒形拳、ボー・スヴェンソン、エドワード・ジェームズ・オルモス、丘みつ子、中原早苗、ヘンリー・シルヴァ、セシル・リンダ 他




1982年、陸軍細菌研究所から新種の猛毒ウイルスMM-88が盗まれた。その細菌はマイナス10℃で増殖を開始し、0℃を超えると強い毒性を現す。MM-88を盗み出したスパイは、小型機でアルプス越えを図るが、吹雪の影響で墜落。細菌は飛散してしまう。やがて春になると、モンゴルで羊の集団死や、中国でのアヒルの大量死に始まり、イタリアでは乳幼児が次々と意識不明になる病気が蔓延し、通称“イタリア風邪”と呼ばれるように。そのまま猛威は衰えることなく全世界に拡散。初夏になると、東京でも次々と死んでいく人が路上に溢れるまでになっていた。そんなニュースを受信した、南極昭和基地では、隊員たちが残してきた家族の身を案じていたが、どうすることもできずにいた。そんな中、アメリカのホワイトハウスでは、連日閣議が開かれており、バークレイ上院議員が、ガーランド将軍が政府に内密に開発した細菌兵器MM-88であることを付き止めるのだったが…というストーリー。

市川崑以上に仕事のバリエーションが多彩な深作欣二の作品。同じ小松左京原作の『日本沈没』よりも本作のほうが面白かった。実際、興行収入も本作のほうが1.5倍だった模様。制作費も相当なものだろう。本当に南極ロケが必要だったかどうかは、甚だ疑問だが。

草刈正雄演じる吉住が、潜水艦から廃墟とかした東京を、潜望鏡から眺め、絶望するシーンからはじまる。どうしてこうなったのか?という疑問を観客に抱かせる構成はよい。

(ちょっとネタバレ)
極寒の中では活動しない細菌という設定。南極観測員だけが生き残るという設定。放射線が当たると無毒化するという設定から、クレイジー将軍によるオート核戦争による細菌消滅という流れ。こうやって簡単に書くと陳腐に思えるかもしれないが、とても収まりのよいストーリー展開。昨今のSF映画でこんなにきれいに流れるものは少ないと思う。

『日本沈没』というのは基本的に日本のドメスティックな展開で進むのだが、実際、海外と無関係ではすまないわけで、観ながら色々考えないわけにはいけない。色々考えるなかで、それはちょっと無理があるんじゃないか?とか、疑問を抱かせる余地が多分にある。本作の場合、全世界レベルでドンドン死んでしまうので、それを考える余地はない。この割り切りが実に功を奏している。

南極以外の人間の生存がほぼ絶望視される中、南極にいる人間は男855人と女8人、食料や燃料は2年分。南極の派遣される人たちなので、そこそこ英語が喋れる研究者も多く、南極臨時政府と作り、普通にコミュニケーションをとるのも、まったく不自然さがない。これも設定の勝利。
生物の種は個体数が500を下回ると、ほぼ滅亡するともいわれているが、人数もなかなか絶妙。ただ、女性数が極端に少ないのはいまよりも女性の社会進出が進んでいない時代だと考えるとこれまたリアル。

早々に種の存続の問題に直面。だけどこのくだりは、一人の女性隊員のレイプ事件から端を発する。本当は性処理の問題なのだが、さすがにそういう直球にするわけにもいかなかったのだろう。子孫を残すという崇高な目的のために、体を奉げるという設定になっている。ちょっとエグいけど、タイトルが“復活”の日だからしょうがない。
でも、どうがんばっても1年に8人しか生まれないわけで、種の存続としてはいかがなものか…という気が。せめて気に入った人との子供を生ませてやれよ…とも思うが、そうなると、男同士で争いが起こるってことなんだろう。まあ、納得はできるか…。そのおかげで、吉住と、オリヴィア・ハッセー演じるマリトとの悲恋に繋がるわけだが。
#両者のはじめの出会いがマリトの出産のお手伝いってことなのだが、大体にしてなんで妊婦が南極にいるんだよ!っていう疑問はあるよな(笑)

で、冒頭の東京の惨劇を潜望鏡で覗くシーン。彼らは、ニューヨークのクレイジー将軍が発動させてしまった、核防衛システムを止めに行くその途中に寄り道したものと思われる…、、、ん?ルート、遠回りじゃねぇか?とっとと大西洋を北上しろよ、一刻を争うんだから…。これも、本作の数少ない穴の一つだな。まあ、その他、都合良く、ニューヨーク上陸と同時に大地震がおきるというのも都合が良すぎる…。。

運よくワクチンが効いていた吉住。アメリカ大陸を南下。水分をサボテンで摂っていたのはわかるが、脊椎動物に等しく害を為すという細菌なので、どうやて食いつないでいたのか(魚はセーフというのはちょっと都合が良すぎるような)。それはそれとして、ボロボロになりながら(おそらく精神を病みながら)、生き残った隊員とその子供たちと再会。そこまでいったら、そのシーンがどういう意味を持つとか、どうでもいいラスト。

悪くない作品。というか、日本SF映画で、一番成功した作品かもしれないね。

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公開年:1981年
公開国:日本
時 間:106分
監 督:市川崑
出 演:水谷豊、永島敏行、谷啓、中原理恵、永井英理、黒田留以、市原悦子、草笛光子、浜村純、加藤武、常田富士男、河合信芳、小林昭二、新橋耐子、佐々木すみ江、三條美紀、倉崎青児、川上麻衣子、桜井勝、青地公美、三谷昇、辻萬長、宇野喜代、古俣敦子、大林丈史 他




とある書店で銃撃事件が発生。村上刑事、北刑事、野呂刑事の3名が現場に到着すると3人が血まみれで横たわっていた。被害者の一人である遠藤という男はまだ息があり、“ウドウヤ”という謎の言葉を残し絶命する。驚くことに、もう一人の被害者は、北刑事の恋人である中井庭子だった。庭子は、社会福祉員を目指す大学生で、事件の前にデートに一時間ほど遅れると電話をしていたばかり。残りの被害者は大学教授の雨宮ですでに死亡していた。身元は判明したが、特に3名の繋がりは見つからなかった。村上刑事は、妻に家出されており、忙しい任務の中、8歳の娘と6歳の息子の面倒を見ていたが、それを同僚に伝えることなく仕事を続けていた。また、本来ならば本件から外される北も、強く希望を出し、捜査に継続参加することになった。捜査を進めていくいと、福祉センターの仕事をしていた庭子が、身寄りのない車崎るいという女のところに出向いていたことが判明。るいは身寄りがないと虚偽の申告をしたことでヘルパーの派遣を断られており、気の毒に思った庭子が様子伺いに行ったと考えられていたが、銃撃事件の数日後に、るいの娘のみどりの死体が、近所のかわらの土手で発見されていることが判り…というストーリー。

市川崑作品の中でも、あまり知られていない作品かと(なにやら権利関係で埋もれていたとか)。1981年製作にしては、古臭い画質だなぁ…と思っていたが、“銀残し”で現像しているらしい(市川崑の『おとうと』=銀残し…ってのは映画検定の基本問題)。とはいえ、1970年代の作品かな…くらいの印象。DVDではうまく色合いが出ていなかったりするのかしら…。

原作はエド・マクベインという有名な作家の作品らしいが、不見識で知らん。すまぬ。
昨日の『刑事物語』は、事件と恋愛が並行して語られながらも、最後はその二つのストーリーが交わりあった。本作の場合は、事件と家族問題が並行して語れるが、それが直接交わることはない。それが悪いというわけではないのだが…
(以下ネタバレあり)
捜査上浮かび上がってくる被害者庭子の近況と、事件の真犯人がまったく無関係で、さらに真犯人の目星が付いてからのあっさり解決しちゃう感で、拍子抜けしてしまう。いや、そのあっさり感によって、市井の人々だって色々抱えているんだよ。俺も、妻には逃げられちゃったけど、こうやって曲がりなりにも子供を心を通わせられているおれって幸福なんじゃないか…という対比に使っているのかもしれない。
もうちょっと、母親がいなくなって不安な気持ちを、それを我慢する気持ちなんかが、捜査上浮かび上がってくる人々の感情と、リンクするなり間逆になっているなりで、片山の捜査に影響を与えるような演出があれば、ベストだったと思う。

永島敏行演じる北刑事が、熱血刑事でまっすぐな男だと思っていたのに、なかなかの酒乱で、酔った彼が吐く本心がとても辛辣だというのは、なかなか面白い演出だった。

また、ミスリードといえばミスリードなのだが、市原悦子演じる車崎るいの関係者が、あまりにエグすぎで、バランスが悪い。川上麻衣子の役柄は、今だと微妙にアウトくさくて、地上派放送はまず困難だろう。

いや、文句ばかりに聞こえるかもしれないが、膝くらいまでの水深のプールを、延々と歩かされているような閉塞感は、さすが市川崑。そしてラストシーンが、散々同僚に妻を迎えにいけといわれていたにも関わらず、そのシーンにするではなく、子供たちと3人でレストランで食事をするシーンで終えているのが秀逸。時代が古すぎてそのレストランのある土地が妻のいる金沢なのかどうか判別がつかなかったのだが、もしかすると、妻のところにいく途中でレストランにいっているのかもしれない。でも、つらい3人での生活だったにもかかわらず、その経験を名残惜しいとさえ感じているようにも見える。

当時、バラエティ色の強かった中原理恵だが、ほぼ回想シーンだけでの登場。そのおかげで、観客が客観的で冷静な目線で観ることができるというウマい起用方法もあって、純粋に演技力だけに目がいく形になっている。その他、市川崑の刑事といえば、金田一シリーズの加藤武。その他、常田富士男などお馴染みの顔ぶれも登場。加藤武に「よし、わかった」と言わせるなど、ちょっと笑かせにかかってるんじゃないかという小ネタをはさむ余裕も見られる。これを観て思うのは、水谷豊で、金田一耕助シリーズをつくってほしいってこと。いまなら、成功すると思う。誰かやってはくれないだろうか。ヒットすると思う。

良作だと思う。お薦め。
#関係ない話だが、市川崑の『火の鳥』が観たい。どこにもない。

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公開年:1982年
公開国:日本
時 間:110分
監 督:渡邊祐介
出 演:武田鉄矢、有賀久代、樹木希林、西田敏行、花沢徳衛、田中邦衛、高倉健、仲谷昇、岡本富士太、小林昭二 他






博多署は、山笠祭り開催中にトルコ風呂を管理売春の容疑で強制捜査したが、何一つ証拠が挙がらず、マスコミの大批判を受けてしまう。一刑事である片山元が、火消しのために沼津に転勤するハメになる。先の捜査で知り合った聾唖のトルコ嬢・三沢ひさ子の生い立ちを不憫に感じた片山は、足を洗わるだけでなく身元引受人となり、沼津にもつれていくことにする。沼津では、二人は兄妹ということにしてアパートを借りた。初めは不安そうだったひさ子も、徐々に、普通の生活のありがたさをかみ締め、幸せを感じるようになる。片山の初仕事は、沼津で発生している、連続殺人事件の捜査。事件の発生が曜日を分けているようだという以外に、特に手掛かりも見つからない中、信用金庫で強盗事件が発生。片山が得意とする蟷螂拳で犯人を取り押さえ、その犯人が連続殺人事件と繋がっていることをつきとめるのだったが…というストーリー。

まだまだ、博多出張の気持ちが高いままで、博多関連の映画を観ようとおもってレンタル。でも冒頭のトルコ風呂のガサ入れのシーンだけで博多はおしまい。

名義はペンネームになっているが、原作も脚本も武田鉄矢。キャラの立て方や、事件と恋愛の二重構造が相乗効果を生んでいる。いくら生い立ちが不憫だからといっても、トルコ嬢の身元引受人に現役刑事がなるなんて、ファンタジーがすぎるなぁ…なんて思ったが、それは片山の生い立ちを説明することで、しっかり解消。改めてみると、本当に良く出来ている作品。ひさ子を“徳川”に潜入させる展開になったどうしようかと思ったが、さすがにそれはなくてホッとした。

片山は、奥手で手が出せないんだろうな…なんて思っていた。“徳川”でも躊躇するそぶりがあったし、基本は清廉キャラなのかなんて。でも、ラスト付近で、「なんで抱いてはいかんのですか!」と、一応チャレンジして拒否られていた模様。ちょっと笑った(笑うシーンじゃないんだけど)。
変に聖人(というかいい人)ぶってしまうもんだからって、誰かにかっさらわれても、聖人の顔のまま心で鳴くハメになるという、男性にはありがちなパターン。容姿の冴えないし、組織の都合は甘んじて受入れ、自分が納めればそれでみんなが幸せになるならそれでいい…というキャラも、日本では一定の共感が間違いなく得られる。

実際に、ただの刑事が各県に転勤になるなんてことはあり得ないけど、寅さん的なご当地ムービーとしては優秀な設定。ただ、沼津自体は旅行先としては、あまりおもしろくないのが難点か。寅さん的といえば、失恋して、その土地を去るというパターンは一緒。パクリというか普遍的な物語の構図なんだと思う。
ラストの吉田拓郎の歌は、本シリーズをよく表した雰囲気のある歌だが、よく考えると、いい加減なやつ~じゃけ~んって、博多とも沼津とも無関係の広島弁。まあ、そういう勢いって大事だよね。

樹木希林、西田敏行、田中邦衛、高倉健と、チョイ役ががものすごく豪華なのも本作の特徴。でも、wikipedeiaにひさ子を演じている有賀久代が、本作の演技を恥じて引退したと書いてあって驚愕。私、この方、本当の聾唖者だと思ってたくらいだし、度胸のあるいい演技をする人だと見ていたんだけどねぇ。

改めて、リブートしてもいいようなシリーズだけど、もう武田鉄矢にこなす体力はないわなぁ。老いた片山で一本つくるってのはアリかもしれない。実に良作。深夜に放送すると大好評のはずなんだけど、“トルコ”の部分を全部無音にするわけにもいかないので、地上派放送は無理だな。

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公開年:1986年
公開国:日本
時 間:99分
監 督:松田優作
出 演:松田優作、石橋凌、手塚理美、ポール牧、阿木燿子、片桐竜次、平沢智子、剛州、梅津栄、伊藤洋三郎、加藤善博、石橋蓮司、小林稔侍、ジャンボ杉田、工藤栄一、寺島進 他






大島組と旭会の抗争が続く新宿。大島組の若頭・山崎は、覚醒剤を捌くシマを旭会に奪われ、デート喫茶のシノギで稼ぐしかなくなり、腐っていた。そんな中、記憶喪失の男がバイクにのってふらりと現れ、ホームレスの世話になり廃屋で暮らし始め、“風さん”と呼ばれる。山崎は、警察の潜入捜査官か何かではないかと疑い、部下に調べさせたが、逆に痛めつけられてしまう。彼の圧倒的な腕力に興味を抱いた山崎は、直に接触。その、自由な行き方と雰囲気に惹かれ、デート喫茶で働かせることにする。そんな中、大島組の組長が旭会の構成員によって銃殺される事件が発生。組長の死によって大島組の実権を握った藤井は、山崎に旭会の副会長殺害を命る。なぜ、組長ではなく副会長なのか?という山崎の疑問に対して、事後に旭会と手打ちをして、大きな縄張りを手に入れる算段であると、藤井は答える。釈然としない山崎だったが、命令どおり襲撃を行う準備のために、覚醒剤を拳銃・現金と交換する取引に向う。“風さん”は、その取引に帯同すると山崎に申し出るのだったが…というストーリー。

ネタバレというかなんというか、正直、ラストには驚愕というか、顎が外れたというか…。
漫画原作があるようなので、こういうオチになるのは致し方ないのかな?なんて思ったが、wikipediaを見ると、原作はそういうオチではない模様(というか、こんなヤクザの構想話ですら無い模様)。そこまでは、正統派のヤクザ抗争ストーリーで、突然の来訪者により場がおもしろく掻き乱されていくという構図が、非常に面白かったのに、なんであんなオチにするのか。
#“あんなオチ”に関しては観てくだされ。

松田優作の監督作品で、彼が監督したのは後にも先にもこれだけ。実は本来の監督と松田優作がモメて降板。それもかなり進行してからの交代劇。松田優作はアクション要素を重視していたというから、その点は成功しているので、交代劇自体は否定するつもりはない。
素人監督らしく、カメラの構図が稚拙だったり、石橋凌や手塚理美の演技が素人臭かったり、音楽が田舎臭かったりと、臭い部分の連発なのだが、時間が経っているからなのか、そういう“臭さ”が一回りして、不思議な妙味になっていると思う。
#まあ、北野武みたいに代役監督で花開く例もあるけど、一発目でこれをやっちゃったらオファーはないわな。

いい味になっているんだから、やっぱりあの設定は変えるべきだった。ベトナム戦争に参加した傭兵で、何らかの化学兵器によって強靭な肉体と鋭敏な感覚を身に付けてしまった実験体で、記憶をなくした状態で施設から失踪した存在で…とかでいいじゃんか!(涙)。

驚愕設定を、役者の演技(石橋凌と手塚理美を除く)と監督演出が追い越していった、稀有な作品。よくも悪くも珍作。
ただ、本作のMVPは間違いなく、ポール牧による金子信雄ばりの怪演。

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公開年:1964年
公開国:日本
時 間:95分
監 督:深作欣二
出 演:高倉健、北大路欣也、三國連太郎、江原真二郎、中原早苗、室田日出男、石橋蓮司 他







貧民窟で育った黒木三兄弟。長兄の市郎は、年老いた母の金を盗み、ヤクザの岩崎組に入り幹部となる。その後、次兄の次郎も家を出て、金持ちの愛人をやっている女のヒモとなり、一匹狼のワルとなり名を馳せていた。三男の三郎は、兄たちがいなくなった後、母親の世話をして看取ったが、すべてを押し付けていなくなった兄達を強く恨んでいた。その三郎も品行方正なわけではなく、同じ貧民窟に住むチンピラ達と徒党を組み、悪事を重ね無軌道な毎日を繰り返していた。そんな中、一匹狼でやっていくことの限界と、先行きの見えなさに不安を覚えた次郎は、国外脱出を思いつく。その資金として、岩崎組の麻薬取引現場を襲撃し、4千万の金品を計画。いつもの犯罪仲間の水原とだけでは遂行不可能なことから、三郎と仲間たちに話を持ちかける。兄への憎悪は強かったが、一人頭5万円の報酬に目がくらんだチンピラ仲間の説得もあり応諾。いよいよ決行となるのだったが…というストーリー。

深作欣二監督で、三兄弟に三國連太郎、高倉健、北大路欣也と豪華な配役なのに、あまり有名ではない作品。なぜだろう。イギリスのチンピラ映画なんかによくありそうな内容で、ガイ・リッチーなんかがこんなのを作りそう。深作欣二も若い頃なので、演出の荒削りさは否めないけど、もうちょっと評価されてもよさそうなものだ。でも、北大路欣也なんかも若くて、その若さ故の熱い演技が、本作を形成しているのも事実で、荒削りさが魅力となっているのは、間違いない。

三兄弟なので、タイトルの狼と豚と人間にそれぞれが当てはまるのかな?なんて思ったのだが、そうでもなさそう。メイン配役のそれぞれにスロットマシーンのドラムが割り当たっていて、それぞれ、狼と豚と人間のどれになるかなーっていう感じ。
確かに、だれが出し抜けるか?!っていう、目まぐるしく変わる展開。だが、話が進むにつれて、良い目が出る可能性が、ジワジワと減っていくという閉塞感が良い。

(ちょっとネタバレ)
で、最後に残る市郎に出た目は狼か豚か人間か。組織からの圧力を考えると、結局彼の命も無さそうで、三兄弟そろって豚で終わってしまうような気がする。
おそらく、なんでこの作品の評価が低いかというと、肝心の金が出てこないことだけでなく、その金の顛末で一エピソードつくれなかったからだと思う。誰か意外な人物が出し抜いていたりとかね。全員破滅でおしまいという展開にして悦に入ってしまいがちな、戦後育ち世代の悪い癖だと思う。
犬を食うところで、みなまで言わなくても彼らの出自が見えてくるわけだが、だからといって、そういうスラム的な部落出身者への差別を問題視している作品ではないところはよい。むしろ、ゾンビのような存在で描かれており。もっと彼らを生かすのも策だったかもしれない。金の顛末に彼らを絡めるのもよかっただろう。

良作だと思う。

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公開年:2010年
公開国:アメリカ、日本
時 間:85分
監 督:原口智生
出 演:平田弥里、ダニエル・アギラール・グティエレス、北岡龍貴、深華、なべやかん、星光子、庵野秀明、樋口真嗣、桜井浩子 他
コピー:人類滅亡か?大都会にショックの嵐を呼んだデスカッパ!!






アイドル歌手を夢見て東京に出た加奈子は、夢破れて失意の中、故郷の尻子玉村に戻ってきた。しかし、戻ってきたその時に、若者の運転する暴走車によって祖母が轢き殺されてしまい、二重の悲しみに。加奈子の実家は、代々村の守り神である“河童様”を守っていたが、その意思を継いで、河童様をお守りすると誓う加奈子であった。実は、先の事故に巻き込まれて、河童地蔵が海に転落しており、それにより河童様が怒り長い眠りから目覚めていた。河童は加奈子たちの前に出現。なぜか、加奈子のアイドル時代の歌を気に入り、仲良しになり…というストーリー。

はじめからおふざけ作品なんだろうな…と思いつつも、息抜きのつもりで鑑賞。
主演の平田弥里は、『ウルトラマンメビウス』のアマガイ・コノミの役の人。顔も声もかわいらしい感じの人なのだが、メビウスのときに27歳で、本作のときには30歳超。それが悪いわけじゃないのだが、若作りのせいなのか、声の質のせいなのかよくわからんが、何故か見ていて不穏な気持ちにさせられる人。

日本の特撮ファンなら、巨大化展開で桜井浩子が登場していることの意味がわかるとは思うが、はじめから一般人を相手にしていないような。これ、アメリカ資本で作られているのに、それでいいのかな?いや、そういうレベルのことがわかるアメリカのマニアを対象にしているのかな?んー、でも、本作は、『片腕マシンガール』『東京残酷警察』などの“TOKYO SHOCK”シリーズの流れらしいので、エログロを期待されてるんじゃないのかな?などと、プロモーション的にこれでいいのか?と、作品と全然関係ないことで不穏な気持ちになってしまう。

まあ、中盤で唐突に出てくる。庵野秀明が出ている謎の組織のくだりなど、エログロ系に流れそうな気配があったが、大爆発でうやむやに。
#なんか、昨日の『風が吹くとき』を観たあとだからだと思うけど、この演出が、とっても情けなく思えてしかたがなかった…。
うやむやのまま二大怪獣の対決というお決まりパターンに突入するが、それをなべやかんのプロレス解説風の演出が盛り上がりを疎外。何がおもしろいと思ってこういうのを入れているのかよくわからず。その解説が名調子だっていうんならまだしも、グダグダなのが救いようがない。
なべやかんは特撮好きとのことだが、こういう作品に出てくる彼から、特撮愛が感じられないのはなぜなのか…。

肝心の河童の造形はすばらしいと思う。根本的なデザインに面白みがあるか否かは別として。この監督さんはこれが本職だからね。

残念ながら、息抜きにも気晴らしにもならず、キーポイントの加奈子の歌も頭から離れないような謎歌でもなく、どっち方向にもハジケきれなかった、駄作かと…。

拍手[0回]

公開年:1986年
公開国:イギリス
時 間:85分
監 督:ジミー・T・ムラカミ
出 演:ペギー・アシュクロフト、ジョン・ミルズ 他







イギリスの片田舎に住んでいる老夫婦のジムとヒルダ。子供は独立し都会暮らしで、年金で余生を静かにおくっていた。ジムは、世界情勢に疎くなってはいけないと、しょっちゅう図書館に出向いては新聞を観たり、TVやラジオのニュースに耳を傾けていた。ある日、戦争が始まりそうなことを知ったジムは、核戦争になることを恐れ、政府発行のパンフレットを入手し、そのとおりに簡易シェルターを作り始める。シェルターといっても、家のドアをはずして壁に立てかけた程度のもの。その他に放射線対策として窓に白ペンキを塗ったりしていた。すると突然、ラジオからあと3分で核ミサイルが到達することを告げる。急いでシェルターに入ったとき、原爆が落下、すさまじい光と熱風が周囲を襲い、家の中は瓦礫と化すが、二人は生きのびていた。窮屈なシェルターに留まるが苦痛になってきた二人は、家の中なら問題はなかろうと、家を片付け始めるのだが…というストーリー。

核というのは恐ろしいものだよ!ということを訴えたい作品なのは間違いないし、しばらく我慢したら、インフラが復旧するだろうとか、配給が始まるだろうとか、郵便やさんがくるだろうとか、純朴な老夫婦が、次第に蝕まれていく中でも、お互いを気遣いならが希望を捨てない姿に涙するところだろう(まあ、田舎なので、悲惨な死体がゴロゴロしている様子を見ていないから、事の重大さを把握できていないのかもしれんけど)。
紙袋をかぶるラストは、そのシュールさ故に、胃のあたりをえぐられるような感覚を覚える。
#アニメと実写を重ねた映像は、ユニークだが効果的かどうかは微妙。

息子や孫の安否を第一に考えて狂ったようにヤキモキしてもよさそうなものだが、電話は通じない、車も持っていない状況では、ある意味冷静な対応といえるのか。私なら、子供の話ばかりしそうなのだが、それをあまりしていないのを観て、もしかして、実はこの二人は状況を把握した上で、達観しているのではなかろうか?などと思ってしまったが、それはないだろうな。

ただ、東北の大地震後のすったもんだを経験してしまうと、正常性バイアスのお話に見えてくる。そのせいもあって、ジムじいさんが、政府のパンフレットに愚直に従ってシェルターを作ることを、なにか愚かな行為であるかのように描いているのか?なんて穿った見方もしてしまったり。もしかすると、大島渚プロデュースによる日本語吹き替えのせいで、そういう印象になったのかも。夫婦の行動に幾ばくか非があるように感じられてしまうと、じゃあこの老夫婦はどうしすりゃよかったのか?もっと政府に楯突くなりして、監視しなくちゃいけなんだ!ということか?と、穿った視点の連鎖がおこってしまう。
#本当は、後世の人の行動指針を示しているわけではなく、考えようよ!って言っているだけなので、そこに引っかかるのは無粋なのは判っているんだけどね。

このお話のままだと、ただ「こわいねー」で終わっちゃう。戦争ハンターイ!と言っているだけで戦争はなくならないし、人間に闘争本能と物欲がある以上、おそらく戦争の火種はなくならない。何で戦争はおこるのか?少なくとも、第二次世界大戦がなぜおこったのか。アホ左翼や中韓がいうような日本人の侵略行動が原因なんていっているうちは、戦争は起こるだろうね。この話を膨らます気はないけど、誤解を恐れずに簡単にいえば、窮すれば鈍する、金持ち喧嘩せず…ってことだ。
アメリカは金持ち資源持ちだけど喧嘩してるんじゃね?って思うかもしれないけど、実は定期的に戦争景気がないと一気に貧しくなる構造なんだと思うよ。
#では、シリア戦争を封殺されたアメリカはどうなるか。別の形の戦争を仕掛けるか、なんらかの形の内戦に向うのが、歴史の常だわな。

こういう名作に対する感想も変わってしまうくらいなので、やはり震災が日本人を大きく変えたのは間違いないだろうなぁ…と、変な方向で感慨深くなってしまった作品。経験とは恐ろしいものである。
#聖書にも詩にも詳しくないので、最後のエンドロールの意味は不明。理解できたら、もっと味わい深かったのかも。

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公開年:1991年
公開国:アメリカ
時 間:100分
監 督:バリー・ソネンフェルド
出 演:アンジェリカ・ヒューストン、ラウル・ジュリア、クリストファー・ロイド、ダン・ヘダヤ、エリザベス・ウィルソン、ジュディス・マリナ、クリスティナ・リッチ、ジミー・ワークマン、カレル・ストリッケン 他
受 賞:【1992年/第20回アボリアッツ・ファンタスティック映画祭】20回記念賞
【1991年/第12回ラジー賞】ワースト音楽賞(“Addams Groove”)
コピー:私たちの、どこがヘンですか…。



郊外の丘の上にある洋館に住むアダムス一家。当主のゴメスと妻のモーティシア、子供たちウェンズデーとパグズリー、モーティシアの母グラニー、執事のラーチ、そして生きている切断された手“ハンド”。本当はゴメスの兄であるフェスターも一家の一員なのだが、25年前にゴメスの発言に傷ついて失踪してしまい、現在も行方不明となっている。ゴメスは彼のことが気がかりで、いつも心を痛めていた。一方、アダムス家の顧問弁護士であるタリーは、高利貸しのアビゲイルからの多額の借金返済ができずにいた。そこで、膨大な資産を持っていると思われるアダムス家からなんとか出資させようと試みるが断られてしまう。しかし、アビゲイルの息子ゴードンが、フェスターに瓜二つであることに気付き、ゴードンをフェスターに変装させアダムス家の財産を奪う計画を、アビゲイルに持ちかける。アダムス家恒例の降霊会の時に、変装したゴードンを登場させ、見事に潜入に成功。一家の誰もフェスターであることを疑わない。しかし、しばらく一緒に生活をするうちに、ゴードンは何故だかアダムス家での生活が楽しくてしかたなくなってしまい…といストーリー。

長らく『アダムス・ファミリー2』だけが、レンタルショップに並んでいた。いきなりサマーキャンプの話を観せられてもね…。別に2が面白くないわけじゃないんだけど、基本設定とかわかんないから、普通1から観たいでしょ。かれこれ15年以上こんな状態が続いていたのではなかろうか。ラウル・ジュリアがお亡くなりになったせいで権利問題がクリアされないという噂もあるけど、だったら2はどうなんだということになる。よくわからん。
とりあえず、TSUTAYAの発掘良品に並んだ。TSUTAYA偉い。次は『ピアノ・レッスン』をお願いする。これも無い。

内容はトコトン子供向きだが、子供が素直に受け入れられるビジュアルかっていうとイマイチそうでもない。アンジェリカ・ヒューストンは、子供の目線だとかなり怖いおばさんだと思う。当時は私もそう思っていた(っていうか正直気持ち悪りーなーと思ってた)けど、今改めてみると、けっこう綺麗な顔立ちだと思える。歳取ったな。
意外とスプラッタ的なところは無いので、うまくバランスは取れていると思う。

アダムス家全員が、ダークで奇行を繰り返すキャラクターばかりなんだけど、その反面、究極的なまでにピュアだというのが、本作の魅力だろう。強欲な悪者と、余りある家族愛とのコントラストが良い。アダムス一家は家族に対する愛をストレートに表現するが、一方のゴードンは、記憶にあるかぎり愛を傾けられた記憶すらない。
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』的なダークさだけど、ティムバートン作品にはない家族愛の表現だと思う。

(以下ネタバレ)
さすがに、本物のフェスターだったのだ!は、強引すぎて、顎が落ちる。だけど、それが許されるノリ。
ゴードンはとってもアダムス家の生活を楽しんじゃうことが、今まで家族らしい待遇を受けていなかったから、こんなにアブノーマルでも“家族”を感じたんだろう。家族愛ってすごいな…と思っていたのに、本人なんだからそりゃあしっくりくるわけだ…になると、感激が半減するのは否めないけど。じゃあ、本物じゃなかったとしてどういう展開にすればよい?ただしハッピーエンドでね!と問われたら、それはそれで私には思いつかないから、これがベターなんだろう。

主題歌はラジー賞を獲るほど悪いデキだろうか????別に作品のテイストからズレているわけでもないし、エンドロールに流れる曲だし、公開当時はこの音楽を聞いたら『アダムス・ファミリー』が思い出されたくらいで、プロモーション的にも優秀だろう。MCハマーだっていうだけで選定してないか?そういう浅い了見で人を小馬鹿にするラジー賞の姿勢が嫌いだ。

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公開年:1988年
公開国:アメリカ
時 間:85分
監 督:ロバート・K・ワイス
出 演:レスリー・ニールセン、プリシラ・プレスリー、ジョージ・ケネディ、リカルド・モンタルバン、O・J・シンプソン、ナンシー・マーチャンド、スーザン・ボービアン 他






ベイルートにて、アメリカに敵対する国々による極秘会議が催されていた。アメリカへのテロ攻撃を実施すべしと盛り上がった所で、執事に変装して潜入していたロス市警のフランク・ドレビン警部が乱入。会議をめちゃくちゃにブチ壊すのだった。帰国したドレビンが帰国すると、同僚のノードバーグの入院先へ向う。ノードバーグは、あるヘロイン密輸事件の捜査の際に銃撃され意識不明の重態となっていた。彼の意識がないため、その事件のあらましはわからずじまいだった。その頃、ロスはエリザベス女王の訪米を控え、慌しさを増していたが、その女王歓迎委員会の議長を務める財閥の総帥ルドウィグが、ドレビンの追っていた事件に関係していると考え、会社を訪ねるのだったが…というストーリー。

似たようなノリのコメディは山ほどあるが、本作の秀逸さは、他の単なるおふざけコメディ作品とは一線を画している。それは、いわゆるハリウッド作品のお約束を揶揄するという基本視点がベースにあるからだと思う。

考え事をしていたら山に行っちゃった…なんていうギャグは、本作の中ではツマらない部類だと思うが、映画のご都合主義的な編集を揶揄しているわけで、コンセプトとしては正しいと思う。
まあ、ベースがそうだというだけで、くだらない小ネタもドタバタも満載なんだけどね。

いきなり、反米国によるテロの相談からはじまり、そこにゴルバチョフがいるというのが何とも時代を感じるわけだが、このシーンの政治ギャグだけは、本作のテイストからちょっとズレるかもしれない。でも、吹き替え音声で観ると、くっだらないオヤジギャグの連発で、掴みとしては大成功だと思う。邦題からしてそうなんだけど、日本のポストプロダクションがいい仕事をしていると思う。。

本作のレスリー・ニールセンに限ったことではないのだが、コメディ映画の主人公が笑わないというのは、やっぱり大事なポイントだと思う。さすがにMr.ビーンのレベルになると狂人色が強すぎて、逆に笑えなくなってしまうのだが、本作のドレビンは適度。無表情なのではなく、喜怒哀楽はある。でも、彼の“楽”の表情は気持ちよかったとか、コミュニケーション上の微笑みこそあれ、笑いはしない…というのが徹底している。

スポーツ選手上がりで、おそらくたいした演技もできないであろうO・J・シンプソンを、その粗を目立たせることなく、最大限に効果的に利用した演出方法も秀逸かと。

深夜に放送してたら、なんだかんだで最後まで観ちゃう作品。この手の、途中で寝ちゃっても悔しくない作品を、金曜、土曜の深夜にどんどんやるべきなんだよなぁ。

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公開年:1973年
公開国:日本
時 間:82分
監 督:福田純
出 演:佐々木勝彦、川瀬裕之、林ゆたか、ロバート・ダンファム、富田浩太郎、大月ウルフ、中島元、三上左京、池田芙美夫、森幹太、ロルフ・ジェサップ、中西英介 他






科学者・伊吹吾郎の開発した電子ロボット・ジェットジャガーが何者かの手によって強奪された。犯人は、人類による再三の核実験により壊滅の危機にあったシートピア王国人。シートピアとは、300万年前に太平洋に沈んだムー大陸の生き残りで、海底に王国を気付いていたのだった。シートピア人は、地上人を駆逐すべく、王国の守り神”メガロ”を地上に送ることにしたが、メガロを地上に誘導するためには、ジェットジャガーを使用する必要があったのだ。ジェットジャガーに誘導されたメガロは、次々と日本各地を破壊。伊吹は、予備のコントロール装置でなんとかジェットジャガーを奪い返し、ゴジラに救援を求めるため、怪獣ランドに向わせた。一方、シートピア人はM宇宙ハンター星雲人からガイガンを借用。2体で地上壊滅に追い込みをかける。怪獣ランドからジェットジャガーは、この危機的状況を目にして巨大化し、2体に立ち向かっていくのだった…というストーリー。

ちょっと、ゴジラが続きすぎか。特撮好きだが、実はあまりしっかりゴジラシリーズは観たことはなかったりする。本作も初見。

なんで登場人物の名前が伊吹吾郎なのか。水戸黄門の格さん役だった伊吹吾郎は、1973年にはすっかり有名だったと思うが、偶然なのかしゃれなのか。

『ゴジラ対ヘドラ』では公害をテーマにしていたが、本作は反核。子供向けに媚びたテイストに変貌する中、骨太路線への揺り戻しか?とも思えるが、シナリオ上、その部分はまったく掘り下げる気配がない。なんでじゃ。人間の核実験で滅ぼされそうになり、窮鼠猫を噛む状態のシートピアさんたちの主張のほうが正当性がありそうなのに、単なる悪者として敗れてしまう(というか滅びてしまう)。おまけに、ああ、人間って迷惑をかけていたんだなぁ…なんていう痛恨の反省があるわけでもなく話が終わってしまう。

なんで、ジェットジャガーじゃないとメガロを誘導できないのか、よくわからんし、等身大のロボットが巨大化するのが突飛すぎる。何でジェットジャガーが巨大かしたのか?は、公式設定では、組み込まれたいた良心回路が発動したから…らしいのだが、なんでその回路が動くと巨大化するのかは、まったくもって意味不明。作った人間もわからん機能。根性…なんだろうな。

一体なにがやりたいんだこの作品は!と怒りたくなるのだが、じつはやりたいことは明確。怪獣によるプロレスをしたかっただけ。それもタッグマッチで。その証拠に、ジェットジャガーの顔のモデルはアントニオ猪木だと言われている。怪獣島に鎮座しているゴジラ先輩をジェットジャガーが呼びにいく構図、猪木が全日の同上に出向いて、馬場を招聘するようなものか。そう、GI砲だね。

敵は外国人レスラー。シートピアの王様は白人だったでしょ。加えて宇宙人。前作の敵だった宇宙人だけど、姿を見せることもなく、シートピアとM宇宙ハンター星雲人が共闘に至った前フリとかも一切ない。取ってつけた感が甚だしい。掘り下げればものすごくおもしろくなったに違いない。ジェットジャガーの巨大化だって、M宇宙ハンター星雲人の巨大化光線を謝って浴びてしまったため…とか、絡められたかもしれないのに。
それ以前に、敵の怪獣を、子供に人気のカブトムシをモチーフにするというセンスの無さには閉口だけどね。

で、その、やりたかったプロレスが面白いか?というと、そうじゃないのがまたイタい。コミカルムーブの連続。ゴジラにピースサインさせるとか…。ゴジラシリーズの終焉を決定つけた作品といえる(まあ、自作の対メカゴジラで、ちょっとだけ盛り返すんだけどね)。

正直に告白すると、ジェットジャガーが動いているとこと見たかっただけなんだ。コイツのデザインだけは、けっこう秀逸だと思っている。

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公開年:2009年
公開国:スペイン、アルゼンチン
時 間:129分
監 督:フアン・ホセ・カンパネラ
出 演:リカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミル、パブロ・ラゴ、ハビエル・ゴディーノ、カルラ・ケベド、ギレルモ・フランセーヤ 他
受 賞:【2009年/第82回アカデミー賞】外国語映画賞
コピー:ブエノスアイレスを震撼させた殺人事件から25年── 未解決の謎を小説にする男に、封印された愛が甦る。



刑事裁判所を定年退職したベンハミン。家族のいない彼は、孤独な時間を過ごしていたが、未だに忘れることができない、在職中の殺人事件を題材にして小説を書こうと考えた。それを機に、久々にかつての職場を訪れ、年下ではあったが大卒の上司で、現在は検事となっている女性イレーネと再開する。イレーネは今では2人の子供の母親となっていた。その事件が発生したのは25年前の1974年、ブエノスアイレス。銀行員リカルド・モラレスの妻で23歳の女性教師が、自宅で暴行を受けて殺害された。捜査にあたったベンジャミンの直感で、古い写真に写っていたリリアナの幼なじみの男が容疑者として浮上する。ベンハミンは部下で友人のパブロと共に、男の居場所を捜索するが、彼らが強引な捜査を行ったために問題となり、未解決のままお蔵入りとなってしまう。その1年後、ベンハミンは、被害者の夫リカルドが、毎日、曜日ごとに駅を変えてまで、容疑者の男を探していることを知り、心を動かされる…というストーリー。

裁判所のお話かと思って観ていたら、捜査の順番がどうのこうのというイザコザがおきる。何で裁判所が捜査するんじゃ?と。よく判らないが、アルゼンチンでは刑事事件を扱う裁判所が捜査権も逮捕権も持っているらしい。いわゆる刑事さん的な人も出てくるのだが、下級捜査官みたいな扱いなのかな。
じゃあ、捜査手続きに問題がなかったかとか、立件内容の成否とか誰が判断するんだ?と。逮捕=結審に等しいのか。三権分立、どうなっとるんねん。まあ、国によって色々なんだろうけど、これじゃ冤罪やら不当捜査はもちろん、権力が集中しすぎて癒着や汚職がおこりまくりだろうな。

閑話休題。英米作品とは異なったテンポの作品。冒頭から事件のあらましが語られ始めるまで、非常の迂遠に感じる。現在と25年前を行ったり来たりする構成になっているのか。現在のシーンは、ずーっとただベンハミンとイレーネが思いだして、あの時はどうだったこうだったと語るだけ。解説やいいわけの為に、わざわざ現代にシーンを移さなくても、ナレーションベースで充分じゃないのか?と思える部分さえある。いや、こんなテンポを疎外するような演出をわざわざ行っているのに、無意味なはずがない…、きっと、迷宮入り事件を小説にすることで、当時見えていなかったことがわかり、現代で解決に至る!そんな展開に違いない!それを信じて、観続けよう。

一方、肝心の過去の捜査のあらましについては、どんどん盛り上がる。熱血捜査官の逸脱行為、容疑者逮捕までの執念とドキドキ、上司からの不当な扱い。やっぱり判事に権力が集まりすぎていて好き勝手ができちゃっている。そんなことが可能なのか?ってう驚愕展開。さらに、ベンハミンとイレーネに恋愛感情があったような無かったような場面が、差し込まれる。このシーンにどういう意味が?わからんなぁ…なんて。

で、予想していた通りに、事件を改めて洗い直すと…という流れに。事件の顛末もなかなかの内容だ。おまけに、過去と現在の行ったり来たりが、止まった事件の歯車を動かすだけじゃなく、もう一つの止まっていた歯車も動かす…という展開に繋がっているのが秀逸かも。米アカデミー外国語映画賞を受賞しているが、まあ妥当だと思う。
それで、彼らの心が救われることになるのやら…と感じてしまうエピローグ。完全にスッキリするわけではないのも、いい味になっている。

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公開年:2011年
公開国:ポーランド、スウェーデン
時 間:96分
監 督:レフ・マイェフスキ
出 演:ルトガー・ハウアー、シャーロット・ランプリング、マイケル・ヨーク 他
コピー:摩訶不思議 寓話の世界に迷い込む






16世紀のヨーロッパ、フランドル地方。農村地帯では、牛を売ったり、風車小屋で小麦を挽いたりと、いつもどおりの生活が行われている。しかし、そんなのどかな様子とは裏腹に、征服してきたスペインのカトリック勢力によるプロテスタントの迫害が、繰り広げられていた。芸術品収集家のヨンゲリンクは、この様子を絵で表現してほしいと、友人で画家のブリューゲルに依頼する。ブリューゲルは、それに応え着手するする。彼の心の目に映る風景には、十字架を背負わされたキリストや、嘆く弟子たち、祈る聖母マリアらが現れ…というストーリー。

まず、予備知識がないと、全然だめな作品。ただでさえ、はじめの20分は上のあらすじの冒頭に書いたような、農村での出来事が、淡々と写されるだけ。タイトルのとおり、絵画のような興味深い画が連続すると期待したのだが、普通の農村の様子が続くので、ここで、40%が眠りにいざなわれると思われる。

予備知識①。ブリューゲルは実在の画家である。作中で絵を描いてと頼まれるくだりもおそらく実話で、出来上がた絵は『十字架を担うキリスト』として現存している。有名なシーンを奥行きのある構図で大胆に描いた作品である。

予備知識②。当時、宗教改革がおこっている。マルチン・ルターのあれだ。舞台になった地域はプロテスタントだったが、カトリックのスペインに支配されてしまい、迫害されている。作中の迫害している勢力がスペイン人ということ。

予備知識③。キリストへの弾圧と、プロテスタントへの弾圧を重ねて描こうとしている。キリスト以外にも、つるし首になっている人の姿があり、キリスト弾圧時の様子とはちょいと違うかな?という描写がちらほら見受けられる。

なるほど、そういうことですか…と、判ったとして、その先のどういうお話があるかというと、がんばって描きあげましたとさ…という感じで終了。美術史の一場面を映像化してみました…と、そういうことかな。物語と呼んでよいのか甚だ疑問なレベルだった。
邦題がこんなかんじだから、映像にはものすごく期待したんだけど、それほどでも…っていうのも実にイタイ。評価がしにくい。

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プロフィール
HN:
クボタカユキ
性別:
男性
趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
自己紹介:
一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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