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image1319.png公開年:2008年
公開国:アメリカ
時 間:117分
監 督:D・J・カルーソー
出 演:シャイア・ラブーフ、ミシェル・モナハン、ロザリオ・ドーソン、マイケル・チクリス、アンソニー・マッキー、ビリー・ボブ・ソーントン、イーサン・エンブリー、アンソニー・アジジ、キャメロン・ボイス 他
コピー:それは、全てを見ている。



スタンフォード大学を中退したジェリーは、現在コピー店に勤務。ある日、ペンタゴンに勤務する双子の兄が急死したと連絡が入り、数年ぶりに実家へ戻ることに。その後、帰宅途中にATMで預金を引き出そうとすると、口座には覚えの無い75万ドルの大金が。さらに帰宅したアパートには、大量の軍事用機材が配達されていた。事情が掴めず混乱するジェリーに、「FBIが迫っているのですぐ逃げろ」と見知らぬ女性から電話が入る。その電話の通りに間もなくFBIが突入し、ジェリーはそのまま拘束されてしまう。一方、ワシントンでの演奏会に参加することになった幼い息子を送り出したシングルマザーのレイチェルにも「指示に従わなければ息子の命はない」と謎の女からの電話が入る。その後、謎の女の指示でFBIの取調室から脱出したジェリーは、同じように電話の指示で車で待機していたレイチェルと合流し…というストーリー。

観た後にTV放映があることに気付く。ビデオレンタルあるあるだな。

物語の類型として、“善良でありきたりな市民が巨大な事件に巻き込まれていく”というのがある。本作はまさにその典型。あまりパっとしない別々の男女が、謎の電話の指示に従わざるをえなくなり、何が目的で?何で彼らが?というサスペンス的な見せ方である。
こういうサスペンスでは、色々観客が先回りして想像を巡らせると、そのうちのどれかが当たってしまい「ああ、やっぱりね」になる可能性が高いので、カーチェイスやドンパチのジェットコースター的なアクションが織り交ぜられるのがセオリーといってよい。こうすることで、観客の思考を鈍らせて、目をそらすのだ。さらに、謎解きを阻害する憎たらしくて、事情が読めないKYなキャラを登場させるのも効果的だ。こういう作品では、ノせられてアクションシーンにドキドキしたり、憎たらしいキャラに対して「こんにゃろめー」って思うのが得策である。躍起になって、真剣に謎解きに脳の回路をフル回転させるなんてのは、野暮というものである。

本作、こういうセオリーに実に忠実に作られている。さらに、巻き込まれるキャラが二人いて、それが絡んでいくというのも巧みである。「おお、これから一体なにがおこるのだ???」と、実にハラハラと観ることができた。アクション&サスペンスとしては、非常に優秀だと思う。

しかし、いかんせんオチというか黒幕が陳腐すぎた。残り時間40分くらいで、敵が確定された段階で、ものすごく腰砕けになる。
確かに通信網を利用した管理社会というものへの警戒心が高まっているのは事実だが、だからといって、こんな使い古された“マザーコンピュータ”みたいな話じゃぁ、アホらしくなってしまう(『火の鳥(未来編)』とかありがちすぎる)。全てのコンピュータってどこかで巨大な脳みそに繋がってるんでしょ?なんていうジョークのレベルでしょ。サスペンスの謎解きのオチがこれなのは、本当にヒドい。
残り40分は、あまり真剣に画面を観ていなくて問題ないくらい、レベルがガタ落ちする。

アクション映画としては一流だけど、SFとしては三流。足して四流で割って二流って感じ(あながちハズレてないでしょ)。最後の“生きてました…”みたいな演出も、スベりまくり。まあ、TV放映で観るのがちょうどいい作品なのかも。今のハリウッドの良いところと悪いところが、凝縮した作品だと思う。





負けるな日本

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image0599.png公開年:2000年
公開国:アメリカ
時 間:136分
監 督:ガス・ヴァン・サント
出 演:ショーン・コネリー、F・マーレイ・エイブラハム、アンナ・パキン、ロブ・ブラウン、バスタ・ライムス、マイケル・ピット、マイケル・ヌーリー、リル・ゼーン 他
コピー:あなたが教えてくれた、人生がこんなに美しいこと。




ジャマールは、ニューヨーク・ブロンクスの公立高校に通う16歳の少年。友人とともに得意なバスケを愉しむ毎日だったが、実は、読書や自分の思いを書きためるほど文章を書くことが大好き。しかし、勉強好きと周囲から思われるのを嫌い、ひた隠しにしていた。ある日、友人たちにそそのかされて、ミスター・ウィンドウとあだ名される謎の老人の部屋に忍び込むジャマール。何も取らなかったが、あわてて飛び出したせいで、リュックを置き忘れてしまう。リュックの中にはジャマールが書きためていた自分の創作ノートが入ってた。リュックを取り返してもらおうか、老人のアパートの前で考えあぐねていると、部屋の窓からリュックが落とされる。戻ってきたリュックの中のノートには赤字で老人の批評がびっしりと書きこまれており…というストーリー。

一風変わった老人と前途有望ながらも問題を抱える若者が出会い、人生の手ほどきを受けるというプロットは『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』と非常に近い(脳裏をかすめた人も多いに違いない)。日本だと職人の師弟の間でこういう関係は見られるが(料理人修行のストーリーとかね)、普段の生活の延長の中ではめずらしい。邪悪ではあったが『ゴールデン・ボーイ』もそんな感じだったし、アメリカでは比較的自然なことなのかもしれない。打算的に依存しているわけでもないし、単なる馴れ合いでもなく、年の違いを超えて大人同士として礼儀をわきまえて付き合う姿は、非常にスマートに感じる。

生活環境が悪い中で自分の才能を開花させようとする若者と、世間との関係に失望し自分の才能を発揮する機会を閉ざしてしまった老人。出会うはずのない二人が文章という共通点をきっかけに出会う。各々の生活にはそれぞれの解決すべき問題があり、お互いに影響を与え合うことで、それぞれが変わっていくというのは、良いシナリオの王道である。

実に巧みで「やられた!」と思ったのは、バスケ部仲間との軋轢のくだり。きっと、この感じの悪い金持ちライバルとは、もうひと悶着あるっていう伏線のセットアップなんだろうな…って思っていたのだが、実はフリースローのためだけの前フリで、本筋の悪役ではないというスカし。わざとはずしたのか?って思わせるための伏線って、そこに使うかー!っていう驚き。こういうスカしは大歓迎。
そのバスケ部のライバルに代わって、本筋の悪役になるのが、作文のクローフォード教授。クローフォード教授とは、フォレスターも過去に関わりがある。ジャマールとフォレスターの直接関係だけでなく、ジャマールとクローフォード教授の関係、フォレスターとクローフォード教授の二つの関係が、さらに関係するという、関係の二重構造も実に巧みだと思う。最終的にクローフォード教授をとっちめるくだりは、溜飲を下げるに充分(こういう輩は社会に多いからね)。『YAMAKASI』みたいな、チョンボはやらかさない。
盛り上がりや話のダイナイズムは『セント・オブ・ウーマン』のほうが上だと思うけど、まとまりや巧みさという観点ではは本作のほうが上だし、丁寧でかつ自然な仕上がりに非常に好感が持てる。

最後の相続のくだりがいるかいらないか、好みの分かれるところだろう。でも、マット・デイモンが出てくるのには、思わずニヤリとしちゃうし、本作が、ガス・ヴァン・サントの中で、『グッドウィルハンティング』の正統な流れってことを表しているとも言える。

とにかく、シナリオのセオリーをはずしておらず、穴が無い。難点は、結局二人の主人公は、素晴らしい才能の持ち主で、私たちポンコツとは違うってことだけ(笑)。それを、共感できない決定的な壁と感じた人には、おもしろく思えないかもしれない。問題はその程度で、とにかく実にうまいので、お薦めしたい。

#私が褒める作品は、案外、受賞歴が無かったりする。一般的な感覚とズレてるのかなぁ。





負けるな日本

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image1666.png公開年:2010年 
公開国:日本
時 間:127分
監 督:原恵一
出 演:冨澤風斗、宮崎あおい、南明奈、まいける、入江甚儀、藤原啓治、中尾明慶、麻生久美子、高橋克実 他
受 賞:【2010年/第20回日本映画プロフェッショナル大賞】ベスト10(第10位)
コピー:ただいま、サヨナラした世界。



死んだはずの“ぼく”は、「抽選に当たりました」と、あの世で声をかけられる。“ぼく”は生前に大きな過ちを犯したが、再挑戦のチャンスが与えられたという。“ぼく”は自殺したばかりの中学生・小林真の体に入り、“ぼく”が犯した罪を思い出すため下界で修行することに。しかし、家庭は不和状態だし、学校の友達もいない上、密かに恋心を抱いていたひろかが援助交際をしていたりと、真を取り巻く環境は悲惨な状況。“ぼく”はこれまでの真の都合はお構いなしに、思うように振る舞い始めるのだが…というストーリー。

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』『河童のクゥと夏休み』と独特の輝きを放ち続ける原恵一。
本人の人柄なのか、訴えているメッセージはとても素直というか、悪く言えば青臭い。これまでの作品の味は、彼が伝えたいそのメッセージを、その内容とはギャップのあるキャラクター(幼稚園児や河童)が体現することで、生まれてきた。でも、原監督の良さってその現実と非現実のギャップがないと生まれないものなのか?訴えたい内容にみあった等身大のキャラでは、その味は生じないのか?直球勝負では商売にならないのか?いや、原恵一ならできるはず!と思っていたので、本作には期待していた(期待していたなら、劇場に足を運べよというツッコミはあると思うが)。

オチ前までは、かなりよいデキだと思う。“ぼく”は誰なのか?という軸と、真はなぜ死んだのか?という軸。そして、“ぼく”の魂と真の環境が合わさることによって生じる変化。この3本がうまく生きたシナリオになっていると思う。

しかし、原作アリの作品なのでオチについて原恵一のセンスを問うつもりは無いのだが、正直、私のセンスとは合わなかった。私なら、どういうオチにしただろう。必ずしも魂の時間軸と、修行している時間軸が、同列である必要はないわけで、真の体に入った魂が、実は母親の魂で、母親(自分)はその後に自殺する…なんて感じとかね。母親じゃなくてひろかや兄でもいいかも。どっちにそろちょっと救いがないけど。少なくとも、真の体に入った魂は誰なのか?って部分は、ストーリーの大きな軸のはずなので、あんなだれにでも予想のつくオチにだけはしない。
#まあ、“ぼく”が犯した罪を思い出すことと、真として生活することを“修行”としてリンクさせるためには、あのオチしかないので、半ば諦めてはいたんだけどね…。

等身大のメッセージだといっても、母親の浮気の話や、売春している女子中学生の話を子供に見せるのもどうかと思う。じゃあ、本作のターゲットはかつて中学生だった大人ということなのか。だとすると、ちょっと青臭すぎやしないか?
原監督が“かつて中学生だった大人”を明確に意識してこれを作ったとするならば、やはり原恵一という人が、ピュアすぎるのかもしれない。
大抵の大人はもっと粗雑で無慈悲で汚いし、こういう思いをした後に、もう一枚くらい壁を越えて大人になっていると思う(客観的な視点を持つこと。受動的な超自我から能動的な超自我の獲得って感じかな)。だから、本作程度の踏み込み方くらいでは、“心が大きく揺れる”まではいかないと思うのだ。はっきりいって刺激が少ない。悪く言えばヌルいと思う。せめて星新一程度の毒は放り込んでもらえないものだろうか。

とりあえず、次は“大人の直球”を観せて欲しい。それがうまく作れないようだったら一旦、クレヨンしんちゃんのレベルに立ち返って欲しいかな(やっぱり、ギャップの中でしか原恵一の良さは光らないのかなぁ)。
お薦めもしないが非難もしない。

#玉電の跡を歩くくだりはブラタモリで見たのと同じだったね。しっかり取材はしていたと思うんだけど、電車の動画の線をCGでつくってしまったのは、味が無かったね。




負けるな日本

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image0522.png公開年:1999年 
公開国:アメリカ
時 間:84分
監 督:トレイ・パーカー
出 演:トレイ・パーカー、マット・ストーン、アイザック・ヘイズ、ジョージ・クルーニー、ミニー・ドライヴァー 他
受 賞:【1999年/第66回NY批評家協会賞】アニメーション賞
【1999年/第25回LA批評家協会賞】音楽賞(マーク・シェイマン、トレイ・パーカー)
【2000年/第9回MTVムービー・アワード】音楽シーン賞(マット・ストーン、トレイ・パーカー“Uncle Fucka”)
コピー:セリフにも、ボカシいれてません

コロラド州サウスパークに住む子供たちは、カナダの下ネタ芸人コンビ「テレンス&フィリップ」が大好き。公開された彼らの映画を見たスタン、カイル、ケニー、カートマンは映画で覚えた下品なセリフを使いまくり、学校で大問題に。怒ったサウスパークのPTAは、なぜかカナダに猛講義。その運動は全米に拡大し、結局、カナダとアメリカ間の全面戦争に発展してしまう。当のテレンス&フィリップは戦犯として逮捕され、公開処刑が決定。彼らのファンであるサウスパークの子供たちは、彼らの救出するためにレジスタンスを結成するのだが…というストーリー。

TV版をよく知らないんで、キャラ設定上のお約束とか判らない点はあった。しかし、知らなくても全然問題なしだと思う。

金持ち・貧乏人、都会・田舎、アメリカ人・外国人、男・女、老人、政府、企業、宗教と、全方位的に平等に攻撃するというシニカルな姿勢にブレがない点は評価したい。
ただ、全部を否定するってことは、実は単なるニヒリズム、アナキズムだといえなくもないので、これ以上の昇華は見込めないな…とも感じる(そのギリギリの線を意識して狙っているんだとすると、それはそれでスゴイと思う)。

極端な行動をとるのが大人のほうで、子供のほうがほど良さを心得ているという構図もおもしろい。昨今のモンスターペアレントしかり、極論を振りかざすエセ知識人しかり、現実の親世代のレベルの低さは、本作を超えているかもしれない。世論が極端な方向で集約されていく様子は、なかなか先見性があると思う。立派に社会をシミュレートする作品となっており、単なる揶揄のレベルを超えている。『チーム★アメリカ』のほうは、なんだかなぁ…と辟易したものだが、こっちは充分鑑賞に堪える。

下品さについては、個人的はR-18でいいんじゃないかと思う。性的表現だけでなく、宗教や政治の面でも、咀嚼して愉しめる高校生はそういないと思うし、変に曲解されてもどうかと思う。中にはウブでお上品な人もいるので、油断して観ちゃってショックを受ける人もいるのではないかと。自分が16歳のときにこれをみたら、どう感じたか…って想像してみる、かなり頭が痛くなったと思うんだよね(笑)。

内容的に大手を振ってお薦め!と言うと人格を疑われそうで怖いんだけど(笑)、よく練られた作品であることは間違いないと思う。あえて言おう。お薦めであると。あ、言い忘れたが、なんといっても音楽がすばらしい。『アンクル・ファッカー』は
なんだかんだで良くできているよ。今、日本でこれができるのは野生爆弾のくーちゃんだけだろうね。
私は大阪弁の吹替えバージョンで観たのだが、それもすばらしい。この吹替えを作った人、なかなかわかってる人(TV版の吹替えと違うので怒ってた人がいたみたいだけど)。




負けるな日本

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image0275.png公開年:2001年
公開国:フランス
時 間:91分
監 督:アリエル・ゼトゥン
出 演:Yamakasi、マエル・カモウン、ブリュノ・フランデル、アフィダ・ターリ 他
コピー:7人の超人が跳ぶ!





驚異的な運動能力を駆使した恐れを知らない高層ビルを昇り降りするパフォーマンスで大人気の集団“YAMAKASI”。警察は彼らを取り締まろうと躍起になっていたが、それとは裏腹にパリの子供たちは彼らに夢中。しかし、心臓疾患を持つ少年が彼らの真似をして、病状を悪化させてしまう。少年は24時間以内の手術が必要と診断されたが、臓器のコーディネートに多額の費用がかかり、少年の親にはそれを捻出する財力はない。そんな事情を知り責任を感じたYAMAKASIたちは、費用を調達するためにある作戦を考えるのだが…というストーリー。

YAMAKASIという実在のパフォーマンス集団をフィーチャーした映画ということなのかな。自分たちの真似をした為にエラいことになってしまった子供を助けるために奔走するというプロットはわかりやすくていいと思う。スピード感のあるアクションで、見ごたえもあると思う。おもしろくなる材料が完璧に揃っているのだが、なんと、それら材料が完全にゴミになっている。逆に、どうすればつまらなくできるのか、あきれてしまうほど。

おそらく、持ち前の身体能力を使って臓器を運ぶのを支援するんだろうと思っていたら、なんと、運搬費用を捻出するために集団で盗みをやらかすという内容。短絡的に脱法する主人公に、どうやって共感しろと?移民政策への不満を語っておけば、フランス人はおもしろがるのかもしれない。しかし、外国人からみたら「どこか自由・博愛・平等の国なのかしら…」とうんざりするだけだし、子供たちまでもが「警察なんかクソくらえ」といっている社会が恐ろしい。これを恥とも感じていないフランス社会が、また、恐ろしい。出演者もそういう不平等に対して恨み節こそ吐くが、根本的に戦おうとしておらず、非常に気持ち悪い。目先のことにイキがるだけのバカとクズしか登場しない。

はじめのほうで、刑事の上司が7人のそれぞれの特徴を説明して、わざわざキャラクラー付けをしていて、ああ、伏線のセットアップだなぁ…なんて思っていた。しかし、なんとびっくり、結局最後まで個々のキャラが生かされることは無いのだ。
また、刑事の上司や参事官が憎たらしい役回りなのだが、当然、そいつらを痛い目にあわせて溜飲を下げてくれると信じて疑わなかったのだが、結局最後まで何もなし。そんなことありえるかね?なんだこれ。脚本家のレベルが低すぎなんだわ。“ふ・く・せ・ん”って知ってる?そういう概念自体知らないんじゃなかろうか。アクション作品なのに、ちっともスッキリしないって、これを致命的欠陥といわずなんと言おうか。

と、まあ、はじめは好意的にみていたアクションも、よく考えたら、映画の中のアクションなんだからどうにでも作れる。それほどものすごいわけでもないような気がしてきた。こういうパフォーマンス集団を紹介したいなら、ドキュメンタリー映画とかにしたほうが、“リアル”なすごさが伝わっていいんじゃなかろうか。
観る価値はない。お薦めしない。



負けるな日本

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image0349.png公開年:2006年
公開国:日本
時 間:115分
監 督:宮崎吾朗
出 演:岡田准一、手嶌葵、菅原文太、田中裕子、香川照之、風吹ジュン、内藤剛志、倍賞美津子、夏川結衣、小林薫 他
ノミネート: 【2006年/第30回日本アカデミー賞】アニメーション作品賞
コピー:見えぬものこそ



世界の均衡が崩れつつあることを感じとった大賢人ゲドは、その原因を探る旅に出る。道中、心に闇を持つ少年アレンを助け一緒に旅を続け、その後、昔なじみのテナーの家に身を寄せる。そこには親に捨てられた少女テルーも住んでいたが、彼女は、アレンのことを激しく嫌悪するのだった…というストーリー。

元のゲド戦記を読んだことが無いので、映画化として納得できるものなのかどうか、よくわからない(上に書いたように、内容自体は非常に薄い)。また、原案に 『シュナの旅』(宮崎駿 徳間書店刊)とあるのだが、なにがどう原案だと?こちらもさっぱり理解できない。

ジブリアニメのどこかでみたようなカットのオンパレード。キャラクター、服装、風景、町並み、アイテムと、似せ方が露骨であまりにセンスがない。駿が死んでもジブリは同じテイストのものを作り続けられますよ!っていうアピールだろうか(それに意味があるのかどうかわからないけど)。なんで、せっかく監督になるチャンスを与えられたのに、だただ模倣をする?なんで微かなオリジナリティも見えてこないのか。世には監督をたくさんやりたいけど侭ならない人がたくさんいる。そういう人たちは自分の作品を作りたくてがんばっている。そういう人を尻目に監督になったのに、こんな模倣をするかね。何か監督という職業自体に失礼だとすら思うのだが、みんなはどう思うね。

じゃあ、その模倣も、納得できるくらいの模倣かっていうと、そんなこともない。まず、ちょっとカメラマンさん一歩さがってくれませんかねぇ…っていいたくなるカットが多い。要するに、絵コンテが悪い。多分、淡々と平板に展開している印象を持った人が多いと思う。空間の切り取り方に魅力がないのだ。これは、絵コンテの段階で、何度も推敲されるべき。なんかイマイチだな…という気付きがないから、こういう結果になっちゃってるんだろうな…と思うと、救いようがなくてむなしくなる。

動画としての面白みもない。駿独特の浮揚感がないのは良いとしても、根本的に躍動感がなく、まるで重力が小さい空間のよう。駿監督の製作現場のドキュメント番組なんかを見ると、動きの自然さにしつこいくらいの執着とダメ出しをしてるけど、どうかんがえてもそれをやっていない。

シナリオも吾郎監督が書いているのだが(共作みたいだけど)、ピンとこないところが多い。
例えば、主題歌を歌うテルーのシーンが不自然。アレンが近づいていくと、待っていたかのように歌が始まり、すっかり2コーラス歌ってからアレンに気付く(手嶌葵のプロモビデオだって言われていたのがよく理解できる)。そのあと、あっさり仲良くなるのも、理屈が全然わからない。自分の歌に涙してくれたから?ちっぽけなわだかまりだったんだね。数センチ地面に埋まっただけの柵に縛って時間稼ぎができると思うのが不自然(あんな杭はすぐ抜けるだろう。なんであんな時間がかかるかね)。テナーの家とクモのあまりの近さも不自然。「テルーを殺すな!」ふつう戦闘中にそんな言い回しはしない。ところどころ出現するドラゴンの意味(というか存在の必然性)もよくわからない。
#もう挙げていったらキリがない。

現代の若者がキレやすいとか、そういう社会問題の一面を端々に盛り込んで、命の大切さを訴えようっておもっているのかもしれないけれど、示している答えが浅はかでイヤになる。命に限りがあるから命は尊い?限りがあろうが無かろうが尊いだろうが。意味わかんね(限りがあるから尊さに気付くことができるっていうんならわかるけど)。
何が一番不快かって、浅い哲学を押し付けられ続けること。アホな教師がもっともらしいことを言って生徒に同調を求めてるのと同じレベル。みんなそうやって教師を嫌っていくもんだけどね。駿はそういう教師に反発してた側だと思うけど、吾郎は教師側の人だ。この差は大きいぞ。

また、出てくる食事がぜんぜんおいしそうに見えなかったり、ヒロインに可愛げが一切感じられないのは、吾郎監督にバイタリティや人生経験が不足している証拠。そういう含蓄のない人に、命の云々をしたり顔で語られるのが、とにかく不快。はっきりいって、一発アウトでしょう、この作品は。こんなこと言いたくないけれど、金払ってレンタルしたんだから言ってもいいよね。吾郎監督は、介護の現場で1年くらい働くとか、マグロ漁船に乗ってみるとか、ちょっと違う世界で人間修行して、深みを身につけないとダメだと思うよ。お薦めしない。ジブリライブラリーの中で、無かったことにしたい作品。

#アレンと吾朗監督をダブらせて、偉大なものとの関わり方云々という視点で解説している人もいるけれど、他人の親子関係なんか知ったこっちゃない。おもしろくなければ、無駄な言い訳でしかない。



負けるな日本

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image1302.png公開年:1977年
公開国:アメリカ、モロッコ、リビア、サウジアラビア、クウェート
時 間:180分
監 督:マーク・スティーヴン・ジョンソン
出 演:アンソニー・クイン、イレーネ・パパス、マイケル・アンサラ、ジョニー・セッカ、マイケル・フォレスト、アンドレ・モレル、ロバート・ブラウン 他
ノミネート: 【1977年/第50回アカデミー賞】作曲賞(モーリス・ジャール)
コピー:神の声は下った…行けそして戦え!豪壮、華麗!砂漠に燃えるマホメットと殉教の戦士たち!製作費51億円を投じて放つ 感動のスペクタクル巨篇!


西暦610年メッカ。人々はカーバの神殿に数々の神を祭り、偶像崇拝していた。メッカは、マフズーム家やアブド・シャムス家など、一部の者に支配されており、貧富の差が激しく、女性や奴隷は不当な扱いを受けていた。その頃、メッカ近郊のヒラー山の洞穴である男が、神からの啓示をうけたという噂が流れていた。その男マホメットは、唯一絶対の神アラーを信奉し、その預言者として社会矛盾を非難したため、彼とその支持者たちは迫害を受けることになり…というストーリー。

昨日の『アラビアのロレンス』と同じ舞台の中東。テーマでもあるイスラム教、その発生過程を追った作品。マホメットが啓示を受けてから、メッカがまさに“聖地メッカ”になるまでの話である。

キリストの生涯については、色々映画化されているので、目にすることはあるのだが、マホメットの場合は本作以外に聞いたことが無い。おまけに、日本人はイスラム教自体になじみがないので、マホメットがどんな人だったのか知る機会は少ない。コーランは聖書と違って基本的にアラビア語以外に訳することが禁じられているので、勉強しようにもなかなか難しかったりする。

ジャケットのおっさんがマホメットなのか?と思うかもしれないが、イスラム教は一切の偶像崇拝を禁止しているため、マホメットの顔を描くことすら禁忌。冒頭でも説明(言い訳?)されているのだが、本作には一切マホメットの姿は映っていない。じゃあ、どうやってマホメットの生い立ちを語っているのだ?と疑問に思われるだろう。時にはマホメット目線、時には画面の外のマホメットに話しかける、始終そんな感じ。そしてマホメットの言葉は一切音声にはなっていない。宗教上の事情があることは百も承知だが、そうだとしても、とんでもない奇作であることには変わらない。

本当ならば、イスラム教の歴史を知る上での一級の資料だといいたいところなのだが、まったく画面に登場しないので、そのエピソードの時にマホメット本人がいたのか弟子だけなのかがよくわからないのだ。途中、思い出したようにマホメットに話しかけたりするシーンが差し込まれるのだが、さすがに始終それをやってるわけにもいかないし、非常に苦しいところ。
こんなことになるなら、とりあえず誰かに仮に演じてもらって、マホメットを黒塗りにしてもらい、そのセリフは字幕にでもしてくれたほうがわかりやすかったと思う。
#まあ、教義的には、仮に撮影することも許されないし、本当だったらアラビア語以外の音声すらNGのはずだから、無理だろうけど。

いずれにせよ、人種間の平等や男女間の平等を標榜し、非常に社会主義的な思想を根本的な教義としてイスラム教が発生しているのが、よくわかる。そして、“戦う宗教”の要素を早々に帯びて、現在のイスラム=戦闘のイメージの萌芽が見られるところも興味深い。そして、初めの志とは大きく違い、種族間の迫害や女性蔑視が当たり前の現代イスラム世界。彼らは省みるということを知らないのだろうか。その乖離が実に不思議でならない。

国の法と宗教の法が一体であり、宗教の律法のありかたとしては完璧なイスラム教(人々が幸せかどうかは別の問題)が生まれる過程が理解できる作品。神との契約から人間同士の契約の概念は生じているので、イスラム世界でも資本主義経済が発生しておかしくはないのだが、利息を頑なに否定するため、経済活動が発達しないというジレンマを抱えている社会。知らない世界を理解するための扉を開けるという意味では、有益な作品かと。ただし、本作もとにかく流いし、予備知識がなければトンチンカンになるのは否めないので、お薦めはできないけど。
#まあ、やっぱり珍作の部類に入るんだろうなぁ…。





負けるな日本

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image0079.png公開年:1962年 
公開国:アメリカ
時 間:207分
監 督:デビッド・リーン
出 演:ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、オマー・シャリフ、アンソニー・クイン、ジャック・ホーキンス、アーサー・ケネディ、クロード・レインズ、ホセ・ファーラー、アンソニー・クエイル、ドナルド・ウォルフィット、マイケル・レイ 他
受 賞: 【1962年/第35回アカデミー賞】作品賞、監督賞(デヴィッド・リーン)、撮影賞[カラー](フレデリック・A・ヤング)、作曲賞(モーリス・ジャール)、美術監督・装置賞[カラー](ジョン・ボックス:美術、John Stoll:美術、Dario Simoni:装置)、音響賞(John Cox)、編集賞(Anne V. Coates)
【1962年/第20回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、助演男優賞(オマー・シャリフ)、監督賞(デヴィッド・リーン)、撮影賞[カラー](フレデリック・A・ヤング)
【1962年/第16回英国アカデミー賞】作品賞[総合]、作品賞[国内]、男優賞[国内](ピーター・オトゥール)、脚本賞(ロバート・ボルト)
【1991年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品

1916年、カイロに赴任中の英国軍少尉ロレンスは、トルコの偵察任務をうける。トルコではアラブ諸国の独立の気運が高まっており、その動きを中東進出の足掛かりにしようとする思惑がイギリスにあった。ロレンスは偵察目的であった任務を逸脱し、武力も組織も脆弱な反乱軍を指揮して、ゲリラ戦を敢行。ついにはオスマントルコの重要拠点アカバを陥落させるに至る。その功により、指揮官として再びトルコ打倒を命じられるロレンスだったが、アラブ諸族間の諍いが発生し、且つ、考え方の違いにより本国からも孤立していく…というストーリー。

#なぜか古めの作品が多い、今日このごろ。

まあ、冒頭のお亡くなりになるシーンから、この大スペクタクルな展開はなかなか予想がつかないだろう。そして、大スペクタルゆえにこれが実在の人物、実際の出来事とは思えないほど。ああ、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。

ビザンチン帝国を滅ぼしてから400年間もアラブを支配していたオスマントルコ。その支配が衰え始めて久しく、アラブ諸族のトルコに対する不満もピークに達しており、それをイギリスが利用しようとするという構図である。ロレンスはその尖兵であり工作員でありアジテーターだったわけだ。本作でも、トルコは完全に落ちぶれた悪役扱いで、アラブからの嫌われっぷりもよく表現されている。

その後、世界史のお勉強のとおり、アラブ諸国が曲がりなりにも一生懸命戦ったおかげでトルコに勝つ。しかし、イギリスがちらつかせた独立などは夢のまた夢。イギリスとフランスがやってきてトルコの代わりに分割統治を図る。フサイン=マクマホン協定にサイクス・ピコ協定、バルフォア宣言と現代史的には重要なポイント(そのころになると三学期のおわりの方だったりして、気合が入ってない時代だったりするけど)。
さらに、パレスチナにユダヤ人の入植は認めるは、イスラエルの独立支援はするわ、現在のパレスチナ問題の原因はイギリスがつくったのである。これに石油がプラスされれば、ほぼすべての要素が揃うといってよかろう。
#お気づきだと思うが、中東から石油が出ていない時代のお話である。

私は、イスラエル建国の理屈がまったく理解できない。ナチスに迫害されたからといって、また、かつてパレスチナの土地に住んでいたからといって、そこに住んでいた人間を追い出していい理屈などあるはずがない。こんなアホな所業は無いと思っているが、それもこれもすべてイギリスの後ろ盾のせいである。第一次世界大戦ころのイギリスのやったことは、後に禍根を残したことが多すぎる。

タイトルのとおりロレンスが主人公で出ずっぱりなのだが、実のところ彼は狂言回しだと思う。前半はイギリスによる中東への野心とちょっかい。そして後半は戦闘の繰り返しの歴史。ロレンスはそれに翻弄されたにすぎない。
個人に苛烈なまでの意志があったとしても、その理想のとおり世界は動かない。そして理想と現実のギャップは若いときほど大きい。しかし、ロレンスが経験したこの歴史は、あまりにも一人の人間が負うには重すぎた。老獪な先達にあまりにも利用されすぎてしまい、私ならとてもまともな精神でいられないと思う。単なる歴史劇を超えた、哲学的なものすら覚える。

ただ尋常じゃないくらい長くて、まったく苦痛に感じなかったいえば嘘。しかし、それ以外にケチをつける箇所はない。この長さを乗り切る覚悟は必要だと思うが、一度は観ておくべき作品かと。





負けるな日本

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image1662.png公開年:2007年 
公開国:ノルウェー
時 間:90分
監 督:ベント・ハーメル
出 演:ボード・オーヴェ、ギタ・ナービュ、ビョルン・フローバルグ、エスペン・ションバルグ 他
ノミネート:【2008年/第21回ヨーロッパ映画賞】エクセレント賞(Petter Fladeby:音響デザインに対して)
コピー:特急よりも、各駅停車


オスロのアパートで一人暮らしをしているノルウェー鉄道の運転士オッド・ホルテン。これまで勤続40年。ついに67歳の定年を迎え、いよいよ明日の乗務をもって最後の勤務となる。退職前日ということで、同僚が送別会を開いてくれたのだが、ちょっとしたことで同僚の家に入ることができなくなり、別宅に迷い込んでしまう。ついついそこで眠り込んで朝をむかえ、最後の最後で人生初の遅刻をして担当の列車に乗り遅れる。こんな運転士生活の幕切れに落胆し、生活リズムまで乱れ始めたホルテンは、これまでの人生で関わることのなかった出来事や人々と関わることになり…というストーリー。

冒頭の運転席の映像と音楽の組み合わせは好み。北欧映画のライティングや撮影技術も元々好きなので、技術的な穴は感じなかった。キレイにできていると思う。ストーリーの独特のテンポも性に合う方だと思う。とにかく40年同じリズムを刻んでいた主人公なので、あえても淡々とした雰囲気を維持しようとしているのだと思う。これが退屈と感じるか“味”と感じるか。おそらく、かなりの人がイマイチと思うだろうが、私は許容範囲だった。

ただ、邦題にあるところの“はじめての冒険”の部分が実につまらない。ちなみに、残念ながら本作にはそんな冒険は登場しない。確かに、40年間、判で押したような生活の連続なのだから、こんな散歩のようなはみだしも冒険だってことなのかもしれないが、原題にそれが無いことからわかるように、邦題の勇み足、ズレた邦題である。

彼が遅刻するまでが導入部であって、その後の展開が本筋のはずだが、その本筋で発生する出来事が、ことごとくおもしろくない(悪いけど、とてもコメディにカテゴライスする気になれない)。
プールで泳いでみたり、これまでやったことのないことに踏み出すのだが、観ていてそれほどドキドキを感じないし、ホルテンさんの中に生まれているであろう変化が伝わってこない。そう、人の良さそうな小市民なので、サラリーマンは共感を得られそうなものなのだが、まったくホルテンに共感をもつことができないのだ。それどころか、同じ人間という感じもしない。キャラクターの練りが甘くて、監督自身も共感していないのでは?とすら感じる。
#ホテルで「最後は飛行機で帰ろうと思う」って、本人も自分を変えようとしていたりとかしていて、なんかキャラにぶれがあると感じる(その段階では、まだ、頑なにルーチンワークに徹してるべきなんじゃないのかな。演出的に)。

ちなみに、DVDジャケットの制服で犬を抱いている写真を見て、最後の勤務ですったもんだのドタバタに巻き込まれるんだろう…なんて、大抵の人は予測するだろうけど、そんなものは存在しない。そして、その予測は単に裏切られるだけで、替わりのものが与えられることはない。

船を売るくだりにいたっては、そのすったもんだが、あまりにもへたくそなドタバタ(売ったことにどれだけの意味があったのかもよくわからない)。最後の連結器ガッチャンコなんていう演出は、よくもあんな陳腐な表現を恥ずかしげも無くできたものだと、ちょっとウンザリしてしまった。まあ、簡単に言えば、はじめの掴みがピークで、あとはどんどんトーンダウンしていくだけの作品である。ん~、こんなに辛らつに非難するつもりは無かったのだが、字にしていくと、悪い点しか浮かんでこない。もったいぶっておけば芸術っぽく見えると、勘違いしているのでは?と、イヤなことを言いたくなる。

したり顔で、アンディ・ウォーホルの真似っこした絵を自慢されたみたいな感じ(伝わんねーか(笑))。もちろんお薦めしない。






負けるな日本

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imageX0024.png公開年:2003年 
公開国:アメリカ、スペイン
時 間:100分
監 督:オリヴァー・ストーン
出 演:フィデル・カストロ、オリヴァー・ストーン
コピー:アメリカが上映を拒絶した問題作





チェ・ゲバラと共にキューバ革命を遂行し、社会主義国家を築いたカストロを、『プラトーン』『ナチュラル・ボーン・キラーズ 』のオリヴァー・ストーン監督が2002年、3日間に渡ってインタビューしたドキュメンタリー。革命期から冷戦時の歴史的なエピソードの真相や、カストロ本人の素顔に迫る作品。

この映画を観るかぎり、カストロ自身は魅力的な老人に見える。自分を偶像化することを禁止していることからも、少なくとも毛沢東のように救いようのないアホではないことは明白である。
それ故にアメリカに住むキューバ人は、この映画をアメリカで公開することに反対したわけだ。彼らを苦しめた張本人がステレオタイプな独裁者ではないという、そういうイメージが植え付けらるのを良しとしないから(まあ、カストロが好々爺であることも事実だし、苦しめられたキューバ人がいるというのも事実だと思うので、どちらが正しいというわけではなかろう)。

人は考える生き物だが、同時に考えを止める生き物である。見方を変えると、人間は色んなことに関心を抱く、そこから謎を生み出す。しかし、その謎のすべてに引っかかっていては、生物活動を維持するのもままならない。だから、さほど必要でないことは捨てる。考えない。
生きることを捨ててまで考える生物ではないということだ。だから、考えることを生きる主目的とする哲学者が生まれるのは、巨大な都市なのだ。だから、物乞いと哲学者の数は絶対に相関があるはずだ。今の日本でいえば、ホームレスの数とエセジャーナリストの数には相関があるはずだ(歴史の必定だと思うんだけど、みんなはどう思う?)

閑話休題。何が言いたいかというと、カストロのようなタレント性を持った人だからといって、同じようなカリスマ的指導者になるわけではないだろうということだ。おそらく、考えることをやめた大衆が、引っかかりを感じながらも生活のために捨てた“考え”に、答えを提示してくれる人物が現れ、“すっきり”したから、その答えを提示してくれた人物を崇めるのだ。そして、今後も提示し続けてくれそうならば、ますますカリスマ性を増していく。大衆が考えることを止めざるを得ない状況と、且つその状況が同時に人々の不満を募らせるものであること。そこに、“答え”を携えるものが登場したときに、同様のことがおこるわけだ。
共産主義がキリスト教の一種だと言われるのは、その発生過程が宗教と同一だから。そういうこと。
#ソ連もキューバも、宗教を否定しながらも、教会が存在するのが不思議なところだよね。

さて、この状態をみんなはうらやましいと思うかい?私は思わない。どういう状況であれ考えを止めることを私は望まないから。そして、誰かの考えに無条件で賛同し、それどころか賛美するなどということに堪えられそうもないからだ。

これを読んだ人は気付くと思うが、大衆が考え始めると、ほどなくこの体制は終わる。体制を維持するためには、その体制を産んだ状況を維持すればよい。簡単言えば、貧しいままにしておくか、情報を遮断すればいいのだ。
つまり、まだキューバが体制を維持できているということは、この両方が存在することを意味している。
多くの共産主義・社会主義が、長く体制を維持できたにもかかわらず、そして国家が豊かな国家を標榜していながらも、決して裕福にならなかったのには、理屈があるのだ。
よく、北朝鮮はあんなに貧しいのに何で体制を維持できるのだろう。よっぽど暴力的に抑圧されているに違いない…という意見を聞くが、その見方は実は誤っている。貧しいがゆえに維持できているのだ。だから、もっと困窮すれば、自然に北朝鮮は崩壊すると思ったら、大間違いなのだよ。

おっと、作品のデキではなく、社会学の講義になってしまったね。でも、ドキュメンタリー映画だからしょうがない。こうやっていろんなことを考えさせる映画なのだ。そして、常に反米気質のオリヴァー・ストーンだからこそできた映画。
ただ、敵の敵は味方という理屈で生まれた友情は、お互いの息がかかるほどの距離になると、さすがに違いが鼻についてくる。その臭いの違いが、予定調和のインタビューに微妙なゆらぎを与えていて、そのゆらぎに先に何かを見せてくれるわけだ。とにかくインタビューする側のあからさまな思想の押し付けのない、よいインタビュー映画だと思う。

まあ、ここからは余談になるけど、カストロから、自分が世界の理を把握した気になっているおごりを感じざるを得ない。だから、人類が滅びに向かっていることは、複雑な数学など不要で、簡単な算数程度があれば理解できると言い放つ。
物事を簡単に考えようとする態度が楽観主義から生じているならば問題はないが、それは短絡主義と表裏一体。毛沢東しかり社会主義国家の指導者は、必ずこの誤りの轍を踏む。これ以上、長々語る気はないが、この1点において、カストロはポンコツである。そしてポンコツであるがゆえに、大衆から支持される。ああ、社会性動物たる人間の性よ。

#オリヴァー・ストーン、カウンセリングにこだわりすぎじゃね?




負けるな日本

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image1244.png公開年:1941年 
公開国:アメリカ
時 間:119分
監 督:オーソン・ウェルズ
出 演:オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、ドロシー・カミング、エヴェレット・スローン、アグネス・ムーアヘッド 他
受 賞: 【1941年/第14回アカデミー賞】脚本賞(ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ)
【1941年/第7回NY批評家協会賞】作品賞
【1989年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品

テーマパークのような大邸宅“ザナドゥ”で、かつての新聞王ケーンは“バラのつぼみ”という謎の言葉を残して死ぬ。彼の生涯をまとめたニュース映画の製作が進んでいたが、製作者はその誰でも知っているような内容に不満を抱き、ケーンが最後に遺した言葉の謎にスポットを当てるように、記者トンプソンに指示する。彼は、二人目の妻で歌手のスーザン、後見人の銀行家サッチャー、ケーンの新聞社で右腕だったバーンステイン、かつての親友リーランド、大邸宅の執事など近しかった人物に取材を重ねるのだったが…というストーリー。

昨日に続き古い作品。『第三の男』より古くて、DVDの画質はものすごく悪い。オリジナルネガが紛失しているからだと思うが、デジタル技術でもうちょっと修復してほしい(まあ、ブルーレイでやるだろうけど)。
#でアメリカ国立フィルム登録簿には、上映ネガが登録されてるんだろうな。

映画検定的にいえば、近距離から遠距離までピントを合わせるパン・フォーカスってやつが有名だけど、それだけじゃなくて、幼少時代・青年期・晩年を、撮影技法を変えることで表現している所に、入魂のほどが覗える。
冒頭の臨終から、生い立ちを語るニュース映画を差込んで、「こんなんじゃダメだー」的に現実に話を戻し、そこから生い立ち探しが始まるという古臭さを一切感じさせない構成・編集。1941年っていたら、第二次世界大戦にアメリカが参戦したかしないかのころ。当時観たら、ものすごく斬新に感じたと思う。

私が資本主義社会に毒されているのか(笑)、一番マトモな人間はケーンに見えた。いや、ケーンだけがまともに見えるのだが、私の頭はおかしいだろうか。周囲の人間は、ケーンのことを傲慢で強引に思い通りに事を進めるいけすかない奴だと言っている。しかし、思い通りにならないことをケーンのせいにして、自分の愚かさを省みず、そのくせ彼を利用しようとしている。そしてその浅はかな計算がばれないように、時にはへりくだり、時には彼の傲慢を糾弾するという、ものすごく気持ちの悪い人間たちに見える。

薔薇の蕾のくだりは、画質が悪くて、燃えたのが何なのか非常にわかりにくかったが、まあ理解はした。彼が求めていたものが、母の庇護、簡単に言うと無条件の愛情を与えられるべき時期に与えられなかったってこと。しして、それが何と引き換えになったのか。その引き換えになったものを恨んでいたゆえに異様な浪費に繋がったんですよ…と。まあ、なんでそれが、あそこまで支配欲・権力欲を発揮することになるのか…については、実在の出版王ハーストというモデルがいたからだろう。
一見、我の強い人間も、結局は生い立ちや周囲の環境によって形成されているのだよ…という意味ならば、その観点には同意する。とにかく、ケーンに感じるシンパシーで、ストーリーにぐいぐい引き込まれたのは事実である。

そしてこの斬新な映画を、この時25歳のオーソン・ウェルズが初監督・主演してるっていうんだから驚く。青年から晩年のメイクもなかなか自然だし、技術的な穴は少ないね。製作年の古さと、それを感じさせないギャップという意味では、数ある映画の中では随一といえるだろう。見にくい面は否めないけど、それを押してでもお薦め。





負けるな日本

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image1243.png公開年:1949年 
公開国:イギリス
時 間:105分
監 督:キャロル・リード
出 演:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワード、バーナード・リー、ジェフリー・キーン、エルンスト・ドイッチュ 他
受 賞: 【1950年/第23回アカデミー賞】撮影賞[白黒](ロバート・クラスカー)
【1949年/第3回カンヌ国際映画祭】グランプリ(キャロル・リード)
【1949年/第3回英国アカデミー賞】作品賞[国内]


第二次大戦後まもないウィーン。親友ライムの招きでこの街を訪れた作家のマーチン。ライム家を訪ねると彼が自動車事故で死亡したことを知る。ライムの葬儀に出席するマーチンスは、本件を捜査するイギリス軍のキャロウェイ少佐とである。少佐は、ライムが闇取引をしていた悪人であると主張するが、それが信じられないマーチンは、独自の調査を開始する。ライムの恋人であった女優アンナや、事件の目撃者である宿のガードマンの話から、現場に正体不明の“第三の男”が居たことをつきとめる。しかしその証言をした門衛が殺害され、マーチンスがその犯人だと疑われてしまう。また、偽造パスポートでウィーンに滞在していたアンナも、ソビエトのMPに連行されてしまい…というストーリー。

4カ国に分割管理されている戦後まもないウィーンという、異国情緒と時代背景がうまいこと混ざりあった設定が、サスペンスの味付けとしてとても効いている。
60年以上前の作品で、パブリックドメイン化していることから今回観たDVDも安価に製作されており、決して良い画質ではなかった。それでも、白黒映画であることで生まれるメリハリのあるコントラストや緊張感・退廃的なイメージの表現はすばらく、まさにこれぞフィルム・ノワールといったところ。2006年公開のジョージ・クルーニー主演『さらば、ベルリン』も、同様の時代背景と白黒映像による同様の効果を狙っているが、ソダーバーグをしても本作には及んでいない。

私が解説するまでもなく、ライム初登場シーンのインパクトや、今ではビールのCMや恵比寿駅を思い出してしまうテーマ音楽など、映画史を語る上ではずせないが、教科書的な評価ではなく、純粋に作品として現代においても充分に鑑賞に堪えうること自体が、奇跡といえる作品だと思う。ハードな内容とある意味おきらくなチターの音色とのギャップが生む雰囲気は、本当に秀逸。

結局、ライムの隠避が単独犯行なのか組織的に行われたものなのか明確になっていないなど、シナリオのディテールとして甘さは残るが、それを補って余りある完成度。そして、勧善懲悪でもなければ決して後味が良いわけでもないラストには、後のニューシネマの萌芽を見る思いだ(かつ、これがハリウッド作品ではないことにも、ちょっぴり驚く)。正直、古い作品でも観てみようかな程度の軽い気持ちだったのに、予想外のデキに驚いている。懐古趣味云々ではなく、純粋にお薦めできる作品。

#とある映画解説本で、「下水道の中でライムが流されてしまう水の勢い」などという解説があるのだが、そんなシーンは無いと思うのだが誤訳だろうか。不思議。



負けるな日本

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image1665.png公開年:2008年 
公開国:カナダ、フランス
時 間:104分
監 督:ヴィンチェンゾ・ナタリ
出 演:エイドリアン・ブロディ、サラ・ポーリー、デルフィーヌ・シャネアック、ブランドン・マクギボン、シモーナ・メカネスキュ、デヴィッド・ヒューレット 他
コピー:禁断の実験で生まれた“美しき新生命体”──




天才遺伝子科学者のクライヴとエルサは、複数の動物の遺伝子を融合させて未知の生物を作り出し、そこから人類に有益なたんぱく質を採取するプロジェクトに参加していた。しかし、企業内の倫理コードに阻まれ、思うように研究を進めることができず、その苛立ちから別の研究所で独自に遂行することに。やがて、人間と動物の遺伝子を合成させた生物を産み出すことに成功。2人はその生き物を“ドレン”と名付け、極秘に育て始めが、ドレンは驚くべき速さで成長し、徐々に人間の女性の姿に近づいていくのだった…というストーリー。

『スピーシーズ』と似てはいるが、あっちは行為の時は人間のフォルムだったけど、こっちは異形の実験動物だものな。
ヴィンチェンゾ・ナタリ作品の特徴って、荒唐無稽にならないギリギリの線の科学ギミックと、軽く吐き気を及ぼすような演出って共通点があると思う。だから、いまさら『CUBE』ほどの独創性を感じない。

一番よくないのは、あわよくば続編ができるように…という終わり方をしているところ。『キューブ』で味をしめているのが見え見えなのだが、いつも言っているが、続編ができることなんか気にしてるようでは、ヌルい作品になるのだ。一作入魂だっつーの。

まあ、興味深い点もないわけではない。当初の肉塊のような生物が次第にエルサに近づいていく様子。恐ろしい異形の生物よりも、微妙な線で人間に似ているほうが、よっぽど恐怖を感じるということを証明してくれている。いろんな生物のハイブリッドという設定で突き詰めていくと、ああいう造形になるんだろうな…っていうデザイン面の説得力もある。

それに、人造生物っていうありがちなSF設定ではあるが、女性がパートナーとの子供じゃなくって、純粋に自分の子供を求めるっていうのが、なんとも現代世相らしくてユニークだと思う。

SFであることを考えると、可もなく不可もないというところだろう。アメリカ作品でないことも、ありがちなハリウッド作品とは色合いの違いが生まれている遠因なんだと思う。お薦めはしないが警告もしない。

#エイドリアン・ブロディはオスカーを獲ってしまった余裕からなのか、逆にオスカー俳優のイメージを払拭したいからなのか、このレベルのキワモノ作品に躊躇無く出演している気がする。これが彼にとっていいことなのかどうか…。




負けるな日本

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image1276.png公開年:1998年 
公開国:アメリカ
時 間:111分
監 督:ブライアン・シンガー
出 演:ブラッド・レンフロー、イアン・マッケラン、ブルース・デイヴィソン、イライアス・コティーズ、ジョー・モートン、デヴィッド・シュワイマー、ヘザー・マコーム、ジョシュア・ジャクソン、アン・ダウド 他
受 賞: 【1998年/第11回東京国際映画祭】最優秀男優賞(ブラッド・レンフロー)



ロサンゼルスに住む高校生のトッドは、スポーツも学業も優秀な生徒。彼は、授業でホロコーストについて学ぶと、興味は沸きナチスの強制収容所に関する本を読むようになる。そんなある日、バスの中で見覚えのある老人がおり、気になって後をつけてしまう。トッドはその老人が、ナチスの強制収容所の所長ドゥサンダーであることに気付いてしまう。その老人は、“吸血鬼”という異名を持つ戦争犯罪人で消息不明とされていたが、名を変えてひそかにこの町に潜伏していたのだ。トッドは、彼の正体を明かさない代わりに収容所での虐殺の様子を語ることを強要する。はじめは語ることを嫌がっていた老人だったが、重ねて語ることで封印していた昔の記憶が蘇り…というストーリー。

ここ数ヶ月に観た作品の中で、一番ぐっとストーリーに引き込まれた作品だった。しかし、その反面、ラストのオチがガッカリすぎて、その振幅の激しさによる落胆がものすごく大きい。とても残念。ハシゴを登っていたら、スパーンと蹴られて、地面に落下させられた感じ。もうひとひねりすることはできなかったのか!と、ただたたこぶしを握るばかり…。

おおっと!最後まで気付かなかったが、原作はスティーヴン・キングじゃないか。

(以下ネタバレ)

はじめは、いくらナチスの戦犯とはいえひっそりを暮らしている老人を単なる興味本位でおもちゃにして、なんというくそガキなんだ!と思って観ていたのだが、老人のほうも覚醒してきて立場が逆転していくなんて、そんな展開、予想もしていなかった。このような揺り戻しが数回あって、ちょっとした船酔いのような感じすら覚える。

本当に、鑑賞者の足元から揺すってくるようなシナリオ。宇宙人も霊魂も出てこない方の、“良いキング”の作品である(笑)。割と好き、いや、かなり好きなプロット。最後さえちゃんとしてくれたら、『スタンド・バイ・ミー』『ショーシャンクの空に』と肩を並べる作品になったに違いない。

デンカーがいくら自殺を図っても助けられてしまうが、最終的には壮絶な手段でデンカーが殺害されるとか…
問い詰められたトッドは、同じようにナチの残党にまんまと騙されたことが公になったらオマエは職を失うぞ!と脅すとか…
それこそあのカウンセラーを殺してしまうとか…
ラストはそのくらい激しいモノにしてもらいたかった(小児性愛者だぞ!と言いふらすぞ…程度じゃ弱すぎるよ)。

まあ、あまりに最後が残念だっただけで、全然ダメな作品ではないので、お薦めはする。

#邦題の“ゴールデンボーイ”の意味がまったくわからないけれどね。




負けるな日本

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プロフィール
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クボタカユキ
性別:
男性
趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
自己紹介:
一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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