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image2029.png公開年:2008年
公開国:フランス、ベルギー、ドイツ
時 間:126分
監 督:マルタン・プロヴォスト
出 演:ヨランド・モロー、ウルリッヒ・トゥクール、アンヌ・ベネント、ジュヌヴィエーヴ・ムニシュ、フランソワーズ・ルブラン、ニコ・ログナー、セルジュ・ラヴィリエール、アデライード・ルルー 他
受 賞:【2009年/第44回全米批評家協会賞】主演女優賞(ヨランド・モロー)
 【2009年/第35回LA批評家協会賞】女優賞(ヨランド・モロー)
 【2008年/第34回セザール賞】作品賞、主演女優賞(ヨランド・モロー)、脚本賞(マルク・アブデルヌール、マルタン・プロヴォスト)、音楽賞(マイケル・ガラッソ)、撮影賞(ロラン・ブリュネ)、美術賞(ティエリー・フランソワ)、衣装デザイン賞(マデリーン・フォンテーヌ)
コピー:花に話しかけて木に耳をすませて心のままに、私は描く。

1912年、フランスのパリ郊外サンリス。貧しく身寄りもない女性セラフィーヌは、家政婦として生計を立ててながら、部屋に籠もって黙々と絵を描く日々を送っていた。彼女は、40才を過ぎてから守護天使の「絵を描け」というお告げを聞き、それまで描いたこともない絵を描き始めた。絵画の手ほどきを一切うけておらず、絵の具は植物など自然の素材から手作りし、板の上に絵を描いていた。そんなある日、彼女が家政婦として働く家に、ドイツ人画商ヴィルヘルム・ウーデが間借りすることに。ウーデはセラフィーヌの絵を偶然見かけ、彼女の絵に惚れ込んでしまう。そして、彼女に家政婦をやめて絵を描くことに専念できるように、金銭的な援助を申し出るのだった。しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると、フランスの敵国であるドイツ出身のウーデはフランスを出国せざるを得なくなり、セラフィーヌと音信不通になってしまう。 1927年、フランスに戻ったウーデは、セラフィーヌの居場所を捜索。彼女は、まだ家政婦をしながら絵を描き続けており、ますます画力を向上させていた。以前の約束のとおり、ウーデは金銭的な援助を開始し、彼の紹介により徐々に彼女の絵は売れ始め、生活は豊かいなっていったのだったが…というストーリー。

容姿は小汚いし、おばさんというよりもおばあさんという感じのセラフィーヌ。いささか絵を描くことに偏執してはいるが、きちんとメイドの仕事はこなしているので、社会性はある。肉屋とかシーツ洗いなど、他のバイトを掛け持ちしているくらいなので、それなりに生きる術は知っている感じ。でも、あまり笑わないのが怖い。

肉屋で血をこっそり拝借しているのは、いったい何だ? と思ったが絵の具を自分で作っているのだ。まあ、著名な絵描きさんたちの逸話によくあること。フェルメールがあの独特の青色を出すために、中東で算出される貴重な青い宝石を躊躇無くすり潰して絵の具に使った…なんて話は有名。でも、血やら植物だと、経年による退色は凄いので、現存する彼女の作品の色は、当時のものとは違うんだろうね(彼女の作品のことは良く知らないんだけど)。

途中で、修道女たちと食事をするシーンがあるが、その会話の内容からすると、セラフィーヌも元修道女で、神の「絵を描け」という声に従って辞めたということだろうか。それとも、単に元々信心深くて、長い知り合いってことなのか、よくわからない。とにかく、マリア信仰に強く傾倒している。

それなりに社会性はあるのだが、学が無い…だけでなく、それに加えて頑固。その頑固さが不見識の上で発揮されるので、とにかく厄介。はじめは自分の絵を褒められても、馬鹿にされているに違いないと思うほどだったのに、本当に評価されているのだと確信したらもう止まらない。確かに、ウーデに見出されたことは、彼女にとって良かったことには違いないのだが、絵を描くことが天の人の期待に沿うことだと思っているので、諸々の思い込みをどんどんエスカレートしていく。金に余裕が出てくると、あの質素な生活はなんだったのかと思うくらい、突然爆発したように散財し始める。思いつきで家まで買おうとする。そして、不幸に世界恐慌でそんな散財が許されなくなると、ウーデが自分を見捨てたと、斜め上の理屈で発狂し始める。
おそらく彼女は、肌身で感じられる世界が、理解できる範囲だったんだろう。その社会の範囲ではなんとか常軌を保てていたに過ぎないのだ。そして彼女は、絵を先鋭化させていくのと並行して“女ゴッホ”になっていく。絵の作風も、ゴッホに近いと思う。同じような脳の構造なんだと思う。彼らには、ああいう風に世界が見えているのだと思う。

そういう人がいました…ということは、わかった。でも、この映画自体、彼女を生き方を通じて何が言いたいのだろう…ということはよくわからなかった。フランス映画は、こういうのが多いね。凄い生き様の人がいたから、それをそのまま映画にしてみました…っての。監督や脚本家は、それを通じて、こういうことを俺は感じたんだ、君もそう思わないかい? っていうのが無いよね。あとはそれぞれ自分でいいように感じてよ…っていう投げっぱなし。何で、観客側が、作品の意義を考えなくてはいけないのか。これじゃだただの再現ドラマだよね。
再現ドラマとしては非常に優秀。本物の“セラフィーヌ”を観ている気分になるのは事実。時間を経過するごとに崩壊していくセラフィーヌ演じるヨランド・モローの演技は、神がかりかもしれない。でも、ああ、芸術家ってみんな紙一重なんだな…と、それしか残らないわな。
最後あたりの、花嫁衣裳を着て近所に物を配り始めるところなんか、映画の視点自体も、狂った彼女を俯瞰で見ちゃってるんだもの。こういう作品は主観的な狂気を観客といくばくか共有して、誰しもちょっとは持っている内なる狂気とリンクさせることに意味があると思うだよね。
デキのよい再現ドラマ。それ以上でもそれ以下でもない。

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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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