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image2089.png公開年:2012年
公開国:アメリカ
時 間:102分
監 督:アキヴァ・シェイファー
出 演:ベン・スティラー、ヴィンス・ヴォーン、ジョナ・ヒル、リチャード・アイオアディ、ローズマリー・デウィット、ウィル・フォーテ、メル・ロドリゲス、ダグ・ジョーンズ 他




オハイオ州郊外の住宅街に暮らし、COSTCOの店長を務めるエヴァン。プライベートでは、ジョギングクラブやスペイン語クラブを主宰したり、社会奉仕活動なども行っており多忙な毎日を過ごしている。しかし、家庭では、妻との間に子供ができないのが悩みだった。そんなある日、店の閉店後に、警備員が何者かに惨殺される事件が発生。憤りを感じたエヴァンは、自警団“ネイバーフッド・ウォッチ”を設立しメンバーを募る。しかし、集まったのは、口うるさい建設業のボブと、警察のテストに落ちたアホのフランクリン、そしてイギリス人のジャマーカスだけだった。意気込むエヴァンに対して、他の三人はあまりにも不真面目でキレそうになるエヴァンだったが、なんとか皆をパトロールに連れ出す。すると、パトロールの最中にある物を発見し…というストーリー。

いかにもベン・スティラーが演じそうなキャラクターで「またかよ…」感がものすごい。彼だけでなく、ご近所ウォッチャー(吹き替えではそういう自警団の名前になってる)の仲間は、さらにこの手のコメディではありがちなキャラクター。
一生懸命 伏線を張ろうとして失敗していたり、前半のまわりくどさとかモタツキが結構ヒドい。『E.T.』と出会ったのがクソ大人だったら…みたいなアプローチをしてるのかな…と思ったけど、そうではなかった模様。

後半を過ぎて、宇宙人に逃げられた後くらいからやっとストーリーが集約されてゆき、締まってくる。というかバトルシーンに向かって面白くなっていくだけで、サイドストーリーである不妊の話なんかは、うまく集約できてないんだけどね。なんか良くわからないうちに、妻と和解して、その妻がバトルに参戦するといううやむやっぷり。
ボブの娘の彼氏のくだりは、まあ、セオリーどおりだけど、ジャマーカスのところはかなり弾けた展開。いやあ、無理やりラストスパートをかけて誤魔化した感じになっているのだが、終盤は楽しめる。勢いアンド勢いアンド勢い。
#まあ、日本未公開だからね。

旧作料金なら、週末の夜にビールを飲みながら十分すぎるほど愉しめる。COSTCOを推してるのか馬鹿にしてるのかよくわからないけど、COSTCOに行ったことが無い人には、全然ピンとこなし、笑う部分が半減するのは間違いない。

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image2052.png公開年:2007年
公開国:イギリス
時 間:118分
監 督:マイク・リー
出 演:サリー・ホーキンス、エディ・マーサン、エリオット・コーワン、シルヴェストラ・ル・トゥーゼル、スタンリー・タウンゼント、アンドレア・ライズブロー、サラ・ナイルズ 他
受 賞:【2008年/第58回ベルリン国際映画祭】銀熊賞[女優賞](サリー・ホーキンス)
 【2008年/第43回全米批評家協会賞】主演女優賞(サリー・ホーキンス)、助演男優賞(エディ・マーサン)、監督賞(マイク・リー)、脚本賞(マイク・リー)
 【2008年/第75回NY批評家協会賞】女優賞(サリー・ホーキンス)、監督賞(マイク・リー)
 【2008年/第34回LA批評家協会賞】女優賞(サリー・ホーキンス)、脚本賞(マイク・リー)
 【2008年/第66回ゴールデン・グローブ】 女優賞[コメディ/ミュージカル](サリー・ホーキンス)

30歳のポピーは、明るく楽天的な独身女性。小学校で低学年向けの教員をしている。昔から親友のゾエとアパートをシェアして暮らしており、二人の妹の片方とは仲がいいいが、もう一人としてはそれほどでもない。自転車を盗まれた彼女は、それをきっかけに自動車の免許をとることを思いつく。プライベートではそれだけでなく、フラメンコを習ったり、トランポリン教室に通ったり、人生を楽しんでいる。好奇心旺盛な彼女は、夜道で出会ったホームレスの話を聞いたりもする。そんな奔放な彼女だったが、運転のインストラクターと性格が合わず口論になったり、学校で生徒のいじめがおこるなど、小さなトラブルが彼女に降りかかり…というストーリー。

日本では東京国際映画祭とかで公開されただけで、単館上映もされてない模様。たくさん受賞しているのになんで?と思うだろうが、私はこれを公開して客が入るとは思えず、本作に関しては、日本の配給会社の判断が正しいと感じる。マイク・リー監督の『ヴェラ・ドレイク』の後の作品で、ちょっと期待していんだけどな…。

イギリス映画だが、フランス映画的なノリで始まる。冒頭はイギリス版『アメリ』みたいな感じなのかな…と思って観ていた。たしかに、ストーリー的に何も大きな事件がおきなくて、小さな変化とそれにまつわる人の心の変化みたいなものを観る作品ではある。

でも、主人公のキャラクターに、ものすごい違和感を感じる。基本的に躁状態で、思ったことをすべて口に出すかのように、聞かれもしないことをペラペラと話し続ける。初対面の店員にもベラベラ。同僚にもベラベラ。沈黙が怖くて仕方が無いのか、相手に何かを考えさせることがイヤなのか、とにかくベラベラ。それも、キンキンと大声で。あまりにも強烈すぎて、軽く引くレベル。
車の免許を取ろうとしたり、フラメンコ教室に通ったり、トランポリンを始めたり、興味が湧いたことは何でもやってみようという人なのかもしれないが、しっかり取り組んでいるのならまだしも、それらの現場でもケタケタ、ニヤニヤと、ふざけっぱなし。
これが繰り返されるので、途中から周囲を馬鹿にしているんじゃないかと思えてきて、不快にすらなってくる。

で、その躁病患者モドキが、なんと小学校の教師だという。子供に対してもそんな調子なのか?と思ったら、教師として勤務しているときはいたって普通。なんでや。明らかに表面的な違いがあるので、その両天秤には支点があるはずで、その支点の部分こそ彼女の行動を決定している真の何かなんだろうと注視していた。しかし、最後までそれはわからなかった。

自動車教官のおっさんはブチ切れつつも、彼女に惹かれていった(んだと思う)。これが可愛げのあるおっさんなら、共感して応援したくなるのだが、この人の感情の表出の仕方も異常で、何が何やら。おまけにストーカーまがいの行動をとり始める始末。
さらに混乱状態にさせるのが、ポピーが自動車教官に自分はレズビアンであると言ったこと。あれはなんだったのか。実際にレズビアンだという明確な描写はない。あれだけベラベラしゃべるくせにウソを作り理由はなんだ?好意があるような気がしたからブロックした?そんな勘の良さがあるように見えない。

もしかすると、彼女の生き方を現代女性の自由の体現とでも言いたいのだろうか。途中で、妊婦の友人がヒステリー状態になって、周囲に噛み付くシーンがある。そんな、子供を作ったり家族を持ったり、そんな価値観に縛られるなんてみっともないことを言っているのだろうか。
私には、ポピーという人間が、うらやましい生き方をしているとは微塵も思えないし、楽しそうだとも思えない。いや、本人も苦しいことはわかっているけど、そうせざるを得ない…、そうせざるを得ない自分を素直に受け止めているんだ…と。仮にそういうことが言いたいなら、彼女の苦しさの根源(上記した“支点”みたいなもの)にもっとフォーカスを当てるべきではなかろうか。
何が、西洋人の琴線にそこまで触れたのか。すごく不思議。むしろ、日本人には、空気の読めない人、コミュニケーションに難のある人にしか見えない。
これは、文化比較論の教材にしたいくらい、謎作品。
#何を言いたいのかわからん内容を、それなりにまとめりゃ、ヨーロッパじゃ賞が獲れるんかね。

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image2100.png公開年:1966年
公開国:アメリカ
時 間:180分
監 督:ジョン・フランケンハイマー
出 演:ジェームズ・ガーナー、イヴ・モンタン、三船敏郎、エヴァ・マリー・セイント、ブライアン・ベッドフォード、アントニオ・サバト、ジェシカ・ウォルター、フランソワーズ・アルディ、レイチェル・ケンプソン、ジュヌヴィエーヴ・パージュ、アドルフォ・チェリ、クロード・ドーファン、ドナル・オブライエン 他
受 賞:【1966年/第39回アカデミー賞】音響効果賞(Gordon Daniel)、音響賞(Franklin E.Milton)、編集賞(Fredric Steinkamp、Henry Berman、Stewart Linder、Frank Santillo)
コピー:最大のレース! 最高のドラマ!

F1レースのモンテカルログランプリで、大事故が発生。ジョーダン・BRMチームのアメリカ人レーサーであるアロンは、車体の故障により同チームのイギリス人レーサーのストッダードにコースを譲る指示が出されていたが、抜き去り際に接触してしまう。アロンの車体は海に投げ出されるも軽傷。しかしスコットは壁に激突して重傷を追ってしまう。アロンは事故の責任を追及されチームから解雇されてしまう。再起不能と思われた怪我を負ったストッダードだったが、かねてより夫が命懸けのレースに参加していることを良しとしていなかった妻パットが去ってしまい、さらに心に傷を負ってしまう。一方、そのレースで優勝したサルティは、フェラーリの創立者の娘を妻にしていたが、夫婦生活は破綻しており、パーティで知り合った貴社のルイーズに心を奪われていた。解雇されたアロンは、馴れない記者に転進したがまったく勝手が掴めない。そんな彼にチームヤムラの矢村社長が手を差し伸べ、ドライバーとして迎えるのだった。そんなアロンの元に、ストッダードの元を去ったパットが近寄っていく。そんなことも露知らず、傷心のストッダードは、再起を目指しつらいトレーニングを積んでいくのだった…というストーリー。

いきなり内容と関係ない話で申し訳ないが、長い映画の途中でインターミッションがはさまれるのは判る。でも、冒頭にOVERTUREがある意味はわからん。なんでや?
(閑話休題)

外人さんの顔がイマイチ区別が付かなくて、ロートルなドライバーー二人の区別が付かなくなることがしばしば。まあ、だんだん見分けが付いてくるけど。

ドライバーなんかになるやつは想像力の足りない奴だ…みたいなセリフで始まる。ストッダードのな内なる声なんだけど、これが作品全体の雰囲気をうまく表現しており、観客の興味をサっと掴んでいる。うまい。先日の『のるかそるか』も、アドレナリンに翻弄さた男の話だが、こっちのほうが何百万倍も共感できる。

今なら、カメラも小型化しているし、この手の撮影は楽かもしれないが、当時のカメラの大きさを考えると、相当苦労したと思う。特に、雨中のレースのシーン。光量の問題あるだろうし、かなり苦労したと思う。本作の収録時間が長いのは、レースの様子を丹念に観せているためなのだが、観るに値するカットのオンパレード。完全なドライバー目線じゃないってのが、逆に臨場感と恐怖感のアップに繋がっている。私は、まったくモータースポーツに興味が無いのだが、純粋に愉しめた。

一番興味深かった演出は、ラストレースの手前。各々のブレスレットに名前を血液型が書いてあるのをアップにして、血を見る展開になることを示唆したりして、メインの4人のドライバー全員に死亡フラグを立てる。全員が死ぬわきゃないんで、いったい誰が死ぬんだ?という、両方の意味でのデッドレースを観せる。ありそうで無い演出だと思う。

三船敏郎演じる矢村社長については、ノーコメント。決して悪くはないが、特筆することもない。ホンダがモデルなんだろうけど、そこにメーカー優勝させるというシナリオを許すフェラーリの太っ腹よ。
#フェラーリとグッドイヤーのロゴばかり出てくるのは食傷だが。
確かに長すぎだが、それに耐えられるだけのおかずは揃っている。フェラーリのもう一人のドライバーであるバルリーニがちょっと小物でバランスが悪かったが、こいつまで濃いエピソードにされたら、脂っこすぎたから結果オーライだな。

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image2098.png公開年:2010年
公開国:日本
時 間:100分
監 督:宇恵和昭
出 演:井上真央、ジョナサン・シェア、国仲涼子、戸田菜穂、國村隼、大竹しのぶ、入江雅人、川岡大次郎、坂東工、パトリック・ハーラン、ダンテ・カーヴァー、ジェームズ・JJ・デ・バラード、ガウ 他
コピー:ド肝抜かれるほど、幸せな日々。





漫画家を目指すイラストレータのさおりは、“漢字”の美しさに見せられて来日したアメリカ人のトニーと出会う。中学生の時に英語のテストで4点を取ったくらい英語が苦手なさおりと、日本語ペラペラのトニーは、普段は日本語でコミュニケーションをとっている。しかし言語オタクのトニーは、日本語への何気ない疑問をさおりにぶつけるが、普段何気なく使ってる語彙や言い回しについての質問に困惑する日々。そうこうしながら二人の交際は順調に進み、同棲生活をスタートさせるまでに。そんな中、姉の結婚式があり、そこで両親にトニーを紹介しようとするのだが…というストーリー。

よく、あの原作を、こういう形の映画にしようと思ったな…と。そしてこの企画を通した製作委員会の面々も、ある意味すごいな…と。
稲川素子事務所 大儲け的…な感じで、TVでよく見る外国人タレントがいっぱいでるのだが、彼らに言わせている台詞が、日本人を馬鹿にしたものばっかりで、この映画の製作側は、日本に来ている外国人は、日本人を馬鹿にしている奴らばっかりですよ!と啓蒙したいのか。それとも外国人を姿を借りて、日本を馬鹿にしたいのかどっちかなんだろうね。

父の死、漫画家としてのプレッシャー、外国人夫のすれ違い…何、このコレジャナイ感。原作マンガの根本である、異文化の差みたいなものに、全然フォーカスが当たってないし。これは、あの原作をモチーフにした別作品なんだね。映画じゃなくて、『あたしんち』的なアニメにしておけば楽しめたんじゃないのかと思うのよ。こうするんなら、別モノだ…とわかるように、タイトルを変化させるべきだったと思う。“ダーリンは外国人”は副題にして別のタイトルをつけるとかね。
劇場に足を運んだ人って、少なからず、原作を読んでおもしろいと思った人たちだと思うんだ…。そういう人たちは、これに1800円払った自分に怒りが湧かなかったのかな?

実名だけど、トニーのキャラクターも現実とは雲泥の差。実物のトニーは、この映画公開の前後に、ちょくちょくTVに出ていたけど、出なくなった。マンガの通り、気難しいおっさんで、TVの中の彼は感じの悪いおっさんに映っていた。実際、かなり面倒くさい人。一昔前にニュースになった小樽の銭湯でロシア人が大暴れして出入り禁止になった件で、その後入浴を拒否された外国人が人種差別だーって裁判をおこした連中の資金援助をしていたのが、このトニー。別にそれが人格権の侵害だということに異論はないけど、外国人お断りの浴場を狙ってトラブルをおこしにいったり、やり方かが醜い。はっきりいってチンピラまがい。結局、この裁判で一人100万くらいの賠償金を得ている(と、ウィキペディアに書いてあった)。元は、不良外人の乱行にはじまっていることであり、たかがだ銭湯の従業員が外国語でコミュニケーションを取れるわけもなく、相当辟易していたのは間違いない。本来は商売なのだがらウェルカムなのに、こうせざるを得ないというのは、相当のこと。その経緯を無視して、裁判を起こすなんて、外国人と付き合うのがイヤになる事件だった。
#日々の労働で忙殺されている従業員に、言葉の通じない外国人をどう扱えというのか…、うんざりしてくる。暮らしにくかったら、お互い歩み寄るようにすればいいのに、こういう仕掛け方をしてくる人間は大嫌いだ。トラブルがおこったら電話対応してくれる日本在住の外国人組織をつくるとか、お互いの協力の仕方はあると思うんだよ。これだから訴訟馬鹿のアメリカ人は…。そんなやり方じゃ差別はなくならないよね。
まあ、トニーは閣僚の靖国神社参拝に反対している人らしく、このことからもどういう思考の持ち主かわかるわな。まあ、主張は自由ですわ。
(閑話休題)
映画自体は、感想を述べるまでもない内容。最後は、もう、勝手にやってろ…って感じの少女マンガ。國村隼と大竹しのぶがいなかったら、映画の体をなしていなかったかも。

言語オタクのトニーは、“全然”の後は別に否定形…間違ってますよね…っていってるけど、別に否定形でも間違っていないと思うけど…。シナリオ書くならちょっと調べなよ…と思う。とにかく言語ネタがもっと前面に出ると思っていたに、これじゃあなぁ。

駄作だと思う(スパっと)。
#ああ、書泉グランデ 懐かし…。

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image2102.png公開年:1964年
公開国:日本
時 間:99分
監 督:大川博
出 演:大川橋蔵、内田良平、河原崎長一郎、藤純子、大友柳太朗、立川さゆり、西村晃、中村竹弥、木村功、千葉信男、博多淡海 他





 

新撰組は入隊志望者の選抜試験を行うが、その中の一人・江波三郎は、試験とは名ばかりの血みどろの殺し合いを見せられ、恐怖のあまり嘔吐してしまう。その様子を新撰組の隊士たちから馬鹿にされた江波は、悔しさ紛れに切腹を試み昏倒してしまう。しかし、その気概を買われて見習い入隊を許されることに。剣術の腕はイマイチな江波は、厳しい隊規と訓練に苦しんだが、やがて正式に入隊を許され、沖田隊長の率いる一番隊に配属になる。そんな中、江波を含む新入隊士5人は、監察部に呼ばれ、この中に坂本竜馬、中岡慎太郎に内通する者がいると告げられ、その一人を炙り出せと命じられる。互いに顔を見合わせる5人だったが、やがて一人の男・相原が短刀を振りかざして暴れ始める。相原は処刑されることになったが、近藤勇は首を刎ねる役に江波を指名する。人を斬ったことすらない江波は、震える腕で相原の首を斬るがことごとく急所をはずれ、凄惨な現場となってしまう。しかし、江波はそれをきっかけに、処刑役を進んで申し出るようになり…というストーリー。

宣伝映像には、盛んにテロリズムの文字が躍る。テロリズム??新撰組は反幕勢力を取り締まる警察であり、保守側。暴力装置ではあるがテロリストではなかろう…と思ってみていると、新撰組を赤軍なんかの過激派組織に見立てている節が。新撰組にセクト化→内ゲバ→自滅…という流れを演じさせている模様。まあ、時代が時代だけに、当時の観客には腑に落ちるものがあったんだろう。
さりげなく、成人映画にしていされているのだが、別に、今観て特別グロい表現があるわけではない。

沖田総司を演じているのが河原崎長一郎というのには、驚き。すぐには気づかない。よくバラエティ番組で沖田総司って実は不細工…っていうネタはよくあるんだけど、月代の形とか写真のとおりで雰囲気も近くて、でも少女マンガみたいな儚さじゃなくて、きっちりと武人だけど病んでいる…っていう感じがうまく出ている。とにかく、画の中で一番に映える容姿。

入団試験のギャラリー、いくらなんでも近すぎるだろう、せめて庭でやれよ…とか変な描写はあるのだが、とにかく新撰組を狂気の集団として描こうとしているので、押し切られる。
タイトルの的外れ感もあるのだが、白黒作品であることを途中から忘れるくらい、地味にうまくできたシナリオだと思う。
(以下ネタバレ)

なんで、あんなヘタレ野郎が入団できたのか…とか、キャラに似合わず出世を望むのか…とか、正直、そういうリベンジ話だとは思いもよらず。元々臆病な江波は、必死に新撰組に馴れようとがんばるが、その弱い部分が宿舎の女中(藤純子)の琴線にふれ、やがて恋仲に。これもオチのカウンターバランスになっている。そう考えると、西村晃演じる土方歳三の悪役臭も、伏線になっているわけで、なかなか巧みなシナリオである。さらに、江波をけしかけたのが坂本竜馬側だってことで、時代に翻弄された虚無感まで漂う。

唯一消化しきれなかったのは、牢に閉じ込められている隊士のくだり。有能な隊士だたのに女狂いが原因で梅毒を貰い狂ってしまった人なんだが、感染を斬られずに監禁されている設定。彼は何の暗喩なのか。ここだけは、わからんかった。
あとは衆道のくだりもか。それを幹部に近づくための手段として利用したか否か、はっきり描けばよかったと思う。

誰にでもお薦めできるジャンルの作品ではないけれど、こんな見世物小屋みたいなタイトルがふさわしい作品では決して無い。良作だと思う。

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image2099.png公開年:1989年
公開国:アメリカ
時 間:86分
監 督:ジョー・ピトカ
出 演:リチャード・ドレイファス、テリー・ガー、デヴィッド・ヨハンセン、アレン・ガーフィールド、ジェニファー・ティリー、ロビー・コルトレーン、リチャード・ディミトリ、リチャード・エドソン、トニー・ロンゴ、ミシェル・フィリップス、シンシア・ニクソン、ジョン・ローゼリアス、デヴィッド・シャラム、ラルフ・シーモア、メアリー・ウォロノフ、ジョセフ・ウォルシュ 他
コピー:みがけ直感!目ざせ一発!!

タクシー運転手トロッターは、あまりの競馬狂いのせいで夫婦中が最悪に。次に賭け事をしたら離婚だといわれるまでに。しかし、客の会話を盗聴するのが趣味の同僚ドライバー・ルーにーから、とある客が土曜日のレースで、“チャリティー”という名前の馬が1着になると話していたことを聞いて、競馬場へ。トロッターは、チャリティーに50ドル賭けるが、そんなガセネタかもしれない情報に乗っかる彼を、ギャンブル仲間は嘲笑する。しかし、見事チャリティーは一着になって700ドルの儲けに。トロッターは律儀に、チャリティーの調教師にお礼をいいに行き、馬鹿正直に盗聴テープも渡してしまうと、今度は第3レースの勝ち馬を教えてくれた。トロッターは素直に、設けた700ドルをすべて賭けるのだったが、果たしてその情報は真実なのか…というストーリー。

別に教訓めいたものがあるわけではなく、ギャンブル凶の男が、「なんか俺、今日ツイてるかも!」と、ドキドキしながら馬券を買う一日を描いた作品。
ギャンブルに対しては冷めた感情しかない私は、それがどうした…と。周囲に競馬好きな人間がいたのでよく判るが、自分の誕生日のゴロあわせで馬券かったり、その時におこった出来事に番号を絡めてみたりとかする。でも、それ、何が面白いのか…。
唯一おもしろかったのは、運に見放されたような人間に、次に買う馬券を聞いて廻って、それ以外を買うっていうところだが、別にギャンブラーの愚かさを揶揄している感じではない。

古い作品なのでネタバレしてもいいと思うが、一切、破滅することなく、ハラハラさせるだけで終了する。大抵は、調子に乗った主人公が最後に大負けしてしまい、お金なんかよりも大切なものが人生にはある…なんていう人生訓的な終わり方をするものだが、それが一切ない。競馬場の客みんなが、夢というか勇気をもって全賭けした男を称えておしまい。

ギャンブルにハマる人は、自分の金が一瞬で消失するか大儲けするか!という運命を他者に委ねるピンチ状態で生じるアドレナリンの虜になっているだけ。要するに彼らはジャンキーである。ギャンブル好きの人は気分を害するかもしれないが、世間様にばれるかもしれない…と思いながらも快感を忘れることができず、借金してまで覚せい剤を打ち続ける人と、大差はないように私には思える。で、競馬場にいる人たちが全員それだとおもったら、気色悪く感じる(ジョッキークラブのいる人たちが、大当たりしたトロッターに罵声を浴びせるシーンは、アドレナリンを出し損ねた不満をぶつけているだけの、吐き気のするシーンだ)。
人間なんて所詮は快感原則に従って行動する生き物だ…といわれればその通りなのだが、程度というものがある。

まあ、色々、文句は言ったが、特筆すべき点こそないが、普通に楽しめるコメディであることは認める。
これが、ギャンブル好きな人は評価する作品。自分の結婚相手に、結婚する前に観せて反応を確かめるリトマス試験紙的な作品かもしれない。ギャンブルに狂いそうな伴侶は御免だ!っていう人は、是非使ってみるといい。

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image2101.png公開年:1986年
公開国:アメリカ
時 間:111分
監 督:ウィラード・ハイク]
出 演:リー・トンプソン、ジェフリー・ジョーンズ、ティム・ロビンス、ポール・ギルフォイル、リチャード・エドソン、リズ・セイガル 他
受 賞:【1986年/第7回ラジー賞】ワースト作品賞、ワースト脚本賞(ウィラード・ハイク、グロリア・カッツ)、ワースト新人賞(アヒルの着ぐるみに入ってた6人の男女)、ワースト視覚効果賞(ILM)


遥か宇宙、アヒルのような容姿の生物が住む、ほぼ地球と同じ文化をもった星があった。そこに住むハワードは、今日も仕事を終えて帰宅してソファに据わっていると、突然発生した謎の光の渦に巻き込まれる。宇宙の彼方まで吸い込まれ、最終的に地球に落とされてしまう。自分に何が起こったのか判らないまま呆然としているハワードは、場末のバーで歌うバンドの女性ボーカル・ビバリーが、チンピラに襲われそうになっているところに遭遇し、救出に入る。はじめは、言葉を話すアヒルに驚くビバリーだったが、彼が知的な紳士だと知り親密に。ハワードが他の星から来たらしいと悟ったビバリーは、博物館に勤める友人のフィルに相談にいくが、ハワードを見て金儲けの種ししようとする始末。諦めて前向きに地球で暮らすことを考え職に就くハワードだったが、それもうまくいかず。途方に暮れるハワードのところに、フィルがジェニングス博士を連れてやってくる。どうやら、ハワードは博士の実験の失敗により地球に連れてこられたらしい。早速、博士の実験室に向かって、自分の星に帰ろうとするハワードだったのだが…というストーリー。

冒頭から、わ~~っ!ってとある星から地球に引っ張られていく主人公。この描写で、陳腐すぎてガッカリしちゃう。この時点でどうせくだらない内容なんだろうな…と、四分の一は脱落すること必死。

まず、登場するアヒル顔の生物がかわいくないのが致命的。特撮のコンセプトとして着ぐるみにしたかったのは判る。顔の表情をつける機能を持たせるために、頭が大きくなるのも判る。構造との兼ね合いでデザインに制限があったのも判る。でも頭と体のバランスも、顔の各パーツのバランスも気持ち悪い。ゆるキャラみたいなカワイさを求めているわけじゃないけれど、最後まで気持ち悪いままで馴れることはない。

内容とは無関係だが、吹き替え音声がつぎはぎ。TV放映の部分だけ吹き替え音声があって、残りは原音というありがちなパターンだが、けっこう大事な部分がカットされていたことが判る。TV放送だと、奪ったギャラをネコババしちゃってることになるぞ(笑)。それはそれとして、子供向けなんだし、吹き替え音声が無い部分を補うことが不可能なら、カットバージョンで再生されるメニューもつけるべき(この手の吹き替えが抜けてるやつはみんなそうしろ)。
#あ、子供向けといったが、微妙に性的な描写も多くて、子供向けとはいえないかも。

バタバタしたまま、無理やり盛り上げるのだが、レストランのシーンがピーク。でも、このレストランシーンがなかなかの珍シーン。
なぜか店員は日本国旗(軍艦旗)の鉢巻をしているのだが、メニューも内装も日本っぽさ一切皆無でコンセプトが一切不明。シェフは中華包丁もってるし。まあ、とにかく、日本を馬鹿にしたいことだけは伝わった(笑)。

目玉焼きを出されたハワードが共食いだ"と憤慨。なんでタマゴを喰うと共食いなのか。別種のタマゴだろ。私たちが牛肉や豚肉を喰ったからといって共食いになるか?むしろ、そこは共食いを否定するんじゃなくて、“幼い”タマゴを喰うという好意の野蛮性を主張すべき。
唯一、まともな伏線の回収は、昔、音楽で身を立てようとしていたっていう設定が、ラストシーンで生きているところ。
これら浅い描写でわかるとおり、シナリオの作り込みが弱い作品(と、思ったのか、このシーンもTではカットされてるけど)。

その後、無理やり、宇宙生物との戦いになる持ち込むが、バトル自体に工夫はなく、あとは尻すぼみ。特に、ライトプレーンのくだりは、大半の観客の集中力は途切れているだろう。まあ、ラジー賞の授与が妥当と思える作品。
#逆の設定(人間が他の惑星に運ばれるお話)で、USJのアトラクションにでもすればおもしろいかも。

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image2086.png公開年:2008年
公開国:フランス
時 間:128分
監 督:ローラン・カンテ
出 演:フランソワ・ベゴドー、ナシム・アムラブ、ローラ・バケラー、シェリフ・ブナイジャ・ラシャディ、ジュリエット・デマーヌ、ダラ・ドゥコゥール、アルチュール・フォジェル、ダミアン・ゴメズ、ルイーズ・グランベール、ジャン=ミシェール・シモネ、アンヌ・ラングロワ、ジュリー・アテノール、チーフェイ・ホァン、ウェイ・ホァン、フランク・ケイタ、アンリエット・カサルアンダ、リュシー・ランドロヴィー、アガム・マレンボ・エメネ、ラバ・ナイト・ウフェラ、カルル・ナノール、エスメラルダ・ウェルタニ、ビュラク・オジルマズ、エヴァ・パラディゾ、ラシェル・レグリエ、アンジェリカ・サンシオ、サマンタ・スピロ、ブバカール・トゥレ、ジュスティーヌ・ウー 他
受 賞:【2008年/第61回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ローラン・カンテ)
【2008年/第24回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞(ローラン・カンテ)
【2008年/第34回セザール賞】脚色賞(ロバン・カンピヨ、フランソワ・ベゴドー、ローラン・カンテ)
コピー:笑って、怒って、ぶつかって生きる。教師フランソワと24人の生徒達。

移民が多く暮らすパリの下町20区。そこにある公立中学校に勤務する国語教師のフランソワは、性格な言語を理解させることこそ、子供たちの将来に重要であるという信念を持っている。新学期を向かえた彼が担任をするクラスは、様々な出身国を持つ24人の生徒が入り混じっていたが、始業のベルが始まっても、彼らは一向に席に着こうとしない。去年は素直だったクンパは反抗的な態度を取り教科書の朗読すら拒否、他の生徒も荒れた言葉遣いで次々とフランソワに反抗する。そんな中、フランソワは、生徒に自己紹介文を書かせるという課題を出すのだが、それが大きなトラブルを産むことになり…というストーリー。

フランスの教育制度は良くわからないが、日本の教師とは様子が違って、市民講座の講師みたいな印象。生徒もとても13歳、14歳には見えないし、話す内容も子供らしくない。日本だと、教師が手を出せないのを判っていて「殴ると先生クビになるんでしょ?」っていうノリだろうか、フランスの生徒はいちいち人種差別問題を持ち出すという、このわずらわしさよ。

はっきりいって、移民政策の失敗のツケが末端の教育現場に押し付けられているだけといってよい。その点に関して同情したいところなのだが、何故か知らないが教師たちはそこについて不満を言いはしない。言っても仕方がないということなのかもしれないが、フランス教師の頭の中は、コスモポリタン志向みたいのがあって、他民族であることこそ理想と思っている節がある。
しかし、生徒の中には、出身国がアフリカであってもフランス人として生きる覚悟が出来ている者もいるが、ほとんどが出身国のアイデンティティを前面に出す者ばかり。諭そうとしても、所詮は子供。親の考え方もあるだろうし、意見を押し付けるようなことはできず、及び腰というかアンタッチャブルな印象。
そういう様子を観ていると、もう移民政策の失敗なんか描かれても知ったこっちゃねえって気持ちになってくるので、鋭い視点だなんて微塵も思えない。自作自演みたいなものじゃないか。

作為的なストーリーは少なくて、現実の教育現場を冷静に描いており、ドキュメンタリー的な感じに仕上がっている。ただ、生徒の評価や処罰をする現場に生徒代表を参加させるとか、退学させるか否かを教師と他の保護者代表で投票で決めるとか、なんか民主主義の地平が違う気がする。でも、決してフランスの方が進んでいるとは思えないんだな、これが。

この手の作品で、校長が悪者になるパターンが多い。本作の校長も、キャラクター的には極めて事務的で感情が薄く嫌われ者になりそうな感じなのだが、このカオス状態の学校において、極めて冷静に正しい判断を淡々を下す、唯一まともな人間として描かれる。でも人望があるわけではない。この校長こそ、フランスの教育界を象徴しているように見える。

教室で巻き起こる色々な問題は、悪くいえばウヤムヤに解決していく。いや、解決などしていなくて、生徒たちがおかしな行動ととるのは、ホルモンバランスの異常で、それが過ぎてしまったら、おとなしくなるものだよ…といわんばかりの演出。

教育教材としては良いな…とは思うが、これの何がパルム・ドールに値するのか?よくわからん。

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image2090.png公開年:2011年
公開国:ロシア
時 間:141分
監 督:アレクサンドル・ソクーロフ
出 演:ヨハネス・ツァイラー、アントン・アダシンスキー、イゾルダ・ディシャウク、ゲオルク・フリードリヒ、ハンナ・シグラ 他
受 賞:【2011年/第68回ヴェネチア国際映画祭】金獅子賞(アレクサンドル・ソクーロフ)
コピー:人生は壮大なミステリー


 

19世紀初頭。神秘的な森に囲まれたドイツの町。学者のファウストは、魂の存在を突き止めるために、死体の解剖を繰り返すなど、研究に邁進していた。しかし、とうとう研究費が底をついてしまう。金の無心のために、ファウストは父の診療所を訪れるが、満足に代金を払えないような貧しい患者に対しても診察を行う父が、金を持っているはずもなく、追い出されてしまう。途方に暮れるファウストが町を彷徨っていると、人々から“悪魔”と称される高利貸マウリツィウスの家に辿り着く。ファウストは指輪を担保に金を借りようとするが断られてしまう。しかし、マウリツィウスは別の形では力になるという謎の言葉を残す。ファウストが帰宅すると、なぜか正装したマウリツィウスが現れ、部屋にあった毒を飲み干してしまう。しかし彼は死なない。その不思議な現象に興味を抱いたファウストは、彼について町へ繰り出していく…というストーリー。

元々、とても二時間そこそこでまとめられるような長さの原作ではないし、本作の冒頭で“原作を自由に翻案”としているように、相当なアレンジを加えている。
#まあ、私、手塚マンガの『ファウスト』くらいしか良く知らないんだけどね。

悪魔メフィスト役は、マウリツィウスという高利貸しの姿で登場する。悪魔の風貌ではなくあくまで人として存在。不思議な行動や容姿なのだが、それでもかろうじて人間の範疇に見える。ファウストに彼が悪魔であることをはっきりと認識させていないところが、一番の翻案かな…と思ったが、壁からワインを出したり、異世界へ放り込んだり、やっぱり悪魔だった。私は、最初から最後まで、人間か悪魔か判然とさせない演出を貫いてほしかった(異世界の描写も薬物によるトリップだという解釈もできる…という余地を残すべきだったと思う)。

結局はファウスト第一部の流れ通りに、若い娘に恋して、学者としての探求心なんぞそっちのけになってしまう姿が描かれる(兄を殺す順番が原作とは異なる)。哲学や天文学などという小難しい事柄なんて、結局は実際の世界において役になんか立たないということなのだが、これは、人間の知性=神の業、本能=悪魔、という構図になっている。

ただ、娘は投獄されているという大事な流れも、さらっとセリフで出てくるだけだし、第二部に出てくるホムンクルスをまったく無意味に登場させたりと、後半の演出は締りが無いといわざるを得ない。そして、実際にものすごく眠くなる。

もしかすると原作の『ファウスト』に造詣の深い人ならば、ここまでエッセンスを抽出してよくぞまとめたと激賞するのかもしれないが、私には、ヴェネチアが金獅子賞を与えるほどのレベルとは到底思えない。4:3映像でレトロ感じを出しために角を丸くした画像など、田舎臭い演出だと思う(中の画像がパキパキに綺麗なんだし)。

#ダサいコピー…

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image2059.png公開年:1993年
公開国:イギリス、フランス
時 間:141分
監 督:ベルナルド・ベルトルッチ
出 演:アレックス・ヴィーゼンダンガー、キアヌ・リーヴス、ブリジット・フォンダ、クリス・アイザック、イン・ルオチェン、ラジュ・ラル、グラシュマ・マカール・シングー 他
ノミネート:【1994年/第15回ラジー賞】ワースト新人賞(クリス・アイザック)



シアトルに住む9歳のジェシー・コンラッドは、父ディーンと母リサとの三人暮らし。ある日、数人のラマ僧が訪れる。その一人ラマ・ノルブは、ブッダの魂を受け継ぐと言われた尊師ラマ・ドルジェが9年前に死んだこと、そしてジェシーがその生まれ変わりの可能性があることを告げる。荒唐無稽な話だと思いつつも、リサは息子にノルブから贈られたシッダールタ王子の物語を読んで聞かせる。その後ノルブは、ジェシーが他の2人の候補者と共にラマ・ドルジェの生まれ変わりか否かの試験を受けるために、ブータンに赴かねばならないと両親に説明する。はじめは拒否する両親だったが、運命はジェシーをブータンへと呼び寄せ、父と共に未知のチベットに向かうことになる…というストーリー。

チベット仏教ということで、上座部仏教のお話ばかりかと思ったがそんなことはなく、大乗でも上座部でも共通の仏教概念や、共通で伝えられているシッダルダの逸話が描かれている。それこそ、手塚治虫の『ブッダ』で語られている、シッダルダーの生涯のそれが、キアヌ・リーヴスによって演じられている。
それと、欧米人にとっても我々日本人にとっても縁の薄いチベット仏教の儀式が、交互に描かれる構成である。

この作品は、ある程度、仏教に造詣がないとわからないし、ちょっと年齢を重ねないとピンとこない部分が多い作品。実は劇場で観ているのだが、当時は「なんじゃこりゃ。つまんね。」状態だった。でも、今観ると、それなりに味わいがある。

仏陀とはシッダルダのことではなく、悟りを開いた人のことを指す。仏性に目覚めた人、つまり仏陀になった人は、輪廻転生の輪から外れて、二度と生まれてくることはない。だから、尊師ラマ・ドルジェがブッダの魂を受け継ぐっていっても、生まれ変わりではなく、精神を受け継ぐとかそういう意味でないとおかしい。

アメリカにて、ノルブ僧が、ジェシーの父にあることを説く。お茶の入ったカップを割って、カップは割れてしまってカップじゃなくなっても、お茶はお茶だと。彼はこれで肉体と魂の関係を理解させ、ひいては輪廻転生を説明したいらしいが、これはあまりにもかんがえが浅いといわざるを得ない。
ソフトウェアとハードウェアのことを突き詰めて考えれば、その理屈は成立しない。たとえば、マッチ棒で“A”の字形をつくったとしよう。私はあなたに“A”を持ってきてという。するとあなたは“A”の形を崩さずにマッチ棒をもってくる。でも私は「マッチはいらない、“A”を持って来て」という。さてあなたはどうするか。別の何かで“A”を形作っても同じこと。何かを媒体にしないと“A”を持ってくることはできない。でも、マッチを崩して持ってきても持ってきた物の重さは変わらないのに“A”を持ってきたことにならない。実体はなくても“A”は紛れも無くそこにある。逆の言い方をすれば、“A”の存在においてAとマッチ棒は不可分なのだ。
つまり、ソフトウェアとハードウェアは別々の物と考えられがちだが、一体。ひいては、魂と肉体は別けようがないものなのだ。これは、プラトンのイデアの概念と同じである。

でも、それって輪廻転生の考えと矛盾しないか?そう、単に霊魂が肉体を離れて転生するのだ…という解釈では矛盾する。本当の輪廻転生とはもっと高次の思考だということ(ここで説明してるとキリがないのでやめるけど)。作中のノルブ僧の説明ではギリシア哲学にも及ばないということで、父親が腑に落ちないのもあたりまえである。
まあ、形而上的な解釈が面倒な人は、輪廻転生を信じたほうが、神義論的にも納得できて前向きな生き方ができる場合が多い、つまり方便だという解釈でもいいと思う。

(閑話休題)
生まれ変わりを見つけて、次の指導者にするという考え方自体が、ものすごいクレイジーに映るかもしれないが、実は合理的。どんなに次の指導者になる資格条件を定めたとしても、絶対に争いは起こる。仏性というのはどの人間にもその芽はあるので、極論からいえば誰でも僧侶の長になる資格はある。それなら、生まれ代わりという否定しようのない条件で“子供の段階で”決めてしまって、あとは育てればいいのである。絶対に揉め事はおこらない。

で、3人合格したのに、ジェシーと女の子はなんで普通に家に帰ってるわけ?特に説明されないので、いまいちわからん。外人と女性は体よく除いただけに見えちゃうのが、なんか気持ち悪い。
#坂本龍一の音楽は、あまり坂本龍一っぽさが前面に出ていなくて、このくらいがちょうどいい。

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image1089.png公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:88分
監 督:ロブ・ミンコフ
出 演:エディ・マーフィ、ジェニファー・ティリー、テレンス・スタンプ、ナサニエル・パーカー、マーシャ・トマソン 他
コピー:この館には、誰も知らない秘密があった──




夫婦で不動産業を営むジム・エヴァースは、家族を愛してはいるものの、ついつい仕事をやりすぎてしまい、妻サラや子供のメーガンとマイケルから白い目で見られている。さすがにまずいとおもったジムは、次の週末に、みんなで家族旅行に行こうと提案。みんな大喜び。しかし、旅行前日、妻サラのもとへ、大昔に建てられた大豪邸を処分したいという電話が入る。家族旅行のためにサラは断ろうとしたのだが、ジムは電話を奪って勝手に了承。旅行の途中でちょっと寄るだけと、サラと子供たちを言いくるめて屋敷に向かう。しかし、いざ屋敷に入ると、途端に周囲は大嵐に。仕方なく屋敷の主であるグレイシーの勧めで、一晩をその屋敷で過ごすことにするのだったが…というストーリー。

春も近づいてきて、久々にディズニーリゾートにでもいきたいなぁ…と思い、何となく鑑賞。ちなみに、ディズニーランドのアトラクションの内容は、屋敷に999人の幽霊がいて、訪れた客を1000人目に使用と狙っているという内容で(なんで狙っているのかは不明だけど(笑))、本作のストーリーとは全然別物。
まあ、それはそれとして、ストーリーはシンプルで子供も理解できるだけでなく大人の鑑賞にも十分に堪えうるレベルだし、CGやセットの質も非常に高く、良い出来映えだと思う。蜘蛛嫌いの子供がそれを克服したり、反抗期の娘が家族とのコミュニケーションを増やしていくという内容は、実に教科書的だといえる。

じゃあこの作品が、名作ファンタジー&コメディーとして、観続けられるような作品かといわれると首を傾げたくなる。なぜならばエディ・マーフィがよろしくない、この一点に尽きる。そんなに悪いか?と聞かれれば、まあエディ・マーフィはエディ・マーフィを全うしているだけ…ということになるのだが…、でも、やっぱり彼が悪い。
マシンガントークでさぞやテンポのいい作品だろうと思いきや、不思議なことに90分にも満たない作品なのに、もっと長く感じてしまう。彼のしゃべくりが、ストーリーのテンポとマッチしておらず、かえって全体の流れを阻害しているからだと考える。
別に黒人俳優である理由は、ストーリー上まったくなくて、プロモーション上、名のある俳優を置きたかっただけだとは思う。ここはあえてコメディ初挑戦の役者を配すなどしたほうが、効果的だったと思う。

まあ、それ以上に感想はない(笑)。ディズニーランドに行く前に、子供の気分を盛り上げさせるために観る作品。

#水晶のマダム・リオッタのおみやげとか無いんだろうか。

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image2087.png公開年:1989年
公開国:イギリス、フランス
時 間:124分
監 督:ピーター・グリーナウェイ
出 演:リシャール・ボーランジェ、マイケル・ガンボン、ヘレン・ミレン、アラン・ハワード、ティム・ロス、シアラン・ハインズ、ゲイリー・オルセン 他
ノミネート:【1990年/第6回インディペンデント・スピリット賞】 外国映画賞(ピーター・グリーナウェイ)
コピー:欲望を召し上がれ。



大泥棒のアルバートは、レストラン"ル・オランデ"のオーナー。豪華な内装と一流の料理が売りのレストランだったが、グルメ気取りのアルバートは、毎夜手下や妻を引き連れて粗暴な振る舞いをして他の客に迷惑をかけたり、味もわからないくせに、料理の内容にケチをつけたりするので、フランス人シェフのリチャードはアルバートを嫌っていた。妻ジョージーナは、アルバートにうんざりしていたが、彼の残虐で偏執的な性格に恐れを抱いており、逃げ出すこともできずにいた。そんなある日、ジョージーナはレストランの常連である学者のマイケルと知り合う。お互い魅かれあった両者は、リチャードの手引きもあって、レストランの化粧室や厨房で逢引きを重ねるようになる。しかし、度々席を立つジョージーナの行動をアルバートは不審に思いはじめ…というストーリー。

全体を通して、あらゆる表現が不快なことは間違いない。悪人丸出しの泥棒アルバートが不快の根源であることは間違いないのだが、だからといって妻と愛人の逢引きが正しいと思えないし、その行動はちょっと変態じみていて、捉え方によってはこっちのほうが不快かもしれない。だから、それを援護するコックの行動にも、一切共感することはないのだが、妻と愛人がどうなるのか…という一点において、観続けられる。それこそ出歯亀根性で。
#“共感”といえば、アルバートは、一般人と感覚が違う人間であることが表現されている。性的に不具者といってよい状態であることを妻ジョージーナは告白しているし、おそらく“痛み”に対しても非常に鈍感(それゆえに粗暴な振る舞いをしていると見た)。

舞台はほぼ9割がたレストランの中。夜の営業ばかりだし、街で悪事が行われる時も夜なので、ほとんど薄暗い映像だけ。でも、セット、照明、美術にとことん気を使っており非常に豪奢。この豪奢な中に、卑しい人々が地虫のように這い回っているというコントラストが、目を惹く。

泥棒アルバートの矛先は、コックや妻だけに向けられるわけではなく、手下やレストランの他の従業員、はたままレストランの客にまで及ぶまさに全方位攻撃。中世の暴君を思わせるその行動から、原作はシェークスピアの歌劇で現代を舞台に脚色したんですよーっていわれたら信じちゃいそうな感じ(違うよ)。そう言われたら、ラストのエグいシーンも、思わず納得できなくなくもない。泥棒がオーナーの店で、そいつが毎日大暴れしているレストランの経営が成り立つわけがない。そんな不自然さを、豪腕でなぎ倒しているんだから、パワーのあるシナリオであることは間違いない。
マイケル・ガンボンの演技が、恐怖を感じさせるレベルにまで到達していることで、成立しているともいえる。ここが中途半端だったら、すべてが台無しになっていただろう。

(以下ネタバレ)
妻と愛人の欲望の顛末を軸に最後まで展開すると思いきや、アルバートの欲望の顛末にシフトしていく。これは意外だった。そして、まるで革命劇のように、すべての出演者によって反撃が始まる。最後の「人食い」のセリフだが、実際に食べたことだけでなく、これまでの彼の行動が周囲の人間を食って生きてきたようなものだという表現なわけだ。
ただ、堪忍袋の緒が切れるのが遅すぎやしないか?という思いが湧いてしまうのが、どうもね。

コックが彼らを支援する理由に、もう一枚深いものがあったらよかったのにな…とも思う。そこは残念。これじゃ、ただ仕事場を得るために、悪人が経営するレストランにしがみついてるだけってことになるんだもの。
#音楽がいいなあ…と思っていたら、マイケル・ナイマンだった。マイケル・ナイマンっぽさは薄いんだけどね。




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image2096.png公開年:2001年
公開国:アメリカ
時 間:102分
監 督:ゲイリー・フレダー
出 演:ゲイリー・シニーズ、マデリーン・ストー、ヴィンセント・ドノフリオ、トニー・シャルーブ、ティム・ギニー、リンゼイ・クローズ、ゲイリー・ドゥーダン 他
コピー:侵略者は捕獲し、複製する。




西暦2079年。地球は異星人ケンタウロスと戦争中で、青い空と豊かな大地の大半を失った人類はドームの中で生き延びていた。科学者スペンサーは異星人を撃退するための兵器開発に携わっており、軍極秘プロジェクトの議長との会談を控えていた。いつものように出勤すると、特殊部隊ESAのハサウェイ少佐が現れ、逮捕されてしまう。その理由は、本物のスペンサーは既に殺されており、今ここにいるスペンサーはケンタウロスが作ったクローンだという。さらに、体内にはウラン爆弾が仕掛けられており、標的である議長に近づくと爆破する仕組みなっていると。以前に捕まった同様のクローンから爆弾が取り出される映像を見たスペンサーは、このままでは処刑されてしまうと思い、一瞬の隙をついて脱出。自分が本物であることを証明するために、地下組織の人間と手を組み、とある場所を目指す…というストーリー。

宇宙人と交戦状態にある社会という設定なのだが、作中は宇宙人不在。これは、長けてた演出だと思う。

極めてSF的な設定から逃走劇へ。しかし、スペンサーは本物か否かという疑問、そして細胞レベルまで同じで、本人もコピーであることを知らなければ本人だろ?っていう、SFではお馴染みの視点が、人間のアイデンティティとは何なのかという哲学的な視点に昇華して、非常に味わい深い作品に仕上がっていると思う。
テンポもアクションもやりすぎの一歩手前で、好感が持てる。妻との一連にくだりは、伏線としても引っ掛けのネタとしてもウマかったと思う。

(以下、ちょっとだけネタバレ)
あの恣意的で高圧的ながら、どこか抜けているESAの少佐が最後まで悪役を通す。最後にコイツが破滅するんだろうな…と予測していたが、どんでん。そこに、本当の遺体があるんだから、そっちを抱きしめるべきだと思うんだが…なーんて思いつつも、「うーむ、角度を変えてきたな…」なんて考えていたら、さらにどんでん。やっぱり破滅。良く出来ている。
#ちょっと、『セブン』的な空気も漂う。
観客は弄ばれぎみになってしまうけど、騙されても満足。さすがディック原作。
観終わってから考えると、なんとなく爬虫類的な目のゲイリー・シニーズはいいキャスティングだったと思う。

「知っている人?」「そう信じたい」。要所要所でいい台詞がある。同じディック原作の『トータル・リコール』よりも良いデキだと個人的には思うのだが、世の評価はそうではない模様。いや、こっちのほうがウマいと思うなぁ。

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image2095.png公開年:2002年
公開国:イギリス
時 間:87分
監 督:ピーター・ヒューイット
出 演:ブルース・クック、ルパート・グリント、サイモン・キャロウ、スティーヴン・フライ、ポール・ジアマッティ、ネッド・ビーティ、セリア・イムリー、アダム・ゴドリー、ロバート・ハーディ、アナ・ポップルウェル、デル・シノット、キーラ・ナイトレイ 他
コピー:オナラが地球を救う。



小学生パトリック・スマッシュは、オナラが異常に出るという体質に悩んでいた。そのために父は家を出てしまい、母も姉もパトリックと距離を置いていた。学校では他の生徒からいじめられているだけでなく、教師からも目の敵にされている。しかし、学校に一人だけパトリックの味方がいた。それは、同じクラスのオタク系天才発明家アラン。彼は生まれつき鼻が利かず、パトリックのオナラの匂いが苦にならないのだ。アランはパトリックのためにガスが外に漏れない特殊装置“サンダーパンツ”を発明してくれるのだった…というストーリー。

イギリスって、何で、まず庶民が差別されて、その階級の中でさらに弱者が差別されるシチュエーションが“通常”なんだろうね。基本的に、弱者の階級とつくらないと社会を維持できない生物なのかも。そりゃ、植民地をつくるわな。日本が考える植民地と、彼らがやった植民地政策は微妙に違う。同じ人間として扱わないんだもん。
欧米人のレッテル貼り文化は異常。いまにやつら痛い目に遭うと思う。ユーロ圏は、ボーダーを失くすことで、かえって閉塞の一途に向かっている。製作側は意図していないと思うが、こんなコメディなのに、ヨーロッパの暗い未来が垣間見えてしまう、珍妙な作品。
そういう、文化的な土壌みたいなものがベースなので、笑いの地平も我々とは違う模様。はっきり言って微塵も笑う箇所がない。

笑いだけでなく、不可解な描写が盛りだくさん。
学校で何で私服なのかは不明(親からも虐待されているという表現?)。
胃が2つはいいけど、ゲップならわかるけどオナラってなんだよ。腸は一本なんだろ?二つの胃がまったく別のガスを生み出して、絶妙に混合しているということ?
“おしりで高音を奏でる”の意味が不明…。もう、自分の声以外で音を発するなら、楽器でいいじゃないか…。
逮捕される意味もわからんし。なんで社会が彼を執拗に追い詰めているのか意味が不明。
オナラを宇宙飛行士救出に生かそうというのは判る。でも、なんで、ラボに子供だけ集めているのか意味不明。
「あの高音じゃない?」何がどこから聞こえてるわけ?意味不明。
理不尽なシチュエーションをつくりたいなら、もっとうまくやればいいのに。『チャーリーとチョコレート工場』とは雲泥の差だ。

コメディなのに、悪ふざけがおもしろくないなぁ。意味不明を通り越して、不快の域。イギリス人ってコメディのセンスもイマイチだよなぁ。つまんなかったっす。微塵も笑えなかったす。
豆の料理とか出てくる料理は全部マズそう。本当にまともな食文化てないんだな…。メシのまずい国は笑いのセンスもマズいのかな。

一番不快だったのが、勇者の行動で、全員が改心するという展開。というか、それで水に流しちゃうという流れ、綺麗事がきらい。こういうコメディこそ、信賞必罰が大事。実際の世の中は、勧善懲悪がなされないから、せめて映画では勧善懲悪を…それが、映画やドラマの存在価値の一つだと思う。だから、本作のような、勧善懲悪のやみくもな放棄は、不快に感じる。そういうこと。

でも、この監督さん、コメディーとは無関係な部分はいい出来映えなんだよなぁ。自分が笑いに向いていないことに気付いたら、大成するかも。
#この賢い子の役、ハリー・ポッターのロンかよ。

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プロフィール
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クボタカユキ
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映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
自己紹介:
一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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