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image1654.png公開年:2009年 
公開国:フランス
時 間:110分
監 督:アンヌ・フォンテーヌ
出 演:オドレイ・トトゥ、ブノワ・ポールヴールド、アレッサンドロ・ニヴォラ、マリー・ジラン、エマニュエル・ドゥヴォス、レジス・ロワイエ、エティエンヌ・バルトロミュー、ヤン・デュファス、ファビアン・ベア、レシュ・レボヴィッチ、ジャン=イヴ・シャトゥレ、リサ・コーエン 他
受 賞:【2009年/第35回セザール賞】衣装デザイン賞(カトリーヌ・ルテリエ)
コピー:もし翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんなことでもしなさい

母親を亡くし、父親に見捨てられた孤児となったガブリエル・シャネルとその姉。昼間は仕立屋でお針子仕事、夜はキャバレーで“ココ”の愛称で歌手をして生計を立てていた。そのキャバレーで裕福な将校エティエンヌと出会い愛人関係いなると、お針子をやめ彼の屋敷で生活するようになる。上流階級の社交界にも顔出すようになるココだったが、次第に愛人としての扱いに不満を抱くようになり、同時にその頃から、彼女の中で裁縫の才能が芽生えはじめるのだった。そんな中、エティエンヌの友人であるイギリス人実業家ボーイ・カペルが現われ、ココと相思相愛となるのだが…というストーリー。

先日の『ココ・シャネル』とまったく同じお話といってよい(もちろん、フランス映画なのできちんとフランス語で、パリで英語を話すようなトンチキ状態ではない)。まあ、事実がベースなのだから当たり前なのだが、エピソード的にはなぞっているかのごとく同じ内容。ただし、登場人物の考え方や関係性など、目に見えない部分で相違が多々ある。これは、解釈の違いということだろうが、物語を毀損するような違いではなく大勢に影響はない。

『ココ・シャネル』が彼女の恋愛模様と並行して、デザイナーとしてどう開花していくのか?という両面にバランスよくスポットを当てていたのに対して、本作では、彼女の若きころの恋愛模様にのみを扱っており、デザイナーとしての活躍は、最後に駆け足で説明しているだけ。『ココ・シャネル』は伝記のような感じだったけど、本作はそういう風情はない。また、『ココ・シャネル』が、晩年のシャネルが若き頃を思い出すような編集をしているのに対して、本作では、幼年から時系列に話が進む。その点は、気が散らず集中できるので、本作のほうが好感が持てる。
セットや画質、編集の仕方など、技術的にも完全に本作のほうが上だし、ココ役も、細身で、自分という芯があるように見えるけれど、結局は男に翻弄されてしまう“グズッ”とした感じをオドレイ・トトゥが頃合良く表現していて、この点においても本作に軍配が上がると思う。

ただ、日陰の女としてしか扱わないエティエンヌと、他の金持ちの娘と結婚してしまうボーイの間でもてあそばれつつも、結婚という夢を捨てる姿にだけにスポットを当てるのをおもしろいと思うか否か。もう、ここは、好みの問題かな…と。

個人的な不満としては、もし恋愛の部分に多くスポットを当てたいのならば、後々、第二次世界大戦時にフランスがナチスに占領されたときに、ナチス親衛隊将校の愛人となり、その後、売国奴と罵られ亡命生活を余儀なくされた事実も語るべきだと私は思う(その影が彼女に影響を及ぼしていないなんていわせないぞ)。まあ、それを扱っちゃうと、力を持っている男に場当たり的に寄っていってるクソ女に見えちゃうので、シャネル側としてもほじくり返されたくない部分なんだろうけど。でも、ここを扱ったら、すごい作品になったと思うんだけどねぇ。

私が男性だからかもしれないが、両作を観てもココ・シャネルという“人間”自体に興味が沸くことがなかった。その生き方にロマンも、憧れも、切なさも感じない。アーチストとしての姿勢という意味では、『ココ・シャネル』に片鱗が見えるけれど、本作にいたってはその点も見えない。業績は大変なものだとは思うが、映画にするまでの人生か?そう思えて仕方が無い。ということで、特段、お薦めしない。




負けるな日本

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image1564.png公開年:2008年 
公開国:アメリカ、イタリア、フランス
時 間:138分
監 督:クリスチャン・デュゲイ
出 演:シャーリー・マクレーン、バルボラ・ボブローヴァ、マルコム・マクダウェル、サガモア・ステヴナン、オリヴィエ・シトリュク 他





1954年、パリ。15年のブランクから復帰を果たしたココだったが、その作品の古臭さに世間の評価は厳しかった。自分の店は今や多額の借金を重ね、そのブランドは譲渡される寸前に。そんな中彼女は、孤児からお針子になり、数々の恋愛を重ねながら、自分の帽子の店を持ち、今の地位に登りつめるまでを、思い出すのだった…というストーリー。

DVDに吹き替え音声が付いていれば気になることもなかったと思うが、原音がなぜか英語である。パリが舞台で伝記モノなのに、全員が英語を喋っている違和感といったらない。シャネルが英語で口げんかしながらパリの街を闊歩するなんて、滑稽極まりない。

成功者として名を馳せるのはわかっているので、どうのし上がっていくのか?っていうサクセスストーリーを予測していたけれど、どっぷりの恋愛劇だったので、好みからはかけ離れていた。老いてからのココをシャーリー・マクレーンが演じ、若き日をバルボラ・ボブローヴァが演じ、それを交互に繋ぐ編集。意図してかどうかわからないけれど、まるでCMにいくような古臭い場面繋ぎの編集が多々あって、興醒めする部分も。「ビーチへ行って!」と急がせてるくせに、自転車を下ろして走らせる意味が判らない…とか、変な演出も。

ファッションなんぞにはとことん疎い私は、ココ・シャネルについての予備知識がまったくなかったので、その点においてはけっこう新鮮に感じることができたかも。まったくデザインがを描かずに裁断・縫製しはじめるのにはびっくり。これを天賦の才と言わず何と言おうか。最近はファッションでも車でも、実用とは程遠いトンがったデザインばかり横行していて、自分が普段身に着けることを前提としている時代っていうのを感じられて、一周廻って逆に新鮮。そんな感じはある。

とはいえ、才能ある女性でも男の手を利用しなければのし上がっていけない時代だったのよ。女が生きていくってつらいわね…という捉え方だと、男目線ではどうにも共感しにくい(女性の自立が難しいのと同じように、男性だって必要以上に社会的な体裁を求めらているわけで、そんな恨み節を言われてもね…)。
また、晩年のエキセントリックで強引ともいえるアーティストっぷりと、その生い立ちがいまいちリンクしていない気もするし、どこで、そこまで割り切れる境地にまで到達したのか、描ききれていないようにも思える。いささか消化不良。

多分、女性と男性では、感じ方が大きく異なる作品かと(だって、「そりゃあなた結婚できないよ…」って思っちゃうもんなぁ)。間違いなく男の子向けではないので、そちらにはお薦めしない。女性がこれを観てどう思うのか、感想を聞きたい作品。

#栗のジャムってどんなんだ?




負けるな日本

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image1153.png公開年:2006年 
公開国:アメリカ
時 間:93分
監 督:クリス・ヌーナン
出 演:レニー・ゼルウィガー、ユアン・マクレガー、エミリー・ワトソン、ビル・パターソン、バーバラ・フリン、バーバラ・フリン 他
コピー:その恋が私を変え、私の絵が世界を変えた。
「ピーターラビット」の作者ビアトリクス・ポターの恋と波乱に満ちた半生を描く感動作



1902年のロンドン。世の中には、上流階級の女性が仕事を持つなど考えられなかった時代。裕福な家庭に育った32歳の独身女性ビアトリクス・ポターは、念願でたった、動物たちの物語を絵本として世に送り出たいと考えていたが、ピーターラビットを主人公にした物語の売り込みになんとか成功し出版されると、たちまちベストセラーとなる。そして、出版社一族の末弟で編集者のノーマンと恋に落ちるのだったが…というストーリー。

冒頭のピーターラビット達が描かれるシーンは、インクのにじみ具合や筆遣いに、目を奪われてしまい、一気に物語に引き込まれた。まさに映画のツカミとしては最高のデキである。

しかし、なんとツカミだけの映画だった。お薦めする気が皆目ないので、正直にはっきりいってしまう。もし観るかもしれないのに…と思う人は、以降読まないで結構。

本作には、コピーにあるような、波乱万丈はどこにもない。裕福な家庭のハイミス(死語か)が、出版した処女作が順調に売れで大金持ちになり、とうとう結婚しようとするが相手がたまたま死んでしまいました。悲しいわ。大金で郊外の農園を買って平穏な暮らしをしよう。本は売れてどんどんお金ははいってくるので、周りの農園もどんどん買っちゃいましょう。

それだけなんだけど。

当時の女性の生き方としてはレアケースだったのかもしれないけれど、この映画を観ている人は現在の価値観中で生きているわけで、好きなことをやって大金を得ているような人間に対して、共感を得るはずもなく。結婚の約束をした人が死んだといっても、至極清廉な間柄だったわけで、激しい情愛の末の悲恋に涙する…ということもあるはがなく。キャラクターがぴょこぴょこ動く様子は、たしかにかわいいけれど、所詮、トンガッた芸術家の感性を表現しただけのことで、さほどすばらしいとも思えず。トンガったといっても、ゴッホばりにぶっとんでいるわけでもなく。
それに、別に、その恋が彼女の何かを変えたようにも見えないし(本当にインチキコピーだと思う)。

小汚い感じの女性を演じさせたら天下一品になりつつあるレニー・ゼルウィガーだが、彼女じゃなかったら、もう、本作は映画として成立すらしていなかったような気がする。仮にピーター・ラビットが好きだったとしても、本作を観なければ損ということはないし、ましてや興味のない人にとっては、時間の無駄だったと感じるに違いない。教訓も感動もない、生きる糧にはなりえない作品。まったくお薦めしない。どういう意図で、コレを映画にしようと思ったのかすら、理解できない。

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image1121.png公開年:2003年 
公開国:イタリア、イギリス
時 間:116分
監 督:ファブリツィオ・コスタ
出 演:オリヴィア・ハッセー、ミハエル・メンドル、エミリー・ハミルトン、セバスチャーノ・ソマ、ラウラ・モランテ、イングリッド・ルビオ 他
コピー:それはどんな困難にも負けず、愛することをやめなかった一人の女性。




1946年カルカッタ。修道院内の女子校で教鞭をとるマザー・テレサは、ある日、“貧しい人々のために尽くしなさい”という神の声を聞く。自分の活動の場所は修道院の中ではなく貧しい群衆の中であると悟った彼女は、院外活動を開始。しかし、修道会に属しながら活動することに限界を感じ、新しい修道会(神の愛の宣教者会)の設立をし、親を失った子どもたちやハンセン病患者などのために、献身的に尽くす…というストーリー。

はじめに正直に告白しておくと、マザー・テレサという貧しい人に献身した人の存在は知っていたけれど、具体的にどのような活動をした人物なのかよく知らず。お恥ずかしい限りだが、カトリック信者でもないし、24時間テレビ的なものにあまりアンテナが向かない性分なもので。その活動場所がインドであることすら知らなかったくらいで、彼女の行動について、ああだこうだ言うのも憚られるところであるが、思うところを書くとする。

第二次大戦後の情勢、ましてやインドの状況を考えれば、無私の愛を発露とした彼女の行動について、とやかく指摘する気など毛頭おきない。もっとこうすればとか、それはおかしいとか、そういう指摘の意味はまったく無い。この世には「文句を言うなら自分でやればいい」と、他者の指摘に耳を傾けようとしない馬鹿な先人が多々いるのだが、彼女はこの台詞を言う権利のある人物である(問題があると思うなら、あなたの思うように行動すればよい…、それだけのことだものね。シンプル極まりない)。

ただ、後世の人間として(っていうほど後じゃないけど)考えなければいけないことはあると思うので、憚りながらも自論を書くことにする。
賞賛されるべき行動ではあるのだが、彼女たちの行動パターンですべてが解決するわけではない。変な例をだして申し訳ないが、彼女の行動はアインシュタインの理論でいうところの「特殊相対性理論」みたいなものである。あの状況とあの救うべき対象においては有効であるという意味で。
多くの人が気付いているだろうが、必ずしも“無償”がいい結果を生まないことは歴史が証明している。無償であることが普通になれば人は努力しなくなる。社会主義政策しかり、これまで行われてきたボランティア活動の結果しかり。よく言われるのは、お腹の好いた人には食べ物を与えるのではなく食べ物の取り方を教える必要があるということ。だから昨今の海外援助活動は、教育支援や職業訓練も行われるわけである。やるべきことは自立支援、どれだけうまくランディングさせることができるか、である。
でも、瀕死の場合には食べ物を与えなければ元も子もない。当時のインドの状況(特に子供たちには)を考えれば、瀕死の対象数が膨大なのだから、その人々に施すだけで手一杯。彼女の無償の行動は至極妥当であったが、彼女の模倣をすればすべて解決するわけでないとは、そういう意味である。

本作の端々で、印象的な彼女の言葉がちりばめられているが、それらについてもあくまでその状況では有効なだけであって、必ずしも万能薬でない場合が多々ある。彼女は“会社”に対してすごくアレルギーを示す。会社は合目的性の下に存在する組織であるから、時には個人の考えと異なる動きをしてしまうことがある。マルクスのいう“疎外”と同意である。これは社会法則というよりも自然法則なのだから致し方ないのだが、どうも彼女はそこが腑に落ちていなかった模様。会議の場に出された水の値段が高額だったために、会社組織をやめて個人の活動に戻るを宣言するのだが、これが発生すること自体は仕方がないことで、その都度修正するしかない。それでも会社組織が行うことと個人で活動した場合のメリットを天秤に懸けて、会社組織で行ったほうが大きければ会社の意味はある。その水の代金で何人の人が救えるか!と怒る感覚はもっともだが、それはもっと安い水にしろといえばいいだけのことで、会社組織を否定するのは的外れ。だから24時間TVの寄付金集めのためにどれだけ予算をつかっているんだ!出演者は勿論ノーギャラなんだろうなぁ!なんていう指摘は、もっともらしいがピントがずれているのだ。
やはり“会社”とカソリックは、究極的に相容れないものなのかなと、実に興味深い点である。資本主義はプロテスタンティズムが生み出したというマックス・ウェーバーの慧眼恐るべしである。
#まあ、ノーベル平和賞のパーティが豪奢なのは、彼女の指摘の通りだろうけど。彼女の行動に賞を与えたなら、そういわれそうなことは判りそうなもので、想像力が欠如してるかな(平和賞だけは他賞とは別次元だからね)。

別の視点。

北方の文化が発達し、なぜ赤道付近の文化発達は遅延ぎみか?という人類学的な疑問の一般的な答えとして、北方は自然が厳しく食物調達のために努力を続けねばならなかったから、南方は容易に食物を調達できて努力をしなくてもよかったから…というものがある。この理屈の細かい正否は別として、おおまかには当たってはいるだろう。
でも、はたと周囲を見てみると考えさせられる。今の日本は努力せずとも食糧入手が可能である。もちろん誰かが努力してくれているおかげなのだが、それをよく考えもせず、まるで自然からの贈り物のようにこの環境を享受している。さてさて、この後、日本でも文化の遅滞が見られるのだろうかねえ(困難こそ進歩の母である)。

さて、いわゆる“偉人映画”だし、お亡くなりになったとはいえ彼女の意思を継いだ方々の活動は続いているのだろうから、あまり脚色もできない、映画的にはつまらないかもしれないと考えたのだが、彼女のことをよく知らなかったせいかもしれないが、最終的にはかなり愉しんで観ることができた。長さも手ごろ。24時間TVのマラソンを観るくらいなら、本作の鑑賞をお薦めする。ボランティアの考え方の一助になるだろう。

#布施明の元妻ですなぁ。

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image1291.png公開年:2003年 
公開国:イギリス、アメリカ、ドイツ、アルゼンチン、ペルー
時 間:127分  
監 督:ウォルター・サレス
出 演:ガエル・ガルシア・ベルナ、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ、ミア・マエストロ、メルセデス・モラーン、ジャン・ピエール・ノエル、グスターヴォ・ブエノ 他
受 賞:【2004年/第77回アカデミー賞】歌曲賞(Jorge Drexler:曲/詞“Al Otro Lado Del Rio”)
【2004年/第58回英国アカデミー賞】外国語映画賞、作曲賞[アンソニー・アスクィス映画音楽賞](グスターボ・サンタオラヤ)
【2004年/第20回インディペンデント・スピリット賞】撮影賞(エリック・ゴーティエ)、新人俳優賞(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)
コピー:遠い空の下、僕は世界がめざめる音を聞いた

1952年、アルゼンチン。喘息持ちの23歳の医学生エルネストは7歳年上の友人アルベルトと南米大陸縦断の旅に出る。アルベルト所有のバイクを移動手段に、わずかな所持金だけという無謀な計画で、彼らの行く手には様々な困難が待ち受けていたが、南米各地の住民達の過酷な状況を見ることで、エルネストの中で何かが変わっていく…というストーリー。

先日、『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』を連続で観たわけだが、それよりも前のエピソードである。
まあ、事実なのでどうこう言っても仕方ないのだろうが、バイクで男二人がニケツで南米縦断って、いくら冒険旅行っていったって無謀極まりない。当然のごとく、映画の半分にも到達しないところで“モーターサイクル”は壊れてしまい、タイトルすら成立しなくなるのだが(逆に狙いなのか?)

『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』を観て、なぜ彼が革命戦士になったのか?という経緯が希薄だったのが不満だった。本作でそれが垣間見れるのかと期待していたが、裏切られた。二作の批評でも書いたが、チェの行動を理解するためには、キューバ革命後に世界を見て回って彼が感じたことや、本作で語られる青年期に南米各地を観て何を感じたか、という点は不可欠だと私は思う。後者が語られるべき本作なのだが、あの苛烈なまでの革命戦士に変貌する理由が説明できているとは、とても思えない。

若い青年が旅で何かを感じ、成長していく様が見事…というような批評を読んだが、普通の人間の話だったら、それでもかまわないが、あのチェ・ゲバラの青年期の話が、これでかたづけられたのでは困ってしまうかなと。ちょっと見識不足な批評だと思う。
とにかく、この旅が革命家チェ・ゲバラを造り上げたのだ…という説得力は皆無である。贔屓目で見ても、“小さな小さなきっかけ”程度しか伺えない。単なる青年のロードームービーとしては、とてもさわやかだし、“映画”としては質のよい作品なのは間違いない。だから、様々な受賞歴やノミネート歴も妥当だと思う。でも、エルネスト・ゲバラを扱った以上、それでは済まされない。

やはり、私はひっかかってしまう。本作のエルネストがあのチェだというならば、チェという男は1を見て10を知った気になった、、、とまでは言わないが、3を見て10判った気になった程度の思い込み男だと、私には映る。別にゲバラを尊敬しているわけではないので、それでも構わないのだが、それでも実際にはもうちょっと何かがあったのではないかと思うのだが。

これまで観た3つのゲバラ作品を観る限り、実際のところチェ・ゲバラ研究というのは、あまり深まっていないのかな…という気がする。いや、それほど研究する価値があると思われていないのかしれない。申し訳ないが、本作に対する高い評価を読んでも、提灯ネタにしか思えないかな。逆にチェを知らない人は楽しめるのかもしれないが、基本的にはやはりお薦めしない。
 

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image1444.png公開年:2008年 
公開国:アメリカ
時 間:128分  
監 督:ガス・ヴァン・サント
出 演:ショーン・ペン、ジェームズ・フランコ、ジョシュ・ブローリン、エミール・ハーシュ、ディエゴ・ルナ、アリソン・ピル、ルーカス・グラビール、ヴィクター・ガーバー、デニス・オヘア、ジョセフ・クロス、ハワード・ローゼンマン、ブランドン・ボイス、ケルヴィン・ユー、スティーヴン・スピネラ、ジェフ・クーンズ、テッド・ジャン・ロバーツ 他
受 賞:【2008年/第81回アカデミー賞】主演男優賞(ショーン・ペン)、脚本賞(ダスティン・ランス・ブラック)、脚本賞(ダスティン・ランス・ブラック)
【2008年/第43回全米批評家協会賞】主演男優賞(ショーン・ペン)
【2008年/第75回NY批評家協会賞】作品賞、男優賞(ショーン・ペン)、助演男優賞(ジョシュ・ブローリン)
【2008年/第34回LA批評家協会賞】男優賞(ショーン・ペン)
【2008年/第24回インディペンデント・スピリット賞】助演男優賞(ジェームズ・フランコ)、新人脚本賞(ダスティン・ランス・ブラック)
【2008年/第14回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ショーン・ペン)、アンサンブル演技賞
コピー:「ミルク」は、希望のはじまりだった。
1970年代のアメリカ。マイノリティのために戦った政治家ハーヴィー・ミルク…人生最後の8年間

1972年、ニューヨーク。ハーヴィー・ミルクは、20歳年下のスコット・スミスと出会い、恋に落ちる。彼らはサンフランシスコに移住し、同性愛者が多く住むカストロ地区でカメラ店を開店するが、同性愛者たちの社交場になっていく。ミルクは次第に、同性愛者など社会的弱者の問題に気付き始め、その改善のために活動を始めるようになり、政治に目覚めていく。そして、ついに市政執行委員選挙にも立候補。自由な風潮のサンフランシスコとはいえ、同性愛者ミルクの行動は周囲に波紋を広げていく…というストーリー。

ショーンペンは知的障害者、精神異常者、殺人犯…etc、どちらかといえばかなり尖がったアクの強い役柄を多々演じているが、どれもこれも、一定水準どころか、A+の演技で。
もしかすると、自分の役者としてのキャリアを、野球カードでも集める感覚で揃えているのかもしれない。ショーンペンは『オール・ザ・キングスメン』でも政治家を演じていたが、めずらしくダメダメだった(ダメなのは脚本の方だったが)。それからたった2作目で、再度“政治家”という役を選んだところをみると、けっこうプライドが傷ついていたのかも。でも、結果として大挽回して“政治家”というカードをコレクションに加えた。それもアカデミー主演男優賞というホログラムカードで。
もちろんその姿勢を悪くいう気はないが、穿った見方かもしれないが、ショーン・ペンって、自分の演技の力でいい作品になったって際立つように、逆に力のない監督作品を選んでやしないかい(だって、本作の監督、サイコのリメイク版の監督だよ)。そのガツガツと貪欲な感じ。微妙だなぁ…。

根本的にゲイだろうがなんだろうが、公民権を停止されたり失職させられるのは、間違いなく合衆国憲法違反である。であるにもかかわらず迫害されているのだから、それに抵抗するのは、あるべき姿だと思う。なんといっても、本作の敵役であるキリスト教原始主義者は、いまだに進化論を学校で教えることを認めない人たちだ。取り付く島もない妄信者で、私の周りにこんな集団が存在したら、もう必死で戦うか、早々に脱兎のごとく逃げ出すしかない。それは認める。

しかし、ゲイに嫌悪するというよりも、彼らの行動を男女間の行為と置き換えても、私には醜く写ったのだが、皆さんはどうだろう。街中のどこかしこで濃厚に抱き合ったりキスをする。半裸で歩く。選挙事務所内でヌード写真を見合う。最後だって、別にゲイだから殺されたわけではない。政治家として子汚い工作を弄した報いとはいえないだろうか。
私には、周囲の人々から忌み嫌われても仕方ないように見えるし、さらに加えて、迫害する側もされる側も、その理由がゲイだからだ!と言い合っているのが、滑稽に見えて仕方がない。対立する両方が問題の本質を見極めることなく、殴り合っていることが、こじれ続けている原因に見える。

それに、改めて感じるのは、アメリカ人というのは、両手が血まみれになってもまだ、アドレナリンが出続けている間は、いつまでもいつまで殴るのをやめない人々なのだな…と強く感じた。ちょっと立ち止まって身を律してみようとかいう考えはないのだろうか。ゲイとストレートがお互いを理解するのに時間を要しているように、我々がアメリカ人のアドレナリン過多体質にうまく対処できるようになるのは、時間がかかりそうである。

(日本人を代表する気はさらさらないのだが、)日本人には、なにかピンとこない作品ではないかな。この“ムーブメント”をリアルタイムで現地で感じていた人には、感慨深いのかもしれないが。楽しい作品でもないし、ゲイ文化のお勉強になるわけでもないし、価値観の異なる人々を包含する社会でのあるべき姿が学べるわけでもないし、あまり効能が感じられない作品かも。決して質の悪い映画ではないんだけれど、個人的にはお薦めしない。

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image1450.png公開年:2008年 
公開国:アメリカ、フランス、スペイン
時 間:133分  
監 督:スティーヴン・ソダーバーグ
出 演:ベニチオ・デル・トロ、ヨアキム・デ・アルメイダ、デミアン・ビチル、カルロス・バルデム、エルビラ・ミンゲス、フランカ・ポテンテ、カタリーナ・サンディノ・モレノ、ロドリゴ・サントロ、ルー・ダイアモンド・フィリップス、マット・デイモン、カリル・メンデス、ホルヘ・ペルゴリア、ルーベン・オチャンディアーノ、エドゥアルド・フェルナンデス、アントニオ・デ・ラ・トレ
 

1965年、キューバ革命で功績を残し、要職に就いていたゲバラだったが、地位や市民権を放棄して忽然と姿を消す。それを不振に思う世界に対し、カストロは、ゲバラが書いた手紙を公表。その手紙は、革命を必要とする場所に身を投じる旨が書かれていた。1966年、頭髪の薄い中年男に扮してボリビアに入国。当時、ボリビアはアメリカの支援を受けた大統領による独裁政権下にあった。ゲバラはゲリラ部隊を組織して革命へ動き出すが、ボリビア共産党の協力も得られず、アメリカに援護された政府軍に圧倒され、さらには地元民の協力も得られず物資が滞り、いよいよ窮地に立たされ…というストーリー。

要職を放棄して革命を輸出するという、ゲバラを知らない人には意外な展開かも。
虐げられた人々を自分の持つ力で救おうという姿勢自体は、海外青年協力隊などと違いはないし、当時の南米諸国の状況を考えれば、私は頭ごなしに否定はしない。

自分を革命請負マシンと定義して、それに徹するという姿勢。職人に徹しているともいえ、そういう面では日本人にも共感ができるのかも。でも、彼が何度も失敗した末に成果を勝ち取ったならばよかったかもしれないが、初めて本格的に加わったキューバ革命にて成功を収めてしまったことが、不幸であると私は考える。これにより彼は成功体験の呪縛から逃れられなくなってしまった。同じ目的を果たすために、それ以外の手段ををとれない(考え付かない、考えようとしない)というのは、想像力の放棄に繋がる。それでも時代は動くので、彼の行動は次第に状況と乖離して、取り残されていく。彼が評されるのは、その“胆力”と“遂行力”。たしかに道具としては優秀かもしれないが、ボリビアでの行動は、缶切りで瓶詰めを開けようとしているようだった。

加えて、(私は常々言っているが)自分が良いと思ったことは他人とっても無条件で良いと思われるに違いない…という、一神教宗教をベースとする社会にありがちな思想の呪縛にも陥っている。宗教と相容れないと思われる社会主義的思想の中にいるだけに、ますます惨めに見える。
一見、強烈な個性に見えるが、その思想にはふらつきというか、根本的な一貫性が私には見えない。

本作を集中して観られたのは、ボリビアに潜入してゲリラ部隊を組織するまで。あとは延々とゲリラ活動の緒戦を見せられて、最後は拙攻の末に殺されるまでが延々と。監督の問題というか製作側の問題だとは思うが、なぜ、これを2時間映画二本に分けるか。3時間10分の映画1本で充分というか、そうすべきでは?。
よほどゲバラに興味があれば別だが、映画としては観る価値なし。資料映像としてなら…といいたいところだが、それなら、キューバ革命後の諸国訪問の様子を入れることが重要だと思うが、それもなし。いずれにせよ中途半端なのだ。

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image1449.png公開年:2008年 
公開国:アメリカ、フランス、スペイン
時 間:132分  
監 督:スティーヴン・ソダーバーグ
出 演:ベニチオ・デル・トロ、デミアン・ビチル、サンティアゴ・カブレラ、エルビラ・ミンゲス、ジュリア・オーモンド、カタリーナ・サンディノ・モレノ、ロドリゴ・サントロ、ウラジミール・クルス、ウナクス・ウガルデ、ユル・ヴァスケス、ホルヘ・ペルゴリア、エドガー・ラミレス、ヴィクター・ラサック 他
受 賞【2008年/第61回カンヌ国際映画祭】男優賞(ベニチオ・デル・トロ)
 

1955年、メキシコ。アルゼンチン人の青年医師ゲバラは、南米大陸の旅を続ける中で貧しい人々の様子を見て、彼らを救いたいという気持ちが芽生える。ある日、独裁政権に牛耳られたキューバで平等社会の実現を目指すカストロと出会い意気投合。無謀とも思える政府軍に対するゲリラ作戦への参加を決意するゲバラだったが…というストーリー。

本作の日本で公開するに当たって、日本の若い女性タレントに「ゲバラってかっこいい」と賞賛させた、アホなキャンペーンを思い出す。多くの日本人がTシャツのチェ・ゲバラの顔しか知らないような状態のなか、教養がありそうもないタレントにまで賞賛されるなんて、ゲバラも草葉の陰でさぞや喜んでいることだろう。最近、海外映画の興行収入も堕ちてきていると嘆く声を聞くが、配給側がこういう作品に対して失礼な態度をとっているのだから、あたりまえでしょう。馬鹿らしい。

まあ、それは置いておいて、いまさら社会主義革命家を取り上げる理由は、私にもよく判らない。
カンヌで男優賞を取りパルムドールにもノミネート、スペインではゴヤ賞をとっているが、それぞれの国が歴史的に社会主義革命に対して造詣が深いからだろう。日本でも評価する人がいるが、評価してるのは学生運動世代だけ。チェのすばらしさがわからないほうがおかしいような言いっぷりなのだが、そういう闘争だけが社会を変える手段だと、いまだに思ってるのが、何か腹立たしいといか、みじめにすら映る(まあ、人々を救いたいという気概には共感するけれど…)。

本作はパート1ということで、『チェ 39歳別れの手紙』につづくので、この1作だけで評価できないことが、観終わって判る。とにかくキューバ政府とのゲリラ戦が延々と2時間以上続くのは、実に厳しい。元々ゲリラ戦自体が厳しいものなのだが、それを超えて特筆するような困難な事件や、彼の考え方の変遷があまりない。事実なのだろうから仕方ないけれど、それを映画として観せられても、この緩急の無さは、眠気を誘う。
実は2泊3日の旅行のバス中で観ているのだが、何度寝てしまい巻き戻したことか。

本作を観たきっけけは、『そして、ひと粒のひかり』のカタリーナ・サンディノ・モレノが出ているから。彼女が気に入っているわけではなく、とても米アカデミー賞にノミネートされるような力があるように見えないと文句をいったものの、一作だけで評価するのはフェアではないと考えたから律儀に観たまでのこと。本作ではアレイダ・マルチ役(後にゲバラと結婚する役)で出ているが、またもやゲリラ部隊の女性兵で表情に乏しく硬い演技しか必要とされない役なため、評価のしようがない。やっぱり容姿だけで、役者としてはポンコツなのでは?と思いはじめてきた。

本作だけみるととても作品として成立していないが、パート1とされている以上、パーツ2も観ないわけにはいくまい。トータルで評価することにする(でも、これを劇場で1800円で観せられたらかなわないなぁ…)。

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image0137.png公開年:2007年 
公開国:フランス、チェコ、イギリス
時 間:140分  
監 督:オリヴィエ・ダアン
出 演:マリオン・コティヤール、シルヴィー・テステュー、パスカル・グレゴリー、エマニュエル・セニエ、ジャン=ポール・ルーヴ、ジェラール・ドパルデュー、クロチルド・クロ、ジャン=ピエール・マルタンス、カトリーヌ・アレグレ、マルク・バルベ、カロリーヌ・シロル、マノン・シュヴァリエ、ポリーヌ・ビュルレ 他
受 賞:【2007年/第80回アカデミー賞】主演女優賞(マリオン・コティヤール)、メイクアップ賞(Didier Lavergne、Jan Archibald)
【2007年/第33回LA批評家協会賞】女優賞(マリオン・コティヤール)
【2007年/第61回英国アカデミー賞】主演女優賞(マリオン・コティヤール)、作曲賞(クリストファー・ガニング)、衣装デザイン賞(マリット・アレン)、メイクアップ&ヘアー賞(Didier Lavergne、Jan Archibald)
【2007年/第33回セザール賞】主演女優賞(マリオン・コティヤール)、撮影賞(テツオ・ナガタ)、音響賞(Jean-Paul Hurier、Pascal Villard、Laurent Zeilig)、美術賞(オリヴィエ・ラウー)、衣装デザイン賞(マリット・アレン)
コピー:そして「愛」は歌い継がれる──愛を生きた世界の歌姫 涙と喝采の物語

ピアフは、1915年のパリに誕生し、貧困の中で育った。ピアフが20歳の時、名門クラブのオーナーが、彼女の天性の歌声に目をつけ、舞台に彼女を立たせる。この時の舞台名が“ラ・モーム・ピアフ(小さい雀)”。その後、殺人の容疑者、恋人の死、薬物中毒、交通事故など数々の困難に直面しながらも世界に羽ばたき、生涯を通じて歌うことをやめることは一度もなかった・・・というストーリー。

根本的に、エディット・ピアフという人物をよく知らない。説明を読んでも“愛の賛歌”しか結びつかず。“愛の賛歌”といえば、日本では男性的要素のあるおばさんタレントがシャンソンの真似事をする時に歌う曲(でしょ)。楽しめるもかどうか疑問だったが、杞憂だった。

自分の歌だけが信じられるもの、と言ってはばからない彼女だったが、意識してかしないでかはわからないが、そのほかに信じられるもの求め続けるという、相反する行動が共存する様子が実に痛々しい。
…というよりは自分で壊しているよに見えるんだけどね。原題の“La Mome”は“小娘”とか“ガキ”みたいなの意味だから、子供ように我侭勝手に好きなものを愛し続け、何の飾りもない心赴くままのエゴ丸出しの彼女を表現することが、この映画の主題なんだろう。

壮絶な生い立ちの伝記映画は多々あるわけで、本作のようなレベルの話が特段目新しいはずはないと思うのだが、何かが欠けているような彼女の言動から目が離せなかった。壮絶なオチがあるわけでもないし、特別明確なメッセージ性があるわけでもないし、ストーリー性が高いわけでもない。でも目が離せない。特にパリ時代は、のぞき穴を通して彼女の人生を覗いているような感覚に…。あれ、もしかして、これが“シャンソン”なのか?(なーんてね)

ネタバレだが、実は子供が…みたいなところが最後の最後で語られるのだが(おそらく自伝か何かで初めて明かされた事実だったりするのかなぁと思うんだけど)、彼女の何かを穴埋めするような行動の原因はこれだったのだよ…と答えを出そうとしているようなのだが、結果的には取ってつけたようでおもしろさには繋がっておらず失敗といわざるを得ないのが、残念である(だって、もう、彼女の人生はそういう次元じゃないようにみえるんだもん)。

いろいろな感想を読むと、時間軸がバラバラに交錯する映画だという人がたくさんいるのだが、それは間違いだ。時間軸はバラバラではない。生まれてからを起点にした話の流れと、晩年のある時期を起点にした話の、二本の流れが交互に編集されているだけである。もうしわけないけれど、何一つ混乱しない。むしろシンプルこの上ないので、未見の人は惑わされないように。

技術的な話を二点。
マリオン・コティヤールが女優賞を多々獲っているのだが、ウマいといよりは体当たり演技…という印象つよいかも。そして、カメラマンは日本人・永田鉄男氏。何度もレビューの中で書いているが、総じて昨今の日本映画のカメラワークは、欧米はもとより韓国よりも技術が劣る(というかセンスが無い)を言い続けているのだが、永田氏の活躍が日本映画の技術向上に少しでも繋がれば…と願う次第である。

とりあえず、シャンソン歌手なんか興味ないから…と除外していた人には、私も同じだったけど興味深く観続けることができたことを伝えたい。『アドレナリン2』や『インスタント沼』に手を出すくらいなら、迷わずこっちを観るべきである。損はしないだろう。

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image1268.png公開年:1994年  
公開国:アメリカ
時 間:127分  
監 督:ティム・バートン
出 演:ジョニー・デップ、マーティン・ランドー、サラ・ジェシカ・パーカー、パトリシア・アークエット、ジェフリー・ジョーンズ、G・D・スプラドリン、ヴィンセント・ドノフリオ、ビル・マーレイ、マックス・カセラ、リサ・マリー、ジョージ・スティール、ビフ・イェーガー、ビル・キューザック、ジュリエット・ランドー他
受 賞:【1994年/第67回アカデミー賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、メイクアップ賞(YOLANDA TOUSSIENG、VE NEILL、リック・ベイカー)
【1994年/第29回全米批評家協会賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、撮影賞(ステファン・チャプスキー)
【1994年/第61回NY批評家協会賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、撮影賞(ステファン・チャプスキー)
【1994年/第20回LA批評家協会賞】助演男優賞(マーティン・ランドー)、撮影賞(ステファン・チャプスキー)、音楽賞(ハワード・ショア)
【1994年/第52回ゴールデン・グローブ】助演男優賞(マーティン・ランドー)
コピー:世界で最低の映画監督の世界で一番素敵な夢

映画監督になる日を夢見る映画青年エドは、性転換をした男性の物語の映画化話を知り、プロデュサーのもとへ押しかける。本人も服装倒錯者だった彼は、3日間でシナリオを書き上げ、さらにふとしたきっかけで出会った往年のドラキュラ俳優・ベラ・ルゴシを出演させることを条件に、その映画「グレンとグレンダ」で監督デビューを飾るのだが…というストーリー。

ティム・バートン作品は大好きで、長編のほとんどを鑑賞しているが、この『エド・ウッド』だけは未観だった。なぜ見ようとしなかったかというと、他のティム作品とはノリが違うな…と感じていたから(本音を言うと、駄作なのでは?と思ったから)で、食指を伸ばさずに今まできた。しかし、近頃読んだ映画関係の書籍に、“史上最低の映画監督 エド・ウッド”についての記述があり、彼本人に興味が沸いてしまい、是非見てみたいという気に…。とはいえ、なにせ“史上最低”ということなので、いきなり彼の作品を見る勇気は無く(笑)、とりあえず、ティム作品で感触を確かめてみることに相成った。

演者で特筆すべきは、マーティン・ランドー。彼は、ベラ・ルゴシ役。ルゴシは今日のドラキュラ像をつくった役者である(藤子不二夫『怪物くん』のドラキュラなどに見られる典型的なイメージは彼によるもの)。漫画『浦安鉄筋家族』の十三階段ベムのエピソードに出てくるドラキュラのイメージ画はそのままルゴシなのだが、まさに『浦安』から飛び出してきたようで、実に愉快だった(『浦安』を知らない人も多いだろうが…)。エド・ウッド同様に、ルゴシも演じることに執着し続け、そして同時に苦む。その様を見事にランドーは演じきっている。彼はこの演技によって、アカデミー賞助演男優賞をはじめ、アメリカ国内の多くの映画賞を受賞をしているが、納得である。

話は少し脱線する。
「こんなアイデアが浮かんだので小説を書いてみたい」とか思うことがあっても、結局、最後まで書き上げることができない(それどころか、書き始めることすらできない)という人は多いのではないだろうか?小説ではなくても、創作の思いを形にできない人は多いだろう。私はまさにそれである。いつかは…などと思っても、形にしなければそんな思いはゴミ同然。自戒の意味も含むが、私は、どんな駄作であっても(見たり読んだりした後に「時間を返せ!」と怒りたくなるようなモノだとしても)、作品を発表できる形にしたことに対しては、作者に一定のリスペクトをする(だから、私が“この映画は見なくてよい”とか“見ないほうがよい”という場合は、そのリスペクトを超える、マイナス点があるということだ)。

本作にて、デップ演じるエド・ウッドが、細かいことを気にせずにバタバタと映画を作るさまは、じつに滑稽なのだが、私には、とてもとても羨ましく思えたのだ。そして、同時に悲しくなったのだ。彼は生きた証を残したけれど、このままなら私にはそれが残せそうにもないということが。自分は“史上最低”ですらないと感じると同時に、“史上最低”は立派な称号であることに気付いたのであった。

ティム・バートンは「私はエド・ウッドだ」と言ったそうだ。いろいろな制約・トラブルがあっても、嬉々として映画を作り続ける態度にシンパシーを感じたのではなかろうか。デヴィッド・リンチやサム・ライミ、クエンティン・タランティーノも彼のファンのようで、オタク傾向の強いアーティストの琴線に触れるのかもしれない。受賞に至っていないが、本作がカンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされているのも、そういう部分がよく表現できているからなのだろう。
本作は、いつかは私も…と思いながらいつまでも行動をおこせない人が見ると、ちょっぴり力の沸く作品かもしれない。

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クボタカユキ
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一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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