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公開年:1998年
公開国:中国
時 間:110分
監 督:サイフ・マイリシ
出 演:テューメン、アイリア、バヤェルツ、ベイスン、キナリツ 他
モンゴル。ボルジギン氏の長の子として生まれたテムジン。他部族との同盟のために人質になっている最中に、他部族との抗争によって父が殺害されると、テムジンの家族は部族から見捨てられるという苦難を味わう。成長した後、部族長として返り咲くも、夫人ボルテをメルキトに略奪されてしまう。テムジンの小部族だけでは対抗できず、父の友人のワン・ハンや幼馴染のジャムハと連合するが…というストーリー。
『モンゴル』を観る前に、そういえば別のチンギス・ハーン映画があったなぁと思い、先にこちらを観る。というか、観てしまった…かな。先にいってしまうけれど、本作はダメだめですな。
映画として、一番引っかかるのはテムジンの一人称で語られているところである(それも中途半端なんだけどね)。なぜそれがダメなのかというと、まず、当時のモンゴルの風習・風俗は、本作でも表されている他部族の嫁を奪う風習しかり現代人の感覚では理解も共感もまず不可能なものなのに、現代人目線(それも今の中国人の価値観)で語られている点。弟を殺したことを反省しもう一族を殺さないと誓った…とか、元朝を立派な中国の一王朝として扱おうという意図のためなのだろうが、元々は野蛮人だったが改心してまともな人間になった…そういう人物が中国の王朝の祖ですよ…というロジックに見えて仕方がない。歴史映画の姿勢としては、若干醜く感じる。横山光輝のマンガのように、できるだけ第三者視点で淡々と出来事を語らないといけないところだと思うのだが。
本作はテムジンの出自からジュチが生まれるまのでエピソードで、“ハーン”となるかなり前の範囲までが扱われているのだが、ここで終わるのも、中国王朝の祖としての人間の器を表現したいがためだろう。普通ならこの後の統一過程のエピソードや、それこそジュチをはじめとする子供達の活躍だって見所のはずだから。
なんで私が、こうも作り手の意思を重要に思うのか。それは、『元朝秘史』なり『集史』で伝えられているテムジンの出生をはじめモンゴル諸族にまつわるエピソードは、詰まるところ口伝だし、遺跡的なものも決して多いわけではないので、正確性は低く諸説もバラバラだから。チンギス・ハーンの伝記には必ずでてくる長男ジュチの出自の秘密についてもそう。自分の子ではないと悩んだという出典は『元朝秘史』から。『集史』ではメルキトに奪われた時期にはボルテはすでに妊娠していたので、自分の子であることを疑っていなかったとされる。さらに研究によっては、元々、倒した他部族の子を自分の子として育てる風習があったので、メルキトの子だからといって悩むことは無かった…というものもある。要するに諸説紛々なので、作り手が“どうするか”で、どうにでもなると言い切っていいくらい。しかし、本作ではこの有様ということだ。
頭髪の処理や衣服など、同じ騎馬民族系と観点からなのか清族のものに近かったような気がするが、これは歴史学的に正しいのだろうか?さかやき状にそり上げて落ち武者のようなざんばら髪(そのまま結えば辮髪みたいだけど)。歴史に詳しい方は、この表現に根拠があるのか教えていただけると助かる。
あと個人的に不快だったのは、矢に射られて倒れる馬を表現するために、馬を落とし穴に嵌める手法と使っていること。痛々しく感じて仕方なくて、撮影手法としては非常に悪質と感じる。
私のように、何の気なしに気まぐれで観てしまうと、時間を無駄にしてしまうので、本作は観なくてよい。とにかく中国側が扱っちゃいけないテーマですな。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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