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公開年:2008年
公開国:日本
時 間:120分
監 督:田中誠
出 演:夏帆、ゴリ、薬師丸ひろ子、石黒英雄、徳永えり、亜希子、岩田さゆり、ともさかりえ、間寛平、The Gospellers 他
コピー:“合唱”って、スゴイ!きっとあなたも歌いだす、感動のハーモニー!!
日本中が、スタンディングオベーション!!
北海道、七浜高校合唱部の荻野かすみは、自分の歌声とルックスに自信満々。さらに、好意を寄せる生徒会長から写真のモデルを頼まれ有頂天になっていたが、歌っている顔が産卵中のシャケのようだといわれ、歌うことが怖くなり退部を決意する。ラストステージのつもりで参加した夏祭りの合唱祭でも、まったく歌う気がおきないかすみだったが、合唱祭に参加していたヤンキーの権藤率いる湯の川学院の合唱隊の歌声を聴いて、心が動かされ…というストーリー。
北海道までわざわざ合唱の予選にいくなんてお金があるなぁ…って思っていたら、北海道が舞台だった。わざわざ自分が参加する予選のことを“北海道予選”なんていわないでしょ。説明的なセリフにもほどがある。それに、まったく北海道の町並みでも風景でもないし、校舎の感じも北海道っぽくないし。あんな港や砂浜はないしね…。
#訛りが一切無いのは大目に見るとして(浜言葉は理解できまへんから)。
それに七浜高校に湯の川学院?個人的なことだが、親が函館出身なもので、ピンときてしまったよ。おそらく函館が舞台だね。でも、一切劇中でそれは触れずじまい…というか、やっぱり、函館じゃないんだよね。これ、まったく北海道でロケしてないんじゃないかな?薬師丸ひろ子が街中で歌うところは、もしかして旭川近辺?って思えなくも無いけど、おそらく違うね。スケジュールとか予算の都合で、北海道にロケができない事情は判って上げたいんだけど、もうちょっと北海道っぽい雰囲気をつくる努力をなさってはいかがなものか。人によっては不快に思うのでは?
で、不満なのは北海道らしくない点と、シャケのCGくらい。別にシャケの件はあっさりと片付けてよかったんじゃないかな。それ以外は、非常によろしい。とにかく歌うことの楽しさは充分に伝わってきて、ラストは楽しくってニヤニヤしながら観てしまった。電車の中で観ていたから、変な目で見られてしまったよ。まあ、根本のシナリオのデキはいいってことだよね。
意外にゴリがいい仕事している。アクションがびっくりするほど素晴らしいし、実際の歌声はわからないけれど、歌うシーンのそれっぽさはかなり良いデキ。本作のMVPだろう。ただ、夏祭りのパフォーマンスより、肝心の北海道予選でのデキが落ちるというのは、いかがなものかな…とは思う(まあ、本当の合唱コンクールでは、素人にわかりやすいハーモニーよりも堅実なテクニックのほうが好まれるのは事実なので、そういう意味ではリアルなのかもしれないけど)。
DVDジャケットなどちょっとチョケた感じで、避ける人いるかもしれないけれど、なかなかの秀作なので、お薦めする。
#本作の夏帆は、かなりかわいいのだが、その後のTVドラマやCMに出ている彼女はそれほどでもないような。早々に劣化が始まっているのか?早すぎじゃないか。
公開年:1987年
公開国:日本
時 間:120分
監 督:山賀博之
出 演:森本レオ、弥生みつき、村田彩、曽我部和恭、平野正人、鈴置洋孝、伊沢弘、戸谷公次、安原義人、島田敏、安西正弘、大塚周夫、内田稔、飯塚昭三、徳光和夫 他
有人宇宙飛行をめざして設立された王立宇宙軍だったが、実験は失敗続きで、その存続すら危うい組織。宇宙軍の士官であるシロツグ達すら、本当に宇宙にいけるとは考えておらず、安い給料でも不況の中で職さがしをするよりは良いと、怠惰な日々を送っていた。そんな中、いよいよ宇宙軍の廃止が検討されはじめたため、長官は最後の勝負に、独自のコネクションで資金を集め、有人飛行実験を強行することに。そして、偶然に街で出会った少女リイクニに刺激を受けたシロツグは、そのパイロットに志願するのだが…というストーリー。
『AKIRA』がジャパニメーションの事始だと前に書いたが、海外から見ての“THE ジャパニメーション”的な位置づけではないかもしれないが、アニメとか実写とか、そういう枠をとっぱらって、純粋に素晴らしい日本映画だと思う。ナレータに森本レオをもってきたこと、音楽に坂本龍一をもってきたこと、いまでこそあたりまえのプロデュース手法かもしれないけど、本作がパイオニアだといってよい。
ストーリーが凡庸だとか、いまさら有人宇宙飛行をテーマにしたアニメに何の意味があるのだ?とか、そういうことを言うバカがいたのだが、そういうやつはとっとと退散すればよい。じゃあ、『ライトスタッフ』や『アポロ13』はくだらないとでも?個人が抗うことのできない世の流れの中で、目的を果たそうとする姿がくだらない?逆にこの良さがわからない人の神経が私にわかりませんけどね。
まあ、逆にいえば、“アニメファン”の嗅覚の埒外に存在するという証明だし、純粋に素晴らしい日本映画という私の評価の裏づけでもあるんだけど。
絵柄がアクが強いとか、前半の森本レオがヘタクソだとか難点は色々あるのだが、まあ、当時の原画マンの線の調子とか影のつけ方はあんなかんじなのでしょうがないし、いまでこそナレーションで有名な森本レオだが、これがアフレコ初仕事らしいし。
しかし、それらを補って余りあるサブカルチャーをとことん突き詰めたディティール。これこそ、この映画の厚みであり、世に長く愛される映画の重要なファクターでもある。“文化”っていうのは、学術的に列挙される特色以上に、実際はサブカルチャーといわれるものが形作っているのだから。
これになんの賞もあたえられなかった、日本映画界ってどうなんでしょうねぇ。
かなり昔に観たけれど、その時はどおってことなかったなぁ…って人は、騙されたと思って観直していただきたい。年齢を重ねるごとに、益々、味を感じることができる、スルメみたいな作品なので、お薦めする。
#このサントラCDをもっていたんだけど、紛失してしまったなぁ。
公開年:2008年
公開国:アメリカ
時 間:105分
監 督:ジョン・パトリック・シャンリー
出 演:メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ヴィオラ・デイヴィス、アリス・ドラモンド、オードリー・ニーナン、スーザン・ブロンマート、キャリー・プレストン、ジョン・コステロー、ロイド・クレイ・ブラウン、ジョセフ・フォスター二世、ブリジット・ミーガン・クラーク 他
受 賞:【2008年/第14回放送映画批評家協会賞】主演女優賞(メリル・ストリープ)
コピー:神聖なはずのカトリック学校で、何が起こったのか?
1964年。ブロンクスにあるカトリック学校では、厳格な校長シスター・アロイシアスと、進歩的で生徒からの人気も高いフリン神父の開かれた校風にしていくべきとの考え方が対立していた。そんなある日、新人教師のシスター・ジェイムズは唯一の黒人生徒ドナルドを呼び出したフリン神父の行動を不審に思い、シスター・アロイシアスに相談する。シスター・アロイシアスは2人が不適切な関係なのではないかと疑い、フリン神父を厳しく問い詰めるが、フリン神父はきっぱりと否定。当初は、シスター・アロイアスの相談をもちかけたシスター・ジェイムスも、あまりの独善的なシスター・アロイアスの態度に、逆に不信感を抱いてしまい…というストーリー。
他のDVDに含まれていた予告CMで、非常に興味がわいてレンタルしたのだが、どうにもこうにも。結局、事件の真相がうやむやなことが、非常にもやもやして気持ち悪い。観終わったあとのモヤモヤ加減は、『隠された記憶』と同レベル。
カトリック組織の性質としてうやむやな結末になることは予測できているのだが、シスター・アロイシアスはそれをふくめて我慢ならず抗っているのだ…という方向性を明確に示すべきだったと思う。しかし、シスターと神父のどっちが“ダウト”なのかというポイントに焦点を当ててしまっており、そのために両者がイケ好かない共感の得られないキャラクターに描かれている。さらに、そうしているのも関わらず、最終的にどちらが“ダウト”か判然とさせないので、ただただイライラが募って不快にすらなる。
そちらがダメならば、ケネディ暗殺後の社会の不穏な雰囲気や、神学校始まって以来の黒人生徒とか、そしてその家族が抱える問題とかを、きちんとブレずに演出できていれば、非常におもしろくなったかもしれない。しかし、それら要素は、ただただちりばめられたにすぎない。
これは監督の力不足以外の何者でもなかろう。メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマンを使ってまでしてもったいないというか、二人にかろうじて救われたというか、わたしならはずかしくて監督ヅラなでできないくらいだ。
メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマンが多数のノミネートをうけているのに、作品賞や監督賞やその他技術賞も一切ないという点をみても、社会の評価も同様ということだろう。
…と、調べてみると、原作戯曲の作者が自ら監督をやっているんだね。あまりセンスがよろしくないので、もう止めたほうがいい。まるで、上質のトリュフとフォアグラをつかって、家庭料理をつくっちゃたみたいな仕事だもの。
それとも、カトリック社会にいればおもしろく感じるとか?9.11後のアメリカ社会の雰囲気の中なら愉しめた?それはないと思うし、そうだとしても、ここは日本なので。作品としては不完全燃焼の極み(それも、ジェット燃料と液体水素をつかったのに、うまく燃えなかったというくらい)なので、お薦めしない。
公開年:1973年
公開国:アメリカ
時 間:112分
監 督:ジョージ・ルーカス
出 演:リチャード・ドレイファス、ロン・ハワード、ポール・ル・マット、チャーリー・マーティン・スミス、キャンディ・クラーク、シンディ・ウィリアムズ、ウルフマン・ジャック、ボー・ホプキンス、ハリソン・フォード、ケイ・レンツ、マッケンジー・フィリップス、キャスリーン・クインラン、スザンヌ・ソマーズ 他
受 賞:【1973年/第8回全米批評家協会賞】脚本賞(ジョージ・ルーカス、グロリア・カッツ、ウィラード・ハイク)
【1973年/第39回NY批評家協会賞】脚本賞(ジョージ・ルーカス、グロリア・カッツ、ウィラード・ハイク)
【1973年/第31回ゴールデン・グローブ】作品賞[コメディ/ミュージカル]、有望若手男優賞(ポール・ル・マット)
【1995年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
コピー:俺たちの青春がここにある!
1962年のカリフォルニアの田舎町。ハイスクールを卒業したスティーヴとカートは、東部の大学に入学するため明日にも町を旅立たねばならない。最後の一夜を愉しく過ごすために、地元に残る友人のテリーとビッグ・ジョンを誘って町に繰り出すのだったが…というストーリー。
古きよきアメリカを60'sにのせて…ってことで評価されているのかもしれないが、私はそういうノスタルジーには興味がない。その時代に生きていなかったのはもちろん、さほど魅力的な時代だとも思えないもので。
むしろ、そういう時代設定は度外視した根本のストーリー、つまり、新しいステップに進まなくてはいけない人生の分水嶺みたいな“一晩の出来事”を淡々と綴っていくというあたりが、まるで明治文学のような感じで、非常に高尚な香りを感じる。そういう意味で非常に素敵な作品だと思うのである。
本作に登場する若者は、社会に流されているように見えて、案外しっかりと自分で考えようとしていて、その折り合いをどうつけようかと苦悩している。でも、昨今の学生は、自分ですべてを決めているつもりになって、実は流されているという、周りの見えていなさ加減というか、抗うべき部分を感知するアンテナが低いというか、両時代の若者の差は大きいかな…と感じてしまう。今の学生たちに、ウルフマンが主人公に送った言葉は響くのだろうか。
私が学生の時に、本作を観ていたら、ウルフマンの言葉はどう響いただろうか。もしかすると、今とは違う人生だったかもしれない。そんな気がする一本なので、未見の人にはお薦めしたい。これがジョージ・ルーカスの原点だ…とか、そういう観点は特に不要である。
公開年:1998年
公開国:アメリカ
時 間:114分
監 督:ブラッド・シルバーリング
出 演:ニコラス・ケイジ、メグ・ライアン、デニス・フランツ、アンドレ・ブラウアー、コルム・フィオール、ロビン・バートレット、ジェイ・パターソン、ブライアン・マーキンソン 他
ノミネート:【1998年/第56回ゴールデン・グローブ】歌曲賞(アラニス・モリセット“Uninvited”)
【1999年/第8回MTVムービー・アワード】歌曲賞(グー・グー・ドールズ)、コンビ賞(ニコラス・ケイジ、メグ・ライアン)
コピー:かつて地上に存在したことのない、ピュアな恋。
天使たちは死者の魂を天国に導く役割を担っていた。天使の一人であるセスは、ある日、外科医のマギーに出会い恋に落ちる。彼女は、自ら執刀した手術で患者を死なせてしまい、落ち込んでいたが、天使には人間のような五感がないため、そんな彼女に手を差し伸べることすらできない。思い悩む中、セスは、天使の存在を知っている入院患者と出会う。その男は、実は元天使で、永遠の命を放棄して天使から人間になったことを知る。そして、セスも同じ選択をしようと決心するのだが…というストーリー。
昨日の『ベルリン 天使の詩』に続いて、連続して鑑賞。
基本的な流れはかっちり守りつつも、違いはやはり多い。多くの人に観てもらうために修正しなければいけない部分を重点的にテコ入れしている感じ。まあ、眠くなるような独りよがりな演出を、愚直に排除する作業をしたともいえる。もっと、悪い言い方をすれば、『ベルリン 天使の詩』は人様に観てもらおうという意思に欠けていたので、その辺の仕事をしっかりして、お金を取っても失礼じゃないものにしましたよ…ということである。ただ、ちょっと勇み足なんじゃないかなと部分もあり、微妙な気持ちではあるのだが。
違いと通して色々と感想を…。
まず、天使の役割が明確に死神役になっている。元の天使は、その存在意義がいささか不明確というか、神の創造物として人知では理解しえない存在という、ある意味絶妙な設定だったのだが、本作の天使は悪くいえば明確な職務をになったただの見えない人であり、存在自体の深みが薄れた。これはドイツ人とアメリカ人の価値観の違いというところか。元作のほうに軍配があがる。
天使時代の画像が、元作では白黒だったのだが、本作ではカラー。元の演出も必ずしもいいとはいえないが、CGを使わずに五感がないことを表現するためには、許される演出ではあると思う。本作では、それを説明的セリフと特撮で乗り切った。この点については、どちらの表現も好きではないが、私なら、天使目線の映像の彩度を下げるとか、折衷案をとると思う。
私が前作で一番気になっていた、元天使だった人間がいると判明するタイミングは、大きく変わった。元作では後半でそれも人間になってから判明したのだが、本作では接触したタイミングですぐに判明する。この点については明らかに本作のほうが正しく、ストーリーの軸がしっかりして、観ている側が注視すべきポイントに明確に誘導することにつながっている。
そして、近しい仲間の天使が黒人であること。これも本作のほうが正しい。似たような服で似たような行動パターンで、判別が判りにくかったものを、ラクダっぽい泥棒ひげのうすらハゲと、坊主頭の黒人という、はっきりとしたコントラストをつけてくれた。
…と、まあ、やはりこのリメイクは、“修正”という意味合いが強いと思うわけである。
しかし、観た人が一番、“これはどうなの?”というのは、メグ・ライアンの結末だろう。ネタバレになるので書かないけれど、これについては、元作のほうがよかったんじゃないかと思うのだが、皆さんはどうだろう。元作は、最終的に紆余曲折がありながらも生きていることって素晴らしいと表現していると思うのだが、本作の場合は、そのメッセージは伝わってこないんだけど。
生きてるだけで丸もうけ…っていうか、誰しも折り合いをつけて生きてるんだよ…っていう、あきらめのメッセージが聞こえてくるようで、なんかつまらない。このつまらなさは、監督なのか脚本家なのかわからないけど、きっとつまらない人間が手がけたからに違いない、そう思える。
でも、元作と本作のどちらを他人様のお薦めする?と聞かれれば、やはり本作である。催眠映画をお奨めするわけには行かない。まあ、リメイクしたことで、欠けた部分のあるけれど、良作レベルであるのは事実。
公開年:1987年
公開国:西ドイツ、フランス
時 間:128分
監 督:ヴィム・ヴェンダース
出 演:ブルーノ・ガンツ、ソルヴェーグ・ドマルタン、オットー・ザンダー、クルト・ボウワ、ピーター・フォーク 他
受 賞:【1987年/第40回カンヌ国際映画祭】監督賞(ヴィム・ヴェンダース)
【1988年/第23回全米批評家協会賞】撮影賞(アンリ・アルカン)
【1988年/第54回NY批評家協会賞】撮影賞(アンリ・アルカン)
【1988年/第14回LA批評家協会賞】外国映画賞、撮影賞(アンリ・アルカン)
【1988年/第1回ヨーロッパ映画賞】監督賞(ヴィム・ヴェンダース)、助演男優賞(クルト・ボウワ)
【1988年/第4回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞(ヴィム・ヴェンダース)
【1988年/第31回ブルーリボン賞】外国作品賞
天使たちには、下界の人々の心の声が聞こえる。ふらりと人の傍らをめぐる天使ダミエルは、サーカスの空中ブランコ乗りのマリオンに恋をしてしまう。そして、「だれかを愛したい」という彼女の心の声に、心が動揺してしまう。そんな中、サーカス団は経営難により解散することが決定し、窮するマリオンを手助けしたいという気持ちはますます高まっていく。しかし、人を愛してしまうと、天使は天使であることを止めねばならなくなる。どうすればいいか悩むダミエルに、撮影のためベルリンを訪れていたピーター・フォーク本人が、見えないはずの彼に話しかけてきて…というストーリー。
はじめに説明しておくが、終盤になるまで、『シティ・オブ・エンジェル』のリメイク元であることに気づかなかった。まったく知らずに、ただ「名前は知ってるけど、そういえば未見だな…」と思って借りただけである。
観はじめたものの、私が人生の中で観た数々の映画の中で、一番寝たと思う。観よう観ようと努力したのに、催眠術を掛けられたように気絶した。体調の問題ではない。白黒の画調。ボソボソとした天使の口調(天使なのに呪文を唱えているようである)。淡々と人間を観察する様子の繰り返し。引きの画だといまいち区別のつかない天使たち。個々のシーンが特別凡庸というわけではないのだが、展開自体に刺激が少なく、残り40分までに何回気絶したかしれない。目を覚ます度に記憶のあるところまで巻き戻す(実は、あまりに断片的すぎるので、一度はじめから見直している。観終るまでに3時間は費やしていると思う。
以下、ネタバレ。
で、天使が落下して人間になったあたりで既視感に襲われ、マリオンと接触しようと試みたあたりで、『シティ・オブ・エンジェル』に気づいた。しかし、その時点の残り40分未満。それまでは、いつまでこのノロノロ行進が続くのか…と、我慢の限界にきていた。ところが、人間になって、ピーター・フォークが元天使だと判ったあたりから急激に、ストーリーに吸い込まれる。突き進む恋の行方から目が話せなくなってしまう。
でも、正直にいうと不満は多い。前半でもところどころカラーになるが、その意味がよくわからない。おそらく恋の感情が沸いて人間に近づいたために、色覚が宿ったってことなんだろうけど、でも人間になる条件は恋をすることではなくって、落下しなくてはいけない。人間になる手順が2つあるということ?それとも、ただ恋をするだけだと、人間になるのではなく消滅する?じゃあ、消滅したくないから人間に?(それは違うよね)
とにかく、天使でいる間のシーンに刺激がなさすぎるのは、何とかならなかったものか。聞こえてくる人間の声も、あまりにも善良だし、そこから何を感じ取ればいいのか、さっぱりわからない。マリオンの悩みというのも、あまりにさらっとしていて、確かに手を差し伸べたくなるな…という共感も得られない。ダミエルもマリオンもさほどすぐれた容姿ではなく、恋をするのもさもありなんとは思わないし。
評価が高い撮影技術についても、あまり関心しない。黒澤明だったら、補光を当てまくって天使の影は一生懸命消していただろう。少なくともただの人間と遜色のない映像にはしなかったと思う。ただ、ストーリー着眼点や天使の目を通した人間の素晴らしさなど、簡単にスルーするにはもったいない輝きがあるのは事実だし、素人の私でも、もうちょっと構成の配分を工夫すれば、こんなに眠くなく、終盤の感動を全体に及ばすことができるはず!と、リメイクしたくなる気持ちはよく判る。
光るものは感じるが、最終的に催眠光線であることには違いない。やっぱりカンヌが評価するような、もっともらしいだけの芸術の域は出ていないかな。世に中がいかに名作と評価しようが、残りの人生で本作をもう一度観ることは、まあ無いだろう。不眠症になったら処方するかも。
#明日は、続けて『シティ・オブ・エンジェル』を観て、比較してみようと思う。
公開年:2007年
公開国:アメリカ
時 間:133分
監 督:ジュリー・テイモア
出 演:エヴァン・レイチェル・ウッド、ジム・スタージェス、ジョー・アンダーソン、デイナ・ヒュークス、マーティン・ルーサー・マッコイ、T・V・カーピオ、ジョー・コッカー、ボノ、エディ・イザード、サルマ・ハエック 他
ノミネート:【2007年/第80回アカデミー賞】衣裳デザイン賞(アルバート・ウォルスキー)
【2007年/第65回ゴールデン・グローブ】作品賞[コメディ/ミュージカル]
コピー:All You Need Is Love 愛こそすべて
1960年代、リバプールの造船所で働くジュードは、まだ見ぬ父に会うためアメリカへと渡る。父はプリンストン大学で用務員をしていたが、ジュードの存在を知らず、ただ戸惑うばかり。拍子抜けしたジュードだったが、そこで学生のマックと出会い友達になる。その後、大学生活を嫌ったマックスは退学しニューヨークへと向かったが、ジュードも同行。歌手のセディが住むグリニッジ・ビレッジのアパートに転がり込み、若者たちとの共同生活をはじめる。そんな生活も軌道にのってきたある日、マックスの妹ルーシーが、兄の召集令状を携え、アパートへとやって来て…というストーリー。
前にも書いたが、基本的にミュージカル映画は好きじゃない。ミュージカルが嫌いなわけではなく、“ミュージカル映画”が嫌いなのだ。なぜなら、映画の中に舞台を置いただけのような、奥行きのないダンスが展開されることが多く、映画であることのメリットを生かしていないからである。それなら、ミュージカルの舞台をただ撮影しただけのほうが、舞台ゆえの様々な工夫を感じられて、かえって愉しめるとすら思う。
しかし、本作は違った。ミュージカルを映画で表現する意味がある作品にはじめてであった気がする。映画であることのメリットを生かし、舞台は平板ではなく、非常に立体的で奥行きが感じられる。ダンス部分の演出をした人は、ものすごく空間認知能力に長けているのと思う。私はそういう能力が、どちらかといえば劣っている方なので、純粋に感動してしまった。ダンスだけでなく特撮やCG部分も実に自然に融合していると思う。受賞歴こそないが、個人的には評価したい。
使用されている楽曲はすべてビートルズなのだが、さすがミュージカルということだろうか、私のようなポンコツヒアリング能力でも、ものすごく聞き取りやすい。そして思わず歌いたくなる。ストーリーと楽曲のからめかたも最高である。思わず一緒に歌いたくなったが、電車内だったので、一生懸命抑えた。
ストーリーに物足りなさを感じる人もいるだろうが、ノリ重視の若者のロードムービーと考えると、案外適切な気がする。なんとなくうやむやで終わらせた気もしないではないが、最近、滅入るような内容お映画ばかりだから、このくらい予定調和で展開してもらったほうが、とても気分がよい(若者映画といってしまうと、『ハイスクール・ミュージカル』みたいのを想像されてしまうかもしれないが、まったく違う)。
だれしも、流れは受け入れつつも、ただ流されは無いような、適度に自由な生き方には、憧れる。主人公の冒険(といっていいのかな)を、ものすごくうらやましく感じてしまった(…ってのは、もう、おっさんだってことなんだろうな)。
とてもセンスの良い快作なので、お薦めしたい。また定期的に観かえすような作品に出会ったと思っている。
公開年:2009年
公開国:スウェーデン、デンマーク、ドイツ
時 間:153分
監 督:ニールス・アルデン・オプレヴ
出 演:ミカエル・ニクヴィスト、ノオミ・ラパス、スヴェン=ベルティル・タウベ、イングヴァル・ヒルドヴァル、レナ・エンドレ、ステファン・サウク、ビヨルン・グラナート、ペーター・ハーバー、マーリカ・ラーゲルクランツ、グンネル・リンドブロム、エヴァ・フレーリング、ゲスタ・ブレデフォルト、ミカリス・コウトソグイアナキス、トマス・ケーラー、ヤコブ・エリクソン、ペーター・アンデション、アニカ・ハリン、ユリア・スポーレ、テイラ・ブラッド、ヤスミン・ガルビ 他
ノミネート:【2009年/第22回ヨーロッパ映画賞】主演女優賞(ノオミ・ラパス)、音楽賞(ヤコブ・グロート)
コピー:彼女だけが知っている
雑誌『ミレニアム』の記者ミカエルは、大物実業家を告発した記事を書いたものの、その情報源に誤りがあったために逆に名誉毀損で訴えられ、実刑を科せられてしまう。収監は6ヶ月先。そんな時、彼のもとに大財閥ヴァンゲル・グループの前会長ヘンリックからとある事件の調査依頼が舞い込む。それは、40年前、ヘンリックが我が子のようにかわいがっていた姪のハリエットが忽然と姿を消し、当時の捜査では迷宮入りとなってしまった事件を改めて調査してほしいという内容だった。ミカエルは依頼を請負ったものの、証拠が乏しかったため調査は困難を極めるのだった。一方ヘンリックは、ミカエルに調査を依頼するにあたって、天才ハッカーのリスベットという女性に身辺調査を依頼してた。彼女は、調査報告後もミカエルのパソコンにハッキングとして事件の資料を見てしまうと、とあることに気づいてしまい…というストーリー。
原作本が大ヒットしていたらしいがが、まったく知らず。すでに本作のDVDには、続編(それも2と3)の予告編が入っており、それほど大ヒットしているということらしい。日曜洋画劇場でも2・3公開のCMが流れてしたくらいだ。
まず、2時間半超という収録時間に怖気づいてしまったのだが、さほど苦痛を感じることはなかった。長さを感じさせないほどの盛りだくさんの展開で、それこそドラマを1シーズン観終わったような気分になってしまった。これはTVドラマを編集したものなのか?と思ったくらい。実際は原作の内容が重厚で、且つそれを映画にがっちり盛り込んでしまったから…ということらしいのだが。
昔のデンマーク製TVドラマの『キングダム』でもそうだったが、性的な表現やグロい表現に遠慮がない。猟奇的な内容は見慣れているので問題はなかったが、レイプや性的な表現が観も蓋も無いのには、いささか閉口ぎみに。別に、レイプがらみの顛末を、あそこまで盛り込まなくても充分に成立したと思うし、むしろ主筋の内容じゃないのに、比重を置きすぎという感もある(アメリカでもイギリスでもフランスでも、この件にここまで時間を配分しないだろう)。しかし、それでも愉しめたということは、それら難点を充分に上回るデキだという証拠である。
原作に愚直に沿っただけといえば、それまでなのかもしれないが、しかし、続編はあるものの、それを前提にした安易な先送りや、変な匂わせ方は一切していないなど、入魂っぷりに非常に好感がもてる。成功の一つの要因といえるだろう。
ストーリー展開が盛りだくさんというだけでなく、主人公の一人であるリスベットのキャラクターについても、いささか盛りだくさんすぎる嫌いはある。見た目のインパクト、生い立ち、ハッカーとしての能力だけでなく常人ならざる映像記憶力、さらに加えて諸々の実行力。ただ、観終わって冷静に分析してみると、“事件”自体は実のところ目新しくはないので、このキャラクターがいないと興醒めしたかもしれない…とは思う。
とにかく、公開している続編を観にいこうかな…と思わせるほどのデキで、少なくともDVDがリリースされたら観るのは必至である。それくらい愉しめたのでお薦めする。まったくノーマークだったので、久々に掘り出し物にぶり当たった感あり。
#ただ、2・3は連続で製作されることが決定していた模様なので、ユルくなって勿体無い状況になっていないことを期待する…(ヒマと時間さえあれば観にいきたいのだが、もう公開は終わっているんだろうな)。
公開年:1993年
公開国:アメリカ
時 間:110分
監 督:アイヴァン・ライトマン
出 演:ケヴィン・クライン、シガーニー・ウィーヴァー、フランク・ランジェラ、ケヴィン・ダン、ベン・キングズレー、チャールズ・グローディン、ヴィング・レイムス、ボニー・ハント、ローラ・リニー 他
ノミネート:【1993年/第66回アカデミー賞】脚本賞(ゲイリー・ロス)
【1993年/第51回ゴールデン・グローブ】作品賞[コメディ/ミュージカル]、男優賞[コメディ/ミュージカル](ケヴィン・クライン)
とある事情で、大統領に瓜二つのデーヴは一夜限りの代役を引き受けることになるのだが、替え玉遂行中に、運悪く大統領が脳卒中で倒れてしまう。大統領の取り巻き達は、副大統領が気に喰わない上に自分の立場が脅かされることを嫌ったため、しばらくデーヴを替え玉のまま使うことを画策する。しかし、まがりなりにも政務をこなすうちに、デーヴは持ち前の誠実さを発揮し始め、おかまいなしに改革を実行していき…というストーリー。
『影武者』のように“王子と乞食”のようなストーリーは多々あるが、その中でも本作は際立ってデキがよい。普通に考えれば、かなり荒唐無稽だし予定調和バリバリの展開なので、飽きてしまいそうなものだが、演者の仕事があまりにも上質なのでグっと引き込まれる。主人公のケビン・クライン演技は上品かつ的確だし、一見ミスキャストとも思えるシガニー・ウィーバーも、なにげにツンデレな感じでうまく仕上げている。ベン・キングスレーも他の作品での重厚さとは一味ちがう善人っぷりが心あたたまる。
こういうコメディ作品の味付けとして非常に大事なのが、小ネタ的ながらも味のあるキャラ。本作でいえばシークレット・サービスの役(『ダイハード』でいうところのパウエルに相当)。本作全体のハートフルさの3分の1は彼が構築したといってもよくて、最後の車内でのセリフは思わずじわっと涙が出そうになるし、エンドロール前の彼には思わずニヤリとしてしまった。
最後のエンドロールが“HIMSELF”のオンパレードなのもおもしろい。日本なんかより政治が身近だな…という感じがものすごくする。同じテーマの作品を日本で作ったとしても、もっとエグくなるか、逆に現実離れした内容になるに違いない。
本作を見てしまうと、いまの事業仕分けがなんでうまくいかないかの理由がわかってしまう。デーヴはホームレスのために予算を確保することを目的に、それより無駄だと思われる予算を削っていき、結果としてうまくいってしまう。いやいや作り話だから…という無かれ。なぜうまくいったかには、はっきりとした理由がある。それは、予算削減をなんでしなくてはいけないか…という目的が明確だからである。目的がはっきりしていれば、その目的よりも重要度や緊急性の低い予算を見つけ出して削ればいいのである。
では、いまの政権の事業仕分けはなんの目的でやっているのか?その目的は予算を削減することである。いやいや、予算の削減というのは、他に予算を使わねばいけないところがあるから行う“手段”であって、決して目的ではない。では、事業仕分けをしている人たちに聞いてみよう。なんで削減しているのか?「そこに無駄があるからだ」と言うに違いがない。もっともらしく聞こえるかもしれないが、手段が目的化した行動こそ、愚かなものはない。目的がはっきりしていないから、ツボがはずれてうまくいくはずがないのだ。いやぁ、こんな17年も前のコメディ作品に教えられるとは、情けない話である。
とにかく、上品でハートフルでウィットに富んでいる定期的に繰り返しみたくなるような作品。強くお薦めする。もし自分が政治家になるようなことがあったら、ことあるごとに観たい作品。
公開年:1995年
公開国:アメリカ
時 間:189分
監 督:カーマ・ヒントン、リチャード・ゴードン
出 演:デボラ・エイモス 他
1989年に発生した中国・天安門事件について、89年4月から6月までの運動の過程を再検証したドキュメンタリー。
前々から観よう観ようと思いながら、長さに怖気づいていたのだが、劉暁波のノーベル平和賞受賞を機に、エイヤーで鑑賞してみた。男が戦車に向かっていく例の映像でおなじみの天安門事件の顛末を、参加した学生側のインタビューを元に構成した作品である。劉暁波もしっかり登場する(まあ当然か)。中国政府側のインタビューは無く、そういう意味ではバランスを欠いた欠席裁判のようにも見えるが、なるべく客観的な考察を加えて、公平に仕上げようという意図は汲み取れる(一方的に学生側を賞賛しているわけでない)。
長いわりには非常に興味深いポイントが多々あったので、意外と飽きることなく観終えることができた。私が気づいた点をいくつか紹介しよう。
①現在、反日デモで盛り上がっており、その理由は偶発的な領土問題に端を発する小競り合いが起因と思われているが、どうもそうではないことが見えてくる。それなりに統制の効いている中国において“デモ”とはそうそう実行できるものではない。その背景には中国政府内の保守派と改革派の権力闘争があり、改革派が勢力を伸ばしつつあるところに保守派が巻き返しを行おうとする…そしていずれかの勢力が自らの不利な点から目をそらすためにデモを利用する…、そういう背景でおこる。今回も中国共産党内の権力闘争が影響していると見られる。
②本作では、まったく抗日活動に関しては触れられていない(過去の五四運動の説明においてもである)。これは、製作側の西洋人には、中国の反日感情に一切興味がないことの現れである。欧米の興味は非民主的な国家において民主主義を勝ち取ろうとする若い力の発露である。六カ国協議で日本の拉致問題が俎上に上がらないのは、彼らにとって日本の問題など微塵の興味もないからである。
③どうしてもこの作品にでてくる中国人にノーベル平和賞をあげなければならない…となった場合、あげることができる人物は確かに劉暁波しかいない。他の人物には、申し訳ないが、我が我がと主張し続けるだけの、いけ好かない人物ばかりで、他者を慮って行動しているのは劉暁波だけなのだ。とはいえ、アメリカのコロンビア大学やノルウェーのオスロ大学と縁のある人なので、賞をあげやすい人物だったのも事実である。
中国は今回の受賞について、“ノーベル平和賞を政治の道具として利用した。ノーベルを侮辱している”と言っていたが、ノーベル平和賞が政治的主張を含まなかったことなど、過去にはない。なにをおぼこ娘のような甘っちょろいことを言っているのか、苦笑を通り越して稚拙すぎて逆に切なくなってくる(まあ、何もしていないオバマに平和賞をあげた時点で、平和賞の選定委員もかなりクレイジーなのは事実なんだけど)。
それよりも、劉暁波に平和賞が与えられる可能性は十分あったのに、のんきに平和賞受賞のシーンを放映し、名前が読み上げられたところで放送をカットするなんて、あまりにくだらない。はじめから平和賞の手前で放送を打ち切ればいいものを。やろうと思えばいくらでも情報統制が可能なのに、こんなブロックもできなくなってしまった共産党政府の力の衰えが逆に心配になってくる。
④柴玲という女性の学生指導者が出てくるのだが、実に奇妙な人物なのだ。運動の過激派グループのリーダ格なのだが、民主運動を推進することが目的のようで実は違うようなのだ。どうもこの事件で名を上げたいのと、異常なまでの上昇志向と注目を集めたい癖がある模様。ホテルの一室でアメリカメディアの単独取材を受けるシーンが結構な長さで収録されているのだが、実に気持ちが悪い。心理学の資料として使ってほしいくらい。そのインタビューでは、自分がなんでこの運動を行っているのかを語り、でも中国の一般人は民主化の心なんか持っていないと嘆き、自分は非常につらくてもうこのような過激な行動で命を危うくするのは止めたいと、涙を流しながら訴える。どうも私はひっかかるものを覚えて、あることをやってゾッとしてしまった。もう、ホラー映画なんかみるより背筋が凍るのでお試しあれ。そのインタビューを話の内容なんかどうでもいいので、ずっと一時停止(コマ送り)を繰り返して見てみよう。なんと、泣いているはずの柴玲は間違いなく瞬間的にニヤリとしているのだ(ぎゃー!)。もともと笑い顔に見える顔なわけではないし、民族的な特徴でももない。そういう表情がかなりの頻度でさしはさまれている。気持ち悪いにもほどがある。
そして、止めたいといっていたのに、ここで逃げると自分の価値が下がると見た彼女は、手のひらを返したように運動を継続する。もう、その行動にはなんのポリシーもない。事件が収束を迎えると、香港に逃亡し、そこで海外メディアにコメントを発表(他の運動に参加した人間は、そのコメント内容はウソだと言っている)。そして海外に亡命し、今ではアメリカでコンピュータ会社を設立し実業家である。簡単に言ってしまえば、それが目的だったのが、見え見えである。そんな人間をよくもまあアメリカは受け入れている。お笑いぐさである。このバカ女に踊らされて命を失った人間も少なくないと考えると、その悪魔性たるや…。
本作をみると、中国の民主化運動がまだまだうまくいかないのが実感できるし、民主化運動がうまくいかないということは資本主経済もうまくいかないことを意味する。プロテスタント的な行動基盤はもちろんあるわけもないし、日本のように職業を無条件に尊いと考える発想もないし、労働は他人より豊かな生活するためとしか思っていない(周囲の人間を幸せにする…という要素が微塵もない)。残念だが、中国経済が容易にアノミー状態になるのが手に取るようにわかる。
まあ、柴玲のクソ人間っぷりを観察するだけも観る価値がある(リアルホラーだ)。お勉強のためにたまにはこういうのも良いと思うので、軽くお薦めしておく。これを観て、中国について頭の整理がつく人もいると思う。
#人を呪わば穴二つという言葉があるけれど、自分の国の子供に、他国を恨めーと教育するような国が、そのことわざとおりにならないわけがない。まあ、近くの2つの国のことだけど。
公開年:1984年
公開国:アメリカ
時 間:137分
監 督:デヴィッド・リンチ
出 演:カイル・マクラクラン、ホセ・ファーラー、ポール・スミス、フランチェスカ・アニス、スティング、ユルゲン・プロフノウ、シアン・フィリップス、フレディ・ジョーンズ、ディーン・ストックウェル、リチャード・ジョーダン、ケネス・マクミラン、エヴェレット・マッギル、マックス・フォン・シドー、ブラッド・ドゥーリフ、リンダ・ハント、ヴァージニア・マドセン、シルヴァーナ・マンガーノ、ジャック・ナンス、パトリック・スチュワート、ショーン・ヤング 他
ノミネート:【1984年/第57回アカデミー賞】音響賞(Nelson Stoll、Kevin O'Connell、Bill Varney、Steve Maslow)
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製作費120億、史上空前のS・F超大作。
宇宙は、皇帝、宇宙協会、大公家連合の三勢力に分裂。ある日、皇帝は従弟の公爵レト・アトレイデスに砂漠の惑星アラキスを与える。アラキスは、スパイス(不老不死の薬物)の宇宙唯一の生産地。宇宙の人々はスパイス無しに生きることが考えられないほど魅せられており、この星を支配することは莫大な富を得たことを意味する。しかし皇帝は、アトレイデス家と敵対関係にあるハルコネン家と裏取引し、大公家のあいだで人気のあるレトを失脚させようと謀っていた。アラキスに赴任したレトは、側近の裏切りとハルコネン家の攻撃により、ハルコネン男爵に捕えられてしまい自害。レトの妾妃と息子ポールは、かろうじて砂漠へと逃げのびるのだが…というストーリー。
『乱』のパンフレットが本棚にあるという話を、『影武者』のレビューの時に書いたが、同様にいまでも大事にパンフレットを持っているのが本作。思い出したので久々に鑑賞してみた。
このDVDは吹き替え音声が付いていないのだが、劇場で観たときも字幕版だった。当時の私は、セットや小物や造形物の美しさに目を奪われてしまった。宇宙船のデザインなど、まるで帝政ロシア時代の宝飾品のよう。対比するように、ハルコネン家関連の描写はグロく、ワームの3つに分かれた口吻のインパクトは脳裏に焼きついている。今考えれば、いかにもデヴィッド・リンチらしいグロさである(私が嫌いにわけがない)。
#不思議なことに同年公開の『ネバーエンディング・ストーリー』と記憶が混同している部分があったのだが、特撮の質感がものすごく似ているせいだと、今回観て気づいた。スタッフがダブっているわけでもないんだけど、双方とも当時の技術レベルの限界点みたいなのに達していたってことなのかもしれない(観れば判る)。
で、ヴィジュアルに視線が吸い込まれてしまったために、字幕を追うのがおろそかになり、ストーリー(特に、敵対関係の構図)がさっぱりわからなくなってしまった。なんとか後半は、脳による補完で乗り切ったのだが、やっぱり腑に落ちない部分が多々あったので、結局帰りにパンフレットを買い、岐路のバスの中で読み「ああ、こういうことか…」と思ったのが懐かしい。
当時は、壮大な原作をたかだか2時間ちょっとの映画にすること自体が無謀だと、SFファンから揶揄されていた。原作を読んでいたら興醒めするっていうなら、私は読んでいなくて幸せとすら思う。奇抜な小道具やキャラクターがまぶされた特異な世界観を、とにかく受け入れることが愉しむための秘訣である。ボイスガンなんてガンカタくらいユニークで素敵である。
ただ、心の中の声の演出(それもペラペラと多い)がウザいと感じるかOKと思うかが、意外と良作か駄作の分水嶺な気がする。とにかく、ストーリーの裏に潜む寓意や隠喩を探したり、現実社会に通じる倫理観を当てはめたりしないで、とにかく“ただのお話”と受け止めればかなり愉しめるはず。軽くお薦め(まあ、女の子向けじゃないし、子供が観るとちょっとトラウマになるかもしれないけど…)。
#そういえば、アメリカではドラマ版があるとか。観たいんだけど、近くのレンタルショップでは見かけないんだよなぁ…。
公開年:1971年
公開国:アメリカ
時 間:130分
監 督:ロバート・ワイズ
出 演:アーサー・ヒル、デヴィッド・ウェイン、ジェームズ・オルソン、ケイト・リード、ポーラ・ケリー、ジョージ・ミッチェル、ラモン・ビエリ、リチャード・オブライエン、エリック・クリスマス、ピーター・ホッブス、ケン・スウォフォード、フランシス・リード、リチャード・ブル、カーミット・マードック 他
ノミネート:【1971年/第44回アカデミー賞】美術監督・装置(Boris Leven:美術、Ruby Levitt:装置、William Tuntke:美術)、編集賞(Stuart Gilmore、John W.Holmes)
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とある宇宙計画のひとつとして、砂漠の中の小さな町・ピードモントに人工衛星が着陸した。回収部隊が向かうが、「誰かがいる」という連絡の直後、通信が途絶してしまう。司令部が軍用偵察機を向かわせると、赤ん坊とアル中の老人の二人を除いて、全身の血液が凝固するという謎の症状によって町は全滅していた。密閉された地下研究施設に数人の科学者が秘密裏に集められ、墜落した人工衛星に付着した未知の細菌が原因である事まではつきとめるのだが…というストーリー。
原作者はマイケル・クライトンで、かの『ジュラシック・パーク』の作者である。
『ジュラシック・パーク』では、琥珀に密閉された蚊の体内の血液から恐竜のDNAを採取し、それを元に恐竜を復活させるという科学的アプローチが基盤になっているが、これは単なる空想ではなく、実際に科学者が唱える仮説であり、愛知万博で公開された冷凍マンモスを復活させるために考え得る手段として紹介されたことも記憶に新しいところである。本作も、冒頭にて、“科学的な危機を正確かつ客観的に記録した”ものであると、仰々しくスタートするのだが、原作者が同じ故のテイストの一致であろう。
『ジュラシック・パーク』が、SFとしてスタートするも、いかにもパニックムービー、アクションムービーという展開になっていったのと同様に、本作もいかにもSFを標榜しつつも、実はサスペンス映画であるという体裁も、共通している。
実際におこってもおかしくないと、信じさせるだけのシチュエーションをぶつけてくるのは、原作者の慧眼と白眉な表現力の賜物であるし、それを興ざめさせないように、見事に各シーンを丁寧に描写していく映画スタッフの技術と努力は見事で、それらがうまく結実しているといえる。1971年製とは思えないほど(というか、後年見ても陳腐と思われないような表現を使っていて)、冒頭の全滅した村や、地下研究施設もよくできており、現代においても十分に鑑賞に堪えうる。システマチックな施設と、その中で繰り広げられる迫真の人間ドラマの対比はとても愉しめる。
『ジャガーノート』での“どっちの配線を切る?”ギミックがパイオニアであったように、本作“のコンピュータがカウントダウンし、ぎりぎり対処する”というギミックも、本作がパイオニアかもしれない。
言い忘れたが、本作もTSUTAYAの発掘良品キャンペーンの一つ。これは確かに、埋もれた良作と言って良いかと思う(吹き替え音声もついているしね)ので、軽くお薦めである。
ただ、おおよその方々の鑑賞にはなんら影響を及ぼさないとは思うが、ワタクシ個人が引っかかって興ざめしたポイントが一つある。地下施設に下るたびに滅菌処置を行っていくのだが、その中の一つに、体表を薄く燃焼させて滅菌する(体表が白く焼ける)というシーンがある。それを“キセノン照射より焼却”と説明しているのだが、希ガスのキセノンでどうやって燃焼させるのか。キセノンランプで近赤外線を照射したとしても、大抵は体を通過してしまい、体表を綺麗に燃焼するなんてどうやるのかしら。私の科学知識がポンコツなだけかもしれないので、ご存知の方はお教えいただきたい。
公開年:2009年
公開国:日本
時 間:87分
監 督:ジェームズ・ウォン
出 演:ジャスティン・チャットウィン、エミー・ロッサム、ジェームズ・マースターズ、ジェイミー・チャン、田村英里子、パク・ジュンヒョン、チョウ・ユンファ、ランダル・ダク・キム、アーニー・ハドソン、シェヴォン・カークシー 他
自分の武道の能力を隠して高校生活をおくる孫悟空だったが、誕生日の夜、一緒に暮らす祖父・悟天が何者かに殺害され、さらに、家に隠してあったドラゴンボールも奪われてしまう。同じくドラゴンボールを奪われたという天才少女ブルマと出会い、2人は協力してドラゴンボール探すことになるが、まず、悟天の生前の言いつけに従い、「ピッコロが戻ってきた」というメッセージを伝えるために亀仙人を探すのだったが…というストーリー。
昨日の『AKIRA』同様、海外における日本アニメの代表格といえばドラゴンボールということで、本作を鑑賞。
『AKIRA』で原作者・大友克洋が監督をやったのは原作のイメージを損ねないためだと思うが(もちろん本人がやりたかったのだろうが)、本作では原作者の鳥山明は製作総指揮として名を連ねているもの、参加している理由は大きく異なると思われる。おそらく、鳥山明はイメージを損なわれることにはあまり執着がなく、むしろドラゴンボールを世界の公共財として自由に扱ってもらうことをよしと考えており、むしろ自分では思いもよらない発展のしかたに期待をしたものと思われる。もちろん著作権を放棄するわけはないものの、最低限のタガをハメるためだけに参加しており、よっぽどヒドくならなければ、あとはクリエイターの方にお任せしますというスタンスなのだろう。この姿勢は評価したい。ただ、“EVOLUTION”として、あくまで実写化したものは進化系なのだということは明記してほしいということである。
しかしそれが“進化”だったのかむやみな“発散”だったのか。結果として、興行収入が振るわなかったのは(特に日本では)、原作とイメージが違ったからではなく、純粋につまらないからである。
年齢設定をはじめ、根本的なキャラクターの性格も完全に異質なものになってしまったのは、仕方がない。アメリカで実写化すると決まった時点で、あきらめなかればいけない点である。逆に、原作どおりに作ったら、それはそれで陳腐なコスプレ映画になってしまい、後世のお笑い種になっていたに違いない。大体にして、実写化する意味がない(アニメで十分っていう文句のオンパレードになるにきまっている)。
では、なんで面白くないのか。少年ジャンプの基本である“努力”“友情”“勝利”が完全に存在しないからである。悟天からの修行はもちろん、亀仙人からの修行もさほどハードでもなければユニークでもない。本作中に“努力”による成長はみられず、実は大猿なので、元々覚醒さえすればめちゃくちゃ強いという設定である。クリリンに相当する人物も登場せず、ヤムチャと悟空が心を通わすこともないため“友情”というファクターは皆無である。で、それらの過程を経ることもなく、ラスボスと対戦して勝ちはするものの、それは少年漫画でえられる“勝利”のカタルシスではないのだ。つまり、肝心な要素がすべてかけているということ。
なんで、それらを欠いた物足りない状態なのに、90分未満なのか。製作陣がドラゴンボールのツボを理解できていないのか、作っているうちに何がなんだかわからなくなって迷走してしまったかのどちらかである。さらに三部作を予定してるので、シナリオに締まりがない。ピッコロとの対決なんて、何を愉しめばいいのかわからないくらいあっさりと終わり、ボールもあっさり集まり、陳腐な願いごとでオチとなる。そして、普通に布団で寝るピッコロの馬鹿らしさ。せめて技術的にはハイクオリティなものを期待するのだが、なぜかCGが安っぽいというオマケ付き。
本作の製作いよって『AKIRA』の実写版の製作が止まったという噂もあるが、もし本当なら、実に罪な作品である。
個人的には続編は作らなくてよいと思われる。いや、むしろ、つらっと何も無かったように、別のスタッフで“DRAGONBALL TRANSFER”とか作ってしまう図太さを見せてほしいとは思うが…。とにかく、娯楽作品としても、今一歩どころか今三歩くらいで、お薦めはしかねる。
#田村英里子の努力はわかるのだが、逆に英語さえ喋れれば、日本俳優のニーズは相当あるということの裏づけともいえる。ラストに登場の関めぐみも、しっかり英語を覚えて続編ではがっちり登場できればいいのにね。それから、主題歌は浜崎あゆみより、TM Revolutionのほうがよかったと思うよ。
公開年:1988年
公開国:日本
時 間:124分
監 督:大友克洋
出 演:岩田光央、佐々木望、小山茉美、石田太郎、玄田哲章、大竹宏、伊藤福恵、中村龍彦、神藤一弘、北村弘一、池水通洋、渕崎ゆり子、大倉正章、荒川太郎、草尾毅 他
第三次世界大戦から31年後の2019年。東京湾上に建設された人口都市ネオ東京から郊外へ続くハイウェイでは、日々、暴走族同士の抗争が繰り広げられていた。金田率いるチームのメンバーの一人・鉄雄は、暴走の途中で白髪の少年と接触し重傷を負う。その少年は、政府の秘密機関から、反政府ゲリラによって連れ出された超能力者タカシだったが、捜索していた研究機関によって見つかり、鉄雄も一緒に収容されてしまう。兄貴分の金田は、鉄雄救出のため研究所に潜入するが、鉄雄は研究機関によって実験台にされており…というストーリー。
すでに22年も前の作品でありながら、現在の日本アニメとなんら遜色のないクオリティという奇跡の作品。海外から評価される日本アニメといえば色々なタイトルが挙がると思うが、本作こそ、ジャパニメーション事始の作品と言えるだろう。
今、改めて見ると、その奇跡ポイントは多々ある。
まず、原作者の大友克洋自身が監督であること。原作漫画がアニメ化決定時には未完であった点や、原作とは違った展開(どころか完全にオチやテイストが異なる点)など、『風の谷のナウシカ』と共通点は多々あると思う。しかし、なんといっても10億円とも言われる制作費が、いくらバブル期といえども特異である。
「え?これで10億?」と思うかも知れないが、背景の書き込みの細かさや、リアルな動作やバイクの疾走感はすばらしい。さらに、アニメとしてはパイオニアといってもよいプレスコという手法を用いている点(音を先に録って、後から絵を作る手法)。これから観る人は是非注目してほしい。後から絵を当てているので、台詞と口のリンクがハンパなくシンクロしている。リミテッドアニメを批判する宮崎作品よりもよく動く動く。ヱヴァの劇場版でも用いられているようだが、アニメにおいて見ている側がリアルに感じる効果としては、ヘタなCGよりもこっちのほうが大きいと思われる。で、これがセル画アニメで実現できているのだからとにかく驚きなのだ。
CG全盛時代になっても、アニメ製作はタイトな厳しいスケジュールなんだとは思うが、よりクオリティを上げて一般映画と同じレベルまでもっていくためには、仮声録音→声に合わせながら動画作成→最後に改めて録音…というプロセスを確立しないといけないような気がする。
当時、原作のファンが、複雑で重厚な原作とは異なる映画版の内容について、(あの原作を2時間にまとめられるはずもないのに)無いものねだりな文句を言っていたのを思い出す。まあ、肝心のAKIRAの扱いがぞんざいだった点など、不満を感じるのはわからなくもないけれど、それは仕方の無いことだ。でも、まるで大友克洋本人が、全部の原画を書いているのかと思うほど、原作のイメージは踏襲できており、それだけで奇跡だと私は思うのだがね。
アニメなんか普段ほとんど観ないから…という人こそ、あえて是非観てほしい作品である。アニメのくせに(というのも変なのだが)結構、容赦ない無慈悲な描写も多く、ある意味大人向けの作品と言える。
いずれにせよ、その後、大友克洋が直接手を掛けた作品(実写、アニメを問わず)は、すべて残念な内容であるという点からも、奇跡の作品といえるのではなかろうか(ちょっとイヤミが過ぎるか?笑)。まあ、いずれにせよ、このレベルに達するアニメ作品はなかなか現れないだろう。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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