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公開年:2009年
公開国:日本
時 間:120分
監 督:横浜聡子
出 演:松山ケンイチ、麻生久美子、ノゾエ征爾、ARATA、齋藤咲良、竹谷円花、米田佑太、中沢青六、キタキマユ、野嵜好美、乗田夏子、宇野祥平、小野寺陸、藤田弓子、原田芳雄、渡辺美佐子 他
コピー:脳みそなくても心臓止まってもぼくの恋は死なない
青森で野菜を作りながら暮らす青年・陽人。ある日、野菜を売りに行った幼稚園で、東京から来た町子先生と出会い一目惚れ。陽人は相手の気持ちも考えずに付きまとい続け、そんな彼に町子はすっかり困惑してしまう。そんな彼女がなぜ青森に来たのかというと、事故で死んだ元カレの首がいまだに見つからないため、カミサマと呼ばれる占い師に在り処を聞こうとしたからだったが、もちろん在り処はわかるはずもない。陽人のつきまといが続く中、とある事件でいつもより落ち着いた陽人を見て、町子が「今のほうがいいかも」といったことがきっかけで、彼はとんでもないことを思いつく…というストーリー。
週刊モーニングの真ん中より後ろのほうで連載してるマンガみたいなテイスト。それも6週くらいでおしまいになっちゃうような。だから、作品としてNGでも反則でもないんだけど、“そういう作品もがあっても別にいいけど…”の域を出ていないように思える。やろうと思えば、一人でシコシコ書き上げることができるマンガなら、個人の発想のまま突っ走ってこういう仕上がりになるのは理解できるんだけど、映画の場合はどうなんだろう。明確にこのラインを狙ったのか、やってるうちに偶然的にこうなったのか…、よくわからないけど、映画製作ってずいぶん気安くなったものだなぁ…って、感じてしまった。
全編津軽弁という、配給側にしたら臆するような演出だけど、幸い(?)なことに、ワタクシの親が東北出身なもので、ほぼ理解できた。東北弁に縁のない人が、どの程度理解できたのか興味がある。しかし、本場の東北弁はこんなものじゃなくて、まず外部の人間には聞き取り不能。本作のはとてもとてもライトなのだが、もっとネイティブだったら「冒険したなぁ…」って評価するところなんだけど、逆にひよったんじゃね?って、感じてしまった。
軽度の知的障害者という設定らしいので迂闊な表現ができなかったのは理解したいが、現実と内面世界の境界にいる陽人の世界観をどこまで表現できるかが勝負だったと思う。横尾忠則の絵画に通じるくらいのところまでいってほしいと思うのは、私のハードルが高すぎるのか(注;ああいう絵画的表現をしろといっているのではない)。中盤あたりまではなんとかついていけたが、後半になると、「これ、どうやって終わらせるつもりかねぇ…」ってことをしか、着目点がなくなってしまう。おそらく、共感というか理解できるキャラが誰一人いないというのが大きいかもしれない(注:役者のデキが悪いといっているのではない。キャラ設定が薄っぺらという意味)。
ただ、キャスティングでも、意外とひねりのない部分があって、青森 → イタコ →憑依 → 憑依する俳優 (って評されてる) → 松ケン → 青森 … って無間ループの発想ってわからなくもないけど、そういう浅い想像でキャスティングとか舞台が閃いたんでしょ?思われたらちょっとこっぱずかしいので、これはやめよう…って私なら思う。とはいえ、松山ケンイチじゃないと成立していないわけで、いろんな意味で八方塞りなのだ。私なら、とりあえずリセットしてもう一回考え直そう…って思うだろうな。先日、日本映画は香川照之に頼りすぎだって書いたと思うが、松山ケンイチと麻生久美子にも頼りすぎである。ただ、一つ関心したのは、声でARATAとわかったこと(配役はあらかじめ見ていなかった)。持って生まれた声がいかに人の印象を決めているか。そしてARATAが売れっ子な理由がわかった瞬間。
別に観ても観なくても、皆さんの人生には何の影響も与えないと思われる。人に影響を与えないということは芸術ではないともいえるわけで…、いや、きっと世の中には、これに芸術性を感じる感性の高い人がいらっしゃるんでしょう。私がニブいんです。そういうことで。私はお薦めしない。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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