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image0094.png公開年:2001年 
公開国:フランス
時 間:98分
監 督:ピトフ
出 演:ジェラール・ドパルデュー、ギョーム・カネ、イネス・サストル、アンドレ・デュソリエ、イネス・サストーレ、エディット・スコブ、アンドレ・ペンヴルン 他
コピー: 衝撃×興奮!!全細胞が狂喜するハイパー・ゴシック・ミステリー、遂にその全貌現る!



1830年のパリ。元は犯罪者だったが、その後、私立探偵となり数々の事件を解決して国民の英雄のヒーローになったったヴィドック。そのヴィドックが、とある事件で死んだと報じられる。ヴィドックの相棒ミエは悲しみに暮れたが、彼の前にエチエンヌという男が現れる。彼はヴィドックから自伝の執筆を依頼された作家で、伝記を仕上げるためにもヴィドック死の真相を突き止めたいと主張する。二人はヴィドック最後の事件を洗い直すのだったが…というストーリー。

TSUTAYAの発掘良品のラインナップがいまいちに感じられて、ワタクシ的な発掘良品ってなんだろうって考えたら本作が思い浮かんだ。まあ、発掘しなきゃいけないほど、埋もれた作品でもないけど、知らない人はまったく知らないフランス映画だよね。
監督は『ロスト・チルドレン』『エイリアン4』などの映像効果を担当していた人。そう、本作の一番の売りは映像美である。ダークなのに精緻で陰影が実にが美しい素敵なヴィジュアルで、とてもとても好きである。CGは、とにかく素晴らしい。

いきなり主人公が死んだところから始まり、それを回顧する形式で展開するのも、なかなかよい演出。同じフランス映画である『クリムゾン・リバー』の脚本家による仕事で、確かに、常人ならざる動きのキャラクターとか、若干グロいところなど、共通点は多いかも。主人公が、とてもヒーローと思えない、でっぷりウエストの小汚い親父ってのも、私は嫌いじゃない。

もう、ここまでよい条件揃いなら名作といってもよいのでは?と思うだろうが、本作にも名作になれない理由が存在する。
以下、ネタバレ。

オチがよかったと評価する人が多いのだが、私はそう思わない。たしかに予想外ではあるかもしれないが、犯行の動機がイマイチピンとこないから。横溝正史ばりの愛憎や怨念や偏愛でも裏にあれば完璧だったのだが、ただの狂人の反抗っていうのが、どうにも腑に落ちない。

また、あれだけ身体的能力がスゴかったら、稲妻などというギミックなど使わなくても、簡単に殺すことは可能だと思う。第一、根本的にあのガラス仮面を被ると、なんで超人的な能力が得られるのか説明不足。単純にそういう魔術的なツールなんだよ…ってことだとしても、落雷やら火薬やらつたないながらも一生懸命に科学的説明を重ねていい雰囲気を醸成してきたのに台無しだと思う。
それに、冷静に考えたら、なんで彼は犯人の正体に近づきそうな人を殺して回っているのか?あそこまですごかったら、とりあえず放っておいても問題ないんじゃなかろうか。ポンコツ警察からなんて、イザとなったらいくらでも逃げられそうだもの。

でも、そんな穴だらけのシナリオなのに、油断するとすっかり誤魔化されてしまうだけの、勢いがある。ダメもとで続編をつくってくれないかなぁ…と思う。よって、名作ではなく良作としてお薦め。
一つ、注意したいのは、本作を字幕で見るのは止めたほうがいいということ。けっこうめまぐるしいカメラワークで、おそらく字幕を追うと、細かいシーンを見逃したり、ヘタすると船酔い状態になるかも。第一、一番の売りである映像美に集中できないから。
 

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image1545.png公開年:1974年 
公開国:イギリス
時 間:111分
監 督:リチャード・レスター
出 演:リチャード・ハリス、オマー・シャリフ、シャーリー・ナイト、アンソニー・ホプキンス、イアン・ホルム、デヴィッド・ヘミングス、クリフトン・ジェームズ、フレディ・ジョーンズ、ロシャン・セス、シリル・キューザック、マーク・バーンズ、ジョン・ストライド、ケネス・コリー、ロイ・キニア、キャロライン・モーティマー 他
コピー: 脱出不可能な暴風雨の北大西洋にメガトン級の爆弾が時を刻む!千二百人の命と共に揺れる豪華客船ブリタニック号!

処女航海に出た豪華客船ブリタニック号に爆弾を仕掛けたという脅迫電話が、船主の会社に入る。犯人は自らを“ジャガーノート”と名乗った。船会社の専務は、要求された金額を支払うことを希望するが、警察はテロ犯罪に屈することを認めず、海軍の爆破物処理班のファロン中佐に爆破物処理を依頼するが…というストーリー。

昨日の『カプリコン・1』と同様、TSYTAYAの発掘キャンペーンモノ。こちらは第1弾の返金キャンペーン対象作品だが、『カプリコン・1』があんな感じだったので、さほど期待はしないことに。

まず、“ジャガーノート”という単語だが、「巨大な力、圧倒的破壊力」という意味らしい。猫科のジャガーでもなければ、帳面のノートでもない。調べないとなんだかよくわからないタイトルである。

やはり、こちらも、シナリオ上の矛盾点が多数。やはり“名作”じゃなく“良品”止まりなのは理由があると思う。
以下、ネタバレ注意。

老人の単独犯にしては、7つのドラム缶(それも微妙な振動に反応するようなセンサー付き)をどうやって搬入→固定したのか、非常に疑問。だから、多分、このオッサンが犯人じゃなくって他に協力者がいるに違いないとずーっと観ていたのだが、そのままで、ちょっぴりガックリきてしまった。ジャイロが不調なのだがら、もっと簡単に爆発してもよさそうだし。
海が荒れているので、簡単に救助でいないという設定なのだが、それほど荒れているようには見えない。救助にきた軍人が海に落ちても助けることができないほど…ということなのだが、全然そうは見えず、単に無慈悲なだけに見える。ましてや、あそこまで高い上空からダイブしなきゃいけない理由もわからないし。
爆発する時刻は指定されていたのに、その間に、救助のために別の船を出さないのもわからないし、海上で旋回するくらいなら、救助しやすい領域まで移動もできる。
大体にして、ここまで天候が悪くならなければ、乗客を人質にできなかったわけで、確実に海が大荒れにならなければ成立しない計画である。海が荒れなければ簡単に避難できてしまうわけで、まったくもって確実性が希薄である。そして犯行の動機は、年金が不満…って、お金が無い割には、かなり多額な費用が掛かっているという、この矛盾。
一発目の爆発だけでは沈まなかったのだから、最悪、隔壁を閉じて、一発づつ爆破していけば、なんとかなるとことが判ったのに、なんでそれが選択肢の一つに挙がらないか疑問。助手のチャーリーは、それまで、頑なにファロンの後追いで操作していたのに、誤爆の時だけ単独先行するという都合の良さにも違和感。

緊迫感を煽る部分の演出はものすごく成功しているのだが、諸々の状況設定が、あまりにも杜撰で、プラマイゼロ。細かい点がまったく気にならなければ楽しめるし、気付いてしまうと興醒めするという、そのときの体調次第で面白みが変わる作品といってもいいかも(案外、お子様は楽しめてしまうのかな)。
ん~。いかにもイギリス英語~っていう名優さんたちのステキな演技が、ツメの甘い設定のせいで、疵がついているのが非常に残念。手放しでお薦めはできないが、ビール片手に、ほろ酔いで観れば、細かい部分に目がいかず、たのしめるかもしれない。

ちなみに、コードのどっちを切る?というシチュエーションは、色々な映画や、それこそマンガやコントで扱われるくらいポピュラーな演出だが、これが使われたのは、この映画がはじめてなんだって。
でも、いつもこの演出を見て思うのだが、普通の電化製品ならコードを色分けして用途をわかりやすくするのは理解できるのだが、爆弾の場合、むしろ解除されないようにわかりにくくしたほうがいいのに、親切な犯人さんですね…と興醒めするのは私だけだろうか。

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image1542.png公開年:1977年 
公開国:アメリカ
時 間:129分
監 督:ピーター・ハイアム
出 演:エリオット・グールド、ジェームズ・ブローリン、カレン・ブラック、テリー・サヴァラス、サム・ウォーターストン、O・J・シンプソン、ハル・ホルブルック、ブレンダ・ヴァッカロ、デヴィッド・ハドルストン、デニース・ニコラス、アラン・ファッジ、デヴィッド・ドイル 他
コピー:300億ドル…世界最初の有人火星宇宙船が秒読みに入ったとき3人の宇宙飛行士が消えた!翔べ!カプリコン・1!生き抜け!真実を炎に!
世界最初の有人火星宇宙船から3人の宇宙飛行士が消えた…… アメリカ映画が総力をあげた戦慄のサイエンス・エンターテイメント!

初の有人火星探査船カプリコン1が打ち上げられた。表向きには計画は順調に進んでいるように見えてたが、実は、生命維持システムに不備があったため3人の乗組員は乗船しておらず、無人で打ち上げられていた。乗組員のブルーベーカー、ウイリス、ウォーカーは、砂漠の真ん中にある無人となった古い基地へと連れて行かれ、火星に到着したという事実を捏造するために協力するよう命じられる。政治的な問題で計画が中止にすることはできなかったのだ。3人は、家族の安全のために、やむを得ず承諾するのだが…というストーリー。

TSUTAYA発掘良品キャンペーンに乗っかってレンタルしてみた。発掘“良品”であって“名作”とはいっていない。そこがミソかな。

一頃、話題になった“NASAの月着陸は捏造だった”ネタをそのまま映画にしたような内容だが、DVDジャケットやタイトルのイメージと違ってSFではない。さらに、前半と後半でパックリと趣が異なる作品である。前半はバレるかバレないかの心理戦。後半は逃亡アクション。
たしかに、緊迫感のある、なかなか良くできたサスペンス脚本なのかもしれないが、名作になれない理由が多々ある。

まず、いかんせん科学的ギミックが弱い。火星にいけるレベルの科学水準に見えず、まったく未来感はない(単に“月にいく”とすると問題があるので火星にしただけだったなのかな?などと思ってしまう)。
脱出を試みた飛行機の燃料が無くなるというご都合主義的展開も、結構興醒めしてしまう。私が一番しっくりこないのは、初めNASAは自組織の存続のために、政府に対して隠蔽をしようとしていたのに、後半になるといつのまにか政府も一緒に隠蔽しようとしているように見える点。だって、FBIまで動いていているんだから(NASAがFBIを自由に動かせるとは思えないもの)。どのタイミングで、NASAの単独犯行から、政府を含めての隠蔽工作に変わったのか、境目がよくわからず、モヤっとした感じ。
全体を通じて流れるテーマは“メディア(媒体)”を経た情報の危うさについてなんだけど、観客の興味は、バレた後どうなっちゃうのか?に向かうと思う。しかし、結局そこには触れずじまい。この、ツボのズレ具合がどうも気持ち悪い。

致命的ではないけれど、技術的な難点もある。まず、音楽が趣味に合わない。画のアングルに味がなく、編集に締まりがなく、構成も雑。スケジュール的に切羽詰っていたのかもしれないが、もう1サイクル練れば、良くなったんだろうなぁ…とは思わせるものの、常に頭の片隅にある違和感を払拭できずに終わってしまった感じ。まあ、ギリギリ“良作”という線と言えなくもないけど、ワタクシ的には、限りなくガケ落ちに近い。

ちなみに、おもしろくなければ返金しますよっていうキャンペーンなんだけど、アンケートまで書いて提出しなくちゃいけないとか、たかだか旧作1本のレンタル料金のために、面倒くさい。ワザワザ返金してもらおうと思うほど、目くじらたてたくなるような作品でもない。本気で、お薦めしたいんなら、吹替え音声をつけたTSUTAYAレンタル限定のDVDでもつくるくらいの気合をみせてくれりゃいいのに(日曜洋画劇場の吹替え音声があるはずなんだけど)。

特段、お薦めはしないけど、決して駄作ではない。ただ、SFだと思って借りると、肩透かしを喰らうことになるので、注意が必要だろう。

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image0045.png公開年:1999年 
公開国:アメリカ
時 間:122分
監 督:サム・メンデス
出 演:ケビン・スペイシー、アネット・ベニング、ソーラ・バーチ、ミーナ・スバーリ、クリス・クーパー、ウェス・ベントレー、ピーター・ギャラガー、ウェス・ベントリー 他
受 賞:【1999年/第72回アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(ケヴィン・スペイシー)、監督賞(サム・メンデス)、脚本賞(アラン・ボール)、撮影賞(コンラッド・L・ホール)
【1999年/第34回全米批評家協会賞】撮影賞(コンラッド・L・ホール)
【1999年/第25回LA批評家協会賞】監督賞(サム・メンデス)
【1999年/第57回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、監督賞(サム・メンデス)、脚本賞(アラン・ボール)
【1999年/第53回英国アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(ケヴィン・スペイシー)、主演女優賞(アネット・ベニング)、作曲賞[アンソニー・アスクィス映画音楽賞](トーマス・ニューマン)、撮影賞(コンラッド・ホール)、編集賞
【1999年/第5回放送映画批評家協会賞】作品賞、監督賞(サム・メンデス)、オリジナル脚本賞(アラン・ボール)
コピー:それぞれが夢見たBEAUTYが壊れるとき…

シカゴ郊外に住むバーナム家は、広告代理店に勤務する夢も希望も失っている夫・レスターと、不動産業で成功することしか頭にない見栄っ張りの妻・キャロライン、両親のことを嫌っている典型的なティーンエイジャーの娘・ジェーンの3人暮らし。ある日、レスターは娘のチアリーディングを見に行って、娘の友達のアンジェラに恋をしてしまう。さらに、隣家に新しい住人が越してきた事で、夫のあきらめでかろうじて均衡を保っていた家族が徐々に崩れ初め…というストーリー。

『普通の人々』を観て、なぜか本作を観たくなった。平凡に見えるアメリカ家庭に潜むいびつさが、ある事件をきっかけに露呈されていく…という過程は、時代こそ違えどアプローチはほぼ同じ。そして、どちらもオスカー作品賞。むしろ、『普通の人々』を受けてのアンサーソング…ならぬアンサームービーって感じなのかもしれない。
そういうことなら、日本だって『家族ゲーム』とかアンサームービーをつくってみると面白そうなものが結構あるから、倣えばいいと思う。製作意義のいまいちよくわからない名作のリメイクばっかやらないでね。

今回は二度目の鑑賞なのだが、『普通の人々』を観てからのせいか、全然印象が違った。私のモノの見方が浅かったのか、経験不足だったせいなのか、前は各キャラの行動も出来事もあまりに現実離れしてピンとこなかったのに、今改めて観ると、なぜか何の違和感も非現実感もない。それどころか、ケビン・スペイシー演じる主人公のレスターにシンパシーをすら感じるほどである。10年で私もエラく変わったものだと強く感じざるを得ない。成長したにか世ズレしたのか単にくたびれただけなのか…。う~ん。

色々な角度からアメリカの歪みを表現しているが、サム・メンデスがイギリス人監督なので客観的に分析できているためだろうか、とにかく切り口が容赦ない。

一応、ネタバレ中尉。いや注意。

特に私が興味深かったのは、隣家の軍人あがりのお父さんがゲイ嫌いなのは実は自分がゲイだから…ってギミック。前にも言ったが、アメリカがなぜ社会主義が嫌いなのか?それは、自分達が社会主義にどっぷりはまってしまう素養があって恐れているから…という自論。まさに、このロジックとぴったりはまっていて痛快である。
もしかすると、本作は観るたびに何か新たなことに気付くような、ステキな映画なのかもしれない。『ブーリン家の姉妹』→『エリザベス』に続いて、『普通の人々』→『アメリカン・ビューティー』というワンセットを強くお薦めする。もう、本作は観たよ…、という人も、是非観直してほしい(それが昔であるならなおさら)。絶対、新たな発見があるはず。強くお薦め。

#時代は変われど、両作を観る限りにおいては、家庭を台無しにする一番の原因は、もっともらしいことを言ってはいるがクソみたいな自己顕示欲しか発揮できないバカ妻だ…ってことになるけど(まあ、本作を観た限りだから(笑))。

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image1547.png公開年:2010年 
公開国:アメリカ
時 間:117分
監 督:マイク・ニューウェル
出 演:ジェイク・ギレンホール、ジェマ・アータートン、ベン・キングズレー、アルフレッド・モリナ、スティーヴ・トゥーサント、トビー・ケベル、リチャード・コイル、ロナルド・ピックアップ、リース・リッチー 他
コピー:砂よ──時間を巻き戻せ!



繁栄を極める古代ペルシャ。親のないスラムの少年ダスタンは、友人を救うための勇気ある行動が王の目に止まり、養子に迎えられ第3王子となる。それから15年、勇者に成長したダスタンは、兄や叔父ニザムと共に聖なる都アラムートを征服し、1本の短剣を手に入れる。しかし、王に贈ったアラムートの衣に毒が塗られており王が死亡。ダスタンに嫌疑がかけられ追われるが、捕虜となっていたアラムートの姫タミーナが手助けしたおかげでなんとか逃走する。実は彼女の目的はダスタンが手に入れた短剣。その短剣は、世界をも支配できる力を秘めており、タミーナは、その短剣を守る使命を担っていたのだった…というストーリー。

すっかり、古代ペルシアを舞台にした『キングダム・オブ・ヘブン』のような、半分史実みたいな作品と思いこんでいたのだが、どちらかといえば『ハムナプトラ』に近いマジカル・アドベンチャーだった。ベン・キングズレーがDVDジャケットにいるせいかもしれないが、こういう内容の作品だとは、パッと見では判らない。

以下、ネタバレ。

実際、剣の能力が発動するまで、こんなマジカルな内容だとは気付かないだろう。アラムートを攻める根拠とか、裏の策謀とか、なかなかドラマとしてしっかりしてるんだもの。ボーガンの矢で壁を登っていくギミックとか、歴史ドラマにしては、なかなか面白い演出をするなぁ…なんて思ってたくらい。
あれ?魔法?ファンタジー?と思ったところで、あわてて確認したらジェリー・ブラッカイマー製作だった。そういわれりゃたしかにブラッカイマーらしいし、タイトルは“□□□オブ○△△△”だし、ディズニーだし(笑)。
#副題の“時間の砂”って何かの比喩表現かと思ったらそのままでやんの。

でも、決して陳腐なわけではない。映像面はかなり愉しめる。時間が戻る際の描写がとにかく格好よく(というか、日本人なら『ジョジョの奇妙な冒険』を思い出した人が多いだろうけど)、アクションの躍動感もすばらしく息つく暇もない感じ。近年のこの手のアドベンチャー系作品の中では、随一だと思う。最後の展開もなかなか大胆だし、単なるハッピーエンドではないピリっとスパイスの効いた感じもなかなかよい。

後半、若干ダレる部分はあるけれど、全体的には、非常によくまとまっている良作。カップルで観るには最適の映画だろう。頭を使わなくていい、娯楽映画らしい娯楽映画。

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image0184.png公開年:1980年 
公開国:日本
時 間:179分
監 督:黒澤明
出 演:仲代達矢、山崎努、萩原健一、根津甚八、大滝秀治、隆大介、油井昌由樹、桃井かおり、倍賞美津子、室田日出男、志浦隆之、清水紘治、清水のぼる、山本亘、杉森修平、油井孝太、山中康仁、音羽久米子、山下哲夫、阿藤海、江幡高志、島香裕、田辺年秋、井口成人、山口芳満、金窪英一、杉崎昭彦、宮崎雄吾、栗山雅嗣、松井範雄、矢吹二朗、土信田泰史、曽根徳、フランシスコ・セルク、アレキサンダー・カイリス、加藤敏光、清水利比古、志村喬、藤原釜足、浦田保利、金子有隣、渡辺隆、伊藤栄八、梁瀬守弘、ポール大河、大村千吉 他
受 賞:【1980年/第33回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(黒澤明)
【1980年/第34回英国アカデミー賞】監督賞(黒澤明)、衣装デザイン賞
【1980年/第23回ブルーリボン賞】作品賞、主演男優賞(仲代達矢:「二百三高地」に対しても)
【1980年/第6回セザール賞】外国映画賞(黒澤明)

戦国時代。長く武田信玄の影武者を務めていた弟・信廉は、自分よりも信玄にそっくりの男を見つけ、万が一のため新たな影武者に仕立てようとする。罪人だったその男は、戦で多くの人を殺める武将をひどく憎み、信玄に対しても牙を向いたが、信玄の人間としての懐の大きさに、あっという間に心酔してしまう。ほどなくして、家康の野田城攻めの最中、信玄は鉄砲で撃たれ急逝。男は急遽、影武者として振舞うことになる。しかし、戦国の雄・信玄として生きることはあまりにも過酷で…というストーリー。

私の黒沢作品の初体験は『乱』であった。学生時代に劇場で観たのだが、元ネタのシェークスピアに造詣が深いわけでもないし、根本的に映画を見慣れていなかった私は、重厚な内容のため162分ですら長く感じた。肉体的な限界を感じながらも、なにかすごいモノを観たなという感じはしたので、とりあえず小遣いが少ないにも関わらずパンフレットだけは買ったのを記憶している(今も本棚に鎮座している)。

ただ、その肉体的な苦痛のせいか、“黒澤作品は体調を整えて心して観ないとヤラれてしまう”と自然に刷り込まれてしまい、以降、疎遠になってしまうのだった。いい歳になって、180分もなんとかこなせるようになり(笑)、やっと本作を観るに至ったと。

いきなり結果から言ってしまうと、華々しい受賞歴から想像したほどの感動は、残念ながら無し。大きな理由は、ドラマとしてよく出来とはとても言いがたいからである。盗人が影武者になり、労した策がバレて放逐されるというのが大きな流れだが、この影武者が苦心する経過が、いまいちおもしろみに欠けるのだ。
このプロットは、陳腐な展開になりがちである。簡単にいえば、影法師が意外といい感じで武将としてウマイことやってしまう…とか、バレちゃいけないのをいいことに、重臣の一人と結託して乗っ取っちゃう…とか。まるで童話『王子と乞食』のように展開させることは可能だが、あえてそういうアリガチな展開にはしなかったと思われる。その方向性は間違ってはいないとは思うのだが、そうしないかわりに、何を持ってきたかというと、信玄の霊が影武者の体を乗っ取ってしまうというギミックなのだ。

影武者が夢を観たあたりから信玄の霊がどんどん侵食しはじめ、まるで本人のように振る舞いはじめ、放逐された後に織田軍に向かっていったのは、影武者ではなく信玄なのだ!ってことだろう。しかし、この描写、如何せんわかりにくいのだ。まあ、そこをはっきりと表現したら、おそらくカンヌは採れなかったとは思うので、怪我の功名ともいえるのだが…。

ただ、それならこの180分という長さは解せない。だから、実際は、豪華絢爛な衣装やリアルな城郭や軍隊を大スペクタクルでみせたかったのが主目的で、逆にそれを邪魔するような、いささか陳腐と捉えられてしまうかもしれない脚本上のギミックは極力排除した…ということだと思う。まるで絵画のような各場面を見せるために本作が存在するならば、ストーリーに判りにくさがあろうとも、人間の体力と集中力が継続可能な3時間という長さであることも頷けるわけである。

これを手放しで評価してしまうカンヌが、映画をどういうものと捉えているのかよく判る。後世にのこる芸術というものは、あくまで後世の人が判断して残っていくものなのに、後世に残るであろうものを一生懸命見つけようとしているのだ。今、よいと思うかどうか、むしろ現在良いと思う事を逆に罪悪とでも思っているかのようで、自分が芸術の神にでもなった感覚で作品を選んでいるのだろう。「何でこんな作品を選んだんだ?」という後世の人の声を恐れて。それは実にくだらない了見であり、芸術への冒涜でもある。やっぱりカンヌは私のセンスに合わない。

さすがに、この苦行を承知でお薦めはしにくいが、ルーカスとコッポラが関わった大スペクタクル時代劇ってのがどんなものかと眺める分にはいいかもしれない。ちょっと美術館で絵画を眺める感覚で。途中、紅茶とシフォンケーキでブレイクしながらどうぞ。ほとんど血なまぐさいシーンはないので。

#あと、どうも『乱』の原作がリア王だったりと、モチーフを西洋作品から得るケースが多い黒澤監督だが、さすがに風林火の三銃士の件はトホホかもしれない。

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image1536.png公開年:2009年 
公開国:日本
時 間:94分
監 督:板尾創路
出 演:板尾創路、國村隼、ぼんちおさむ、オール巨人、木村祐一、宮迫博之、千原せいじ、阿藤快、津田寛治、笑福亭松之助、石坂浩二 他
コピー:その逃亡、ワケあり。
板尾創路が魅せる、“獄”上クライム・ラビリンス!



鈴木雅之という男が信州第二刑務所に移送された。彼はこれまでに二回も拘置所から脱獄しているという曰く付きの囚人であったが、この刑務所でも収監されてからたった1時間で脱獄を成功させてしまう。しかし、鈴木はあっさりと捕獲され、再度収監される。看守長の金村は、鈴木の行動に不審なものを感じ取るが、その真意まではどうもわからない。その後も鈴木は、収監される先々で簡単に脱獄を繰り返し、“脱獄王”の異名がつくほどの有名人となり、英雄視されるまでに。脱獄を繰り返したため、元々は微罪だった刑期は加算に加算をかさねており、ついに、入れられた者は二度と娑婆を拝むことができないと噂される“監獄島”に送致されることが決定する…というストーリー。

どうも、この作品を軽く考えておられる人が多いので、はじめに言っておく。まだ監督としてのキャリアも浅く、補うべき部分は散見され、稚拙な面もあるのは事実だが(金村をなんで特別視したのか…とか)、“映画”であるためのツボは完全に押さえられており、実に映画監督らしい映画監督が誕生したと言いたい。
奇を衒った作品ばかりの昨今、そのモヤモヤした不満をさっと晴らしてくれたような気すらしている。見事な作品だと思う。

私はあえて、本作をコメディにカテゴライズはしなかった。世の皆さんは、板尾創路といういう人間がお笑い芸人だということで、はじめっからコメディだと勝手思いこみ、ちょっとした演出がすべて笑わせることを目的にしているという先入観に捉われたのではなかろか。その落とし穴にはまり、一生懸命、笑うポイントでもさがしていたのでは?私は劇場に足は運ばなかったが、そんな見方をした人たちがゲラゲラ笑っているところで、本作を観なくてよかったとすら思っている。「ゲラゲラ笑うことじゃねえだろ!」って憤慨していたこと必至である。

注目すべき出色な点は、複数の要素の距離感が絶妙ということである。非常に説明しにくいので、例を出して説明するが、これは天性の素質なのか否か。
拘束された独房のなかで、中村雅俊の「ふれあい」を歌うシーン。おそらく笑いがおこった映画館もあるだろうが、ここはニヤリとはすれどゲラゲラ笑うシーンにあらず。①しっかりと歌い上げる行為の馬鹿馬鹿しさ、②唄いたくもなるせつなさと哀愁、③でもその歌が時代にマッチしてない不条理感。
この3つの要素の距離感がものすごいよろしい。脳内というのは、複数の記憶の間を電流が流れ、結びついたときに快感を得られる。その電流の具合によって、“笑い”にもなるし“感動”にもなるのだが、実は“笑い”が生じるということは、いささか脳は苦痛と感じている証拠でもある。そのストレスを解消するために“笑い”を発生させ、快感物質を出して緩和させようとするのだ(私、脳科学者じゃないのでウソかもしれないけど)。本作の演出は、“笑い”ほどストレスも感じさせず、“納得”ほどすっきりでもない中間の刺激。私にとっては実に心地よい。この刺激こそ、“芸術”の本質ラインだと思うのだが、皆さんはそう思わないだろうか。

二回タイトルコールをするところは、いささか“笑い”に倒れた感じなのだが、これは、本作をコメディだと思わせるミスリードである。それを明示的に意図した仕掛けができているとしたら、もうヒッチコックばりの名監督である。あ、タイトルに板尾創路とつけているのも、その狙いを臭わせる隠喩か。

ん~。深読みしすぎといわれようがなんだろうが、私の脳内は“ユーリカ!”を叫んでいる。映画監督としては、まちがいなく松本人志監督よりは高いところにいる。ものすごくお薦めなのだが、世の中にはこれをいまいちと感じる人が相当数いることも知っている。おこがましくて、これが判るヤツだけが賢いなんて言う気は更々無いが、もうちょっと、この良さがわかる人が増えて欲しいとは思う(よしもとサイドもこの作品のスゴさを判った上でプロモーションしているのかは、甚だ疑問なんだけど…)。板尾監督には是非続編をつくっていただきたい。

拍手[0回]

image0574.png公開年:2004年 
公開国:アメリカ
時 間:90分
監 督:ビボ・バージェロン、ヴィッキー・ジェンソン、ロブ・レターマン
出 演:ウィル・スミス、ジャック・ブラック、ロバート・デ・ニーロ、レネー・ゼルウィガー、アンジェリーナ・ジョリー、マーティン・スコセッシ、ジギー・マーリィ、ダグ・E・ダグ、マイケル・インペリオリ、ヴィンセント・パストーレ、ピーター・フォーク、ケイティ・クリック 他
ノミネート:【2004年/第77回アカデミー賞】長編アニメ賞
コピー:大切なものは、いつもそばにある。


クジラの身体を洗う工場で働く小魚・オスカーは、口が達者でお調子者。何の力もないのに、街で一番になるんだと息巻いている。一方、マフィアのボスを父に持つベジタリアンのサメ・レニーはサメの生き方がしっくりこずに悩んでいた。ある日、オスカーはレニーの乱暴な兄フランキーに命を狙われるが、落ちてきた碇につぶされてフランキーが死んでしまう。それを見たクラゲは、オスカーがサメを殺したと勘違い。オスカーは“シャーク・キラー”として、街の人気者になってしまうのだが…というストーリー。

前年に『ファインディング・ニモ』があったのに、同じ海モノをつくるセンスがイマイチわからない。ドリームワークスは、『バグズ・ライフ』のときにも『アンツ』をぶつけていたけれど、これはどういう戦略なのか。ピクサー作品のお行儀のよさを馬鹿にしたいとか?その割には、皮肉にもなっていなければ、特段シャレが聞いているわけでもない。
確かに、ピクサー作品より大人が楽しめるアニメをめざしているのかもしれない。『シュレック』ではその作戦は成功しているのけれど、“大人も”と“大人が”の境目が非常に難しく、本作では“大人が”に倒れてしまっている。結局は名誉欲やら金欲やら成功欲の話で夢も無く、艶っぽい展開や暴力シーンも多い。海の中で繰り広げられる魚によるハナシにも関わらず、まったく異世界を覗いた気分にもならない。じゃあ、完全に大人向けと割り切れているのか?というと、陳腐なプロットでとても大人の鑑賞に堪えるものではない。ここまでくると、大人向けでも子供向けでもその両方でもないということになり、もしかして魚向けなのかな?とまで思えてくる(笑)。おそらく多くの子供が途中で飽きてしまったに違いない。

#大体にして、ベジタリアンのサメって…、生き物の業というものをどう考えているのか…。コメディのつもりかもしれないけれど、欧米人の浅はかさに、薄ら寒さすら覚えるえけどね。笑えねえなぁ。

声優陣に豪華キャストを割り当てるだけでなく、ウィル・スミス、デ・ニーロ、アンジェリーナ・ジョリーと、はじめっからその俳優をイメージしたキャラクターを創出しているのが特徴だと思う。私はネイティブな英語を理解できるわけではないので、当てた声のマッチ具合や声優としてのウマさは判断できないが、思いつきとしてわからなくはないけれど、それって根本的に面白いのか?効果があるのか?という疑問は拭えない。それに、アニメなので、別言語の国では当然、吹替え音声をあてなければいけないが、そのチョイスは難しい。日本ではウィル・スミスに香取慎吾をあてたわけだが、残念ながらイマイチ。特段ヘタというわけではないのだが、口八丁手八丁のいいかげんなノリが再現できているとは言いがたい。ここは、山ちゃんクラスじゃないとダメだったのかも。ノリすべての映画なのに、作品の仕上がりよりも話題性を採ってしまった時点で、負けということだろう。元の俳優のキャラクターに依存しぎたツケともいえるが。

同じドリームワークスのアニメ作品で換算すると、『シュレック』の6分の1くらいのおもしろさだと思うので、お薦めしない。家にお客さんがくるので、アニメでも見せておとなしくさせておこうとして、本作をレンタルしてきても、目的を達することは不可能であると、心するべし。

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image1492.png公開年:2009年 
公開国:日本
時 間:106分
監 督:本広克行
出 演:長澤まさみ、三宅弘城、諏訪雅、中川晴樹、辻修、川島潤哉、岩井秀人、志賀廣太郎、寺島進、松重豊、甲本雅裕、三代目魚武濱田成夫、平田満、木場勝己、ユースケ・サンタマリア、升毅、佐々木蔵之介  他
コピー:エスパーのお陰で、地球はときどき回っていたりする



“カフェ・ド・念力”という奇妙な名前の喫茶店。能力を隠して日々生活をする本物のエスパーたちが、年に1度、クリスマスに集まる場所。日ごろの制限を開放し、思う存分能力を披露し合うのだ。そんな彼らが毛嫌いするのが、“あすなろサイキック”という超常現象を扱うTV番組。ところが、その番組のAD桜井米が、番組のエスパー探しの取材のために“カフェ・ド・念力”に来店。自らの能力を知られまいと大慌てするエスパーたちだったが…というストーリー。

ずいぶん、最近、邦画が多いとお思いの人もいるかもしれない。観はじめたものの、どうしても観続けられなかった作品を、エイヤァで“最後まで観ようじゃないかキャンペーン中”なのだ。ここ数週間の邦画は全部その一群だと思ってくだされ。

閑話休題。

各場面の時間的構成配分がよろしくない。簡単に言えば、冒頭から話しが動き始めるまでのテンポが非常に悪いし、ラスト付近もやたらと迂遠。ここはノリを重視して、伏線でどうしても切れないところ以外は、思い切って切る!という踏ん切りというか割り切るべきところだと思う。冒頭の2割くらいまで観て、それまでのダラダラ具合に「単なるアイドル映画かぁ?」と、さじを投げてしまったというわけでだ。これは、編集担当のせいなのか監督のせいなのか。

ところが、場面が喫茶店メインになってくると、とたんにテンポが上がりおもしろくなってくる。おそらく本作は元は舞台脚本と思われる(そのまま舞台でやれそうだもの)。もしかすると、元脚本の部分が非常におもしろく、映画にするために付け足した部分がつまらないのかもしれない。とにかく、脚本の基本的な発送とこねくり回し方は実に見事だと思う。ただ、106分と短めの映画なのだが、90分で納まる内容。いや、むしろ90分未満にしなければいけない内容。興行的に短すぎるのは問題があったのかもしれないが、足した部分がまさに“蛇足”になっていると予測するが、いかがか。

いささか稚拙な長澤まさみの演技も、役柄にははまっている(長澤まさみありきで脚本を探してきたのか、脚本ありきで長澤まさみをもってきたのかは、微妙だけど)。こういう作品は、役者さんは自分の味を発揮しやすいので、嬉々としてとしてがんばっているのが良くわかる(いや、それに救われている)。
ことでんが出てくるので、香川県が舞台なのかな…と思うけれど、ちょっとご当地色が薄く、香川のフィルムコミッションとしては、ちょっぴり不満足なのでは?。設定的に県外から集まってきたと思しき登場人物の割合が多いので、仕方が無いかもしれないが、全部標準語なのもねえ。

意外におもしろかったが、とにかく、はじめの15分は我慢して観ること。アイドル映画として忌避しないこと。そうすれば、及第点以上の作品が待っている。軽い娯楽作品としては非常に優秀である。

#映画というよりも商品CM的な匂いがするが、めずらしくセンスのよいコピーだと思う。
 

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image1258.png公開年:2007年 
公開国:アメリカ
時 間:138分
監 督:デイヴィッド・ドフキン
出 演:ヴィンス・ヴォーン、ポール・ジアマッティ、ミランダ・リチャードソン、ジョン・マイケル・ヒギンズ、エリザベス・バンクス、レイチェル・ワイズ、キャシー・ベイツ、ケヴィン・スペイシー、トレヴァー・ピーコック、クリス・“リュダクリス”・ブリッジス 他
コピー:ありえない家族のぶっ飛んだ再会劇!



ダメ人間のフレッド・クラウスは、なんと、本物のサンタクロースの兄。聖人は歳をとらないが、そのルールは家族にも適用さて、フレッドも歳をとらない。いつも完璧な弟と比較されるせいでヒネくれてしまったフレッドは、荒れた生活を続け、ついに横領事件を起こして拘置所行きに。にっちもさっちもいかず、苦肉の策で弟ニコラスに助けを求めると、兄思いのニコラスは妻の反対を押し切り、北極にあるサンタのおもちゃ工場で働いて返済することを条件に、保釈金を用意してくれるのだったが…というストーリー。

公開していた記憶もないくらいだし、“ブラザーサンタ”なんていうチープな題名をみちゃうと、『ホームアローン3』レベルのつまんないファミリー向けコメディかと思ってしまう(“3”だよ)。“FRED CLAUS”と聞くと、海外ならサンタの関係者?とピンとくるだろうから、実はものすごく頃合の良い題名なんだと思う。しかし、日本ではそうは想像されれないだろうってことで、ブラザーサンタって…わかるけどあまりにもダサいなぁ。せめて“ブラザーサンタ ~フレッド・クラウスの場合~”とか、なんとか原題を生かせなかったかねえ。

このチープな印象とは裏腹に、悪役はケビン・スペイシーだわ、サンタのママはキャシー・ベイツだわ、主人公の彼女はレイチェル・ワイズだわ、かなりがっちりしたキャスティング。よくわかんない男二人が肩を組んでいるDVDのジャケットを観ても、そんな豪華さは微塵も感じることができない(主役の二人すまん)。もうちょっと前面に出したパッケージ画像にすれば、レンタル数は増えるんじゃないの?

内容も、この認知度の低さほどヒドくはない。子供のころスーパーマンのマントを貰えなかった恨みって、あなたレックス・ルーサーだったでしょ!(笑)とか、シルヴェスター・スタローンの弟とかビル・クリントンの弟とかアレック・ボールドウィンの弟とかが、ご本人さん登場で、偉大な兄をもつ弟としての苦悩を演じていたり、ニヤリとできる場面は多々ある。まあ、秀作かといわれるとちょっと口ごもってしまうんだけど。
ちょっとツメが甘い部分はあるのは事実。有名人の弟に苦労を語らせるんなら、ダメ人間のフレッドは兄じゃなくて弟設定にすればよかったと思うし(冒頭の、後からうまれた弟が優秀で…っていうギミックを壊したくなかったんだろうけど)、突然北極につれてこられたワンダがあっさり状況を把握しているのも違和感あるし(あなたフレッドと結婚したら不死ですけど、わかってます?(笑))。あと15分長くてもいいので、フレッドとワンダの恋愛の経過を濃くしたほうがよかったし、エルフと工場のおねえちゃんとの恋の行方ももうちょっとエピソードを多くしてもよいかもね。

でも、ローティーンの子供と親が一緒にみる映画としては、かなり最適だろう。両世代が楽しめるように、かなり工夫されていると思う。隠れた良作として軽くお薦め。

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image1539.png公開年:2009年 
公開国:アメリカ
時 間:130分
監 督:クリス・ワイツ
出 演:クリステン・スチュワート、ロバート・パティンソン、テイラー・ロートナー、ダコタ・ファニング、アシュリー・グリーン、ニッキー・リード、ジャクソン・ラスボーン、ケラン・ラッツ、ピーター・ファシネリ、エリザベス・リーサー、エディ・ガテギ、ラシェル・ルフェーブル、マイケル・シーン、ジェイミー・キャンベル・バウアー、クリストファー・ハイアーダール、キャメロン・ブライト、チャスク・スペンサー、アレックス・メラズ、ブロンソン・ペルティエ、キオワ・ゴードン、ギル・バーミンガム、アナ・ケンドリック、ジャスティン・チョン 他
受 賞:【2010年/第19回MTVムービー・アワード】作品賞、男優賞(ロバート・パティンソン、テイラー・ロートナー)、女優賞(クリステン・スチュワート)、キス・シーン賞(クリステン・スチュワート、ロバート・パティンソン)、グローバル・スーパースター
コピー:この愛を貫く。

ベラは18歳の誕生日を迎えたが、恋人のヴァンパイア、エドワードは永遠に17歳のままで、この現実を受け止めきれずにいた。さらに、誕生パーティで、ベラが誤って指を切って流血してしまうと、その血に引き寄せられたエドワードの家族が彼女に襲いかかり大混乱となってしまう。エドワードたちカレン一家はベラの身を案じ、この町から離れることを決意。突然別れを告げられたベラは失意に打ちひしがれる。そんな彼女を励ます幼馴染みのジェイコブだったが、彼の体に異変が起こり始める。彼は、ヴァンパイアと敵対する狼族の末裔で…というストーリー。

ティーン向けの作品で、根本的に見る価値がないと予測していた前作(1作目)だったが、ヴァンパイア家族のレクリエーションなどなど、愉快な描写のおかげで目が飽きることはなかった。しかし、本作はどうだろう。ティーン女子から人気を得ている理由である主演の男の子の美しさは、成長のせいかいささか劣化気味。追加でスポットを浴びることになるネイティブアメリカンの少年(どっちかというとマイアミとかにいそうな、ライトマッチョな中米系って感じもするけど)は、女の子にとってどれだけ魅力に写るのか、私には不明。
前作にあった愉快な描写も皆無に近く、“サーガ”を淡々とこなしているだけに思えてしかたがない。恋愛に苦しむ主人公少女の苦しむ姿を延々と見せられるのが、そうそう楽しいわけもないし。狼君たちを観ても、ヴァンパイアたちのように、それなりに楽しんで生きてるなぁって感じがまったくせず面白味なし。恋愛についてもまったくスタイリッシュ感が欠落しており、東海テレビの昼ドラ以下である。
またもや、この指摘をしなくてはいけないのか…とウンザリなのだが、2作目の本作は、製作段階で3作目が決まっていた模様で、完全に“つづく”的な終わりになっている。もう、新たなファンは拒絶してますよ…くらいの勢いで、この1本に入魂する気がまるで見受けられない。次作へのブリッヂくらいに考えているのでは?と疑いたくなるくらい。
とにかく、75分くらいでおさまるような内容が130分もあるので、とにかくテンポが悪く、とにかく眠くなる。最後の40分を観終えるまでに、4回も寝て→戻して観直し…の繰り返し。

私には3作目を観る勇気がない。そのくらい駄作かと。少女マンガテイストだっていわれても、少女の6割はつまんないと感じるのでは?。もちろんお薦めできず。焼き鳥とビールをサービスするので観てくださいっていわれたら、なんとか観てあげてもいいかな…ってレベル。

#吸血鬼に狼人間ということなので、次は人造人間を出してもらおう。フンガー

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image1274.png公開年:2007年 
公開国:アメリカ
時 間:160分
監 督:アンドリュー・ドミニク
出 演:ブラッド・ピット、ケイシー・アフレック、サム・シェパード、メアリー=ルイーズ・パーカー、ジェレミー・レナー、ポール・シュナイダー、ズーイー・デシャネル、サム・ロックウェル、ギャレット・ディラハント、アリソン・エリオット、マイケル・パークス、テッド・レヴィン、カイリン・シー、マイケル・コープマン、ヒュー・ロス 他
受 賞:【2007年/第64回ヴェネチア国際映画祭】男優賞(ブラッド・ピット)
【2007年/第42回全米批評家協会賞】助演男優賞(ケイシー・アフレック)
コピー:あこがれて こがれて、心がつぶれた。

南北戦争後、強盗団を率いて悪事の限りを尽くしたジェシー・ジェームズだったが、戦勝軍の北軍側政府に不満を持つ南部の人々からは、抵抗のシンボルとして英雄視されていた。逃亡生活が15年ほど続いたころ、ジェシーは兄フランクと列車強盗を計画していたが、彼らの前に、強盗団メンバーのチャーリーの弟ロバート・フォードが現われ、仲間に加えてほしいと申し出る。ロバートはジェシーを人一倍崇拝していたが、フランクは小心者の青年を相手にしなかった。しかし、何故か、ジェシーは一存で仲間に迎え入れ…というストーリー。

『パブリック・エネミーズ』の主人公である銀行強盗犯ジョン・デリンジャーと同様で、日本人には馴染みのない人物(あ、本作は実話ベースね)。ジョン・デリンジャーは犯罪者でありながら、銀行強盗をする時に現場にいた客の金に手を付けなかったということで、民衆からは人気があったらしいが、本作のジェシー・ジェームズも同様だった模様。かなり悪質な犯罪者にしか見えないのだが、国家やら企業やら権力者に対抗したり、民衆に牙を向かないちょっとしたエピソードがあると、簡単に英雄視するところまでいってしまうアメリカの民衆の心理が、イマイチ理解できない。日本でもねずみ小僧を義賊扱いした例はあるけれど、弱者に金を配ったってエピソードは作り話だからねえ…。

しかし、『パブリック・エネミーズ』と本作を観て、アメリカ人がなんで社会主義を病原菌のように忌み嫌うのか、わかった気がする(全然関係ないように見えるけど)。大金持ちの企業や銀行を相手にして、国家権力の象徴である警察をあざ笑うようにして捕まらない、そんな注目に値する犯罪者がいるとしよう。もし民衆が金持ちや国家に対して不満を持っていたとすれば、“敵の敵は味方”理論で、民衆は犯罪者を味方として感じてしまう。でも、普通はそこで、「とはいえ、犯罪者でしょ」というストッパーがかかり英雄視するまではいかない。しかし、さらに、民衆に対してやさしく振舞う行動が噂されると、そこで“義賊だ”となって、リミッターが解除されてしまう。
客観的に見れば“犯罪者というカテゴリー”の中では上位なのかもしれないが、社会全体からみれば犯罪者以外のなにものでもないのに、犯罪者カテゴリ内の相対的な比較が、社会的評価にそのままシフト(というか倒錯)してしまうのだ。違う見方をすれば、狭いコミュニティの中で上下関係をつけて人間的価値観を決めたがる性向であるといえる。自分の価値を高めるには、他者との差を明確にする必要があるわけだが、差をつけるために自分の方を高めるならいいのだが、他者のアラをさがしておとしめることもあるわけだ。さきほどの犯罪者の上下評価が、社会的評価に簡単に倒錯されてしまう社会の場合、ちょっとした出自・門地・肉体的欠陥・失敗などによる狭いコミュニティ内のマイナス評価が、社会的評価に反映されるといいことになる。
共産主義世界や日本の過激派での内ゲバに見られたような、そういうことが社会全体で発生しやすい土壌が、アメリカにはあるということなのだ。元々そういう性向であることを無意識に感じているので、社会主義を異様なまでに忌避するわけである。そして、他者との優位性を勝ち取りたい場合には、相手を貶めるのではなく、自分がのし上がりなさい。そう、アメリカン・ドリームを賞賛する社会になる。そういう流れになった…私はそう見る。

しかし、その弊害で、健康保険制度を導入しようとするだけで社会主義的発想だ!っていう批判がおこり、その批判にまともに反論できない社会になっているのは、『シッコ』のとおりである。

閑話休題。

ジェシー・ジェームズ自体を知らない私たちには、ピンと来ないのはもちろん、人物の相関関係も煩雑。さらに尺も長いときているので、半分の人はつまらないと感じると思う。やはり、逃走劇が終幕するまでと、その後日譚とで、ストーリーの焦点がまったく別なので、せめて時間的な配分を同じ分量にすべきだと思うのだが、それはブラッド・ピットとケイシー・アフレックの格の違いのせいなのか。いずれにせよ、バランスの悪さは否めない。

ただ、カメラワークや画質の色味など、なんともいえない独特の雰囲気が醸し出されており、雰囲気を愉しむことがはできるし、ブラッド・ピットもケイシー・アフレックも受賞していることから判るように、演技の面で問題はなし。この二人だけでなく、各俳優が総じてよいデキなのは救いである。

最終的におもしろいと感じるかどうかの差は生じるとも思うが、途中で投げ出したくなる人は少ないと思う良作だと思う。でも、秀作とは言えない。

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image1487.png公開年:2009年 
公開国:日本
時 間:120分
監 督:横浜聡子
出 演:松山ケンイチ、麻生久美子、ノゾエ征爾、ARATA、齋藤咲良、竹谷円花、米田佑太、中沢青六、キタキマユ、野嵜好美、乗田夏子、宇野祥平、小野寺陸、藤田弓子、原田芳雄、渡辺美佐子 他
コピー:脳みそなくても心臓止まってもぼくの恋は死なない



青森で野菜を作りながら暮らす青年・陽人。ある日、野菜を売りに行った幼稚園で、東京から来た町子先生と出会い一目惚れ。陽人は相手の気持ちも考えずに付きまとい続け、そんな彼に町子はすっかり困惑してしまう。そんな彼女がなぜ青森に来たのかというと、事故で死んだ元カレの首がいまだに見つからないため、カミサマと呼ばれる占い師に在り処を聞こうとしたからだったが、もちろん在り処はわかるはずもない。陽人のつきまといが続く中、とある事件でいつもより落ち着いた陽人を見て、町子が「今のほうがいいかも」といったことがきっかけで、彼はとんでもないことを思いつく…というストーリー。

週刊モーニングの真ん中より後ろのほうで連載してるマンガみたいなテイスト。それも6週くらいでおしまいになっちゃうような。だから、作品としてNGでも反則でもないんだけど、“そういう作品もがあっても別にいいけど…”の域を出ていないように思える。やろうと思えば、一人でシコシコ書き上げることができるマンガなら、個人の発想のまま突っ走ってこういう仕上がりになるのは理解できるんだけど、映画の場合はどうなんだろう。明確にこのラインを狙ったのか、やってるうちに偶然的にこうなったのか…、よくわからないけど、映画製作ってずいぶん気安くなったものだなぁ…って、感じてしまった。

全編津軽弁という、配給側にしたら臆するような演出だけど、幸い(?)なことに、ワタクシの親が東北出身なもので、ほぼ理解できた。東北弁に縁のない人が、どの程度理解できたのか興味がある。しかし、本場の東北弁はこんなものじゃなくて、まず外部の人間には聞き取り不能。本作のはとてもとてもライトなのだが、もっとネイティブだったら「冒険したなぁ…」って評価するところなんだけど、逆にひよったんじゃね?って、感じてしまった。

軽度の知的障害者という設定らしいので迂闊な表現ができなかったのは理解したいが、現実と内面世界の境界にいる陽人の世界観をどこまで表現できるかが勝負だったと思う。横尾忠則の絵画に通じるくらいのところまでいってほしいと思うのは、私のハードルが高すぎるのか(注;ああいう絵画的表現をしろといっているのではない)。中盤あたりまではなんとかついていけたが、後半になると、「これ、どうやって終わらせるつもりかねぇ…」ってことをしか、着目点がなくなってしまう。おそらく、共感というか理解できるキャラが誰一人いないというのが大きいかもしれない(注:役者のデキが悪いといっているのではない。キャラ設定が薄っぺらという意味)。

ただ、キャスティングでも、意外とひねりのない部分があって、青森 → イタコ →憑依 → 憑依する俳優 (って評されてる) → 松ケン → 青森 … って無間ループの発想ってわからなくもないけど、そういう浅い想像でキャスティングとか舞台が閃いたんでしょ?思われたらちょっとこっぱずかしいので、これはやめよう…って私なら思う。とはいえ、松山ケンイチじゃないと成立していないわけで、いろんな意味で八方塞りなのだ。私なら、とりあえずリセットしてもう一回考え直そう…って思うだろうな。先日、日本映画は香川照之に頼りすぎだって書いたと思うが、松山ケンイチと麻生久美子にも頼りすぎである。ただ、一つ関心したのは、声でARATAとわかったこと(配役はあらかじめ見ていなかった)。持って生まれた声がいかに人の印象を決めているか。そしてARATAが売れっ子な理由がわかった瞬間。

別に観ても観なくても、皆さんの人生には何の影響も与えないと思われる。人に影響を与えないということは芸術ではないともいえるわけで…、いや、きっと世の中には、これに芸術性を感じる感性の高い人がいらっしゃるんでしょう。私がニブいんです。そういうことで。私はお薦めしない。

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image1425.png公開年:2009年 
公開国:日本
時 間:94分
監 督:木村祐一
出 演:倍賞美津子、青木崇高、板倉俊之、木村祐一、西方凌、三浦誠己、宇梶剛士、村上淳、段田安則、泉谷しげる、中田ボタン、ハイヒールリンゴ、板尾創路、新食感ハシモト、キムラ緑子、安藤玉恵、橋本拓弥、加藤虎ノ介、遠藤憲一 他
コピー:お金は神か、紙切れか。



昭和25年。大津シンゴは、ふるさとの山村にて、元軍人の戸浦らを集め、発行されたばかりの新千円札のニセ札製造を持ちかける。しかし、印刷機を購入するには多額の資金が必要だということが判明したため、小学校に務めるかつて自分の教師だった佐田かげ子に参加を促す。犯罪に荷担するなどもってのほかと拒否するが、知的障害を持つ息子や本の一つも買えない生徒の状況を考え、ついに荷担を決める。やがて戸浦をリーダーにして、実行部隊のメンバーが揃い、かげ子は大津とともに印刷機購入の資金集めを担当するのだが…というストーリー。

やりとりが不自然だったりクサく感じられたり、不要なカットが残っていたり(目標のお金が貯まりました!って会議の場面での板倉俊之の含みのある顔とかね)、初監督ということなので、大目に見てあげたいと思っている。脳内で想像したときにはウマく描けていても、実際に形にしてみると何かヘンってことは往々にしてある。芸術なんてそれとの戦いといってもいい。それを繰り返すことでウマくなっていくのだから。自分が映画をつくれっていわれて、一発目でここまでできるかは疑問だもの…って、厳しい気持ちになれないのは、プロレベルに達していないと無意識に感じているからかもしれない。それはそれで悲しい作品かも。

ただ、脚本に関しては、より救いようがないかもしれない。極秘裏に遂行するということが前提なのに、仲間になるであろう確度の低い先生を引き込み、拒否されるとそのまま帰ろうとする意味がわからない。村人に信用のある人だからというチョイス理由はわかるけれど、正義を振りかざして計画を破綻させるかもしれないのに。そして先生が参加するもっともな動機がさっぱりわからない。本などを買ってあげたいということじゃなくって、バレて捕まったとしてもそれでもいいんだ!と決意するまでの根拠が希薄なのだ。だって、ニセ札で購入したことがわかれば買った本は接収される可能性だって低くないんだし、村人にばら撒いたニセ札なんかまちがいなく回収されるんだし。そのリスクをおかしても、それに賭けるだけ困窮しているという描写も不足している。さらに、最後、かげ子の取り分の使い道は結局わからなかったって、状況ですぐわかるんだから、リアリティなさすぎでしょ(やるなら、警察はわかってたけど、あえて…みたいな描写を入れないとさ)。

最後の裁判でのかげ子のセリフも、ものすごく気に喰わない。「国家がお金の価値を決めるですよね」。お金の価値は市場が決めるんでしょ。「わかったことがあります。お札は結局タダの紙切れ」って、お札はタダの紙切れではなく、労働に対する価値を証明するものでしょ(厳密にはそれだけじゃないけど)。それを否定することは労働を否定することと同じである。もしこれが映画を介して伝えたいメッセージだとしたら、この脚本家たちは何か大きな勘違いをしているのではなかろうか。お金はただの媒体であって、お金自体に価値があるものではないということが理解できていたら、こんなはずかしい脚本は書けないだろう。仮に、このセリフを言わせたいなら、それ以上に国家が人の労働や財産(命を含む)をないがしろにしているでしょ!という指摘を、うまいこと盛り込まないといけないのだ。それを盛り込めるだけの力量が無い上に、論理的に自分の考えが未整理で、おそらく根本的に考え方に誤りがあるので、この有様なんだと思う。

キム兄は、パートナーを間違えたと思う。もうしわけないが、他者には薦められない。ただ、もう一度、監督をするチャンスが彼にめぐってくることは祈る。その時は、いい仕事仲間を見つけて欲しい。化けないとは言い切れない何かはあるような気もするので。でも、本作はお薦めしない。

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プロフィール
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クボタカユキ
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趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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