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公開年:2007年
公開国:ドイツ、ロシア、カザフスタン、モンゴル
時 間:125分
監 督:セルゲイ・ボドロフ
出 演:浅野忠信、スン・ホンレイ、アマデュ・ママダコフ、クーラン・チュラン 他
ノミネート:【2007年/第80回アカデミー賞】外国語映画賞
【2007年/第21回ヨーロッパ映画賞】撮影賞(セルゲイ・トロフィモフ)
【2007年/第14回放送映画批評家協会賞】外国語映画
コピー:闘って、生きた。
守るべきは、この愛しきもの
12世紀のモンゴル。キヤト族の頭領イェスゲイの長子テムジン。9歳の時、他部族の娘ボルテと出会い婚約するも、その帰路にイェスゲイが他部族に毒殺されると、部下のタルグタイの裏切りにより家財を奪われ放浪の身となり、さらに命を狙われ続けることとなる。そんな逃走の中、凍てつく池に落ちたテムジンは、少年ジャムカに助けられ、2人は盟友(アンダ)の誓いを交わす…というストーリー。
『蒼き狼 チンギス・ハーン』とは大違い。好感が持てる点が多々ある。
『蒼き狼 チンギス・ハーン』で鼻についた中華目線はもちろんなし。ある時点で囚われの身になったテムジンが回想する形式で話は進むのだが、そう言うと『蒼き狼 チンギス・ハーン』と同じく一人称目線じゃないかというかもしれないけれど、そうではない。自分の回想とはいえ客観的な目線で展開するし、後の中華的価値観でモンゴルの風習を野蛮だと思ったり、大人(タイジン)ぶって説教臭いことを吐いて言動不一致になったりはしない。
歴史書によってまちまちだったり食い違うところは、おもいきってばっさりと扱わなかったり、逆に謎の期間は、大胆にフィクションにしてみたり(だからといって歴史的にむちゃくちゃだってわけじゃない)と、歴史劇としてはものすごく評価できる。
口伝のためものすごくあいまいな、出自にまつわるところは扱っていないし、文書によって扱ったり扱わなかったりの(私的にはおそらく創作と思われる)弟を殺害して母に叱責されるシーンもなし(その経験から同族は殺さないと誓ったなんて、後の行動と矛盾するんだよね)。メルキトにさらわれて妊娠したボルテについて悩む部分もなし。本作では、メルキトの子か自分の子か微妙…というのではなく、“誰の子だろうとまったく気にしなかった説”を採用しているのもよいと思う。
大胆なフィクションだなぁと思うのは、西夏に奴隷として囚われたというくだり。ジャムカとの激突は、明確に敗北したという記述はないのだが(状況的に敗北だと思うが)、敗北後に西夏あたりを放浪していた時期は、文献的には空白。それを逆手にとって奴隷になっていたと大胆に創作している。さらにその間にボルテは商人の愛人になり、その間に一子もうけた末にテムジンを救出。明らかに他人の子だけどあっさりとまるごとと受け入れる。ボルテがそんな行動をしたのも、そんな出自の娘がいたことも聞いたこともないんだけど、“妙技”だと私は思う。識者と脚本家がかなり練ったと予想する。とにかく現代人の常識・モラルでは受け入れがたい(理解しがたい)行動様式もそのまま表現しようという姿勢がよい。
実際に囚われてばっかりの人生だったテムジン。映画にする場合、かっちょわるいのであまり表現することがないんだけど、本作ではしつこいくらいに囚われる(笑)のもよし。
風俗的には『集史』の挿絵と現在のモンゴルの衣装の折衷した感じで、事実か否かはさておき、違和感はない。浅野忠信は、恰幅のいいテムジン像じゃなく『集史』の挿絵にある細身のイメージで、こちらもあり。
若干微妙なのは、ストーリーを集約するために、ラストの史実をかなりはっしょっている点。西夏時代にテムジン勢力は急拡大するんだけど、なぜ急拡大するのかっていう部分。本作では神だのみと掟を定めるシーンの後、その信念の元に大勢力が集まったとなってる。ここはジャムカの人望の無さに嫌気がさしてテムジン側に人が流れたり、テムジンよりも権力のあった別のハーン(オン・カン)との関係や、金(中国の王朝ね)との関係とか色々あるんだけど、あえてジャムカとの対立軸だけ残してあとは捨象している。
総じて、歴史ドラマとしてかなりおもしろく観れるのでお薦めする。余計なことを考えずに(というか考えることが無駄に思えるような生い立ちで)一心に目的にむかって進んでいく、本当の狼みたいに研ぎ澄まされた人格を浅野忠信はうまく演じていると思う。
#ボルテ役の人は民族色強すぎですかな…。
公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:117分
監 督:アンドリュー・デイヴィス
出 演:シガーニー・ウィーバー、ジョン・ヴォイト、シア・ラブーフ、ティム・ブレイク・ネルソン、パトリシア・アークェット、クレオ・トーマス、ジェイク・M・スミス、バイロン・コットン、ブレンダン・ジェファーソン、ミゲル・カストロ、マックス・カーシャ、ノア・ポレティーク、ローマ・マフィア、シオバン・ファロン・ホーガン 他
ノミネート:【2003年/第9回放送映画批評家協会賞】ファミリー映画賞(実写)
【2004年/第13回MTVムービー・アワード】ブレイクスルー演技賞[男優](シャイア・ラブーフ)
コピー:大切なものは中においてきた。
イエルナッツ家は先祖がかけられた呪いのせいで、なにをやっても悪運続き。ある日、スタンリー・イエルナッツ4世は靴泥棒の汚名をきせられ、青少年犯罪者の矯正施設グリーン・レイク・キャンプに服役することに。“レイク”とは名ばかりの砂漠で、脱走しても生き残る可能性がないほどの劣悪な環境だったが、少年たちに1日1個大きな穴を掘らせていた。人格形成のためと言うが、実は所長にはある目的があった…というストーリー。
『スペル』を観て、同じ“呪い”つながりの本作を思い出した。実は、ディズニー配給でかつ子供向け作品なのに、なぜか日本未公開という不遇の作品。ルイス・サッカーの原作を読んでから観たという人がけっこういらっしゃるようで。なんといっても“穴”というファミリー向けなのに子供の喰いつきが悪そうな邦題もよろしくないのかな。ジャケット画像もセンス悪いしね。
パッと見、無実の罪をきせられて厚生施設に収容される話だったりするので、あまり教育上よろしくない内容を含むのかな?とか、アクの強そうな内容かな?思われるかもしれない。しかし、それどころかまったくの無毒映画。かといって子供だましというわけでもないので、大人が観ても飽きないでしょう。原作がすばらしいんでしょうな(だから、シガニー・ウィーバーも悪役のオファーをうけているんだろう)。
知らない方も多いと思うけど、隠れた良作だと思うので、強くお薦め。
呪いがテーマということでホラーチックかと思いきや、アドベンチャー的というかファンタジー的な作品。同じく呪いがテーマの『スペル』はホラーで本作はファンタジー、この差は何か。おどろおどろしい演出の有無だけではないことに気付く。本作でかけられる呪いは、とある契約を履行しなかったためにかけられたものということで、ある意味、因果律の辻褄は合っている。『スペル』のほうは、いわれのない呪いで理不尽極まりない。この“理不尽さ”が、ホラーとマジカルファンタジーを分ける分水嶺なんだなぁと。
公開年:1998年
公開国:中国
時 間:110分
監 督:サイフ・マイリシ
出 演:テューメン、アイリア、バヤェルツ、ベイスン、キナリツ 他
モンゴル。ボルジギン氏の長の子として生まれたテムジン。他部族との同盟のために人質になっている最中に、他部族との抗争によって父が殺害されると、テムジンの家族は部族から見捨てられるという苦難を味わう。成長した後、部族長として返り咲くも、夫人ボルテをメルキトに略奪されてしまう。テムジンの小部族だけでは対抗できず、父の友人のワン・ハンや幼馴染のジャムハと連合するが…というストーリー。
『モンゴル』を観る前に、そういえば別のチンギス・ハーン映画があったなぁと思い、先にこちらを観る。というか、観てしまった…かな。先にいってしまうけれど、本作はダメだめですな。
映画として、一番引っかかるのはテムジンの一人称で語られているところである(それも中途半端なんだけどね)。なぜそれがダメなのかというと、まず、当時のモンゴルの風習・風俗は、本作でも表されている他部族の嫁を奪う風習しかり現代人の感覚では理解も共感もまず不可能なものなのに、現代人目線(それも今の中国人の価値観)で語られている点。弟を殺したことを反省しもう一族を殺さないと誓った…とか、元朝を立派な中国の一王朝として扱おうという意図のためなのだろうが、元々は野蛮人だったが改心してまともな人間になった…そういう人物が中国の王朝の祖ですよ…というロジックに見えて仕方がない。歴史映画の姿勢としては、若干醜く感じる。横山光輝のマンガのように、できるだけ第三者視点で淡々と出来事を語らないといけないところだと思うのだが。
本作はテムジンの出自からジュチが生まれるまのでエピソードで、“ハーン”となるかなり前の範囲までが扱われているのだが、ここで終わるのも、中国王朝の祖としての人間の器を表現したいがためだろう。普通ならこの後の統一過程のエピソードや、それこそジュチをはじめとする子供達の活躍だって見所のはずだから。
なんで私が、こうも作り手の意思を重要に思うのか。それは、『元朝秘史』なり『集史』で伝えられているテムジンの出生をはじめモンゴル諸族にまつわるエピソードは、詰まるところ口伝だし、遺跡的なものも決して多いわけではないので、正確性は低く諸説もバラバラだから。チンギス・ハーンの伝記には必ずでてくる長男ジュチの出自の秘密についてもそう。自分の子ではないと悩んだという出典は『元朝秘史』から。『集史』ではメルキトに奪われた時期にはボルテはすでに妊娠していたので、自分の子であることを疑っていなかったとされる。さらに研究によっては、元々、倒した他部族の子を自分の子として育てる風習があったので、メルキトの子だからといって悩むことは無かった…というものもある。要するに諸説紛々なので、作り手が“どうするか”で、どうにでもなると言い切っていいくらい。しかし、本作ではこの有様ということだ。
頭髪の処理や衣服など、同じ騎馬民族系と観点からなのか清族のものに近かったような気がするが、これは歴史学的に正しいのだろうか?さかやき状にそり上げて落ち武者のようなざんばら髪(そのまま結えば辮髪みたいだけど)。歴史に詳しい方は、この表現に根拠があるのか教えていただけると助かる。
あと個人的に不快だったのは、矢に射られて倒れる馬を表現するために、馬を落とし穴に嵌める手法と使っていること。痛々しく感じて仕方なくて、撮影手法としては非常に悪質と感じる。
私のように、何の気なしに気まぐれで観てしまうと、時間を無駄にしてしまうので、本作は観なくてよい。とにかく中国側が扱っちゃいけないテーマですな。
公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:99分
監 督:ビリー・レイ
出 演:ヘイデン・クリステンセン、ピーター・サースガード、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ザーン、ハンク・アザリア、メラニー・リンスキー、ロザリオ・ドーソン、マーク・ブラム、チャド・ドネッラ、ルーク・カービー、テッド・コッチェフ、クリスチャン・テシエ、アンドリュー・エアリー、キャロライン・グッドオール 他
受 賞:【2003年/第38回全米批評家協会賞】助演男優賞(ピーター・サースガード)
コピー:ニュースに、本当と嘘は、あるのか?
1998年、ワシントンD.C.。25歳のスティーブン・グラスは、最も権威ある雑誌“THE NEW REPUBLIC”の最年少記者で、斬新なスクープを連発し今やスター記者。気さくな人柄で社内外の人望も厚かった彼だったが、彼の手掛けた“ハッカー天国”という記事が他誌から捏造疑惑を指摘され、それをきっかけに彼の驚くべき事実が露呈していく…というストーリー。
アメリカで発生した実話なのだが、第四の権力といわれる報道の自由がこういう形で暴走したという事実…、ネット上の色々な感想や指摘を読むと、多くの人はこの点に主眼を置いてご覧になったようだが(もちろん間違いではないのだが)、私の観点は異なるなぁ…と。
“ウソを突き通すために辻褄合わせのウソを重ね、それらがバレそうになりさらにウソを付くときの緊迫感”とか、“ただの周りの注目を浴びたかっただけの若者の過ち”とか、“他人から愛されたい深層心理”とか…そういう感想があったのだが、私はそうは思わないのだ。彼は、残念ながら“普通の人”ではないから。簡単にいってしまうと、『平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学』(M.スコットペック著)という書籍にて研究対象となっているカテゴリの人ということ。“普通の人”ならば、不誠実なことをした場合、多かれ少なかれ良心の呵責に苛まれるだろうが、そうでない人々の一群がいるのだ。もう10年以上も前に出版された本なのだが、社会生活を営む上で、かなり有益な書籍だと思うので、読むことをお薦めする。未読の人は、読んだ後に、本作を観なおすと印象が変わることだろう。
私は、グラスは確信犯だと見ている(確信犯の意味を、悪いと“確信”しながら罪を犯す人と思っている人が多いのだけれど、それは間違い。確信犯というのは、自分の行為が正しいと“確信”して罪を犯す人のこと。間逆だからね)。捏造は良くないこと自体は彼は理解している。でも、それを行うことに微塵の呵責もないのである。
『平気でうそをつく人たち~』では、そういう人の特徴は以下だといっている。
・どこにでもいる普通の人
・非常に意志が強い
・自分には欠点がないと思っている
・罪悪感や自責の念に駆られることを嫌う
・他人から善人だと思われたいと強く望む
・他者をスケープゴードにして責任転嫁する
・体面を保つために人並みはずれた努力ができる
等々…
本作の中のグラスの行動すべてが当てはまっていることに気付くだろう。若干語弊があるかもしれないが、彼は“サイコパス”“闇世界の住人”なのだ。だから、先に挙げさせてもらったような感想は、普通の人間ではない彼に対して該当しないと私は考えている。本作は、血も出なきゃ人も死人も出ないが、『羊たちの沈黙』くらいのサイコパスムービー。それも実話なのだから、強烈に恐ろしい。
そろそろお気づきかもしれないが、程度の差はあれ、こういう人は確実の廻りに存在するよね。絶対、記憶にあるはず(なければ、もしかするとあなたが“平気でうそをつく人”なのかも)。私は、そういう人に悩まされてこの本を読んだクチである。
#あれ?なんか一昔前のヒルズ族もこんなかんじじゃなかったか?(笑)
周知の事件を映画化したことを考えると、なかなかうまくまとめたと思うし、希代の詐欺師の話だと思っていた人は、私の目線で観てみると、違った見方ができるかもよ。けっこうお薦め。
公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:99分
監 督:サム・ライミ
出 演:アリソン・ローマン、ジャスティン・ロング、ローナ・レイヴァー、ディリープ・ラオ、デヴィッド・ペイマー、アドリアナ・バラーザ、チェルシー・ロス、レジー・リー、モリー・チーク、ボヤナ・ノヴァコヴィッチ、ケヴィン・フォスター、アレクシス・クルス 他
ノミネート:【2010年/第19回MTVムービー・アワード】恐怖演技賞(アリソン・ローマン)
コピー:何故?どうしたら? 解けなければ、死。
銀行の融資窓口で勤務するクリスティン。ある日彼女は、不動産ローンの返済期日延長を必死に懇願する老婆の願いを拒絶する。その夜、仕事を終えたクリスティンは老婆の待ち伏せに遭い不気味な呪文をかけられしまう。その翌日から、次々と恐ろしい怪現象が彼女を襲うようになり…というストーリー。
『スパイダーマン』で成功して、あっちの世界にいってしまったサム・ライミがこっちの世界の戻ってきた(あっちこっちって、説明するまでもなく、あっち=メジャー、こっち=インディーズ・B級、である)。“おかえりなさいサム・ライミ”と、色々なところで書かれていたが、まさにそんな感じの内容。実のところ『死霊のはらわた』は遠い記憶の中にしかないんだけど、『死霊のはらわた』シリーズのスピンオフか?っていう指摘もあるので、これを機会にちょっと観てみる気になったかな。
旧来からの彼のファンに、あの頃のサム・ライミはいなくなっちゃったねえ…と散々言われ続けたのを、忸怩たる思いで聴いていたのだろう。本当のオレはここにいるぜぇ~~!。オープニングのユニバーサルのロゴも古いやつだったものね。あの頃のオレ参上って感じで大爆発である。老婆の痰まじりの唾液とか、よだれまみれの入れ歯とか、歯茎ではむはむされたりとか、口から虫とか、昨今のホラーでは逆にめずらしくなっちゃった生理的な嫌悪感が画面に盛りだくさん。
ストーリー的には、悪気があって断ったわけでもないのに、とんでもない呪いをかけられちゃうという理不尽さがよい。社会が発展したからといって、なんでも道理で解決できる世の中になるわけじゃなくって、かえって理不尽で納得できないことが散見されるものなのよ(おお、これも“疎外”)。そういう罪と罰の因果関係は明らかじゃないんだけど、厳然と存在する社会不安みたいなものってあるでしょ。そういう腑に落ちなさをベースにしてグイグイ引っ張り続ける感じがステキ。
逆恨みババアに、田舎娘を見下す恋人の母親とか、妙に都合がいい恋人等々、普通に考えれば変な要素が盛り沢山。それらが理不尽さに輪をかけている。猫あっさり(笑)とか、ミス・ポーク・クイーンとか、こういうコメディ要素も大事だよね。
ちなみに“スペル”っていうのは綴りのスペルじゃなくって、呪文とかまじないって意味だそうだ。こういうB級ホラーには、『死霊のはらわた』とか『遊星からの物体X』とか原題とはかけ離れながらも名邦題が多かったものが、せっかくサム・ライミが戻ってきたのだから邦題のセンスだって回帰すべき。しかし残念ながら邦題のセンスは回帰しなかった。そこはがんばれよな、配給会社。私なら“死霊の舌なめずり”とか“呪いのいきづかい”ってつけるかな(ダメか)。
#さすがに“私を地獄につれてって”って直訳にはできないものね。
最後の勘違いオチも、ほぼ全員が予測しただろうけど、そんなのどうでもいいっすわ。とにかく眠気はまったくおこらず。これがA級パワーでつくったB級映画である。軽くお薦め。
#とかなんとか言っておきながら、私のサム・ライミでお気に入りの作品は『ギフト』だったりするという矛盾。
公開年:2003年
公開国:イタリア、イギリス
時 間:116分
監 督:ファブリツィオ・コスタ
出 演:オリヴィア・ハッセー、ミハエル・メンドル、エミリー・ハミルトン、セバスチャーノ・ソマ、ラウラ・モランテ、イングリッド・ルビオ 他
コピー:それはどんな困難にも負けず、愛することをやめなかった一人の女性。
1946年カルカッタ。修道院内の女子校で教鞭をとるマザー・テレサは、ある日、“貧しい人々のために尽くしなさい”という神の声を聞く。自分の活動の場所は修道院の中ではなく貧しい群衆の中であると悟った彼女は、院外活動を開始。しかし、修道会に属しながら活動することに限界を感じ、新しい修道会(神の愛の宣教者会)の設立をし、親を失った子どもたちやハンセン病患者などのために、献身的に尽くす…というストーリー。
はじめに正直に告白しておくと、マザー・テレサという貧しい人に献身した人の存在は知っていたけれど、具体的にどのような活動をした人物なのかよく知らず。お恥ずかしい限りだが、カトリック信者でもないし、24時間テレビ的なものにあまりアンテナが向かない性分なもので。その活動場所がインドであることすら知らなかったくらいで、彼女の行動について、ああだこうだ言うのも憚られるところであるが、思うところを書くとする。
第二次大戦後の情勢、ましてやインドの状況を考えれば、無私の愛を発露とした彼女の行動について、とやかく指摘する気など毛頭おきない。もっとこうすればとか、それはおかしいとか、そういう指摘の意味はまったく無い。この世には「文句を言うなら自分でやればいい」と、他者の指摘に耳を傾けようとしない馬鹿な先人が多々いるのだが、彼女はこの台詞を言う権利のある人物である(問題があると思うなら、あなたの思うように行動すればよい…、それだけのことだものね。シンプル極まりない)。
ただ、後世の人間として(っていうほど後じゃないけど)考えなければいけないことはあると思うので、憚りながらも自論を書くことにする。
賞賛されるべき行動ではあるのだが、彼女たちの行動パターンですべてが解決するわけではない。変な例をだして申し訳ないが、彼女の行動はアインシュタインの理論でいうところの「特殊相対性理論」みたいなものである。あの状況とあの救うべき対象においては有効であるという意味で。
多くの人が気付いているだろうが、必ずしも“無償”がいい結果を生まないことは歴史が証明している。無償であることが普通になれば人は努力しなくなる。社会主義政策しかり、これまで行われてきたボランティア活動の結果しかり。よく言われるのは、お腹の好いた人には食べ物を与えるのではなく食べ物の取り方を教える必要があるということ。だから昨今の海外援助活動は、教育支援や職業訓練も行われるわけである。やるべきことは自立支援、どれだけうまくランディングさせることができるか、である。
でも、瀕死の場合には食べ物を与えなければ元も子もない。当時のインドの状況(特に子供たちには)を考えれば、瀕死の対象数が膨大なのだから、その人々に施すだけで手一杯。彼女の無償の行動は至極妥当であったが、彼女の模倣をすればすべて解決するわけでないとは、そういう意味である。
本作の端々で、印象的な彼女の言葉がちりばめられているが、それらについてもあくまでその状況では有効なだけであって、必ずしも万能薬でない場合が多々ある。彼女は“会社”に対してすごくアレルギーを示す。会社は合目的性の下に存在する組織であるから、時には個人の考えと異なる動きをしてしまうことがある。マルクスのいう“疎外”と同意である。これは社会法則というよりも自然法則なのだから致し方ないのだが、どうも彼女はそこが腑に落ちていなかった模様。会議の場に出された水の値段が高額だったために、会社組織をやめて個人の活動に戻るを宣言するのだが、これが発生すること自体は仕方がないことで、その都度修正するしかない。それでも会社組織が行うことと個人で活動した場合のメリットを天秤に懸けて、会社組織で行ったほうが大きければ会社の意味はある。その水の代金で何人の人が救えるか!と怒る感覚はもっともだが、それはもっと安い水にしろといえばいいだけのことで、会社組織を否定するのは的外れ。だから24時間TVの寄付金集めのためにどれだけ予算をつかっているんだ!出演者は勿論ノーギャラなんだろうなぁ!なんていう指摘は、もっともらしいがピントがずれているのだ。
やはり“会社”とカソリックは、究極的に相容れないものなのかなと、実に興味深い点である。資本主義はプロテスタンティズムが生み出したというマックス・ウェーバーの慧眼恐るべしである。
#まあ、ノーベル平和賞のパーティが豪奢なのは、彼女の指摘の通りだろうけど。彼女の行動に賞を与えたなら、そういわれそうなことは判りそうなもので、想像力が欠如してるかな(平和賞だけは他賞とは別次元だからね)。
別の視点。
北方の文化が発達し、なぜ赤道付近の文化発達は遅延ぎみか?という人類学的な疑問の一般的な答えとして、北方は自然が厳しく食物調達のために努力を続けねばならなかったから、南方は容易に食物を調達できて努力をしなくてもよかったから…というものがある。この理屈の細かい正否は別として、おおまかには当たってはいるだろう。
でも、はたと周囲を見てみると考えさせられる。今の日本は努力せずとも食糧入手が可能である。もちろん誰かが努力してくれているおかげなのだが、それをよく考えもせず、まるで自然からの贈り物のようにこの環境を享受している。さてさて、この後、日本でも文化の遅滞が見られるのだろうかねえ(困難こそ進歩の母である)。
さて、いわゆる“偉人映画”だし、お亡くなりになったとはいえ彼女の意思を継いだ方々の活動は続いているのだろうから、あまり脚色もできない、映画的にはつまらないかもしれないと考えたのだが、彼女のことをよく知らなかったせいかもしれないが、最終的にはかなり愉しんで観ることができた。長さも手ごろ。24時間TVのマラソンを観るくらいなら、本作の鑑賞をお薦めする。ボランティアの考え方の一助になるだろう。
#布施明の元妻ですなぁ。
公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:131分
監 督:アラン・パーカー
出 演:ケヴィン・スペイシー、ケイト・ウィンスレット、ローラ・リニー、ガブリエル・マン、マット・クレイヴン 他
コピー:あなたはこの結末に納得できますか…
テキサス州。哲学科の大学教授デビッド・ゲイルは、良き家庭人であり、死刑制度反対運動の活動家だったが、現在は活動団体の同僚女性に対するレイプ殺害の罪で死刑が確定し収監中。彼は死刑執行直前になり、女性記者ビッツィーを指名し、多額の報酬と引き替えに独占インタビューを許可する。はじめはゲイルの有罪を確信していたビッツィーだったが、インタビューを重ねるうちに、冤罪を疑うようになり…というストーリー。
二度目の鑑賞。当時、まったく注目していなかった…というか、本作のことを全く知らなくって、昔やってた深夜番組(矢口ひとり)で、矢口真里が紹介したの聞いて借りて観た始末。アイドルタレントから情報を得るとは、映画の対するワタシのアンテナ、低かったなぁ。
ケヴィン・スペイシー出演作品では、『セブン』『ユージュアル・サスペクツ』『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』の3本は、“冷静な狂気”っていう共通点で大好きなのだ。恨みや怒りにまかせたバーサーカー(狂戦士)モードじゃなくって、着々と遂行するリアルな悪魔の所業的な感じが良い。
自分の信念のために、ここまで自己犠牲できるか?って疑問を呈する人がいるが、別に不自然でもなんでもない。自己犠牲とはいえども自分の信念のために自分の生命を使っているだけ(もはや他人のためではない)。それに、白血病で余命幾許も無い人と、家族も職も信頼も失って社会的価値が喪失し生きる意味を失った人間にとって、自分の信念のために身を賭すことくらい何てことはないだろう。
また、「冤罪の可能性があるから死刑はやめよう」なんて方向になるなんて有り得ないという人もいるが、それは民主主義システムに対する見識不足である。
死刑執行のためには州知事がサインするわけだが、なぜ州知事がサインする仕組みになっているかというと、行政の誤りによる冤罪を水際で防止するため。最後の最後に住民が選出した人間が判断を下すということ。その判断基準は、被告と検察の意見を冷静に判断して…ということではなく、完全なデュー・プロセスが求められる。つまり、検察側に一切の落ち度が無いことが条件で、その間の捜査に微塵の瑕疵があっても、その利益は被告のものとなるのが原則。つまり、まず犯人であることが明々白々だったとしても、証拠の採取において手順を逸脱している場合は、その証拠は証拠とみなされず、場合によってば無罪となるわけ。無実じゃないけど無罪ってこと。これが大原則である。
日本人はよっぽど行政に信頼があるのか(“お神”っていくらいだからね)、このデュー・プロセスが軽視されていて、多少証拠に問題があっても証拠として採用されてしまう。だから自白だけで死刑が確定されて冤罪が多々発生するのだけれど
でも、テキサス州の場合は、はじめっから知事はそういうチェック機関であろうという意思すらなく、死刑囚は殺すべきという考え方なわけで、そこが問題なわけ。
ただ、話をややこしくしているのは、死刑制度反対運動家たちが、自分の行動に自己矛盾があるのに気付いていないことである。
本来あるべき行動とは何かというと、まず、知事に現行法制上のあるべき視点で職務遂行することを求め(きちんとチェックしてね…ということ)、死刑廃止云々はその次の段階にすべきことである。しかし彼らはそうはできない。日々執行されていく死刑に対して、冷静になれないから。あげくのはてに、知事と討論しても、死刑制度に犯罪抑止力はないとかなんとか理由を言って、知事に死刑執行を止めさせようとする。基本的に知事は法律を遂行しているにすぎないわけで、その知事に死刑をさせないように脅しをかけて仕向けるのは、それはそれで民主主義システムからの逸脱。まず、死刑制度を廃止する立法がなされるように、立法府(議員)なり有権者なりに理解してもらうことに注力すべきなのだ。本来あるべき姿を求めていながら、脱法を求めているという矛盾。死刑廃止の問題が一向に進まないのは、これも一因である。
日本でもこの現象は発生していて、死刑廃止論者の弁護士が姑息な手段で司法の運営を阻害したり、死刑廃止論者の誹りをさけるために法務大臣が死刑執行のサインをしない例など多々ある。法務大臣が法律に決められた期日に死刑を執行しないのは、法律違反なのに平気で法を破る。大臣が法律を破るなんて法治国家として有り得ない行為なのだが、かといって誰も指摘しないばかりか、死刑執行にサインすると悪魔のように報道される。かといって死刑廃止が選挙の論点になったことすらない。日本も変な国である。
まあ、極論から言えば死刑を廃止しようがしまいがあまり状況は変わらないとは思う。死刑になることを前提に自暴自棄に犯罪を犯すケースも増えるだろうし、だからといって最高刑を無期懲役にしたところで、厭世傾向の人間が社会から隔離されたいがために犯罪を犯す場合も出てくるだろうし、多分きりがないだろう(なんか物理の世界の不確定性原理みたい)。個人的には死刑執行官の負担軽減のために無期刑を最高刑にしたいところだが(日本の死刑執行プロセスでは、心を病んでしまう執行官が多いことだろう)。
閑話休題。以下、若干ネタバレ。
で、はっきりと本作内で語られているわけではないのでが、私は次のような感じだったと考える。
ゲイルとコンスタンスは、自身の状況が切羽詰った段階になってはじめて真の問題に気付いたんだろう。枝葉の問題は捨象されて、根本原則である「冤罪の可能性」とその恐ろしさを国民に身をもって理解させるべきであると。いままで色んな方向に発散していた行動が、この一点に集約するのだがら、それは実に強烈かつ効果的な行動になる。そこに“死を厭わない”という冷静な狂気が加わるのだがら、さらに…である。
ゲイルの執行に間に合ったらどうなっちゃったのだろう?とか、ビッツィーが最後のビデオを公開したらどうなる?とか、それらがシナリオ上の穴だという人もいるのだが、それは誤り。本作のシナリオがすごいのは、仮にどっちにころがっても、目的は果たされるということである。国民は“人間は誤りを犯す”ということを思い知らされたわけだが、もし、これが狂言だと知っても、“人間は騙される”ということを痛感する。いずれにせよ、取り返しのつかない死刑はもっと慎重になるべきだと思うはずだから(必ずしも死刑廃止になるとは限らないけれど)。
#だから、本作のコピーは的外れだと私は思うよ。
ちなみに、最後の手紙は、ゲイルの賢さを表現していて好きな演出。2つの効果があるね。一つは父親はレイプ犯などではなかったという息子へのメッセージ。そして、夫を信じることができず、死に追いやることに繋がったかもしれないという負い目を一生背負って生きさせる、という妻への究極的な復讐。たまりませんなぁ。
#オペラの伏線も好き。
まあ、観終わってみれば、主筋はすごくシンプルなストーリー(死刑廃止のために考えたある計画ってだけ)だと気付くのだが、周りの味付けがよく練られていて実に秀逸なのだ。まったく無受賞・無ノミネートなのだが、こんなに無視されるほど出来の悪い作品では決してない。強くお薦めする。
公開年:2007年
公開国:アメリカ
時 間:158分
監 督:ポール・トーマス・アンダーソン
出 演:ダニエル・デイ=ルイス、ポール・ダノ、ケヴィン・J・オコナー、キアラン・ハインズ、ディロン・フレイジャー、バリー・デル・シャーマン、コリーン・フォイ、ポール・F・トンプキンス、デヴィッド・ウィリス、デヴィッド・ウォーショフスキー、シドニー・マカリスター、ラッセル・ハーヴァード 他
受 賞:【2007年/第80回アカデミー賞】主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2008年/第58回ベルリン国際映画祭】銀熊賞[監督賞](ポール・トーマス・アンダーソン)、銀熊賞[芸術貢献賞](ジョニー・グリーンウッド:「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の音楽に対して)
【2007年/第42回全米批評家協会賞】作品賞、主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、監督賞(ポール・トーマス・アンダーソン)、撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2007年/第74回NY批評家協会賞】男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2007年/第33回LA批評家協会賞】作品賞、男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、監督賞(ポール・トーマス・アンダーソン)、美術賞(ジャック・フィスク)
【2007年/第65回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](ダニエル・デイ=ルイス)
【2007年/第61回英国アカデミー賞】主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)
【2007年/第13回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)、音楽賞(ジョニー・グリーンウッド)
コピー:欲望と言う名の黒い血が彼を《怪物》に変えていく…
20世紀初頭。交渉を有利進めるために孤児を自分の息子として連れ歩く山師ダニエル・プレインヴュー。ある日ポールという若者から、自分の故郷に油田があるはずとの情報を得て、西部リトル・ボストンへ向かう。油田の痕跡を発見したダニエルは、即座に土地の買い占めに乗り出す。しかし、同業者の参入、ポールの双子の弟で住人の信頼を集めるカリスマ宗教家イーライとの確執、息子の事故など、様々な苦難がダニエルを苦しめる…というストーリー。
ディズニー配給には似つかわしくない、ハードな作風。
PTA作品は、いつも私が思い描く予定調和の、その上の展開を観せてくれるので、いつも好感をもって鑑賞している。今回も冒頭の10分以上台詞なしという演出や、強烈な個性の主人公、そしてPTA作品には常連(?)ともいえるカリスマ教祖的なキャラと、じつに“らしい”仕上がり。
とはいえ、中盤を越えても、一体何が言いたいのかテーマが掴めない難解な作品で、終盤になってようやく見えてきた。
“資本主義とは?”が、主題だと私は解釈した。
どういうことか。あくまで私見(というか、経済学上の自論)であることをお断りしておく。
資本主義がなぜ発展したか?というのには明確な理由がある。マックス・ウェーバー的に言えば、資本主義の基本理念は、「周りに何かしてあげて、それに対して適切な利益を得るのは、神の御心に沿っている」ということである。これはプロテスタントの行動様式であり、カトリックでは周りに何か施したからといって利益を得るのは神の教えに背くとされていた。つまり、プロテスタントの考え方こそが、資本主義を発展させたというのが、ウェーバーによる社会学的理論である。
でも、どうだろう。実際の経済活動において、周囲の利益のために何かをしようと常に考えている人がそんなにいるか?いないだろう。いないなら資本主義は発展しなかったのではないか?資本主義を発展させるための、もう一つ別のエンジンがあったんじゃないのか?というのが、ワタクシの理論である。
で、それはなにか。先に行ってしまうと、それは“ニアリー・イコール理論”。何と何が≠(二アリー・イコール=近似)かというと…
①周囲の人が幸せになるように労働をし、適切な対価・利益を得ること。
②対価・利益を得るために、周囲が求めそうなものを予測して、それに向かって労働すること。このまったく目的と行動が間逆の行為が、表面的には同じように見える…という、奇跡のような事象が、資本主義経済を発展させたのだ。①の目的は周囲への施し(愛といってもよい。②の目的は金(欲望といってもよい)。でも、表面的にはどちらも他者に満足してもらい対価を得る行為にしか見えない。愛ゆえの行動と、欲望ゆえの行動が、同じ動作になるとは!これを奇跡と言わずしてなんというか。仮に欲望だけをエンジンとして行動しても、資本主義経済は発展してしまう。むしろ欲望の塊の人間は、競うように資本主義経済発展に貢献するというわけである。
でも、まあ、日本もヒルズ族の所業と、その没落を見てきたわけだから、その“奇跡”にも穴があることは、なんとなくお判りかと思う。周りが求めそうなもの…というラインに収まっているならまだまだセーフなのだが、次第に、儲かるものは周囲が求めているものとイコールだと勘違いし始める(原因と結果がひっくりかえっているのに)。残念ながら、儲かるからといって周囲への愛と同意とは限らない。もう、散々聞き飽きただろうが、“儲かればいいのか?”という意見に繋がるわけだ。
(そこを詳細に説明するには別の理論を引っ張りだしてこないといけないので、ここでは割愛するが、)資本主義では、構造的に資本(財貨・資材)が一時的に偏って集まってしまう場合もあるし、誰も得をしないのに仕組的にお金になってしまうケースもあるし、偏在した資本を利用して有利な立場をつくってさらに儲けることもできる。
で、答えをいってしまえば、資本が目の前に“偶然にも集まってきた”人は、周りの人のためにどんどん投資しなくてはいけないのであるが、それをせずに、私欲を満たしたり、実際の利益を伴わない投機に使ったりすると、資本主義は破綻するのである(ああ、だれか、共著でいいから、一緒に論文にまとめてくれる人は、いないかなぁ…)。
で、二アリー・イコールなので、微かな差異が生じるわけだが、その差異は何か?“THERE WILL BE BLOOD”、つまり愛の変わりに血が流れるってことである。宗教としての愛(イーライ)も否定し、家族愛(HW)も踏みにじり、心は荒みに荒みきっても彼は財を成していく(資本主義は発展してく)のである。こういう欲望をエンジンにして、アメリカ経済いや世界経済は成り立ってきたのさ!本作は、そういう映画である。で、これが良いとも悪いとも主張していない、その目線も具合がいい。
、、、そして、こういう映画をディズニーという世界企業が配給する。ちょっぴりゾっとするでしょ。私は、はじめは(妙に長いし)イマイチな作品かな?と思っていたけれど、このテーマが見えてきた途端、猛烈におもしろく感じてきた。そう思えば、ダニエル・デイ=ルイスの欲の権化として、振り切った演技は実に見事。数々の受賞もさも在りなん。
個人的にはすごく楽しんだけど、お薦めしていいかどうかは悩むなあ(笑)。娯楽映画としては掴みどころがないし、大体にして長いんだもの(今日のレビューが長くなっちゃうくらい)。
公開年:1979年
公開国:アメリカ
時 間:130分
監 督:ハル・アシュビー
出 演:トム・ハンクス、サリー・フィールド、ロビン・ピーター・セラーズ、シャーリー・マクレーン、メルヴィン・ダグラス、ジャック・ウォーデン、リチャード・ダイサート、リチャード・ベースハート、ジェームズ・ノーブル、エリヤ・バスキン 他
受 賞:【1979年/第52回アカデミー賞】助演男優賞(メルヴィン・ダグラス)
【1979年/第14回全米批評家協会賞】 撮影賞(キャレブ・デシャネル 「ワイルド・
ブラック/少年の黒い馬」に対しても)
【1979年/第45回NY批評家協会賞】助演男優賞(メルヴィン・ダグラス)
【1979年/第5回LA批評家協会賞 】助演男優賞(メルヴィン・ダグラス)
【1979年/第37回ゴールデン・グローブ】 男優賞[コメディ/ミュージカル](ピー
ター・セラーズ)、助演男優賞(メルヴィン・ダグラス)
【1980年/第34回英国アカデミー賞】 脚本賞(イエジー・コジンスキー)
生まれてから一歩も屋敷から出たことのない庭師チャンスは、主人の死をきっかけに屋敷を出ることに。はじめて出る世間にとまどいつつも、見るもの全てが珍しい彼は街を徘徊。そんなとき、偶然にも、余命いくばくも無い財界大物を夫に持つ貴婦人が乗る高級車に轢かれてしまい、屋敷で治療を受けることになり…というストーリー。
『フォレスト・ガンプ』のレビューのときに、同じテーマの作品と書いてしまったが、観終わって、主役が知的障害という設定こそ一緒だが、テーマも切り口もまったく異なっていると気付いた。まず、根本的に、世間からアホ扱いされるか、傑物扱いされかという段階でまったく別もの。アホ扱いされずに世の中から勘違いされ続けるという脚本を成立させている点は、もちろんすばらしいと思う。コメディだものね。そこは否定しない。しかし、本作の、極端なまでの世の中に対するシニカルな目線が、私には、鼻についてしかたがなかった。
結局はラストに到っても、何かが示唆されるわけではなく、世の中をハスに見続けて揶揄して終わっただけ。さらに、その揶揄は、最後の悪趣味なキリストのパロディで終わるのだ。ちょっとセンスが悪くはないだろうか(それもフリー・メイソンのお葬式で)。不謹慎だといっているのではないし、シニカルな目線が悪いといっているのでもない。結局、私の大嫌いな、“世の中のアホは救いようが無いんだよ”“いくら何をやっても変わらないんだよ”っていう、シニカルを通り越してニヒリズムになっちゃってるのがイヤなのだ。
でも、最後のNGシーンを観て、ああ、製作側は私が受け取ったよりも軽い感覚で作っていたのだな…と気づく。それはそれで、なんかしっくりこなくて不快ではある。
もっと評価されていい作品という意見もあるけれど、私にとってはものすごく不快な作品。どうも、うまく表現できないんだけど、邪悪な思考の匂いがしてしかたがない。非常に底意地の悪い人がつくった作品だと思う(もちろん実際は知らんけど)。だから、お薦めしない。
公開年:2002年
公開国:アメリカ
時 間:107分
監 督:M・ナイト・シャマラン
出 演:メル・ギブソン、ホアキン・フェニックス、ロリー・カルキン、アビゲイル・ブレスリン、M・ナイト・シャマラン、チェリー・ジョーンズ 他
コピー:それは──決して気づいてはいけない兆候(サイン)
牧師グラハムは、最愛の妻を悲惨な事故で亡くしてしまい、その無慈悲さから神に疑念を抱き牧師を辞める。農夫となったグラハムは、弟と2人の子供たちと共に平穏に生活していた。そんなある日、畑に巨大なミステリー・サークルが突然出現。それ以降、不審な人影が現れるなど奇怪な出来事が続発し…というストーリー…。
公開当時、劇場で観た。宇宙人モノみたいなCMだったけど、私には何かピンときていた。それはあくまで単なる仕掛けに違いないと。観終わったあと、発売されたらすぐにDVDを買おう!と思ったのを覚えている。私の予感は的中。本作はシャマラン監督作のなかで飛びぬけてお気に入りである(とかいうと、私だけが本作を評価してるみたいな言い方に聞こえるかもしれないけど、実際に興収34億円の大ヒット作だったんだけどね)。、、、と話すと、“はあ?”みたいな顔をされることが多々ある。宇宙人がでてきたとこで笑っちゃったけどね…とか、なんか細かいところでツッコミどころ満載じゃね?とか言われる始末。
申し訳ないが、そう仰る方々は、本作をどっきり映画とかパニックムービーとしてご覧になっているのだろう。私の観ているポイントは全然そんな部分ではないのだ。
本作のテーマは、カソリックでよく言うとことの“神の遍在”。というか、本作では特定の宗教の枠を越えて“人知を超えた大いなる存在”っていうものにアプローチしてみた作品(話は前後するけど、何で今、本作を観たかというと、『フェイク』の作中で、ジョニー・デップ演じるドニーが、ベッドの娘に神の遍在を問答するシーンがあって、思い出しちゃったからなんだけど)。
人間という生き物は、説明のつかない事象に対面した時、それが何なのか理由を見つけないと我慢できない生き物である。様々な自然の事象や生命の不思議、その理由や成り立ちはどうなっているのか。しかし、その探究心はある意味高尚かもしれないが、裏返せば悩み続けなければいけない苦痛の種でもある。その命題が人知の手に負えないものであれば、その苦痛は永遠に続くものにすら感じられる。
そこで、適当な答えを見つけることで安心を得ることが多々ある。その一つが宗教である。それに対して、いい加減な答えで納得するんじゃなくって、追試可能なレベルで検証しようとするアプローチが科学である。
往々にして両者は対立する(西洋の場合は)。宗教は科学が進めば、これまでリアルストーリーと信じていたものが“ファンタジー”とした貶められる。かといって“リアル”と信じ続けても、ファンダメンタリスト達の所業は歴史や様々な事件を見れば判るとおり、かえって宗教の存在価値を下げている。じゃあ、科学だけですべてが解決するかというと、科学が定説と主張したものだって時代が経てば誤りだということも多々あるし、根本的になんでもかんでもすぐに答えが見つかるわけではない。科学だけで人間の心が平穏になることはあり得ないのだ。
で、本作の、「人知を超えた大いなる“何か”はある。だけど、宗教や科学だけで解決しなくちゃいけないわけじゃないよ。“ある”ということを受け止めるだけじゃだめなのかい?」っていう目線。誤解を恐れずに表現すれば、きわめて東洋的。これが、私は大好きなのだ。
グラハムは、再度、牧師の服に袖を通すわけだけど、同じ牧師の服を着ていても、昔の彼とその目線を獲得したラストの彼は、まったく別モノ…ということである。申し訳ないが、多くの人が目くじらをたてる宇宙人のギミックなんて、この目線を語るための単なる味付けにすぎない。
ということで、未見の人には、強くお薦め。私の意見を押し付けるつもりはさらさらないけど、単なるパニックムービーでもホラームービーでもないことだけは判ってほしい。
もし、私が本作のような映画を作ることができたら、満足感でその後は腑抜けになってしまいそう。実際、シャマラン監督のその後の作品はイマイだから、あながちハズレでもない気はするけどね。私の中では、本作にてシャマラン監督は終わってる。『千と千尋の神隠し』の途中で、私の中の宮崎駿が終わったのと同じに。
公開年:2009年
公開国:日本
時 間:116分
監 督:竹中直人
出 演:成海璃子、沢村一樹、AKIRA、マイコ、竹中直人、桐谷美玲、紗綾、波瑠、温水洋一、六平直政、田中要次、広田レオナ、井口昇、荻野目慶子、緋田康人、篠原ともえ、佐伯新、赤井英和、石橋蓮司、斉木しげる、デビット伊東、クリスタル・ケイ、岩松了、生瀬勝久、由紀さおり 他
美香代は歴史研究会に所属する高校2年生。落ち武者伝説を研究する目的で、かつて平家の落人狩りがあったという山形県の御釈ヶ部村を訪れる。だが、研究会一行が現地に到着すると、落ち武者の霊が眠るといわれる祠を倒す観光キャンペーンのイベントが開催中。祠が倒されると、その祟りで平家の落人たちが蘇り、村人を襲いはじめ、殺された村人たちもゾンビとなって他の者を襲い始めるというとんでもない状況に。研究会メンバーも追い詰められるが、平家の落人の一人・葛貫が愛していた官女・光笛に似ていたためにさ美香代がらわれてしまい…というストーリー。
竹中直人監督云々についてはあえて言及しない。本作のデキの悪さの直接原因は、脚本の質がズバ抜けて悪いためで、監督のせいではないと思われるので。
漫画だっていうんなら、別になんのひっかかりもなくさらっと成立している内容だと思う。おそらく、“マンガ”的なイメージで、設定やストーリーが思い浮かんだんでしょう。それは別にそれはかまわない。だけど、それをそのまま映像にしちゃダメ。実写にしたときに興ざめしないかどうか、もう1枚フィルターかけてなくちゃ。
展開も映像もいくらなんでも陳腐すぎる。中途半端にセットやメイクを作りこんでいることをが、ますます格好悪く映る。とにかく映像センスに欠ける。
こういうコミックホラー的な作品は、過去の名作ホラーのオマージュだったりリスペクトだったりするのが多いけれど、いくらなんでも、呆けたおばあちゃんの歌で頭を破裂させちゃだめ。『マーズアタック』そのまんまのオチはイカン(大元ネタは『アタック・オブ・ザ・キラートマト』だけど)。
“匂わせる”とか“わかる人にはわかる”とか、せめてそういう感じしてほしい。ゾンビだって、ロメロ監督作品では、大衆社会の投影だったりして、往々にして“恐怖=社会の何か”という図式が底辺に隠れているものだ。コミックホラーにだってその図式は絶対に存在してしかるべきなのに、本作のゾンビはただのゾンビである(もっと卑近で俗っぽい何かの投影でよいのに)、何の意味も見えない。私は、ホラー映画マニアではないので、もしかすると、同好の方々は随喜の涙を流すようなシーンが盛りだくさんなのかもしれないから、そうだったらあらかじめ謝っておく。ごめんなさい。もし、表面のギミックだけを真似してるのであれば、それは過去のホラーの作品を馬鹿にしているに等しいように思える。そう、「様々な映画のオマージュを散りばめたホラー・コメディ」。この看板に偽りアリとしか、私の目には映らなかった。これが評価のすべてかも。
もう一度言うが、もしかすると私の映画知識が不足しているために楽しめなかったのかもしれないと断っておく。でも、大半は私と同レベルかそれ未満でしょう。じゃあ、一般的にはつまらんってことだよね…。
結果からいえば、笑えないコメディの先に残った先人への不敬という、がっかりな作品。お薦めしない。唯一、よかったのは、昨今のスレンダーな若手女優全盛のなかで、見事な“健康優良児”っぷりの成海璃子。他にはない独特な雰囲気はズバ抜けているので、今後もいい仕事が舞い込んでくることは必至だろうね。
公開年:1997年
公開国:アメリカ
時 間:126分
監 督:マイク・ニューウェル
出 演:アル・パチーノ、ジョニー・デップ、ジョニー・デップ、マイケル・マドセン、ブルーノ・カービー 他
ノミネート:【1997年/第70回アカデミー賞】脚色賞(ポール・アタナシオ)
NYのマフィア組織に潜入中のFBI捜査官ジョー。ドニー・ブラスコという名の宝石商として街に潜伏した彼は、組織の構成員であるレフティとの接触に成功。息子のように可愛がられるようになり、次第に危険な世界へと引き込まれていく。レフティも、ドニーへマフィアとしての夢を託し、再び人生を掛けようとするのだが…というストーリー。
冒頭に実話であるとテロップが。言わないと荒唐無稽と思われちゃうような内容なのかと思いきや、逆にとてもスケールの小さい話だった。純粋なフィクションとして見始めたら、ショボく感じてしまうから、それを防ぐためのテロップということなのか。エンドロール前に、この潜入捜査のおかげでこれだけ検挙できたんですよ…っていうテロップも入るんだけど、本作の中で、そんなに重要な証拠が適切に集められたように見えないのも、演出的に拙いところ。そう、ドニーの潜入捜査が、本当に重要なものに見えない点(いつ引き揚げてもたいした問題じゃない気がするの)が、いまいちノリ切れない一因。まあ、その観点でいうと、実際にドニーがレフティにあんな風に同情したかどうかも、フィクションくさいんだよね。あんなにどっぷり介入した(というか一線を越えてる)場合、得られた証拠が採用される確率は低いだろうから。
他にも眉唾な部分も多々ある。ジョニー・デップの奥さんのくだりとかもそう。はじめ、FBIの潜入捜査官であることも秘密にしているのかとおもったら、そうでもないんだよね。男目線・女目線で意見は分かれるのかもしれないけど、なんとなくそれなりに事情は把握しているのに、あんなゴネかたされたら、夫としてはたまったもんじゃない。本当かいな?って感じ(奥さんが一番の悪役に見えちゃったよ)。
さらに、奇しくも似たようなタイトルの『フェイクシティ ある男のルール』と同じで、感情移入しにくい主人公のため、どうしても醒めた目で鑑賞せざるをえない点も、よろしくない。正体がバレるバレないっていう部分にだけ、意識がいっている間はいいんだけど、ちょっと冷静になっちゃうと、アラが見えてくる。
それでも鑑賞に堪えられるのは、アル・パチーノの演技のおかげか。彼の演技が本作の魅力の7割を占めるといっていい。とにかく、自分に与えられた以上の仕事はしたでしょう。送りバントできっちり送って且つ一塁セーフ。守備では隠しダマを披露して、最終打席では、走者一掃のヒット。だけど、三塁を狙って刺されてアウト。でもお立ち台。そんな感じ(なんだそりゃ)。
デップ&パチーノということで、ハードルさえ上げなければ、鑑賞に堪えうるレベルなので、過度の期待をしないことを条件にお薦めする。
公開年:2009年
公開国:日本
時 間:93分
監 督:松本人志
出 演:松本人志 他
コピー:想像もつかない“何か”が起こる…
メキシコ。覆面プロレスラー・エスカルゴマンは、いつもと同じように試合へ。彼を送り出した妻は、夫の様子がいつもと違うように感じられ、何やら胸騒ぎが。一方、水玉模様のパジャマを着たマッシュルームカットの男が白い壁に囲まれた部屋で目を覚ます。男は出口も見当たらない部屋の中で途方に暮れつつも、なんとか脱出しようと試みるが…というストーリー。
ありがちな意見かもしれないけれど、正直にこう思うので、素直に書くことにする。
前作の『大日本人』は、最後のまとめ方さえ、あのようでなかったら、私にとって1年に1回は観なおすであろう、ステキな作品になったと本気で思っている。話の展開も、設定もものすごく好み。本当に最後のあの場面の直前まで、誰がなんと言おうとこりゃあスゴイものに出会ったぁと感じていたのだが、最後の最後で、頭を掻いてしまった。表現の問題もあるけれど、政治的なメッセージがあまりにも幼稚すぎた。あまりにも格好悪すぎた。
お願いだから、ラストだけを変えて再公開して欲しいと私は願っているけれど、そんなことは(本心でそう思ってたとしても)口が裂けても言わないだろう。かなわぬ夢は抱き続けるだけ無駄なので、私の中では封印した作品である。
で、本作も、もちろん劇場で鑑賞するはずもなく、DVDレンタル開始になってもすぐには観る気すらおきなかった。どうせまた裏切られるのだから。まあ、前作だって、あんなに途中までイイ出来具合になるとは、監督本人も思っていなかったかもしれないし、海外公開なんて頭になかったかもしれない。コントの延長って感覚が抜けていなかったのかもしれない…。おまけに“白い空間”なんて、カナダ映画の『NOTHING』で扱われているので目新しくもないし…なーんて、ハードルが下がりに下がりきったところで、観てみることに。
ネタバレなので詳しくはいわないけれど、とりあえず脱出して隣の小部屋で行き詰るあたりまで、またもや、ワタクシ的には最高の展開。かなり良い。本当に好きなテイスト。
だけど、“実践”“未来”と、もう、つまらないこと極まりない。彼は“緊張と緩和”と重ね重ね言うけれど、映画においてもそれが重要なのは同じ。ただ、ちょっぴり別の形で現れる。それは“発散と集約”という形で。英語で言えばevolutinとrevolutionかな。本作は、“発散”しかしていない。小波としての“緊張と緩和”は確かにある。だけど、2時間程度の中の大きなの展開のうねりとしての“発散と集約”というものが皆無なのだ。この辺の感覚がよくわからないのならば、(アーチストぶりやがって!という謗り覚悟で)もっとこじんまりと、投げっぱなしで、あとはみなさん考えてください的に、スパっと思わせぶりに終わればいいのである。そのほうがよっぽどいい。
とにかく、意味ありげに格好つけた感じが、逆に格好悪くて、観ているほうが恥ずかしいので、ここだけは何とかしてほしい。本当に“思いつき”は抜群にいいのだから、あとは意固地にならずに、別のブレーンを一人入れて、締め方について意見を仰いだほうがいい。画力は、他の本職の日本の映画監督なんかより数段優れている。絶対に力はあるのだからもったいない。能力の高い人が、陥りやすい罠にはまっているのだと思う。なんでも自分達でやろうとしないで。
とりあえず本作にかぎって言えば、観ても観なくてもいい作品なので、特段お薦めもしないし、薦めなくもない(どうでもいい作品ってことかな。とにかくもったいない)。
公開年:1994年
公開国:アメリカ
時 間:142分
監 督:ロバート・ゼメキス
出 演:トム・ハンクス、サリー・フィールド、ロビン・ライト、ゲイリー・シニーズ、ミケルティ・ウィリアムソン、マイケル・コナー・ハンフリーズ、ハンナ・R・ホール、ハーレイ・ジョエル・オスメント、レベッカ・ウィリアムズ、サム・アンダーソン 他
受 賞:【1994年/第67回アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(トム・ハンクス)、監督賞(ロバート・ゼメキス)、脚色賞(エリック・ロス)、視覚効果賞(Ken Ralston、George Murphy、Stephen Rosenbaum、Allen Hall)
コピー:人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない
アラバマに住むフォレスト・ガンプは、足の矯正機を付けた知能指数の低い少年。母親はフォレストを普通の子供と同じ教育を受けさせたいと考え公立小学校に入学させるが、同級生にいじめられる続ける。そんなフォレストと唯一仲良くするのはジェニーだけ。そんなジェニーも性的虐待を繰り返す父の元で暮らす子供だった。ある日、同級生から石を投げつけられたフォレスト。ジェニーの「走って!」の声に従うと、矯正機をバラバラにしながらも目にも見えないほどの走りを見せる。その後、フォレストはその脚力のおかげで、アメリカの歴史を彩る様々な場面に携わっていく…というストーリー。
あらすじをまとめるのが難しいくらい、盛りだくさんな内容。もう10回くらい観ている。もちろんDVDは購入済。無人島に1本だけ映画を持っていっていいと言われたら、本作を持っていくくらい好きなのである。今回は、録画した『チャンス』を観ていたら、本作と同じテーマだなぁ…と気づいて、並行に観始めたら本作のほうが、先に観終わっちゃったのだ。
今日はジェニーとの結婚式のあたりで涙してしまった(昼休みに観ていたのだが、不覚にも会社で落涙)。観るたびに落涙する場面は微妙に異なるけれど、観る側が年齢を重ねても、その時々で心が動く場面がどこかにあるというのは、すばらしい。ただ、私、いまだに「人生はチョコレートの箱。食べてみるまでわからない」の意味がピンときていないかも。私、多分アホなんだと思う。けど、まだまだこの先、この映画を楽しむ余白があるってことで、逆にうれしかったりするかな。
フォレストは、どんなことを言われても、どんな苦境に立っても、まず受け止める(本人の意思はどうかは別にして)。これは、歴史とか国というものに対して、否定でも肯定でもなく、事件の奔流に居ながら俯瞰で眺めているような感じ。とりあえずあるがままを見るという姿勢が大事ってことを、無言で表しているね。時代々々に、こうある“べき”と主張する人たちが登場するけれど、すべてが時代の藻屑と消えていく。一貫して残るのは、“愛がどういうものか知っている”ガンプの心。単純に“愛”の素晴らしさを賛美するつもりはないけれど、人間社会なんて、所詮、周りの人たちに施すことで成立している。こうある“べき”っていうのもいいけど、隣人への愛情を欠いてしまったら、ご立派な“べき”論なんて悪でしかないということか。身につまされる思い。
原作を読んだ方はおわかりだろうが、原作はもっともっと荒唐無稽。そのまま映像化してしまうと興ざめすること必至だったものを、この着地点に持ってきたのも見事(たぶん、お猿さんは出したかったのではないかと思うのだが、それを出すと宇宙にいったり無人島にいったりしなくちゃいけないので、泣く泣く排除したことだろう)。でも、原作は原作で味のあるいい作品なので、映画を観ていいと思った人は、読んでみてはいかがだろう。昨今、ブックオフで100円で売ってるはず。
エンドロールの音楽をそのまま聴き続けていたいと思う映画は本作だけである。未見に人は少ないだろうけど、しばらく観ていない人もどうぞ。あの時とは違う感覚になること必至です。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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