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公開年:2013年
公開国:アメリカ
時 間:111分
監 督:ジョン・M・チュウ
出 演:チャニング・テイタム、ブルース・ウィリス、ドウェイン・ジョンソン、エイドリアンヌ・パリッキ、レイ・スティーヴンソン、D・J・コトローナ フリント、イ・ビョンホン、レイ・パーク、ジョナサン・プライス、RZA、エロディ・ユン、ファラン・タヒール、アーノルド・ヴォスルー、ウォルトン・ゴギンズ、ジョセフ・マッゼロ、ジョー・クレスト、ジェームズ・カーヴィル、ライアン・ハンセン、ロバート・カトリーニ 他
コピー:斬られるか。撃たれるか。


アメリカ最強の機密部隊“G.I.ジョー”は、大統領よりパキスタンでの核弾頭奪取任務を発令。しかし、大統領は何故か、G.I.ジョーたちが、核弾頭を強奪しようとしたと発表し、彼らの殲滅を発令する。G.I.ジョーのメンバーは次々と命を落とし、かろうじて生き残ったのは、デューク、ロードブロック、レディ・ジェイら数名のみ。G.I.ジョーは解体されたが、その一方でテロ組織“コブラ”が再び勢力を伸ばし始める。コブラと手を携えたアメリカ大統領は、世界に向けて核の根絶を発表。核保有国の首脳陣を集め会議を開くが、自国の核爆弾の全廃を渋る首脳たちの国に対して、なんとアメリカ大統領は核爆弾を発射し脅迫。世界中はアメリカにひれ伏すことになってしまう。そんな中、ロードブロックたちは、初代G.I.ジョーであるジョー・コルトン司令官に支援を求め、彼を新たなボスとするた新生“G.I.ジョー”を結成。世界征服を目論むコブラに立ち向かっていく…というストーリー。

前作『G.I.ジョー』は、アクションこそまともだったが、シナリオがポンコツ。続編があるような終わりかたをしていたが、ちょっと無理じゃねえか?と思うレベル。それでも、時間は開いたが続編が作られた。2作、作る契約だったのかもしれない。
さすがに、なんとかまともな映画にしようという努力がみられ、それなりの娯楽作品に仕上がってはいると思う。(ちょっとネタバレだけど)G.I.ジョーが罠にハメられるとか、大統領は替え玉でしたとか、元G.I.ジョーとはいえ、あれだけ大掛かりに仕組まれた敵に対して、今は民間人である人が個人持ちしている装備で立ち向かうとか、ストーリーとは無関係に、ただただおもしろい非断崖絶壁のぶらさがりアクションを放り込んでみたり、常にわかりやすい。どうせ、ヘンテコ忍者がでてくるようなお話だから、この程度でよいのかもしれない。
“ザ・ロック”ドウェイン・ジョンソンを主役にもってきたのも、ドンパチ主体のわかりやすさにマッチしていると思う。

しかし、あいかわらずコブラとデストロの構図は、わかりにくい。イ・ビョンホン演じる白忍者が騙されていたことだけは判るのだが、スネークアイと仲直りして白と黒の競演!って形で盛り上げようとしている部分は、いまいち空回り。前作から続く軋轢が解消されたところで、さほどのカタルシスはない(っていうか、このこじれてる部分をあんな簡単に解消しちゃうのは、いただけないかな…)。
スネークアイは、喋らないし顔は隠れていて表情はわからない(動作で感情がわかるキャラってわけでもない)。おまけに、イ・ビョンホンも英語が堪能ではないからなのかさほど喋らないし、キャラの問題なのか本人の演技の問題なのか、表情が薄いし。そんな二人が共闘しました!っていわれても、いまいち盛り上がらないのよね。

結果的に、普通のアクション作品だった。うん。普通。わざわざブルース・ウィリスを持ってきても、普通。

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公開年:1989年
公開国:香港
時 間:111分
監 督:ジョン・ウー
出 演:チョウ・ユンファ、ダニー・リー、サリー・イップ、ケネス・タン、チュウ・コン、ラム・チャン、シン・フイウォン 他
コピー:さらば拳銃、さらば熱き男たち……。






引退することを決意していた殺し屋のジェフリーだったが、最後の仕事でクラブ歌手のジェニーを巻き込んで、彼女の角膜を傷つけ視力を失わせてしまう。ジェフリーは、自分の仕業であることを隠し彼女を支援していたが、かすかな光程度しか視力のない彼女は、しばらくすると完全に失明してしまうことを知る。救うためには角膜移植しかなかったが、国内で順番待ちをしていてはいつになるかわからない。かといって海外での手術には莫大な費用が必要である。そこで、ジェフリーは、再び殺しの仕事を引き受ける。エージェントのシドニーから依頼された仕事は、麻薬シンジケートのボスの殺害。見事完遂したものの、ボスの甥であるジョニーに命を狙われるようになる。実は仕事の依頼元は甥ジョニーで、代金の支払いを踏み倒そうというのだ。一方、刑事のリーも、ボス殺害の容疑者としてジェフリーを追うのだったが…というストーリー。

“男たちの挽歌”シリーズ中では最高傑作とも言われる本作。とはいうものの、多分、一作目しか観たことがなく、おまけに内容の記憶がないので、比べられない。ただ、ジョン・ウーといえば、教会+二丁拳銃+横っ飛び+鳩。その…に関しては、本作はコンプリート。

画質の古臭さは香港であることと製作年を考えれば致し方ないが、役者の顔も演技も実に古臭い。あやうくコントチックになっちゃいそうなくらいに古臭い。そして、ストーリー設定まで、古臭い。
まず、チョウ・ユンファ演じるジェフリーは、殺し屋なんだけど悪人しか殺さないし、絶対に堅気の人間には迷惑をかけないことが心情の、任侠ヤクザみたいな殺し屋。まあ高倉健みたいなものだ。世の中の趨勢についていけなくなって、殺し屋を辞めようとしたが、最後でやらかしちゃう。自分のせいで未来ある女性の将来を奪ってしまった、さあどうしよう。こっそり色々と手助けをするようになるわけだが、普通なら、実は目を傷つけた犯人がジェフリーだとすれば、「そんなの嘘よ!」的なメロドラマが展開しそうなものだが、そうはならない。ジェニーは彼の優しさをあっさり受け入れて深い関係になってしまう。
何で、そこはあっさりなのかなぁ…と思うところだが、話の重心が、男女の関係ではなく、男の友情のほうに置かれているから。それも男の友情が2本もある。一つは、ジェフリーと旧知の仲のエージェント・シドニーとの関係。一度はジェフリーを裏切る形になるものの、やはりジェフリーとの友情を思い出し、身を挺して彼を守る。もう一本は、刑事リーとジェフリーの関係。当然、刑事と殺し屋は追いつ追われつの関係だが、リーも警察内ではみ出し者で、ジェフリーも他の悪人から追われる立場。悪人しか始末しないジェフリーと、悪に対して手を抜かず、そのせいで警察のなかで浮いてしまっているリーは、一緒にシンジケートに対峙する過程でシンパシーを感じ、友情を抱くようになる。

時代からはみ出した孤高の男が、ピンチの中で友情を見出していく姿は美しく且つ切ない。でも、男の友情の部分が厚すぎやしないだろうか。あれだけ、ジェフリーが角膜移植をさせることを望んだのに、ジェフリーの目をわざわざ使えなくするとか、最後も手すら握らせないとか、そこまでジェニーを不幸にする展開は必要だったろうか。せつなさやむなしさを強調する意図はわかるが、ずいぶんバランス悪かぁねえか?と。ここまでくると、ゲイ・ムービーかと。途中で巻き込まれた少女を助けるくだりを挟んだりして、ゲイ臭を薄めようとしているのだが、それでも薄まらないという濃さ(笑)。

このゲイ臭が鼻につかなければ、かなり愉しめるのだが、気付いてしまうとどうもノリ切れない作品。後は、敵に魅力が薄いのも難点かもしれない。アメリカでリメイクするとかしないとか噂があったようだが、この辺をうまく調整すれば、『ディパーテッド』のように成功する要素は十分だ。

銃撃アクションも、少し過剰すぎていて、リメイクの暁には調整要か。さすがに主人公側だけ弾が当たらなすぎで、興ざめしちゃうかも。盲目の女性がなんで流れ弾に当たらないいられるのかという無理さは、途中で牧師に救出させてギリギリセーフの演出だったけど。

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公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:99分
監 督:スティーブン・ソダーバーグ
出 演:ジョージ・クルーニー、ナターシャ マイケルホーン、ジェレミー・ディヴィス、ナターシャ・マケルホーン、ヴィオラ・デイヴィス、ウルリッヒ・トゥクール 他
コピー:人類は、まだその領域には足を踏み入れてはならない





未来の地球。ある日、心理学者のクリス・ケルヴィンの所に、彼の親友ギバリャンのビデオを携えた男達がやって来る。ジバリアンは、惑星ソラリスを探査中の宇宙ステーション“プロメテウス”に派遣されていたが、ステーション内で不思議な現象が頻発し、今は地球との交信も途絶えてしまっているという。クリスは、事件の調査を依頼され、ステーションに向かう。到着したクリスは、そこでジバリアンの遺体を発見する。ステーション内には2人の科学者スノーとゴードンがしていたが、他の乗組員はすべて自殺したという。生き残った2人に事情を聞くクリスだったが、またく要領を得ない。やがて、クリスが睡眠から目覚めると、そこには死んだはずの恋人レイアの姿が…というストーリー。

結構前に本作は観ているのだが、昨日『惑星ソラリス』を観たので、改めて連続鑑賞。タルコフスキーの難解さと迂遠さを、ハリウッド流のシナリオ術や演出で作ってみましたよ!というところだろう。同じ原作の作品というか、あくまでリメイクといった感じ。プロットは見事に同じといってよいだろう。

以前に観たときはクッソつまらんと思ったのだが、改めて観ると、j重要ポイントを残しつつ且つ哲学的な要素も毀損していないと思う。
ステーション内で親友のビデオを発見するのではなく、親友のビデオが送られてきたことがステーション派遣のきっかけになっており、親友の死はステーションに行ってから…というシナリオ構成。これにより、前作の大尉のくだりは一切不要になったし、ソラリスで何がおこっているのかについて想像しにくくして、よりミステリー要素を増すことに成功している。これぞ、ハリウッド流のシナリオ術だなと感服。ハリウッド作品の短絡さをバカにする向きもあるが、こういうシナリオ術は真剣に学ぶべきだろう。

時代が下っているので、もちろん科学的な要素もグレードアップしている。今年のノーベル賞受賞でおなじみのヒッグス粒子の描写もある(反ヒッグスなる反粒子が作れたとして、それで物質が消滅するかとは、それを機器によって放出することが可能かは不明だが…)。

また、レイアとの過去を順序立てて回想することにより、じわじわ真綿で首を絞めるように、ニセレイアと離れられなくなってくる様子が綴られている。前作では、単純に愛情が湧いたという感じだったが、本作は単なる愛情を超えた“何か”に目覚めたような様子に描かれている。ウェットさも増している。ただ、これによってノイローゼ的な感じが強調されすぎてしまっているとは思う。

哲学的な要素を毀損していないと書いたが、それは確かだが、宗教的な領域にまで踏み込んでしまったような気がする。これを良いと感じるかは好みのわかれるところ。レイアが液体酸素を飲んで死んだ後に組成するが、本作のそれは、不死というよりも同じ人格への輪廻転生に近いように思えた。そしてそれは、幸福という名の地獄を象徴しているようにも思える。

地球に帰還した想像(?)の意味がいまいちよくわからなかったのだが、思考も見た目も同じならはたしてそれは、本人とどう違うというのか? 引いては自分はどうなのか? もしかして自分もソラリスから生まれたのではないのか?(乗組員だと思ったら実はソラリスだった…という展開が加わっているので、そこはあえて強調されていると思う) そういう思考を地球への帰還として差し込んだのだと思うが、わかりにくい演出だったかも。
で、その判然としない状況を良しとして受け入れた先に何があるか。死んだ人がどんどんと、死んだ時点の姿で現れる…それは、終末のときに訪れるという、死者が蘇る=天国の様子である。そういう意味で、ちょっと宗教寄りに踏み込んでしまったな…と。

また、単なる脳内の記憶のコピーであるというところを強調したのは、ちょっとマズかったように思える。元々人間の記憶なんかあいまいだと思われているが、人間自身は表層に取り出せないだけど、実はしっかりと脳には仔細に記憶されていて、それこそリバースエンジニアリングのように、人間を構築できるくらいの情報量があるのだ…というくらいのSFっぷりを発揮してほしかったかも。
また、なんで、一人だけしかレイアが登場しないのか。そこはソラリスの作為というか意思に違いないと思うので、説明…とまでは言わないが匂わせて欲しかった。

評判の悪い本作だが、改めて観ると悪くない。が、もう一度観るかと聞かれれば、それは難しい。

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公開年:1972年
公開国:ソ連
時 間:165分
監 督:アンドレイ・タルコフスキー
出 演:ナターリヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルヴェット、ニコライ・グリニコ、アナトリー・ソロニーツィン、ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー 他
受 賞:【1972年/第25回カンヌ国際映画祭】審査員特別グランプリ(アンドレイ・タルコフスキー)、国際エヴァンジェリ映画委員会賞(アンドレイ・タルコフスキー)
コピー:謎の惑星『ソラリス』とは…?そこには不思議な姿の生命が存在し その豊かな海は理性を持つ有機体と判明! これらの謎に挑むモスクワの近代科学陣が 宇宙船で軌道ステーションに出発する!1977年の全世界的SF映画ブームにさきがけてGWに放つ堂々3時間の超巨篇!

近未来。人類は発見された惑星ソラリスの調査を試みていたが、ソラリスの海へ接触することすらできず、失敗に終わっていた。ソラリスの軌道上に浮かぶ宇宙ステーション「プロメテウス」では、その後も研究が継続されていたが、通信が途絶してしまう。調査のために科学者のクリスはステーションへ派遣される。ステーションいは3人の学者がいるはずだったが、クリスが到着すると、クリスの友人の物理学者ギバリャンは自殺をしており、残りのスナウトとサルトリウスも、挙動不審で精神的に不安定になっていた。2人はクリスに対して「ステーション内で自分達以外の人影を見ても気にするな」とわけのわからないことを言う。クリスはギバリャンが遺した自分宛のビデオを発見。ギバリャンのビデオは、海にX線を照射したことで何かが発生したことを示唆していたが、詳細はよくわからなかった。その後、サルトリウスの部屋ではいるはずのない人影を見かけたり、ステーション内を歩く少女を見かけるクリス。やがて、眠りに付いたクリスが目覚めると、そこには数年間に死んだはずの妻サリーがおり…というストーリー。

さすがドストエフスキーやトルストイの国の作品だ…と思わず唸ってしまうほど、長い。実時間より長く感じる。面白いとか面白くないとか、そういう問題じゃなく、眠くならない人がいるのか? と。4回はカクンとなったね。ソ連作品なので、商業的に客を惹き付けようとかそういう気概は一切なし。ただただ文学的に表現したいように演出をしているように思える。
冒頭の大尉のビデオのくだりから、クリスが宇宙に旅立つまでのくだりなんか、普通に考えたら、迂遠も迂遠だよね。

サリーには、過去の記憶が無く、自分が人間だと思っている(ように見える)。端々で、サリーが事情をわかっているような表情のカットが差し込まれていたので、ソラリスの人類制服の尖兵だったりして…なんていういかにもSF的な予想をしていた。しかし、他の2人の科学者が、サリーに対しておまえは人間じゃないと面と向かって蔑む。ソラリスの海から生まれた“物”だと言われ、私違うのか…と、その後、サリーの精神は一掃不安定になっていく。どうやら、ソラリスから生まれた人間は、“ただ、そのイメージのまま”で、何者かの作為とか意図というものが無い模様。

そうなってくると、SFじゃなくて、哲学のお話に変貌していく。

経過や状況を考えれば間違いなく人間じゃないけど、見栄えも同じで精神も同じ“物”(他人の記憶のイメージから人間が再構築できるか? という細かい疑問は、この際忘れようじゃないか)は、やっぱり人間なんじゃないか?と。それを殺したりするのは、やっぱり殺人なんじゃないか?と。

クリスは、サリーを受けいれて妻として扱い愛していくが、クリスの心のひっかかりが生んだサリーは、サリーの分身なんじゃなく、クリスの記憶が生んだものであって、クリス本人なんじゃないのか? 愛ってなんだ? みんな他者を愛していると思い込んでいるけど、愛なんてすべて自己愛なんじゃないのか?とか。いや~、深い深い。

さらに、生き返ったのが死んだ妻だときている。それも、自分が追い詰めて自殺させてしまったと、未だに悔やんでいる人。それが目の前にまた現れ。そして、また追い詰められて自殺する。しかしソラリス人は簡単にには死なない。自殺しては蘇る。クリスは過去の苦しみを何度も追体験させられるという無間地獄のような状態に。

もちろん、地球に連れ帰るわけにはいかない。さてクリスの選択は? というオチになるのだが、そこまで到達すると、オチなんかどうでも良い感じ。長~く感じるほどの演出のその波間で、脳みそがぐるぐるまわるほど思考が巡る。SFだけど間違いなく文学作品。でも疲れるのは間違いなし。

#冒頭から、美しい自然の風景や、ブリューゲルの絵を長々と描いているのだが、近未来を描く気があるのか?なんて思っていたら、近未来都市の風景として東京の首都高速道路で撮影されたカットが。冷戦時代でも、こんなこと可能だったんだねえ。

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公開年:1984年
公開国:日本
時 間:108分
監 督:澤井信一郎
出 演:薬師丸ひろ子、世良公則、三田佳子、三田村邦彦、高木美保、蜷川幸雄、志方亜紀子、清水紘治、南美江、草薙幸二郎、西田健、香野百合子、日野道夫、仲谷昇、梨本勝、福岡翼、須藤甚一郎、藤田恵子 他
受 賞:【1985年/第9回日本アカデミー賞】助演女優賞(三田佳子『春の鐘』に対しても)
【1984年/第27回ブルーリボン賞】主演女優賞(薬師丸ひろ子)



劇団「海」の研究生・三田静香は、女優としての幅を広げるために、先輩劇団員の五代淳と一夜を過ごす。翌朝、自分の部屋へ帰る途中に、公園で次のオーディションの練習をしていると、公園で寝ていた男から演技を賞賛される。男は不動産屋に勤務する森口昭夫。森口は静香の演技へのひたむきな姿勢に惹かれていく。劇団「海」の次回演目は『Wの悲劇』という本格ミステリーで、女性(“W"oman)の悲劇を描く作品である。作中でおこる事件の鍵を握る女子大生・和辻摩子役は、研究生の中からオーディションで選ばれることになっていた。静香もオーディションを受けたが、摩子役は、菊地かおりに決定。静香はセリフが一言しかない女中役と、プロンプターの役割が与えられた。落胆して帰宅した彼女のところに、花束を抱えた森口がやってくる。合格しなかったことを告げた静香は激昂するが、結局、二人は飲みに行き、そのまま森口の部屋泊まるのだった…というストーリー。

本作は劇場で観た。久々に鑑賞。実は併映の原田知世主演『天国にいちばん近い島』が目当てだったのだが、それがものクッソつまらなくてがっかりだった。しかし、本作が予想外におもしろくて納得して帰ったのを覚えている。でも、上のあらすじでわかるように、主人公が簡単に男を関係を持ってしまうので、(友達と観にいったのだが)ちょっと気まずかったけどね。一応、アイドル女優的ポジションだったと思うんだけど、こういう扱いでいいのかなぁ…なんて思ったものだ。

久石譲の映画音楽を聴いたのは本作が初めてだった。素人がとっつきやすい良い雰囲気の音楽で、ショパンの『別れの歌』に通じるキャッチーさを感じた。こちらもしっかり記憶に残っていたね。

その後、原作も読んでみようかな…なんて思って、珍しく買ってみたら(古本だけど)、本作で演じられている劇中劇の内容だった。原作ってクレジットされてるんだけど、“原案”ってレベルかな。本作の原作ではないことを知って、そのままそっと閉じた。
まあ、それはそれとして、夏木静子の原作を劇中劇として織り込んだ構成が秀逸。脚本の荒井晴彦、澤井信一郎の両氏の仕事が良い。舞台監修は蜷川幸雄で、本人も舞台監督役を演じているのもユニーク。
演劇の苦労話と並行して、森口と静香の恋愛模様を絡めつつ進行していくのかと思いきや、腹上死の身代わりになるという斜め上の展開に。いささか無理があるように思えるのだが、それを成立させようとする三田佳子演じる羽鳥翔の演技がうまい。演技っていっても“劇中で演技してる演技”だからね。
もう、森口なんかが置いてきぼりの展開になっちゃうのだが、最後に揺り戻すのがすごい。やるな澤井信一郎と思うのだが、ちょっと救急車が来るのが早すぎるんじゃねえかと、みんなツッコんでいたな(笑)。そこだけ玉に瑕だ。
#短めの時間によくまとめているな…とも思う。

薬師丸ひろ子の舞台上とそれ以外の演技の振り幅が、なかなかすごい。平凡な子なのに、役者として生きる覚悟を決める役をしっかり演じきっている。そして、劇団とは無関係の世良公則演じる森口が、その静香の“振り幅”に翻弄される。キャラクター自体も秀逸だったけど、世良公則自信も本作以降、“カッコいい役者”扱いされていき、役者の仕事が増えていったが毛量と共にそれも減っていく(ヒドい分析)。

秀逸な構成とアイデアと、ともすれば少女マンガかよ…で終わってしまいそうになるところを、グイっとひきつけた役者陣のお仕事がすばらしい作品。1980年代の角川アイドル映画では、群を抜いた出来映えの作品。
#今、観ると、ヌケヌケと芸能キャスター役で登場するご本人たちって、遠まわしに馬鹿にされていることに気付いていないのが、笑える。こういう大人になっちゃダメだよ…っていう見本だよね。 

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公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:113分
監 督:ジョン・ゲデス
出 演:ディー・ウォーレス、ビル・モーズリイ、スティーヴン・マクハティ、ジョーダン・ヘイズ、ブライアン・コックス 他







南北戦争末期アメリカのテネシー州で、死者が蘇りゾンビと化す現象が発生。戦争は終了したもののゾンビ禍は衰えず、アメリカ中でゾンビが大量発生する。元兵士であるエドワード・ヤングは、狩りから帰宅すると妻がゾンビ化しており、やむを得ず妻を銃殺する。行方不明となった一人息子のアダムを捜して彷徨うが、数々のゾンビとの戦いの中、ゾンビと化した息子をに遭遇。エドワードは迷った挙句、苦渋の決断で息子を撃ち殺し、遺体を焼却。いつか“エリスの滝”へ連れて行くことを息子と約束していたことを思い出したエドワードは、遺灰を滝へ撒いて息子の命を解放しようと決意。多くのゾンビを倒しながら目的地を目指し旅を続けたが、愛馬がゾンビに噛まれて蝕まれていき…というストーリー。

南北戦争とゾンビの組み合わせということで、『リンカーン vs ゾンビ』と同様の舞台設定。リンカーンがいるかいないかの違いくらい。なんなら同じ世界のお話ってことでも問題ないほど。

じゃあ、『リンカーン vs ゾンビ』みたいな、クッソくだらない映画だったか?というと、これが意外といい雰囲気だったりする。まず、役者の演技が良いし、ダークで物悲しい音楽や画質が悲劇調のストーリーにマッチしている。

妻子がゾンビになってしまい、その恨みでゾンビ退治に邁進する展開を想像すると思うが、そうはならない。むしろ、出会わなければ積極的に殺す気はないんじゃないかって感じ。だから、主人公側になんらかの目的をつくって、それを阻害する役としてゾンビが登場し、その過程でバトルを展開させる。遺灰を撒きに滝へ向かうとか、途中で登場した相棒の妹を探すとか、そういうイベントを次々出さないといけない。その妹を拉致してる変な組織まで登場してくる。
その変な組織は、ゾンビに対抗するため(というかゾンビを利用するため)に免疫を求めているという設定。そこから派生して、ゾンビ発症のいきさつも明かされる流れ。

本作は、主人公エドワードが残した日記を読む形式でストーリーは始まるのだが、そういう演出ってことは、ゾンビとの対決が何らかの形で決着が付くのか、または日記を読んでる未来に何らかのアドバイスを送ることになるのか、とにかくオチがあるんだろうと予想するだろう。そこに、本作が日本未公開な理由がある。
エピソードを色々連ねるのだけで、起承転結の承承承承承と繰り返して終わってしまっているのだ。最後になると、敵はゾンビじゃなくて、その組織にすり替わって、そいつらを派手にやっつけておしまい。

ゾンビが主の敵じゃないから、肝心のゾンビとの攻防にあまり面白みがなく、さらに終盤は攻防自体のシーンが少なくなってしまうという。TVドラマのパイロット版なんじゃねーのこれ?って思うくらい中途半端。もう、日記を読んでる意味がわからないのね。一つのシナリオとして終了できていない、雰囲気だけの作品。駄作。

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公開年:1978年
公開国:イギリス
時 間:140分
監 督:ジョン・ギラーミン
出 演:ピーター・ユスティノフ、ベティ・デイヴィス、マギー・スミス、ミア・ファロー、アンジェラ・ランズベリー、ジョージ・ケネディ、オリヴィア・ハッセー、ジョン・フィンチ、デヴィッド・ニーヴン、ジャック・ウォーデン、ロイス・チャイルズ、サイモン・マッコーキンデール、ジェーン・バーキン、ハリー・アンドリュース 他
受 賞:【1978年/第32回英国アカデミー賞】衣装デザイン賞



莫大な遺産を相続した若い娘リネット。彼女の親友ジャクリーンは、自分の婚約者サイモンが経済的に窮していたため、相談に乗って欲しいと相談する。ジャクリーンの申し出を受けて、サイモンに会うリネット。しかし、なんとサイモンとリネットは突然婚約を発表し、関係者の間で物議を醸すことに。二人は人目を避けてエジプトへ豪華客船でのハネムーン旅行へ旅立つのだが、何と船にはジャクリーンの姿が。ジャクリーンだけでなく、リネットの叔父で財産管理を任されていたアンドリュー、リネットを自作の小説のモデルにしてトラブルになっている作家のサロメ、サロメの娘でリネットにコンプレックスを持つロザリー、リネットの真珠のネックレスに執着しているバン・スカイラー、リネットに侮辱されたことを恨んでいる医師のべスナー、リネットに自分の結婚を破談に追い込まれたと思い込んでいるメイドのルイーズ、父親がリネットの祖父に破産させられた過去を持つ看護婦のバウアーズなど、関係者が多数乗り合わせていたのだ。そんな中、遺跡を観光している最中に、サイモンとリネットめがけて落石が。リネットはジャクリーンの仕業と考え、偶然乗船していた私立探偵ポアロに、彼女を遠ざけるように依頼するのだたが…というストーリー。

本作の最後の「列車内でおこったおもしろい事件の話があるのですが…」的なセリフのお遊びからも判るように、『オリエント急行殺人事件』の後の映画化作品。舞台はクルーズ船ということで、密室劇であるところは同じ。

でも、『オリエント急行殺人事件』の監督はシドニー・ルメットで別だし、主役ポアロを演じてる人も違う上にキャラクターも異なる。『オリエント急行殺人事件』では、ちょっと偏屈で感じの悪いおっさんだったが、本作では食いしん坊デブの好好爺(怪我人の食事まで喰う)。おまけに、ナイル川クルーズっていう設定もあって、開放的な雰囲気で、印象が全然違う。ミステリーなのに、どこかほのぼの感すら漂う。

印象は異なるが、古典推理ドラマというか、古臭いと言っては失礼なのかもしれないが、実に刺激の少ない演出。昨今の作品の派手な演出に馴れちゃってるからねえ。
関係者がわらわらと虫がたかるように、同じ船に大集合っていう不自然な状況が、不自然なまま未消化で話が進むことと、なかなか事件がおこらないことで、どうも前半で集中力が途切れてしまい、ヨソ見しまくりだった(大事なポイントを、かなり見落としていると思う)。

で、事件は結局ありがちなトリックだったりする。というか、アガサ・クリスティのほうが後世の作品のモチーフにされる側であって、それをありがちというのは失礼なのは百も承知。でも、そこを差し引いて観なければいけない義務もないので、素直に後世の作品と平等に比べちゃうと、やっぱりありがちな筋。犯人だって、まあ半数の人は予想を付けてたと思う。
でも、そのありがちを、単なるありがちで終わらせていない点がすごいと思うのね。一つは、発射された弾の数や、ストールの扱いなど、偽装に用いられた小道具を非常に効果的に興味深く使用していること(これは原作のすごさ)。もう一つは、役者陣が豪華&実力者ばかりで、ともすれば学芸会になってしまいがちな密室ミステリー劇に、重量感とエキセントリックさを与えてくれている。その中でも、ミア・ファローの演技は光っていたかな。
オリヴィア・ハッセーは、キラりと光る美しさを観せてくれているが、この2年後に日本映画『復活の日』なんぞに出ていると考えると、ちょっと不思議な感じ。
#マギー・スミスは『ハリー・ポッター』のマグゴナガル役ですな。若い頃から、あまり変わっていませんな…と思ったら、本作のときに既に44歳か。

私、推理小説の世界はあまり詳しくないが、推理中に事件が進行していく様や、最後、女性犯人による自殺を許してしまうところなど、金田一耕介シリーズとの共通点を感じる。もちろん、横溝正史が影響を受けているのは間違いないわけで、そう考えると、やっぱりアガサ・クリスティは偉大だな…と。

古さを差し引いても、普通に愉しめた作品。

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公開年:2004年
公開国:フランス
時 間:85分
監 督:ピエール・モレル
出 演:シリル・ラファエリ、ダヴィッド・ベル レイト、トニー・ダマリオ、ラルビ・ナセリ、ダニー・ヴェリッシモ 他
コピー:NO CG! NO STUNT! NO WIRE!
アクション、極まる!





パリは、郊外の“バンリュー13”地区が極端に治安が悪化したため、周囲に壁を作り隔離を決行。壁の内部では、タハとその一味が支配する、ギャングたちによる抗争の耐えない無法地帯を化した。2010年、この地区で生まれ育ったレイトは、街からドラッグを一掃しようと、一人でタハ一味に立ち向かうことを決意。彼らから麻薬を奪い廃棄するが、その報復で妹が拉致されてしまう。しかし、圧倒的な身体能力を駆使して、逆にタハを拘束し妹も奪還。そのまま警察署にタハを引き渡すことに成功するも、そのころバンリュー13の行政組織のすべてが撤収する最中だったため、面倒を避けた警察署長はタハを解放し、逆にレイトを拘束。そのため再びレイトの妹が目の前で拉致されてしまう。そのままレイトは投獄され、6ヶ月が経過。政府が作った中性子爆弾がタ一味によって強奪され、バンリュー13地区に持ち込まれる事件が発生。タハは誤って起爆装置を作動させてしまい、爆破までの時間はわずか24時間。爆発すれば半径8キロが消失してしまう。そこでフランス政府は、エリート潜入捜査官ダミアンに起爆装置解除を命令。バンリュー13の土地勘のないダミアンは難色をしめすが、半年前に投獄されたレイトを利用して潜入するように強制する。ダミアンは市民を守るため、レイトは妹を救うために、バンリュー13への侵入を試みる…というストーリー。

治安が悪いからといって、一つの地区を壁で囲んで隔離するという基本設定に無理がありすぎる。いきなり高い壁ができたわけじゃあるまいし、なんで隔離政策をそこの住民が指を加えて見ていたのか。全員が悪人というわけではなく、結構な人数の普通の住民も一緒に隔離されており、人権無視も甚だしい。

で、その設定に気が向かってしまうと興醒めしてしまうところを、アクションで目を逸らしているわけだ。
そのアクションが、とにかくすごい。クレヨンしんちゃん流に言えば、お尻のあたりがヒュンってする。レイトもすごいけど、それを追いかけているタハ一味だって十分すごいんじゃない? って思うかもしれないが、レイトがやったのと同じことをやれば良いので、それなりに追いかけられるわけだ。そういう点でも、なかなか考えられているアクションシーン。リアルさを逸脱していないと思う。
ハリウッドアクションはもちろん香港アクションとも異なる。同じような体躯を駆使した純粋なアクションといえば、、トニー・ジャーらのタイ映画があるが、特撮もワイヤーアクションもないのは同じでも、そっちは人間離れしすぎていて、いささかリアルさに欠ける。本作は、“本当らしさ”という意味では最高峰のアクション映画だと思う。

奇しくも、昨日の『ホーボー・ウィズ・ショットガン』と同じく、一つの町が無法地帯となり、一人の男が町を掃除しようと立ち上がるという展開からスタートする。同様にありがちなプロットなのだが、やっぱりアクションがいい味付けとなっている。
加えて、職人捜査官としてのプライドと、妹奪還というわかりやすい目標に加え、各々が形は違えども正義を希求する人間であるという共通点を持たせている。ありそうで無かった形のバディ物といえるだろう。

6ヵ月も薬漬けで監禁されていたら、妹もどうにかなっちゃってるだろうに…と思うのだが、その身も蓋も無いエグさはリュック・ベッソン製作ならではか。リュック・ベッソンは結構、女性の扱いが悪いことが多いよね。

事件の黒幕はいかにもフランスらしいし、オチの付け方もフランスっぽい。フランスって権力対する反応が、いわゆる“中二病”っぽいね。軽妙さをエグさと中二病のコングロマリット。とても愉しめた。間違いなくヨーロッパ映画№1のアクション作品。快作。
#邦題はこんなつまらないのじゃなくて、『女囚701号 さそり』みたいなフォントで、“バンリュゥ13地区”とかにしたほうがインパクトあったんじゃないかな。

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公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:86分
監 督:ジェイソン・アイズナー
出 演:ルトガー・ハウアー、グレゴリー・スミス スリック、モリー・ダンズワース、ブライアン・ダウニー、ニック・ベイトマン、ロブ・ウェルズ 他







列車に無賃乗車して、町から町へ流浪する初老の男。何十年もそういう生活を続けている彼は、仕事を求めて“ホープタウン”という町に降り立つ。しかしそこは、犯罪組織のボス・ドレイクが牛耳る暴力に支配された町だった。ドレイクの息子のスリックとイヴァンは父親の威を借りて殺戮のし放題だが、住民はおろか警察までも黙認する有様。そんな中、娼婦アビーがスリックに誘拐される現場に遭遇した初老の男は、スリックを殴り気絶させ、警察に突き出した。しかし、警察署長がドレイク一味と通じており、逆にスリックによって胸をナイフで切り刻まれ、ゴミ捨て場に放り出されてしまう。すっかり懲りてしまった初老の男は、芝刈り機を購入してそれで商売をしようと考え、屈辱的な仕事でなんとか資金を集める。いざ、芝刈り機を買いに質屋を訪れると、武装強盗が押し入ってくる。初老の男は、店にあったそっとガンを手にして、強盗を次々と射殺。これをきっかけに、町のドラッグの売人やポン引き、小児性愛者などを次々と血祭りにあげていく。やがてメディアも、世直しするホーボー(浮浪者)として取り上げ始め話題になり…というストーリー。

本作は、タランティーノとロドリゲスが“グラインド・ハウス”のフェイク予告編をコンテストを開催したときの、グランプリ作なんだって。確かに、ノリは“グラインド・ハウス”のそれ。
ホーボーは『マチェーテ』のダニー・トレホがやりそうな役で、『バッド・アス』の世直しオヤジのプロットがダブる。悪が蔓延る町に部外者の男がやってきて世直しするというのは、あまりにありがちなプロット。でも、それに“やりすぎ”な演出を加えることで、特徴を出している作品。要するに、ムチャクチャでグチャグチャにグロ表現を連発させているのだ。もはやスプラッター映画の域。
ここまでやればある意味“新鮮”と評価されるのも理解できるが、『ホステル』で具合の悪くなってしまったレベルの私なので、いかにもウソっぽく作られてはいるものの、やっぱり気分が悪くなってしまった。

さらに、ハリウッドのお約束である、“子供は死なない”というタブーをあっさり侵し、スクールバス内で火炎放射器を放ち焼き殺し断末魔まで聞かせ、さらに殺人をTV放送して、子供にメッセージを送り、トラウマを受け付けるという悪虐な演出。
不自然なくらい“芝刈り機”をフィーチャーするから、最後にドレイクを倒すときの仕掛けなんだろうな思っていたが、あんな使い方(観てくれたまえ)。誰も五体満足でオチを迎えられないという、救いようの無さ。
グロくてもいいのだが、せめて、ホーボーやアビーがブチ切れた後、スッキリするような爆発を観せてくれればよかった。病院の新生児室を前にして語る真っ当な説教の内容からすると、ホーボーがまともな神経の持ち主であることは明白。その正義の心の化身であるかのごとく、神々しいばかりのヒーローに、彼を仕立て上げたほうがよかったのではなかろうか。

この手の作品でスッキリできないと、興収を上げるのは無理。もう一つ、突き抜けられれば快作に成り得た。タランティーノやロドリゲスとの違いは、何だろう。キャラクターの“強い意思”“一貫した方向性”“偏愛”かな。本作は、いずれの要素も無いもしくは中途半端ではないかな。どうすれば映画は面白く感じるのか?という研究に値すると思う。
#製作国は、アメリカと書かれていたりカナダと書かれていたり。どっちだ?

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公開年:1959年
公開国:フランス
時 間:107分
監 督:サーシャ・ガヴァシ
出 演:ブレノ・メロ、マルペッサ・ドーン、ルールデス・デ・オリヴェイラ、レア・ガルシア、ファウスト・ゲルゾーニ、マルセル・カミュ 他
受 賞:【1959年/第32回アカデミー賞】外国語映画賞
【1959年/第12回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(マルセル・カミュ)
【1959年/第17回ゴールデン・グローブ】外国映画賞




カーニバルを控えて熱気溢れるリオ・デ・ジャネイロに、少女ユーリディスがやってくる。彼女は、田舎町から従姉セラフィナのところにやってきたのだが、謎の男に追われ、それから逃れてきたという。ユーリディスは街に着くと、電車で従姉の住むところまで移動することに。その電車の運転士オルフェは、唄とギターの名人で、子供たちから慕われるやさしい男だった。オルフェには、派手で独占良くの強いミラという名の婚約者がいたのだが、ユーリディスの清楚な美しさに一瞬で魅せられてしまう。その夜、祭りのリハーサルで、オルフェとユーリディスは再開。ミラの目をかいくぐって会おうとするが、例のユーリディスを追いかけている謎の男が、死神の衣装で、彼女に迫っていた。死神の姿を見たユーリディスは必死に逃亡。彼女を助けるためにオルフェもそれを追いかける。何とか死神を追い払い、彼女をセラフィナの家に送り届けると、二人はそのまま愛を交わし祭り当日の朝を迎えるのだった。セラフィナの計らいで彼女の衣装で姿を隠したユーリディスはオルフェと共に踊るが、夜になった頃にミラにばれてしまい追いかけられるハメに。さらに、死神までが彼女を見つけ追い詰めていき…というストーリー。

冒頭から、しばらくの間、お気楽なカーニバルの様子が綴られる。本当にただただご陽気。ユーリディスとミラの間で恋愛ドタバタでも繰り広げられるのかしら…なんて。ジャケット映像がいかにも死んだ女性を抱いて歩いている画だったので、ヘビーなお話だと予想していたのに、ユルユルだなぁ…って。まあ、底抜けに明るくて楽しいので良いんだけど。

中盤が近づいてきたかな…ってことまで、そんなユルユルだったのに、突然登場する死神の全身タイツの男。急に眠気が覚める。マジメな娘が、こんな得体の知れない男に、田舎から追いかけられるなんて相当なこっちゃでぇ…なんて思ってハラハラして観ていたのだが、ユーリディスがなぜ追われているのか、まったく明かされない。誰も聞かないし。そして再び、お気楽な恋愛ドラマに戻っちゃう。なんだ、この構成は…と。
#マジメな娘っていっても、今日あった男とを簡単に寝ちゃうユルさなんだけどね…。

(以下、ちょっぴりネタバレ)
カーニバルが始まり夜になると、全身死神タイツさんが再登場。その流れですったもんだがあって、なんと突然ユーリディスが死亡。その後、ユーリディスの消息を追うオルフェの姿を綴ったシーンが、グダグダ。警察にいったり霊媒師のところにいったりモルグにいったりと、それらエピソードの意図が意味不明。投げっぱなし。

さすがに、そこで気付く。これはきっと、古典か神話か何かの翻案だな…と。で、ラストで、ギリシア・ローマ神話のレリーフみたいなカットで終わったので、確信。調べてみたら、ギリシア神話の“オルフェウス伝説”をベースにしたお話の模様。よく知らんが、日本神話でイザナギは死んだ妻を黄泉の国まで追いかけるエピソードと同じ話(何か共通の元になった話があるんだろうね)。ユーリディスが死んだあとは冥府の出来事ってことか。

でも、鑑賞中に「ああ、これオルフェウス伝説だな…」って気付いたからって、おもしろく感じるだろうか。何でこれが、オスカーとかパルム・ドールとか獲れちゃうのかしら。例の死神は“死”の象徴ってことなんだろうが、ただの全身タイツさんで、周囲の人にも普通に見えているからやっぱりタダの人。なんで彼女を追ってきたのか、その理由を一切明かさないのは、ミステリアスでもなんでもなく、私にとっては単なる消化不良でしかない。
明るいカーニバルと、恋愛悲劇とのコントラスト。狙った意図は判るのだが、結局は何一つ救いのない悲劇で終えているのは、けっして面白いとは言いがたい。最後なんて、嫉妬に狂ったミラに、家は放火されるは、投石で殺されちゃうわで、ちょっとコントチックだったりして、「二人は死によって結ばれたのでした…」って感じじゃないよね。

本作に対する感想を読むと、すごく評価されていることが多い。これがわからん奴はセンスが無いといわんばかりなのだが、私にはよくわからん…と素直に言っちゃう。取り立てて貶す必要もないが、手放しに褒めるレベルの作品だとは思えない。奇作だと思うけど。

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公開年:1989年
公開国:アメリカ
時 間:96分
監 督:ロン・アンダーウッド
出 演:ケヴィン・ベーコン、フレッド・ウォード、フィン・カーター、マイケル・グロス、レバ・マッケンタイア、ボビー・ジャコビー、ヴィクター・ウォン、ビビ・ベッシュ、アリアナ・リチャーズ、シャーロット・スチュワート、トニー・ジェナロ、リチャード・マーカス 他
コピー:土煙をあげて、大地が裂けてゆく- 突然おこった地核変動の謎は?




ネバダの砂漠地帯にある小さな田舎町。そこで便利屋をしているヴァルとアールは、ロンダという大学院生と出会う。彼女は、数日前から奇妙な振動が計測されており、その原因を調べているという。ヴァルとアールは、刺激のないこの町に嫌気がさしており、この町を出る決意を
した。その道すがら、酔っぱらい老人が鉄塔の上にしがみついたまま死んでいるのを発見する。死体を降ろして町まで運ぶが、死因は脱水症状。なんで喉が渇いても鉄塔から降りようとしなかったのか、理解不能。しかし、その後も、工事現場の作業員が消えたり、家畜が食い荒らされたり、車が地中に埋まってたりと、奇妙な事件が連続発生する。やがてヴァルたちは、それらが地底生物の仕業であることを知るのだったが、町の電話は不通となり、周囲の道路も寸断されて陸の孤島と化してしまい…というストーリー。

本作、すごく記憶に残っているんだけど何故なのかと調べると、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』の同時上映だったんだな。劇場で観てるんだわ。BTF3が大作然としすぎているから、ショボく感じたか?と思いきや、実際は2と3の連続製作という目新しい手法で話題になり期待値が上がりまくったせいで、実際は満足度は高くなかった。かえって本作のほうが心に残った人が多かったのではなかろうか。まあ、今考えれば、なんと贅沢な二本立てだろう。
でも、その割には、地中生物のフォルムを『DUNE/砂の惑星』のワンドワームと混同していたりするんだけどね(本作の生物は、けっこう短い)。

基本プロットはジョーズに近い。そして、だだっ広い砂漠地帯とはいえ、周囲の町とは遠く隔てられた土地で、道も寸断されているという、ある意味“密室劇”的な舞台。学校帰りに、“高いところだけを歩いていき、落ちたら鮫に襲われる”的な遊びをしたことがある人も多いだろうが、そういうノリを真剣に映画に仕上げた作品。
さらに、未知の生物の特性を探りながら解決策を差靴という、謎解き要素も加わる。

キャラクターも実にウマく配置されている。ケビン・ベーコン演じるヴァルは、クールで行動力のある若者。粗野な男のようでありながらも卒なく物事をこなすだけでなく、結構賢いし、思い切りもよい。話が進めば進むほど好青年であることがわかってくるので、理想の女性像を追いかけているウブさが相まって、どんどん魅力的に見えてくる。ケビン・ベーコンは結構イヤな役柄が多いので、
さらに、そしてバディ物としての要素もある。ヴァルの相棒アールは、ちょっと年上で冷静。常に良いフォロー役として振る舞い、アクティブなヴァルといいバランスが取れている。そして、恋のキューピッド役もこなす。

町の住人もユニークな人だらけで、銃器マニアの夫妻は、核シェルターを用意するほど“生”への執着がある。だから、怪物が襲ってきても、その蓄えた火気をフルに使って反撃する。採取的に怪物退治が可能だったのも、彼らの知識があったればこそ。でも、生への執着は、自分勝手さとしても表出し、町の人と軋轢も生じる(このバランスがシナリオ的にウマい)。
食堂のアジア系(?)の親父や、ふざけてばかりの若者など、余計なことをしてピンチになったり、色んなことを想いついたりと、それぞれいいところで役割を果たしている。
もちろん、異変をいち早く察知したロンダも、ヒロインと戦う仲間の両方を見事に両立。彼女の知恵が、何度もも彼らを救う。

こういう、大ピンチを共有した結果、恋愛に至り結ばれるという展開も、『スピード』よろしくありがちな展開。そういう以上な状況で結ばれても、長続きしないというのは世の常なので、なんとなーくニヤニヤした生暖かい感じで観終えられるのも、おもしろい。

ありがちでお約束な材料ばかりが集約されているのに、ここまで面白く仕上げられているのは見事。大人版の『グーニーズ』みたいで、とてもワクワクしながら鑑賞できる。

モンスターの造型以外は、たいしてお金がかかっていない(とはいえ数億円レベルの制作費だとは思うけど)。地中を怪物が進む様子だって、シートの上に地面をつくっているギミックはバレバレ。でも、それで十分なんだよね。知恵と企画の勝利。
なーんの映画賞も獲っていないが、映画賞なんか作品の普遍性とは無関係だといういうことを証明している作品。秀作だ。若い世代で観ていない人は多いかもしれないけど、これは観るべき。

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公開年:2011年
公開国:イギリス
時 間:88分
監 督:ジョー・コーニッシュ
出 演:トジョディ・ウィッテカー、ジョン・ボイエガ、アレックス・エスメイル、フランツ・ドラメー、リーオン・ジョーンズ、サイモン・ハワード、ルーク・トレッダウェイ、ジャメイン・ハンター、ニック・フロスト 他
ノミネート:【2011年/第65回英国アカデミー賞】 新人賞(ジョー・コーニッシュ)
コピー:団地の不良キッズVS謎の凶悪エイリアン



南ロンドンにある、低所得者向け公営団地“ブロック”。そのに住むモーゼス率いる5人組みは、毎晩のように大騒ぎしたり、時には通りかかった人を脅して金品を巻き上げることまでする、筋金入りの不良グループ。その日も、ブロックに引っ越して間もないサムという女性を脅して金品を巻き上げていると、突然彼らの目の前の空から隕石のようなものが落下してくる。落下物はエイリアンと思しき生物で、モーゼスたちを襲撃しはじめる。血気盛んな彼らは、ひるむことなく反撃し、逃げる謎の生物を追跡し仕留めてしまう。戦利品として死体を団地に運ぶモーゼスたちだったが、その後、先ほどと同じ落下物が団地中に飛来。さきほど倒した生物よりも共謀な種類のエイリアンが多数出現し、団地中がパニックになる。しかしモーゼスたちは、団地の人々を守るために、原付バイクや花火、忍者ソードなど、身の回りを駆使して立ち向かい…というストーリー。

『ショーン・オブ・ザ・デッド』『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』のスタッフによる作品とのこと。たしかに、同じノリ。しかし、主人公があまりにもタチの悪いチンピラ集団で、しばらくするまで彼らが主人公だと認識できないレベル(カツアゲされた看護婦が主人公で、黒人のチンピラたちは途中であっさり殺されるキャラだと思っていた)。
主人公というのは程度の差はあれ、観客が共感できる人物である必要があると思う。モーゼスたちよりもとてつもなく悪い人間も登場するが、モーゼスたちの言動は完全に一線を超えているし共感できるものではない。民族的な差もあって、とても中学生くらいの歳には見えないというのも大きいが、イギリスではこの程度の悪さなら、子供のおイタの範疇で許容できるものなのだろうか。団地の子は環境が悪くてかわいそうだなぁ…って感じになるのだろうか。いやいや。可愛げがないだけでなく、未熟さと凶悪さのギャップが痛々しくすら感じられるほど。
いや、まあ、そういう他の作品とは違う異質な主人公で話をまわしてみようっていう狙いなんだろうと、頭を切り替えることに。イギリスの笑いのラインっていうのが、半周まわって、日本人にとっては笑えないラインのところにいるってことだろう。良いとか悪いの問題じゃなく、社会基盤とか集団的価値観自体が、異質なんだと思う。イギリス圏って今一番、日本と感覚が異質なのかもしれないね。

冒頭で、サムという女性から強盗をしてしまうわけだが、エイリアンから逃げている時に、偶然サムを再会してしまう。この団地の住人だと知って後悔するモーゼス(団地の住人は襲わないことにしている…と言うのだが、そういう問題じゃないだろう…というツッコミは脇に置くとして)。とにかく、イギリスは低所得者には将来がない社会。簡単に言えば、いまでも階級社会で、リッチマンと労働者階級がパックリ割れていて、上がっていくことが極めて困難。さらに“ブロック”は掃き溜め状態で、まともな教育を受けることもままならないから、ブロックで生きていくしかないという悪循環。

そんな見下されたエリア内のことなので、エイリアンが襲ってきても、警察なんかそうそう動いてくれない。ブロックの人たちへの仲間意識は強いモーゼスなので、友達や周囲の人が殺されるのを見て反撃をすることに躊躇がない。まともな教育環境にない子供の価値観は偏っているけれど、隣人愛を発端にしているのは間違いなく、製作側はそこにイギリスの未来を見ているのかもしれない。クソみたいなイギリス社会に対して一石を投じる意味合いがあるんだろうな…と予想はつくが、あまりに日本と違いすぎてその点はピンとこないレベルかも。

さて、この手の作品の場合、終盤になればなるほどグダグダになることが多いのだが、そうならないのがさすが『ショーン・オブ・ザ・デッド』のスタッフ。モーゼスを演じてる役者の子がウマイのも幸いしている(この子、伸びると思う)。

なんで、エイリアンがこのブロックに堕ちてきらのか? こいつら何なのか? という根本的な原因は不明だけど、なんでこのブロックに集中してくるのか? なんでモーゼスたちが追いかけられるのか? という理由はしっかりと整合性があって、且つきちんと解決の糸口にも繋がっており、好感が持てるシナリオだった。

最後はブロックの中の賞賛を受けるという終わり方。あくまでブロックの中でアイデンティティを確立するというオチなのがミソなんだろう。狙ってセンター前にポテンヒットを落とした感じ。クリーンヒットではないけど、小気味良い(というか小憎らしい)。まさに、小品良作。軽くお薦めする。

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公開年:2000年
公開国:日本
時 間:111分
監 督:市川崑
出 演:役所広司、浅野ゆう子、宇崎竜童、片岡鶴太郎、石橋蓮司、石倉三郎、うじきつよし、尾藤イサオ、大滝秀治、三谷昇、津嘉山正種、神山繁、加藤武、江戸家猫八、岸田今日子、菅原文太 他
受 賞:【2000年/第50回ベルリン国際映画祭】特別功労賞(市川崑)
 
 
 
 
 
或る小藩では、町奉行が着任してはすぐに辞職するという事が繰り返されていた。次にやってくる町奉行は望月小平太という男で、江戸から赴任してくる。しかし、望月という男は、その振る舞いが大雑把で乱暴で放蕩三昧だということから“どら平太”と仇名されるほどの型破りな役人だという。実際、着任日を10日すぎても奉行所に顔すら見せない有様。そんな不埒な人間が赴任してくることまかりならんということで、藩の若い者たちは怒りを隠さず、武力により排除しようという動きすら見られるほど。しかし、その悪評は、望月が友人である大目付の仙波義十郎に頼んで、流してもらったものだった。実はこの藩には“壕外”と呼ばれる藩の力が及ばない治外法権が存在し、そこでは、密輸、売春、賭博、暴力が横行していた。望月は壕外を浄化するために、送り込まれたのだった。早速、遊び人に扮して壕外に進入した望月は、壕外を仕切っているのが3人の親分であることを知る。標的を定めた望月は、着任すると家老たちに壕外の掃除を宣言するが、何故か家老たちはそれに異を唱え…というストーリー。

四騎の会(黒澤明、木下惠介、市川崑、小林正樹)の脚本ということだが、黒澤明の色が強いと思う。時期的に、脚本としてはほぼ遺作といってよいのではなかろうか。当時、黒澤明と他の三人がちょっとモメていたらしいので、黒澤色が排除されているのかな?なんて思っていたのだが、そんなことはなかった。
市川崑監督も四騎の会ということでちょっと遠慮するのかな…と予想していたのだが杞憂。冒頭から明朝体デカ文字クレジットで“らしさ”爆発。はじめからワクワクである。人を喰ったようなキャラクターが、さまざまな障害を飄々をかわしていく様子は、非常に愉快。役所広司の演技が実に冴えている。

しかし、残念ながら、山本周五郎の時代小説が原作のせいか、話自体の新鮮味がない。というかありきたり。さらに、シナリオの質もはっきりいって良くない(というか、チグハグという表現が正しいか)。どら平太が、素行の悪い人間のふりをして潜入捜査をするという設定は悪くないのだが、“ふり”ではなくて実際に素行は良くないキャラ。それが証拠に、女性問題で浅野ゆう子演じる“こせい”が追いかけてくるほど。だが、この女の役割が、イマイチ面白さに寄与していない。事情を聞こうともせず一人勝手にプリプリした上に、大した考えもなく壕外に潜入してトラブルをおこしピンチに。それこそありきたりだが捕まって人質に…という流れかと思ったのだが、都合よく即座に望月に救われる。その後、話の主筋に絡むでもなし、あきらめずに首を突っ込むでもなし…。いなくてもどうってことのないキャラクター。

素行の悪い人間の“ふり”じゃないので、腕っ節も強い。強いどころか無敵である。あれだけの大人数に対して立ち回りを披露して、全部やっつけちゃう無双っぷりに、ちょっと興醒めさせられちゃうのがもの凄く残念。スタローンやシュワちゃんじゃないんだから。そこは、すこし知恵を使って乗り切るとかしないといけないと思うのよね。痛快さや豪快さを前面に出したエンターテイメントにしたいのはわかるのだが、まったくピンチらしいピンチがないのはいかがなものかと思う。
さらに、壕外と藩の繋がりを調査する謎解き部分も浅い。ミステリアスさに欠ける。謎解きに主眼を置かない替わりに、親分3人衆と家老たちの処遇をコミカルタッチに描こうとしているのだが、ちょっと笑いになりえていない。ラストの馬でこせいから逃げるシーンも、残念ながら、いまいち笑えず…。

加えて、片岡鶴太郎演じる安川の友情エピソードも、いまいち伝わってこない。
(ちょっとネタバレ)
宇崎竜童演じる仙波が黒幕であることは、半分くらいの人が薄々感づいていたと思う。それがバレバレなのは良しとしても、仙波のカウンターとして安川は存在するのだから、安川の純で真摯な友情は心がジーンとしてくるほどに描かないといけないと思うのだが。

…と色々文句を書き連ねてしまったが、市川崑ファンの私としては、満足だった。本当にずっとワクワクして最後まで観たのはウソじゃない。ただ、もう少しだけなんとかならなかったかなぁ…って、そう思っただけ。

それにしても、こせい役は浅野ゆう子でよかったのかなぁ…。 一人だけ全然江戸の人間じゃない感じだった(台詞回しが、作風にマッチしていなかったんだと思う)。『釣りバカ日誌』の2作目くらい(1989年頃)の石田えりだったらぴったりだったけど、時期も違うし、おそらく市川崑の好みじゃないだろうし。
一応、浅野ゆう子と市川崑は『獄門島』『八つ墓村』繋がり。厳しい言い方になっちゃうけど、浅野ゆう子の力量がイマイチ向上していなかったってことなんだろうなぁ。

快作! っていいたいところだけど、市川崑ファンじゃなけりゃ、フツーの作品なのかな。この穴だらけのシナリオを、ワクワクできる作品に仕上げただけで、アッパレだと思うのよ。

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公開年:2013年
公開国:アメリカ
時 間:124分
監 督:ジョセフ・コシンスキー
出 演:トム・クルーズ、モーガン・フリーマン、オルガ・キュリレンコ、アンドレア・ライズブロー、ニコライ・コスター=ワルドー、メリッサ・レオ サリー、ゾーイ・ベル 他
コピー:何故、彼は 人類のいない地球に残されたのか――?





2077年、地球はエイリアンの襲撃を受けて壊滅的な被害を受ける。異星人への応戦に核兵器を使ったことから、生き残った人間は地球に残ることができず、土星の衛星タイタンへ移住する。その後、人類は、ドローンと呼ばれる無人偵察機による地球監視を続けてたが、ドローンのメンテナンスやパトロールのために、元海兵隊司令官ジャック・ハーパーとヴィクトリア・オルセンが派遣されていた。地球に存在する人間はその二人だけである。二人は、任務上の規則として、過去の記憶を消し去られており、かつて地球でどんな生活をしていたか覚えてはいない。平凡な監視任務の期間も残り少なくなっていたある日、所属不明の宇宙船の残骸を発見し、ジャックは調査へと向かう。船内のカプセルの中に、一人の女性を発見。目覚めた女性はジュリアと名乗り、何故か遭ったこともないはずのジャックの名前を口にするのだった…というストーリー。

冒頭から、何らかの理由によって、記憶を消されてしまっているという説明が入るのだが、もしかして記憶を消さないと精神が崩壊するほどの経験を異星人との戦いでしたのかな…なんて感がえたけど、やっぱり無理がある。ましてや、人類のみんなが記憶を消されているなんてありえないし(誰かが記憶を残していないとこまるじゃない)。そう考えると、どうせジャックたちは騙されているんだろうな…と。読めた時点で、作品に対する興味がガクっと軽減する。逆にそれが裏切られれば何倍にもなって還ってくるが、そうでなければ奈落へ堕ちる。

そして、ジャックとヴィクトリアの地球二人ぼっちの生活の様子と、ジャックのパトロールの様子が綴られる。気になった人は少ないかもしれないが、とても変わった編集(というかおかしなシーンの繋ぎ方)をしていて、ちょっと違和感を感じる。例えば、バイクを盗まれてクソーッ! っていう展開。基地に戻るまで苦労するんだろうな…という感じなのに、直後にズバっと基地に戻っているシーンに切り替わる。あれ? って感じ。意表をつく意図的な編集なのか、別にそこは魅せ場でもなんでもないからサラっと処理したのか…。おかげで、何かストーリーに没頭できなくなってしまった。好みの編集の仕方じゃない。

で、記憶が無いながらも、正しいを思わされていることに、違和感を感じるジャック。『マトリックス』のネオと一緒だなぁ…なんて頭をよぎる。さらに、ジュリアが発見され、どうも訳を知っている感じで、『マトリックス』のトリニティみたいな、真の世界へいざなう役柄なのかなぁ…なんて。さらに、モーガン・フリーマン演じるビーチが登場。実は本当の人間の世界があって、いままで信じさせられていたことは全部刷り込まれた記憶って展開に。さらにビーチは、ジャックが“こいつは何か違う”的なことを言う。そして仲間はそれをいまいち信用していないっていう構図。『マトリックス』のモーフィアスたちと一緒だな…なんて。

(ちょっとネタバレ)
すったもんだして、真の世界を信じて選択するジャック。あとは対決だけか? なんて思ったら、もう一人のジャックが登場。おお、奇を衒ってきたな…なんて思いつつ、『マトリックス』のエージェント・スミスみたいだな…なんて。
そして、終盤でクローン培養機が規則正しく並ぶ様子は、『マトリックス』の人間プラントみたいだな…なんて。

あまりに『マトリックス』が頭をよぎったせいで、SFとしての骨太さが感じられないどころか、二番煎じ感すら漂う始末。もう少しオリジナリティというかユニークさを感じさせるか、もっとサスペンス要素や謎解き要素を複雑にするか、どこでもいいから一つシナリオ面で突き抜けてほしかったかな。

ただ、メカニックも荒廃した風景もいい雰囲気だった。映像センスだけは好みだ。これが唯一の救い。『トロン:レガシー』の監督さんか…。まぁ“ぽい”よね。

『マトリックス』の新規性と偉大さを再確認しただけだったかも。凡作。

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プロフィール
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映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
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