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公開国:アメリカ
時 間:118分
監 督:トッド・グラフ
出 演:クイーン・ラティファ、ドリー・パートン、キキ・パーマー、ジェレミー・ジョーダン、コートニー・B・ヴァンス、デクスター・ダーデン、ジェシー・L・マーティン、クリス・クリストファーソン、カーク・フランクリン、デキーナ・ムーア 他
コピー:歌えば心はひとつに!
不景気にあえぐ町、ジョージア州パカショー。沈んだ雰囲気の中、町の教会の聖歌隊が全国大会“ジョイフル・ノイズ”で優勝することを応援することが、人々の楽しみとなっていた。しかし、いつも地区予選止まり。今年こそはと意気込んでいたが、これまで聖歌隊を指導してきたバーニーが突然亡くなってしまう。牧師は、新たなリーダーにヴァイ・ローズ・ヒルを選ぶが、自分が後を継ぐと思っていたバーニーの妻G.G.スパロウは、ヴァイと対立。さらに、ヴァイが正統派のゴスペル・スタイルに頑なにこだわったため、メンバーとの間に不協和音が生じる。そんな中、G.G.の反抗的な孫ランディが現れ、ヴァイの娘オリビアにアプローチし始める。次第に二人の距離が縮まっていくの見て、G.G.とヴァイの仲はますます険悪になっていき…というストーリー。
教会でゴスペルをやってるのは見慣れた光景だが、見た目以上に宗教色が強い。とにかく神様を称えることばかりが繰り返し語られて、ちょっとうんざりする。
ゴスペル映画といえば、『天使にラブ・ソングを…』だが、ああいう愉快さはないし、とにかく演出が中途半端。町中のみんなが楽しみにしているっていう設定らしいが、町中がこの聖歌隊のことに注目している感じが全然伝わってこない。バーニーとG.G.スパロウが夫婦なことに、気づかなかった私。はじめにあっさり死んじゃうから記憶に残ってないし、後で回想シーンになるけど、かなり後なので、結びつかなかった。だって、夫が死んだ後なのに、他のメンバーと同じくらいの悲しみ具合だったんだもの。
結局なんでG.G.が整形し続けるのかもよくわからんし。工具屋の男がなんで、あんなに踊りがうまいのかよくわからんし、スポットを当てるほど彼の心情を描けていない。東洋系の人とせっかく結ばれたのに、相手が死んでしまう黒人女性。彼女に東洋人の相手が続けてできる演出意図もわからんし、その面白さもわからん。
全国大会の途中のホテルで、娘に激昂するヴァイの喋っている内容の意味がさっぱりわからん。夫との不和の理由もいまいちわからん。アスペルガー症候群の息子をわざわざ登場させたが、その障害も、感動の一助になってないし、ステージにあまり貢献していないし。出す意味あったかな…。
G.G.が離脱した後に、秘策を思いついて復帰するくだり。そのトンチが全然おもしろくない。車をぶっとばして飛行機に乗ればベガスでの大会に間に合う…という展開だが、飛行機に乗るシーンはなし。ハラハラさせるつもりがないようだ。
大会の舞台で、突然衣装を脱ぎ捨てて私服になるとか、完全に『天使にラブ・ソングを2』の超劣化版。結構、ヒドいシナリオかも。
さらに、DVDでは、歌に字幕がないの歌の内容がわからない。もう、やる気がないならリリースするな…って感じ。稚拙な作品。
#どうでもいいけど、太った黒人女性が多すぎ。クイーン・ラティファは、出る作品のレベルがだんだん落ちていう気がする。
公開国:アメリカ
時 間:115分
監 督:アレクサンダー・ペイン
出 演:ジョージ・クルーニー、シェイリーン・ウッドリー、アマラ・ミラー、ニック・クラウス、ボー・ブリッジス、ロバート・フォスター、ジュディ・グリア、マシュー・リラード、メアリー・バードソング、ロブ・ヒューベル、パトリシア・ヘイスティ 他
受 賞:【2011年/第84回アカデミー賞】脚色賞(ジム・ラッシュ、ナット・ファクソン、アレクサンダー・ペイン)
【2011年/第37回LA批評家協会賞】作品賞
【2011年/第69回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、男優賞[ドラマ](ジョージ・クルーニー)
【2011年/第27回インディペンデント・スピリット賞】助演女優賞(シェイリーン・ウッドリー)、脚本賞(ジム・ラッシュ、ナット・ファクソン、アレクサンダー・ペイン)
【2011年/第17回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ジョージ・クルーニー)
【2012年/第21回MTVムービー・アワード】ブレイクスルー演技賞(シェイリーン・ウッドリー)
コピー:ハワイに暮らしていても人生は<楽>じゃない!
ハワイ・オアフ島。弁護士のマット・キングは、妻と二人の娘たちを持ち、仕事に打ち込んできた。彼の一族はカメハメハ大王の末裔で、カウアイ島に先祖から受け継いだ広大な原野を所有しており、その土地を賃貸したり売買するなどして働くことなく生きることが可能だったが、マットは堅実だった父親の教えを守って、弁護士の収入だけで家族を養ってきた。そのため、家族には贅沢な生活をさせることができないことが、少し気がかりだった。彼の一族を裕福たらしめていた土地だったが、この度、土地管理委託権の期限を越えた土地に対して、個人所有を認めない法律に改正されることになり、期限内に譲渡しないとそれ以降売買することができなくなってしまうことに。マットは、弁護士という職業柄、土地の売却問題で一族の意見をまとめる大役をまかされていたが、これまで土地に手をつけてこなかった彼は、土地と自然を守りたい思いが強く、親族の願いとの間で思い悩んでいた。そんな中、妻のエリザベスがボート事故で意識不明の昏睡状態に陥ってしまう。これまで家庭のことは妻にまかせきりだったマットは、反抗期に入った10歳の次女スコッティの扱いに辟易。そんな介護生活に疲れはじめたころ、医師から妻の意識は戻らないと先刻されてしまう。そこで、全寮制の高校に通わせている長女アレックスを呼び戻したのだが、彼女からママは浮気していた”という事実を聞かされ…というストーリー。
結構シンプルなストーリーだと思ったのだが、改めてさわりを字におこしてみると、けっこうややこしいストーリーだ。
本作の監督は『サイドウェイ』のアレクサンダー・ペイン監督なのだが、判りやすい演出ですっと腑に落ちる。こういうのはお得意なようだ。
静かながらも揺れる心の内面を表現するのも実にうまい。まさに本作にうってつけの監督だ。マットが、相手の妻の口にキスしたのって、どういうつもりだったのか。反撃のつもりかもしれないけど、これが精一杯っていう緩い反撃なんだよね。でも、彼の心の機微がよくわかる演出。こういう演出が盛りだくさん。
このストーリーがニューヨークで展開されたとしたらこうなったか? いや、似たようなシチュエーションの作品はたくさんあるだろう。でも、このハワイという舞台にものすごく効果的に働いている。冒頭でマットは、ハワイにリゾート気分なんか感じたことが無い、どこがリゾートだ…と否定するけれど、人の暖かさ、なにもかもとりあえず受け止めてくれる雰囲気、我を忘れるくらい激昂する前に一歩踏みとどまれる緩さ。こういう基盤の上で展開されるからこそ、比較的凡庸ともいえる設定なのに、味のある作風に仕上がっているといえる。
BGMはハワイ音楽で統一されているが、これが観ている側のイライラを吸収し、緩い時間に漂わせてくれる。
いつものプレイボーイだったり卒が無い男とは、ちょっと違う、仕事ばっかりで魅力はイマイチの男を演じるジョージ・クルーニー。どうひっくり返したってダンディなご尊顔なわけだが、格好の悪い男の役作りに腐心しているのが、妻が浮気していたことを知った途端に友人夫婦の家に走っていく姿でよくわかる。ものすんごくダサい走り方してるの。この走り方はしっかり計算された演技だとも思う。
長女の彼氏(?)シドが非常にユニーク。あのまま、ただのアホキャラで通してもよかったのだが、途中で、マットと心が通うポイントがあり、以降はマットをボスと呼ぶほどに。馬鹿はかわいい。また、思春期入りたてでほとんど子供の次女スコッティは、馬鹿ってわけじゃないが、気を引きたいのか馬鹿な行動を採ってばかり。この二人の馬鹿が、なかなかいい味を出す。長女アレックスだって奔放で、跳ねっ返りで扱いにくい。マットを含め、この4人が、それぞれお互いを、自分なりに不器用に慮るのがなんとも心に響くんだなぁ…。
オスカー作品賞は『アーティスト』が持っていったわけだが、私は断然本作の方が好み。LA批評家協会賞、ゴールデン・グローブでは作品賞を採ったけど、あえて避けたのかな。そういうバランス感覚とかスカしとかいらないわ。
『アメリカン・ビューティー』クラスの、中年男向けのファミリー映画の快作。これは、是非観てほしい作品。好き。
公開国:フランス
時 間:86分
監 督:ビボ・バージェロン
出 演:ヴァネッサ・パラディ、(英語版)アダム・ゴールドバーグ、ショーン・レノン、(仏語版)ジェイ・ハリントン、ガド・エルマレ、マチュー・シェディド、フランソワ・クリュゼ、リュディヴィーヌ・サニエ、ジュリー・フェリエ、ブルノ・サロモネ 他
1910年代のパリ。自称発明家だが配送業をしているラウルは、友達の映写技師のエミールを乗せて、とある博士の研究室に荷物を届ける。研究室に入っていたずらを始めるラウルは、そこにあった薬品で遊んでいると、偶然、生き物を巨大化させる薬を配合してしまう。草花を強大化させてしまうが、一緒に別の何かも巨大化させてしまう。その日から、2メートルほどの謎のモンスターの目撃情報が、パリの至るところから寄せられ、大騒ぎに。そんな中、ラウルとエミールの幼馴染で、人気歌手のルシールのところに、モンスターが現れる。しかし、そのモンスターの美しい歌声に心惹かれたルシールは、モンスターを楽屋に招き入れる。モンスターが音楽を大好きなことを知ったルシールは、変装をさせて''フランクール''と名前をつけ匿おうとするが、ステージママにフランクールがみつかつぃまいステージに出すことになってしまい…というストーリー。
日本未公開のアニメということでまったく期待していなかったのだが、どうしてどうして、非常に質の良いアニメだった。
アメリカでも日本でも、CGアニメは陰影処理こそしているが、いまいち奥行きを感じない作品が多い。CGにすることで楽に仕上がっているのならわかるが、かえって手間がかかるならCGにする意味があるのか疑問な場合も多々ある。
エンドロールに出てくる原画(か絵コンテ)がすばらしく、3Dじゃなくて、そのままそっちで作ったほうが名作になりそうではあるが、本作は、奥行きを感じる構図と、落ち着いた配色によって、作品全体が非常に良い雰囲気に仕上がっている。
また、アクションが非常に小気味良い。モーションキャプチャーのような手法は使っていないと思うのだが、とにかく動きがよい。人が動く時の、肩や腰のグッと入る感じが実にうまくて、デッサンの基礎能力が非常に高い人による仕事であることがわかる。いかにも、欧米のアニメらしいキャラクターなのだが、このキレのあるモーションのおかげで、アニメであることを忘れる瞬間があるほどである。これは今の日本のアニメに欠けている技術的方向性。是非見習うべき…というか、この基本に立ち返るクリエイターを育成しないと、あっという間にフランス産アニメに追いつけなくなる日が来る…そんな気すらする。
フランスが大洪水にみまわれているという設定も愉快だし、キャラクターの配置もユニーク。映写技師のエミールとモギりの女の子とのくだりでスタートするのだが、彼らは話の主軸ではない。その友達のラウルでもない。彼らが生み出したモンスターと、後から登場するルシールとの、オペラ座の怪人のようなストーリーが主軸になっていく。敵役として登場する警察署長(選挙があるから保安官?ちょっとフランスの警察制度はよくわからん)が登場し、彼らを追いかけ苦しめる。さて、彼らはフランクールを守れるか否か?味付けのちょっと濃いキャラクターたちはどう絡んでいくのか。ちょっとヒネりのある世界観で、なかなか面白いと思う。
うやむやのうちに警察署長が逮捕されたり、肝心の博士が顔もださずに、都合よく薬だけ作ってくれたり、よく考えると、ブラッシュアップしきれていないような気もするのだが、それを押し切るだけの、画面の力がある。アメリカの3Dアニメとは、微妙に一線を画する作品。軽くお薦めしたい。
公開国:アメリカ
時 間:144分
監 督:ジョス・ウェドン
出 演:ロバート・ダウニー・Jr、クリス・エヴァンス、マーク・ラファロ、クリス・ヘムズワース、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナー、トム・ヒドルストン、クラーク・グレッグ、ステラン・スカルスガルド、コビー・スマルダーズ、グウィネス・パルトロー、サミュエル・L・ジャクソン、パワーズ・ブース、ハリー・ディーン・スタントン、アシュレイ・ジョンソン、スタン・リー、イエジー・スコリモフスキ、ポール・ベタニー 他
ノミネート:【2012年/第18回放送映画批評家協会賞】視覚効果賞、アクション映画賞、アクション映画男優賞(ロバート・ダウニー・Jr)
コピー:日本よ、これが映画だ。
ニック・フューリー率いる国際平和維持組織シールドの基地にて四次元キューブの研究が極秘に行われていた。しかし、突然キューブは制御不能に陥り、別世界への通路を開いてしまい、神々の国アスガルドを追放され、地球支配を目論むロキが現れる。ロキは、シールドのエージェントであるホークアイとセルヴィグ博士の心を乗っ取り味方につけ、キューブを強奪して逃走する。ロキの目論見を悟ったフューリーは、一度は断念した最強ヒーローたちによる部隊“アベンジャーズ”の結成を決断。ブラック・ウィドウやエージェントのフィル・コールソンらに、ヒーローの招集を指示する。70年の眠りから覚めたキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース、インドに隠遁していたハルクことブルース・バナーを召集し、ドイツで異世界の扉を開こうとしているロキのところへ向かうが…というストーリー。
『アイアンマン』をはじめ、個別のヒーロー映画を作り、エンドロールでニック・フューリーを出し続け、前フリに前フリを重ねて、いよいよのクライマックス。まるで、すんごく楽しみにしていたように思うだろうけど、一切劇場で観ていない。その程度の期待度。
こういうアクション作品は吹き替えで観ることにしているのだが、いきなりサミュエル・L・ジャクソンの竹中直人の吹き替えでずっこけた。合ってない…というか竹中直人丸出し。なんかイマイチだなと思っていたらスカーレット・ヨハンソンも米倉涼子だし…。ただ、宮迫博之のホークアイは違和感無かった。違和感ないし宮迫であることすら一切気にならなかった(あんまり喋らないキャラだからかな)。
敵の親玉が、ソーの弟ロキというのがなんとも。『マイティ・ソー』を観ていない人は経緯がよくわからんし、観ている人は彼が結構な小物なことがわかってるので、アベンジャーズ全員で相手にできるようなタマじゃないことが判っているので不安になる。本作を観る前に、全部を観直そうかと思ったが、時間が無かったのでやめたんだけど、博士とか、キューブとか、肝心な部分のすべてが含まれているので、『マイティ・ソー』だけは観ておいたほうがいいかも。
ロキじゃ役不足だと思っていたが、その小物っぷりを逆に発揮した姑息な作戦で、なかなか面白かった(仲間割れ作戦を)。でもやっぱ、中盤はグダグダになっちゃう。そうなったら、あとはフルスロットルのバトルにしちゃえばいい。トニー・スタークはふざけたことを言ってりゃいい。キャプテン・アメリカはまじめにやってりゃいい。ハルクはいいところででてきてあばれりゃいい。ただ、キャラクターを動かしてりゃなんとかなる。まあ、予想どおりの“東映まんがまつり”だ。
どう考えても“神様”との戦いじゃ、人間に勝ち目がなさそうなんだけど、生身のブラック・ウィドウやホークアイでも、それなりに勝負できてるのが変…っていうか微笑ましいっていうか。派手ではあるけど、いまいち弱っちいから、結局、真の敵“人間”のお出ましになっちゃう(まあ、それはそれでいいんだけど)。
向こうの世界から出てきた、ドラゴンなんだかムカデなんだか、そんな戦艦は、仮面ライダー好きが見たらクライシス帝国かよ! って思うところ(仮面ライダーBLACK RXは、アメリカでも放送されていたから、案外、影響を与えていないとも言えないんだけど)。
やっぱりロキは小物で、ハルクにボコボコにされるのは、とっても面白い。結局さいごはしょぼ~んって感じで連れ戻されるとかコメディである(たくさん人死んどんねんで!?笑)。マーベルの漫画はあんまり詳しくないから、エンドロール後に出てきた赤い猿みたいなのが、何なのかしらない。続編をやるつもりなのかもしれないけど、このキャストをもう一回集められるかなぁ。それに、続編やる気ならコールソンは殺さないでほしかったな。いい味だったのに。
エンドロール中のアベンジャーズ全員はダイナーでぼーっと飯喰ってるシーンは、おもしろかった。あれがやりたくて、この映画つくったんじゃないかと思うくらい。
海外に比べると、日本の興行収入はいまいちだった模様。「日本よ、これが映画だ。」というコピーを聞いて、何か観る気が失せた人もいたと思うけどね。まあ、個々のヒーローに思い入れはないわけで、日本の“大きな子供”の興味の範囲じゃないってところも大きいかもしれない。今後も単独でシリーズ化できるのは『アイアンマン』だけしかない。他は人間体のキャラが弱いよね。
まあ、予想どおりの、何も考えずに楽しめる作品。
公開国:北朝鮮
時 間:95分
監 督:シン・サンオク
出 演:チャン・ソニ、ハム・ギソプ、リ・イングォン、ユ・ギョンエ、薩摩剣八郎 他
コピー:ついに“解禁”! 全世界が待っていた 怪獣映画の金字塔。
高麗朝末期。飢饉によって民衆は苦しんでいたが、王朝は武器製造のために農民たちの農具を接収する。そして、役人は鍛冶屋のタクセに武器製造を命令するが、タクセはそれを拒否したために投獄されてしまう。日に日に弱っていくタクセは死を悟り、娘のアミが差し入れた飯粒を練り、精魂をこめて鉄を食うという伝説の怪獣“プルガサリ”の小さな像を作り息絶える。遺品としてプルガサリの像を家に持ち帰ったアミは、裁縫中に指先を傷つけてしまい、その血を像にかけてしまう。すると、プルガサリに命が宿り…というストーリー。
何も知らなければ、「おお、北朝鮮ってば、こんな特撮技術持ってるんかい!!」と、思うに違いない。小さなプルガサリはもちろん着ぐるみだとは思うが、セットが巨大なのか合成なのか、正直、ずっと田舎くさい寸劇が続いて、突然特撮映像になるから、本当に小さい生き物が動いているんじゃないかと思うくらいのインパクトがある。でも、この特撮は日本の東宝のお仕事。スーツアクターも日本人。しかし、映画内のクレジットには東宝はおろか日本人が関わっていることは微塵も出てこない。国家の威信をかけた映画製作の根幹が日本人の手によるものだとは、口が避けても言えないのはわかるのだが、その威信を知らしめるのは海外に対してなわけだから、すぐにバレるだろうに…。普通はそう思うのだが、やっぱり北朝鮮の人間は頭が弱い。おまけに、このシン・サンオク監督は、韓国から北朝鮮に亡命したというふれこみだったが、その後海外に逃亡し、あれは北朝鮮よる拉致だったと証言している。もう、この映画の主軸の部分に、北朝鮮の力によるものなどなにもないのである(笑)。ただ、唯一評価できるのは、大迫力の膨大な数のエキストラである。人だけはタダでいくらでも使えたんだろう。
それ以前に、なんで怪獣特撮で勝負しようと思ったのか。日本のゴジラに対抗しようと考えたのか、金正日が単に好きだったのか。仮に対抗しようとしたとしても対抗する相手である日本の東宝スタッフもってくるあたりが、朝鮮半島人の短絡的なロジックの象徴で、笑えてくる。自分で力を身につけようとか、借り物じゃ結局あとで恥をかくことになるとか、そういう考えに及ばないんだな。
このお話のベースが高麗王朝時代の伝説だというのだが、そのようなことが記載されている文献があるということを聞かない。あったとしても口伝。口伝でも、どこかの時代に口伝として書物に記載があるもんだけどそれもあるんだか無いんだか。私は怪しいと思っているけど。
まあ、それはいいとして、プルガサリは食べる怪物さ。鉄の供出といえば北朝鮮の親分、中国協共産党の毛沢東が思い浮かぶ。プルガサリが王朝を倒すという構図は、共産主義という大正義が、旧態の王政や帝政を倒すという構図なんだろう。でも、共産主義ってのは資本主義で肥太った資本家を打倒するもんだけどな…と、いかにも対日ゲリラで名を上げた金日成らしい、ズレっぷりを見せてくれる。
で、そのズレは、キャラクター設定にも見られる。娘のアミの恋人役インデなのだが、これは圧政に対抗するレジスタンス。まさに金日成に比定される。で、プルガサリとインデ=毛沢東と金日成という構図にしたかったのかもしれない。はじめはそれでよかったんだろうが、それでは結局話がまとまらなくなってしまい、インデは大した仕事もせずに、殺されて終わってしまう。正直、いなくていいキャラである。もっといい扱いにしないと、革命思想を毀損することになると思うのだが、そういう考えには及ばないみたい。
挙句の果てに、王朝を倒したプルガサリなのに、そのまま暴走はとまらず、このままでは世界中の鉄を食べてしまうわ! とか、斜め上の展開に。共産主義に振り回されてにっちもさっちもいかない国内情勢を表しているように思えるのだが、北朝鮮スタッフはピンときていないらしい。で、プルガサリを若い娘の犠牲によって鎮めておしまいというオチ。若い娘を献上してお怒りを鎮めるという、昔、同じようなことを我々は中国にしていたような…とか、そういうことに想像が呼ばないのが、これまた朝鮮クオリティ。
はじめから、まともな内容は期待していなかったが、『ゴジラ』が原水爆に対する問題提起というベースがあったことと比較すると、この何を言いたいのかふらふらしている内容は、ひどすぎる。童話というものは幾ばくか隠喩をはらむものなのだが、それが理解できていないんだろう。いっそのこと、特撮もポンコツだったらお笑い映画として、酒の肴になったものを…。北朝鮮作品という興味本位だとしても、レンタル代がもったいない作品。
公開国:イギリス
時 間:100分
監 督:ロネ・シェルフィグ
出 演:キャリー・マリガン、ピーター・サースガード、ドミニク・クーパー、ロザムンド・パイク、アルフレッド・モリナ、カーラ・セイモア マージョリー、エマ・トンプソン、オリヴィア・ウィリアムズ、サリー・ホーキンス、マシュー・ビアード、アマンダ・フェアバンク=ハインズ、エリー・ケンドリック 他
受 賞:【2009年/第63回英国アカデミー賞】主演女優賞(キャリー・マリガン)
【2009年/第25回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞(ロネ・シェルフィグ)
コピー:あの頃に戻っても、私は私を止めたりしない。
1961年、ロンドン。両親と暮らす16歳のジェニーは、両親が期待するオックスフォード大学を目指して勉強に励んでいる優等生。両親は、ジェニーの行動を規制し、大学入学に役立つこと意外は、何一つ許そうとしない。ジェニーはパリに憧れていたが、父はフランス語のレコードを聴くことすら許さず、そんな毎日にうんざりしていた。そんなある雨の日、学校からの帰宅時に、倍以上も年の離れたデイヴィッドという男に声をかけられる。はじめは警戒していたが、彼の紳士的な態度に次第に心を許していく。デイヴィッドは、音楽会や食事にジェニーを誘う。やがて、ジェニーの両親をうまく説得し、友人のダニーとその恋人ヘレンらと一緒に、ナイトクラブなど魅惑的な大人の世界にもつれだすようになる。そんなデイヴィッドに恋心を募らせていくジェニーだったが、そんな彼女の行動が学校で噂となり…というストーリー。
予告CMを観たときには、相手の男がもっととんでもない犯罪者のように表現されていたんだけど、いざ観てみると、あまりにも小物でちょっと肩透かしをくらった。 もっとヤバい世界に嵌っていくお話だと思ってたんだけどなぁ。でも、実話ベースだから仕様が無い(とはいえ、リン・バーバーというイギリスのジャーナリストが書いた本が元になっているらしいが、どんな人かも知らないし、どこまで本当なのかもわからない)。
あまりお金をかけていないように見えたので調べてみると、製作費が750万ドルくらいなのに対して、興行収入は2,600万ドルくらいあったらしい、優秀作品だった模様(まあ、それでも、制作費750万ドルって、『コーマン帝国』を観た後だと、本当にそんなにかかるのか? と思っちゃうレベルだけど)。まあ、60年代のセットを穴が無いように作るのは金はかかるだろうけどね。
60年代が舞台だが、この貴族と労働者という、超えられない階級の壁があるイギリス社会。さらに現在はこれに移民が加わるわけだが、いまでもイギリスが階級社会なのは同じ(本当に日本に生まれてよかったと思う)。この閉塞感の中で、お話は展開していく。
この階級の壁を超える…とまではいわないけれど、娘にみじめな暮らしをさせないために、学歴をつけようとしている。ここがミソで、学をつけたいんじゃなく、学歴をつけたいわけだ。その程度の貧相な発想だから、学校がうまくいかなかくなっても、いい嫁ぎ先が見つかったら、これまでのスパルタ教育なんか別にどうでもいいとか平気で言っちゃう。薄々疑ってはいたけれど、娘ジェニーの価値観が根っこから崩れていき、ますます夢のような大人の世界に軸足を置くようになる。
同じような経験とまではいかないけれど、バイト先で気に入られちゃって、このまま就職しちゃわない? とかいう誘いにグラつくのと少しは似ているかしらね。いったい学校で教えられていることが何の役に立つんだと、大抵の人は思うだけに。男女関係なしに、以外に共感というか創造ができちゃって、自分なら絶対そんなことはしないな…とは言い切れないラインで展開してくのが、本作の面白みである。
騙されてアホな親~と思うけれど、父親は本当にアホなんだわ。でも、そんなことに騙されちゃうのが、所詮労働者階級…っていう見方もできて、みじめさがものすごく漂うんだな。
ちょと別の見方を。相手の不倫男デイヴィッドはユダヤ人なわけだ。作品の中では非常に強調されている。高校の先生の発言にもあるのだが、ユダヤ人がナチス圧政で不幸な立場だったことは理解するが、それはそれ…と。いままで、この程度の発言ですら問題視されていたような気がするが、その踏み込みが、この作品の魅力だと思える。
シェイクスピアの時代からユダヤ人の行動は同じ。自分は特段労働するわけでもないのに、商品を右から左へ流すだけで利益を得るという、ユダヤ人の目の付け所。デイヴィッドも不動産を動かすだけならまだしも、他人の家からこっそり美術品を盗んで、高額でうっぱらうようなまねをしているクズ人間。で、悪びれもせずに、価値のわからない人のところにあっても意味がない。私たちが宝物を開放したなんて言いくさる。そして名前がゴールドマンときたもんだ。いまでも、ハゲタカのようにいろんな国で株価操作まがいのことを仕掛けて、食えるだけ食ったら逃げる。逃げるときには、ここはまだまだ儲かりまっせーって言いながら自分だけ逃げる(GS、おまえのことだよ)。
まあ。こうやって映画の世界でも、彼らの醜い貪欲さを表現できるようになったのは、いい兆しに思える。
閑話休題。
ラストの挽回ぶりを考えると、校長先生はいいとしても、担任教師とのやりとりはもっと厚く表現すべきだったと強く感じる。もっと丁々発止やりあった上に、ぐいぐいと一線を越えた上で決裂し、それでもあの最後の展開…とすべき。そうすることによって、教師をいう職業が単なる職業ではないことを、サラリと表現することができたと思うのだ。これが実話ならば、もっと担任の行動にスポット当てるべきなのに、自分のことばかりに焦点が当たって終わるのはいかがなものか。原作もこんな感じなら、原作者はよっぽどのエゴイストだよ(笑)。
まあ、無条件で良作! というのは憚られるが、観客を引き込む力のある作品だったと思う。
#ジェニー役のキャリー・マリガンは、その後、『ウォール・ストリート』でゲッコーの娘役をやってたね。案外、5年後くらいにオスカー獲ってるかも。そのくらいのオーラはある。
公開国:アメリカ
時 間:118分
監 督:ビル・コンドン
出 演:クリステン・スチュワート、ロバート・パティンソン、テイラー・ロートナー、ビリー・バーク、ピーター・ファシネリ、 エリザベス・リーサー、ケラン・ラッツ、ニッキー・リード、ジャクソン・ラスボーン、アシュリー・グリーン、ブーブー・スチュワート 他
受 賞:【2012年/第21回MTVムービー・アワード】作品賞 、キス・シーン賞(ロバート・パティンソン、クリステン・スチュワート)
ヴァンパイアのエドワードと結婚を選択し、“転生”してヴァンパイアになり永遠の生を送ることを決意したベラ。人間のうちに結婚式を挙げ、オオカミ族のジェイコブに別れを告げ、エドワードと2人でハネムーンに旅立つベラ。しかし、早々にベラが妊娠。その子供の成長が異様に早く、それと反比例して彼女は衰弱していき命を脅かし始める。ベラはハネムーン先で病気にかかったと親に告げ、密かにエドワード宅に戻るが一向に快復しない。一旦、友好関係を結んでいたヴァンパイア族とオオカミ族だったが、オオカミ族はその子供の存在を恐れ、再び対立に発展してしまう。しかし、ジェイコブはベラを守るためにオオカミ族からの離脱を決意し…というストーリー。
いい男二人が自分を取り合って、私のために喧嘩しないで~と、ティーンの妄想爆発な作品の続編。最終エピソードでありながら、前後編に分けるというハリー・ポッター戦法という姑息さよ。おっさんが、何を元日から観てるのか…と、我ながらあきれる。
しかし、演者は別にしっかり観なくちゃいけないような演技をしているわけでもないし、流れは台詞で全部説明してくれちゃってるし、正月の小忙しい中、別のことをしながらでも、音声だけ聞いてりゃそれなりに話は追えてしまう。前半はハネムーンまでの流れをダラダラと見せられて、おっさんからしたらどうでもいい内容。両天秤にかけてもてあそんだくせに、結婚式にジェイコブがやってきて、和解してお別れとか。これ、男と女を逆にしてみ? 女の人は怒るんじゃね? 男も女も下卑た妄想のレベルはちっとも変わらないってことだわな。くだらねえ。
結婚することは前作で規定路線になってたわけだが、たいしてヒネりもピンチもなく、結婚までの様子を観せられて何がおもしろいのかちっともわからないが、ハネムーンで妊娠したらどんどん胎児がデカくなる。アメリカのティーンは、妊娠したしないという出来事が身近なのか、こういう展開でもワクワクするのかねぇ。私はちょっと引くけど。
ここんところ飛ぶ鳥を落とす勢いのクリステン・スチュワートだが、後半は弱っている状態が続き、ほとんど演技らしい演技もないし、最終的には昏睡状態。ガリガリにやつれていく設定なのだが、やつれた彼女は微塵も美しくないときたもんだ。
で、おなかが大きくなるまで、周囲がオロオロしている様子をただただ観せられる。いざ、出産のシーンも不必要にグロい。最大の盛り上がりであろう両種族のバトルも、ジェイコブが生まれてきた子供に刻印したから争いはおしまいだよーとか、つまらない終わり方。なに、自分の子供に対して、元彼が執事か守護者みたいにまもってくれるのとか、女の人的には身震いするくらいな喜びなわけ? 自分がどんなに勝手なことをしても、いつまでもなびいてくれる男とかがいたら快感なわけ? きんもちわる~。
で、終わり方は、100人いたら90人はそうするだろうっていう、ありきたりな感じ。芸がないなぁ。まあ、固定客がいるようなので、前後編にわけても儲けられるとは思うけど、内容が薄すぎるよ。
まあ、ヴァンパイアと人間の混血児が生まれたもののおかあさんはヴァンパイアに…、そして守護者としての御犬様、その関係がどうなるかに加え、ヴァンパイア族本体がからんできてどうなるか…PART 2はそんな感じなんでしょう。DVDが出てからで十分だな。劇場に足を運ぶ気にはならん。
でも、こんな薄い内容で、なんだかんだ最後まで観せるんだから、大したもの。
#エンドロールの間にはさまってた、ヴァンパイアさんたち(ヴォルトゥーリ三人)のくだりは、いまいち意味がわかりにくい。
公開国:アメリカ
時 間:82分
監 督:ケリー・ライヒャルト
出 演:ミシェル・ウィリアムズ、ウォーリー・ダルトン、ウィル・パットン、ジョン・ロビンソン 他
ノミネート:【2008年/第24回インディペンデント・スピリット賞】作品賞、主演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ)
愛犬ルーシーと車でアラスカを目指すウェンディ。アラスカで仕事を見つけ、新たな生活を始めるつもり。途中のオレゴン州の駐車場で仮眠をとっていると、朝、私有地から出て行くように注意される。しかし、車のエンジンがかからず、旅は中断。所持金も残り少なくなってきたが、ルーシーの餌がなくなってしまったため、スーパーでドッグ・フードを万引きすると、店員に捕まって警察に引き渡されてしまう。しばらく拘留された後に釈放されるが、スーパーの前に繋いでおいたルーシーがいなくなってしまう。町の保健所を訪れたがルーシーはおらず、町に迷い犬の張り紙をすることに。そして仕方なく車を修理に出し、自分は野宿をすることに。それからも必死にルーシーを捜すが一向に行方はわからず…というストーリー。
旅をしているようだったのでロードムービーなのかと思っていたが、一つの町に留まってストーリーは繰り広げられる。
浅はかな計算によっと深みに嵌っていく若者のお話。特に悲惨な出来事がおこるわけではないのだが、自分の愚かな行為によって、旅のバディである愛犬がいなくなってしまうは、節約していたはずのお金も、余計にどんどん減ってしまう。なぜ彼女が家族から離れようとしているのか、そしてなんでその行き先が北なのか、説明はされないが、彼女はどうしても家族の助けをかりることができない。というか、家族も手を差し伸べようとしていないように思えるので、やはり何かあるんだろう。
車が故障してしまったオレゴンの町だが、その町も不景気で寂れてしまっていて、町並みも荒れているし、住人の目つきも荒んでいる。唯一手を差し伸べてくれてる警備員のじいさんも、気にかけて携帯電話を貸す程度。いや、それが冷たいとかそういうことではなく、手を差し伸べる余裕もないのだ。そしてウェンディも必要以上に手を差し伸べてもらえるとは思っていない。万引きで捕まったときに、若い店員に「自分の生活もままならないのに犬を飼う資格などない」と言われた言葉か、時間が経てば経つほど重くのしかかる。そしてラストを迎える。
彼女の境遇に、観ている自分の状況との共通点を見出せるかどうかがすべての作品。家族とうまくいっておらず、独立したくてもなかなかむずかしく、それなりの覚悟と無理が必要。でも無理をせざるを得ないし、いまさら戻ることもできない。もう走りきるしかないのだが、走りきりたくても“運”が足をもつれさせる。思わず呻くように泣いてしまったことがある人は、きっと心に刺さる何かを感じるはず。そういう経験のない人は、「もっとうまくやりゃあいいだろう」とか、「万引きなんかするから。自業自得だよ」なんて思ってしまうだろう。自分の経験によってパックリと印象が違うであろう作品。
私は……、後者かな。自分ひとりならいいけど、犬ちゃんがいるのに、それはないかな…と。まあ、日本未公開はしゃあない。
公開国:アメリカ
時 間:91分
監 督:アレックス・ステイプルトン
出 演:ロジャー・コーマン、ジュリー・コーマン、ジーン・コーマン、ロバート・デ・ニーロ、ジャック・ニコルソン、マーティン・スコセッシ、ロン・ハワード、ジョナサン・デミ、ピーター・フォンダ、ブルース・ダーン、ポール・W・S・アンダーソン、クエンティン・タランティーノ、アラン・アーカッシュ、ポール・バーテル、ピーター・ボグダノヴィッチ、デヴィッド・キャラダイン、ジョー・ダンテ、パム・グリア、ゲイル・アン・ハード、ジョナサン・カプラン、ポリー・プラット、ジョン・セイルズ、ウィリアム・シャトナー、ペネロープ・スフィーリス、メアリー・ウォロノフ、ジム・ウィノースキー、アーヴィン・カーシュナー、イーライ・ロス、フランシス・ドール 他
コピー:タランティーノが吠える!スコセッシが語る!そして、ジャック・ニコルソンが泣く!!
B級映画の帝王、独立映画の神、アメリカ映画界最重要人間コーマン――その恐るべき映画製作への執念。
メジャーな映画スタジオと一線を画し、低予算のB級映画を製作・監督しつづけた男ロジャー・コーマン。これまで50作以上監督し、400作以上製作または製作総指揮するも、ほぼ黒字にしているという驚くべき経営手法に加え、超低予算で過酷故に“コーマンスクール”とも呼ばれる製作現場から、ジェームズ・キャメロン、ジョナサン・デミ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン、ピーター・フォンダ、ロバート・デニーロ、マーティン・スコセッシ、フランシス・F・コッポラ、ロン・ハワード、ガス・ヴァン・サントなどの巨匠や名優を輩出している。しかし、予算や技術的限界を超える冒険をしないため、低予算映画の王者と呼ばれ、その業績は正しく評価されてこなかった。そんなロジャー・コーマン本人のインタビューと、弟子とも言える巨匠や大物スターのインタビューを元に、彼の映画製作の軌跡と溢れる映画愛を綴った作品。そして2008年に2008年アカデミー賞名誉賞を受賞するまでを追う。
ロジャー・コーマンが誰かを私は知らなかった。フィルモグラフィーを見ても、正直言って一つも観た作品がない。かろうじて『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』だけは知っていたが、観たことはない。しかし、ジャック・ニコルソンやらスコセッシがロジャー・コーマンの凄さとその業績を滔々と語るのである。自分の知らない世界に遭遇したこの衝撃、久しく感じていなかった衝撃。
おまけに彼がこれまで作ってきた作品が紹介されるのだが、これまたものすごいB級。いやC級。最新作の『ディノシャーク』とやらも、大学の自主制作作品かよって感じ。ホラーだSFだといっても特殊撮影もクリーチャーもぬいぐるみレベル。エド・ウッドと同じカテゴリの人なのかと思っていたら、決定的に違うのが、興収的には黒字にしているという事実。そりゃ、そうでなきゃ映画を作り続けるなんて不可能だものね。今の映画は興収でペイしなくても、TV放映権やDVD販売で埋め合わせできるけど、昔はそうはいかない。そこでほぼ黒字化できているって相当凄いことだと思う。
いや、凄いことは凄いのかもしれないけど、それってセコセコとクオリティ無視で作ったからじゃないの? と誰でも思う。しかし、コーマンの弟子たちは、そうじゃないんだ…と、語る。
『The Intruder』(1962年)という南部アメリカを舞台にした黒人差別を扱った作品がある。これが唯一コーマンが赤字にした作品らしく、アメリカ国内では非常に評判が悪かったのだが、内容が非常に良く、海外では評価されていたと。『ミシシッピー・バーニング』の26年も前で、時代が早すぎたんだと彼らは言うが、確かにそのとおりで、紹介されている内容をみると非常によい内容で、メッセージ性も高い。それほど先見の明は高いんだ、彼は能力が低いから下品でB級なさ区品ばかり作ってるんじゃないんだよと。
さらに、かの『イージー・ライダー』(1969年)も、コーマンの『ワイルド・エンジェル』(1966年)という作品があったからこそなんだと。フォンダ、ホッパー、ニコルソンは、当時AIP所属のコーマンへのリスペクトを込めて製作をお願いしたのだが、AIPの経営陣がデニス・ホッパーが監督をすることに難色を示して、撮影スケジュールが3日遅れたらホッパーを解雇するという失礼な契約を押し付けてきたために、頓挫したのだと。その後、企画をコロンビアにもっていって大成功。APIの奴らが損したことをニヤニヤと語るニコルソンの悪ガキっぷりが実に面白い。
#でも、コロンビアに持っていったから結局コーマンは製作してないんだけどさ。
『スター・ウォーズ』の登場で、映画界がすべて変わってしまったというくだりは実に興味深い。SFに対するアプローチの仕方は、コーマンたちがやってきあ方向性と同じだったのに、客が高額な制作費をかけたもの以外は観なくなってしまったと。そりゃそうそうだろう、そんなみみっちい恨み節を言われてもなぁ…と思ったのだが、実はコーマンが言いたいことはそこではなかった。
本当にそこまで費用をかけなければ同じ感動を観客に与えることができないのか? といっているのだ。制作費と観客に与える感動に損益分岐点があって、その点をちょっと越えたところを狙えばいいのだと。制作費が余るならそれで社会奉仕でもしろよ! とまでいう。確かに、世の中にはそれだけの制作費をどこにつかったのだろう…と、思う作品が大量にある。いやでも、それって普通狙ってできるもんじゃない。そこが判らないからこそ、観客が求めているであろうものを予測して、それこ超えるよう、そして驚かせようとフルスロットルでがんばる。やりたいことを追求していけば、当然制作費は高騰していく。損益分岐点が判るということはある意味天才。そして天才だからこそ、B級の旗手どまりなのだ。
別の見方をすれば、損益分岐点があらかじめわかるということは社会主義経済みたいなもの。メジャー映画会社がやっていることは、競争による自由主義経済。つまり、社会主義と資本主義の戦い。資本主義であるメジャーから見れば、社会主義のコーマンは目の敵にされて当然の帰結である。コーマンを支持している人たちが、どっちかといえばリベラルな人が多いのも頷けるというもの。
彼ほどの才能があればメジャーで活躍することは容易だったに違いないが、彼はそうしなかった。意地を張っているわけではなく、どうしてもそれはできなかったんだろう。弟子たちが“大物”になってくことを羨むでもなく、こつこつとできることをやり続ける。自分でもよくわからないが、コーマンの生き方に何故か魅力というかシンパシーを感じてしまった作品。
#タランティーノは、何を業界の顔役みたいにふるまってるのか、何か鼻につくのだが…
公開国:イギリス
時 間:108分
監 督:ウディ・アレン
出 演:ユアン・マクレガー、コリン・ファレル、ヘイリー・アトウェル、サリー・ホーキンス、トム・ウィルキンソン、フィル・デイヴィス、ジョン・ベンフィールド、クレア・ヒギンズ、デヴィッド・ホロヴィッチ、ジェニファー・ハイアム 他
ロンドン。今は父親のレストランを手伝っているが投資やビジネスの世界で成功を夢見ている兄イアンと、酒とギャンブル好きだが恋人ケイトとの幸せな生活を夢見ている自動車修理工場に働いている弟テリー。ある日、テリーがドッグレースで大穴を当て、格安で売りに出されていた小型クルーザーを共同購入し、レースに勝った犬の名前にちなんで“カサンドラズ・ドリーム号”と名づける。その後、イアンは若い舞台女優アンジェラと出会うが、リッチなビジネスマンと嘘をついて付き合い始め、テリーから修理中の高級車を都合して貰うなどして繕っていた。一方のテリーは、ポーカーで惨敗し、巨額の借金を背負うハメになってしまい…というストーリー。
本作以外のウディ・アレンのロンドン三部作といわれる『マッチポイント』『タロットカード殺人事件』は観ていないが、ユアン・マクレガー、コリン・ファレルという豪華な二枚看板を ウディ・アレンが料理するという、異色の組み合わせに興味津々だった。まあ、肉親の兄弟とはちょっと思えない見た目ではあるけれど。
凡庸で怠惰なくせに、不釣合いな上昇志向の持ち主ある兄。兄以上に凡庸だが、小さな日々の喜びで我慢できる人間だったのに、ギャンブルの興奮を知ってしまったために、泥沼に嵌ってしまう弟。金策に窮して、親の金に手を出してしまうが、そんな小金では大して役に立たない。
そこで、大金持ちの叔父がいるという都合のよいストーリーを観せられると、普通なら興ざめするのだが、そうはならない。叔父にどうやって切り出すのか…という流れ、そして思いもよらない叔父からの逆提案。兄弟が学のない小物であるが故の、低レベルな苦悩。蟻地獄にもがいてももがいてもズルズルと落ちていく蟻をじっと眺めるような感覚になる。
犯罪者の失敗物語としては、実にシンプルなストーリーなのだが、昔のウディ・アレン作品のような、あからさまなお笑い要素は無い。しかし、真剣+真剣+真剣な流れ故に、何かトータルでは滑稽に見えるという、コメディの高等技術に思える。だから、本作はクライムサスペンスなどではなく、間違いなくコメディだと、私は確信している。
しかしながら、残念極まりないのがラスト。破滅型のオチになるのは致し方がないが、展開もアクションもスケールが小さく、ヒネりも味もない。もう、投げ出しちゃったんじゃないんの? と疑いたくなる。さすがにお薦めできない。
公開国:日本
時 間:116分
監 督:中原俊
出 演:塩見三省、相島一之、上田耕一、二瓶鮫一、中村まり子、大河内浩、梶原善、山下容莉枝、村松克己、林美智子、豊川悦司、加藤善博 他
ある女性が、元夫を道路に突き出し死亡させたとする事件。その裁判のために職業も年齢もばばらばらな一般の市民12人が陪審員として集められた。争点は、被告に殺意があったか否かだたが、被告が若くて美しいことから、殺人を犯すような人間ではないとして、議論もそこそこに多数決を行い、全会一致で決まりかけたとき、28歳の会社員の陪審員2号が、何で彼女が無罪と思ったのか全員に問いかけた。みんなの意見がいい加減だったため、陪審員2号は有罪に票を転じ議論は継続されることに…というストーリー。
三谷幸喜の脚本。今まで散々書いてきたが、私には三谷幸喜のコメディはピンとこない。だから、案の定コメディとしての面白さはまったく感じなかった。ハハハと笑うだけがコメディじゃないのは百も承知だが、クスりともしなかった。
元ネタが『十二人の怒れる男』なのは明白。密室劇や長廻しの手法も訴えられても仕方ないくらいなのだが、あの作品が大好きなのは良くわかる。これを日本人でやったらどうなるんだろうな?というオマージュというかリスペクト作品ということで、ギリギリ許容範囲なんだろう。でも、『十二人の怒れる男』を観た人は、こっちが好きだあっちが好きだと思わず比べてしまうだろうね。でも比べる意味はない。タダの別物だから(良い意味でも悪い意味でも)
外人がよく言うような、協調することばかりに重きをおいて、自己主張することがなく、なんとなくな空気で場をまとめるような、ステレオタイプな日本人を登場させていている。コレだよコレ。私が三谷幸喜が嫌いな理由は。たぶん彼には世の中がこう見えているのだと思うけど、そんなお上品な人間なんかこの世に一握りしかいないと私は思う。彼の作品を観た時の違和感の原因はこれなんだ。あらゆる人間が綺麗すぎて、不自然な絵空事に見えるのだ。下品で自分勝手なキャラクターを配置してはいるけれど、それでも、根はおぼっちゃま。なにか、マリー・アントワネットの「パンが無いならお菓子を食べればいいじゃない」みたいなことを、上から目線で本気で言われたような不快感が、いつも漂う。
じゃあ、駄作なのか? いやいや、私は本作を名作だと思ってる。
もちろん、このシナリオが書かれていた頃に、日本には裁判員制度なんてものはなかった。先見の明とまでは言わないけれど、法理念の基本がしっかりわかってることについては、評価したい。“疑わしきは被告人の利益に”という刑事 裁判における基本の大原則が、日本においては守られていないこと。無実と無罪の違いが判っていない矛盾を架空ながらも判りやすいロールプレィとしてよく表現しているからだ。
豊川悦司が演じる男が、「実際におこったことなんかは誰にも判らない」という趣旨のことを言う。これは非常に大事。判事は神ではないから、真実は絶対にわからない。でも、神のごとく真実かわりに“判決”を出す。仮の真実ではあるが、そうすることで世の中を道筋をつけていく。だから、誰が聞いてもそりゃあこいつが犯人だと納得できる証拠がなければ、罪を負わせることはできない…ということなのだ。
本作では、彼女に殺意があったのか?が一つの焦点になる。まあ、これも“殺意”なんて心の中のことをどうやって外面から判断することができるのだ?という、根本的に欠陥のある考え方が元になっていると私は思っている。アメリカでいうところの第一級殺人のように、予謀や犯罪に伴う殺人であることを明確に証明できる証拠が無ければ、状況証拠だけで罪を構成することができないと明確にすべきだと考える。憲法を変えるのも結構だが、こういう刑法の整備も社会維持のために重要な点で、今の日本の刑法の体系がちょっとおかしいことに、いまの政治家は気づくべきである。死刑制度論議だけじゃなく、殺人罪の定義を考える段階だと思うね。
その他にも、意図してるかどうかは判らないが、民主主義の本質を説いていたりするので秀逸。大半の陪審員がはじめから多数決を連発し早く決着をつけようとするのだが、民主主義=多数決ではない(これは小学生の段階でしっかりと教えるべきなのだがなぁ…)。民主主義の基本は徹底的に議論を重ねることが基本。でも絶対、意見を変えない奴がいるし、天邪鬼な奴がいる。だから、あらかじめ時間を決めて、そこまでは徹底的に議論する。それでも決まらないときに多数決を用いる。
本作では、“朝まで”というボヤっとしたタイムリミットなところが気に食わないが、結果的に全員一致にならないので議論が続くという民主主銀の体言している…ということ。
で、何か引っかかると主張しただけで、論理的でないとレッテルを貼られる「何となくそう思う」おばちゃんと「フィーリング」おじさんと、それに加担する豊川悦司演じる男。こんな意見であったとしても、それが何なのか彼らが時間一杯考えたいと言えば、それに付き合うの民主主義。
そしてその引っかかりが探っていく先に、答えが待ってるという教科書的な作品なのだ。そういう意味で、三谷幸喜作品として、私が唯一好きな作品なのだ。
公開国:アメリカ
時 間:95分
監 督:ドン・シーゲル
出 演:リー・マーヴィン、ロナルド・レーガン、アンジー・ディキンソン、ジョン・カサヴェテス、クルー・ギャラガー、クロード・エイキンス、シーモア・カッセル、ノーマン・フェル 他
受 賞:【1965年/第19回英国アカデミー賞】 男優賞[国外](リー・マーヴィン)
殺し屋チャーリーとリーは、ろうあ学校の教師ジョニーの殺害を依頼され、任務を果たす。しかし二人は、ジョニーを殺害する理由を彼が100万ドルを盗んだからと聞いていたのに、その100万ドルの在り処を探せとはいわれなかったことを不思議に思う。きっと、100万ドルはジョニーではなく別の人間が持っているに違いないと踏み、本件の事情を探ってみることにした。二人は、ジョニーのレーサー時代の相棒だった男を訪ね、無理やり事情を聞きだす。その頃ジョニーはベテランレーサーで快進撃を続けていたが、そこにシーラという女が現れ、ジョニーに迫ったことからすべてが崩れていったという。彼女に夢中になったジョニーは、不摂生な生活を続けたせいで、レースで事故を起こし、レーサーとしての道を断念せざるを得なくなってしまったのだ。その後、シーラはジョニーをジャックという評判の悪い男に紹介し、とある儲け話に加担させようとするのだったが…というストーリー。
レーガン大統領が役者だったというのは、よく知られた話だが、実際に彼が出演した映画というのを観た人は少なかろう。私も観たことがなったが、本作がそれ。正直、彼の演技は2.5流。演じるだけで精一杯で、悪役らしい苦味というか憎たらしさなど微塵も表現できておらず、そこまで求めるのは酷なんだろうな…というレベル。こりゃ俳優では大成しない。まあ、それはそれとして…。
ドン・シーゲル監督といえば、『ダーティハリー』や『アルカトラズからの脱出』など男臭いサスペンス仕立ての作品を作らせたら一流で、本作もこれらの路線。しかし、どうも本作はピリっとしない。
二人の殺し屋は、10万ドルを盗んだ男の殺害を命じられたのはいいが、肝心の10万ドルの在り処を、依頼主が気にしていないことに不信感を抱くという掴みはよいと思う。しかし、その理由を確かめるために行う謎解きが、ほとんどか回想で語られるという構成がクソなのだ。タイトルでかつ主役であろう“殺人者”たちは、それを聞きまわって歩くという、ただの狂言回しである。いや、その聞き廻る様子が、実に下品で小物でチンピラ然としていて、まったく面白みを感じない二人組みで、狂言回しとしても落第点なのだ。
で、謎解きの結果、殺人の依頼主のところにぶち当たるというのも芸がない。
それに、ジョニーを放っておいちゃいけない理由がきちんと描かれていない。その盗んだ金を元でにジャックが大成して、今は社会的な地位を得ているとか、もしくはこれから議員にでも立候補しようと思っていて、過去を知っている人間がいると都合が悪いとか、そういう理由でもなけりゃわざわざ殺すリスクを犯す必要がない。シーラがまだジョニーに未練があるとかそういうわけでもなく、妻になっているらしいので、恋愛がらみの心配もなさそう。
おまけに、百戦錬磨の殺人者のはずなのに、簡単に撃ち殺される若い方。年上の殺人者のほうが.、瀕死の状態でジャックの家にいって相打ちになるのもあまりおもしろくもない。それをやりたいなら、彼がなんで金に固執するのかを描けばよかったと思う。
掘り下げが甘くて、つまらない作品。まあ、実は、冒頭のジョニーが殺されるシーンで、ジョニー役の人が、倒れながら自分の顔に血糊を塗ったくっているところで、この作品のレベルは予想がついていたんだけどね。
公開国:フランス、イタリア
時 間:129分
監 督:ジャン=リュック・ゴダール
出 演:ミレーユ・ダルク、ジャン・ヤンヌ、ジャン=ピエール・カルフォン、ヴァレリー・ラグランジェ、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、ジョルジュ・スタケ、ダニエル・ポムルール、ヴィルジニー・ヴィニョン、ブランディーヌ・ジャンソン、イヴ・アフォンソ、ポール・ジェゴフ、アンヌ・ヴィアゼムスキー、ミシェル・クルノー、ジャン=クロード・ギルベール、ラズロ・サボ、エルネスト・メンゼル、イヴ・ベネイトン、イザベル・ポンス 他
ロランとコリンヌは、別々に不倫しているが、表面上は仲のよい夫婦を装っている。コリンヌの父が危篤なのだが、母が遺産を独り占めしないか気がかりで、土曜日に、コリンヌの実家のあるワンヴィルに二人で出かける予定になっていた。都会の人々は、生活に疲れてみんなヒステリー状態となっており、出発時にバンパーをこすったくらいで隣人に銃弾を浴びせられる始末。また、いざ出発してみると、同じく週末旅行で郊外に向かおうとする人が多く、渋滞が発生。近道しようと迂回路を通るが、いらいらした人々は、あちらこちらで悲惨な事故を頻発させていた。結局、ロランとコリンヌも事故に巻き込まれてしまい車は大破、なんとかワンヴィルに向かう手段を見つけなければならなかったが…というストーリー。
芸術的に評価する評価を見ることが多いが、本当にそうか?と私は思う。
申し訳ないが、15分に一回眠れる。いや、冗談じゃなく、本当にそのくらい寝た。全部観終わるまでに、6時間くらいかかったと思う。
有名な渋滞のシーンにしたって、そりゃ渋滞の先にショッキングな状況が繰り広げられていたとしても、その前にあまりにもダラダラと渋滞のシーンを観せ続けられたら、普通飽きるでしょ。その後も、本人はインパクトがあるとおもって多用している、交通事故の血だらけの死体とか、何度も使われると飽きる。
長台詞なのに、画面がほとんど変わらないカットが多すぎて、観るのがつらすぎる。これは、フランス語を理解できる人が、耳と目で愉しむ作品であって、字幕を追って観る作品ではない。
当時の社会の空気がわかっていれば、風刺の部分も理解できるかもしれないけれど、今観てもさっぱりかと。それは、この映画が決して普遍性を持っていない証明ではないかと思う。
まさか、自動車社会への警鐘とか、そういうことなのだろうか。自動車社会は発展すると死屍累々になるから止めなさいって?
アフリカ人への差別は止めなさい、複数の人種が普通にミックスしている社会があるべき姿だって?今のヨーロッパの移民政策の失敗を見てただ、そんなことはくだらない夢想だってのが証明されている中、こんなの見せられても、「はいはい…、おじいちゃんもう寝ましょうね…」っていいたい気持ちになる。
政治体制を歴史を紐解きならが文化を批評するシーンも、なにがなにやら。中途半端な社会主義思想とニヒリズムが混じった史観は、聞いていてうんざり。根底に、現状のへの不満をぶつけたいだけ…とか、どうせ無意味…とか、そういうネガティブで邪悪な思想が垣間見える。
もう、最後の食人のくだりにいたっては、何がいいたいのかもわからない。現在の人が、この作品がすばらしいすばらしいって、それは裸の王様でしょ。不条理なという狙いはわかるけど、芸術性という意味では幼稚で完成度が低いと思う。本年度、観た作品の中で、一番時間を無駄にした作品。
公開国:アメリカ
時 間:129分
監 督:ジョージ・ミラー
出 演:ニック・ノルティ、スーザン・サランドン、ピーター・ユスティノフ、キャスリーン・ウィルホイト、ゲイリー・バマン 他
ノミネート:【1992年/第65回アカデミー賞】主演女優賞(スーザン・サランドン)、脚本賞(ジョージ・ミラー、ニック・エンライト)
アフリカのコモロ共和国で暮らしていたオドーネ一家は、銀行員の父オーグストの転勤で、妻ミケーラと息子ロレンツォとともにアメリカに引っ越してくる。その3ヵ月後、ロレンツォは学校で突然乱暴な振る舞いをするなどの奇行が目立つようになる。病院で診察を受けると、ALD(副腎白質ジストロフィー)という不治の難病に罹っていることを知る。夫妻は、ニコライス教授の指導で食事療法や免疫抑制剤の投与を行うが、病状は悪化するばかり。同じALD患者の家族会に参加してみたものの、すべて医師まかせで、子供の快復をすっかり諦めている親たちの姿を見て失望し、自分たちで治療法を見つけようと立ち上がるのだった…というストーリー。
実話ベースのお話。観るのもつらくなるような子供の難病の物語。ロレンツォの両親は数々の壁にぶち当たる。彼らのいうことを医学会の常識を盾にあしらう医師たち。医師に従うべきだともっともらしいことをいいながらも本心は早く楽になりたいと考えている親など、彼らの行動を阻む。しかし、彼らの言い分はもっともなところをが大きい。だって臨床データを取らなければ綿密な治療法の確立には至らないのは事実だし、看護を続けながらも生活の維持のためにしっかりと労働しなければならない上に、おそらくこのまま死んでいくしかなく、だけどこれをいつまでつづければいいのか誰も判らない状況なんて、心が折れる。それを攻めることは誰にもできない。
そう、この映画には、誰一人“悪人”は登場しないのだ。
絶対に諦めないといいつつも、日々に看病に疲れ、ヒステリックになっていく母親の様子を、スーザン・サランドンは見事に演じきった。しかし、結果オーライだし、自分の子供のためにがんばるったを一切否定するつもりはないのだが、男性目線だと、この母親のヒステリックな行動は、共感しにくい。さっきも書いたように、彼女に非難される人も、別に悪人ではないし、もっともなことをいっているだけ。むしろ、的確なアドバイスに思えるのだが、「今すぐ出ていって!」だもの。看護婦や妹を追い出しておきながら、発作がひどくなったら、結局入院させてるのを見て、入院をすすめていた看護婦に謝罪しろよ…と思ってしまった。
逆に、どうしてそこまで浮き足立たずに行動できるのか、と感服してしまったのが父親。本作では会社で仕事をしている描写がないのがいささか不自然に思えるのだが、実際は、昼間は会社にいって夜は病気の研究をしている。もともとロジカルシンキングができる人で、物事を理詰めで考えられる素養の持ち主だったのだろう。子供のため…の一言では彼の行動の淵源は理解できず、やはり途中から純粋な学術的興味”に変質したからこと、ここまでできたのだと思う(非難しているわけではない)。
正直、私が彼の立場だったら、諦めていると思う。この学術的な探求だけでなく、金銭を工面する卒の無さは真似できない(まあ、彼が銀行員だったあら…という側面はあっただろうけど)。
そして、ロレンツォを演じた子役は、本当に患者なんじゃねえのか?と思えるほど。この子の演技がなければ、いくらニック・ノルティとスーザン・サランドンがすばらしい演技をしようとも、両親の行動に対して、どこかで興ざめしていたに違いない。
演出上の特徴は、淡々とした編集で進めている点。彼らにまきおこったさまざまなエピソードを、暗転で次々と繋げていく。時間の経過と、病状の悪化の無常さをうまく表現する一助になっている。
決して愉快ではないし、手放しに感動できるお話ではないと思う。実際、この種の病気の劇的な治療法が見つかったとは聞かないので、ラストはいささかのむなしさを覚えるし。“人任せにはしない”という、親のあるべき姿を見せ付けられたようで、気恥ずかしくなる作品。親になる覚悟をするために、子供が生まれる前に観ておくべき作品かも。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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