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公開年:1988年
公開国:アメリカ
時 間:96分
監 督:ジョン・カーペンター
出 演:ロディ・パイパー、メグ・フォスター、キース・デヴィッド、ジョージ・“バック”・フラワー、ピーター・ジェイソン、レイモン・サン・ジャック、ジェイソン・ロバーズⅢ世 他
失業中のネイダは、ようやく工事現場の職にありつく。住むところも無かったが、仲良くなった作業員フランクから、教会が設営しているキャンプ地を紹介してもらう。キャンプにいる人々がTVを観ていると、突然、海賊放送が混信してくる。その放送は、“何者かが、人間たちを仮眠状態にして物質主義の奴隷になるように洗脳している”という荒唐無稽なものだった。その映像が終わると、映像を見ていた一人の男がそそくさと近くの教会に入っていくのを、ネイダは見かける。なにか怪しいと感じたネイダは、賛美歌が聞こえるその教会に潜入するが、賛美歌はテープの音声で、その音に隠れるように数人の男達が何かを議論していた。さらに建物を探ると、壁の中に隠し場所があり、そこに段ボール箱がいくつも入っているのを発見する。それ以降、この教会を見張っていたネイダだったが、ある日、教会に武装警官が乱入。その翌日に、教会に侵入してみるが、誰もいない。例の隠してあったダンボール箱をひとつ盗んで、街の路地裏で開封。中にはぎっしりとサングラスが入っていたが、一つを拝借して残りは投棄する。なにげなくサングラスをかけると、街中の写真や広告に「命令に従え」「消費しろ」「考えるな」などのメッセージが浮かんで見える。また、街にいる人々の多くが、骸骨のような恐ろしい顔をしたエイリアンで…というストーリー。
異星人が人間社会に潜んでいて…というお話は結構多いように思えるが、本作は一味違う。この手のお話の場合、異星人の目的を探ることが一つの軸になることが多い。そして判明した暁には、異星人への反撃を開始するストーリーに転じる。その過程で異星人側から人間に見方する者が現れ…なんていうのも常道だ。しかし、本作は、異星人の目的を明確にしない。なんで、人間たちを消費生活の虜や、政府に抗わない羊にしようとするのか、判ったような判らないような、ぼやっとした感じのまま。“手段”は判るが“目的”は判らないまま、終劇を迎えてしまう。
実は、目的のよくわからない行動というのは、ものすごい恐怖だったりする。連続殺人犯しかり、悪逆の限りを尽くす為政者しかり、その恐ろしい所業に畏怖する一方で、何でそんなことをするのだろう…と疑問に思っている。それに対して、幼少期のトラウマだ、極端な性欲や支配欲の発露だとか理由をつけて納得しようとするのだが、それは、理由をつけて納得することで畏怖感を軽減させようという行為である。
そういえば、『遊星からの物体X』の宇宙から飛来した生物も、なんで人間と融合するのか、その目的はイマイチよく判らない。捕食? 繁殖? となんとなく予想はつくのだが、絶対的に彼らがそうしなければいけない理由はわからない。ジョン・カーペンター作品の“恐怖”の正体は、コレだね。とにかく、そういうものなんだ! という、自然の摂理を振りかざされたような、圧倒的なパワーがある。
もし、人間を融合する彼らの生物特性が明確になり、それを疎外いたり対抗したりする術が判明し、反撃に転じたら、その時点で恐怖の質は、アドレナリンを伴った興奮に変化してしまい、純粋な恐怖ではなくなってしまうだろう。
本当に、本作は異星人たちの行動の理由がわからないの。だって、瞬時にテレポートできる腕時計とか、星間旅行とかできるテクノロジーがあるのに、ショットガンの人間に結構簡単にやられちゃうんだもの。で、すべての人間をだまくらかしているだけかと思ったら、相当数の人間が、異星人再度に寝返って利益を得ていたりもする。ますます、何が目的なのかわからない。人類を穏便に支配して、地球の資源をいただこうとしている? それとも社会実験? それともただ人間と一緒に暮らしたいだけ?
そういう謎まみれの展開の中を、ジョン・カーペンター流の演出が爆走する。なんといっても、いつまでやっとんねん! とツッコミたくなるほどの、黒人の仕事仲間との喧嘩シーン。これは、映画史に残る珍シーンといってよいかもしれない。だって、眼鏡をかけろ! かけない! という理由で、延々と殴り合いつづけるんだもの…。
正直、なんじゃこりゃ…と一瞬思ったんだけどね。すべて理詰めで設定することが、おもしろいシナリオのための必須条件ではないことを、改めて痛感させられた作品(ジョン・カーペンターが行き当たりばったりで本作を作ったといっているわけではない)。もちろん、ラストで何かどんでん返しや、驚くような謎解きがあるわけもない。この投げっぱなしが許される、ある意味脅威的な快作。おもしろかった。
公開年:1987年
公開国:ポーランド
時 間:85分
監 督:クシシュトフ・キエシロフスキー
出 演:ミロスワフ・バカ、クシシュトフ・グロビシュ、ヤン・テサシ 他
受 賞:【1988年/第41回カンヌ国際映画祭】審査員賞(クシシュトフ・キエシロフスキー)、FIPRESCI[国際映画批評家連盟]賞(クシシュトフ・キエシロフスキー)
【1988年/第1回ヨーロッパ映画賞】作品賞(クシシュトフ・キエシロフスキー)
1987年のワルシャワ。青年ヤチェックは、ふらふらと町を彷徨い、悪ふざけを繰り返す毎日を送っていた。一方、弁護士試験の最終面接に望む、死刑廃止論者の司法修習生のピョートルは、自説を熱弁し合格をすることができた。それを妻に知らせるために、大喜びで町の喫茶店に入っていく。その喫茶店にヤチェックも来店していたが、彼はカバンの中から紐を取り出し、長さを確かめると、意を決したように店を出て行く。そしてタクシーを拾い、町外れの川の堤防まで車を向わせるのだった。停車させると、ヤチェックは中年の運転手の首を紐で絞める。強く抵抗する運転手の手を棒で叩きいた上、車から引きずり出した後、頭部に毛布をかぶせて川原にあった大きな石で何度もの殴打し殺害するのだった。ほどなく逮捕されたヤチェックは、裁判にかけられる。彼の弁護を担当するのは、これは初仕事となるピョートルで…というストーリー。
最後の弁護士ピョートルとの接見までは、ヤチェック青年の心持ちは一切説明されない。ただ淡々と、ただ粛々と、やさぐれた青年が殺人を犯すまでを描く。虚飾を削れるだけ削り、まるで監督の“意図”というものを探られないようにしているかのような演出は、詫び寂びのごとし。全体が黄色味がかった映像は、水墨画にも通じる。特段、長けたカメラワークだとも思わないのだが、この“素”の中で繰り広げられる“殺伐”とのコントラストに、圧倒されてしまう。
情状酌量の余地がない若い殺人犯と、死刑廃止論者の若い青年という対比を見せていることから、死刑の是非を問うていると受け止めた人もいるだろう。ヤチェックの吐露から彼の心の傷を知ってしまったピョートルは、彼を救うことができなかったことを悔やみ、嗚咽を漏らしているのだ…、そう見るだろう。そういう意図があるからこそ、死刑シーンがリアルなのだ…と。
しかし、それも一つの観方(というかそれが大勢)かもしれないが、私はそうは思わない。
私は、つまらない理想を抱いた自分の浅さを、恥じているのだとみた。そして、つらつらと死刑廃止論について熱弁し、弁護士になってうかれていた自分の不見識と覚悟の無さを呪っているいるのだと思う。
だって、仮にヤチェックの死刑を回避できたからって、妹を自分の失敗によって殺してしまった苦しみから、彼を解き放つことはできないんだもの。仮に妹の死の責任を感じていたとしても、だからといって人を殺すようになるという、明確な関連性だってないでしょ。
(ちょっと話がズレてしまうが…)
貧しい人や弱い立場の人を救うために弁護士になるのはわかる。でも、死刑廃止論者が、弁護士になる理屈が私にはわからない。多少の解釈の違いで死刑を免れる例があったとしても、それで死刑制度がなくなるわけではない。法を作るのは代議士なのだから、死刑を廃止したければ、国会議員になって立法するしかないのに。でも、死刑廃止論者の弁護士は、手続き上のあらゆる策を弄して(時には、まるで妨害と思しき行為によって)死刑を免れようとする。
死刑が抑止力になる…という意見については、私も賛同しない。そういうことがあることは認めるが、自暴自棄なっていっそ死刑にしてくれ! と積極的に悪逆な犯罪を犯す場合がある以上、そのロジックは成立しない。
被害者が死んでしまったとのは悲しむべきことだが、だからといってさらに人を殺す必要はない…という意見もある。死刑を廃止している欧米の国や州などでは、こういう考え方がベースの一つにあるのかもしれない。また、冤罪の可能性という側面もあるので、完全なる無期懲役にして社会から隔離すべきであるという意見もある。しかし、これもさきほどと同様で、社会に馴染めないから、永遠に刑務所で生活したい…と考えて凶悪犯罪を犯す場合が容易に予測できるし(実際にそういう例は多いだろう)、大体にして死ぬまで収監しておくコストを、社会の人が賄うのは、いささか理不尽だと思える。
いささか直接証拠にかけるが、状況証拠的に極めて殺人と推定するに値するという場合は、無期懲役にして、新証拠により再審する機会を残す。それ以外は死刑に。特に、武器を事前に準備していたり、強盗などの犯罪目的で武器を用意して、それにより殺害してしまった場合は、情状酌量による減刑を認めず死刑に(いわゆる一級殺人)。根本的に、“殺そうという意思”があったか否かなどが、死刑になるかならないかの境目になっている、日本の刑事裁判はクレイジーである。頭の中、それも過去においての意思など、なんでわかるのだろう。判事はエスパーじゃねえってのね。
生物は、自分の群れを毀損するものは排除するのが本能。それをやらないからこそ、人間と動物は違うっていえるんじゃないか? という人もいるが、人間も動物だということを完全に忘れてしまうと、それはそれでおかしくなってしまう。
#また、複数の罪を同時に犯した場合は、加算刑にすべし。
閑話休題。
鋭い視点でストーリを綴りながらも、意見を押し付けるわけではなく、且つ、サラっと流すことができないような“棘”を観客の心に引っ掻けていく、キエシロフスキー監督の手腕は、なかなかのもの。実に良作。
公開年:1979年
公開国:日本
時 間:138分
監 督:斉藤光正
出 演:千葉真一、中康治、江藤潤、速水亮、にしきのあきら、三浦洋一、かまやつひろし、倉石功、高橋研、渡瀬恒彦、河原崎建三、角野卓造、鈴木ヒロミツ、竜雷太、三上真一郎、辻萬長、伊藤敏孝、加納正、清水昭博、古今亭志ん駒、佐藤仁哉 小野みゆき、岡田奈々、夏木勲、大前均、工藤堅太郎、仲谷昇、成田三樹夫、中田博久、小池朝雄、田中浩、薬師丸ひろ子、草刈正雄、勝野洋、岸田森 直江文吾、石橋雅史、真田広之、佐藤蛾次郎、中山剣吾、きくち英一、宇崎竜童、中庸助、高橋利道、栗原敏、井上清和、黒崎誠輝 他
ノミネート:【1981年/第9回アボリアッツ・ファンタスティック映画祭】参加作品
伊庭三尉を隊長とする21名の自衛隊員は、日本海側で行なわれる演習に参加するために移動中、400年前の戦国時代にタイム・スリップしてしまう。状況が把握できないでいる中、長尾景虎が家来を引き連れて訪問してくる。時代は、織田信長が勢力を伸ばし、上杉、武田、浅井、朝倉などの勢力が覇を競い合っていた頃だった。景虎も伊庭たちが何者かわからずにいたが、見た目も話す言葉も“同族”であることを知り安堵。さらに、伊庭たちの武器の威力に強く惹かれ、仲間にしたいと考えるのだった。その後、景虎に敵対する勢力によって、仲間が多数死んだことから、成り行きで景虎に加担することとなる。近代兵器の威力で連戦連勝の景虎軍。そして、景虎と伊庭は、戦火の中、心を通じあわせていくのだった。そんな中、かねてから伊庭に反抗していた矢野が、仲間を引き入れて巡視船を強奪し反乱をおこすのだったが…というストーリー。
強力な武器を持った現代人が、戦国時代にいったら、歴史変わっちゃうんじゃね? という、ありがちな想像だけど、想像力がかき立てられる興味深い発想。掘り下げれば掘り下げるほど、おもしろくなるテーマだと思う。
ただ、観始めて30分くらいで、期待したコンセプトとなにか違うな…という違和感を強く感じ始める。タイムスリップした自衛隊員は、戦国時代の兵士たちに襲われる。弓などで襲われるわけだが、いくら中世の兵器とはいえ当たれば致命傷になる。それに対して、ガンガン発砲して圧倒的な武力差によって制圧していくわけだ。全編に渡ってそれが繰り返されるのだが、観ている側の頭に何が浮かぶかというと、補給もないのにどうしてそんなにガンガン使えるんだ? ということ。
節約しなければあっというまにタダの鉄の塊になる。給油もしないで戦車がどれだけ移動し続けられるのか。使えなくなれば、このお話はおしまいなのに。
その最たるシーンが、矢野の反乱を鎮圧した後に、船を沈めたこと。武器も燃料も相当あっただろうに、なんでそんな無駄なことができるのか。まったくもって意味不明。
製作側は、装備がどんどん消耗していくという事実をあえて無視しているように思える。ではその反面、何に焦点を当てようとしていたのか? にしきのあきらと岡田奈々のシーンが象徴する、ああいうセンチメンタルな部分である。さらに、それを多重的にする、つまり群像劇的な演出を施している。
矢野は自衛隊員ではあるが、過激な革命思想の持ち主で、伊庭とはそれがらみで因縁があるという設定もそのひとつ。設定自体は問題ないのだが、そのくだりで、所詮、専守防衛の自衛隊なんておままごといっているようで(というか明確に言っているのだが)、当時はそれなりに説得力があったのかもしれないが、今観るとなんかカチンとくる内容だったりする(が、それは別の話)。
で、このいかにも人間ドラマ的で群像劇的な演出は、はたして良い効果を生んだか否か。さらにそれを、SF的観点(決められた自衛隊の装備で、戦国時代でどこまでできるか? という“if”)とバーターにしなければいけない理由はなんだとのか?
別に、両方やっちゃいけない理由は何も無いわけで、単なる無敵な魔法道具をもった集団としか描いていない点に違和感を感じる。やはり、もうちょっと戦略的な部分にスポットを当てて欲しかったと強く思う。そのおかげで、武田軍との戦闘で劣勢になっていくシーンに、まったく深みが無くなってしまっている。一番のクライマックスのはずなのに、正直、眠りそうになった。
で、そこが眠りそうになるくらいつまらないことに、製作側も気付いていたのか、真田広之や薬師丸ひろ子などJACや角川関連の目立つ役者どころをチョイ役で出してみたりするのだが、まさに付け焼刃。
でも、逆に言えば、本作における付け焼刃的演出が、ものすごいとも言える。JACのアクション、自衛隊装備のそれなりのリアルさ、まったく現代の建造物などが見えない場所でのロケーション。何とかしなければマトモな映画にならないという、現場のがんばりというか焦りが伝わってくるようだ。
まあ、結果的には、コンセプト構築の段階で失敗している。旬のいい魚を仕入れたのに、カレーに入れちゃうんだ…的な、感覚になる作品。
公開年:2002年
公開国:フランス、アメリカ
時 間:115分
監 督:ブライアン・デ・パルマ
出 演:レベッカ・ローミン=ステイモス、アントニオ・バンデラス、ピーター・コヨーテ、エリック・エブアニー、エドゥアルド・モントート、ティエリー・フレモン、グレッグ・ヘンリー、リエ・ラスムッセン、フィオナ・カーソン 他
コピー:欲しいもの――。私は総てを手に入れる。
カンヌ国際映画祭が開催されているル・パレ。多くの映画スターたちが訪れる豪奢な雰囲気の中、会場に窃盗集団が進入していた。彼らは、ゲストのひとりであるヴェロニカが身にまとうダイヤが散りばめられた1000万ドルのビスチェを狙っていた。実行犯のロールは、ボディガード役に扮しヴェロニカに近づき、見事にビスチェを強奪。しかし、ロールは仲間を裏切り逃走してしまう。ところが、執拗な一味の追跡によって、ロールは追い詰められ、ホテルの吹き抜けに突き落とされ意識を失ってしまう。その後、見知らぬ家のベッドで目覚めるローラ。彼女はリリーという瓜二つの女性と勘違いされて保護されていたのだ。そのままリリーの家でくつろいでいると、リリー本人が帰宅。子供を失って憔悴している様子のリリーは、潜んでいたロールの目の前で自殺。そしてロールはリリーに成りすまして渡米。なんと7年後、アメリカ大使夫人として、パリの戻ってくることになり…というストーリー。
とてもスリリングな展開のストーリーなのだが、相変わらず、私の白人女性の顔判別能力が芳しくないことに加え、姿を隠すために変装なんぞをしていたり、さらに偶然同じ顔の人がいた…という展開だったため、微妙に混乱しながらの鑑賞だった。
上のあらすじでわかると思うが、ストーリーが波に乗るまでの冒頭の展開を書き出しただけなのに、“しかし”“ところが”で繋がないと説明できない。加えて同じ顔の人が“偶然”存在して、さらにその知人に発見されるという“偶然”が重なり、おまけに“都合よく”自殺してくれて、自殺した女性が“たまたま”パスポートも航空券も持っている。慌しいだけでなく、無理に無理を重ねたストーリー運びといえる。
これを素直に受け入れろというのはかなり難しいことなのだが、それなりに観れてしまうのは、デ・パルマお得意のスリリングなカメラワークのおかげか。
導入部の強引になぎ倒すような展開が過ぎて、7年後に。アントニオ・バンデラスが登場したあとの流れは、純粋なクライムサスペンスとなり、素直に鑑賞できたわけだが、デ・パルマは最後までは素直に鑑賞させてくれず…
(以下ネタバレ)
まさかの夢オチ。この構成を素直に受け入れるのに、若干時間を要してしまった。事件の決着の付け方も悪くは無いし、別に勧善懲悪を期待していたわけでもないので彼女が勝利する展開も悪くは無い。
整理すると、リリーの自殺のところで話(というか運命)が分岐するということだよね? で、ロールはフランスに残ったんだよね? で最後にお金のやりとりをしているのは、ヴェロニカとロールなんだよね? 「これで最後に」っていっているってことは二人は共謀関係だったのか、その後ヴェロニカが強請ってたってこと?
すまんね、頭の方にも書いたけど、ラストの辺りまでくるとビスチェのイメージだけで、ヴェロニカの顔なんか覚えちゃいないの。だから巻き戻したり、調べたりしてやっと整理がついた。私にとってはとてもわかりにくい。
さらに、ペンダントという“偶然”が最後でも加味される。夢の中の方がリアルで、現実は偶然だらけというのはおもしろくはあるんだけど、そのせいでデヴィット・リンチ的な雰囲気が漂ってしまい、深読みというか少し困惑してしまった。その困惑の空気のまま終わってしまったわけだが、そうやって煙に巻くことがデ・パルマの狙いならば、本作は成功なんだろう。
無理に褒めようと思えば、いくらでも褒められる要素はあるが、実際に周囲の人に薦める気はない。
#音楽が坂本龍一らしいが、観ている最中にそれらしさは感じられず、まったく気付かず。
公開年:1999年
公開国:アメリカ
時 間:106分
監 督:バリー・ソネンフェルド
出 演:ウィル・スミス、ケヴィン・クライン、ケネス・ブラナー、サルマ・ハエック、M・エメット・ウォルシュ、テッド・レヴィン、バイ・リン、フレデリック・ヴァン・ダー・ウォール、ミュゼッタ・ヴァンダー、ソフィア・エン、デブラ・クリストファーソン、E・J・キャラハン 他
受 賞:【1999年/第20回ラジー賞】ワースト作品賞、ワースト監督賞(バリー・ソネンフェルド)、ワースト脚本賞(ジェフリー・プライス、ピーター・S・シーマン、ジェームズ・E・トーマス、ジョン・C・トーマス、S・S・ウィルソン、ブレント・マドック、ワースト音楽賞(Kool Moe Dee、ウィル・スミス、スティーヴィー・ワンダー 主題歌に対して)、ワースト・スクリーン・カップル賞(ウィル・スミス、ケヴィン・クライン)
1869年、南北戦争終結直後のアメリカ。陸軍第9連隊騎兵隊大尉ジェームズ・ウェストは、“流血将軍”という悪名で知られている、南軍のマグラスを一般市民の大量虐殺した件で追跡していた。一方、発明マニアの法執行官アーティマス・ゴードンは、多数の科学者を誘拐し、彼らに作らせた強力な兵器で大統領を脅迫してきた、謎の一味の捜査を行っていた。そして、誘拐の首謀者がアーリス・ラブレス博士であることが判明し、マグラスとも繋がっていることが判明。大統領は、ウェストとゴードンに、一緒にマグラスとラブレスをの行方を追うよう命じるのだったが…というストーリー。
ものすごく期待させてくれる格好良いオープニング。昔、TV放映されていた時、こんなの気付かなかった(カットしてた?)。
西部劇時代とSFという組み合わせが新鮮……なハズなんだけど、なぜかしっくりハマらない(日本だと、『子連れ狼』の乳母車にマシンガンが付いているのと似た感覚?違うな…)。全体のノリは軽妙で、深く考えずに観りゃいいんだよ…と自分に言い聞かせたい所なのだが、無意識に厳しい目で観てしまう自分がいる。なぜなのか。
1999年の作品であることを考えると、ものすごくSFX等に予算をつぎ込んでいるように見える。さりげなくCGや特撮を使っているのではなくこれみよがしなので、成金が腕時計や宝飾品をじゃらじゃら見せびらかしている感じ。要するに演出が下品ということ…かもしれない。
ウィル・スミス演じるウェストは、実際はあり得ない黒人の大尉という設定。『ジャンゴ 繋がれざる者』のジェイミー・フォックスが演じた役のポジションに近い。そういう意味では、ケヴィン・クライン演じる発明好きのゴードンと、『ジャンゴ 繋がれざる者』のクリストフ・ヴァルツが演じたシュルツも近い…。西部劇にこういうキャラ設定の類型があるのか、意図的に似せているのかは知らん。でも、頭をよぎった。
ストーリー面で、ピンとこなかった点は次。ウェストは大量虐殺をしたマグラスを追っている。ゴードンは科学者達を誘拐した黒幕を追っている過程でマグラスを追っている。ターゲットが一緒なので、さあ一緒に捜査しましょうという流れ。その後、マグラスは途中で死亡し、そこでウェストの目的は達成となってもよいのだが、もちろんそこでウェストが離脱してしまっては話にならないから、“実はあの大量虐殺はラブレス博士の差し金だったのだ、真の敵はラブレスだ!”っていう太い流れを作らねばならない。以降は、その義憤のみでウェストを行動させてよいくらいだと思う。
しかし、サルマ・ハエック演じるリタが登場し、父がラブレスに誘拐されたので助けて欲しいと色香を漂わせながら懇願する展開に。さらに途中で彼女がラブレスに捕らわれてしまうので、彼女を救出しなければ!という流れへ。
ゴードンは大統領を救うというモチベーションが強いので、ラブレスを追いかける展開で問題ないのだが、ウェストがそれに真剣に付き合わなければいけない理由は、実はいまいち薄い。だから、終盤でのウェストへの共感も薄れてしまうし、なんかロボットや改造人間さんたちと、ゴチャゴチャやってるなー的な印象で終わってしまうんだと思う。
リタは二人をうまく利用する役…のハズなんだけど、いまいち振り回しきれていない。もっとゾッコンにさせて二人のライバル意識を煽るくらいのワルさを発揮してくれればよいのだが、いかんせんさっさとラブレスに捕らわれてしまうから、それもできない。
ストーリー展開の構成に失敗したんだと思う。凡作。今回は、字幕で観たのだが、これは吹き替えで観るべき。吹き替えのほうが2割増しくらいで愉しめるはず。
#フランケンみたいな人が感電死したギミックがわからん。
公開年:2013年
公開国:日本
時 間:92分
監 督:金田治、(アクション監督)おぐらとしひろ
出 演:石垣佑磨、池田純矢、小宮有紗、白石隼也、奥仲麻琴、永瀬匡、戸塚純貴、高山侑子、小倉久寛、竜星涼、斉藤秀翼、金城大和、塩野瑛久、今野鮎莉、鈴木勝大。馬場良馬、西平風香、高橋直人、榊英雄、三浦力、森田涼花、大葉健二、本田博太郎、鈴木達央、中村悠一、福士蒼汰、小澤亮太、岩永洋昭、須賀健太、稲田徹、関智一、てらそままさき、水樹奈々、飯塚昭三、丸山敦史、岡田浩暉、木下あゆ美 他
コピー:立ち上がれ、全スーパーヒーローよ!!
全宇宙 対 全地球 二度とない 究極バトル開始!!
秘密結社ショッカーが魔法の力を得て“スペースショッカー”として復活。その影響により、宇宙全域で魔法力の暴走が発生し、星々が消滅しはじめた。このままでは宇宙全体が滅亡してしまう。銀河連邦警察は、暴走の原因が仮面ライダーウィザードとビーストであると推察し、宇宙刑事ギャバンこと十文字撃を派遣。ギャバンはウィザードを襲撃するものの、ウィザードと触れ合ううちに彼が原因とは思えなくなってくる。撃は、もう一度原因を再調査するように、銀河連邦警察隊長・一条寺烈に進言するが却下。命令に従わない撃は、宇宙刑事を解任され、ギャバンへの変身ができなくなってしまう。生身で独自調査を進めた撃は、スペースショッカーの影に、宇宙犯罪組織マドーの存在を嗅ぎ取るのだったが…というストーリー。
作品の出来・不出来が、良い、悪い、良い、悪い、休んで、良い…みたいに、カスタネット状態の金田治監督。今回はどちらかというと、良い方だと思う。アクションシーンが得意な監督さんだったのに、そのアクションシーンにもキレがなくなってきて、こりゃもうだめかな…と思いはじめていたのだが、今回は復活。純粋にアクションシーンに割ける予算があるか否か…がすべてなのかもしれない。
様々なヒーローたちの“顔見せ興業”なのは、例年どおり。ただ、脚本の米村正二は、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』の不出来が記憶に新しく、不安だった。昭和ライダーをダラダラと連続名乗りさせたシーンは、ある意味トラウマシーンだった。しかし、本作は、全員が馬鹿みたいに順番に出てくるんじゃなくて、それなりにメリハリをつけた感じ。
ただ、何をどう出すかは、企画段階である程度決まっているだろうから、脚本家の責任じゃないのかもな…とは思うが…。
シナリオの面では、いつも我を通すあまりに孤立する十文字撃というキャラをうまく生かせた展開になっていると思うし、ゴーカイシルバーのキャラクターも効果的に使えている。仮面ライダーウィザードがターゲットなのに、うまいこと別行動にして、話をシンプルにしたのもなかなか上手だと思う。
さらに、真の敵が誰か?という謎解きの部分がおもしろければベターだったのだが、“マドー”ですって判明したところで、特段驚きはない。「そんなことされたら、ウィザードとビーストが原因だって勘違いするわ~!」っていう説得力が薄かった上に、地球をあと1時間で消滅させねばいけないほど、切迫した状況がうまく描けていないため、隊長やシャリバンが悪者に見えてしまうのは、如何なものかと思う。
その他にも、サイコロンとヨーコのくだりなんかもあって、話の軸の数は盛りだくさんなんだけど、やっぱりそれぞれ不完全燃焼ぎみ。どこかけずるべきだったかも。
ラスボスに本田博太郎を持ってくる意味もなかったし、『北京原人』の小ネタを挟んだって、ほぼ誰も気付かない。気付いたとことで小笑いもおきない。
終盤になると、馬脚を現したというか、最近の映画に出てきたキャラクターを、連発して誤魔化しているという、いつもどおりのまとめ方に。ストーリー展開だけで持っていくことに、力尽きてしまったか。
特に、グランダインやスカイダインを出す意味・効果があったかは疑問。別に人気のあるキャラじゃないと思う。義侠心を描いてみるなどキャラ付けをしているが不発。
フォーゼ&メテオとのタッグマッチをやりたかったんだと思うが、その意味に気付くお父さん連中は少ないと思う(フォーザとメテオのモチーフは、おそらくスカイゼルとグランゼル。スカイゼルって赤色だけど、デザイン稿では白ボディなの)。
わざわざ、イナズマンを登場させて“先生”と呼ばせるくだりも、不要だったかもしれない。だいたいにして、サナギマン・イナズマンのデザインもアクションも特段格好良くない(もう一皮剥けて、昔のデザインで登場するくらいじゃないと、インパクトがない)。
元デザインから、リアル化したり要素を付加したキャラばかりなんだけど、デフォルメする能力が欠けているのか、ゴチャゴチャしてかえってインパクトを失っていることに気付くべき。
#やっぱり、昭和ライダーのコンバータラングがパコパコ浮くのは改善されていない。スーパー1は興醒めだった。アマゾンの赤線模様の顔と体の密度の差も改善されていない。
そろそろ(というかここ数年ずっとだけど)、年3本前後の映画製作には限界があるのではなかろうか。ここまで練りの甘い脚本が続いているのだがら、脚本を公募するなどして新しい風を入れでは如何かと(脚本家の登竜門的な場にしたりね)。
それほど悪い出来ではないのだが、そろそろ仮面ライダーのTVシリーズをお休みしてもいいかな…って、マンネリの秋風を感じる作品かと(別に、TVで新作『キカイダー』なんかをやったって問題があるとも思えない。キカイダーはフジだから難しいだろうけど)。
#森田涼花は、ことはの時はかわいいがシェリーのときは何か変…という不思議。
公開年:2003年
公開国:日本
時 間:116分
監 督:犬童一心
出 演:妻夫木聡、池脇千鶴、新井浩文、上野樹里、江口徳子、新屋英子、藤沢大悟、陰山泰、真理アンヌ、SABU、大倉孝二、荒川良々、中村靖日、西田シャトナー、山本浩之、板尾創路、森下能幸、佐藤佐吉 他
受 賞:【2003年/第13回日本映画プロフェッショナル大賞】主演女優賞(池脇千鶴)、ベスト10(第3位)
コピー:忘れたい、いとおしい、忘れられない。
ある日、恒夫は、乳母車に乗った脚の不自由な少女と出会った
大学生の恒夫は、深夜に麻雀屋でアルバイトをしている。そこで客たちが、明け方に乳母車を押して歩く老婆の話をしていた。その乳母車の中は一体何なのか?口々にヤクだとか大金だとか好き勝手なことといっている。明け方、店長から愛犬の散歩を頼まれた恒夫が町を歩いていると、何と坂の上から乳母車が走ってくるのに遭遇。客たちが話していた老婆と思しき人が手を離したのだ。坂の下で止まった乳母車の中を覗くと、一人の若い女性が包丁を振りかざしてきて、恒夫は危うく刺されそうになる。乳母車の中にいた女性は老婆の孫で、原因不明の病で足が不自由で歩くことができないという。この近所に住んでいるのだが、孫が外に出たがるのだという。しかし、老婆は障碍者の孫を他人に見られることを極端に嫌っていて、そのために人目につかない早朝に散歩に出かけているという。そのまま恒夫は、お礼として朝食をご馳走になる。足が不自由ながらも朝食をつくる孫の様子に驚きながら、久々においしいご飯に大満足。恒夫が孫に名前を尋ねると、“ジョゼ”と名乗る。一度も学校にいったことがない彼女は、祖母が拾ってくる古本で知識を得ており、その中の一冊、サガンの『一年ののち』の登場人物がジョゼだった。恒夫は、そんな不思議な雰囲気のジョゼに興味を持ち始める。それから、バイトや大学生活の合間を縫tt、度々ジョゼの家を訪れるのだったが…というストーリー。
妻夫木聡と池脇千鶴のジャケット画像を見て、岩井俊二的な恋愛モノのノリ?それも障碍者を扱った腫れ物に触るような演出があったり?なんて、勝手な先入観を抱き、喰わず嫌いでこれまできた。大間違いだった。もっと早く観るべきだった…。
1分たりとも、集中力が削がれることが無く、がっちり没頭。。この話の運び方のウマさよ。邦画ベスト15を作るならば、入れないわけにはいかない作品だと思う。未見の人には、是非観てほしいとすら思っているので、内容についてはあまり語らないことにする。
本作は、現代の『人魚姫』だと思う。人魚姫は王子様のところにいくために、魔法使いのババァに人間の姿にしてもらう。だけどそれと引き換えに言葉を失う。
ジョゼが人間社会と接するには、婆さんに従って人目につかないように、早朝にそれも乳母車に隠されて散歩。世間のことを知るのは古本から。婆さんは学校に行かせていないどころか、近所の人にまでまるでジョゼが存在していないような態度を取る。ジョゼがいる前だろうと、人前に出てはいけない半端者だと断言して憚らない。ジョゼのことを愛していないわけではないのだろうが、『人魚姫』の魔法使いのようにジョゼを縛っているのは婆さんである。
『人魚姫』の場合は、王子の傍にいられるけれど、王子と結ばれなければ“泡”になっていまうという制限付きの魔法。ところが、婆さんが死んでしまって、魔法が反故になって、魔法から開放された人魚姫はどうするの?っていう、“if”のお話かな…なんて個人的には思っている。
水族館や海に執着するジョゼの姿、特にラブホテルでのショボい魚の灯影から、リアルな海の底を想像するジョゼと観て、そんなことを考えた。
相変わらず、家の中ではダイヴしているであろうジョゼ。以前は頑なに車椅子の使用を拒否していたジョゼが、スイスイと街中を“泳ぐ”ジョゼの姿に、強烈な爽やかさを覚えた。名作だと思う。
#『スマグラー』の時も書いたけど、妻夫木聡は普通の男を演じさせたらピカイチかも。息の長い役者になると思う(おっさんの歳になったときにうまく切り替えできれば…だけど)。
公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:89分
監 督:フランシス・フォード・コッポラ
出 演:ヴァル・キルマー、ブルース・ダーン、エル・ファニング、ベン・チャップリン、ジョアンヌ・ウォーリー、デヴィッド・ペイマー、オールデン・エアエンライク、ドン・ノヴェロ、ライアン・シンプキンス 他
コピー:彼女だけが知っている、この街の秘密
ミステリー作家のホール・ボルティモアは、事故で娘を亡くして以来スランプに陥り、次回作のアイデアが浮かばないまま、地方を巡りサイン会を繰り返している。とはいえ、訪れる客はまばらでほとんど本は売れない。自宅に残る妻は、支払いに追われており、出版者から当座の生活費として前借りをするよう、しつこく夫に連絡してくる。妻は、魔女物の作品をまた書けば良いというが、ホールは気が乗らない。そんな中、昔エドガー・アラン・ポーが滞在したことあるという田舎町で、胸に杭を打ち込まれた身元不明の少女の死体が見つかった。町のミステリー好きの保安官ボビー・ラグレインジは、ホールをむりやりモルグに連れて行こうとする。ホールは乗り気ではなかったが、小説のネタ探しのためについていくと、保安官に小説を共著しないかと持ちかけられる。ホールは固辞したが、その夜、“V.”と名乗る少女が夢に出てきて、かつてエドガー・アラン・ポーが宿泊したチカリング・ホテルで何かがあったことを示唆する。翌朝、図書館で過去の新聞記事を調べると、かつてこの町で凄惨な事件がおこっていたことを知り…というストーリー。
ブックブクに太ったヴァル・キルマーのみっともなさは、脇に置いておくとして…。『ランブル・フィッシュ』と同様に、まったくもってコッポラらしくない作品。というか、作品の質が非常に悪いと思う。
まず、現実世界のシーンが、TVムービーのような画質で、安っぽい。中途半端なマイナー作家が、夢で猟奇殺人の様子をみたり、ポーと出会ったりする。それらは、幻想的な雰囲気で現実世界よりは魅力的で、決して悪くないのだが、特筆するほどでもない。こういうのは、デビッド・リンチか、スティーヴン・キング原作作品にまかしておけばいいんじゃね?って感じ。
(以下、ネタバレ散乱)
ストーリー上、娘を亡くしたことが心の傷になっている点と、“V.”との関係が、うまく生きていないと感じる。ホールは、娘の死に罪悪感を感じて、その後の人生がおかしくなっている。“V.”を救済することと、娘への思いから解かれることが“一応”描かれているのだが、それ以上に、繰り広げられている事件の全容がよくわからん。
私は、ポーが夢の中で導いているから、神父が13人の子供をどうにかしようとしていた事件が、てっきり大昔のことだと思い込んでいた(これがいけなかった)。黒魔術集団の若い男とかヴァージニアが、神父から生き延びたということが判り、頭が混乱。当然、あおの女性死体がヴァージニアだなんてことは微塵も想像していなかった。
#ポーは本人の霊なの?ホール自身の化身なの?
過去の事件と、今おこっている胸に喰いを打たれた少女との繋がりがよくわからん。いや、ストーリー上の関係性はわかるんだけど、だから何だっちゅうねん…的な。最後も、ぶった切ったように、出版後のシーンに切り替わり、結局なんだったのか詳細はよくわからず。クレイジーな保安官は、犯人だったのか何だったのか。
#なんで、彼女はホールを襲うの?根本的に襲うシーンは事実なの?夢なの?
本当にデビッド・リンチ的な難解さなんだけど、やっぱ、そういうのはコッポラがやる必要はないんじゃないかなぁ。こういうのは、もう一回、確かめるために観直して観よう!ってくらいの、画のインパクトが無いとダメだと思うの。はじめに書いたように、TVムービーみたいな画なんだもん。カルトムービーにすら成り得ていないと感じる。晩節を汚すような作品だな…と。
#エル・ファニングだった?ってくらい、白塗りの無表情なキャラクターじゃ、別に誰でもいいんじゃね?って感じ。
公開年:2010年
公開国:アメリカ
時 間:112分
監 督:ジュリー・テイモア
出 演:ヘレン・ミレン、ラッセル・ブランド、リーヴ・カーニー、トム・コンティ、クリス・クーパー、アラン・カミング、ジャイモン・フンスー、フェリシティ・ジョーンズ、アルフレッド・モリナ、デヴィッド・ストラザーン、ベン・ウィショー 他
ノミネート:【2010年/第83回アカデミー賞】衣装デザイン賞(サンディ・パウエル)
コピー:私に抱かれて、世界よ眠れ。
かつてミラノ大公の妃だったプロスペラは、夫の亡き後も女大公として民の信頼を得ていたが、弟アントーニオとアロンゾーらの謀略により、一人娘ミランダと共に粗末な船で追放されれ、とある孤島に流れ着く。それからプロスペラは孤島で魔術の腕を磨き続けていた。妖精エアリエルと契約し、怪物キャリバンを手下として、裏切り者たちへの復讐を虎視眈々と狙っていた。追放から12年。娘の婚礼からの帰路にあったナポリ王アロンゾーらを乗せた船が、海上で突然の大嵐に見舞われ、王は、王弟セバスチャン、顧問官ゴンザーロー、ミラノ大公アントーニオとともに、プロスペラの住む島に流れ着く。一方、アロンゾーの息子ファーディナンドは彼らとはぐれてしまい、孤島の別の海岸に一人漂着していた。それでファーディナンドは、プロスペラの娘ミランダと出会い、二人は一瞬で恋に落ちてしまう。実は、突然の大嵐も二人の出会いも、すべてプロスペラがエアリエルに命じておこさせた計略で…というストーリー。
シェイクスピアの遺作である有名戯曲だそうだ。知らん。鑑賞後に「なんだこりゃ?」と思って調べて知ったのだが、これそんなにおもしろい内容なのだろうか(そうは思えん)。遺作だからといって大金をつかってまで映画にする必要のある内容だろうか(そうは思えん)。シェイクスピアファン待望!って感じなのだろうか(そうは思えん)。そうは思えん…の連発で、作品の存在意義自体を疑わざるを得ない作品だ。
正直、ヘレン・ミレンが主演だったので、そんなにつまらんことはないだろう…という算段でレンタルしてのだが…。
まず、原作を知らないので、魔法や妖精のいる世界観を観客は把握する必要がある。何とか掴んでみるものの、目が肥えてしまったというかなんというか、エアリアルの動作にふんだんに使用されているCG(というか合成)が安っぽく感じられてしまい、なにか世界観に没頭できない。
さらに、話の根本である、肝心要の12年前の謀略の部分が薄い。ここを厚く描かなければいけない。そこが短すぎるから、12年後にナポリ王たちが島に難破してきても、同一人物だとピンとこない。大体にして復讐劇というのは、復讐の元になった事件をいかに腹立たしく描けるか、そして観客を味方につけるかがすべてだと思う。それがしっかりできていない時点で、駄作決定。
で、復讐というのは困難に困難を重ねて、乗り越えてこそのものだと思うのだが、復讐の対象者が島に辿り着いた段階で、プロスペラの独壇場で彼女が負ける要素なし。実際、思い通りに進むだけ。途中で怪物キャリバンのことを気にするのだが、彼が何かしたからってどうにかなるわけでもない。何の困難もない復讐劇の何がおもしろいのか。
弟アントーニオとアロンゾーを、憎しみをすっかり晴らすような痛快な方法でこらしめるのか?というと、そうでもない。
目的はミラノ大公だった当時の地位に復活することだと思うのだが、復権した姿が描かれるわけでもない。
これ、本当にシェイクスピアの作品なの?と疑いたくなるような作品。
公開年:1996年
公開国:香港
時 間:92分
監 督:リー・リクチー、チャウ・シンチー
出 演:チャウ・シンチー、ヴィンセント・コク、カレン・モク、ン・マンタ 他
受 賞:【1998年/第19回ラジー賞】ワースト・スクリーン・カップル賞(レオナルド・ディカプリオ)
“食神”として名を馳せる天才料理人・周は、側近として採用したトンガウの裏切りによって汚名を着せられ、香港料理界を追放されてしまう。トンガウは、大快楽チェーンの社長エリックの謀略により送り込まれた男だった。すっかり落ちぶれてしまった周は、裏町の屋台を切り盛りする、醜い顔だが凄腕の女性フォウガイに助けられる。フォウガイと町のチンピラたちと一緒に、改めて再起することを決心した周は、“爆発!小便団子”を開発すると、大当たりして再び成功者の道を歩み始める。さらに周は、“新食神”を名乗っていたトンガウに宣戦布告。トンガウに勝つために、中国へ料理修行へ向うのだったが…というストーリー。
この手の作品に目くじらを立てる必要はないのだが、悪ノリ作品だという前提を差し引いても、なにか不快な滓が残る作品。
日本のマンガ・アニメでおなじみの『ミスター味っ子』の味皇の過激な料理批評の上っ面だけを真似た感じなのだが、料理の技法や、食材の良し悪しに真面目に言及することが無いだけでなく、むしろそういった“食”に関する部分を貶そうとしている意図すら感じる。悪ノリっていうか悪フザケになっているのが、不快になる原因だと思われる。
それでも、慢心した主人公が罠に嵌められ挫折し、その後、どん底の環境でできた仲間の協力を得て復活していうという流れは、ある意味王道で悪くなかったと思う。問題は、実はフォウガイが周のファンで…という展開と、中国に料理修行にいく展開。その末にあるグダグダな、料理対決。これを悪フザケといわずなんというか。
挙句の果てに、料理の神様を登場させて、勝負自体をボヤけさせ、風呂敷を広げるだけ広げて後は煙に巻こうという、ケツの捲くり具合がちょっとみっともないか。
まあ、後にこのノリが『少林サッカー』を生んだのだと考えれば、腹も立たない。馬鹿馬鹿しくてそれなりにおもしろいという評価を聞いた上でのレンタルだったんだけど、正直どうでもいい作品かな(笑)。
それにしても、内容だけでなくアクションなんかも、日本のマンガやTV番組の影響を受けすぎじゃないかね。チャウ・シンチーの作品は…。
公開年:2012年
公開国:アメリカ
時 間:99分
監 督:サーシャ・ガヴァシ
出 演:アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレン、スカーレット・ヨハンソン、トニ・コレット、ダニー・ヒューストン、ジェシカ・ビール、マイケル・スタールバーグ、ジェームズ・ダーシー、マイケル・ウィンコット、リチャード・ポートナウ、カートウッド・スミス、ラルフ・マッチオ、カイ・レノックス、タラ・サマーズ、ウォレス・ランガム、ポール・シャックマン、カリー・グレアム、スペンサー・ギャレット、フランク・コリソン、ジュディス・ホーグ 他
ノミネート:【2012年/第85回アカデミー賞】メイクアップ&ヘアスタイリング賞(ハワード・バーガー、Martin Samuel、Peter Montagna)
【2012年/第70回ゴールデン・グローブ】女優賞[ドラマ](ヘレン・ミレン)
【2012年/第66回英国アカデミー賞】主演女優賞(ヘレン・ミレン)、メイクアップ&ヘアー賞
コピー:神と呼ばれた男、神を創った女。
『レベッカ』『裏窓』『知りすぎていた男』『めまい』など数々のサスペンス映画を世に送り出したアルフレッド・ヒッチコック。1959年、『北北西に進路を取れ』をヒットさせた後、誰もが驚くような次回作の企画を探し始める中、実在の殺人鬼エド・ゲインをモデルにした小説『サイコ』に出会う。強烈に心惹かれたヒッチコックは、映画化を決意。しかし、長年彼の作品の編集に携り、脚本家でもある妻アルマには、この企画が成功するとはとても思えなかった。さらに、あまりにも陰惨な内容に映画会社も出資を拒む始末。どうしても諦めきれないヒッチコックは、自宅を担保に入れてまで資金を調達して製作を開始するも、これまで以上に演出面でも技術面でもこだわりを発揮し、資金は底を尽きかけてしまう。それでも熱意を衰えさせることのない夫に対し、表面上はいつもどおりのサポートをしていくアルマだったが…というストーリー。
『サイコ』製作の様子(というか裏話)を綴った作品。あの『サイコ』が、何でこんなテーマを扱うのか?!と批判ぷんぷんだっただけでなく、資金調達に窮したり、配給を拒否されるほどだったとは実に驚き。自由の国を標榜しているくせに、その自由さが一番発揮されていそうなエンターテイメント業界が保守的だという、おもしろい構造。
その苦労と並行して夫婦のギクシャクが語られるわけだが、正直、その下世話な内容自体は特におもしろみはない。いいおっさんとババァが、何やってんだ…って感じ。
主演女優へのパワハラとかセクハラする姿やのぞき趣味が描かれているが、相手にされる可能性すら感じない(っていうかなんで妻の前でやるのか)。よっぽど性的な魅力に欠ける男性だったのだろう。オーソン・ウェルズとは真逆。遺伝子レベルで女性に魅力を感じさせない人だったのではないか。
ただ、モテない男が食に走るのはなんとなく理解ができて、ちょっとシンパシーが沸いてしまった。で、そういう人は、名声をいくら得ても、ぜんぜん満足できない性質だったりもする。
その、ブサイクなおっさんが無駄なアプローチを繰り返すのを見る妻の、やるせなさといったら無いだろう。それも理解できる。しかし、理解できるとはいえ、浮気に走るのは別問題。挙句の果てに、どれだけ重要な仕事をやってもヒッチコックの添え物としか扱わないことが不満だった!と、妻アルマはぶちまけるわけだが、それって、よく浮気した女がいう台詞の典型例だよね(笑)。そっちが悪いってさ。
夫婦共々、才能と反比例して、かなりみっともない。有名なシャワーシーンでの惨殺のシーンで、嫉妬に狂ったヒッチコックが包丁を振り下ろしていたかと思うと、何か怖い…というか、やっぱり何かみっともないな。ただ、このように描かれている姿や、心の内証が事実か否かはよくわからん(原作が本人たちの吐露を元に書かれているのかどうか知らん)。
そのみっともない夫婦間の問題に苦悩し、それを解決していく姿と、世間から総スカンを食らった『サイコ』を製作し続け、目が醒めた(というか相手の男と別の女の情事を目撃してショックを受けた)後、本来のサポート業務に注力し、再編集⇒セルフプロモーション⇒最大のヒット作にする…という有能っぷり。みっともなさと有能さの落差と、それらが絡み合うように昇華されていく描写がとてもおもしろかった。
個人的に、厚く描写して欲しかったのは、なんで、ヒッチコックが“エド・ゲイン”に執着したのか?っていう部分。そこが未消化な気がする。元々『下宿人』という“切り裂きジャック”をテーマにした作品をつくっていたくらいなので、何か連続殺人鬼に関して、ひっかかるものがあるのだと思う。もう少し、心理学的な考察を踏まえた解釈・演出をしてほしかった。
特殊メイクだとはいえ、アンソニー・ホプキンスの成りきりっぷりも良いし、ラストの方に鳥が乗るカットも、ヒッチコックに詳しくない人でも、理解できるほどよいジョーク。まあ、絶対成功することがわかっているストーリー展開ながらも、小気味良い気持ちで観終えることができた作品。まあまあでした。
公開年:1979年
公開国:日本
時 間:75分
監 督:(演出)浦山桐郎
出 演:加藤淳也、冨永みーな、熊倉一雄、北村和夫、黒田絢子、矢吹寿子、樹木希林、佐奈田恒夫、酔銘亭桐庵、吉永小百合、黒田絢子 他
貧しい山村で、祖母と暮らす龍の子太郎。太郎は怠け者でいつも寝てばかりいたが、そのくせ大飯喰らいで祖母を悩ませていた。そんなある日、太郎が山で動物たちと相撲をとって遊んでいると、天狗が現れ勝負を挑んでくる。相撲が得意の太郎は見事に勝って、その褒美に“百人力”を授かるのだった。その後、太郎が祖母に母親のことを訊ねる。他等の母は太郎がお腹の中にいるときに、空腹に耐えられず、村のおきてを破って、他の人の分までイワナを食べてしまう。その罰として龍の姿に変えられてしまったという。母は、太郎が成長したら北の国にある湖を訪れるように言い残し消えたと聞いた太郎は、母を探すために村を出る決意をする。その頃、仲良しになったあやが赤鬼にさらわれてしまったと聞き、救い出そうと乗り込むのだったが…というストーリー。
これ、私が劇場ではじめて観た作品だと思う(なんで“思う”なのかというと、『劇場版 アルプスの少女ハイジ』とどっちが先だったか記憶が微妙だから)。ただ、間違いなく『東映まんがまつり』中の一作。本作のほかに『ピンク・レディーと春休み』『SF西遊記スタージンガー』『キャプテン・フューチャー』『闘将ダイモス』などのが同時上映されているはずなのに、一切記憶がない。『キャプテン・フューチャー』はNHKだったと思うが当時観ておらず、ピンク・レディーにはまったく興味がなかったので爆睡状態だったのだろう、観た記憶すらない。『闘将ダイモス』は恋愛要素が強すぎてあまり好きではなかったしなぁ。
閑話休題。
本作も『西遊記』を同じく、主人公の龍の子太郎が劇中で歌う唄が、脳裏に焼きついている。「♪ひーがーしーのー、かーぜーよー、ぷぃ~とふーけー」ってやつ。
そして、目玉をなめて育つというグロ設定に、「うぇ~」と思ったのもよく覚えている。また、竜の中から全裸のおかあさんが出てくるシーンが、何か観ていて猛烈に恥ずかしかった記憶がある。今みても、やっぱりちょっとエロチックだ。
それほど知られていない作品だが、とても1979年の作品とは思えないクオリティに改めてびっくり。浦山桐郎監督の力なのだろうが、画面の構図が、他のアニメ作品と異なる。特の引きの画の構図が良くて、こういう昔話ベースの内容だと、狭い世界観になりがちだが、しっかりと空間を感じられる。キャラデザインもそれほど古臭くないし。
童話然としているが、ストーリー展開の緩急というかメリハリがある。
なんとも社会教育的なテーマが底にあって、地味に今の常識とちょっと相容れないところがあるのが面白い。
黒鬼、にわとり長者、白蛇、山姥と、改心の余地が無さそうな“悪い大人”がたくさんでてくるころが面白い。単純な敵役という描き方ではなく、世の中には邪悪な存在がいるのだよ、子供たちよ気をつけなはれや~って感じなのが、ユニークだと思う(まあ、ある意味、そういう注意喚起的なシグナルは、童話の主目的ではなんだけどね)。
さらに、なんで母は龍にされなければならなかったのか…という根源問題を追及しようとする太郎(あほっぽい感じなのになかなかロジカル)。経験と熟考の末に出た答えが、簡単に表せば“貧しい人々の生活をよくするために、どんどん努力・開発していこう”“貧しいのは悪だ”ってうこと。
ちょっと、今の一般的な価値観とはズレているところもおもしろい。だって、はっきりいって、最後に太郎と母ちゃんがやることは自然破壊だもの。その沼に棲んでいた、たくさんの魚たち、みんな死んでしまったんけ? いくら下の人々に警告したって、あんな大水で被害が無いわけないじゃろ。沼の水を一過的に流しても、湧き水でもない限りそれでおしまいで、下で田んぼなんかつくれねーだろ!とか、色々つっこみどころはあるのだが、観ている最中はそんなことに気付かせることなく、大団円で観終えることができる。
#当時、公害問題が噴出している時期だとは思うので、時代のせいってわけじゃないと思うんだけどね…。
内容とはまったく無関係なのだが、不思議なもので、『ゴジラ対メカゴジラ』とフィンガー5のポスターが映画館の売店に貼られていたのを克明に覚えている。当時の私はフィンガー5を良く知らなかったが、親たちの会話にでてくる5人兄弟の話はこれのことか…と。そして、メカゴジラとかシーサーとか、なんかスゲーな…と。いつか観たいなぁと思った記憶がある(そういば、今の今まで観たことがないかも。借りるか)。
文部省推薦的なアニメの中では、出色の出来映え。胸を張ってお薦めできる作品だと思う。
公開年:1982年
公開国:カナダ
時 間:87分
監 督:デヴィッド・クローネンバーグ
出 演:ジェームズ・ウッズ、デボラ・ハリー、ソーニャ・スミッツ、レイ・カールソン、ピーター・ドゥヴォルスキー 他
ノミネート:【1984年/第12回アボリアッツ・ファンタスティック映画祭】参加作品
カナダ、トロントにあるケーブルTV局“シヴィックTV”は、セックスやバイオレンスを前面に出した番組を放送していた。局の若き社長マックスは、よりインパクトのあるコンテンツを探していたが、なかなか見つからず苛立っていた。そんな中、局のエンジニアが、偶然キャッチした海賊放送の内容が興味深いと知らされる。その番組の名前は“ヒデオドローム”。ストーリーは無く、ただ拷問の場面が延々と続く内容だった。その後、TVの暴力性についての対談番組に出演したマックス。ラジオDJのニッキと、オブリヴィオン教授と対談したが、オブリヴィオン教授はモニタを通じてでしかコンタクトを取らない変人で、その主張は「TVに写ったことこそ真実」という極端なもの。まともない対談にならずじまいの中、マックスはニックに番組中にアプローチする始末。その後、自宅にてニッキに“ヒデオドローム”を観せると、元々SM志向が強かったのか、放映しているピッツバーグに行き出演したいとまで言い出す。“ヒデオドローム”の内容に可能性を感じたマックスは、その番組の放映権を得ようと、製作元を探すが掴むことができない。そんな中、“ヒデオドローム”を製作したのがオブリヴィオン教授であるという情報が入り…というストーリー。
邦題表記が“ヒデオドローム”だったり“ヴィデオドローム”だったりと、様々。
難解…というか、ゾンビが大衆社会の投影であるように、このヒデオドロームは何の投影なのかな?というのが、いまいちよくわからない。そういうレベルで難解。そういった裏を一切考えずに、繰り広げられている内容の表層を味わっているだけなら、いかにもクローネンバーグらしいオドロオドロしい作風で、とても愉しめる。後に『ザ・フライ』や『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』等々を世に送り出すわけだが、作風にブレがないという意味では随一の監督だと思う。
ブラウン管がびよ~んとか、特撮はローテクなんだけど、その稚拙さを気持ち悪さに繋げることに成功している例。だから30年以上前の作品なのに、全然色褪せていない。
まあ、大体にして、いくらケーブルTVとはいえ、そんなスナッフムービーを放送できるわけがなく、主人公のTV局社長からして、頭がおかしいのは明白(逸脱とかやり過ぎの範疇を大きく超えている)。設定からしてはじめっからフルスロットルでクレイジーな内容なのだ。
なんで腹の中に銃を入れないかんねん…と思ったが、キチンと展開があった。さて、単なる催眠電波みたいなものなのか、本当に取り出したのか。その辺をあいまいにしているところが、さらにオドロオドロしさを増している。その他諸々、それどういう意味なん?っていうところが散見されるのだが、とにかくビジュアルのインパクトでなぎ倒している感じ。
とはいえ、やっぱり投げっぱなしな感じは否めない。その投げっぱなし感と、絶妙なオドロオドロしさの振幅ゆえに、カルト的な人気を得ている作品。未見の方は一見の価値がある作品だと思う。軽くお薦め。
公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:132分
監 督:デヴィッド・ゲルブ
コピー:シンプルを極めると、ピュアになる。
東京・銀座の地下にある鮨店“すきやばし次郎”。10席程度の小さな店ながら、5年連続で『ミシュランガイド東京』の三ツ星を受け、87歳の店主・小野二郎は世界で最も高齢の料理人としてギネス認定されている。アメリカ人監督デヴィッド・ゲルブは、来日中に“すきやばし次郎”の鮨と出会い、その芸術性に感動して映画制作を決意。一ヶ月に渡る密着取材を敢行する。二郎の“職人”としての姿勢や、息子・隆士や弟子たちを通して垣間見える偉大な“父”への経緯と葛藤を、カメラは克明に収めていく。
おまかせコースで1名3万円。鮨以外は、付き出しもデザートも何も出ない。脇目も振らず食べちゃえば、ヘタすれば15分で食べ終わっちゃう。もちろん、私なんかのレベルじゃ、おいそれと行ける店ではない。無理して行こうと決めても、大体にして2年後くらいの予約しかできない。
まあ、なんでそんな値段になっちゃうのか、日本人ならなんとなくわかるだろうが、外国人にゃあアメージングだろう。素材から仕込みの手間まで細かく紹介し、さらに後身の職人の育成についてまでを綴っていく。料理人の世界が厳しいのは東西に差はない。フランスやイギリスのレストランの厨房に入れば、ほぼ無給で、奴隷以下で足蹴にされる日々が続く。日本でも中途半端な洋食の店だと、人を人とも思わない扱いをする例は聞く。それに比べて“すきやばし次郎”はどうだろう。息子・隆士は、店に入った若い人が突然いなくなることが間々あるという。厳しいのだろう。でもその厳しさとは欧米のそれとは異なる。奴隷のごとき扱いをうけるて厳しいのではない。これから職人になるために眼前に伸びる“道”が厳しいのであり、その道程を想像して耐えられなくなって辞めていくのである。
私は、この手の職人映像が大好きである。ドキュメンタリーではあるのだが、所謂ドキュメントとは赴きが異なる。こういう形で、東洋と西洋の比較文化するのは一番日本を理解させることが出来ると思う。東京オリンピックまでに、日本を紹介するPR映像は多々作られるだろう。でも、安易なサブカル紹介や観光地紹介ではなく、本作のような作品が多く作られることを私は期待する。
日本人監督ではないからこその、着眼点、角度というものが多分に含まれている。日本人なら予定調和的に“あたりまえ”として見落とす部分に、きちんとスポットが当たっているのが、非常に良い。
一つ(というか非常に大きな一つ)本作には問題がある。冒頭から最後まで、山本益博がぺらぺらと講釈をたれるのでうんざりしてしまうという点だ。というか台無しといってよい。個人的な好き嫌いで申し訳ないが、私、山本益博が大嫌い。実際はどうか知らないが、山本益博の発言に料理人への愛が微塵も感じられないから。言葉では料理人を持ち上げているが、結局、そういう評価している俺カッケーという風にしか聞こえてこない。根本的に彼がうまい!といってもうまそうに思えないのだからしょうがない。
二郎さんもそれなりに昵懇に付き合っているようなので、当人同士は何のわだかまりもないのだろう。でも、おまかせセットをはじめてお試しで食べさせてもらったのは私…なんて発言に、それが事実だろうとうんざり。
道を極めるっていっても、本人は極めたとは微塵もおもっておらず、これでもまだダメか、まだダメか…の繰り返し。ある意味、地獄道ともいえるが、地獄道でなければ歩いた気にならないというのが本物の職人というものなのだ。こんな生き方ができる人なんて、5000人に1人も存在するのだろうか(私にはできない。打算的だから)。
でも、自分にはできなくても、そんな道程、生き方ががすばらしいとは思える価値観を持っているのが日本人なのかな。そう思える一作だった。でも、改めて言うが、山本益博は邪魔。あんたの道はこの作品にはいらない。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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