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公開年:1973年
公開国:日本
時 間:160分
監 督:舛田利雄
出 演: 丹波哲郎、芦田伸介、仲代達矢、新珠三千代、平田昭彦、名古屋章、稲葉義男、山谷初男、佐原健二、渡哲也、佐藤允、雪村いづみ、黒沢年男 他







昭和20年7月、特高警察に逮捕され投獄されていた戸田城聖が釈放される。彼は、代用教員時代に出会った小学校の校長・牧口常三郎の教育法に感動し、依頼、彼に師事するようになる。しかし、牧口の教育法は自由主義的であるが故に当局から目をつけられることとなり、2人とも教師を辞めざるを得なくなる。その後、戸田は事業に専念すると、才能を発揮し、複数の出版社を経営するまでになる。牧口が日蓮正宗に入信したことを知った戸田は、勧められるがまま自分も入信。日蓮の教義と従来の教育理論を加味することで、入信者は増えていった。昭和5年、2人は“創価教育学会”を設立し、自らの教育理念を広める活動を強化していくが、戦況が悪化する中、日蓮正宗の活動を制限しようとする政府に反発。治安維持法によって、2人は逮捕されたのだった。釈放後、ほどなく敗戦を迎えると、戸田の出獄を知って訪ねてきた仲間による創価教育学会の再建を望む声が高まり…というストーリー。

東宝作品で、製作が田中友幸、音楽が伊福部昭、特撮班も東宝技術陣が満載。原爆のカットなんか、おそらく他の特撮作品からの流用な気がする(観た記憶あり)。スタッフが完全に『ゴジラ』なのに、内容がコレ。おまけに、この時代の作品なのに、製作委員会システムによって作られているという、珍作中の珍作。さらに主演は、『大霊会 死んだらどうなる』。もう、お祭り騒ぎだ。
こんな言い方をしちゃなんだが、芦田伸介、名古屋章、仲代達矢、雪村いづみ、黒沢年男に加えて、なんと渡哲也まで。とにかく無駄に出演陣が豪華なのも、すごく不思議。

で、こんな珍作を観たいと思っても、どこにもレンタルしていないわけだ。で、そういうラインをツテを辿ってやっと借りるに至る。

ただ、この主人公のことを知らない人…というか創価学会のことを知らない人にとっては、かなり珍妙に映る。冒頭からかなり違和感が満載。配線直前なので、神宮に敬礼している人や、深く礼をしている人がいるわけだが、それを睨み付ける主人公。電車の乗客が、焼夷弾の残骸から包丁が作れるという話をしていると、突然その話の輪に入っていって、みなさんがんばってくださいよ!とか、何様目線なんだか…。

自分が正しいとは思うけど、世間には受け入れられないというなら、その時こそ“方便”を発揮図べきであって、無駄な軋轢を生んで、こんな苦労してる俺ってスゲェみたいな感じで悦に入るのは、頭のネジが外れていると思う。まあ、思想弾圧に反発する気持ちはわかるんだけど、うまいことやれっていうのね。

イスラム教徒は戒律的に、行動規範に縛られる。キリスト教と違って心の中で信じていればただそれだけでいいというものではない。だから、スペインなんかでは、戒律にしたがってお祈りはするし断食はするイスラム教徒は、簡単に見つかって虐殺されちゃう。
創価教育学会の人たちは、国がいってくることにことごとく反発する。適当に折り合いとつけて、「まあ、心の中ではこういう解釈で…」ってやっときゃいいものを。まあ、日蓮は、破戒僧ばりのダイナミックさと、中二病的な発想が売りみたいなところがあるからね。それを素直に信奉したら、半ばテロリストみたいな行動になっちゃうのは理解できる(実際、北一輝みたいなのもいるし)。日蓮って中庸とか中道とか、仏教の重要なエッセンスとはかけ離れているように見えるとことが、魅力だったりするのは事実だな。でも、「ひゃー、日蓮って格好いい~」みたいな感覚じゃダメなんだよね。

神社のシステムは天皇システムで、軍国主義とイコールだから、それらは全部悪なんだ!という短絡的なロジック。戦争に向かっているから国が滅びそうになったんじゃなくて、国が滅びそうな醸成だから戦争に向かうんだって。まず、戦争が発生した理由に向き合おうとしていない、その態度がよろしくない。
#その前に、毎日拝んでる曼荼羅の真ん中に書いてある、天照大神はなんだって話になるのだが…、まあそれをいうと怒るから止めておこう。

まあ、自分も教師だったわけで、ある意味、軍国教育の片棒を担がされた負い目があったのかもしれなし、今ほど正確な情報に簡単にアクセスできるわけじゃないから、考え方をこじらせちゃうのは、致し方ないのだが、それにしても…。
負け戦なのはわかってたけど、やらざるを得ない状況だったという状況を認識しないと、次には進めないのにね。なんでやらざるを得ない状況に至ったのか、どうすればその状況に陥らずにすんだのか?という分析こそが、再び戦争しないための唯一の方法なのだが。

“昔の学会員”という表現が何回も出てくる。ある意味、創価学会が真剣に“学会”にやってた時代の話。戦後の創価学会が信者を増やしてく時代とは、まるで価値観も質も異なることが、本作から見えてくる。
創価教育論等にみられる価値創造の思想の後に、日蓮正宗の思想がミックスされるという、流れは実に興味深い。そして現在の創価学会が、後者の思想に軸足をおいてしまい、哲学志向の“学会”から遠ざかっているという事実もおもしろい。

収監中に、取調べで、法華経にはには満足な教義がないと罵倒されるのだが、実はそのとおり。創価学会の人は怒るかもしれないけど、哲学と宗教を峻別してしまった時点でいささか失敗なんだよね。劇中でも“哲学を乗り越えて宗教になる”というセリフが出てくるんだけど、浅い。両者は不可分だし、カトリックの世界が正しいとは思わないけど、トマス・アクィナスなどのカトリックの坊さんたちは、宗教と哲学の整合に腐心した末に、新たな価値創造をおこなった。

で、その“腐心”が終盤の十界論の解説の部分だと、本作は言いたいようだ。

九界の説明は良い。人間が九界の間を揺れるのも良い。で、肝心の“仏”の説明になるのだがこれがよろしくない。九界まで人間の心の状態、命の状態を表しているという説明で、では、“仏”はどういう心の状態だ?と身構えていると、「仏とは命のことなんだー!」って、それじゃあ、命の状態が命だ…ってことになって、何の説明にもなっていないし…。アホかと。
自分を見つめる客観性の所まで説明できているのに、最後でこれは無いわなぁ。九界を揺れる自分の心を完全に認識し、正しい方向に制御できる客観性。それが“仏”だよ。そのくらいの説明をしてもらいたいものである。

その後、南無妙法蓮華経と唱えることで、自分がどの状況にいるかを判断できると彼はいう。表現は稚拙だけど、自分への客観性を涵養するツールだといっているわけで、それが正しいかどうかは別にして、筋は通っている。でも、はじめの十界の説明(特に仏の説明)がうまくできていないから、南無妙法蓮華経が何なのか…という説明も死んでしまっているんだね。脚本家の理解力なのか表現力なのかわからんけど、著しく不足してるんだろうね。

むー、ガチの信者の人だと、ラストに近づくにつれて盛り上がるのかもしれないけど、わたしゃあ盛り下がる一方。実は信者の人も大半は、ぼーっとして観ているような気がする。

同じ、舛田利雄監督の『ノストラダムスの大予言』が観たいが、これも見当たらない珍作。本作よりも入手が難しそうだ。長い旅になりそうだ。
#しらみって見たことなかったから、ちょっと新鮮。

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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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