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公開年:1988年
公開国:アメリカ
時 間:173分
監 督:フィリップ・カウフマン
出 演:ダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ、レナ・オリン、デレク・デ・リント、エルランド・ヨセフソン、パヴェル・ランドフスキー、ドナルド・モファット、ステラン・スカルスガルド 他
受 賞:【1988年/第23回全米批評家協会賞】作品賞、監督賞(フィリップ・カウフマン)
【1988年/第42回英国アカデミー賞】脚色賞(ジャン=クロード・カリエール、フィリップ・カウフマン)
【1988年/第4回インディペンデント・スピリット賞】撮影賞(スヴェン・ニクヴィスト)


1968年のプラハ。トマシュは大変有能な脳外科医だったが、女性にはだらしなく、画家のサビーナら多くの女性と交際する奔放な独身生活を謳歌していた。ある日、出張で訪れた郊外のカフェでウェートレスのテレーザと出会う。テレーザもトマシュを一目で気に入り、彼の家へ押しかけていき、そのまま、男女の関係となり同棲生活が始まる。トマシュとテレーザは、カメラが趣味のテレーザに写真家の仕事を紹介するのだったが、一方でトマシュとテレーザの関係も継続していた。やがてトマシュとテレーザは結婚するのだが、テレーザは常に他の女の影を感じ苦しみ続ける。その苦しみが頂点に達した頃、ソ連がチェコに軍事介入。テレーザはソ連軍の民衆弾圧の様子をカメラに収め続け、自由を訴え続けるのだったが、ソ連軍の弾圧は強まる一方。同様に、職場での自由な振る舞いを病めないトマシュへの風当たりは強くなり、居場所を失った二人は、一足先に亡命していたサビーナを頼って、スイス・ジュネーブへと逃避する。そこで、テレーザはカメラマンの職を得るが、トマシュは医者になることができずペンキ職人となる。そんな状況でも彼の女癖は変わりなく、またもやテレーザを悩ませることに。耐えられなくなった彼女は、手紙を残しプラハへ戻るのだった…といストーリー。

『ライトスタッフ』の監督だが、同様に本作も長い。はじめは、単なるエロ映画である。ちょっとアプローチすりゃあ簡単に女がなびき、相手も遊び以上の何かを求めるわけじゃないのだから、そりゃあそんな生活になる。とにかく、複数の女性と絡み合う描写のオンパレードである。正直、乳と陰毛ばっかりで
胸焼けしそうになる。

そんな中、いままで付き合ってきたのとは違うタイプの女性に出会う。とはいえ、テレーザもトマシュの魅力に簡単にやられてしまうわけで、女性としては大差ないのだが、“普通”の感覚なので、相手が女遊びを止めなければそりゃあ苦しむ。他の女性と何が違うかって、距離感が違う。あれだけプレイボーイ三昧のくせに、懐に入られてしまったものだから、あっさりと結婚してしまう。
トマシュはものすごくだらしない男に映るが、見方を変えれば、“性”と“愛”の混同を一切しない人間だともいえるわけで、もしかすると逆に清い人間なのかも…と思えてくる(もちろん世間がそういう見方をしてくれることはないわけだが…)。

あぁ、こんな男女のごちゃごちゃを延々と見せられるのか…とうんざりしかけたところで、ドンパチがはじまる。何の予備知識もなしに見始めたもので、本作がプラハの春を舞台にした作品であることを知らなかった。急にストーリーが締まってくる。
舞台が変ると、今度はテレーザが奔放さを発揮する。カメラマンとしてソ連の暴挙を撮影し、西欧のメディアに流し続ける。トマシュも政府の姿勢には元々批判的だったので、理解できなくはないのだが、なんでそこまで正面きって危険を冒すのかまでは理解しきれない。

そんなレジスタンス的な活動にも限界がきて、ジュネーブへ逃げるわけだが、そうなるとまたもやトマシュのターンである。その後はこの応酬の繰り返しである。

最後は破滅的な終わり方をしたわけだが、それは便宜上、話を終結するための方便みたいなもので、たいした重要ではないと私は考える。問題は、自分も相手の気持ちをわかろうとするために浮気をしてその罪悪感に苛まれた後、田舎暮らしをはじめた結果、はたして彼らは幸せを得たのか?という点である。他にめぼしい女性のいない田舎なので浮気のしようがない。政治とも無縁。そんな仏門に入ったような状態で得られた安穏は、天国なのか地獄なのか。欲求に正直という意味でピュアな二人の行く末は、破滅しかないのだ…という解釈だと、ちょっと悲しいな。

いやあ、わたしには難しい作品だったな。

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公開年:1998年
公開国:アメリカ
時 間:134分
監 督:スパイク・リー
出 演:デンゼル・ワシントン、レイ・アレン、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ロザリオ・ドーソン、ゼルダ・ハリス、ビル・ナン、ジョン・タートゥーロ、ロネット・マッキー、ネッド・ビーティ、ジム・ブラウン、レナード・ロバーツ、ヒル・ハーパー、ジョセフ・ライル・テイラー、ミシェル・シェイ 他
ノミネート:【1999年/第8回MTVムービー・アワード】ブレイクスルー演技賞[男優](レイ・アレン)


リンカーン高校に通うジーザス・シャトルズワースは、バスケットボールの天才プレイヤー。卒業を迎える今、大学に進むのかNBAに入るのか、彼の進路は注目の的。その決断まであと一週間と迫っていた。一方、ジーザスの父親ジェイクは、6年前に妻(ジーザスの母)を殺した罪で服役中していたが、刑務所の所長からある取引を持ちかけられていた。実は、州知事がバスケットで有名な地元ビッグ・ステート大学のOBで、どうしてもジーザスを母校のチームに入れたいと考えていた。そこで、ジーザスからビッグ・ステート大の奨学生になる確約と取り付ければ、15年の刑期を大幅に短縮してやるという裏取引だった。ジェイクは労働釈放の名目で一週間だけ出所する。目の前に突然現れた父を強く拒否するジーザス。母親を誤って殺してからというもの、父と息子の間には深い溝ができており、ジーザスは徹底的に父を無視するのだった。監視する刑事から、早く契約を獲るように脅される中、ジェイクは、仮住まいのアパートの隣室に住む売春婦ダコタと心を通わせるようになり…というストーリー。

導入部が、全然ジャケット画像のイメージと違ってちょっと面食らったものの、すぐに引き込まれた。

高校バスケットのヒーローで、本当は明るい未来に喜び溢れる日々のはずなのに、ものすごくつらいという状況。もちろん経験したことはない状況だが、高校生には厳しい。
そんな彼には、相談できる両親はおらず、それどころか守らねばならない妹がいる。せめて、現在の保護者がまともであればいいのでが、世話になっている叔父は、ジーザスが将来手にするであろう大金を当てに彼を追い詰める。チームのコーチも、彼に恩を着せ、さらに金を貸そうと迫ってくる。そういうあからさまな態度ならば、ジーザスも警戒のしようがあるのだが、実は、信じていた人もすべてクソ人間だということが見えてきて、一週間の間に彼を絶望させる。

一人、チンピラの親玉みたいな真っ赤なベンツに乗ってる男が出てくる。古い知り合いらしいが、あきらかにそっちの世界の人間で、ジーザスの周囲の人間の中では、一番ヤバそうな人。だけど、不思議と彼の忠告が一番マトモだったりする。ドラッグ、女、そういう誘惑にお前は勝てるのか? 周りはおまえを応援しているように見えるが本当にそうなのか? お前が裕福になった途端、足を引っ張ろうとしているぞ…と。町の中で唯一そいつがマトモだっていう状況。

一方のデンゼル・ワシントン演じる父親自は、自分が望んでいたように息子がバスケの道で花開かせようとしていることを誇らしいと思っているし、息子の人生の大事なポイントであることはわかっているのだが、何もしてあげることができない。そんな時に、思いもよらず、裏取引を持ちかけられる。

ジェイクは決して悪い人間ではないのだが、良い人間ともいい難い。所詮、バスケのことしか息子に教えなかった、それも、ちょっとマトモとはいい難いヒステリックな指導方法しかしてこなかった父親である。さらに6年も疎遠。ちょっとクズぎみの男に共感なんかできないと思う人もいるだろう。それでよいと思う。彼がそれほどマトモな人間ではない…というのが重要な味付けになっているから。

この作品の微妙なところは、ジェイクが、本気で刑期を短くしてもらおうと考えていたのか、息子にアドバイスができればそれでよいと思っていたのか?という点。まだ幼い妹のことを考えれば、前科者とはいえ、そばにいてあげられるメリットは小さくない。はじめは前者だったけど、だんだん後者だけでもいいかな…と考えがシフトしていったという感じかな。最後は騙された形になるわけだが、息子の大事な時にアドバイスができたことで満足できたと信じたい。嫁の墓参りもできたしね。

ベンツに乗っていた男もビッグ・ステート大が最良と思っていた模様。どう考えても不正な取引を持ちかけた知事の要望が、最良という構図が、なかなか微妙な味わいを生んでいると思う。

本作のプロット自体は薄いと思う。だけど、すごく濃く感じる。息子と父親の周りの時間が止まってるっていうか、空気の粘度が高いって感じ。そんなにストーリーに重要に関わっているわけじゃないけど、ミラ・ジョヴォの演技は、その粘度を高める役割に十分貢献していると思う。
なかなかの良作だと思う。

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公開年:2012年
公開国:イタリア、フランス
時 間:115分
監 督:マッテオ・ガローネ
出 演:アニエッロ・アレーナ、ロレダーナ・シミオーリ、ナンド・パオーネ、クラウディア・ジェリーニ 他
受 賞:【2012年/第65回カンヌ国際映画祭】審査員特別グランプリ(マッテオ・ガローネ)





イタリアでは、一般の若者が共同生活をする“ビッグ・ブラザー”というリアリティ番組を大ヒット。そこからスターも生まれているほど。その番組の大ファンであるナポリで魚屋を営むルチャーノは、明るい性格でいつもお客を楽しませ、町の人気者だった。しかし、商売で得る収入はわずかで、大人数の家族を養うのは不十分。そこで、妻が営業をしているクッキングロボットを知り合いに買わせて、それをすぐに返品させて、営業歩合収入を得るという詐欺行為でなんとか暮らしていた。そんなある日、家族が街に買い物にいくと、ビッグ・ブラザーの新参加者のオーディションをしている。ルチャーノは、家族に薦められてオーディションに参加したが、なんと一次オーディションに合格してしまう。元々、親類や町の人から面白い男といわれていた彼は、すっかりその気になってしまい、有名になって金持ちになる夢を膨らませるのだった。しかし、仕事中に普段見かけない人の姿を見ると、番組スタッフが調査に来ているのでは?と思うようになり…というストーリー。

コメディかと思っていたのだが、全く違った。笑えないだけではなく、かなり悲惨な話だと思う。自分はスターになれると思い込むという設定は、デ・ニーロの『キング・オブ・コメディ』を思い出す。あっちはかなり病的だったが、こちらはかなり微妙なライン。だから、こんな感じで徐々にエスカレートするとは思ってもみなかった。かえって救いようのない狂気が漂う結果に。

プロットは別にして、本作はわかりにくい演出が多い。まず、クッキングロボットの設定が全然ピンとこない。あまりにSF的なデザインで、どうやって使うのかもわからないレベル。もしかしてこのお話は未来のお話かな?なんて思ったほど。そして、そのロボットを使ってやっている詐欺の仕組みがさっぱり見えてこない(後でネットで調べてやっとわかった)。
結局は、ヤバいことをやらざるを得ないくらい貧しいっていうことと、それを夫婦がツルんでやっているっていう設定が必要だったわけだが、別にそんなロボットを持ち出さなくてもよかったと思う。

そして、タイトルにもなっている“リアリティ”番組がいまいち見えてこなかった。始め主人公ルチャーノは、冒頭で女装していたから、なにかそういう芸を披露する番組なのかな?なんて思っていた。リアリティ番組出身のスターがライブみたいなのをやっていたから、ますますそうなのかなと。実際の放送を観ているシーンで、それが日本でいうところを“テラスハウス”的なものであることがやっとわかった(テラスハウスとやらは観たことないからよくわからんけど)。
オーディションの様子を説明していたルチャーノは、自分の生い立ちをすっかり語ってやった…的なことを言っていたが、いやいやいや、若者の男女が出る番組で、妻帯者で子持ちのおっさんが出る番組じゃないじゃん。おもしろい人だとかそんな次元じゃないじゃない。なんで出られると思ったのか…。いや、本人だけじゃなく、町の人たちもさ。

こういう、端々の演出に全然“リアリティ”がないという皮肉さよ。

番組スタッフが調査に来てるんじゃないか?と思い始めるのは理解できるのだが、ホームレスを調査員だと思い込み、さらに仕事を辞めたり、家財を投げ打って自分を良い人だと思わせようと必死になったりと、そこまでくるとすっかり狂人。主人公の目つきも明らかにイっちゃってる感じに。次第に夢と現実との区別がつかなくなった“ドン・キホーテ”の奇行は、止まらない。
まあ、その狂気を描くのが本作の狙いだから、

さて、なんで彼はそこまで“思い込む”ことができたのか。そうやって現実から目を背けたくなるような、バックボーンがあったのか? それは、もしかすると、オーディションで語ったという彼の過去に秘密があるのかもしれない。でも、それは劇中で語られることはない。みなまで語られないばかりか、匂わせてもくれないので、タダの狂人と、それに苦労する周囲の物語で終わってしまっているのが残念。
“風変わりな作品”であることは認めるが、カンヌがなにをもってこれが審査員特別グランプリに値すると考えたのか不可解。また、主演のアニエッロ・アレーナが元マフィアだったとか、そういう“場外のものめずらしさ”に注目したのかも(もう、カンヌのそういう目線はうんざりだよね)。

やっぱり、どうしても『キング・オブ・コメディ』と比較してしまうね。そして、数段落ちるという事実。

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公開年:2013年
公開国:アメリカ
時 間:116分
監 督:マーク・フォースター
出 演:ブラッド・ピット、ミレイユ・イーノス、ジェームズ・バッジ・デール、ダニエラ・ケルテス、デヴィッド・モース、ルディ・ボーケン、ファナ・モコエナ、アビゲイル・ハーグローヴ、スターリング・ジェリンズ、ファブリツィオ・ザカリー・グイド、マシュー・フォックス 他
ノミネート:【2013年/第19回放送映画批評家協会賞】アクション映画男優賞(ブラッド・ピット)、SF/ホラー映画賞
 【2014年/第23回MTVムービー・アワード】恐怖演技賞(ブラッド・ピット)
コピー:全人類に告ぐ、来たるZデーに備えよ。


元国連職員ジェリー・レインは、妻と二人の娘を学校に送るため車を走らせていた。しかし、いつもはスムーズに進むところで渋滞にはまってしまう。慌ただしく警察車両が通過し始め、人々が車を捨てて逃げ始めると、突然凶暴化した人間が出現し、他の人たちを襲い始めた。噛まれた人は同じ症状となり、また人を襲い始め、まさにゾンビ状態。なんとか逃れたジェリー一家は、人々をゾンビ化するウイルスが各地に蔓延し、このままでは世界が壊滅してしまうことを知る。家族を守るため必至に逃げる術を考えていたジェリーのところに、国連事務次長ティエリーから連絡が入り、現場への復帰を要請される。一家はティエリーが派遣したヘリに乗って、ニューヨーク沖に停泊する軍艦に向かう。しかし、艦の収容人数は限られており、民間人は地上の避難所へ移送されている最中。ティエリーは、かつて伝染病の調査や紛争地域での交渉で活躍していたジェリーを復帰させたいと考えており、復帰すれば家族を艦に留めてもよいという交換条件を出す。家族の安全のために復帰を許諾したジェリーは、若きウイルス学者や特殊部隊員らとともに、最初にゾンビの情報を発進してきた、在韓米軍基地へと向かう…というストーリー。

冒頭は、ゲンナリポイントの連打なのだが、あきらめずに観続ければ、そこそこ面白くなるので我慢しよう。あくまで、そこそこだよ。

まず、この作品がゾンビ物であることがわかったときの、「またか…」感。
「ゾンビだって??」って反応する科学者たちにセリフにゲンナリ。事実、目の前にいる調査対象の状態がゾンビ状態じゃないか。ゾンビという言葉を使ったら非科学的だとでもいうのだろうか。実に、セリフにセンスがない。科学者と現場の温度差というか、キャラ設定上の対立軸をむりやり作ろうという意図を感じ取ってしまうのだが、つまらない演出で本当にゲンナリした。
音に反応するとか、もう、その設定飽きたねぇ…。

ご立派なご託を並べる若い科学者。おそらくこの人物が鍵になるのかな…でも、ウゼーって思ったら、あっさり死ぬとか、なかなか新鮮でおもしろい(笑)。

そして何故か、在韓米軍にヒントがありそうってことで韓国に向かうのだが、韓国でゾンビウェーブとか笑わせる。別に在日米軍でもNATO軍でもいいのに。絶対に意図的。こういう映画での扱われ方って、相当嫌われている証拠だと思う。
さらに、あっさりと舞台はイスラエルに移る。嫌われているのに、蔓延っている国が舞台に選ばれているように思える。10番目の男理論とか、非常におもしろい味付け。こういうシニカルさは光っている作品だと思う。

でも、やっぱり、携帯電話が鳴ってピンチとか、幼稚な演出が散見されるのが残念。っていうか、マジメなのか、小ネタなのか、この辺でだんだんわからなくなってきた。

舞台がイスラエルに移ると、ビジュアル的な見せ場が。超高速の津波のようなゾンビウェーブ。いや、これも津波をわざと表現しているのは間違いない。これまでも走るゾンビが登場する作品はあったが、ここまでのスピード感はなかった。まさにCG技術の勝利。
さらに、ここで話のターニングポイントが登場。襲われない条件がある模様。子供?ハゲ?とかおもったのだが、普通に病気だった。

その後は、教われない条件を解明するために、研究室の中で話が展開する。館内のゾンビを掻い潜り、解明のために病原体のサンプルを取りに良くという、チェスというかロールプレイングゲームというか、静かめの流れに。けっして悪いプロットではないのだがが、多数の病原体サンプルの中から当てずっぽうで一つを選択して、一発正解っていうのが、実に興醒めした。もうちょっと、候補になる病気が絞られていれば、リアリティが増したと思うのだが。

他のゾンビ作品と同様に、意外と最後は、メリハリがなく終了してしまう。「戦いはこれからだ…」うん、どこかで観たような。

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公開年:1965年
公開国:アメリカ
時 間:103分
監 督:ノーマン・ジュイソン
出 演:スティーヴ・マックィーン、アン=マーグレット、カール・マルデン、エドワード・G・ロビンソン、チューズデイ・ウェルド、ジョーン・ブロンデル、ジェフ・コーリイ、リップ・トーン、ジャック・ウェストン、キャブ・キャロウェイ 他
コピー:…マックィーンからにじみ出る男の悲しみ---ジューイソンが演出する非情の世界! レイ・チャールズが歌う雨のニューオリンズ
放浪の一匹狼が挑んだ最期の大勝負! ゴールデン・トリオの魅力を結集した最高の娯楽巨編! 


ニューオリンズでスタッド・ポーカーの腕前で名が知れているシンシナティ・キッド。地元では敵無しで、近隣の街に遠征しても敗け知らずで、小さな勝負に飽きがきていた。そんな中、30年以上ポーカーの名人として君臨しているランシーがニューオリンズにやってくる。キッドは、かねてからランシーと手合わせしたいと考えていた。地元の有力者シューターに頼み込んで、対決をお膳立てしてもらうキッド。一方、キッドの恋人クリスチャンは、かねてから安定した暮らしをすることを望んでいたが、キッドはそれに応えることができない。二人の間がギクシャクしたまま、一大勝負の日は近づき…というストーリー。

『ラウンダーズ』と同様のポーカーにどっぷりつかった男のお話。若いギャンブラーがチャンピオンとの対決を夢見る展開も同じだし、安定を求める彼女とうまくいかなくなる展開も一緒。

しかし、『ラウンダーズ』ほど、ストーリーに起伏はない。シンシナティ・キッドのいる街に名人が来たから、このチャンスに何とか手合わせしたい。いや、勝ちたい。ツテをつかってお願いしたら、セッティングできた。大勝負をするとなると、胡散臭い奴らが寄ってきてすったもんだがありーので、いざ勝負。これだけで、奇を衒ったエピソードはない。大体にして、私はポーカーをよく知らない。それなのに、何故か見ごたえがあるのが不思議なのだ。

キッドのこれまでのバックボーンすら語られない。『ペイルライダー』でもそうだったが、“語らず”の美学が成立しているように思える。今の作品で、主人公の背景を語らずに我慢できる監督がどれだけいるだろう。そして、それを成立させる要素として、スティーヴ・マックィーンが見ていて飽きない役者だという点が大きい。

終わり方は、アメリカン・ニューシネマ的。普通なら、挫折⇒復活という流れを描くがそれすらない。滅びの美学というか、耽美というか。じゃあ、これ以外にどういうオチがあり得るか?実に、決着の付け方が難しいシナリオだと思う。ランシーがハッタリで勝つという展開も考えるところだが、それだと強気が売りのキッドが、怖気付いておしまいという、救いようのないラストになってしまっただろう。かといって、勝ってしまってもおもしろくない。

私が脚本家だったらこんな感じにする。キッドは色んな人に貸しがあるので、この勝負を観戦していたその人たちが、キッドに金を支払いはじめる(期日前だけど)。その金と、ギャンブラーたちの思いを集めて、もう一度勝負を挑む。挑むところでおしまい。こんな感じかな。

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公開年:1996年
公開国:アメリカ
時 間:123分
監 督:ジョン・タートルトーブ
出 演:ジョン・トラヴォルタ、キーラ・セジウィック、フォレスト・ウィテカー、ロバート・デュヴァル、デヴィッド・ギャラガー、ジェフリー・デマン、ブレント・スピナー、エリザベス・ナンジアト、ジェームズ・キーン 他
ノミネート:【1997年/第6回MTVムービー・アワード】歌曲賞(エリック・クラプトン“Change the World”)、男優賞(ジョン・トラヴォルタ)、キス・シーン賞(ジョン・トラヴォルタ、キーラ・セジウィック)


カリフォルニア州の田舎町ハーモンで、自動車整備工場を経営するジョージは、その明るい性格から町の人々から愛されている人物。彼の誕生パーティが催された夜。不思議な光に包まれたジョージは、天才的な知力や念動力が身に付いてしまう。それから貪るように本を読み、次々と湧くアイデアを具現化していく。さすがに自分の変化に不安を覚えた彼は、父親代わりの医師ドクに相談するものの、田舎の医師では何もわからない。一方、子持ちの女性レイスに片思いしているジョージは、その能力で子供達を楽しませ、距離を縮めようとする。実はレイスもジョージに好意を抱いていたが、夫を亡くしてから人を愛することに臆病になっており、彼を拒み続けるのだった。その後、レイスの家を訪れた彼は地震を予知したり、わずか20分でポルトガル語を習得し、瀕死の子供の居場所を超能力で突き止めるなど、奇跡を連発する。すると、これまで親しく付き合っていた町の人たちから気味悪く思われるようになり、ジョージの心は傷ついてしまう…というストーリー。

純朴なおっさんが、突然、超能力を身につけてしまう。それも空から降ってきた閃光を浴びてから。普通に考えれば、宇宙人に改造された…的な展開だと思う。いかにもSFチックなお話だが、急に知識が付くことで、周りの反応が変わってしまうという『アルジャーノンに花束を』のような軸や、未亡人との大人なのに純朴な恋愛物語の軸もある。さらにFBIからの追求でピンチに陥り、さらに検体として手術されそうになり逃げ出すというハラハラ要素もある。実に盛りだくさんな要素を、うまく構成していると思う。

これが都会のお話だったら、衆人の目にさらされてしまい、こんな緩い展開にはならない。ド田舎という舞台が、実に生きている。

(以下、ネタバレ)
観客の誰もが、宇宙人がらみの展開になると予測していたと思うが、腫瘍でした…という流れに。あの光も腫瘍のせいだ…と。
でも、普通のセンスなら、『アルジャーノンに花束を』のように元に戻るという展開を考えるはず。また、頭脳を駆使して、こっそり生きてます…みたいな、ニヤリなオチも考えるだろう。

しかし、一切そういう痛快なオチは無く。愛する人へ気持ちを伝えるということに集約されていく。ラストの誕生パーティのシーンは、素直な人なら感動できたに違いない。残念ながら、そのような、ほんわか爽やかなオチを、個人的には望んでいなかったので、かなり拍子抜け。

そういう方向にもっていくのなら、FBIのくだりは不釣合いだし、彼を追い詰める役割としては中途半端だった。町の人々のジョージを見る奇異な目線だけで十分だった気もする。
それに、大体にして、軍暗号を解いちゃってこまるのはFBIじゃなくてNSAじゃねえかと思うんだ。

終盤が、あまりにも私の好みとかけ離れていた。凡作。でも、エンドロールで流れる“Change the World”は格好良い。いや、単にこの曲がかっこいいだけなのだが…。

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公開年:1969年
公開国:メキシコ
時 間:123分
監 督:アレハンドロ・ホドロフスキー
出 演:アレハンドロ・ホドロフスキー、ブロンティス・ホドロフスキー、デヴィッド・シルヴァ、ポーラ・ロモ、マーラ・ロレンツォ、ロバート・ジョ 他
受 賞:【1974年/第2回アボリアッツ・ファンタスティック映画祭】審査員特別賞





流浪の子連れガンマン、エル・トポ。ある日、住人が虐殺された村に差し掛かる。山賊たちの仕業であることを聞きだしたエル・トポは、彼らが占拠している修道院に奇襲をかけ、見事に退治する。山賊の棟梁“大佐”が囲っていた女マーラィに一目惚れしたエル・トポは、旅に連れて行こうとするが、マーラィが子供を連れて行くことを嫌がったため、修道院に置き去りにする。その後、マーラィは砂漠に住むといわれる4人のガンマンを退治して、最強の男になるように、エル・トポをそそのかす。達人たちを次々を発見し、撃破していくエル・トポだったが、旅の途中で拾った女ガンマンとマーラィが同性愛に走ってしまう。エル・トポは女ガンマンは銃撃され瀕死の状態に。それから20年の歳月が流れ…というストーリー。

間違いなく『不思議惑星キン・ザ・ザ』と並ぶカルトな珍作。コマ抜きか?と思わせるような雑な編集。意図的なのか否か判別できないが、とにかく特徴的。印象的。

素っ裸の息子に、お前はもう大人だから、おもちゃと母親の写真を捨てろ…というシーンから始まる(そういうくせに、ずっと素っ裸のままで連れまわすし)。。子連れ狼的な展開になるのかと思いきや、女の要求であっさり置き去りという斜め上展開に。そこまでは、フェデリコ・フェリーニの『サテリコン』ばりの退廃的作品なのか思っていたが、もしかすると笑わせようとしているのか?とすら思えてくる。
でも、作っているほうは真剣に違いない。

よくわからんが、砂漠に存在する4人のガンマンを倒して、№1になって!と女の懇願されて、言いなりのエル・トポ。砂漠を螺旋を描くように歩けば必ず見つかる…みたいなトンチキな理屈が随所にみられる。そのセリフ必要か?みたいな演出が満載である。

で、4人のガンマンなわけだが、いざ遭遇してみると全然ガンマンじゃない。目の見えない修行者とか、動きが正確すぎちゃう奴とか、一発で心臓を射止める技を持ってる奴とか、終いには極めすぎちゃって戦わないやつとか。で、そいつらに勝つまで苦悩したりして。勝ったら勝ったで、特に何があるわけでもなかったり。
その末、レズビアンのガンマンに倒されちゃう。そこまではいいけど、洞窟に放り込まれて長い月日が経っちゃうとか、何それ。なんか白塗りになってるし。

奇形の人々が住む洞窟から脱出した後、その人たちを救うために芸人になって金を稼ぐという、またまた奇妙な展開。奇妙さの極めつけは、捨てた息子が登場とか。実は、観ているとき、神父の弟子みたいなのが、エル・トポの息子だなんて理解できなかった。それ以前にあの洞窟に20年もいたとか、観ているだけじゃわかんないし。後から、ネットであらすじを調べて、ようやく理解した次第。

最後も、死体がミツバチに覆われるのが何の隠喩なのかは不明。隠喩があるのかも不明。こういう投げっぱなし感は、実はカルト的人気を形成するためには重要。観客に考えさせる、想像させる余地を与えるという意味で、こういう答えのない問いかけは重要。

あまりのわけのわからなさに、気絶寸前だったけど、日常生活の雑事にまみれた脳がリセットされるくらいのインパクトがあった。

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公開年:1998年
公開国:アメリカ
時 間:121分
監 督:ジョン・ダール
出 演:マット・デイモン、エドワード・ノートン、ジョン・タートゥーロ、ファムケ・ヤンセン、グレッチェン・モル、ジョン・マルコヴィッチ、マーティン・ランドー、マイケル・リスポリ、ゴラン・ヴィシュニック、メリーナ・カナカレデス、マーウィン・ゴールドスミス 他





ニューヨークに住むロースクールの学生マイクは、学費をポーカーで稼ぐほどの天才な腕前の持ち主。これまで堅実に稼いできたが、大きな勝負をしたくなって、闇カジノを仕切るロシアン・マフィアのテディKGBに差しの勝負を挑む。しかし、手痛く敗北し、全財産の3万ドルをすべて失ってしまう。それを機に、カードから足を洗うことを決意。その後、配達のバイトに励み、弁護士になるために勉学に勤しんでいた。そんな中、旧友でペテン師のワームが出所してくる。出所したはいいが、借金の返済をしなければならないワームは、手っ取り早くポーカーで稼ごうと考える。一緒に組もうというワームの申し出を一度は断るマイクだったが、ついつい心が折れてポーカーに手を出してしまう。同棲している恋人のジョーは、再びマイクがポーカーに手を染めたことを敏感に感じ取り注意するのだったが、ワームに引きずられたマイクは後戻りできなくなり、学業にも支障を来たすようになる。とうとうジョーは愛想をつかして出て行ってしまうが、マイクのカード熱も高まるばかり。しかし、マイクは知らぬ間にワームの借金の保証人にされていたことが発覚。おまけに債権者がテディKGBであることを知り…というストーリー。

これまでコツコツと学費をためていた人間が、これからの人生を構築する上で不可欠な学費をすべてスッてしまう。何でそんな勝負を突然したいと思ったのか意味が不明で、ギャンブラーって救いようのないアホだな…と思うわけである。実は最後に、なんでそんな賭けをしたのかが、明かされるのだが、その理由をもっともだと思うか、男のロマンだと思うか、やっぱりアホだと思うか…。私は、ギャンブルしないから、かなり冷めた目で観ていたけどね。

ポーカーっていうのは状況判断と心理の読み合いで、単なるギャンブルではない…というマイクの主張。わからんではないのだが、それで身を持ち崩しちゃ意味がないだろう。
とはいえ、なかなかマイクという男は見所があって、スパっと止めて学業に専念できているわけだ。前半は彼の一人称で語られており、幾ばくかの未練こそあれ、断ち切った様子が綴られる。私の価値観的には望ましい方向なのだが、不思議なことに物語としては、反比例してつまらなくなる(笑)。ずっとマット・デイモンのくだりで、うんざりし始めたいいタイミングでエドワード・ノートン演じるワームのエピソードにシフトする。いい構成だ。

再びカードを始めてしまうのだが、あくまでワームを助けるため。ワームの尻拭いをするため。まあ、そういう理由でやりはじめるわけだ。なんでそこまでワームを救わねばならないのか、経緯は意味不明だが、愛想がつき始めたタイミングで、借金の片棒を担がされて逃げ道を失う。そう、本作を端的に評すれば、才能あふれる若者が転落する物語なのだ。

(以下、少しネタバレ)
さあ、この地獄からマイクは抜け出されるのか。再び真っ当な道に戻れるのか。その最後の一縷の望みを賭けて、再びジョン・マルコヴィッチ演じるテディKGBとの差しの勝負である。
オレオとかの小道具の使い方もうまい。そういう印象的なシーンを最後の演出に絡めるのは効果的だった。カードは心理戦だと主張する主人公のお話だけあって、このような見所のある細かい演出は多々あったと思う。エドワード・ノートン、ファムケ・ヤンセン、ジョン・マルコヴィッチの演技もよかった…というか、マット・デイモンが完全に喰われていたな。

おお、やっと挽回、これで軌道修正できるな!と思ったところで、マイクはまた同じ過ちを犯す。確かにその勝負には勝つのだが、一方で自分の“本性”に気付いてしまう。もう元の道には戻れない。天国か地獄はわからないが、もう片道切符をまっしぐら。バカは死ななきゃ治らないを地でいくお話だった。
#良かれと思って手を差し伸べた大学教授の厚意を考えると、なんか釈然としないわ。

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公開年:1973年
公開国:日本
時 間:160分
監 督:舛田利雄
出 演: 丹波哲郎、芦田伸介、仲代達矢、新珠三千代、平田昭彦、名古屋章、稲葉義男、山谷初男、佐原健二、渡哲也、佐藤允、雪村いづみ、黒沢年男 他







昭和20年7月、特高警察に逮捕され投獄されていた戸田城聖が釈放される。彼は、代用教員時代に出会った小学校の校長・牧口常三郎の教育法に感動し、依頼、彼に師事するようになる。しかし、牧口の教育法は自由主義的であるが故に当局から目をつけられることとなり、2人とも教師を辞めざるを得なくなる。その後、戸田は事業に専念すると、才能を発揮し、複数の出版社を経営するまでになる。牧口が日蓮正宗に入信したことを知った戸田は、勧められるがまま自分も入信。日蓮の教義と従来の教育理論を加味することで、入信者は増えていった。昭和5年、2人は“創価教育学会”を設立し、自らの教育理念を広める活動を強化していくが、戦況が悪化する中、日蓮正宗の活動を制限しようとする政府に反発。治安維持法によって、2人は逮捕されたのだった。釈放後、ほどなく敗戦を迎えると、戸田の出獄を知って訪ねてきた仲間による創価教育学会の再建を望む声が高まり…というストーリー。

東宝作品で、製作が田中友幸、音楽が伊福部昭、特撮班も東宝技術陣が満載。原爆のカットなんか、おそらく他の特撮作品からの流用な気がする(観た記憶あり)。スタッフが完全に『ゴジラ』なのに、内容がコレ。おまけに、この時代の作品なのに、製作委員会システムによって作られているという、珍作中の珍作。さらに主演は、『大霊会 死んだらどうなる』。もう、お祭り騒ぎだ。
こんな言い方をしちゃなんだが、芦田伸介、名古屋章、仲代達矢、雪村いづみ、黒沢年男に加えて、なんと渡哲也まで。とにかく無駄に出演陣が豪華なのも、すごく不思議。

で、こんな珍作を観たいと思っても、どこにもレンタルしていないわけだ。で、そういうラインをツテを辿ってやっと借りるに至る。

ただ、この主人公のことを知らない人…というか創価学会のことを知らない人にとっては、かなり珍妙に映る。冒頭からかなり違和感が満載。配線直前なので、神宮に敬礼している人や、深く礼をしている人がいるわけだが、それを睨み付ける主人公。電車の乗客が、焼夷弾の残骸から包丁が作れるという話をしていると、突然その話の輪に入っていって、みなさんがんばってくださいよ!とか、何様目線なんだか…。

自分が正しいとは思うけど、世間には受け入れられないというなら、その時こそ“方便”を発揮図べきであって、無駄な軋轢を生んで、こんな苦労してる俺ってスゲェみたいな感じで悦に入るのは、頭のネジが外れていると思う。まあ、思想弾圧に反発する気持ちはわかるんだけど、うまいことやれっていうのね。

イスラム教徒は戒律的に、行動規範に縛られる。キリスト教と違って心の中で信じていればただそれだけでいいというものではない。だから、スペインなんかでは、戒律にしたがってお祈りはするし断食はするイスラム教徒は、簡単に見つかって虐殺されちゃう。
創価教育学会の人たちは、国がいってくることにことごとく反発する。適当に折り合いとつけて、「まあ、心の中ではこういう解釈で…」ってやっときゃいいものを。まあ、日蓮は、破戒僧ばりのダイナミックさと、中二病的な発想が売りみたいなところがあるからね。それを素直に信奉したら、半ばテロリストみたいな行動になっちゃうのは理解できる(実際、北一輝みたいなのもいるし)。日蓮って中庸とか中道とか、仏教の重要なエッセンスとはかけ離れているように見えるとことが、魅力だったりするのは事実だな。でも、「ひゃー、日蓮って格好いい~」みたいな感覚じゃダメなんだよね。

神社のシステムは天皇システムで、軍国主義とイコールだから、それらは全部悪なんだ!という短絡的なロジック。戦争に向かっているから国が滅びそうになったんじゃなくて、国が滅びそうな醸成だから戦争に向かうんだって。まず、戦争が発生した理由に向き合おうとしていない、その態度がよろしくない。
#その前に、毎日拝んでる曼荼羅の真ん中に書いてある、天照大神はなんだって話になるのだが…、まあそれをいうと怒るから止めておこう。

まあ、自分も教師だったわけで、ある意味、軍国教育の片棒を担がされた負い目があったのかもしれなし、今ほど正確な情報に簡単にアクセスできるわけじゃないから、考え方をこじらせちゃうのは、致し方ないのだが、それにしても…。
負け戦なのはわかってたけど、やらざるを得ない状況だったという状況を認識しないと、次には進めないのにね。なんでやらざるを得ない状況に至ったのか、どうすればその状況に陥らずにすんだのか?という分析こそが、再び戦争しないための唯一の方法なのだが。

“昔の学会員”という表現が何回も出てくる。ある意味、創価学会が真剣に“学会”にやってた時代の話。戦後の創価学会が信者を増やしてく時代とは、まるで価値観も質も異なることが、本作から見えてくる。
創価教育論等にみられる価値創造の思想の後に、日蓮正宗の思想がミックスされるという、流れは実に興味深い。そして現在の創価学会が、後者の思想に軸足をおいてしまい、哲学志向の“学会”から遠ざかっているという事実もおもしろい。

収監中に、取調べで、法華経にはには満足な教義がないと罵倒されるのだが、実はそのとおり。創価学会の人は怒るかもしれないけど、哲学と宗教を峻別してしまった時点でいささか失敗なんだよね。劇中でも“哲学を乗り越えて宗教になる”というセリフが出てくるんだけど、浅い。両者は不可分だし、カトリックの世界が正しいとは思わないけど、トマス・アクィナスなどのカトリックの坊さんたちは、宗教と哲学の整合に腐心した末に、新たな価値創造をおこなった。

で、その“腐心”が終盤の十界論の解説の部分だと、本作は言いたいようだ。

九界の説明は良い。人間が九界の間を揺れるのも良い。で、肝心の“仏”の説明になるのだがこれがよろしくない。九界まで人間の心の状態、命の状態を表しているという説明で、では、“仏”はどういう心の状態だ?と身構えていると、「仏とは命のことなんだー!」って、それじゃあ、命の状態が命だ…ってことになって、何の説明にもなっていないし…。アホかと。
自分を見つめる客観性の所まで説明できているのに、最後でこれは無いわなぁ。九界を揺れる自分の心を完全に認識し、正しい方向に制御できる客観性。それが“仏”だよ。そのくらいの説明をしてもらいたいものである。

その後、南無妙法蓮華経と唱えることで、自分がどの状況にいるかを判断できると彼はいう。表現は稚拙だけど、自分への客観性を涵養するツールだといっているわけで、それが正しいかどうかは別にして、筋は通っている。でも、はじめの十界の説明(特に仏の説明)がうまくできていないから、南無妙法蓮華経が何なのか…という説明も死んでしまっているんだね。脚本家の理解力なのか表現力なのかわからんけど、著しく不足してるんだろうね。

むー、ガチの信者の人だと、ラストに近づくにつれて盛り上がるのかもしれないけど、わたしゃあ盛り下がる一方。実は信者の人も大半は、ぼーっとして観ているような気がする。

同じ、舛田利雄監督の『ノストラダムスの大予言』が観たいが、これも見当たらない珍作。本作よりも入手が難しそうだ。長い旅になりそうだ。
#しらみって見たことなかったから、ちょっと新鮮。

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公開年:1982年
公開国:ポーランド
時 間:122分
監 督:クシシュトフ・キエシロフスキー
出 演:ボグスワフ・リンダ、タデウシュ・ウォムニツキ、Z・ザパシェビッチ 他








1980年代のポーランド。医学生のヴィテクは医者になろうという強い意志があるわけでもなく、気の抜けた毎日を送っていた。彼の母親は彼を生むとすぐに亡くなり、その後、父親に育てられたが、父はヴィテクが医者になることを強く望んでいたのだ。そんなある日、父の死の知らせが舞い込む。医者になるという目的を完全に失ってしまったヴィテクは、大学を休学してワルシャワへ旅立つことに。駅につくと、ワルシャワ行の列車の発車時刻。急いで切符を買い、走り始めた列車を全速力で追いかけるのだったが…というストーリー。

その後、①ギリギリ列車に乗れた場合、②駅員にブロックされて列車に乗れなかった場合、③列車に乗れなかったけどそこで同級生の女性と出会う場合…の3つの“if”がオムニバス形式で描かれる作品。『ラン・ローラ・ラン』の元ネタだとか。
大変申し訳ないのだが、私、あまりにもポンコツで、このオムニバス構成を理解できなかったの。ちょっと変だな…とは思いつつ、全部時系列でつながっている話だと思っていた。ああ“偶然”駅で同じことがおこってるんだな…、波瀾万丈な人生だな…と。駅の窓口で「学生一枚」って言って切符を買うんだけど、休学してるから学生だろ?ってノリで買ってるんだと思ってたし。
#白人の年齢が見た目でいまいち判断できないんだよね、私。

ちなみに本作は、『殺人に関する短いフィルム』と一緒に一枚のDVDに収められている。
(以下、ネタバレ)

一つ目のお話は、共産党の活動家になる人生。かつての恋人と再会していい感じの仲になるんだけど、実は彼女はレジスタンスの一味。結局、レジスタンスの居場所をチクったと思われて、関係は破綻してしまう。医者を目指しているときも強い意志はなかったが、共産党員になってもそれは同じ。自分の大切なものを奪われた!と激昂して、党の上役に殴り掛かっちゃうんだけど、ヴィテクが情勢を判断できないおぼっちゃんなだけ。

いずれのエピソードにおいても、この“意志の欠如”というところがポイントで、誰に影響されるか(出会うか)で、ヴィテクの行動は大きく変わってしまう。一つ目のお話では、スターリン時代を生き抜いてきた共産党幹部。
まるでヴィテクが無能な人間って書いてるように見えるかもしれないけど、実際は誰でもそんなもんなんだよね。人との出会いがどれだけ影響を及ぼすのか…っていうこと。

二つ目のお話は、駅の警備員を殴ってパクられちゃう展開(共産党から逃げて、荒れた末にパクられたんだと勘違いしてたわ)。服役中に知り合った人の誘いでレジスタンスに加わることに(一つ目とは真逆の立場に)。でも、またもやレジスタンス組織が手入れを受けて壊滅。たまたまいなかったヴィテクのせいにされちゃって、失意のどんぞこに。このエピソードでは、ヴィテクはキリスト教に目覚めて入信しちゃう。共産主義ともレジスタンスの考え方とも異なる宗教に傾倒する。でも、やっぱり彼は、このアンビバレントな状況にあまり疑問を抱かずに行動しちゃうタイプ。

三つ目のお話は、やっぱり思い直して復学する展開。同級生と結婚し家庭を築いて、幸せ満開に。そしてまったくのノンポリ人間になっちゃう。でも、恩師の教授の息子がレジスタンス活動でパクられて、教授自身も職を失うことに。教授から代理でフランスにいってくれない?とお願いされ、承諾するという流れ。一つ目、二つ目ではフランスには行けずに終わったけど、今度は行ける(家族を置いてまで行く)。さてどうなるか。

人間、これだけ着地点が異なるものか…と考えさせられつつも、まちがいなくどのエピソードにおいてもヴィテクはヴィテク以外の何者でもない。そんな風に描かれているのが秀逸で、人間のパーソナリティってなんだろうなと考えさせられる。主義・信条じゃないんだな…と。
すごく、即物的で下卑た感じに描かれているのに、なぜか童話みたいな雰囲気が漂っているのも特徴的。良作だと思う。

#あの爆発シーンって模型かな? 1980年代の東欧の作品だと考えると、なかなかのデキじゃない?

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公開年:2009年
公開国:フランス、ドイツ、ベルギー、カナダ
時 間:137分
監 督:ジャコ・ヴァン・ドルマル
出 演:ジャレッド・レトー、サラ・ポーリー、ダイアン・クルーガー、リン・ダン・ファン、リス・エヴァンス、ナターシャ・リトル、トビー・レグボ、ジュノー・テンプル、クレア・ストーン、トマ・バーン、オードリー・ジャコミニ、ローラ・ブリュマーニュ、アラン・コーデュナー、ダニエル・メイズ、マイケル・ライリー、ハロルド・マニング、エミリー・ティルソン、ロリーヌ・スキーアン、アンダース・モリス、パスカル・デュケンヌ、ノア・デ・コスタンツォ、キアラ・カゼッリ 他
受 賞:【2009年/第66回ヴェネチア国際映画祭】技術功績賞(Sylvie Oliv)
【2010年/第23回ヨーロッパ映画賞】観客賞


ニモが目覚めると、そこは西暦2092年の世界。自分が118歳であることが告げられる。技術進歩によって、もはや人は死ぬことのない世界になっていたが、ニモはこの世に残った唯一の“死にゆく人間”として注目を集めていた。命の灯が消えゆく中、記者のインタビューを受けるニモは、これまでの自分の人生を語り始める。9歳のニモは、両親の離婚によって、母についていくか、父の元に残るか選択を迫られていた。ニモは、母についていった自分の過去、父の元に残った過去、そして3人の女性との恋愛を語り始め、インタビュアーを困惑させる。ニモが語る幾通りもの人生の中で、どれが真実なのか…というストーリー。

偶然だと思うけど、昨日の『モンスターホテル』の娘と同じ118歳だな。なんか欧米では意味のある数字なんだろうか…。まあ、それはそれとして…。

離婚した両親のどちらと暮らすのかを起点にして、3人の女性との“if”が次々と語られる。様々なポイントで枝分かれした記憶を散りばめたシナリオになっている。ただ散発的にエピソードを並べているように見えるが、それぞれの対比が際立つように構成されており、苦労の跡が伺える。

ただ、苦労したかどうかは別にして、このお話の最大の焦点である“なんで、この老人は併存しえない記憶を語っているのか?”という部分が、臨終前故の単なる記憶の創出と混濁なのか、希求して止まない望みを語っているのか、単なるホラ話なのか、SF的なパラレルワールドのお話なのか、結局、答えを出していないように思える。冒頭のモルグの状態が正なのか?それとも9歳の少年に押し付けられたつらい選択のせいで、多重人格者よろしく、複数の妄想を生み出したのか? それとも、仏教の唯識論よろしく見えている世界なんかすべて脳が生み出した幻想だとでもいいたいのか?途中、宇宙の創造(時間という概念の出現)やエントロピーについて滔々と語るのだが、持ち出しただけで答えにつながっていない。

終盤まで観進めていくと、果たしてSF設定自体が必要なのか?と思えてくる。耳目を集めて、老人の話を真剣に聞きたいと思っている人を登場させたいがためだけに、SF設定を持ってきたのではなかろうか。別に臨終間際の老人の話をだれかが真剣に聞いていればよいだけのことである。老人のたわごとか?という可能性を演出する意図かもしれないが、いずれにせよ答えをだしていないから意味がない。

もしかすると、人生っていうのは無限の可能性があるんだよ!っていう前向きなメッセージを発信したいのかもしれないけど、登場人物で誰一人として前向きな人は出てこないし、いい気分でそのメッセージを受け取った人は皆無に近いと思う。

意図も真意も伝わってこないという、実につらい作品。

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公開年:1975年
公開国:アメリカ
時 間:159分
監 督:ロバート・アルトマン
出 演:ヘンリー・ギブソン、リリー・トムリン、ロニー・ブレイクリー、グウェン・ウェルズ、シェリー・デュヴァル、キーナン・ウィン、バーバラ・ハリス、スコット・グレン、ロバート・ドクィ、エリオット・グールド、ティモシー・ブラウン、デヴィッド・ヘイワード、バート・レムゼン、ドナ・デントン、ジュリー・クリスティ、カレン・ブラック、アレン・ガーフィールド、バーバラ・バクスレー、ネッド・ビーティ、マイケル・マーフィ、ジェフ・ゴールドブラム、クリスティナ・レインズ、ジェラルディン・チャップリン、キース・キャラダイン、デヴィッド・アーキン 他
受 賞:【1975年/第48回アカデミー賞】歌曲賞(キース・キャラダイン[作詞・作曲])
【1975年/第10回全米批評家協会賞】作品賞、助演男優賞(ヘンリー・ギブソン)、助演女優賞(リリー・トムリン)、監督賞(ロバート・アルトマン)
【1975年/第41回NY批評家協会賞】作品賞、助演女優賞(リリー・トムリン)、監督賞(ロバート・アルトマン)
【1975年/第1回LA批評家協会賞】脚本賞(ジョーン・テュークスベリー)
【1975年/第33回ゴールデン・グローブ】歌曲賞(キース・キャラダイン[作詞・作曲]I'm Easy)
【1992年/アメリカ国立フィルム登録簿】新規登録作品
コピー:どこにも『自由』なんか ないけれど ここ(ナッシュビル)に来れば 歌がある! 青春がある! これが映画だ!これがアメリカだ! これが'76年の君だ!

カントリー&ウエスタンのメッカであり、アメリカで最も保守的といわれるテネシー州ナッシュビル。この町で、大統領候補ハル・ウォーカーがキャンペーンを行うことになっていた。そのキャンペーンの模様を取材にきたBBCの女性レポーター・オパールは、イギリスとは異なる雰囲気に大興奮していた。彼女はさっそく、この町の大スターである歌手ヘブン・ハミルトンねの取材を試みるが、あっさり断られてしまう。ヘブンは自己顕示欲の塊のような人間で、清廉潔白な歌手というイメージのために、人前で酒すら飲まぬ男だった。ハル・ウォーカーは、そんな彼を利用しようと密かに画策しており、彼をテネシー州知事に推そうとしていた。そして、キャンペーンを成功させるために、ハル・ウォーカーの腹心であるジョン・トリプレットと弁護士デルバート・リーズが奔走し、人気歌手たちに片っ端から接触するのだったが…というストーリー。

アルトマンといえば群像劇。群像劇といえばアルトマン。
こんな言い方をしちゃぁ何だが、シチュエーションだけが用意されていて、後はキャラが勝手に動くがままにしているような感じで、確固たるストーリーの方向性がない…と感じてしまうほど。あらすじを簡単にまとめられるような内容ではなく、非常に苦労してしまう。
だから、展開を予想するようなことは放棄して、このアメリカ南部の何やら陰湿さと閉塞感が入り混じったような空気の中を漂うように鑑賞するのが正しいのだろう。長い作品なので、ゆっくり身を委ねることができれば愉しめる(私、風呂で半身浴しながら観たけど、さすがに最後までは観られなかった)。

ストーリーのベースはハル・ウォーカー大統領候補のキャンペーンが開催されるまでの5日間。しかし、この大統領候補の政策を流す宣伝カーは登場するが、候補本人が一切登場することがないのがミソ(あくまで設定以上の何者でもないってこと)。
一応、本作の裏に潜んでいるであろうと私が感じるテーマを述べておこう。群像劇なので、たくさんの登場人物が出てくるが、色々な歌手とその取り巻き、政治に関わる人々、そしてマスコミの人々、おおよそこれらに収まると思う。彼らの仕事上の信条の共通点は“自由”。自由の形は異なるのだが、間違いなく自由を標榜する人々なのである。その、それぞれの自由の違いの段差の中に、アメリカの姿が浮き彫りになるに違いない…というのが本作の狙いだと思う。で、ラストは、その“自由の国アメリカ”の大統領を選ぼうというイベントで、“自由への愛”が何をひきおこすのか。

この“自由”というテーマには必ずしもマッチしない場面も多々あって、私のこの観かたが正しいかどうかはわからないけど、まったく方向性を見つけられないと、本作の鑑賞はつらいものになるかもしれない。
決して娯楽作品ではないし、直球のシニカルな作品でもなかった。少なくとも、当時のアメリカ人ではない私たちにはピンとこない作品と感じられても、仕方が無い。

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公開年:2008年
公開国:アメリカ
時 間:109分
監 督:デヴィッド・エアー
出 演:キアヌ・リーヴス、フォレスト・ウィッテカー、ヒュー・ローリー、クリス・エヴァンス、コモン、ザ・ゲーム、マルタ・イガレータ、ナオミ・ハリス、ジェイ・モーア、ジョン・コーベット、アマウリー・ノラスコ、テリー・クルーズ、セドリック・ジ・エンターテイナー、ノエル・グーリーエミー、マイケル・モンクス、クリー・スローン 他
コピー:最期に頼れるのは、魂か、弾丸か。




ロス市警のトム・ラドロー刑事は、自分のやり方を曲げない一匹狼。飲酒して犯罪現場に単独で乗り込み、犯人の射殺も厭わないその強引さ手段に、同僚達からは浮いた存在となっていた。しかし、上司のジャック・ワンダーだけは、そんなトムを評価し、庇護していた。ある日、トムのかつての相棒だったワシントンが、トムを内部調査部に密告しようとしているという噂が耳に入ってくる。腹が立ったトムは、話をつけようとワシントンを尾行するが、立ち寄った店に2人組みの覆面強盗が乱入。たちまち銃撃戦となり、銃弾を全身に浴びたワシントンは死亡してしまう。犯人は逃走した上に、トムは無傷。さらに、その後の調査で、トムの銃から出た弾丸がワシントンに命中していたことが判明。この事件はトムによる計画的な犯行なのではないかと容疑がかけられる。トムは疑惑を晴らすために、独自に調査を始めるのだった…というストーリー。

ロス暴動のあったところだけに、韓国系をクソみそに扱う箇所がいくつか出てくる。白人と黒人の軋轢ももちろん描かれているが、韓国系はゴミ扱いに近い。ここまで直球な作品は、なかなか無いかも。

で、チンピラたちをゴミ扱いして、捜査手順もなんのその、逸脱したなら多少は誤魔化せばいい…てな具合で、強引に悪人退治をしていくキアヌ・リーヴス演じるトム。一見、回りから嫌われてても世直し刑事ならいいじゃん!って思うんだけど、どうも脛に傷を持ってる感じ。かつての妻のことで若干心を病んでおり、勤務中も酒を飲んでいる。正義感なのか単に直情的な人間なのか、キアヌとは不釣合いなイラチなキャラクターなのだ。

そんな彼が、何かの陰謀に巻き込まれ、あやうい立場になっていく。どうもワンダーとその配下は、トムに火の粉がかからないように工作している模様。しかし、いつもはいささか脱法ぎみのトムだが、自分なりの正義のルールを持ってはいる。ワシントンを殺した犯人については捜査せず迷宮入りにしろだとか、ワシントンの妻が不当な扱いを受けていそうだとか、トムが大人しく眺めているわけにはいかない状況になってくる。

(以下、ネタバレあり)
なんとか独自でワシントンを殺した犯人を見つけようと努力し、はじめはトムを止める立場だった若手刑事ディカウントを巻き込んで、核心に迫っていく…と、悪くは無いストーリー展開なのだが、本作にはちょっと致命的な欠点がある。
冒頭で、だれが黒幕なのか、大半の人が気付いてしまうのだ。トムが誰かに利用されている…というシナリオ自体が崩れない限り、黒幕は彼しかありえない。途中、感じの悪い内部調査官が出てくるが、彼が黒幕ということは考えにくい。
#誰かは書かないが…

で、どんどん陰謀の霧が晴れていって、真実が見えてくるのだが、長々ともったいぶって結局、「やっぱりお前じゃん」ってことになる。その黒幕さんが、何でそんな事に手を染めたのか…とかそのクレイジー加減や、内部調査官のミッションとかは、非常にうまく設定してあるだけに、もう少しミスリードさえうまければ、そして黒幕を演じる役者が彼でなければ、もっと違ったのかもしれない。

ちょっとおしい作品。

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公開年:2002年
公開国:ドイツ、アメリカ
時 間:101分
監 督:グレゴール・シュニッツラー
出 演:ティル・シュヴァイガー、マーティン・ファイフェル、ゼバスティアン・ブロンベルク、ナディヤ・ウール、マティアス・マシュケ、ドリス・シュレッツマイヤー、クラウス・レーヴィッチェ 他
コピー:暴発するヤバイ過去。





ベルリンの壁が崩壊する以前の1987年頃に、ベルリンで"レボリューション6”を名乗り、手製の爆弾を仕掛けるなどアナーキーな抵抗運動を繰り広げていた若者たちがいた。しかし、ベルリンの壁崩壊以降は、ティムとホッテの2人を残してバラバラになってしまう。22人はベルリン・クロイツベルグ地区マッハナウ通りにある廃屋で暮らしており、いまでも定職に就くことなく、細々と活動を継続していた。そんなある日、15年前に仕掛けたが不発に終わっていた爆弾が突然爆発し、空き家となっていた豪邸が吹っ飛んでしまう。警察は捜査を進めるが、その過程で6人が犯人であることが証明できるフィルムが警察に押収されてしまった。ティムとホッテは、現在は抵抗運動と全く無縁の生活をしている他の4人に連絡をとり、事情を説明。いまさら抵抗運動などに未練などないが、現在の生活を壊したくない4人は協力することに決めるのだったが…というストーリー。

主役級のティル・シュヴァイガーは、先日観た『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』でも主役を演じていた。この人、格好いいよね。ハリウッドでも売れそうなのに、それほどパッとしてない(ちょこちょこ出ているんだけど)。英語がイマイチなのかしら。

『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』と同じく、音楽のチョイスや使い方が良いと思う。ドイツ映画の好きなところの一つかも。

日本とかスペインの左翼活動家を描くと、どうも血なま臭くなるし、エログロ、内ゲバな話になっちゃって、こんな軽妙なコメディにはなり得ない。年代の差もあるかもしれないし、イツ人の国民性なのかもしれない。穿った見方をすれば、ナチスの悪行はナチスのせいであってドイツ国民のせいじゃございませんと決め込める性質の人たちなので、こういうノリの作品になっても違和感も抵抗感もないのかもしれない。
6人のうちのひとりは、いわゆる“転向組”で、資本主義の手先になったと揶揄されるのだが、それも、日本における転向組とはニュアンスが異なる。日本の場合、団塊よりもちょっと上の企業家なんかが、昔バリバリの左翼思想の持ち主だったりして、生きていてはずかしくないのか?と思うくらい洒落にならない転向ぶりで、コメディになんかできないレベルなのだが、本作の彼は、ただ金銭欲や支配欲求のままに生きてる人間らしい人間として描かれている。
まあ、いずれにせよ、若い人たちは、そういうノリが鼻につくことはないだろうから、気にしないのが良策だろう。

閑話休題。ホッテはかつて自分で仕掛けた爆弾で足をふっ飛ばしちゃって車椅子生活。ティムにすっかり依存しちゃってる。だから活動を継続しているってよりは自暴自棄になってダラダラと生活しているだけだったりする。やめた4人も、夫に逃げられた母親、薬中、金持ち狙いの高飛車女、すっかり資本主義に転向してリッチになった男と、もうかつての姿は見る影もない。だからかつての気持ちのまま生きているのはティムだけ。

それぞれの“今”を守りたいという一身で協力するんだけど、やっぱり昔を思い出してワクワクしちゃう彼ら。もう部活のノリ。でも、やっぱり現在の所得格差とか、子供がいるいないで価値観が違ったりして、端々でギクシャクしちゃう。おまけに、昔は恋愛関係で、いずれ結婚するんじゃないのか?なんて思われていた二人がいたりして、そこはそこで年甲斐もなく青春展開になったりする(青春展開になっちゃうのは、ティム側だけなんだけどね。いかつい彼の純情な感じがかわいいんだわ)。

とても無理っぽい作戦をどう遂行するか…が見所。その中で出てくる老刑事がいい味を出してくれるのだが、もっと早めに彼らに協力的なポジションに転化させればよかったかな…と思う。
終盤の展開はもうちょっとどうにかできそうなのにな…という思いことあるが、小気味よい爽やかな仕上がりだと思う。まさに小品良作。軽くお薦めしちゃう。

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プロフィール
HN:
クボタカユキ
性別:
男性
趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
自己紹介:
一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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