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image0026.png公開年:2001年
公開国:アメリカ
時 間:131分
監 督:スコット・ヒックス
出 演: アンソニー・ホプキンス、アントン・イェルチン、ホープ・デイビス、ミカ・ブーレム、デビッド・モース、アラン・テュディック、トム・バウアー、セリア・ウェストン、アダム・ルフェーヴル、ウィル・ロスハー、ティミー・リーフスネイダー、ディアドル・オコネル、テリー・ビーヴァー 他
コピー:世界でほんのわずかな人しか持っていない[こころの力」をその人は持っていた。
 不思議な力がむすびつけた ひとりの男と少年の こころの奇跡の物語。


50歳の写真家ボビー・フィールドのもとに、幼なじみの訃報が届く。久しぶりに故郷に戻ったボビーは、11歳の夏の出来事を思い出す。1960年の夏、父を幼い頃に亡くしていたボビーは、まだ若い母リズと田舎町で暮らしていた。リズは自分の洋服などにはお金を使うものの、息子の為にお金を使うことのない母親だった。ある日、空いている家の二階に、テッドという老人が下宿することになった。テッドは知的で物静かな人物だったが、目が悪くなった彼は、ボビーに新聞を毎日読む度に1ドルをあげるという仕事を与える。そして、もし町でいつもと様子の違うことを見つけたら、すぐに教えるように言いつけるのだった。父のいないボビーは、そんなテッドに親しみを感じていくが、ある時、テッドが人の心を読む能力の持ち主であることを知り…というストーリー。

スティーヴン・キング原作。幼い頃を思い出す形式のグローイングアップムービーとしては『スタンド・バイ・ミー』が有名だが、個人的には本作のほうが好きだったりする。キングお得意の“超能力”設定が混ざっているのも良い。ジャケット画像が、アンソニー・ホプキンスのどアップなんで、こんな爽やかなお話だと思ってない人も多いだろうね。

はっきりいって状況的には全てバッドエンドだといっていいのだが、そのバッドエンドの先にあるほろ苦さが、他作にはない味わいになっている。
(以下、少しネタバレ)

善戦むなしくテッドは連行されてしまう。その時ボビーに「君のことは何があっても忘れない」といい、孫と子のように年齢が離れている二人の友情が素敵。手を合わせたときに、再び能力が移ってしまって…みたいな『グリーンマイル』的な展開かと思ったが、そうじゃなかったのも良いさじ加減。
キャロルが年長の男の子から殴られてしまうのだが、彼女を背負って森を抜けるボビーを純粋に応援して観ることができた。サリーの葬儀だったんだけど、キャロルも実は死んでいることを知ってショックを受けるテッド。その後の彼女の娘との出会いもなんともほろ苦い。その後、娘となにか付き合いが続くとも思えないが、自分と出会わなくても、特別に幸せとは言えなそうだがそれなりの人生だったことを知って、ボビーは何となく納得できたのかもしれない。そして、もしかするとテッドは、そんな将来まで予測していたのかな…と。

テッドとはその後も一度も出会うことなく、リズがいい母親になったかどうかもわからない。なんでボビーがキャロルに一度も手紙書かなかったのか、はっきりと明かされない。この辺りが踏み込みが足りないというかメリハリがないと感じる人も多いかもしれない。でも、私は好き。お薦め。

 

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image0035.png公開年:2002年
公開国:アメリカ
時 間:125分
監 督:アレクサンダー・ペイン
出 演:ジャック・ニコルソン、キャシー・ベイツ、ダーモット・マロニー、ホープ・デイヴィス、ハワード・ヘッセマン、ダーモット・マルロニー、レン・キャリオー、ハリー・グローナー、ジューン・スキッブ、コニー・レイ 他
受 賞:【2002年/第28回LA批評家協会賞】作品賞、男優賞(ジャック・ニコルソン)、脚本賞(アレクサンダー・ペイン、ジム・テイラー)
 【2002年/第60回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](ジャック・ニコルソン)、脚本賞(ジム・テイラー、アレクサンダー・ペイン)
 【2002年/第8回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(ジャック・ニコルソン)
コピー:すべての人生を失くした日、人生最高の贈りものが届いた。

アメリカ中西部オマハに住む66歳のウォーレン・シュミット。彼は一流の保険会社に長年勤務していたが、この度、定年退職を迎えた。娘のジーニーは既に独り立ちして家を出ており、これからはおしどり夫婦として寄り添って生きてきた妻ヘレンとの生活。妻の望みでキャンピングカーも購入し、楽しい老後を過ごす予定だったが、どうも会社中心の生活リズムが抜けず、しっくりこない。そんな中、チャリティ団体のCMで、異国の恵まれない子供に援助する制度を知る。CMの内容に触発されて援助をすることを決心し、さっそく手続きに。手続きの一つとして援助する少年への手紙を書く必要があったが、自分の近況を綴っていくうちに、だんだんと、鼻に付く妻の行動、ダメ男と結婚しようとする娘、辞めた会社の奴らの態度など周囲への怒りがこみ上げてくるのだった。そんな中、ヘレンが急死してしまい…というストーリー。

定年退職した、いわば爺さんが主人公なのだが、30代でも40代でも家族持ちで会社勤めをしている男性なら、間違いなく共感できるだろう。言い換えれば、この作品が心に響くのは、おっさんだけ。女性にはピンとこないのではないかと思う。

冒頭、定年になったシュミットが会社を訪ねて、引継ぎ忘れた項目の説明や、援助できることはないか?と尋ねるがサラリとかわされ、おまけに自分が作成した引継ぎは廃棄されていることを知る。唯一の希望だった“優秀な娘”は、なぜか誰がどうみても胡散臭い男と結婚しようとしている。なんで、あの賢い娘が!?

自分は、会社に必要とされている“はず”。娘は思慮深く賢い“はず”。妻は貞淑な“はず”。信じていた…目論見が外れた…とかそういうレベルではなく、シュミットはこれまでそう思わなければ生きていけなかったわけだ。それどころかまるで自己催眠でも賭けたかのように、そう信じて微塵も疑わずに生きてきた。
#娘がIT企業の重要な役職とシュミットは思っていたが、電話の内容でタダの配送係であることは明白。これまでも気づくチャンスはいくらでもあったはずなのに、無意識に目も耳も塞いできたのだ。

定年を迎え、妻が死に、その自己催眠がどんどん解けて行く。妻の浮気が発覚してブチ切れ。じゃあ、娘の援助に労力を傾けようとしても、あの馬鹿家族と同レベルであることに否が応でも気づかされる。
尽くしていると思って生きてきたのに、感謝をされるどころか、卑下される始末。私は、正直、あの娘の首を捻りちぎってやりたい衝動に駆られた。

自分探しの旅に“逃げる”のだが、元々自分なんか無いんだから、見つからないわなぁ。キャンピングカーの屋根で一晩過ごし、悟ったように車を走らせるシュミットだったが、実はなにが判ったのかよくわからない(観客の判断に任せるということなのかな)。とにかく価値観の瓦解した彼の老後に明るいものなどは感じられない。

アフリカの子供の件は、じつは騙されていて(というか、その子に支援しているという建前になっていて)、届きもしない子供への手紙に、自分の思いを吐露しているだけ…というオチになると予測していた。暗い未来にさらに追い討ちかな…と思っていたが、最後の最後でうまく救いを差し込めている。
小さくてもいいから、純粋に気持ちを傾けられるものこそ、彼には必要だった。いままで、無償で家族に尽くしてきたと思っていたが、心の奥底では見返りを求めていた。それは賞賛であったり感謝の声だったり。でも、彼に本当に必要だったのは、お互いを慮るある意味一方通行の気持ち。そのボールが帰ってくるかどうか判らないけど、それでよい。小さな救いだからこそ、ストーリー上、うまく効いていると思う。

ストーリー全体はとても単調だし、よくある話だと思うが、コツコツとボディブローされる感じ。また、奇人じゃないジャック・ニコルソンの演技も、味があった。良作。『アダプテーション』と同年作品って考えれば、受賞暦だってなかなかだよ。

 
 

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image2078.png公開年:1982年
公開国:西ドイツ
時 間:157分
監 督:ヴェルナー・ヘルツォーク
出 演:クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレ、ホセ・レーゴイ、ポール・ヒッチャー 他
受 賞:【1982年/第35回カンヌ国際映画祭】監督賞(ヴェルナー・ヘルツォーク)






19世紀末の南米ペルー。オペラ好きのブライアン・スウィーニー・フィッツジェラルドは、自分のオペラ・ハウスを建設し公演することが夢。インディオたちには発音が難しく、彼は“フィツカラルド”と呼ばれている。かつて鉄道の敷設を試み失敗し破産。今は製氷業をやっているが、さほど儲かっておらず、オペラ・ハウス建設などほど遠かった。ゴムの生産で儲けた成金たちに資金援助を頼むが、まったく相手にされない。そこで、自分もゴムの生産を行うしかないと考えた彼は、手付かずのジャングルにゴム園を作ろうと考える。愛人で娼館の主人であるモリーの援助で、土地と中古船を購入。フィツカラルドは、パウル船長、料理人ウェレケケ、機関士チョロらを雇い出航。パテリア川を上流に遡っていくのだったが…というストーリー。

オペラ好きはわかる。でも、なんで自分の劇場を建てなければいけないのか。見に行くだけでは不満なのか?自分の劇団を常駐させるのは建設よりも多額の資金が必要だ。さらに、なんで山奥に劇場と立てようとするのだ?下流の劇場までいくのは大変だからか?大体にして客がこないぞ。完全に自分が観るためだけに建てるつもりか?

ものすごい情熱と実行力はわかるのだが、ゴールがぼやけているまま、突き進むという異様さ。とにかく金を稼がなければ始まらないということで、新たなゴム園が儲かることを証明しなくてはいけない。でもとても間に合わないということで、二つの河の間にある山を越えてショートカットさせようという話になる。常に情熱を傾ける方向性があさってなのに、馬力だけはものすごい。狂気…には違いないのだが、明らかな狂気とも言いがたく、その境界的な感じが、かえって異様さを際立たせる。
とにかく、この作品が何を観せたいのかわからなくなるのは、必至である。では、訳のわからないお話がいけないのか?というとそんなことはないのだが、ちょっと長すぎなんだよね。この作品。

(以下、ネタバレ)
原住民に襲われそうになるが、懐柔して人足として手なずけ、とてつもない努力と犠牲の末、大きな船の山越えを成し遂げる。もう、オペラハウス建設なんかどうでもいい展開に。
結局は失敗して、なんじゃこの話…と思いきや、最後、オペラの劇団を余った金で呼び寄せて、河上オペラを開催し、流域の人々を喜ばせる。当の彼もさぞや喜んでいると思いきや、神妙な顔つき。この顔つきのせいで、ますまに何が表現したかったのかわからない。
もしかして、あんな無駄な努力なんかせんでもこれで良かったんじゃないのか?と…ここまでやってやっと気付いた表情だとしたら、シュールすぎる。

こんなクレイジーな話なのに、それを支えている、大自然の映像や、急流に揉まれる船の映像は迫力満点だという、このバランスがすごい。船の山越えも実際にやって撮影したんだと思う。奇作だな。

 

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image2093.png公開年:2012年
公開国:アメリカ
時 間:94分
監 督:マーシャル・レウィ
出 演:ロバート・カーライル、アレクシア・ラスムッセン、キャスリーン・ウィルホイト、A・マルティネス、ダニー・マスターソン、マイケル・デ・バレス、ブラッド・グリーンクイスト、ロバート・チッチーニ、サヴァンナ・ラーセム、イーライ・ヴァーガス 他



ロサンゼルス郊外で暮らすラクランは、永住権を持つスコットランド人。かつてイギリスの人気バンド“CRANKS”のギタリストとして活動していた彼だが、現在は、農場労働者として勤務し、穏やか生活と送っている。音楽の世界と繋がっていたいためなのか、夜は往年のバンドを紹介するポッドキャスト番組を作り、自らDJをやっている。ある夜、バーで酒を飲んで帰宅する途中、飲酒運転で捕まってしまう。取調べが進むと、かつて大麻所持での逮捕歴があることが発覚。保釈金も弁護士費用も満足に払えない彼は、このままでは強制送還される可能性が高いという。追い込まれるラクランだったが、彼にはどうしうもスコットランドに帰れない理由があった…というストーリー。

邦題の“セカンド・カミング”の意味は最後まで観てもまったくわからなかった。

かつてはそこそこ有名なUKバンドのメンバーだったが、今では農場で働く人。夜にネット配信の音楽番組を製作しているけど、単なる自己満足。このブログと同じく、別に多くの人たちが観てくれるから作っているわけでもない。その番組の中でも、自分がかつてそこそこ有名なバンドの一員であったことを明かすことはない。無許可で曲を流して文句を言われないレベル。かつての派手な生活が忘れられないくて、音楽に関わっているわけではなさそう。

なんなんだろうな…?と思っていると、飲酒運転で逮捕され、あれよあれよという間に、ヤバい状況に。でも自業自得なので、かわいそうだとかそういう感情は湧かない。なけなしの金で弁護士を雇うも、状況はよくならない。
必死であがくのか…と思いきや、気なっていた女性にうつつを抜かす。お世話になっている農場の仕事は手を抜く(この農場主がなかなかの人格者)。時間が経てば経つほど、主人公への共感がうすれていく。だらだらとアメリカにいたのだから、マジメに働いて国籍の取得でもすりゃよかったのに…とまで思うくらい。

そんな生活のくせに、アメリカで娘もつくって離婚している模様。強制執行になりそうになるまで、その娘の顔を見に行くこともなかった模様。そんな元妻と娘に、強制送還されないように証言してもらおうとか、都合よすぎ。
どうやらうまくいかないと悟った彼が、ポッドキャスト放送で、なんで帰りたくないのか、吐露する。ああ、そういうことね…とは思うけど、やっぱり自業自得。
その後、ブチ切れて、再度飲酒運転を犯す。もう、強制送還は決定的。その後、手を差し伸べられても時すでに遅し。

最後はすっかり諦めた彼が、観念した表情に。観念というか、これまでどうしても避けていたものと向き合おうと覚悟した表情。だけど、観ている側からすると「だから、なんだ…」と。それが感想のすべて。

 

 

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image2052.png公開年:2007年
公開国:イギリス
時 間:118分
監 督:マイク・リー
出 演:サリー・ホーキンス、エディ・マーサン、エリオット・コーワン、シルヴェストラ・ル・トゥーゼル、スタンリー・タウンゼント、アンドレア・ライズブロー、サラ・ナイルズ 他
受 賞:【2008年/第58回ベルリン国際映画祭】銀熊賞[女優賞](サリー・ホーキンス)
 【2008年/第43回全米批評家協会賞】主演女優賞(サリー・ホーキンス)、助演男優賞(エディ・マーサン)、監督賞(マイク・リー)、脚本賞(マイク・リー)
 【2008年/第75回NY批評家協会賞】女優賞(サリー・ホーキンス)、監督賞(マイク・リー)
 【2008年/第34回LA批評家協会賞】女優賞(サリー・ホーキンス)、脚本賞(マイク・リー)
 【2008年/第66回ゴールデン・グローブ】 女優賞[コメディ/ミュージカル](サリー・ホーキンス)

30歳のポピーは、明るく楽天的な独身女性。小学校で低学年向けの教員をしている。昔から親友のゾエとアパートをシェアして暮らしており、二人の妹の片方とは仲がいいいが、もう一人としてはそれほどでもない。自転車を盗まれた彼女は、それをきっかけに自動車の免許をとることを思いつく。プライベートではそれだけでなく、フラメンコを習ったり、トランポリン教室に通ったり、人生を楽しんでいる。好奇心旺盛な彼女は、夜道で出会ったホームレスの話を聞いたりもする。そんな奔放な彼女だったが、運転のインストラクターと性格が合わず口論になったり、学校で生徒のいじめがおこるなど、小さなトラブルが彼女に降りかかり…というストーリー。

日本では東京国際映画祭とかで公開されただけで、単館上映もされてない模様。たくさん受賞しているのになんで?と思うだろうが、私はこれを公開して客が入るとは思えず、本作に関しては、日本の配給会社の判断が正しいと感じる。マイク・リー監督の『ヴェラ・ドレイク』の後の作品で、ちょっと期待していんだけどな…。

イギリス映画だが、フランス映画的なノリで始まる。冒頭はイギリス版『アメリ』みたいな感じなのかな…と思って観ていた。たしかに、ストーリー的に何も大きな事件がおきなくて、小さな変化とそれにまつわる人の心の変化みたいなものを観る作品ではある。

でも、主人公のキャラクターに、ものすごい違和感を感じる。基本的に躁状態で、思ったことをすべて口に出すかのように、聞かれもしないことをペラペラと話し続ける。初対面の店員にもベラベラ。同僚にもベラベラ。沈黙が怖くて仕方が無いのか、相手に何かを考えさせることがイヤなのか、とにかくベラベラ。それも、キンキンと大声で。あまりにも強烈すぎて、軽く引くレベル。
車の免許を取ろうとしたり、フラメンコ教室に通ったり、トランポリンを始めたり、興味が湧いたことは何でもやってみようという人なのかもしれないが、しっかり取り組んでいるのならまだしも、それらの現場でもケタケタ、ニヤニヤと、ふざけっぱなし。
これが繰り返されるので、途中から周囲を馬鹿にしているんじゃないかと思えてきて、不快にすらなってくる。

で、その躁病患者モドキが、なんと小学校の教師だという。子供に対してもそんな調子なのか?と思ったら、教師として勤務しているときはいたって普通。なんでや。明らかに表面的な違いがあるので、その両天秤には支点があるはずで、その支点の部分こそ彼女の行動を決定している真の何かなんだろうと注視していた。しかし、最後までそれはわからなかった。

自動車教官のおっさんはブチ切れつつも、彼女に惹かれていった(んだと思う)。これが可愛げのあるおっさんなら、共感して応援したくなるのだが、この人の感情の表出の仕方も異常で、何が何やら。おまけにストーカーまがいの行動をとり始める始末。
さらに混乱状態にさせるのが、ポピーが自動車教官に自分はレズビアンであると言ったこと。あれはなんだったのか。実際にレズビアンだという明確な描写はない。あれだけベラベラしゃべるくせにウソを作り理由はなんだ?好意があるような気がしたからブロックした?そんな勘の良さがあるように見えない。

もしかすると、彼女の生き方を現代女性の自由の体現とでも言いたいのだろうか。途中で、妊婦の友人がヒステリー状態になって、周囲に噛み付くシーンがある。そんな、子供を作ったり家族を持ったり、そんな価値観に縛られるなんてみっともないことを言っているのだろうか。
私には、ポピーという人間が、うらやましい生き方をしているとは微塵も思えないし、楽しそうだとも思えない。いや、本人も苦しいことはわかっているけど、そうせざるを得ない…、そうせざるを得ない自分を素直に受け止めているんだ…と。仮にそういうことが言いたいなら、彼女の苦しさの根源(上記した“支点”みたいなもの)にもっとフォーカスを当てるべきではなかろうか。
何が、西洋人の琴線にそこまで触れたのか。すごく不思議。むしろ、日本人には、空気の読めない人、コミュニケーションに難のある人にしか見えない。
これは、文化比較論の教材にしたいくらい、謎作品。
#何を言いたいのかわからん内容を、それなりにまとめりゃ、ヨーロッパじゃ賞が獲れるんかね。

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image2099.png公開年:1989年
公開国:アメリカ
時 間:86分
監 督:ジョー・ピトカ
出 演:リチャード・ドレイファス、テリー・ガー、デヴィッド・ヨハンセン、アレン・ガーフィールド、ジェニファー・ティリー、ロビー・コルトレーン、リチャード・ディミトリ、リチャード・エドソン、トニー・ロンゴ、ミシェル・フィリップス、シンシア・ニクソン、ジョン・ローゼリアス、デヴィッド・シャラム、ラルフ・シーモア、メアリー・ウォロノフ、ジョセフ・ウォルシュ 他
コピー:みがけ直感!目ざせ一発!!

タクシー運転手トロッターは、あまりの競馬狂いのせいで夫婦中が最悪に。次に賭け事をしたら離婚だといわれるまでに。しかし、客の会話を盗聴するのが趣味の同僚ドライバー・ルーにーから、とある客が土曜日のレースで、“チャリティー”という名前の馬が1着になると話していたことを聞いて、競馬場へ。トロッターは、チャリティーに50ドル賭けるが、そんなガセネタかもしれない情報に乗っかる彼を、ギャンブル仲間は嘲笑する。しかし、見事チャリティーは一着になって700ドルの儲けに。トロッターは律儀に、チャリティーの調教師にお礼をいいに行き、馬鹿正直に盗聴テープも渡してしまうと、今度は第3レースの勝ち馬を教えてくれた。トロッターは素直に、設けた700ドルをすべて賭けるのだったが、果たしてその情報は真実なのか…というストーリー。

別に教訓めいたものがあるわけではなく、ギャンブル凶の男が、「なんか俺、今日ツイてるかも!」と、ドキドキしながら馬券を買う一日を描いた作品。
ギャンブルに対しては冷めた感情しかない私は、それがどうした…と。周囲に競馬好きな人間がいたのでよく判るが、自分の誕生日のゴロあわせで馬券かったり、その時におこった出来事に番号を絡めてみたりとかする。でも、それ、何が面白いのか…。
唯一おもしろかったのは、運に見放されたような人間に、次に買う馬券を聞いて廻って、それ以外を買うっていうところだが、別にギャンブラーの愚かさを揶揄している感じではない。

古い作品なのでネタバレしてもいいと思うが、一切、破滅することなく、ハラハラさせるだけで終了する。大抵は、調子に乗った主人公が最後に大負けしてしまい、お金なんかよりも大切なものが人生にはある…なんていう人生訓的な終わり方をするものだが、それが一切ない。競馬場の客みんなが、夢というか勇気をもって全賭けした男を称えておしまい。

ギャンブルにハマる人は、自分の金が一瞬で消失するか大儲けするか!という運命を他者に委ねるピンチ状態で生じるアドレナリンの虜になっているだけ。要するに彼らはジャンキーである。ギャンブル好きの人は気分を害するかもしれないが、世間様にばれるかもしれない…と思いながらも快感を忘れることができず、借金してまで覚せい剤を打ち続ける人と、大差はないように私には思える。で、競馬場にいる人たちが全員それだとおもったら、気色悪く感じる(ジョッキークラブのいる人たちが、大当たりしたトロッターに罵声を浴びせるシーンは、アドレナリンを出し損ねた不満をぶつけているだけの、吐き気のするシーンだ)。
人間なんて所詮は快感原則に従って行動する生き物だ…といわれればその通りなのだが、程度というものがある。

まあ、色々、文句は言ったが、特筆すべき点こそないが、普通に楽しめるコメディであることは認める。
これが、ギャンブル好きな人は評価する作品。自分の結婚相手に、結婚する前に観せて反応を確かめるリトマス試験紙的な作品かもしれない。ギャンブルに狂いそうな伴侶は御免だ!っていう人は、是非使ってみるといい。

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image2086.png公開年:2008年
公開国:フランス
時 間:128分
監 督:ローラン・カンテ
出 演:フランソワ・ベゴドー、ナシム・アムラブ、ローラ・バケラー、シェリフ・ブナイジャ・ラシャディ、ジュリエット・デマーヌ、ダラ・ドゥコゥール、アルチュール・フォジェル、ダミアン・ゴメズ、ルイーズ・グランベール、ジャン=ミシェール・シモネ、アンヌ・ラングロワ、ジュリー・アテノール、チーフェイ・ホァン、ウェイ・ホァン、フランク・ケイタ、アンリエット・カサルアンダ、リュシー・ランドロヴィー、アガム・マレンボ・エメネ、ラバ・ナイト・ウフェラ、カルル・ナノール、エスメラルダ・ウェルタニ、ビュラク・オジルマズ、エヴァ・パラディゾ、ラシェル・レグリエ、アンジェリカ・サンシオ、サマンタ・スピロ、ブバカール・トゥレ、ジュスティーヌ・ウー 他
受 賞:【2008年/第61回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ローラン・カンテ)
【2008年/第24回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞(ローラン・カンテ)
【2008年/第34回セザール賞】脚色賞(ロバン・カンピヨ、フランソワ・ベゴドー、ローラン・カンテ)
コピー:笑って、怒って、ぶつかって生きる。教師フランソワと24人の生徒達。

移民が多く暮らすパリの下町20区。そこにある公立中学校に勤務する国語教師のフランソワは、性格な言語を理解させることこそ、子供たちの将来に重要であるという信念を持っている。新学期を向かえた彼が担任をするクラスは、様々な出身国を持つ24人の生徒が入り混じっていたが、始業のベルが始まっても、彼らは一向に席に着こうとしない。去年は素直だったクンパは反抗的な態度を取り教科書の朗読すら拒否、他の生徒も荒れた言葉遣いで次々とフランソワに反抗する。そんな中、フランソワは、生徒に自己紹介文を書かせるという課題を出すのだが、それが大きなトラブルを産むことになり…というストーリー。

フランスの教育制度は良くわからないが、日本の教師とは様子が違って、市民講座の講師みたいな印象。生徒もとても13歳、14歳には見えないし、話す内容も子供らしくない。日本だと、教師が手を出せないのを判っていて「殴ると先生クビになるんでしょ?」っていうノリだろうか、フランスの生徒はいちいち人種差別問題を持ち出すという、このわずらわしさよ。

はっきりいって、移民政策の失敗のツケが末端の教育現場に押し付けられているだけといってよい。その点に関して同情したいところなのだが、何故か知らないが教師たちはそこについて不満を言いはしない。言っても仕方がないということなのかもしれないが、フランス教師の頭の中は、コスモポリタン志向みたいのがあって、他民族であることこそ理想と思っている節がある。
しかし、生徒の中には、出身国がアフリカであってもフランス人として生きる覚悟が出来ている者もいるが、ほとんどが出身国のアイデンティティを前面に出す者ばかり。諭そうとしても、所詮は子供。親の考え方もあるだろうし、意見を押し付けるようなことはできず、及び腰というかアンタッチャブルな印象。
そういう様子を観ていると、もう移民政策の失敗なんか描かれても知ったこっちゃねえって気持ちになってくるので、鋭い視点だなんて微塵も思えない。自作自演みたいなものじゃないか。

作為的なストーリーは少なくて、現実の教育現場を冷静に描いており、ドキュメンタリー的な感じに仕上がっている。ただ、生徒の評価や処罰をする現場に生徒代表を参加させるとか、退学させるか否かを教師と他の保護者代表で投票で決めるとか、なんか民主主義の地平が違う気がする。でも、決してフランスの方が進んでいるとは思えないんだな、これが。

この手の作品で、校長が悪者になるパターンが多い。本作の校長も、キャラクター的には極めて事務的で感情が薄く嫌われ者になりそうな感じなのだが、このカオス状態の学校において、極めて冷静に正しい判断を淡々を下す、唯一まともな人間として描かれる。でも人望があるわけではない。この校長こそ、フランスの教育界を象徴しているように見える。

教室で巻き起こる色々な問題は、悪くいえばウヤムヤに解決していく。いや、解決などしていなくて、生徒たちがおかしな行動ととるのは、ホルモンバランスの異常で、それが過ぎてしまったら、おとなしくなるものだよ…といわんばかりの演出。

教育教材としては良いな…とは思うが、これの何がパルム・ドールに値するのか?よくわからん。

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image2090.png公開年:2011年
公開国:ロシア
時 間:141分
監 督:アレクサンドル・ソクーロフ
出 演:ヨハネス・ツァイラー、アントン・アダシンスキー、イゾルダ・ディシャウク、ゲオルク・フリードリヒ、ハンナ・シグラ 他
受 賞:【2011年/第68回ヴェネチア国際映画祭】金獅子賞(アレクサンドル・ソクーロフ)
コピー:人生は壮大なミステリー


 

19世紀初頭。神秘的な森に囲まれたドイツの町。学者のファウストは、魂の存在を突き止めるために、死体の解剖を繰り返すなど、研究に邁進していた。しかし、とうとう研究費が底をついてしまう。金の無心のために、ファウストは父の診療所を訪れるが、満足に代金を払えないような貧しい患者に対しても診察を行う父が、金を持っているはずもなく、追い出されてしまう。途方に暮れるファウストが町を彷徨っていると、人々から“悪魔”と称される高利貸マウリツィウスの家に辿り着く。ファウストは指輪を担保に金を借りようとするが断られてしまう。しかし、マウリツィウスは別の形では力になるという謎の言葉を残す。ファウストが帰宅すると、なぜか正装したマウリツィウスが現れ、部屋にあった毒を飲み干してしまう。しかし彼は死なない。その不思議な現象に興味を抱いたファウストは、彼について町へ繰り出していく…というストーリー。

元々、とても二時間そこそこでまとめられるような長さの原作ではないし、本作の冒頭で“原作を自由に翻案”としているように、相当なアレンジを加えている。
#まあ、私、手塚マンガの『ファウスト』くらいしか良く知らないんだけどね。

悪魔メフィスト役は、マウリツィウスという高利貸しの姿で登場する。悪魔の風貌ではなくあくまで人として存在。不思議な行動や容姿なのだが、それでもかろうじて人間の範疇に見える。ファウストに彼が悪魔であることをはっきりと認識させていないところが、一番の翻案かな…と思ったが、壁からワインを出したり、異世界へ放り込んだり、やっぱり悪魔だった。私は、最初から最後まで、人間か悪魔か判然とさせない演出を貫いてほしかった(異世界の描写も薬物によるトリップだという解釈もできる…という余地を残すべきだったと思う)。

結局はファウスト第一部の流れ通りに、若い娘に恋して、学者としての探求心なんぞそっちのけになってしまう姿が描かれる(兄を殺す順番が原作とは異なる)。哲学や天文学などという小難しい事柄なんて、結局は実際の世界において役になんか立たないということなのだが、これは、人間の知性=神の業、本能=悪魔、という構図になっている。

ただ、娘は投獄されているという大事な流れも、さらっとセリフで出てくるだけだし、第二部に出てくるホムンクルスをまったく無意味に登場させたりと、後半の演出は締りが無いといわざるを得ない。そして、実際にものすごく眠くなる。

もしかすると原作の『ファウスト』に造詣の深い人ならば、ここまでエッセンスを抽出してよくぞまとめたと激賞するのかもしれないが、私には、ヴェネチアが金獅子賞を与えるほどのレベルとは到底思えない。4:3映像でレトロ感じを出しために角を丸くした画像など、田舎臭い演出だと思う(中の画像がパキパキに綺麗なんだし)。

#ダサいコピー…

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image2059.png公開年:1993年
公開国:イギリス、フランス
時 間:141分
監 督:ベルナルド・ベルトルッチ
出 演:アレックス・ヴィーゼンダンガー、キアヌ・リーヴス、ブリジット・フォンダ、クリス・アイザック、イン・ルオチェン、ラジュ・ラル、グラシュマ・マカール・シングー 他
ノミネート:【1994年/第15回ラジー賞】ワースト新人賞(クリス・アイザック)



シアトルに住む9歳のジェシー・コンラッドは、父ディーンと母リサとの三人暮らし。ある日、数人のラマ僧が訪れる。その一人ラマ・ノルブは、ブッダの魂を受け継ぐと言われた尊師ラマ・ドルジェが9年前に死んだこと、そしてジェシーがその生まれ変わりの可能性があることを告げる。荒唐無稽な話だと思いつつも、リサは息子にノルブから贈られたシッダールタ王子の物語を読んで聞かせる。その後ノルブは、ジェシーが他の2人の候補者と共にラマ・ドルジェの生まれ変わりか否かの試験を受けるために、ブータンに赴かねばならないと両親に説明する。はじめは拒否する両親だったが、運命はジェシーをブータンへと呼び寄せ、父と共に未知のチベットに向かうことになる…というストーリー。

チベット仏教ということで、上座部仏教のお話ばかりかと思ったがそんなことはなく、大乗でも上座部でも共通の仏教概念や、共通で伝えられているシッダルダの逸話が描かれている。それこそ、手塚治虫の『ブッダ』で語られている、シッダルダーの生涯のそれが、キアヌ・リーヴスによって演じられている。
それと、欧米人にとっても我々日本人にとっても縁の薄いチベット仏教の儀式が、交互に描かれる構成である。

この作品は、ある程度、仏教に造詣がないとわからないし、ちょっと年齢を重ねないとピンとこない部分が多い作品。実は劇場で観ているのだが、当時は「なんじゃこりゃ。つまんね。」状態だった。でも、今観ると、それなりに味わいがある。

仏陀とはシッダルダのことではなく、悟りを開いた人のことを指す。仏性に目覚めた人、つまり仏陀になった人は、輪廻転生の輪から外れて、二度と生まれてくることはない。だから、尊師ラマ・ドルジェがブッダの魂を受け継ぐっていっても、生まれ変わりではなく、精神を受け継ぐとかそういう意味でないとおかしい。

アメリカにて、ノルブ僧が、ジェシーの父にあることを説く。お茶の入ったカップを割って、カップは割れてしまってカップじゃなくなっても、お茶はお茶だと。彼はこれで肉体と魂の関係を理解させ、ひいては輪廻転生を説明したいらしいが、これはあまりにもかんがえが浅いといわざるを得ない。
ソフトウェアとハードウェアのことを突き詰めて考えれば、その理屈は成立しない。たとえば、マッチ棒で“A”の字形をつくったとしよう。私はあなたに“A”を持ってきてという。するとあなたは“A”の形を崩さずにマッチ棒をもってくる。でも私は「マッチはいらない、“A”を持って来て」という。さてあなたはどうするか。別の何かで“A”を形作っても同じこと。何かを媒体にしないと“A”を持ってくることはできない。でも、マッチを崩して持ってきても持ってきた物の重さは変わらないのに“A”を持ってきたことにならない。実体はなくても“A”は紛れも無くそこにある。逆の言い方をすれば、“A”の存在においてAとマッチ棒は不可分なのだ。
つまり、ソフトウェアとハードウェアは別々の物と考えられがちだが、一体。ひいては、魂と肉体は別けようがないものなのだ。これは、プラトンのイデアの概念と同じである。

でも、それって輪廻転生の考えと矛盾しないか?そう、単に霊魂が肉体を離れて転生するのだ…という解釈では矛盾する。本当の輪廻転生とはもっと高次の思考だということ(ここで説明してるとキリがないのでやめるけど)。作中のノルブ僧の説明ではギリシア哲学にも及ばないということで、父親が腑に落ちないのもあたりまえである。
まあ、形而上的な解釈が面倒な人は、輪廻転生を信じたほうが、神義論的にも納得できて前向きな生き方ができる場合が多い、つまり方便だという解釈でもいいと思う。

(閑話休題)
生まれ変わりを見つけて、次の指導者にするという考え方自体が、ものすごいクレイジーに映るかもしれないが、実は合理的。どんなに次の指導者になる資格条件を定めたとしても、絶対に争いは起こる。仏性というのはどの人間にもその芽はあるので、極論からいえば誰でも僧侶の長になる資格はある。それなら、生まれ代わりという否定しようのない条件で“子供の段階で”決めてしまって、あとは育てればいいのである。絶対に揉め事はおこらない。

で、3人合格したのに、ジェシーと女の子はなんで普通に家に帰ってるわけ?特に説明されないので、いまいちわからん。外人と女性は体よく除いただけに見えちゃうのが、なんか気持ち悪い。
#坂本龍一の音楽は、あまり坂本龍一っぽさが前面に出ていなくて、このくらいがちょうどいい。

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image2087.png公開年:1989年
公開国:イギリス、フランス
時 間:124分
監 督:ピーター・グリーナウェイ
出 演:リシャール・ボーランジェ、マイケル・ガンボン、ヘレン・ミレン、アラン・ハワード、ティム・ロス、シアラン・ハインズ、ゲイリー・オルセン 他
ノミネート:【1990年/第6回インディペンデント・スピリット賞】 外国映画賞(ピーター・グリーナウェイ)
コピー:欲望を召し上がれ。



大泥棒のアルバートは、レストラン"ル・オランデ"のオーナー。豪華な内装と一流の料理が売りのレストランだったが、グルメ気取りのアルバートは、毎夜手下や妻を引き連れて粗暴な振る舞いをして他の客に迷惑をかけたり、味もわからないくせに、料理の内容にケチをつけたりするので、フランス人シェフのリチャードはアルバートを嫌っていた。妻ジョージーナは、アルバートにうんざりしていたが、彼の残虐で偏執的な性格に恐れを抱いており、逃げ出すこともできずにいた。そんなある日、ジョージーナはレストランの常連である学者のマイケルと知り合う。お互い魅かれあった両者は、リチャードの手引きもあって、レストランの化粧室や厨房で逢引きを重ねるようになる。しかし、度々席を立つジョージーナの行動をアルバートは不審に思いはじめ…というストーリー。

全体を通して、あらゆる表現が不快なことは間違いない。悪人丸出しの泥棒アルバートが不快の根源であることは間違いないのだが、だからといって妻と愛人の逢引きが正しいと思えないし、その行動はちょっと変態じみていて、捉え方によってはこっちのほうが不快かもしれない。だから、それを援護するコックの行動にも、一切共感することはないのだが、妻と愛人がどうなるのか…という一点において、観続けられる。それこそ出歯亀根性で。
#“共感”といえば、アルバートは、一般人と感覚が違う人間であることが表現されている。性的に不具者といってよい状態であることを妻ジョージーナは告白しているし、おそらく“痛み”に対しても非常に鈍感(それゆえに粗暴な振る舞いをしていると見た)。

舞台はほぼ9割がたレストランの中。夜の営業ばかりだし、街で悪事が行われる時も夜なので、ほとんど薄暗い映像だけ。でも、セット、照明、美術にとことん気を使っており非常に豪奢。この豪奢な中に、卑しい人々が地虫のように這い回っているというコントラストが、目を惹く。

泥棒アルバートの矛先は、コックや妻だけに向けられるわけではなく、手下やレストランの他の従業員、はたままレストランの客にまで及ぶまさに全方位攻撃。中世の暴君を思わせるその行動から、原作はシェークスピアの歌劇で現代を舞台に脚色したんですよーっていわれたら信じちゃいそうな感じ(違うよ)。そう言われたら、ラストのエグいシーンも、思わず納得できなくなくもない。泥棒がオーナーの店で、そいつが毎日大暴れしているレストランの経営が成り立つわけがない。そんな不自然さを、豪腕でなぎ倒しているんだから、パワーのあるシナリオであることは間違いない。
マイケル・ガンボンの演技が、恐怖を感じさせるレベルにまで到達していることで、成立しているともいえる。ここが中途半端だったら、すべてが台無しになっていただろう。

(以下ネタバレ)
妻と愛人の欲望の顛末を軸に最後まで展開すると思いきや、アルバートの欲望の顛末にシフトしていく。これは意外だった。そして、まるで革命劇のように、すべての出演者によって反撃が始まる。最後の「人食い」のセリフだが、実際に食べたことだけでなく、これまでの彼の行動が周囲の人間を食って生きてきたようなものだという表現なわけだ。
ただ、堪忍袋の緒が切れるのが遅すぎやしないか?という思いが湧いてしまうのが、どうもね。

コックが彼らを支援する理由に、もう一枚深いものがあったらよかったのにな…とも思う。そこは残念。これじゃ、ただ仕事場を得るために、悪人が経営するレストランにしがみついてるだけってことになるんだもの。
#音楽がいいなあ…と思っていたら、マイケル・ナイマンだった。マイケル・ナイマンっぽさは薄いんだけどね。




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image2054.png公開年:2007年
公開国:ベルギー、ルクセンブルク、イギリス、ドイツ、フランス
時 間:103分
監 督:サム・ガルバルスキ
出 演:マリアンヌ・フェイスフル、ミキ・マノイロヴィッチ、ケヴィン・ビショップ、シヴォーン・ヒューレット、ドルカ・グリルシュ、ジェニー・アガター、コーリー・バーク 他
ノミネート:【2007年/第20回ヨーロッパ映画賞】男優賞(ミキ・マノイロヴィッチ)、女優賞(マリアンヌ・フェイスフル)
コピー:この穴から幸せが見える。


ロンドン郊外の村で暮らす主婦のマギー。彼女の孫オリーは難病に苦しんでおり、治療費のために家を手放して質素にくらしていた。しかす、マギーと息子夫婦のトムとサラは、オリーを治療できる医療機関はオーストラリアのみで6週間以内に渡豪しなければ助からないと、医師から宣告される。息子夫婦に費用を捻出する経済力はなく、マギーはなんとかしようと金策に走るが、ローンも断られ、仕事も見つからない。途方にくれて街を歩いていると“ホステス募集・高給”を見つけ、その店に入る。しかし、そこはセックスショップ“セクシー・ワールド”。オーナーのミキは給仕の仕事だと思っている、マギーの世間知らずさに呆れつつも、彼女の手のなめらかさに目をつけ、壁の穴越しに手で男をイカせる仕事を薦める。あまりのことに一度は拒絶したものの、孫のためにはそこで稼ぐ以外に手はなく…というストーリー。

一瞬、他に何とかする方法あるんじゃねーの?と思うかもしれないが、あの町の状態とか、経済状態とか、何をどう考えても“あの手段”以外に方法は見当たらないはず。説得力が高い設定。そして彼女は、自分が汚れることと孫の命を天秤にかけて、後者を選択しアクセルを踏む。

ゆっくり暗転して場面転換という独特の編集方法がよい。登場人物の感情とうまくリンクしている表現だと思う。観ている側に、登場人物のその時の思いや状況を理解させる、絶妙な時間の提供にもなっている。
後半は、バレルかどうかのハラハラ・ドタバタ展開になっていくのかと思いきや、本当の終盤までそれをしなかった。その仕事にドップリつかって派手になっていく…みたいな展開も、ほとんど無かった。ありがちな展開に安易に倒さなかった構成力を評価したい。

東京で見た(というか行った)風俗店のアイデアをパクったという発言や、ヒマつぶしにゲームボーイをやってたりするなど、日本を褒めてるんだか馬鹿にしてるんだかよくわからないところはあるが、そこはご愛嬌。
彼女が孫にさしのべる“やさしい手”と、別の意味の“やさしい手”のダブルミーニングになっており、昨今ではめずらしい優秀な邦題である。

で、覚悟をきめた彼女と対極にいるのが息子。この期に及んで、母親がそんなことをしているのが許せないだ、こんな金は使えないだ。挙句の果てには、みんな俺に指図してばかりだなど、子供の戯言のオンパレード。そう彼は大人としての覚悟ができていない子供なのである。
視点を変えれば、マギーはそんな息子を大人にすることができていないとも言える。いや、できていないというよりもしていないのかもしれない。彼女も子離れができていない未熟な人間なのだ。でも、最後、マギーはすべてを息子に託す。あとはお前のステージだと。

そして、彼女はミキの元へ。息子夫婦の旅立ちとか、これまで村の茶飲み友達だった主婦たちへのカミングアウトとか、死んだ夫の浮気話とか、それらがすべて相まって、久々に最後、ニヤリとさせてくれた作品。単純に恋愛に走ったわけじゃないんだよね。

これ、いかがわしい商売が題材だからおおっぴらに薦めにくいだけで、『過去のない男』クラスの名作でしょ。強くお薦め。

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image2064.png公開年:2010年
公開国:フランス、グルジア、ロシア
時 間:126分
監 督:オタール・イオセリアーニ
出 演:ダト・タリエラシュヴィリ、ビュル・オジエ、ピエール・エテックス 他
コピー:どんなときも、口笛ふいていこう。





旧ソ連時代のグルジア。やんちゃ小僧だったニコは、成長して夢をかなえて映画監督になった。しかし、苦労を重ねて作り上げた作品は、検閲によって上映禁止と判定されてしまう。おまけに思想的に問題があると思われたのか、何者かから監視されるようになる。ニコの友人は、彼を救おうとフランス大使に引き合わせるが、それを理由に逮捕され暴行を受けてしまう。このままグルジアにいても、本当に作りたい映画をつくることができないと考えたニコは、意を決しフランスへ旅立つ決心をするのだったが…というストーリー。

監督の自叙伝的な作品らしいとのことで、映画愛に溢れた作品なのかと思ったが、そうでもなかった。冒頭の子供時代の、聖人画を汽車で盗みにいくシーン(そして撮影)なんかは、なかなか期待させてくれたのだが…。

なんでこの主人公は映画監督になれたのか。共産圏において、好きというだけで政府から予算をもらえるわけがなく、それなりに成果なりコネがなければ、そうはならないと思う。確かに自分の好きなようにやらせてもらえないということに反発しているのはわかる。しかし、この若い監督の、それなりの才能の片鱗っていうものが、説明できていないから、ただの尖がった若造に見えて、すごく感じが悪い。ちょくちょく作品の映像は出てくるけれど、なんだか良くわからないし、何が検閲者の気に触ったのかもわからない。

それどころか、あまりにも難解で突飛な演出で、体制がどうとかというレベルではなく、純粋に人様に見てもらうような作品に仕上がっていないように思える。グルジアでもフランスでも、結局、別の編集者が介入してくるが、そうしないとまともな作品にならないと判断されるレベルなんだと思う。
じゃあ、なんでこの程度の才能しかない男が、グルジアで映画を撮れるポジションを得ることができたのか?と。マグレあたりで、処女作品は良いデキだったのか?もし、そうならそれを表現しないと。なぜ、フランスのプロデューサーたちは、金を出そうと思ったのか。国境を跨いで名声が聞こえるほどの作品を過去に作ったのか?わからん。

映画は他人様に観てもらい、他人様の心を動かすもの。他人様のことは一切考えずに好きなものを撮るだけなら、自分で金を貯めるか、危篤なパトロンを見つけるかのいずれしかない。それもできないのに、しがみつくくせに、撮れば撮ったで誰の助言も聴き入れない。その挙句、公開したら閑古鳥。それもまるで介入されたせいだと言わんばかりに、フランスでは映画は撮れないとプロデューサに悪口雑言を吐いてグルジアに戻る始末。

正直、眠くなるような刺激のない演出と展開が続いた上に、この、クソ人間っぷりをみせられて、閉口した。おそらく最後の演出は、絶望して自殺したってことなんだろう。そりゃ、死にたくもなろうだろうさ…。

126分の上映時間だが、3時間以上に感じた。まったく良さがわからん。

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image2055.png公開年:1983年
公開国:西ドイツ、フランス
時 間:146分
監 督:ヴィム・ヴェンダース
出 演:ハリー・ディーン・スタントン、ナスターシャ・キンスキー、ハンター・カーソン、ディーン・ストックウェル、オーロール・クレマン、トム・ファレル、ベルンハルト・ヴィッキ、ジョン・ルーリー 他
受 賞:【1984年/第37回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ヴィム・ヴェンダース)、FIPRESCI[国際映画批評家連盟]賞(ヴィム・ヴェンダース)、全キリスト教会審査員賞
 【1984年/第38回英国アカデミー賞】 監督賞(ヴィム・ヴェンダース)


テキサスの原野を彷徨う一人の男。彼は倒れこむうにガソリンスタンドに入り、製氷機の中の氷を口にすると、そのまま昏倒してしまう。彼は医者のところに担ぎこまれるが、身分を証明するものを何ひとつもっておらず、一枚の名刺を持っているだけだった。名刺に書いてある番号に電話をすると、どうやら倒れた男の弟らしい。倒れた男の名はトラヴィスで、4年前に失踪したまま行方不明になっていたのだ。連絡を受けた弟ウォルトは、トラヴィスを引き取るために、テキサスへ向かうが、、医者のところにいくと、トラヴィスは立ち去っていた。辺りを捜索し、トラヴィスを発見するが、様子がおかしく言葉を発しようとしない。兄はどこへ向かおうとしていたのか、そしてなぜ喋らないのか。まるで記憶を失くしたような振る舞いをするトラヴィスを、弟ウォルトは自宅のあるロスに連れて行こうとする。そこには、4年前から育てている、トラヴィスの息子ハンターは暮らしている…というストーリー。

ボロボロの壮年の男が、砂漠の中で倒れ、病院に担ぎ込まれるというシーンからスタート。何も喋らないし、他人とコミュニケーションを取ろうという姿勢が見られない。ただ、どこかに行こうという強い意志だけがそこにある。

弟がやってきても特段特別な感情を表すわけでもない。まるで記憶喪失にでもなったような感じなのだが、「おまえのことは知らない」と言うわけでもないし、まったく拒絶するわけでもない。私の解釈だと記憶喪失や痴呆になっているわけではないように思えるのだが、どういう設定なのだろう。
ロスの家に着き息子に会う。記憶喪失という設定ならば思い出すシーンとかがあるはずなのだが、そういうシーンは無かったと思う。しばらく人間社会に接触いていなかったため、馴れるのに時間が掛かっただけ…のように思えた。
で、そのまま喋らずを通すのか…と思ったが、ほどなく喋るようになる。あれだけ飛行機に乗るのを嫌がったのに、普通に高いところにも登るようになる。いったい何なのか、正直よくわからなくなってしまう。なんでトラヴィスがそんな人間になってしまったのか…という所にずっと注目しえいたのだが、ずっと明かされることはない(結局ラストの独白まで明かされない)。

『パリ、テキサス』とは、フランスのパリではなく、テキサスにそういう地名の場所があるらしい。トラヴィスはそこに向かっていたのだが、そこは自分の両親の縁の土地。なんでそこい向かおうとしたのか。自分の原点に戻ろうということなのか。
冒頭はロードムービーなのかな?と思わせておいて、そうではなく、疎遠になっていた親子と、これまで育ての親をやってきた弟とその妻の葛藤の物語が展開する。
と、思いきや、ああロードムービーじゃないんだな…と思ったころに、妻(ハンターの母)を捜す旅が始まる。この先の展開は好みが分かれるところだろう(正直にいうと、私は好きではなかった)。

良かれと思って、これまでわが子のように育てたのに、この顛末。彼らにとってはものすごい苦痛。そしてその思いはベッドのハンターには聞こえているはずなのに、ハンターはあっさりと顔も覚えていない父親の旅に同行してしまう。育ての親と子・ハンターの間の、この切なくも悲しく、そして埋めがたい距離感よ。その後、作品の中には出てこないというのも、演出的にもせつない。

トラヴィスと弟ウォレス、トラヴィスと息子ハンター、ハンターと育ての両親、トラヴィスと元妻、この作品は、人と人との間の空気というか空間を描いた作品なのだ。マジックミラーごしのトラヴィスと元妻のシーンがそれを特に表しているといえるだろう。

最後はハンターと実母の抱擁と、それをビルの外から観ているトラヴィス。お前はなんで一緒にいかないのか。母子をくっつけたらといって、幸せになれるか?無理だろう?そういう性風俗の店に勤めている母親と暮らすことが幸せか?と、問いかけずには入られない。
結局最後も、まともにコミュニケーションを取らずに、正解なのか誤りなのか、なんとも判別しにくいラストで終わる。

うーん。たしかにカンヌで評価されそうな内容ではある。ただ、私の心の余裕が無かったせいなのか、本作の緩やかな展開にイマイチ耐えられず。そして消化できず。経緯はどうあれ、放置された子供をその慈愛をもって育てたのに、報われないっていう、悲しさというか理不尽さだけが、私の心に滓のように残っているだけ。

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image2075.png公開年:1999年
公開国:アメリカ
時 間:90分
監 督:ミック・ジャクソン
出 演:ジャック・レモン、ハンク・アザリア、ウェンディ・モニツ、キャロライン・アーロン、ボニー・バートレット、アーロン・ラスティグ、ブルース・ノジック、イヴォ・カッツァリダ、ジョン・キャロル・リンチ、ダン・シール、カイル・サリヴァン、クリスチャン・J・メオリ 他




スポーツコラムニストとして成功しているミッチ。新聞のコラムだけでなくTV出演もこなすなど、毎日仕事に忙殺されている。あまりの忙しさにシンガーの恋人ジャニーンとはすれ違いの日々。しかしミッチは彼女の不満に気付こうとせず、自分の都合ばかりを押し付けて破局寸前。そんな中、偶然、大学時代の恩師モリー先生を扱ったTVs番組を見かける。モリー先生は、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵され闘病生活を送っていた。 しかし、尊敬している恩師ながらも、卒業してから一度も連絡をとっていないことに負い目を感じ、モリー先生に電話を掛けることができない。しかし、意を決して人生の最後を迎えようとしている恩師に会いにいくことを決めるのだったが…というストーリー。

TVムービーで、日本でも劇場公開はしておらず、NHKで放映された模様。しかし、TV映画とは思えない高いクオリティ。

死に直面しながらも、教師としての姿を貫くモリー先生をジャック・レモンが快演。ただのいい先生ではなく、人としての弱い部分をうまく演じている。で、これがジャック・レモンの遺作というのは、ある意味奇跡なのかもしれない。

一方の生徒側は、スポーツコラムニストとしてある程度成功しているミッチ。しかしプライベートはうまくいっているとは言いがたいし、実の所、仕事だってこんなやり方で本当に正しいのか疑問に思って生きている。でも、仕事に忙殺されることで、その疑問に向き合わないようにして、成立している人物。そして、簡単にいってしまうと、クソマスコミの一員ってこと。人の気持ちを削って飯を食っている。

こういう先生と恩師の関係。アメリカでもそんなにポピュラーではないと思うけど、こういう濃い関係ってのがあるんだろうね。日本では生徒と教師の間に、明確な深い谷があるのかほとんど聞かないね(個人的にはそれが悪いとは思わないけど)。逆に同窓会的なものをコンスタントに続けるのは日本のほうが多いかもしれないけど。

毎週、会うたびに症状が悪化してくのに、彼の個人授業は続く。不思議と、キリスト教めいた訓示が無い。『君は波じゃない、海の一部』なんて、非常に仏教的。『肩の鳥を乗せて…』水島かよ!(笑)
そして、同じ仕事を続けてはいるのに、仕事の切り口が変わっていくミッチ。飲酒運転で人生を棒に振りそうになった若者に対して、辛辣にレポートしつつも、やり直しが効くことを強く主張するようになる。モリー先生もミッチも海の一部だとしても、モリー先生の命はだた海に溶けていったわけではなく、ミッチの波として生き続けている。そういうことなんだと思う。そして、それが教育だと。

モリー先生の過酷だった少年時代と、彼が教師になるに至る経緯をもう少し深く表現してほしかったとは思う。父との距離感や、継母の影響という、外部要因的なものだけじゃなく、彼の内面がどう変化していったかをもう少し厚く。そして、ミッチをなぜ他の生徒よりも印象深くおもっていたのかも。

作品を見ながら主人公たちと一緒に自分の人生を見直すことができる秀作。結局は周囲の人をどれだけ慮れるか。そういうこと。
生きがいを考えさせてくる作品が三日連続コンボ。
#あのマッサージをしている人の、背中をガンガン殴るのは、本当に医学的に意味があるのか甚だ疑問。肺の毒を叩いて出す?なんじゃそれ…って感じ。あのシーンで、感動が削がれた気がしないでもない。

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プロフィール
HN:
クボタカユキ
性別:
男性
趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
自己紹介:
一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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