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公開年:1976年
公開国:日本
時 間:82分
監 督:大洲斉
出 演:松田優作、高橋洋子、五十嵐淳子、丹波哲郎、岸田森、桑山正一 他
越前福井藩には、藩主自らその腕を見込んで武芸の指南役として採用した仁藤昂軒という武芸者がいた。剣と槍の腕前は超一流だったが、その荒い性格ゆえ藩内での評判はすこぶる悪い。とはいえ藩主には気に入られているものだから、どんどん出世してしてしまうのではと危惧されるように。中でも御側小姓加納平兵衛の一派は、加納の出世が阻まれると焦り、昂軒を闇討ちしようと画策する。当の加納はそんな闇討ちには反対で、一派が闇討ちを決行すると、それを止めようと間に入る。しかし霧の濃い夜だったため、昂軒は一派を返り討ちにするのと一緒に加納まで斬ってしまう。これはまずいことになったと昂軒は出奔。加納を斬った上に黙って藩を出た昂軒に藩主は激昂。上意討ちを命じる。しかし、あの昂軒を討てるものなど藩内にいるはずもない。そんな中、越前福井藩きっての臆病者と評判の若侍双子六兵衛が、名乗りを上げる。自分の悪評のせいで妹が嫁にいけないことを苦にしてのことだったが…というストーリー。
ものすごくテレビドラマ臭がする。画の構図とか編集の感じとか。まあ、ようするに安っぽい。せっかくの映画なのにもったいないなぁと。
松田優作の演技も、わざとなのかな?って思うくらい、馬をよける所や、上意討ちの相手を見つけたときにビビって水を口から漏らす所とか、ダイコン極まりない。意図的な演出だとしても過剰かな…と。
そういう演出面でひかっかるところは多々あるのだが、内容は実にユニーク。
「ひとごろし~」と言うことで、周りが丹波哲郎演じる仁藤昂軒にビビってくれるから、この執拗な嫌がらせが成立するわけだが、実際はどうか。江戸時代だって侍が好き勝手人を斬って良かったわけじゃないから、こうなるのも説得力がある。小市民の知恵。それも生きる術であり、対等な"技術”である。 どんなに弱者でも強者の隙をつけば倒せるという、社会の固定概念を超えた、生物の本能の発露ともいえる。
とはいえ、いつまで「ひとごろし~」ってやり続けるんじゃ?と感じはじめる。そんなあたりで、わけ隔てなく客を泊める、モラリストな宿屋の女主人登場。あらここでおしまい、別展開かな?と思ったら、なぜか翌日になると六兵衛に賛同して、「ひとごろし~」って言う仲間になっちゃうという、クレイジー展開。おもしろい。
だけど、これ、岡本喜八とかに撮ってほしかったなぁ…。もうしわけないけど、この大洲斉っていう監督さんでは、ハジケきれていないなぁ。
世間にはからかわれる人が必要…なんて、悲しいけど含蓄のあるお言葉。からかわれている本人が言ってるし、それが言えるようになったことで、彼の中に自信が沸いているってこと。
ラストは残念ながら中途半端。いや、たぶん短編小説なら、この終わり方で正解だけど、ビジュアルが伴うとなにか物足りなく感じる。もとどりを持って帰って、はたして上意討ち成功とみなされるのか?という疑問。それなら、寝込みを襲うとか、女郎に金を握らせるとかして、ちょんまで切りゃあいいんじゃね?とか。
まあ、精神的な勝利を欲していたってことなんだろうけど、何か納得できない違和感が漂う。はじめは、臆病者をいう汚名を灌ぐのが目的で、そのためには手段を択ばないと決めたはず。もう、仁藤昂軒は気が狂いそうで自害するとまで言っている。やった、作戦成功!ってはずなのに、そうはならない。
はじめは、精神的な勝利なんていうものは求めていなかったのに、最後になると、死ぬことは求めない。どのタイミングで、精神的な勝利を欲するようになったんだろう。その境目は主人公の転換点のはずだし、人間の成長を表現する重要な個所だと思うのだ。そこをうやむやにしたのが、本作の失敗なのではないかと感じる。
映画って、主人公の変化・成長を観せるもので、事柄をつなげればいいというものじゃないから。
公開年:1978年
公開国:日本
時 間:112分
監 督:増村保造
出 演:梶芽衣子、宇崎竜童、井川比佐志、左幸子、橋本功、木村元、灰地順、目黒幸子 他
受 賞:【1978年/第21回ブルーリボン賞】主演女優賞(梶芽衣子)
大阪内本町の醤油屋の手代・徳兵衛は、堂島新地天満屋の遊女・お初と深い関係にあった。しかし、徳兵衛の働きぶりが誠実であったため、醤油屋の主人であり叔父でもある久右衛門は、自分の妻の姪と徳兵衛を結婚させようと考える。そして、徳兵衛の継母であるおさいに銀二貫目を結納金として渡して、話をつけてしまう。それを聞いた徳兵衛は驚き、久右衛門に抗議。久右衛門は激昂したが、日頃の徳兵衛の行いに免じて、母親に渡した金を来月七日までに返す事ができれば許すという。しかし、返却できなければ大坂を追放すると。大急ぎで田舎の母親のもとを訪れ、やっとの思いでその金を取り戻した徳兵衛だったが、その帰路で親友の油屋九平次に出会う。九平次は博打で借金を作ってしまい、返済できなければ店を売るはめになってしまうと言い、徳兵衛に借金を頼むのだった。親友の窮地を放っておくことができず、母親から取り返した銀二貫目を九平次に貸すのだったが…というストーリー。
『女囚さそり』シリーズを何本か観たあと、ほかに梶芽衣子が出ている作品で何かな…と探すと案外少ない。そして、彼女が映画賞を獲っているのって、本作だけだったりする。
冒頭から心中場所に向かう2人のシーンからスタート。その後は、これまでの経緯とシーンが交互に展開するという構成。まあ、有名な話だし、心中しちゃうというオチは誰もがわかっているのだから、アリ。
私、人間なんて生きてりゃなんとかなるもんでしょ!って考えてる人間なので、こういう自殺のお話は愉しめないだろうな…って思っていた。しかし、徳兵衛が巻き込まれる様子を見るに、もう、こりゃどうしようもない、死にたくなってもしょうがないな…と思えてくる。誰も自分の言い分をまるで信じてくれない。何をいっても無駄。クソ馬鹿野郎の九平次の口車にみんな乗せられて、あることないこと言いふらされて、社会で生きていく先が見えなくなる。人間は社会性動物なので、それを否定されると、生きていくのは難しい。まあ、自分ひとりだけなら、逐電しちゃえば何とかなるのかもしれない。だけど、自分が追いつめられるだけならいざしらず、お初の方もどっかに見受けされちゃう手筈がとんとん拍子で整っていくという。そりゃ心も折れるわ。近松門左衛門、やるなぁ…と。
先日観た『野火』と同じく、主役を演じる宇崎竜童のダイコンっぷりが、逆に効果的。九平次役の橋本功の演技が過剰気味で、いいコントラストにもなっている。弱くも強くもない平均的な男である感じがうまく出ていて、観客の共感に繋がっている。
梶芽衣子の演技はちょっとわざとらしいんじゃないか?と思う人もいるかもしれないが、そこは、文楽の世界を“人間化”しているんだということに気付けば、これでいいことが判るだろう。
で、“人間化”することで、心中のシーンはひたすらグロくなる。つまり、全然、心中自体を美化するつもりはないという製作意図なのかもしれない。こういう諸々の製作意図が、ピシっとはまっている作品なんだろう。全然好みのジャンルじゃないはずなのに、とても愉しめた。軽くお薦め。
公開年:2013年
公開国:日本
時 間:135分
監 督:李相日
出 演:渡辺謙、柄本明、柳楽優弥、忽那汐里、小池栄子、近藤芳正、國村隼、滝藤賢一、小澤征悦、三浦貴大、佐藤浩市 他
受 賞:【2013年/第37回日本アカデミー賞】撮影賞(笠松則通)、(照明賞)渡邊孝一、新人俳優賞(忽那汐里「つやのよる」に対しても)
コピー:人は、どこまで許されるのか。
明治13年の北海道。かつて幕府軍で、勤皇の志士を多数殺害し“人斬り十兵衛”と呼ばれ恐れられた釜田十兵衛という男がいた。その後、愛する女性と出会い所帯を持った重兵衛は、心を改め過去を捨てた。その妻は3年前に他界し、今は残された2人の子供と慎ましやかに平穏に暮らしていた。しかし、北海道での暮らしは厳しく、日々の食料にも事欠くようになってしまった。そんな中、かつて幕府軍で一緒に戦った馬場金吾が突然現れる。鷲路村の女郎がならず者の開拓民に切りつけられ瀕死となり、その犯人に懸賞金がかけられているという。一緒にその犯人を殺して懸賞金を山分けしようと誘うのだが、もう人は殺めないという妻との約束を守り、申し出を断るのだった。しかし、とてもこの冬を越せるだけの食料がないことを悟った十兵衛は、子供たちを守るために、再び刀を手にするという決断をする…というストーリー。
明治の北海道ほど、わくわくする舞台はないと私は思うのだが、意外と映画作品は多くない。資料が多くなくて逆に自由なお話がかけておもしろいと思うのだが、やはりアイヌ関係でヘタな描写をすると面倒くさいことになるから敬遠されているのかな。
懸賞金をかけた女郎がいる鷲路村は架空の地名だが、冒頭で鷲路村が札幌から80里と語られているので、札幌から320km以上。東京-名古屋間ぐらいの距離なので、かなり道東か道北の方だろうか。十兵衛が住んでいる場所がよくわからないが、「大雪山を回って」という表現があるし、足寄という似たような地名もあるから道東なのかな。
十兵衛が住んでいるのが海に近い場所。そこから大雪山をまわって道東?網走?私、地理は得意じゃないんだけど、大雪山を“廻って北へ上がる”っていう位置関係の表現が、ちょっとピンと来ていない(ロケは阿寒湖周辺だけど、現地にいってもあまりそれはアピールされていない)。案外、十兵衛の家と鷲路村は100km以内なのかもしれない。北海道をドライブすれば想像でいると思うのだが、馬や徒歩で整備されていない道を進むなんて、絶望的だからね。
そんな女郎屋があって政府の役人が独裁してるような村が実在の場所であることが好まれるとは思わないんから、架空の村なのは仕方ないと思うけど、大体この辺だよな…ってくらいのディテールがわかるようにしたほうがよかったと思う。
正直、『許されざる者』のリメイクとはいいところに目をつけたな…と思うし、よく翻案できていると思う。仙台藩が話の中に出てきて妙にリアルな部分があったり、アイヌの風習とかもしっかり取材している模様。日本人とアイヌの婚姻も実際はよくあったことだと思う。それらを踏まえて、犯罪者という設定を政治犯にしており、日本に舞台を変更するならば、シリアスでウエットな方向性に持っていったのは、正解かもしれない。
小池栄子はうまいんだけど、キャラとミスマッチなのが残念。忽那汐里もちょっと小奇麗すぎ。
個人的に、一番気に食わなかったのが、馬場金吾に妻がいないこと。元のネッド・ローガンには妻がいて、その妻の所に戻ること(戻すことが)できずに死んでしまうという切なさがよかったのだが、本作ではただのヘタレで終わっている。
スコフィールド・キッドに相当するのが、アイヌと和人の混血児に代わっているから、十兵衛を誘うのが金吾という設定になっており、それに引っ張られての設定変更だとは思うけど、そのせいで、金吾が離脱する流れも変な感じになっている。非常に残念。
リメイク時に加えられた表現で釈然としないのは、妻の首飾りを持ち歩いている件。道中、金にこまったら使うつもりだったのだろうか。もう、妻との約束は反故にして人殺しに出ているのだから、何かの戒めのためと思えないし。どうせ、子供に戻すのなら、家のどっかに隠しておけばいいのに。私には理解できない行動。
ネタバレだが、ラストのなつめと沢田五郎が結ばれて、十兵衛の子供たちを養うというオチ。これはアリか?私は、汚れながらも行き続ける男の美学みたいなものを元作品で強く感じていたので、死んでチャラみたいな今回のオチは好きじゃない。
適当にハッピーエンド的なパズルをやってるようで、おもしろくなかった。
壮大で畏怖に値するほどの北海道の大自然が満載の良い画なのだが、なにか裏に潜ませようとしているメッセージみたいなものに違和感を覚える作品。
元作品を知らなければ素直に楽しめるのかもしれない。私には元作品の良いところが削がれているようにしか思えなくて…。決して悪い出来映えではないのだが、うじうじ考えないで素直に“西部劇”をやって欲しかったかな。
公開年:2000年
公開国:日本
時 間:111分
監 督:市川崑
出 演:役所広司、浅野ゆう子、宇崎竜童、片岡鶴太郎、石橋蓮司、石倉三郎、うじきつよし、尾藤イサオ、大滝秀治、三谷昇、津嘉山正種、神山繁、加藤武、江戸家猫八、岸田今日子、菅原文太 他
受 賞:【2000年/第50回ベルリン国際映画祭】特別功労賞(市川崑)
或る小藩では、町奉行が着任してはすぐに辞職するという事が繰り返されていた。次にやってくる町奉行は望月小平太という男で、江戸から赴任してくる。しかし、望月という男は、その振る舞いが大雑把で乱暴で放蕩三昧だということから“どら平太”と仇名されるほどの型破りな役人だという。実際、着任日を10日すぎても奉行所に顔すら見せない有様。そんな不埒な人間が赴任してくることまかりならんということで、藩の若い者たちは怒りを隠さず、武力により排除しようという動きすら見られるほど。しかし、その悪評は、望月が友人である大目付の仙波義十郎に頼んで、流してもらったものだった。実はこの藩には“壕外”と呼ばれる藩の力が及ばない治外法権が存在し、そこでは、密輸、売春、賭博、暴力が横行していた。望月は壕外を浄化するために、送り込まれたのだった。早速、遊び人に扮して壕外に進入した望月は、壕外を仕切っているのが3人の親分であることを知る。標的を定めた望月は、着任すると家老たちに壕外の掃除を宣言するが、何故か家老たちはそれに異を唱え…というストーリー。
四騎の会(黒澤明、木下惠介、市川崑、小林正樹)の脚本ということだが、黒澤明の色が強いと思う。時期的に、脚本としてはほぼ遺作といってよいのではなかろうか。当時、黒澤明と他の三人がちょっとモメていたらしいので、黒澤色が排除されているのかな?なんて思っていたのだが、そんなことはなかった。
市川崑監督も四騎の会ということでちょっと遠慮するのかな…と予想していたのだが杞憂。冒頭から明朝体デカ文字クレジットで“らしさ”爆発。はじめからワクワクである。人を喰ったようなキャラクターが、さまざまな障害を飄々をかわしていく様子は、非常に愉快。役所広司の演技が実に冴えている。
しかし、残念ながら、山本周五郎の時代小説が原作のせいか、話自体の新鮮味がない。というかありきたり。さらに、シナリオの質もはっきりいって良くない(というか、チグハグという表現が正しいか)。どら平太が、素行の悪い人間のふりをして潜入捜査をするという設定は悪くないのだが、“ふり”ではなくて実際に素行は良くないキャラ。それが証拠に、女性問題で浅野ゆう子演じる“こせい”が追いかけてくるほど。だが、この女の役割が、イマイチ面白さに寄与していない。事情を聞こうともせず一人勝手にプリプリした上に、大した考えもなく壕外に潜入してトラブルをおこしピンチに。それこそありきたりだが捕まって人質に…という流れかと思ったのだが、都合よく即座に望月に救われる。その後、話の主筋に絡むでもなし、あきらめずに首を突っ込むでもなし…。いなくてもどうってことのないキャラクター。
素行の悪い人間の“ふり”じゃないので、腕っ節も強い。強いどころか無敵である。あれだけの大人数に対して立ち回りを披露して、全部やっつけちゃう無双っぷりに、ちょっと興醒めさせられちゃうのがもの凄く残念。スタローンやシュワちゃんじゃないんだから。そこは、すこし知恵を使って乗り切るとかしないといけないと思うのよね。痛快さや豪快さを前面に出したエンターテイメントにしたいのはわかるのだが、まったくピンチらしいピンチがないのはいかがなものかと思う。
さらに、壕外と藩の繋がりを調査する謎解き部分も浅い。ミステリアスさに欠ける。謎解きに主眼を置かない替わりに、親分3人衆と家老たちの処遇をコミカルタッチに描こうとしているのだが、ちょっと笑いになりえていない。ラストの馬でこせいから逃げるシーンも、残念ながら、いまいち笑えず…。
加えて、片岡鶴太郎演じる安川の友情エピソードも、いまいち伝わってこない。
(ちょっとネタバレ)
宇崎竜童演じる仙波が黒幕であることは、半分くらいの人が薄々感づいていたと思う。それがバレバレなのは良しとしても、仙波のカウンターとして安川は存在するのだから、安川の純で真摯な友情は心がジーンとしてくるほどに描かないといけないと思うのだが。
…と色々文句を書き連ねてしまったが、市川崑ファンの私としては、満足だった。本当にずっとワクワクして最後まで観たのはウソじゃない。ただ、もう少しだけなんとかならなかったかなぁ…って、そう思っただけ。
それにしても、こせい役は浅野ゆう子でよかったのかなぁ…。 一人だけ全然江戸の人間じゃない感じだった(台詞回しが、作風にマッチしていなかったんだと思う)。『釣りバカ日誌』の2作目くらい(1989年頃)の石田えりだったらぴったりだったけど、時期も違うし、おそらく市川崑の好みじゃないだろうし。
一応、浅野ゆう子と市川崑は『獄門島』『八つ墓村』繋がり。厳しい言い方になっちゃうけど、浅野ゆう子の力量がイマイチ向上していなかったってことなんだろうなぁ。
快作! っていいたいところだけど、市川崑ファンじゃなけりゃ、フツーの作品なのかな。この穴だらけのシナリオを、ワクワクできる作品に仕上げただけで、アッパレだと思うのよ。
公開国:日本
時 間:145分
監 督:犬童一心、樋口真嗣
出 演:野村萬斎、榮倉奈々、成宮寛貴、山口智充、上地雄輔、山田孝之、平岳大、前田吟、中尾明慶、尾野真千子、芦田愛菜、ピエール瀧、和田聰宏、谷川昭一朗、ちすん、米原幸佑、中村靖日、黒田大輔、古村隼人、チョロ松、水野駿太朗、笠原紳司、村本明久、西村雅彦、中原丈雄、鈴木保奈美、平泉成、夏八木勲、市村正親、佐藤浩市 他
受 賞:【2012年/第36回日本アカデミー賞】美術賞(近藤成之、磯田典宏)
コピー:この男の奇策、とんでもないッ!
戦国時代末期。天下統一を目前した豊臣秀吉は、最後の敵、北条家に総攻撃をかける。小田原城を包囲するとともに、支城を次々を陥落していく秀吉軍。秀吉は、周囲を湖で囲まれ“浮き城”の異名を持つ“忍城”を、2万の軍勢で落とすよう石田三成に命じる。忍城の城主・成田氏長は小田原城の援軍に向わねばならなかったが、本心では秀吉勢と対峙するつもりはなく、秀吉と密かに内通し安全を確保するので、秀吉軍が攻めてきたら開城するように、叔父の成田泰季に言い含めていた。しかし、成田泰季は直後に病に臥してしまう。代わって城を任されたのは泰季の息子・長親。いつも農民や子供たちと楽しそうに戯れているばかりで、“でくのぼう”を意味する“のぼう様”の愛称でよばれるほどで、武士たちからは嘲笑される存在。いよいよ忍城は包囲され、使者として長束正家が登城し、戦か開城かを迫ったきた。しかし、長束正家の秀吉の威を借りた不遜な態度に、気分を害した長親は、とっさに戦うと宣言。はじめは驚く家臣たちだったが、領民たちを護るという長親の強い意思に導かれ…というストーリー。
コピーにあるような、主人公・長親の奇策とやらが、それほどに感じられなかった。いや、歴史上の事実であることを考えれば、なかなかすごい行動であることは間違いないのだが、コピーが無駄にハードルを上げてしまったんだろう。配給会社が客との距離感をつかめていないってことなんでしょうな。
この無用なハードル上げがなければ、部下ばっかり活躍して、長親、城でドキドキしてるだけじゃん!出て行ったと思ったら踊っただけじゃん!っていうツッコミをすることもなかっただろう。
とはいえ、素直におもしろかったのは事実。私が感じた難点は次の3つだけ。
一つ目。秀吉が高松城を水攻めするシーン。大量の水についてはCGを使うのは問題はない。ヒキの絵の時はしかたがないと思うが、普通に本物の水をバシャっとやったほうが臨場感が出たであろうカットがある。「ああ、CGだな…」という違和感で気持ちが削がれた。石田三成が自分もやってみたいとゾクゾクするほどのシーンなんだから、きちんとつくるべきだったと思う。「あ、そこ、CG使うから、水しぶきが上がってるていで…」なんていう監督の指示が聞こえてきそう。そんな労力を惜しんで、客の心を離してしまっては、意味がない。こういう情熱を失った手抜きは嫌い。
二つ目。冒頭から43分ほど、宣戦布告するシーンまでが長い。なんとか25~30分にまとめられなかったものか。いや、後々を考えれば、大事なことばかりなのはわかる。長親はでくのぼうだが愛されているという描写。赤ん坊をあやすシーン。血気盛んな部下たち。甲斐姫のキャラ設定。秀吉や三成の性格設定。農家の若い夫婦のエピソード。全部、後半に繋がりはある。
原作を読んだら(私は読んでないけど)、きっと全部が大事な要素で、削れなくなったんだろう。わからんではない。でも、2時間程度の作品として魅せるためには、テンポは大事だよ。
原作と異なっても、いくつか削るべきだったと思う。私だったら、靭負が甲斐姫に恋しているという設定は切る。台詞まわしとかポジションを考えると、狂言回し的な使い方をしたかったのかもしれないが、できていない。冒頭と最後以外に甲斐姫に恋しているという描写はなく、それ以外で生きていない設定。無駄。
中尾明慶演じる農民が過去に妻を侍に手篭めにされた恨みをもっている…という設定も切る。元々侍が嫌いから長親も嫌いという単純な考え方だったのに、長うが撃たれたのを見るとゲリラ活動を始める。口では田畑を荒らしたからといっているが、水攻めしたら田畑が荒れるのはわかっているし、水攻めで妻子が死んだ可能性もあるのに動揺もしていない不自然さ。アンビバレントなキャラ設定ですっきりしない。
堤をつくらされてはいるが、水攻めに使うなんてことが、馬鹿すぎて気付かなかったという設定にして、いざ水攻めは始まって愕然。三成軍が、長親の踊りに注目している間に工作開始…という流れでよかろう。よって、戦にはならないと聞いていたのに戦にしてしまい、約束が破られたことに対して村を出た人間が少なからずいて、そいつらが堤を壊す…で問題なし。
長親が親には唯一頭が上がらないという設定はわかるが、開戦に至るまでのすったもんだは、いらなかった。倒れた後にすぐに死んで、長親に任せざるを得ないという設定に変更してよかったのではなかろうか。
三つ目。甲斐姫のオチ。歴史的に秀吉のお側に置かれるのは事実なので変えようが無い。いくらそういう時代だから仕方が無いとはいえ、ツンデレキャラにしておいて、あれは救いがないだろう。あの終わり方だと、長親はけっこうな人非人だよ。
こういうオチにしたいなら…戦国の世の常としてそうなる覚悟はできている、だからこの戦ではおもいっきりお転婆を発揮して、とことんまでやりつくす。やるだけやるけど、結果的に長親と甲斐姫の二人が領民のために身を切ることになる。実際に結ばれることのなかった二人だが、身を切った二人というシンパシーにより、夫婦以上の結びつきを胸に、その後も二人は生きていく。こうじゃいかんのか。
ここまで言うとお気づきかも知れないが、無駄に名前のあるキャストが使われている。正直邪魔。尾野真千子、芦田愛菜、市村正親は不要だったな。
長々と書いちゃったけど、難点はこのあたりだけで、概ねおもしろく観ることができた。歴史的に、本作にあったように水攻めに固執したのが三成だったか否かは怪しいところ。そこを無理やりくさいけど、たのしい味付けに仕上がっているのは見事。おそらく、良質の原作なんだろうね。
#ロケ地は苫小牧とのこと。たしかにそういわれれば北海道らしい雰囲気である。
公開年:1964年
公開国:日本
時 間:99分
監 督:大川博
出 演:大川橋蔵、内田良平、河原崎長一郎、藤純子、大友柳太朗、立川さゆり、西村晃、中村竹弥、木村功、千葉信男、博多淡海 他
新撰組は入隊志望者の選抜試験を行うが、その中の一人・江波三郎は、試験とは名ばかりの血みどろの殺し合いを見せられ、恐怖のあまり嘔吐してしまう。その様子を新撰組の隊士たちから馬鹿にされた江波は、悔しさ紛れに切腹を試み昏倒してしまう。しかし、その気概を買われて見習い入隊を許されることに。剣術の腕はイマイチな江波は、厳しい隊規と訓練に苦しんだが、やがて正式に入隊を許され、沖田隊長の率いる一番隊に配属になる。そんな中、江波を含む新入隊士5人は、監察部に呼ばれ、この中に坂本竜馬、中岡慎太郎に内通する者がいると告げられ、その一人を炙り出せと命じられる。互いに顔を見合わせる5人だったが、やがて一人の男・相原が短刀を振りかざして暴れ始める。相原は処刑されることになったが、近藤勇は首を刎ねる役に江波を指名する。人を斬ったことすらない江波は、震える腕で相原の首を斬るがことごとく急所をはずれ、凄惨な現場となってしまう。しかし、江波はそれをきっかけに、処刑役を進んで申し出るようになり…というストーリー。
宣伝映像には、盛んにテロリズムの文字が躍る。テロリズム??新撰組は反幕勢力を取り締まる警察であり、保守側。暴力装置ではあるがテロリストではなかろう…と思ってみていると、新撰組を赤軍なんかの過激派組織に見立てている節が。新撰組にセクト化→内ゲバ→自滅…という流れを演じさせている模様。まあ、時代が時代だけに、当時の観客には腑に落ちるものがあったんだろう。
さりげなく、成人映画にしていされているのだが、別に、今観て特別グロい表現があるわけではない。
沖田総司を演じているのが河原崎長一郎というのには、驚き。すぐには気づかない。よくバラエティ番組で沖田総司って実は不細工…っていうネタはよくあるんだけど、月代の形とか写真のとおりで雰囲気も近くて、でも少女マンガみたいな儚さじゃなくて、きっちりと武人だけど病んでいる…っていう感じがうまく出ている。とにかく、画の中で一番に映える容姿。
入団試験のギャラリー、いくらなんでも近すぎるだろう、せめて庭でやれよ…とか変な描写はあるのだが、とにかく新撰組を狂気の集団として描こうとしているので、押し切られる。
タイトルの的外れ感もあるのだが、白黒作品であることを途中から忘れるくらい、地味にうまくできたシナリオだと思う。
(以下ネタバレ)
なんで、あんなヘタレ野郎が入団できたのか…とか、キャラに似合わず出世を望むのか…とか、正直、そういうリベンジ話だとは思いもよらず。元々臆病な江波は、必死に新撰組に馴れようとがんばるが、その弱い部分が宿舎の女中(藤純子)の琴線にふれ、やがて恋仲に。これもオチのカウンターバランスになっている。そう考えると、西村晃演じる土方歳三の悪役臭も、伏線になっているわけで、なかなか巧みなシナリオである。さらに、江波をけしかけたのが坂本竜馬側だってことで、時代に翻弄された虚無感まで漂う。
唯一消化しきれなかったのは、牢に閉じ込められている隊士のくだり。有能な隊士だたのに女狂いが原因で梅毒を貰い狂ってしまった人なんだが、感染を斬られずに監禁されている設定。彼は何の暗喩なのか。ここだけは、わからんかった。
あとは衆道のくだりもか。それを幹部に近づくための手段として利用したか否か、はっきり描けばよかったと思う。
誰にでもお薦めできるジャンルの作品ではないけれど、こんな見世物小屋みたいなタイトルがふさわしい作品では決して無い。良作だと思う。
公開国:日本、フランス
時 間:162分
監 督:黒澤明
出 演:仲代達矢、寺尾聰、根津甚八、隆大介、原田美枝子、宮崎美子、植木等、井川比佐志、ピーター、油井昌由樹、伊藤敏八、児玉謙次、加藤和夫、松井範雄、鈴木平八郎、南條礼子、古知佐和子、東郷晴子、神田時枝、音羽久米子、加藤武、田崎潤、野村武司 他
受 賞:【1985年/第58回アカデミー賞】衣装デザイン賞(ワダエミ)
【1985年/第20回全米批評家協会賞】作品賞、撮影賞(斎藤孝雄)
【1985年/第51回NY批評家協会賞】外国映画賞
【1985年/第11回LA批評家協会賞】外国映画賞、音楽賞(武満徹)
【1986年/第40回英国アカデミー賞】外国語映画賞
【1985年/第28回ブルーリボン賞】作品賞
戦国の世を駆け抜けて一国の主となった一文字秀虎も齢70。衰えを感じ、家督を息子に譲る決心をする。秀虎には3人の息子がおり、長男太郎に家督と一の城を、次郎にはは二の城を、三郎は三の城を与え、“三本の矢”の例え話のとおりに協力して国を守るように命じ、自分は三つの城の客人となり余生を過ごすと宣言する。その場にいた隣国の領主藤巻と綾部も突然の展開に驚きを隠さない。しかし、三郎は兄たちの野心を見抜けない父の甘さを諌める。激怒した秀虎は、三郎とそれを庇う平山丹後を追放するのだった。追放されて野原で事後を相談していた二人に、藤巻が近づき、三郎の気性が気に入ったので婿として迎えたいと申し出るのだった。一方、秀虎の指示通りに一の城へ移った太郎だったが、その正室楓の方は、親兄弟を舅・秀虎に殺された恨みを抱いており、秀虎に大殿の名目と格式が残っていることに不満を隠さない。太郎をけしかけて秀虎に権限を完全に移譲ように詰め寄らせ、親子を離反させる。怒った秀虎は次郎のいる二の城に向かったが、次郎の重臣たちは太郎との軋轢を恐れ、秀虎単身であれば受け入れると無理な条件を突きつけ、追い返してしまう。秀虎は失意のうちに三の城へ向かうのだったが…というストーリー。
TVを見ていたら、バラエティ番組にピーターが出ていて、何気に思い出して鑑賞。8年サイクルくらいで、何だかんだ観ていると思う。
私が劇場で観た唯一の黒澤作品。その時は、私の映画脳がポンコツだったのか、純粋にガキだったので頭が弱かったのか、画に圧倒されたのか、長すぎて半分寝ていたのか判らないけど、内容が全然頭に残らなかった。その後、ビデオやDVDで観るたびに、ああそういうことか…ということが、毎回増えていく。
過去の作品にも豪奢でこだわり満載のセットは登場したが、様式美の比重は高い。そのせいなのかはわからないが、演者の“情”がイマイチ薄く感じられる。これが、ストーリーの頭に入ってこなさ加減の遠因ではなかいかと。
ストーリー上、もっと強調したり判りやすくすればよいのにな…と思う点はある。
楓の方は親兄弟を秀虎に殺されていて、一の城は元々彼女が住んでいた城。その家族の敵の嫡男の妻になるという苦痛を負わされているわけだ。以前、観たときには、その因縁による復讐の鬼という解釈だったのだが、今回観るといくらか違って見えた。よく考えたら、滅ぼした敵の娘が嫡男の正室になっているというのも変なので、嫁いだ後に色々あって対峙せざるを得なかったという流れなのかな。でも、その辺りの経緯は説明されていないが、そのほうが自然。
問題なのは、太郎の死後に次郎の正室の座を狙う理由は、貧乏暮らしをするくらいなら敵の妻になっているほうがましという価値観からくるものなのか、絶命の際に語ったように、一文字の壊滅が究極の望みであったのか、どちらが本懐というか本性なのか。この比重をどちらが重いと解釈するかで、結構、見方が変わってくる。
長男の黒は腹黒さ、次男の赤は血なまぐささ、三男の青は青空のような忌憚の無さを表現しているのかもしれないが、そこもわかりづらい。正直言って、当時の寺尾聰と根津甚八と隆大介の演技は、さほど良いわけではない。むしろ、井川比佐志や油井昌由樹など、側近連中の役者の味が物凄く良いくらい。その“三本の矢”を折ったのが、原田美枝子が鬼気迫る演技を見せた楓の方…という構造的なバランスなのかもしれないが。
また、藤巻と綾部の使い方が、ピンとこない。藤巻は三郎が秀虎を迎えに行く際に、丘の上から日和見を決め込むのだが、私なら、藤巻は曲者で、親兄弟の離反を活用して国を乗っ取ろうと考えていた…としたい。しかし、最後に次郎を急襲するのは綾部。はたして藤巻は綾部にうまうまと領地を広げられて良しとするのであろうか。彼がただのお人好しであることに、ストーリー上意味があるのか。
また、殺されていたのが、鶴丸なのか、お付きの婆やなのかわかりにくい。てっきり鶴丸も殺されたのかと思ったら、ラストに出てくるから「あれ?」ってなちゃった(何回も観ているのにね)。そして、鶴丸が落とす掛け軸の仏の絵。もちろんそんな意図はないのだが、仏の手がOKマークに見えてなんかシュール。
まあ、何だかんだいってこれだけのセットを燃やしたのは圧巻。今、こういうスケールの作品を作ったとしても、ああCGだな…って思っちゃうし、純粋にすげーなーと思えるのは、この時代が最後なんだと思う。そしてやっぱり長い。良くも悪くも、最後の黒澤作品。そんな気がする。
公開国:日本
時 間:126分
監 督:グレッグ・モットーラ
出 演:市川海老蔵、瑛太、満島ひかり、竹中直人、青木崇高、新井浩文、波岡一喜、天野義久、大門伍朗、平岳大、笹野高史、中村梅雀、 役所広司 他
ノミネート:【2011年/第64回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(三池崇史)
【2011年/第35回日本アカデミー賞】助演女優賞(満島ひかり)、美術賞(林田裕至)
コピー:いのちを懸けて、問う――
なぜ男は、切腹を願い出たのか――。世界を圧倒した衝撃の超大作。
関が原の合戦の後。戦国の世は終わり、天下泰平の徳川の天下となる。その裏で、豊臣方をはじめとする御家取り潰しが相次ぎ、仕官先を失った浪人たちであふれることになった。浪人たちが裕福な大名屋敷を訪れ、切腹のための場所を提供してほしいを願い出て、困惑する屋敷の者から金銭をせしめるという“狂言切腹”が流行するまでに。そんなある日、名門・井伊家の玄関先に切腹を願い出る津雲半四郎と名乗る浪人が現われる。井伊家家老・斎藤勘解由は、彼に事情を聞く際に、数ヶ月前にも千々岩求女という浪人が同じようにやってきたことを告げ、その時の様子を半四郎に聞かせるのだったが…というストーリー。
とにかく“狂言切腹”に注目したとこが非常におもしろい(まあ、そういう原作があって、過去に映画化済ではあるが)。
二人の男が狂言切腹を申し出る。どうやら二人目の男は思うところあって来ているようにも見える。さてなんでこんな奇妙なことになっているのか?この男は何をしたいのか?そして出勤してこない三人の武士には何がおこったのか。その何故を振り返る形で謎が明かされていく構成もよい。求女の遺体が届けられたあたりまでは、非常におもしろかったと思う。
三池崇史は、どうしても市川海老蔵と満島ひかりを使いたかったんだろう。それは判る。でも、いくらなんでも市川海老蔵と満島ひかりが親子なのは無理がある。確かに時間が経過したテロップは入った。でも、あの男の子と女の子が、瑛太と満島ひかりだとピンとくるまで、すこし時間がかかった。とにかく、市川海老蔵が全然老けたように見えないし、そんな年齢にはまったく見えない。自然なライティングを心がけているせいか、全体的に薄暗い画像なので、老けメイクをしたところで判りはしない。もう、“老い”は演技で表現するしかないのだ。特段演技が下手というわけじゃないのだが、実年齢を超えるほどうまく演技はできていない。残念ながら力不足。
まあ、そこは、ほどなく理解できるので良しとしよう。しかし、シナリオ的にラスト30分がとんちんかん。
#孫が死ぬまでの回想シーンが長すぎるし、あの役に竹中直人は不要…とか、そういう指摘がすべて吹っ飛ぶくらい。
半四郎は、求女の切腹の願い出が、狂言だとわかったんだから、追い詰めたおまえらが悪いといっている。逆切れも甚だしくないだろうか。孫も死んだ、娘も死んだ。だからって逆切れして乗り込むなんてまともな思考じゃない。武士の世、江戸中期以降とかならわからんでもないが、関が原の直後だ。そんな時代に、武士が切腹を願い出たら、それを尊重することが責められることか?狂言切腹をするような武士を汚らわしいものと考えて何がいけないか?
私は、役所広司演じる斎藤勘解由の怒りが理解できたし、求女を浅ましいと見た。求女の事情もわかるが、人を騙すような手段を用いて、結果として失敗したんだから、自分の失策である。
昨今の不況とか、下級武士を現代サラリーマンになぞらえたのかもしれないが、その視点は陳腐でつまらない。それこそ蟹工船のような抑圧された階層のあわれをダシにして、富裕層を非難する陳腐な階級闘争にしか見えない。よく、昔の植民地主義が悪という人がいるが(まあ60歳前後の人たちなんだか)、昔の事柄は昔のルールで評価されるべきであって、その見方は実に馬鹿馬鹿しい。
武士の体面がどうのこうのいうのなら、曲げを取られた武士たちが出勤しないのはおかしいじゃないか!という理屈をこねるのだが、体面が悪いから出勤しないのであって、別に理論に不整合はないと思うのだが。とにかく考えて欲しい。どうしても井伊家を責めたいのであれば、もっと彼らに非道な行いをさせればいいのである。例えば、始めは普通に頭を下げてきたのに、狂言切腹でもしろと促したのがあの三人だとか。
自分で望んた切腹をさせてやって、すべて望みどおりお膳立てしてやったのに、「空気読めよ!」ってあとからその親がやってきて、刃物を振り回すなんて、狂気の沙汰というか理不尽すぎて、逆に戸惑ってしまう。これがクレイジーニッポンか、あのハラキリか!と、海外の人は困惑と異星人を見るような目を向けたことだろう。パルム・ドールにノミネートされているが、良く判らないものをもっともらしくありがたがるという、いつものカンヌにはぴったりの作品だったろう。
三池崇史は、貧富の差や階級闘争みたいなものにスポット当てたいのではなくて、“世のあはれ”みたいなものを表現したかったのかもしれないが、求女側へのお涙頂戴的な展開の枠は超えられていない。
とにかく、まさか逆切れで終わることはなかろうと思っていて、どういうおもしろい理屈をもってくるのかとても期待していたのだが、まさか布団叩きおばさん(通称:騒音おばさん)の映像を見たときと同じ感覚になろうとは。
突然バンジージャンプをさせられたような気分を味わいたいなら、レンタルしてみるとよいだろう。
公開国:日本
時 間:100分
監 督:工藤栄一
出 演:夏八木勲、里見浩太郎、南原宏治、西村晃、大友柳太朗、宮園純子、大川栄子、菅貫太郎 他
将軍の弟で館林藩主の松平斉厚が忍藩を訪れた際、あまりに好き勝手に振舞ったため、忍藩主・阿部正由が諌めると、斉厚は激昂し正由の顔面に矢を射て殺してしまう。この異常事態に、忍藩次席家老・榊原帯刀は、老中・水野越前守に訴状を送る。しかし、幕府は斉厚をかばい、正由に非があったと一方的に断罪し、忍藩は取り潰しを言い渡される。怒った帯刀は主君の仇を討つため、友でもある仙石隼人に斉厚暗殺を命じる。同じ頃、忍藩藩士・三田村健四郎ら6名と死んだ兄に代わって加わった妹ぬいは、斉厚を討とうと待ち伏せを謀るが、直前に隼人に発見され捕らえられる。隼人は彼らに切腹を命じるが、それは彼らの覚悟を図るため。彼らの覚悟を知った隼人は、6名の藩士とぬいを暗殺の同志に加えるのだった。さらに、勘定方の市橋弥次郎と藤堂幾馬を加えた10名は、切腹して死んだものとし、密かに江戸に向かうのだったが…というストーリー。
冒頭の将軍家の馬鹿息子の乱行から、藩の取り潰しまでが、あれよあれよとテンポよく展開。馬鹿息子斉厚の小悪党っぷりも、藩士たちの怒りに共感させるにはちょうど良く、こりゃあ期待ができる…と思ったのだが。
処分が決まったのに、罪人は最後に一つだけ言うことを訊いてもらえるんでしょ?すこし処分まで猶予くんない?とか、そして実際猶予が貰えちゃうとか、そんないい加減で都合のよいことがあるもんか…で興醒め。
タイトルは『七人の侍』に似ているが内容は赤穂浪士。それにしても『十三人の刺客』とプロットがあまりにも一緒。いくらなんでも…と思い調べたら監督が一緒じゃん。だけど、本作の方が4年も後。何でほぼ同じ話を焼きなおししてるの?意味がわからん。この手の集団敵討ちみたいのが、流行だったのだろうか?
わざわざタイトルに“十一人”と掲げているのだから、11人であることに意味がなければいけない。しかし、まったくキャラクターの特徴づけも書き分けもできていない。紅一点のぬいも女性という以外に特徴はないし、若い忍藩藩士6名は7人の小人並みに百把ひとからげ状態。できもしない大風呂敷を広げるものではない…と、ちょっと叱りたくなるレベル。
意外だったのは、血がリアルだったこと。矢が刺さったところとか、手の甲を刀で刺されたところとかが妙にリアル。へたな特殊メイクよりも、生々しくて昭和40年代のデキとは思えないほどだった。
また、ただ斬りあいはリアルにみえた。長刀の敵に切り込まれたときは、懐に入り振り上げた腕のひじを押さえるとか。泥臭い闘いかたは緊迫感を高めたといえる。
しかし、如何せんシナリオのデキが一歩およばず…という残念な作品。まあ、三池崇史監督がリメイクしたくなるのはよくわかるよ。手を加えたらすんごくおもしろくなりそうなんだもん。
公開国:日本
時 間:108分
監 督:溝口健二
出 演:市川雷蔵、久我美子、林成年、木暮実千代、大矢市次郎、進藤英太郎、菅井一郎、千田是也、柳永二郎、羅門光三郎、夏目俊二、河野秋武、石黒達也、中村玉緒、十朱久雄、沢村国太郎、香川良介、杉山昌三九、南條新太郎、荒木忍、東良之助、西田智、上田寛、小柳圭子 他
平安末期。藤原氏による貴族社会が長く続いていたが、その勢いは台頭してきた武士によって脅かされつつあった。武士勢力の筆頭であった平忠盛は、朝廷の命により西方の海賊討伐を行い、成果を挙げて凱旋したものの、貴族たちの讒言により朝廷からの恩賞どころか上皇からのねぎらいの言葉すら貰えない始末。忠盛は、自分の馬を売らねば部下をねぎらう祝宴を開くこともままならぬほど窮乏しており、武士たちの怒りは爆発寸前となっていた。そんな中、藤原時信が、忠盛に恩賞を与えるべきと進言し謹慎させられたという噂を聞き、忠盛は息子・清盛に礼状持たせ時信の屋敷に向かわせる。その帰り、酒屋へ立ち寄ると、自分が白川上皇の息子であると噂されていることを知った清盛は衝撃を受け…というストーリー。
オープンセットの豪華さ…というか、本当に町を一つ造ってしまったんじゃないかと思うほど。カメラがワンショットでどこまで追っていっても、平安の京都がそこにある。なんと隙が無いセットなのか。おそらく実際の建造物も使用しているとは思うのだが、境目がよくわからない。1955年に、カラー作品でこの制作費の掛けっぷり、目眩がするほどだ。
原作は吉川英治。主人公清盛は、武士、上皇、僧侶と、自分はいったい誰の子かという、出自に悩みぬく。もちろんそんな設定はフィクションだろうが、同じ吉川作品である三国志の劉備玄徳が景帝の落胤であるという設定に近く(まあ、玄徳の設定は三国志演義のものだが)、実に吉川英治らしい冴えた娯楽要素だと思う。
#ちょっと韓国ドラマ臭い幼稚さではあるが、これはこれで“様式”だ。
僧兵とのぶつかりあいは、清盛というよりも信長のそれを彷彿とさせるが、まあそれもご愛嬌。別に歴史映画を目指しているわけではない。
出自の問題もさることならがら、存命の母親のビッチっぷりがハンパない。そんなクソみたいな母親のおかげなのかどうかわからないが、自分が誰の子かなんてどうってことないよ、自分がどうするか!それが大事!と吹っ切れるところでおしまい。ここで終わったのは非常に残念だが、まあ、平清盛がのし上がっていく姿を描ききれるものではないし、ヤング清盛に焦点を当てるコンセプトだと納得するしかない。
市川雷蔵なんて、林家木久翁の似てるんだか似てないんだかわかんないモノマネでしかしらない。今回、初めて観た。勢いもあるし顔力こそ感じるが、セリフも聞きにくいし、感情表現が一辺倒だし、力不足な感は否めない。まゆげが無ければ、始めの20分などはたして誰が主人公なのか…と、思う人もいるに違いない。
すごい!とは思うが、愉しめますよ…と薦めるのはちょっとはばかられる作品。もっと悪くいうと、吉川英治の表面上の娯楽+豪華なセット+見映えだけつくろった市川雷蔵=表面だけが華美なハリボテ映画。そんな風に思えてしまうのは私だけか。ストーリーに何か芯が足りない、そう思えて仕方が無い。
#溝口健二をディスるのは勇気いるけど。
公開国:日本
時 間:96分
監 督:三隅研次
出 演:勝新太郎、万里昌代、島田竜三、三田村元、天知茂、真城千都世、毛利郁子、南道郎、柳永二郎、千葉敏郎、守田学、舟木洋一、市川謹也、尾上栄五郎、山路義人、堀北幸夫、福井隆次、菊野昌代士、越川一、志賀明、浜田雅史、愛原光一、西岡弘善、木村玄、千石泰三、谷口昇、細谷新吾、長岡三郎、馬場勝義、結城要、淡波圭子、小林加奈枝 他
盲目でありながら居合いの達人である市は、下総飯岡の貸元・助五郎のもとを訪れる。助五郎が留守だったため、子分達が丁半博打の真っ最中の雑魚部屋で待つことに。市が博打の胴として参加を申し出ると、盲目の市を騙せると踏んで参加させる子分達だったが、逆に金を巻き上げてしまう。こんな子分しかないないようでは、親分も大したことは無かろうと立ち去ろうとする市。金を巻き上げられて怒り心頭の子分達は、市を追いかけて殺そうとするが、ちょうどそこに親分・助五郎が帰る。助五郎は市の居合抜きの腕前を買って市を客分として迎え入れる。特に仕事があるわけでもなく逗留する市が釣りをしていると、結核持ちの平手造酒という浪人と知り合いになるが、平手は助五郎の敵・笹川親分の客分になってしまう。立場的には敵同士だが、なぜかウマの合う二人は、酒を酌み交わしながら、ヤクザの喧嘩ごときで斬り合うハメになるはイヤだと語り合う。しかし、両一家の緊張は次第に高まっていき…というストーリー。
未だに、ジャパニーズ・ダークヒーローのトップバッターとして君臨する座頭市。子母沢寛の原作は数ページ程度のものだったらしいが、それをここまで膨らませたのだ。そう、これが座頭市ファースト。まさにここに座頭市生まれり。奇跡の一作。
シリアスとコメディさが共存するキャラクターは、勝新太郎であってこそ。何作か勝新の作品は観ているが、本作の演技のデキは際立っていると思う。
はじめの壷ふりで胴を願い出て、チンピラどもから金を巻き上げるシーンの、緊迫感と痛快さといったらない。掴みはバッチリ。
結核持ちの浪人が出てきたところで、対決しちゃうんだろうな…とか、今の生活がイヤになっちゃってる女性がでてきたところで市を追いかけていちゃうんだろうな…とか、予想はつく。だけど、予想通りにストーリーが進んだところで、全然嫌じゃないんだな。これが様式美っていうのかねぇ。
一緒についていくというおたねをスルーする市。女にわざわざ苦労させるのは忍びない…とかそういう了見だけではなく、単にめんどくさいんだよね…という感じも漂っているところが、またいいんだよね。
伊福部昭の音楽がいいし、モノクロであることを途中から忘れるくらい生き生きした映像。見えない市と一緒に、世界の臭いが伝わってくるよう。
最後は市が仕込み杖を捨てるシーンからわかるように、しっかりと完結した一作。これはお薦め。
公開年:2011年
公開国:日本
時 間:103分
監 督:松本人志
出 演:野見隆明、熊田聖亜、板尾創路、柄本時生、りょう、ROLLY、腹筋善之介、清水柊馬、竹原和生、長谷川公彦、鳥木元博、吉中六、重村佳伸、安藤彰則、中村直太郎、寺十吾、石井英明、松本匠、岡田謙、京町歌耶、野口寛、伊武雅刀、國村隼 他
コピー:鞘しか持たない侍とその娘、30日間の戦い──。
脱藩した武士・野見勘十郎は、さやだけの刀を持ち、一人娘のたえを連れて、お尋ね者として各地を逃げ回る日々。しかしついに多幸藩の追っ手に捕らえられ、殿の御前に。しかし、多幸藩には奇妙な“三十日の業”という刑があった。それは、母君を亡くして以来、笑うことができなくなった若君を、一日一芸で30日の間に笑わせられたら無罪放免、できなければ切腹という刑。これまでに成功した罪人は一人もいなかったが、勘十郎はその業に挑むことを決め…というストーリー。
基本的なプロットはものすごく良いデキだと思う。ダメ侍が“三十日の業”を課せられ、トホホっぷりをみせつつも、周囲がそれに協力していく。登場人物の心に変化が生じていくというのは、シナリオのセオリーの鉄則・常道である。本作は、主要な登場人物だけでなく、町の人々まですべての人の“心”に変化が生じる。松本人志のシナリオテクニックが向上したと思いたいのだが、今回は、高須光聖以外にも、数人が脚本協力としてクレジットされているので、その辺りに基本が判っている人がいるのかも(案外、板尾創路だったりして)。松本人志は原案のみに留まって、脚本はおまかせし、他人が書いた脚本で監督をやるという体制が、今後は良い結果を生んでいくかもしれない。
ただ、プロットの良さと松本人志のこだわりに齟齬が生じているかな?という点と、ディテールの甘さ…というか、その甘さを観客に気付かせてしまう点に、問題があるかもしれない。
映画ははじめの10分間での掴みが重要。その掴みで何をやっているかというと、三人の刺客に襲われて、致命傷と思しき傷を負ったにも関わらず、なぜか軽症で生き残っているという姿。薬草が伏線ということは理解するが、あの過剰なヴィジュアル表現に効果があったか否か。これは本作の掴みとして正しいのだろうか。本作の全体の雰囲気を表せてるわけでもないし、スカしにもなっていないように思える。
また、1日であの装置が作れるか?ということが頭をよぎる。それはおかしいという野暮なことをつもりはない。逆に、それを観て「ああ、この作品はファンタジーのつもりでつくっているんだな…」と感じた。でも、ファンタジーなら、それが気にならないような演出や雰囲気作りを、もっと前からすべきだったかと(もしかして、冒頭の暗殺シーンは、これは荒唐無稽なノリの作品ですよ!ってことを前置きするためだったのか?だとしても、失敗してるよな。ならブラックバックにすべきじゃない)。
まさか30日のネタをすべて見せるつもりなのか????まさかな…と思わせておいて、本当に毎日見せ始めたところは、良いと思う。しかし、その割りには、最後の5日間にやったことを端折ってしまうってのが理解できなかったりする(ここは貫くべきなのでは?)。
根本的な部分だが、なんでさやだけなのかって説明が浅い。戦うことを捨てたのはいいが、何で竹光でもなく、丸ごと刀を捨てるでもなく、さやだけを持って歩くのか。そこに至る心情とか過程はものすごく大事なはず。
#まあ、実際のところ、“さや侍”ていう単語が思いついて、まずそれを使いたくなった…ってのと、刀のさやに切腹したドスを収めるイメージが思いついて、それをやりたかったんでしょう。
彼は三十日の業をやろうとする。つまり死にたくはない。すべてを投げ出したくなっているけど死にたくない。単なる臆病者とうことか?現代社会で疲れたおっさんの投影か?(その割に、共感できないのはなぜか)
妻が死んだことで、落胆しきっちゃったのか?でも、娘が彼に問いかけ続けていた“なんで生きているのか?”という問いかけのアンサーがあるようで無い気がする。最後の坊さんが読む手紙の中にも、その答えは無いようにも思える。
まあ、いろいろ文句は書いたけど、前の二作から比べれば、格段に“映画”らしくて、及第点は充分に超えていると思う。最後の“歌”は、評価の分かれるところだと思うが、私はOK。実際に歌ったのか、歌ったように思えるような脳内表現なのか、それこそ受け手の自由であり、立派な映画表現だ。
蛇足だけど、私なら、最後のたえと若君が遊ぶシーンは、たえ一人が蝶二匹と戯れるシーンにする。野見勘十郎だけでなく若君も死んじゃってるのか、もしかして?っていう、クセのある一撃をスパ!っとカマしたい。
#野見さんについては特にコメントなし。案外きちんと演技していた。
負けるな日本
公開年:1970年
公開国:日本
時 間:116分
監 督:岡本喜八
出 演:勝新太郎、三船敏郎、若尾文子、米倉斉加年、岸田森、神山繁、細川俊之、嵐寛寿郎、寺田農、草野大悟、常田富士男、五味龍太郎、木村元、砂塚秀夫、田中浩、木村博人、浜田雄史、新関順司郎、熱田洋子、黒木現、滝沢修 他
三年前に訪れた蓮華沢の里に再びやってきた市。しかし、里はヤクザの小仏一家によって荒らされ廃れきっていた市の来訪を知った小仏一家の政五郎は、かねてから雇っていた用心棒に市を斬るよう依頼する。盲人を斬ることを嫌い一度は断った用心棒だったが百両出すと言われ、酒に酔った勢いで市を斬りに行く。しかし、一度の手合せで市が只者ではないことを悟り中断。お互いを「バケモノ」「ケダモノ」と呼びあいながらも、再度の勝負を約束して一献を交わす。その後、市は、小仏の下っ端を切ったかどで捕吏に捕まり牢に入ることに。本来なら打ち首のはずだが、なぜか生糸問屋・烏帽子屋の口利きで放免となり…というストーリー。
勉強不足のせいか、こんな作品があることを知らなかった。レンタルビデオ屋で発見して仰天。即レンタル。
まるで“ゴジラ対ガメラ”。途中で岸田森演じる九頭竜登場で、“ゴジラ対ガメラ対ジェットジャガー”みたいな感じになる。もう、大人の東映まんがまつり状態だ。
“用心棒”が一般名詞だとはいえ、その風貌はあきらかに黒澤明の用心棒そのものだし、よくもまあ黒澤サイドが許したなぁ…と。まあ、三十郎っていうキャラだったら怒ったかもしれないけど、別人だからセーフだったんだろうね(とはいえ、おいそれと出演しちゃう三船敏郎もスゴイかな)。
同じ“用心棒”だが、三船敏郎演じる佐々大作は『用心棒』桑畑三十郎の無骨ながら強かな性格とは異なり、『七人の侍」』の荒々しいが打算的という菊千代に近いキャラクター。このおかげで、限りなくマンガチックで超人的な座頭市というキャラクターとのバランスが取れているといえる。両者ともずーっと銭だ金だと言い続ける(笑)。
前半は、さすがに大物キャラクターを、どうやって両方とも生かそうかという点に苦心している様子が伺えて、シナリオはちょっとバタバタしている感じ。観ている側もはらはらするほどなのだが、つかず離れずの両者が、それぞれの思惑で状況を打破しようと動き始めると、どんどん馴染んでおもしろくなってくる。
とにかく、勝新太郎、三船敏郎の二人の演技は、そんなギクシャクを簡単になぎ倒すだけの力がある。加えて、米倉斉加年、岸田森、細川俊之と、悪人の波状攻撃が続くが、各々がそれぞれのキャラを立たせようと個性を炸裂。これが、なかなか効いていて、お祭り状態が加速する。
簡単に二人がお互いを認め合い、なあなあになって手を取り合ってしまう展開にしてしまいがちだが、そうならなかっただけでも、このシナリオは大したものだと思う。すったもんだありつつも、最後に両者の対決までもっていった(いけた)点は、よく頑張ったと評価したい。
#まあ、砂金を山にする必要があったのかどうかとか、そういう荒さは目を瞑ろう。
傑作とは言えないけれど、豪快なエンターテインメント時代劇として充分に愉しめた。昔の日本映画のパワーを堪能あれ。お薦めしたい。
負けるな日本
公開年:2010年
公開国:日本
時 間:129分
監 督:森田芳光
出 演:堺雅人、仲間由紀恵、松坂慶子、西村雅彦、草笛光子、伊藤祐輝、藤井美菜、大八木凱斗、嶋田久作、宮川一朗太、小木茂光、茂山千五郎、中村雅俊 他
コピー:刀でなく、そろばんで、家族を守った侍がいた。
江戸末期。加賀藩で御算用者(会計係)として仕える猪山家。その八代目・直之は、算術・そろばんの腕だけでなく、実直な働きぶりで周囲から評価される。やがて、町同心の娘お駒を嫁にもらい、出世も果たした直之。しかし昇進によって出費も膨らみ、家計は苦しくなるばかり。直之が猪山家の財政状況を調べ直してみると、既に借金総額は年収の2倍にも膨れあがっていることが判明。お家存亡の危機と悟った直之は、家財一式を売り払い返済することを決意。今後は自らが家計簿をつけることを宣言し、工夫を施しながら倹約生活を実践していくのだった…というストーリー。
正直、おもしろいっちゃあおもしろかったのだが、映画のシナリオとしてどうなのか…と非常に悩んだ。特に、一体だれが主人公なんだ?と。
一見、直之が主人公のように見えるが、家計崩壊の難局を乗り越えはしても、直之自身に何か変化があるわけでもなく、始めから最後まで愚直に真面目を通しているだけ。支出を制するが、入りの改善は試みない…これでは、単なるガマンのお話。
#むしろ計算が合わないことを無性に気持ち悪く思う潔癖さは、真面目を通り越して性癖だ。
じゃあ、直之だけじゃなくて、猪山家全体が主人公か?というと、そうでもない。狂言回し的な息子だって、仕込まれた算術の腕で明治政府に組み込まれていくだけ。戦争にすったもんだはあれどむしろ家系としては平常運転だ。これで、健全経営の阻害要因であった信之・つね夫妻が、直之の愚直さによって、その心に変化が…とかいう展開なら、実は彼らが裏の主人公ってことになるけど、最後までポンコツ夫妻だし。草笛光子演じるおばばだって、元々“ちょっとわかってる人”っていうだけで、何の変化もないし。じゃあ、妻のお駒かっていうと、ずっと夫に従う良妻なだけだし。
完全に主人公不在。こりゃ、むしろ主人公は、価値観が変遷してく“世の中”なんじゃないかと思えてくる。これって物語といえるのか?と。で、やっぱり何か変だなーと思って調べてみると、原作は小説ではなくて、こういう倹約した先人がいましたよ…という、一般向けの教養書。まあ、ノンフィクションと考えると、腑に落ちるわなぁ。
現在の日本の礎は、基礎能力の高い下級武士のおかげなのは、疑いの余地がないので、こういった話にスポットを当てたのはよしとしたい。でも、映画にするなら、架空でもいから、もうちょっと誇大に表現しないと。
例えば、直之は親のいいなりで、本当は気持ち悪いと思いつつも、武家の倣いに従って親を尊重し続ける。妻からは、普段は偉そうに御算用者の有り様を語るくせに親の金遣いにはだんまりか…と責められる。んで、すったもんだあって、直之ブチギレ。なんとか主導権を握り倹約することで、なんとか乗り切る。次は、息子の教育。スパルタ教育をほどこし、うまくいっているように見えて、息子の不満爆発で出奔。縁を切ろうとおもったのに、結局は親の仕込んでくれた能力で、ピンチを切り抜ける。でも、親にあわす顔はない。このまま生き別れか…と思いきや、父の体調が芳しくないことを聞き、ダッシュで帰郷。死に際には間に合い、最後に感動のやりとり…、こんな感じじゃないかな。
あれ…、大筋の流れはこの映画のとおりじゃないか。じゃあ、何がダメなのさ。
結局は、直之のキャラクターが死んでいて、心の起伏が見えないのが敗因ってことか。つまり森田芳光の演出がダメってことなんじゃん。はぁ…。
面子なんかよりも身の丈にあった生活をしないとね…、現状を正確に把握しないと改善はできませんよ…、という、あたりまえのことこを語る“静かな武勇伝”ですな。映画と思わず、人物紹介のコーナーだと思って見れば愉しめるだろう(その割には、ちょっと長いけど…)。
負けるな日本
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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