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公開年:1973年
公開国:日本
時 間:43分
演 出:勝間田具治
出 演:石丸博也、田中亮一、富田耕生、里見京子、八奈見乗児、松島みのり、柴田秀勝、北浜晴子、大竹宏、沢田和子、矢田耕司、田の中勇、青木笑児、永井一郎、小林清志 他
機械獣を倒したマジンガーZの前に、恐るべき超能力をもったデーモン族の妖鳥シレーヌが現れ、町中を破壊してヒマラヤに飛び去っていった。デーモン一族の復活を知った不動明はデビルマンに返信し、シレーヌを追跡する。その様子を見たドクター・ヘルは、デーモン族とマジンガーZを戦わせることを思いつき、デーモン族を催眠光線で操ることを画策する。一方、日本に戻った不動明は、デーモン一族の出現を兜甲児に告げる…というストーリー。
(マジンガーZ対暗黒大将軍)
公開年:1974年
公開国:日本
時 間:43分
演 出:西沢信孝
出 演:石丸博也、田中亮一、富田耕生、里見京子、八奈見乗児、松島みのり、柴田秀勝、北浜晴子、大竹宏、沢田和子、矢田耕司、田の中勇、青木笑児、永井一郎、小林清志 他
海底基地のゴーゴン大公は暗黒大将軍の命令を受けて、ニューヨーク、パリ、ロンドン、モスクワに攻撃を開始。各都市は壊滅的な打撃を受ける。その手は東京にも伸び、光子力研究所の兜甲児東京を守るためにマジンガーZを緊急出動させる。しかし、ゴーゴン大公の差し向けた戦闘獣の力は超合金Zを簡単に破壊するほどで、大苦戦。なんとか東京の壊滅は防いだものの、大ダメージを負ってしまう。ゴーゴン大公の失敗に激怒した暗黒大将軍は、自ら七つの軍団を指揮し、光子力研究所への攻撃を開始する…というストーリー。
さすがに一本づつレビューするのは心苦しいので日本まとめて(一つのDVDに収録されている)。
なんでこんなのをいまさら観るのかというと、『アヘンジャーズ』の“日本よ、これが映画だ”というコピーに腰がくだけたのをレンタルが始まって思い出したから。クロスオーバー作品は、日本じゃ昔からあったよな…と。
#まず、『マジンガーZ対デビルマン』から…
両方、永井豪作品なんだから、そんなお祭り映画をくるなんて簡単じゃん!って思うかもしれないが、『マジンガーZ』はフジTV系、『デビルマン』はテレ朝(NET)系、その垣根を飛び越えるなんて、今じゃ考えられないところが、実に稀有。
そして、“東映まんがまつり”ってのは大抵TV放送したものを再編集しているのだが(ブローアップ版とか表現する)、これはしっかりオリジナルのシナリオ(一部のバンク映像を除く)。
乱暴にクロスオーバーしたわけじゃなく、マジンガーの世界の地底にデーモン族が潜んでいて、デビルマンは不動明の姿でそれを監視していたという内容で、まあ、もちろんそれぞれのTV作品とは不整合は生じるだろうが、単体作品としては違和感が小さい。
シレーヌのデザインも違うし、TVとは別次元ストーリーということだよね。
そして、昨今の仮面ライダー映画ではおなじみの、新フォームや新武器を映画で先行登場させちゃうというフォーマットも、実現されている(TVでは未登場のジェットスクランダー)。
#子供の頃、“対”ってついてるくせに戦わないのって変…っておもってたけど、VSって並び立って戦う意味でも使うらしいので、まんざら間違いでもないらしい。
昔、本作がTV放送されたことがあって、私は、チャンネルとひねったら、ラストのマジンガーZとデビルマンが握手をする(と記憶していた)ラストシーンで、見逃した自分の馬鹿、馬鹿、馬鹿…と悶絶したのを覚えている。この歳になってやっと観たわ。
#続いて、『マジンガーZ対暗黒大将軍』…
本作の特徴は、TV番組として『マジンガーZ』→『グレートマジンガー』と流れるのを、映画で先行紹介しちゃったこと。じゃあ、TVの最終回のブローアップ版? と思いきや、設定がけっこう違ったりして、
むしろ、映画版からTV版への流用が多いんじゃないかと思える。
で、この主役交代劇は、映画先行上映だけでなく、子供雑誌でもシルエットだけ小出ししたり、当時の子供の期待を散々煽るというメディアミックス戦略をとったパイオニア的作品。
いくらなんでももう無理~~というくらいに、マジンガーZはコテンパンにやられるのだが、「主役がやられる~~」という感情と、新ロボが出てくる!というワクワク感というアンビバレントな感情を同時に味わう素敵な経験をしているわけだ。ただ、突然、ばったばったと敵をなぎ倒す無双ロボットが登場して、「マジンガーZしょぼすぎ…、いままで何だったのよ…」的なせつない風が心に舞うんだけどね(笑)。
“東映まんがまつり”って、『マジンガーZ対デビルマン』の同時上映が、『仮面ライダーV3対デストロン怪人』、『ロボット刑事』、『キカイダー01』、『バビル2世』、『魔法使いサリー』で、『マジンガーZ対暗黒大将軍』の同時上映が、『五人ライダー対キングダーク』、『フィンガー5の大冒険』、『イナズマンF』、『ゲッターロボ』、『魔女っ子メグちゃん』と、夢のラインナップでおなかいっぱいになっちゃう。まあ、ブローアップ版でお金を取ろうなんてビデオの無い時代ならではで、TV録画にレンタルビデオのある今のご時勢では考えられないラインアップである。
とにかくノスタルジー満載の作品。いや、ただそれだけかも。
公開国:アメリカ
時 間:140分
監 督:マーク・フォスター
出 演:ビリー・ボブ・ソーントン、ハリー・ベリー、ピーター・ボイル、ヒース・レジャー、ショーン・コムズ、モス・デフ、マーカス・ライル・ブラウン、ミロ・アディカ、ウィル・ロコス 他
受 賞:【2001年/第74回アカデミー賞】主演女優賞(ハル・ベリー)
【2002年/第52回ベルリン国際映画祭】銀熊賞:女優賞(ハル・ベリー)
【2002年/第26回日本アカデミー賞】外国作品賞
コピー:たかが愛の、代用品。
ジョージア州の州立刑務所に勤務するハンク。かつて自分の父もここに勤務しており、今、息子ソニーも勤務し始め、親子三代看守の一家である。ハンクが引き継いだの職業だけでなく、黒人差別主義も引き継いでいたが、ソニーは心優しい男で親たちの考え方に疑問を感じていた。そんな中、黒人の死刑囚ローレンス・マスグローヴに対する刑が執行されることに。ハンクとソニーが執行の任務に就いたが、慣れないソニーは取り乱してしまい、満足に職務を遂行することができなかった。これに激昂したハンクは、ソニーを強く叱責。家に帰ってもソニーを許すことができず、彼を追い出そうとするが、ソニーが逆襲しハンクに銃を向ける。ソニーは父親に自分を愛しているかと尋ねるが、ハンクは無情にも愛していないと応える。すると、ソニーは自分は愛していると告げ、そのまま自分の胸に発砲し自殺してしまう…というストーリー。
ヒース・レジャー演じるソニーが早々にお亡くなりになる。早逝した今、改めて観るとちょっとぞっとするシーンだったりする。
ハンクは、単に高圧的な男というわけではない。ハンクの父が、何をやってもハンクを褒めることなく育てた結果、ハンクは人を悪く評価するようになってしまっており、また、子供の褒め方がわからない人間になってしまっている。また、常に怒られ否定され続けたため、何をしても身の入らない人間になってしまっている。いやいや、彼は刑務所で責任を持った仕事についているじゃないか。その責任感ゆえに息子を攻め立てていたのでは?と思うかもしれないが、それは、彼の父が“男”とは男らしい仕事に就いていることだと刷り込んでいるためである。
人間としての本来の下地は責任やストレスを感じることは大嫌いなはずなのに、刷り込まれた社会性ゆえに正反対な人間を演じなくてはいけない。そのアンビバレントな状況を長く続けているが故に、仕事場では高いストレスを感じ続け、高圧的な人間になっていしまっているのだ。それが証拠に仕事をやめてしまった彼の、邪気の消えた姿よ。とても別人とは思えないほどで、いかに看守という職業に就いていることや、家族の中で男らしく振舞うことが、彼に影響を及ぼしていたか判るというものである。
せめて息子が同じ職場でなければよかったのだが、まあ、そこが南部社会らしいシチュエーション。息子は息子で、父(というか親)の愛を渇望していたながらも家庭ではそれを得ることができなかったため、“職業”という緩衝材がれば、仕事を通せば父の愛を得られるだろうとかんがえ、同じ職場に入ったのだろう。私はそう考える。しかし、祖父、父と受け継がれた負の遺産はそう簡単には消えない。父はついぞ息子に愛を傾けることは無かった。目の前で息子が自殺したというのに淡々としたハンクの様子が、そら恐ろしく見えるのだが、愛を感じたことが無いのだから人並みの悲しみが彼を襲うことはないのである。
肉欲の愛が、家族への愛と同じというつもりはないが、レティシアとの関わりによって“人”に対する愛を始めて知る。はじめは、おなじく息子を亡くしたシンパシーからだったかもしれないが、そのとまどいは「これが愛だ」という確信に変わるわけだ。
#そこまで激しすぎるセックスシーンが必要かどうかは、10年ぶりに観たいまでも疑問だが、まあ、これが無ければ話題になることもなかったし、ハル・ベリーが色々受賞することもなかっただろう。
じゃあ、ハンクと売春婦やダイナーの女との関係と、レティシアとの違いは何か。それは案外、“期待されること”なのかもしれない。自分の父親から求められることがなかったものであり、それに気づき、父の呪縛を解くわけだ。
そして、特徴的な場面といえばやっぱりラストだろうね。どう考えても二人の関係は壊れそうなのに、ただアイスクリームを買ってきた彼の様子を見ただけでなんとなく、まとまってしまうという、この奇妙な感覚。プラスチックのスプーンがなんとなく、彼の幼児性というか、子供のころからストップしたままの何かを象徴しているようである。見た目はおっさんだが、ハンクを見つめるレティシアのまなざしの半分は、息子を見つめるそれであるようにも見える。
展開の予測を微妙にはずしてくる、うまいシナリオだと思うし、人生に疲れきった残ったぼろ布同士の愛が、なぜか綺麗に見えるという、大人の作品。これも、時間を経てから観なおすと、味わいが増す。
#しかし、今観ても、コピーの“たかが愛の、代用品。”という意味がわからない。理解できないのは、私の愛の修行が足りないからか?(笑)
公開国:アメリカ
時 間:109分
監 督:ニコラス・ストーラー
出 演:ジョナ・ヒル、ラッセル・ブランド、エリザベス・モス、ローズ・バーン、コルム・ミーニイ、ショーン・コムズ、アジズ・アンサリ、カリ・ホーク、ニック・クロール、エリー・ケンパー、カール・テオバルド、カーラ・ギャロ、T・J・ミラー、クリステン・シャール、クリステン・ベル 他
ノミネート:【2010年/第16回放送映画批評家協会賞】コメディ映画賞
【2011年/第20回MTVムービー・アワード】コメディ演技賞(ラッセル・ブランド)
レコード会社のアシスタントとして勤務するアーロンは、今はすっかり落ちぶれているが、かつては“ロックの神様"と呼ばれた伝説的スター、アルダス・スノーの復活ライブ企画を思いつく。近年の業績悪化を懸念する社長は、その企画にGOサインを出したものの、イギリスにいるアルダスを72時間以内にロサンゼルスに呼び寄せて、かつて彼が伝説のライブを行ったグリークシアターで、復活ライブをさせるようアルーロンに命じる。アーロンは即ロンドンに向かったが、肝心のアルダスは、最新シングルをけなされた上に、恋人ジャッキーと別れることになってしまい、酒とドラッグに溺れパーティー三昧。おまけに別れた後のジャッキーはソロ活動で大ヒットを連発し、アルダスは嫉妬で自暴自棄になっていた。そんな彼の破天荒な行動に振り回されながらも、なんとか、ロス行きの飛行に乗せようとするアーロンなのだが…というストーリー。
先に『寝取られ男のラブ♂バカンス』とかいう、いかにもお気楽なタイトルの作品があって、それのスピンオフ作品らしい。そっちの脇役で本作のアルダス・スノーが出ている模様。残念ながらそっちは観ていない(というかスピンオフであることを知らずに借りた)。もしかすると、そっちを先に観ておけばより楽しめたのかもしれない。
昨日の『ベルベット・ゴールドマイン』とは、音楽業界繋がりというだけでなく、一時代を築いたイギリスのミュージシャンが落ちぶれた後にアメリカに行くという内容や、主役ミュージシャンの性的倒錯とか、転換ポイントで“20th Century Boy”が使われたりとか、最後に歌われる“毛皮”の歌とか、微妙に意識している気がする(知っててこの2本を借りたわけではなく偶然なのだが…)。
しかし、振り返ってみると、内容は何も無い(笑い)。コメディなんてそんなもんでいいのだが、それにしても何も残らない。アルダス・スノーというキャラクターのインパクトと気持ち悪さだけが残る。いっそ、この役者はアルダス・スノーって名前で活動すればいいのに…と思うくらい、マッチしていると思う。
そんなクレイジーなミュージシャンに振り回される、まじめな太っちょ兄ちゃんのお話で、これもありがち。まあ、クレイジーていったって、ドラッグにセックスとありきたりで、太っちょ兄ちゃんアーロンも、何だかんだで、ドラッグにもセックスにも巻き込まれちゃう。おわかりのように下品ではちゃめちゃなノリをひたすら続けているだけである。
まあ、それでも、ただただ下品で頭を一切使うことのないコメディ作品というのは、世の中には必要である。し、か、し、だ。終盤の3Pのくだりは必要だったろうか。そこまで、それなりに微笑ましく観ていたのだが、これで途端に気持ち悪くなってしまった。日本未公開なのはこのせいなのでは?と思うほど。
そのせいで、アルダスが愛する息子とのくだりも、いまいち生きてこなかったと思うし、最後のライブに至るまでの流れも、盛り上がりを欠いたと思う。
ちょっと、“蛇足”が鼻に付く、及第点に一歩及ばないコメディ。
#マルフォイ…………
公開国:イギリス
時 間:124分
監 督:トッド・ヘインズ
出 演:ユアン・マクレガー、ジョナサン・リス=マイヤーズ、クリスチャン・ベイル、トニ・コレット、エディ・イザード、エミリー・ウーフ、マイケル・フィースト、ミッコ・ウェストモアランド、リンゼイ・ケンプ 他
受 賞:【1998年/第51回カンヌ国際映画祭】芸術貢献賞(トッド・ヘインズ)
【1998年/第52回英国アカデミー賞】衣装デザイン賞
【1998年/第14回インディペンデント・スピリット賞】撮影賞(マリス・アルベルチ)
コピー:もっと、グラマラスに もっと、スキャンダラスに70'sロンドン、世界を変えられると思っていた。
1984年、ニューヨーク。ヘラルド紙の記者であるアーサーは、70年代初頭のロンドンでカリスマ的人気を誇ったロック・ミュージシャン、ブライアン・スレイドの追跡調査を編集長から指示される。アーサーはロンドン出身で、ロック少年だあ自分が過ごしたロンドンを思い出すのだった。ブライアンは、宇宙時代の神“マックスウェル・デイモン”をステージで演じ、グラムロックの旗手としてカリスマ的存在だったが、74年のワールド・ツアーの最終日にステージ上で暗殺される。しかし、それはマックスウェル・デイモンという架空の役柄を演じることに疲れたブライアンの狂言だったことが4か月後に発覚。彼の支持者は激しく失望し糾弾する。そのまま、ブライアンは消息を絶ったのだが…というストーリー。
ユアン・マクレガーが主演となっているが、主演はどうみてもジョナサン・リース=マイヤーズだろう。でも、ユアン・マクレガーを主演扱いしたくなるのは、カート・ワイルドの野外ライブを演じる彼の演技を観れば理解できる。大胆でキレキレの演技は、狼に育てられたと噂がたつほどの男を見事に演じ、すっかり観ている側を納得させてしまう。そして、単なるバイセクシャル的な風貌だったブライアン・スレイドに、羨望と困惑と羞恥心の入り混じった表情をさせ、完全な転換点であることを、強烈に印象付けている。
また、クリスチャン・べール演じるアーサー記者が、ロック少年だった自分の過去と、ブライアン・スレイド関係者の証言とが照らし合わせ、そして交錯させながら、ストーリーを展開させていくのが、非常にユニークで秀逸な構成だと思う。
実際のロックの歴史としてグラムロックが正しく表現できているか否かは脇においておくとしよう。音楽シーンに詳しい人には、納得できない描写が盛りだくさんに違いない。でも私は洋楽は詳しくないので。詳しくはないけど、グラムロックは好きなジャンル(“20th Century Boy”もグラムロックの範疇か)。
モダンなイギリスと、いかにもショービジネスなアメリカの音楽シーンの比較が、発信側と受け手側の境界のあるべき姿というものを考えさせてくれる。「世界を変えようとして自分を変えてしまった」 自分がムーブメントの中心になればなるほど、まるで量子物理学でいうところの観察者効果のように、客観と主観が渾然となり混乱の極みに達する。その破綻の結果が、狂言暗殺だったわけだが、果たしてそれは破綻だったのか否か…。この視点は実におもしろい。
シナリオ上、ちょっと理解できないのが、なんでヘラルド紙はこのタイミングでブライアン・スレイドの追跡調査をしようと思い、なんでその調査に突然興味を失ったのか…という点である。特に陰謀だとか作為があったわけでもなさそうで、そこだけなにか釈然としない。
14年前の作品だが、時間が経過して、妙味がじわじわとわいてくる作品だと思う。評価がぱっくり分かれる作品だとは思うが、未見の方にはお薦めしたい。
公開国:ノルウェー
時 間:103分
監 督:アンドレ・ウーヴレダル
出 演:オットー・イェスパーセン、ハンス・モルテン・ハンセン、トマス・アルフ・ラーセン 他
コピー:本当に、本当にいる! これは全世界を揺るがす衝撃的な記録映像である!
ノルウェーのヴォルダ大学の学生3名は、地元で問題になっていた熊の密猟に関するドキュメンタリーを作成していた。密猟事件を取材していくと、その容疑者としてハンスという男が浮かび上がる。キャンプ場に滞在していた彼は、取材に一切応じない。3人がハンスの行動を監視していると、毎夜森に入っていくことがわかり尾行することに。すると、ハンスが相手にしていたのは、おとぎ話に登場する“トロール”。からくも逃げ切る一行。混乱しつつもハンスに同行取材を申し込むと、難色を示しつつも許可してくれた。ハンスはノルウェー政府機関であるトロール保安機関(TSS)に雇われたハンターで、本来の生息テリトリーから逸脱したトロールを殺す仕事を請け負っているのだが、政府のトロールに対する扱いへの疑問と、あまりにも過酷な仕事ゆえ、彼らの取材がそれに一石を投じることになるのではと思ったのだ。そして3人はハンスの指示の元、トロール捜索に帯同するのだったが…というストーリー。
やはりトロールという北欧ならではの存在を扱っている点が、日本でのとっつきにくさにつながっているのか。日本でトロールといえばムーミン。さすがに本作にでてくる生物がムーミンのようにかわいいということはないのだが、人に害をなす謎の生物としては、いささか緊迫感に欠けるフォルム。コミカルな生物が人間を襲うというギャップを狙うという演出上の作戦も無いわけではないのだが、さっとした気持ち悪い生物だったりして、なにかピンとこない。
それでもCGは、なかなかがんばっていて、ノルウェーの技術はなかなかのものである(ノルウェーのスタッフなのかどうかは知らんけど)。おそらく同じものを日本でつくったとしたら、もっと興ざめするものになっていたと思う。
ドキュメントタッチで、見つかったビデオテープを編集しました…的な手法は、『パラノーマル・アクティビティ』や『ブレアウィッチプロジェクト』とか、もう使い古された手法で食傷ぎみ。ビデオカメラが収めた謎の生物ってことだと『クローバーフィールド/HAKAISHA』ってのもあるし。
でも、舞台が北欧というわかっているようでいまいちわかっていない地域である点と、自作の強化服でトロールに退治するハンターのローテクっぷりのおもしろさや、国家的に対処しているわりにひっそりと地道に隠蔽されている様子が、なんともいい味を出している。仮にアメリカでリメイクしたとしても、国家的プロジェクトという設定にしてしまったらすっかり興ざめしてしまうだろう。秘密結社的なお仕事として脈々とボランティアが続けられていた…みたいな設定にでもしないとね。ハリウッドはリメイク権を買うような気がするのだが、彼らがどう仕上げるのかは、すごく興味がある。
トロールがなぜ、本来のテリトリーから逸脱しはじめたのかという説明は、うまくできていると思う。光を浴びるとできるビタミンDをうまく処理できないから光を嫌がるという設定もおもしろい。だけど、光を一定量浴びると爆発しちゃうとか、老齢のトロールは固化しちゃうというのはやりすぎじゃないかなぁ。倒れて、それを始末するのが一大事…とか、そういう設定のほうがよかったかも。
なんで、キリスト教徒じゃダメなのか…については、設定がいまいち消化しきれていないかと。北欧神話をはじめ土着の神話がキリスト教に駆逐されたという歴史があるから、言いたいは判る、しかし、トロール退治の向き不向きとは繋がりが表現しきれていない。
『シェーン』のように巨大トロール退治を終えたハンスは去っていくのだが、彼らに取材させ映像に収めさせたにもかかわらず、なぜ放置したのか。車は壊れ、まともに岐路につける可能性は高くない上に、派手にバトルしたので秘密機関に位置がわかってしまうのは明白。疲れきってしまって、取材を受けることすら面倒くさくなって、自暴自棄になってしまったとでもいわんばかりなのだが、そういう解釈でいいのかしら。まあ、相手がトロールだけでに、なんかボヤーンとしたゆるいオチなんだけど、このゆるさが、作品のウィークポイントであり魅力でもある。
なんだかんだいって、個人的にはかなり楽しめたので、隠れた迷作としてお薦めしたい。
公開国:アメリカ
時 間:80分
監 督:クリスチャン・セスマ
出 演:ジェイソン・ミューズ、サマンサ・ロックウッド、ダニー・トレホ、ニック・ナック・ニコテラ、マイク・ハットン、ポール・スローン、ニック・タートゥーロ、フレッド・ウィリアムソン 他
オタク男と美人のカップル。男はサプライズプレゼントをしようと女に目隠しをして宝石店に連れて行く。女はピリッとしない男にうんざりぎみで、おまけに宝石店は閉店していて、サプライズは完全に失敗。しかし男は諦めず、強引に宝石店を開けさせる。しかし、思った以上に宝石が高価で怖気づいていると、突然強盗が襲撃。二人は物陰に隠れ、強盗たちが去るのを待っていたが、そんな中でも女は日頃の男の退屈さをけなし続け、別れようと告げる。すると、なぜか強盗同士が仲間割れを始め銃撃戦が始まり、カップルは難を逃れることに成功。別れを告げられて発奮した男は、どさくさに紛れて宝宝石を奪って逃走してしまう。強盗失敗の報告を受けたギャングのボスは、逃げたカップルの始末をその筋では有名な“掃除屋”に依頼する。一方、旅行中の兄弟は、車が故障してしまい、助けをもとめて荒野を彷徨っていると、傭兵の訓練施設に迷い込んでしまう。小太りの弟は傭兵たちに見つかって捕らわれてしまい…というストーリー。
#いやー、パソコン壊れた壊れた。新PCを購入し環境がやっと整った。年末に無駄な出費である…。
ダニー・トレホがジャケットにバーンと出ているわけだが、彼が出ているならまあ借りてみるか…と。薄々感づいてはいたが、案の定、彼は主役でもなんでもない。その他に有名な俳優は出ていないから彼を前面で出さざるを得ないという事情(まあ、日本未公開作品だからね)。でも、彼はどんなB級映画でも、爪痕は残してくれるはず。うまくいけば『マチェーテ 』ばりにやらかしてくれるかと。
いかにもB級な画質で低予算感満載なのだが、雰囲気は案外悪くない。
ヘッポコカップルがボニー&クライドばりに暴走しちゃうお話と、旅の途中に傭兵集団のキャンプに紛れ込んじゃうドタバタ話と、ギャングのボスが宝石を取り戻そうとするお話が、オムニバス的な構成で展開される。それぞれのキャラクターが荒々しく粗暴な感じで、それが本作の全体の雰囲気を作り出している。無駄に観客の期待を煽らない、軽妙さがある。
オムニバス的な流れは、ダニー・トレホの登場で集束していき、あとは“掃除屋”の登場を待つ展開に。まあ、読めなくもない展開なだけに、もうちょっと、他の要素を加えて、カオス状態をつくったほうがよかっただろう。
例えば、裏切った強盗メンバーがなんで裏切りに至ったのかを、もうすこし厚く描写するとか、傭兵集団を最後のむちゃくちゃ状態に、何とかして絡めるとかね。
#そして、やっぱりダニー・トレホはあんまり大事な役ではない。
結果的に、一番ぶっ飛んだ設定なのがあの兄弟。この二人のキャラクターを掘り下げてリメイクするとおもしろくなるかも。脚本は監督のクリスチャン・セスマが書いてるんだけど、この人はもしかすると化けるかもしれない。覚えておきたい。
珍作だけど、非常に好感がもてる一作。さすがに新作料金だと納得できないかもしれないけど、旧作料金なら間違いなく納得できると思う。
公開国:デンマーク
時 間:140分
監 督:ラース・フォン・トリアー
出 演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・モース、ピーター・ストーメア、ジョエル・グレイ、ジャン=マルク・バール、ジョエル・グレ 他
受 賞:【2000年/第53回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ラース・フォン・トリアー)、女優賞(ビョーク)
【2000年/第13回ヨーロッパ映画賞】作品賞、女優賞(ビョーク)、観客賞[監督賞](ラース・フォン・トリアー)、観客賞[女優賞](ビョーク)
【2000年/第16回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞
【2000年/第24回日本アカデミー賞】外国作品賞
【2000年/第43回ブルーリボン賞】外国作品賞
コピー:魂の歌声は、誰にも止められない。
1960年代、アメリカの田舎町。チェコ出身のセルマは、一人息子のジーンを育てながら、工場で働いている。セルマは次第に視力を失うという遺伝性の病気を患っており、ジーンもやがて発症することがわかっているのだが、ショックを受けないように秘密にしており、ジーンに手術を受けさせるために、工場勤務だけでなく内職もして、こつこつと貯金をしているのだった。そんな彼女はミュージカルが大好きで、地元のアマチュア劇団に参加したり、友人のキャシーと一緒にミュージカル映画を観ることを楽しみにしていた。しかし、セルマの視力は日に日に落ちており、今では、映画の映像を満足に観ることも出来ない状態になっていた。そして、とうとう、工場で失敗を重ね続けたため解雇されてしまう。これまで貯めていた金額でなんとか手術をしてもらおうと、貯めていた金を持って病院に行こうとすると、何と約2000ドルの貯金が無くなっていた。いままで、親切にしてくれた警察官のビルの仕業であると思い、金を返すように彼に迫るのだったが…というストーリー。
以前に観たときは、もう二度と観ることはないだろう…と思っていたが、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』と盲人つながりで思い出して…。
前半の展開は、コールタールの中を歩かされているように、ネバネバと進む。上映時間が長めなのはそのせいである。
これでもかこれでもかと不幸が降ってくるのだが、かならず不幸の前フリがあって、予想通りの不幸な目にあう。こんな予想のつく内容なのに、飽きさせないのというのは物凄い才能でだと、素直に感心する。
うって変わって、ビルを殺害した後は、テンポが急速に上がる。正直それまでは、このノリが最期まで続くのなら観てられないな…くらいの気持ちになったのだが、これを境にガラリとかわる。もちろんこれも計算だろう。そこで私が一番好きなのは、法廷でのミュージカルシーン。といってもセルマの妄想だが。これが実に観ている側の心も踊る良い出来映え。そしてその妄想の楽しさと、現実の理不尽さのコントラストがたまらない。
そして、本作はトリアー監督のアメリカ批判の結実なのかな…という気がする。知力でも肉体的にも人より劣るセルマ。彼女は、ただただ、“産んでしまった”という罪を購うために、薄給を貯蓄し続けているだけ。そんな彼女を、見得と強欲と自分勝手が、破滅に追いやるのだ。見得と強欲と自分勝手こそ、アメリカの象徴だと彼は言っているような気がする。
そんな彼は、心の病により飛行機に乗れず、アメリカが舞台の映画でもヨーロッパで撮影するしかない。そんな彼が、なんで、『ドッグヴィル』『マンダレイ』とアメリカ三部作を作ろうとしているのか(まあ、3作目は製作されてないけど)。アメリカの歴史や社会構造に、人間の負の部分の象徴を見出しているのだと思う。
前回に観たときは、なんと理不尽だろうと思ったのだが、改めて観ると、何だかんだいってセルマはビルを撃っているし、法廷で自分の父親のことについて嘘をついているし、致し方ないのかな…という思いが沸いた。もっとうまくやれば、私刑は逃れられるだろうと、前回は思ったが、真の目標である息子の手術させ確実に叶えば、もうそれでいいという思いや落胆が良く判った。まあ、チャンスは与えられるが、そのレールからはずれたものに対してはひたすらに厳しいという、アメリカ社会への落胆の象徴とも言える。
そして、映画史上に残るであろう、文字通りの幕切れ。おそらく、このラストシーンが始めに思いついて、そこから逆算で膨らませていったのではないかな?と私は思っている。
トリアー監督は結局この陰湿なノリから外れることが未だにない。『ドッグヴィル』『アンチクライスト』は闇の部分が強すぎる。年々エログロの要素が増しており、おそらくこの路線は、一般人が付いていけないところまでいってしまうだろう。でも、どれだけ過激になろうとも、トリアー監督のラインナップを追って観続けたら、馴れてしまい、新しい感激はおきないだろう。今のトリアー監督は、彼自身が闇にまっしぐらだと思う。
正気と狂気のバランスは、本作が一番適度であり、結果的にトリアー監督の現時点での最高傑作であろう。
前半はセルマに感情移入してしまいがちだが、感情移入してしまうと本作を観るのは結構つらい。神が下界の様子を無感情で眺めるように、あくまで客観的に眺めていると、味わい深く観ることができるだろう。
観ているだけで鬱になりそうな作品なので、手放しでお薦めはできないが、体力のある時にどうぞ。
公開国:イタリア、フランス、ベルギー
時 間:106分
監 督:ジェラール・コルビオ
出 演:ステファノ・ディオニジ、エンリコ・ロー・ヴェルソ、エルザ・ジルベルスタイン、カロリーヌ・セリエ、ジェローン・クラッベ、マリアンヌ・バスレール、オメロ・アントヌッティ 他
受 賞:【1994年/第52回ゴールデン・グローブ】外国語映画賞
【1994年/第20回セザール賞】音響賞(Dominique Hennequin、Jean-Paul Mugel)、美術賞(Gianni Quaranta)
カルロ・ブロスキは10歳の時に去勢され、カストラート(去勢された男性歌手)となる。彼の8歳上の兄リカルドは弟の歌の才能を愛し、弟のために曲を書き、その歌を弟が唄うという関係を続けていた。二人は芸も私生活も一心同体だった。ある日、イギリス宮廷作曲家ヘンデルがナポリの街頭でカルロの歌声を聴く。その歌声に驚いた彼は、カルロにロンドンにくるように誘うのだったが、リカルドも一緒来るという条件は受け入れられなかったため、ロンドンにいくことはなかった。それから12年。30歳のカルロはファリネッリと名乗り、その歌声で女たちを魅了し続けていた。興行先では、人気者のファリネッリが女性を誘惑し、去勢されているファリネッリに変わり肉体的な喜びを女性に与えるという奇妙な夜を過ごしていた。そんな時、ファリネッリは、アレクサンドラという女性から、ロンドンにある貴族オペラ座の窮状を救って欲しいと依頼され、彼の地に向かうのだったが…というストーリー。
ファリネッリは実在した伝説のカストラート。ただ、史実では、歌手として名声を得て、王室歌手として長年活躍し、裕福な晩年を過ごしたという人物。どちらかといえば順風満帆で紳士だった彼の人生が、どれだけドラマチックに描けるというのか。
案の定、本作は伝記物なのか…といわれると甚だあやしくなる。兄の設定や去勢の方法が、どこまで史実なのかどうかは不明だが、兄との確執話はおそらくフィクションだと思われる。本作を伝記映画とカテゴライスすることはできないだろう。落馬したから去勢されたのか、去勢の言い訳で落馬したことになれたのか。元々裕福な家の子供だったらしく、貧しさ故に一か八かで去勢されたわけではないだろう。
とにかく、兄弟で女性を分け合う描写は、気持ち悪い。弟が去勢されていたからといって、途中で兄と入れ替わる約束?なんのこっちゃ。この去勢というのが、中国歴代王朝における宦官のように、陰茎も睾丸も取るようなものだったのか。いや、おそらくカストラートの場合は、睾丸だけを取っただけだと思われるので、子種を残す目的でないのならば、別にファリネッリ一人だけで、女性と性行為をすることは可能なのだ。じゃあなんでか…、そういう兄弟の約束だから…って、父親のいいつけが発端とはいえ常軌を逸している。なんと趣味の悪い脚本だろう。
ラストに至っては“音楽同様、共作の成果…”という「だから何?」という展開。これで終わられてもねぇ…。ただの、趣味の悪いエグいエロ話の域を出ていないと思う。
ただ、いくらカストラートといっても不具者であることにはかわりなく、ファリネッリは身体障害者である伯爵夫人の子供に深くシンパシーを感じてしまう。そして、その子に父親になってほしいとねだれると、素直に伯爵夫人に結婚を申し込んでしまったりする。自分の才能を愛している反面、引き換えにしたものの大きさに、引き裂かれるような感情は、ファリネッリが随所に見せる潤んだ瞳が物語っているということだろう。
しかし、モチーフの人物や世界観の重厚さがないせいなのか、どうも、私には空々しく感じられた。同じ音楽家の作品である『アマデウス』と比較すると、5分の1のおもしろさもないと思う。
技術的に着目すべきが、ファリネッリの歌声を再現するために、男性と女性の歌をシームレスに合成したところなのだろうが、残念なのは、せっかくの歌声が、口パクに見えるという点。いや、実際口パクなので、当たり前なのだが、その歌声が出ているんだろうな…というアゴやのどの動きをしていないんだもの。そこで興醒めさせちゃダメだと思う。
もう一度いうが、客観的に評価できないほど、気持ち悪かった。感銘を受けたところもなし。もう二度と観ないと思う。
公開国:アメリカ
時 間:156分
監 督:マーティン・ブレスト
出 演:アル・パチーノ、クリス・オドネル、ジェームズ・レブホーン、ガブリエル・アンウォー、フィリップ・シーモア・ホフマン、リチャード・ヴェンチャー、サリー・マーフィ、ブラッドリー・ウィットフォード、ロシェル・オリヴァー、マーガレット・エジントン、トム・リース・ファレル、ニコラス・サドラー、ロン・エルダード、フランセス・コンロイ、ジューン・スキッブ、デヴィッド・ランズベリー 他
受 賞:【1992年/第65回アカデミー賞】主演男優賞(アル・パチーノ)
【1992年/第50回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、男優賞[ドラマ](アル・パチーノ)、脚本賞(ボー・ゴールドマン)
全寮制の名門高校ベアード校の奨学生チャーリーは、感謝祭の日に実家に帰る資金を稼ぐため、盲目の退役軍人フランクの世話をするアルバイトを引き受けることに。学校では、トラクス校長と愛車が生徒たちの前でペンキを浴びせられるという事件が発生。校長は、前日の夜に事件現場の近くにいたチャーリーとジョージを呼び、事情聴取を行う。週明けの特別集会までに、犯人の名を言わなければ退学にすると脅し、さらにチャーリーには言うとおりにすれば大学進学の奨学金も与えると持ちかけた。犯人である同級生はおおよそ判っていたが、彼らを売ることをためらうチャーリーは、その悩みを抱えながら、フランクの世話のバイトに向かう。ところが、フランクは突然ニューヨークへ旅をすると言いだし、フランクにも同行を強要するのだった…というストーリー。
アル・パチーノのオスカーに文句をいうやつはいないだろう。瞳孔を塞ぐコンタクトでもしているのではないかと思うくらい、“光のない目”を完璧に演じていると思う。ニューヨークの車が多数行き交う道路を突っ切ったあと、ゴミ箱にぶつかって転ぶシーン。視覚のない人間の出来得る防御、そうとしか見えない完璧な演技である。
怒りを抑えることを知らず、人を威圧し、周囲を不快にする元軍人のフランク。自分が周囲から疎まれていることは判っているのだが、それを素直に認めることができない。自分の生きる意味をまったく見出せないかれは、長年考え続けていた、自殺へのプランを粛々と遂行する。
しかし、そのお手伝い役として、アルバイトを雇うのはいかがなものか。普通はそう思うが、これから自殺をしようという人間が、そんなことにまで気を使うわけがない。そしてチャーリーは、人生経験は浅いながらも、百戦錬磨の彼の自殺を何とか止めようと必死にがんばるのである。
フェラーリのシーンで、「そんなアホな…」と興醒めする人が結構いるようだ。たしかに、行き過ぎの演出ではある。リアリティ崩壊のギリギリのラインだ。でも、フェラーリを愛するフランクの望みを叶えることで、自殺を留まらせようとするチャーリーの努力である。そして、フェラーリに乗ることができた満足感と、皮肉なことにもう好きな物を満足に愛することもできないという絶望感を同時に味わうという、複雑な演出のためには必要な場面だったと思う。
分不相応の権力与えられた小物という悪役の設定も、判りやすく且つ実にアメリカらしくもあり、秀逸である。フランクの軍人魂や、チャーリーのマジメさと対極である点も良い。それがカウンターバランスとなり、フランクの演説が内容以上に輝きを発する。
生きる意味なんて、最終的に突き詰めていけば、他人のために何かをすることである。軍人として“国”のために尽くしてきた彼は、視力を失って誰に対しても何もしてやることができなくなってしまった。卑下していた親族に逆にさげすまれる存在となり、年金暮らしという非生産的な生活を強いられることが我慢できなかった。でも、そんな彼が、実生活では得ることができなかった“息子”を得て、彼のために行動することで、生きる意味、喜びを感じる。チャーリーも救われたがフランクも救われた瞬間である。
そして、救われた瞬間に、女性教師とのコンタクトがあり、姪っ子の子供達とも和解するという、コミカルではあるが実に微笑ましい、からまった糸がほぐれるようなカタルシスが生じる良作である。
ちょっと長いのが玉に瑕だが、未見の方は是非観るべき作品だと思う。私は今回で3度目くらいの鑑賞だと思う。
#野沢那智の吹き替えが実によろしい。
公開国:アメリカ
時 間:106分
監 督:ロジャー・ドナルドソン
出 演:ニコラス・ケイジ、ジャニュアリー・ジョーンズ、ガイ・ピアース、ハロルド・ペリノー、ジェニファー・カーペンター、ザンダー・バークレイ 他
コピー:“代理殺人”の契約から始まる、危険な罠――
ニューオーリンズの高校教師ウィルは、音楽家の妻ローラと幸せな毎日を送っていたが、ある日、ローラが帰宅途中に暴行され病院に搬送される。突然の出来事にウィルは激しく動揺する。ローラの治療が行われている病院の待合室で狼狽していると、見知らぬ男が近寄ってくる。その男は、ウィルの代わりに犯人を捜しだし殺してやると持ちかける。代金は不要で、いつか簡単な頼みごとをするだけだという。傷ついた妻のことを思い、怒りが溢れていたウィルは、その提案を受け入れてしまう。ほどなくして、保険屋を名乗る男が、暴行時にローラが奪われたネックレスの入った封筒をウィルに渡した。それは復讐の完了を意味していた。それから半年後、約束の頼みごとのために、あの男がやってくるのだった…というストーリー。
昨日に『ダーク・フェアリー』とはガイ・ピアースつながり。
復讐の対価はとらないが、いずれなにか手伝って欲しいことをお願いする。『ゴッド・ファーザー』もそんな感じだったけど、本作のそれにはミステリアスさと危うさが漂う。
マフィアのような脱法組織とは異なる、自警団ならぬ私刑団という設定は、現代社会において非常に魅力的に映る。民主主義社会において、市民を守るための権力は、与えられた力の行使にはデュー・プロセスが必須である。それはその権力の暴走にキャップをかけるためであるが、デュー・プロセスに不備があれば犯罪者は野放しになるし、根本的に犯罪者が増えれば裁き切れなくなる。現代社会では往々にして裁きの日まで時間を要するし、裁いたとしても被害者が満足のいく結果になることは多くない。その満たされない市民の怒りを代行する組織であり、民主主義国家が揺籃してくると、無意識に渇望されるもの。日本でいえば必殺仕事人のようなものである。
一見、庶民の味方のような組織が、なぜか自分を嵌めようとしているようにしか思えない恐怖。それに、自分も人の死を不法に求めてしまった後ろめたさがあいまって、実に緊迫感のあるシナリオになっている。ニコラス・ケイジ作品はポンコツシナリオの作品が多いが、今回は比較的当たりである。
護身用に催涙スプレーを買うことも、主人公が国語教師であることも、ストーリーを進める上で、しっかり意味をもっていて、なかなか小技が聞いている。
(以下、ネタバレ)
組織が『ファイトクラブ』のように一般社会にまぎれているのも魅力的。しかし、“ハングリー・ラビット”自体が、実は正義とは程遠い組織なのか、本来の組織から逸脱した一部のグループが暴走しているのかが重要ポイント。結果的には後者なのだが、そうだとするならば、その他のメンバーはウィルを援護するような動きをしてしかるべきで、なぜかウィルは要所要所でピンチをすり抜けることができる…という部分を強くだすべきだったと思う。そうすることで、謎はもっと深まったと思う。
さらにそうすることで、ウィルの最期の足掻きのシーンも不要になったと思う。最期のあれはいらない。だって、ウィルはある意味裏切り者になったわけだから、立場が悪くなっちゃうじゃん。
まあ、その点以外は、おおむね満足、なかなかの良作。軽くお薦めする。
公開国:アメリカ、オーストラリア、メキシコ
時 間:142分
監 督:トロイ・ニクシー
出 演:ケイティ・ホームズ、ガイ・ピアース、ベイリー・マディソン、ジャック・トンプソン、ギャリー・マクドナルド、ジュリア・ブレイク、ニコラス・ベル、アラン・デイル、テリー・ケンリック 他
コピー:背筋も凍るおとぎ話。
気をつけて!やつらは、暗くなるまで待っている。
アメリカ、ロードアイランド州。建築家アレックス・ハーストは、100年近く放置されていた屋敷ブラックウッド邸を購入し、恋人で助手のインテリア・デザイナーのキムと一緒に修復作業を行っていた。彼には別れた妻との間に小学生の娘サリーがいたが、両親の離婚で心を閉ざしていた彼女を、ロスから屋敷に呼んで一緒に暮らすことにした。しかし、屋敷にやってきたサリーは、通風孔の奥から誰かが話しかけてくる声を聞く。翌日、声のした先に地下室を見つけ、アレックスに教える。屋敷の使用人のハリスは地下室に近寄ることを止めるが、アレックスは壁に塗りこめられた扉をこじ開け地下室に入っていく。そこは、著名な画家で元家主のブラックウッドのアトリエだった。サリーはそこで厳重に封印された小さな扉から、昨日聞いた声が聞こえるのに気付き…というストーリー。
ギレルモ・デル・トロが脚本・製作ということで、期待はしていたのだが、残念ながら同じデルトロ作品である『パンズ・ラビリンス』とくらべるとかなり落ちる。
トロイ・ニクシーという人は漫画家さんで監督経験は始めてらしい。制作費は2,500万ドルほどだったようで、それほど高額とはいえないが、それでももっと安っぽく見えるのは、監督の力量不足のせいだと思う。この手の作品には、独特な様式美というものが大事。元画家の屋敷ということで、使える要素はたくさんあったのだが、シナリオ上その画風や作品などを終盤まで出すことができなかっためか、生かすことができなかった模様。よって、凝った部分を見出せなかったのが残念。デル・トロとの違いが浮き彫りになってしまった感じ。漫画家ならではの印象的なカットを期待したのだが、空振り。
それでも、小鬼のフォルムがよくて魅力的だった。もっと禍々しく、もっと煩わしく、もっと憎々しく、それこそ『グレムリン』ばりに比重を置いてもよかったと思う。しかし、設定上、光が苦手ということもあってはっきり見えるシーンが少ないという足枷が。どうも、演出と設定がかみ合っていない。
ケイティ・ホームズ、ガイ・ピアーズとなかなかのキャスティングにも関わらず、彼らの良さが全然生きていないのも、監督の力量不足。非常にカット割に気を使っているのはわかるが、スリリングさにかける。
#子役が可愛くないのはご愛嬌。
(以下、ネタバレ)
それでも、そこそこなダークファンタジーとして、要所要所でドッキリやびっくりを散りばめながら最期までもっていく。しかし、残念なのは、地下に引きずり込まれた彼女が、小鬼と同調しちゃってる終わり方が意味不明なこと。そういうオチにしたいなら、小鬼たちの存在の意味や行動の目的をはっきりさせないといけないと思う。何故、子鬼たちはそういうことをするのか。恨みなのか、呪いなのか…。まあ、デル・トロ作品なので、“そういう存在”なだけ…というノリだとは思うんだけど、そこは、何らかの示唆をすべきだったろう。ブラックウッドが晩年、その厄災に巻き込まれた…という謎解きだけでは消化不良だった。
なんなら、パーティの参加者がみんなひっくるめて、小鬼の被害にまきこまれて、しっちゃかめっちゃっかになったほうが面白かったような気もしないでもないが、“命ひとつ”の設定上の縛りがあるので不可能か。やっぱり、設定が演出上の面白みを削いでしまっているような気がする。
正直、ピリっとしないのだが、そこそこのダークファンタジーにまとまっている感じ。旧作料金なら許せる凡作。
公開国:アメリカ
時 間:97分
監 督:リチャード・シェンクマン
出 演:ビル・オバースト・Jr、ジェイソン・ベイル、ベイビー・ノーマン、ドン・マックグロウ 他
南北戦争末期。リンカーン大統領は、前線の要塞が奇病に侵された者に占拠されたとの報告を受ける。自ら赴き、その症状に冒された者を見たリンカーンは、幼い頃に自分の父親が同じ症状だったことを思い出し、彼らがゾンビになったと確信する。要塞を奪還するために、リンカーンは戸惑う部下たちを引き連れ突入を試みるのだったが…というストーリー。
はい、薄々お気づきだろうが、『リンカーン/秘密の書』と間違ってレンタルしちゃいましたよ。日本未公開とかTVムービーとかでもなくオリジナルビデオ。日本でいうところのVシネマみたいなものらしい。なんでこんなのを新作料金で借りちゃったのか。最近は詰めが甘い…。
ゾンビ映画というのは、“ゾンビ”の存在を現代社会の何になぞらえるか…でその価値が決まるといってもよい。本作は、ゾンビを黒人奴隷になぞらえているようなのだが、隠喩でもなんでもなく劇中で直球で説明。奴隷制度を否定する台詞を差し込んでいるのだが、そういうことは、観客の脳内でやるので、説明する必要はない。
作品によって、ゾンビは色々な特色がある。走るゾンビとかね。でも、本作のゾンビはその特色がよくわからない。
ゾンビ映画のはしりの頃ならいざしらず、人々が何でゾンビになったかの説明や示唆も一切ない。じゃあゾンビとの闘い方にユニークさがあるのかというと、特に劇的な打開策がみつかるでもなく、そこらにある武器だけ。追い詰められては徐々に味方が減っていく…というそれだけの繰り返しである。知恵の発揮や謎解きによってピンチを脱するといった、仕掛けが一切ない。南軍と北軍の軋轢がありつつも、協力せざるを得ない…という状況がそれほど生かしきれておらず、途中で仲間に加わるフランクリンという子供も、ストーリー上必要性が見出せない。
一気に爆破してケリをつけたいのはわかるのだが、進軍ラッパで全員が寄ってくるとか、何がなにやら。都合が良すぎ。制作費は極めて少なく見え、高校生でもつくれそうな内容。CGも爆破シーン程度で市販のソフトでなんとかなりそうなレベル。
せめて、こういうトンデモ作品こそ、愉快な吹き替えをつけるべきである。
最期のゾンビと暗殺を結びつけるというアイデアも不完全燃焼で終わってしまうとう体たらく。カルト人気すらおこらないほど、稚拙な内容。もちろん観るのは時間の無駄である。年末の忙しいときにこんな作品を引いてしまう自分の愚かさを呪うほどである。
公開国:日本
時 間:108分
監 督:武内英樹
出 演:阿部寛、上戸彩、北村一輝、竹内力、宍戸開、勝矢、キムラ緑子、笹野高史、市村正親、外波山文明、飯沼慧、岩手太郎、 木下貴夫、神戸浩、内田春菊、松尾諭、森下能幸、蛭子能収 他
コピー:ひとっ風呂、タイムスリップしませんか。
古代ローマの浴場設計技師ルシウスは、その生真面目するぎる性格が災いし、時代の潮流についていけず、職を失ってしまう。落ち込んだ彼は、友人に誘われて公衆浴場にやってくる。騒がしい浴場内の喧騒を避けるため湯の中に潜っていると、浴槽の壁に穴を発見。近づくと水流に巻き込まれ溺れてしまう。目が覚めると、そこは現代日本の銭湯。平たい顔の種族ばかりがいるのをみて、ローマの属州で捕虜になった人々を勘違いしたルシウスだったが、その浴槽の用いられている技術に驚愕する。やがてローマにに戻ったルシウスは、現代日本で見聞きした文化を取り入た浴場を設計し、浴槽技術者としての名声を上げていくのだったが…というストーリー。
冒頭の原作に忠実な部分は非常におもしろい。『ハリーポッター』を観たときに通じる「ああ、原作どおりうまくつくってるな…」という感覚が湧いてきた。でも、それは原作がおもしろいだけ。原作のおもしろさを毀損しなかった点は評価に値するが…。“BILINGUAL”とか、人形使って水をぐるぐるとか、そういう演出は不要ではなかろうか。
原作では別々の人物だったのを、上戸彩演じる真実の一人にまとめたシナリオ上の努力は認める。しかし、原作ではローマ研究者でラテン語ペラペラのキャラクターをまとめたのは大間違い。さすがに一夜漬けでラテン語がペラペラになるのは無理すぎて興醒めである。せっかく漫画家志望という設定なのだから、覚えられたのはラテン語の単語程度にして、あとは達者な絵で会話すりゃいいじゃないか。キャラ設定すら生かせないという、愚作シナリオ。
これだけはやってはいけなかったように思える。そして、歴史が変わるのをふせぐためにお話になった途端、おもしろさが失せる。#涙の設定とか原作にあったっけ?ないよね。
ピカデリー梅田をはじめ他のキャスティングが何の問題もなかったが、上戸彩じゃなかったと思う。キャスティングミスであり、製作の愚作だと思う。ローマパートでの彼女はマッチしていない。堀北真希とかのほうがよかったと思う。
上戸彩の演技がダメとかそういうわけじゃなく、純粋に絵ヅラ的にマッチしていない。とてもチネチッタで撮影したとは思えない安っぽさがスゴい。いや、褒めてるわけでも貶しているわけでもないのだが、チネチッタである意味は、キャストが調達しやすかったこと以外にないだろう。まったくイタリアの空気感が伝わってこないという…。
大変ヒットしたようだが、後半はフジTV映画の悪い癖がすべて集約したようなデキ。大体にして、この作品は、ルシウスをがっちりと主役に据え続けて展開すべきで、真美が中心になるシーンがあってはいけない。これが、作品全体がボヤけた原因である。
原作のすばらしさで、なんとか凡作に留まった作品。
#風呂の神を出さないとか、私のセンスではありえないんだけど…。
公開国:アメリカ
時 間:93分
監 督:マイク・ケイヒル
出 演:トム・ハンクス、デヴィッド・モース、ボニー・ハント、マイケル・クラーク・ダンカン、ジェームズ・クロムウェル、マイケル・ジェッター、グレアム・グリーン、ダグ・ハッチソン、サム・ロックウェル、バリー・ペッパー、ジェフリー・デマン、パトリシア・クラークソン、ハリー・ディーン・スタントン、ウィリアム・サドラー、ゲイリー・シニーズ、ポーラ・マルコムソン 他
ノミネート:【2010年/第27回インディペンデント・スピリット賞】新人作品賞、新人脚本賞(ブリット・マーリング、マイク・ケイヒル)
17歳でMITに合格したローダは、パーティで飲酒したにもかかわらず車で家に帰ろうとする。運転の途中、空に観たこともない星が浮かんでいることに気を取られ大事故をおこしてしまい、相手の車にのっていた妊婦と幼い男の子が死亡、夫は意識不明の重体となってしまう。彼女はその罪で交通刑務所に収監。4年後、刑期を終えたローダは、生き残った夫ジョンの家を探し出し、謝罪のために訪ねていく。しかし、対面したものの怖気づいてしまい、清掃業者だと身元を偽ってしまう。彼女はそのまま清掃業者としてジョンと関わりを続けていくが、真実を告げることができず罪悪感に苛まれるのだった。一方、空に現れた星が、地球と瓜二つの惑星であることがわかり…というストーリー。
贖罪のドラマとSFのミックスという奇抜なプロット。あまりにもかけ離れた要素、そのギャップをどういかせるかがすべてなのだが、被害者男性と加害者であることを隠して関わりを持っていく彼女の苦悩…それだけで充分に一本の映画にできる内容。それに加えて、惑星がどういうスパイスになっていくのか、非常に興味が湧くところなのだが、終盤になるまで、あまり関わってこない。
むしろ、社会はもっとパニックになってもよさそうなものだが、すごく平穏。いや案外そうなっても人間は普通に活動するものだよ…といいたいのならば、それをうまく表現すればよい。でも、していない。SF作品として観客の想像力をどうくすぐるか…ということをまるで放棄しているように思える。
じゃあ、一方の人間ドラマを厚く表現しているのか…と思いきやそうでもない。清掃業者仲間の老人がなぜ自殺しようとするのか。彼は、自分で漂白剤を目や耳に入れたりする。この世がいやになっているのなら思い切って自殺すればよいのだが、そういうことはせずに感覚だけを潰していく。それはなぜなのか、どういう感情なのか。ローダは彼を慮ってお見舞いにいって寄り添ったりするのだが、彼の行動と彼女の傷にどういう関係性があるのか、シンパシーを感じる部分がどこにあるのか、私にはさっぱりわからなかった。
普通、このタイトルの映画を借りる人は、これはSFなんだろう…と思って借りるだろう。そういう人はこう感じるに違いない。なんでMITに合格しただけの彼女が宇宙飛行士に選ばれるのか。まあ、異星探索を計画をしたのが民間の富豪だから、その人の裁量で選んでいるだろうからNASAの選定に基準とは異なるにしても、いくらなんでも無理があるだろう。それほど応募者がいないとでも?ものすごく長い旅になるような表現をしていたが、見かけ上あんなに大きく見えるんだから、それほど遠くはないはず。ましてや地球の周回軌道上にいるなら、片道切符になるわけでもないだろうし。
(以下ネタバレ)
で、当選者のきまぐれで、応募もしていない人間に宇宙飛行士になる権利を譲るとか、アホじゃねえかと。辞退したら別の応募者だろ。馬鹿クセー。はっきりいってまともに観ていられなかった。
さらに、最期は自分と同じ姿をした人が登場とか。こっそりこれるわけないじゃないか。何、この三流SF。
カメラワークがユニークで、急にズームしたり、パーンしたり、素人のビデオ撮影みたいな感じ。緊迫感を出そうとしているのかもしれないが、あまり効果は生まれていない。日本未公開なのも、納得のデキ。やるならもっと、ディテールをしっかりと。SFとしては駄作。ヒューマンドラマとしては凡作。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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