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image1784.png公開年:2008年
公開国:オーストラリア
時 間:94分
監 督:アダム・エリオット
出 演:トニ・コレット、フィリップ・シーモア・ホフマン、エリック・バナ、ベサニー・ウィットモア 他
コピー: ある日、しあわせの手紙がやってきた──




オーストラリアに住む8歳の少女メアリー。友達ができず、家族にもかまってもらえない彼女は、外国の見知らぬ誰かに手紙を書こうと思いつき、アメリカの電話帳から、変わった名前という理由でマックス・ホロウィッツという人物を選ぶ。そのマックスはニューヨークに住む孤独で過食症による肥満の中年男性。そんな彼の元に、メアリーからの手紙が突然届き、彼はタイプライターで律儀に返事を書く。そして、二人の文通はその後も何年も続き…というストーリー。

これは実話です…という所から始まるのだが、全編クレイアニメというユニークな作品。

周囲の環境に恵まれていないオーストラリアの少女とニューヨークの孤独な中年男が、手紙を通じて自分の思いの丈をぶつけ合う。“心を通わせている”というのとはちょっと違う。確かに、お互いの質問にアドバイスを返したりはするんだけど、片方は小学生だし、片方はアスペルガー症候群のおっさんだし、おたがいの物差しでノーガードでパンチの打ち合いをするようなもの。その様子はなかなかおもしろい。

三分の一くらい進んだあたりで、このままほっこりした触れ合いが続いて、ちょっとした奇跡でもあって、出会うことができたりして感動…みたいな展開なのかなと考えていたが、その予想はいい意味で裏切られる。

それを喋っちゃうと完全にネタバレになっちゃうので言わないけれど、マックスはガラガラと現実社会の坂を転げ落ち(なぜ自分が転げ落ちているのかも理解できずに)、メアリーは鬱屈した日常に身を置きながらも立派に成長していく。この差がやがて二人の間の大きな溝を生むことになるのである。

やはり、この内容をクレイアニメで表現した効果は大きいと思う。それは、なかなか重いストーリーとアニメとのコントラストを産むという意味だけではなく、子供の目から見る世界が大人が見ている世界とは違うということ、また、アスペルガー症候群の人の目にも違って見えているということを暗喩していると、私には思えるからである。

(またまたネタバレぎみになっちゃうんだけど)
だから、最後の部屋を訪れるシーンは、メアリーはすっかり大人になっているわけだし、マックスはいないわけだから、もうアニメである必要はないと思うんだ。もし私が監督だったら、ドアを開けた瞬間から実写にする。イメージにぴったりの役者を、このシーンのためだけにわざわざ見つけてくる。そして最後の壁のシーン。多分、実写のほうが湧き上がるものは大きかったと思う。

まあ、それはそれとして、感動ともほっこりとも違う、味わったことの無い感覚のラストで、とても新鮮だった。ジャケット画像を見て子供だましのアニメだと思ったら大間違い。むしろ子供になんかに見せちゃダメ。
違う角度からグイっとえぐられるような快作だった。是非観てほしい。お薦めしたい。ちょっと、世間の評価が低すぎ。




負けるな日本

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image1687.png公開年:2010年
公開国:アメリカ
時 間:120分
監 督:デヴィッド・フィンチャー
出 演:ジェシー・アイゼンバーグ、アンドリュー・ガーフィールド、ジャスティン・ティンバーレイク、アーミー・ハマー、マックス・ミンゲラ、ブレンダ・ソング、ルーニー・マーラ、ジョセフ・マッゼロ、ジョン・ゲッツ、ラシダ・ジョーンズ、バリー・リヴィングストン、ダグラス・アーバンスキー、アーロン・ソーキン、ウォレス・ランガム、スコット・ローレンス、パトリック・メイペル、デニス・グレイスン、デヴィッド・シェルビー、スティーブ・サイレス、インガー・テューダー、ジェームズ・シャンクリン、ジョン・ヘイドン、ブライアン・バーター、ブレット・リー、ヴィクター・Z・アイザック、マーク・ソウル、マレス・ジョー、エマ・フィッツパトリック、マルセラ・レンツ=ポープ 他
受 賞:【2010年/第83回アカデミー賞】脚色賞(アーロン・ソーキン)、作曲賞(アッティカス・ロス、トレント・レズナー)、編集賞(カーク・バクスター、アンガス・ウォール)
【2010年/第45回全米批評家協会賞】作品賞、主演男優賞(ジェシー・アイゼンバーグ)、監督賞(デヴィッド・フィンチャー)、脚本賞(アーロン・ソーキン)
【2010年/第77回NY批評家協会賞】作品賞、監督賞(デヴィッド・フィンチャー)
【2010年/第36回LA批評家協会賞】作品賞、監督賞(デヴィッド・フィンチャー)、脚本賞(アーロン・ソーキン)、音楽賞(アッティカス・ロス、トレント・レズナー)
【2010年/第68回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、監督賞(デヴィッド・フィンチャー)、脚本賞(アーロン・ソーキン)、音楽賞(アッティカス・ロス、トレント・レズナー)
【2010年/第64回英国アカデミー賞】監督賞(デヴィッド・フィンチャー)、脚色賞(アーロン・ソーキン)、編集賞(カーク・バクスター、アンガス・ウォール)
【2010年/第16回放送映画批評家協会賞】作品賞、監督賞(デヴィッド・フィンチャー)、脚色賞(アーロン・ソーキン)、音楽賞(アッティカス・ロス、トレント・レズナー)
【2010年/第36回セザール賞】外国映画賞(デヴィッド・フィンチャー)

2003年の秋。ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグは、恋人にフラれた腹いせに、大学のデータベースをハッキングして、女子学生たちの顔写真を入手。それを使って人気投票サイトを作ってしまう。大学からは半年の保護観察処分を受けたが、そんな彼の技術に目を付けたエリート学生のウィンクルボス兄弟達が、学内の社交クラブ拡大を目的としたサイト作成の協力を依頼する。しかしマークは、親友のサベリンを誘って、大学内の学生をターゲットにした社交サイトを勝手に立ち上げてしまう。そのサイトは、たちまち登録者数を増やしていったが、それに気付いたウィンクルボス兄弟達は、マークをアイデア盗用で告訴しようとする…というストーリー。

マーク・ザッカーバーグは確かに主人公なんだけど、はっきりいって面白みは皆無。賢いオタクではあるが、愛すべき性格でもないし、共感できるような不幸な境遇でもない。始めに作った人気投票サイトには、サベリンの数式みたいな素敵なロジックがあったかもしれないが、SNSの仕組み自体に高度な数式が関与しているも思われない(実際は知らんけど)。つまり、サクっとつくってしまう能力は高いが、圧倒的な天賦の才能による帰結というわけでもない。
後に和解しているわけだから、間違いなくアイデア登用しているのも事実。じゃあ、興味が沸いちゃうほどの悪人かといえば小悪人ですらない。

相方のサベリンが広告を入れて維持費を捻出しようとするのを頑なに拒むが、それほど強いポリシーで言っているわけではなく、自分の好みに合わなかっただけ。Napsterの馬鹿に簡単につけいれられ、やっぱり自分の考えが正しいのだと悦に入る小物。
おまけに、サベリン排除のために使った手口が新株発行による議決権の薄めって、字におこすと余計にクソ人間であることが浮かび上がる。

こんな魅力のない人物を主人公にして、これだけ目の離せない作品に仕立て上げるとは、さすがデヴィッド・フィンチャー。というか、本作は“フェイスブック”という現象の渦に「あれ~~」と巻き込まれてく低俗な人々の様子を眺める映画なのだ。だから、実はマーク・ザッカーバーグですら、フェイスブックの周りで踊る脇役なのかもしれない。
#まあそれは、ラストで、元カノのページを見つけたときの彼の態度で証明されているよね。彼もただフェイスブックの周りで踊っている一人にすぎないって。

ただ、残念ながら私はこの作品を、良作とは思えど傑作とまでは感じていない。その一番の理由は、ソーシャルネットワークという仕組み自体に魅力を感じていないからである。こうやって毎日ブログを書いている私だが、SNSもtwitterもこれほど流行る意味がわからない(いや、本当の意味で流行ってるのかどうかすら疑問である)。

フェイスブックは大学内の社交クラブのツールとして作成されたのだが、まず、この社交クラブというシステム自体がピンとこない。京都の一見さんお断りの店は知り合いの紹介がないと入れないが、その紹介や常連さんに対する店からの情報発信をWebシステムで構築した。こんな感じか?
匿名世界のネット社会とは一線を画した、身元の知れた者同士の安心できるコミュニティサイトというわけなのだが、実際には安易にコミュニティへの参加は許される場合が大半で(だって、基本的に見てもらいたいんだもの)、情報はダダ漏れである。おまけにフェイスブックは実名登録なので、個人情報は晒されまくりで、社会的に問題のある発言をすれば、簡単に身元が割れる。悪意の転載が簡単に横行する。何が一番問題かって、その危険性をよくわからないで使っている人間が多いこと。身内の間でちょっと口を滑らせても閉じた世界だからたいしたことは無い…なんてことでは済まないのである。
twitterにいたっては馬鹿発見器とまで言われる始末。どんな人間だって、不謹慎な思いつきや怒りに任せて無慈悲で失礼なことを思いつくわけで、それを安易につぶやけてしまう道具って、サトラレ製造機じゃないか。
#セカンドライフとまでは言わないが、同じように凋落していくような気がしている。

私はデヴィッド・フィンチャーのファンなので、オスカー監督賞を獲ってほしい気持ちはあった。そしてそれだけの成果がこの作品にはあったと思う。でも、やはり、テーマ自体の魅力の無さを補う迄には至っていないと思うので、米アカデミーの判断は妥当だと感じている。
良作。お薦めする。こういう若い時代の寵児みたいのが登場しても、冷静に見ることができるようになるかも。






負けるな日本

 

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image1215.png公開年:2005年
公開国:アメリカ
時 間:93分
監 督:ジョージ・クルーニー
出 演:デビッド・ストラザーン、ジョージ・クルーニー、ロバート・ダウニー・Jr、パトリシア クラークソン、ジェフ・ダニエルズ、フランク・ランジェラ、レイ・ワイズ 他
受 賞:【2005年/第62回ヴェネチア国際映画祭】男優賞(デヴィッド・ストラザーン)、脚本賞(ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ)
【2005年/第31回LA批評家協会賞】撮影賞(ロバート・エルスウィット)
【2005年/第18回ヨーロッパ映画賞】インターナショナル(非ヨーロッパ)作品賞
【2005年/第21回インディペンデント・スピリット賞】撮影賞(ロバート・エルスウィット)
コピー:1954年、アメリカ 百万人の視聴者が、ひとりの男(ニュースキャスター)に未来を託した―― 自由を再び手にするために これは、全米を勇気で満たした感動の実話である 

米ソ冷戦が激しさを増す中、アメリカ国内ではマッカーシー上院議員を筆頭にした赤狩りの猛威が吹き荒れていた。共産主義者の徹底した排除を名目にして、政府に批判的な人物を排除してしまおうという恐怖政治である。一般の国民はもとよりマスコミまでが、その恐怖政治の前にひれ伏し沈黙していたが、CBSの人気キャスターであるエド・マローとプロデューサーのフレッド・フレンドリーが立ち向かう…というストーリー。

このストーリーは実話で、“グッドナイト&グッドラック”というのも実際に存在した番組(タバコをくゆらせながらの放送が許されていた時代だね)。
世界恐慌よりも第二次世界大戦よりもベトナム戦争よりもキューバ危機よりも黒人差別の問題よりも、アメリカの歴史のなかで最も重要視すべきな出来事が、このマッカーシズムだと私は思っている。

なぜなら、これが“絶対に皇帝を生まないようにすること”を目的に作られているアメリカのシステムの“穴”だからである。憲法は失効するのではなく、国民がその権力を簒奪されたことを見過した瞬間に“死ぬ”ということ。もっともらしいことをいう奴に、国民がなびいてしまえば、簡単に崩壊することを証明した事件である。
で、そのアメリカ憲政の危機を救ったのが、ジャーナリスト達の勇気なのだ!ということがテーマになっているのだが、しかし、マッカーシズムを許してしまった大衆を救ったのも彼らだったけれど、殺したのも娯楽を求めた大衆だいう皮肉…っていうことだよね。つまり、このマッカーシズムは終わった話ではなく、“今そこにある危機”というわけだ。

本作は、すっかり赤狩りが吹き荒れまくった後からスタートしており、ハリウッド関係者などが多数追放された過程は、それほど描写されていない。アメリカでは自明のことだよね…ということなのかもしれないが、93分という上映時間を考えれば、もうすこし盛り込んでもよかっただろう。
#まあ、そこはジム・キャリー主演の『マジェスティック』なんかで補完すればいいか。

本作では、まるでマッカーシーらが大衆から総スカンを喰ったように描かれているが、実際はそうではなかったことを指摘しておこう。その後も彼の支持は多数だった。先人がしっかりシステムを準備しても、国民がそれを理解せずに愚かである限り、簡単に民主主義の根本システムが崩壊することを継承している作品なのだ。そういう意味で、ものすごく価値のある作品である。

そういう意味で、、、、、、何が言いたいかというと、理詰めでは価値のある作品と評価できるが、娯楽作品としては実のところつまらんということである。製作総指揮にソダーバーグが名を連ねているので期待していたのたけど、残念な結果になっている。なので、手放しではお薦めしにくい作品。

我ら日本人が、本作を観て教訓にしなければいけないことは、マスコミの報道や表現の自由に自主規制が簡単にかかることである。
昨今の東電に関する報道が、東電が大スポンサーゆえに手ぬるくなっている点は、確かにその一例かもしれないが、あまりに緊急事態であるために一概にすべての原因がそれとは言いにくいところがある。
それよりも、放送局に外資が流入し、彼らが株主の意向に沿っている点、そして暗黙のうちにそこに触れることがタブーになっている点を注視すべきだろう。“韓国ブーム”という何やら実態が存在するとは考えにくいムーブメントの裏に何があるのか。どこぞの局では朝から晩まで韓国一色で、どこの国の放送局だかわからない異常状態が、偶然に作られるものか?そういう報道機関は許容されるのか?
こういう勢力は、美名の元に我らの前に現れる。ウォルト・ディズニーが赤狩りの協力者であったことをもその一例だろうね。

マッカーシーの映像とかは、実際の映像だよね?全体が白黒なのは、あのような記録映像とシームレスにして雰囲気を作るため。そういう演出は成功しているし、評価したい部分である。



負けるな日本

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image1679.png公開年:2003年
公開国:アメリカ
時 間:81分
監 督:ガス・ヴァン・サント
出 演:ジョン・ロビンソン、アレックス・フロスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー、ティモシー・ボトムズ 他
受 賞:【2003年/第56回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ガス・ヴァン・サント)、監督賞(ガス・ヴァン・サント)
【2003年/第70回NY批評家協会賞】撮影賞(ハリス・サヴィデス「ジェリー」に対しても)
コピー:アイダホ州ポートランド。アメフト、図書館、カフェテラス、写真部、ダイエット。ごく普通の高校生たち。
いつもと同じ1日だと思ってた。

オレゴン州ポートランド、ワット高校。ジョンは車で学校に送ってもらうが、運転していた父が酒に酔っていたため運転を交代。なんとか到着するが遅刻してしまったため、校長から居残りを言い渡されてしまう。写真好きのイーライはポートレート制作のために、生徒たちにモデルになることをお願いしている。アメフト部のネイサンはガールフレンドと待ち合わせ。食堂では女子3人組がダイエットや買い物や男の子の話を。そんな中、アレックスとエリックは、ネットで入手した大量の銃器をカバンにいれて学校へ向かっていた…というストーリー。

コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフいした作品。『ボウリング・フォー・コロンバイン』は観ていたけど、そういえばこっちは観てなかったと、思い出したようにレンタル。カンヌのパルム・ドールと監督賞をダブル受賞って、すごいことなんだろうけど、ちょくちょく言っている通り、私はカンヌの評価はアホだと思ってるので、逆に期待値はダウン。

先にいってしまうと、最高賞を与えられるほど価値のある作品ではない。
ふつうの田舎高校の日常でこんなことが…という切り口はわかる。美しい風景、いじめや素行の悪い生徒の様子も含めてありきたりな学校生活、問題のある家庭環境。色々あるけどみんなそれなりに日常を生きているってことを表現しながら、それが無碍にぶち壊され行く虚無感や現実に存在する不条理と、感じさせてくれるものは色々あると思う。
じゃあ、淡々と事件の一日を切り取ったようになっているか?というと、あったかどうかもわからない同性愛シーンを差し込んでみたりする(本人たちはお亡くなりになってるので、確かめようも無い)。フィクションはいけないわけではないけれど、これは、いくらなんでも勇み足だろう(犯人の性向として重要すぎる)。製作者のスタンスとして納得しかねる。
そのくせ、いじめ、殺人ゲーム、ナチスのビデオと(まあ客観的事実なんだろうけど)、タブロイド紙的結論への誘導にしかなってというのも、ちょっと芸がないかと…。これを「観客に考えさせる作品」というのは、的外れだろう。私に言わせれば“投げっぱなし”。

ただ、あくまで最高賞を与えられるような作品ではないというだけで、悪い作品ではない。「人間ってやつわ…」って、虚脱感はすごく感じるし、殺戮の様子は本当にゾっとする。そういう点では充分に製作意図を全うしていると思う。実は、観終わってから気付いたんだけど、舞台がコロラド州コロンバインじゃなくって、一応フィクションてスタンスなんだね(わかりにくいわ)。まあ、それを逃げと見るか、創造性と見るかは、人によるってことかな。

でもね、若いときなんて、偏狭な考えに固執することもあるし、極端な行動をとることがある。精神が不安定な子がいるなんてあたりまえ。想像の中では気に喰わない奴なんざ死んじまえ!って思う(おっさんになった今でも思うわ)。むしろ青春の特権だろうに。そういう時にそばに大量殺戮ツールがあるかどうか、勢いで手に取ってしまう可能性を排除するのって重要なんじゃね?っていう『ボウリング・フォー・コロンバイン』のアプローチが、やっぱり正しく思えてしまう。大統領選挙にものすごく時間をかける、なかなか賢い制度を持っている国なのに、なんでそれに気付かないのかね(まあ、ハートが因幡の白兎くらいチキンだから…銃が手放せないてオチなんだけどさ)。

佳作。お薦めするけど、本作と『ボウリング・フォー・コロンバイン』を連続で観るのが良い気がする。ということで、明日『ボウリング・フォー・コロンバイン』を再鑑賞。



負けるな日本

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image1672.png公開年:2010年 
公開国:アメリカ
時 間:99分
監 督:トニー・スコット
出 演:デンゼル・ワシントン、クリス・パイン、ロザリオ・ドーソン、イーサン・サプリー、ケヴィン・ダン、ケヴィン・コリガン、ケヴィン・チャップマン、リュー・テンプル、T・J・ミラー、ジェシー・シュラム、デヴィッド・ウォーショフスキー、ミーガン・タンディ、エリザベス・マシス、ディラン・ブルース、ジェフ・ウィンコット、アイシャ・ハインズ 他
ノミネート:【2010年/第83回アカデミー賞】音響賞[編集](Mark P. Stoeckinger)
【2010年/第16回放送映画批評家協会賞】アクション映画賞
コピー:生きて帰れたら、言いたいことがあるんだ。
この映画は、<事実>から産まれた。

この日、初めて仕事をすることになった勤続28年のベテラン機関士フランクと、経験4ヶ月の車掌ウィル。根本的にソリが合わない上に、それぞれ私生活で問題を抱えている二人は、険悪なまま1206号に乗り込み業務を開始する。その頃、別の操車場で、運転士によるブレーキ操作ミスが原因で、貨物列車777号が無人のまま走り出してしまう。39両の大編成列車は、可燃性の高い化学物質とディーゼル燃料を大量に積んでおり、進行方向にある急カーブで転覆すれば大惨事になることは必至。さまざまな策を試みるも失敗に終わり、さらにスピードを上げる777号。同じ路線内にいたフランクとウィルは、1206号を777号の最後尾に連結させ、そのブレーキで停止させようと、777号に全速力で向かうのだが…というストーリー。

この事件のあらましはニュースで見て、結末はわかっているわけで、そんなにおもしろくなるわけ?という疑念満載で鑑賞開始。
デンゼル・ワシントンは、ついこの間『サブウェイ123 激突』で止まらない電車モノに出ていたのに、なんで似たような作品に出るのやら(ホワイトカラーとブルーカラーの違いはあれど、職務に忠実なベテランというキャラに違いはないし)。いや、それ以前にどっちもトニー・スコット監督じゃないか。何を考えているのかね。

とにかくオチが判っているだけに、伏線のセットアップがベタベタで、観ていてイヤになる。運転士が列車を降りるのも、ブレーキホースが外れているのも、説明的極まりなくてこのまま観ていていいのか不安になるほど。編集もダサダサで、映画としてどうなのかな?と。

ところが、子供の乗った電車をスルーして、事件がおおっぴらになりニュース映像が差し込まれる演出が多様されてくると、映画というよりも実際の事件を見せられている感覚で緊迫感がましてくる。
レールを軋ませ暴走する様子は、普段電車に乗りなれているせいか、想像力が喚起されてなかなかよろしい。昨今のぴゅんぴゅん飛ぶようなCGアクションとは違い、電車で行われるアクションはリアル極まりなく、久々に汗臭いアクションを見せてもらった感じ。実話だけに、荒唐無稽なアクションがないのが、逆に功を奏しているんだろう。

おもしろかった反面、日本人と欧米人の大きな違いを見せられたようで、ちょっと悲しかったことが。
アメリカには、『職業に貴賎なし』という概念がないんだなということが良くわかった。本作の主人公は、自分の職務にプライドを持ってはいるけれど、やはり自分の職業を高尚だとは思っていない。だから、ラストに平然と昇進を要求してよろこんじゃう。さらにエンドロールでは、事件の発端になったデブ運転士が現在ファーストフード業界で働いていると差し込まれる。

アメリカ人はこれを職業蔑視だとは思わない。日本ではマクドナルドの店員だろうが、ものすごく商業意識があるしコンテストまである。極端な例をいえば、トイレ掃除のおばちゃんにだって、日本人はその職業に経緯を払うのに。そして、それなりの給料が払われる。
アメリカでは、教育現場で「勉強しないと一生マクドナルドで働くことになるぞ!」とか平気で言うし、その発言が問題になることもないそうだ。でも、そのくせハンバーガーは喰うくせに。絶対に自分は必要としているのに、自分が求めているサービスをやってくれている人、その職業を蔑視するなんて我々は考えられないけれど、彼らは平気にやる。これって、単なる職業蔑視云々以前に、想像力の欠如だと思うのだ。
JRはこういう国に高速鉄道を売り込もうとしているけれど、日本の鉄道の安全は末端に職員の職業意識の上に成り立っているシステムなので、こういう職業意識の国にシステムごと導入しようとしているなら、必ず失敗するから注意したほうがいい。

彼らは、自由自由といいつつも階級社会をよしとする(この傾向はフランスも強い)。いやいやその階級から抜け出す機会は与えているわけで、努力しない結果階級が生じるのは仕方ないよ。結果の平等まで保証したら、社会主義国家じゃないか!というのが彼らの主張。この論調は彼らの主流的な考え方だけど、実はアホな考え。一度生まれた経済格差は教育格差を確実に生むので、実際はそれほど自由に機会の平等は与えられないし、相当数の階層が貧しいということは、自分のお客が貧しい、つまり客が減るということ。最終的には自分の首も絞まることになるので、短期的な視野であること極まりない。
おそらく、これを継続していると、総体的な学力がものすごく下がり数十年スパンでかなり国力が下がると思う(いまにそうなると思う)。

(閑話休題)
結果的に、手に汗握ってしまった。判っていながらも引っかかっちゃう、トリックアート展を見に行った時の感覚に近いかも(どうせ金はらったなら楽しまないと損…的なところも含めて)。そういう意味では、準新作料金くらいでレンタル価値は充分にある映画だと思う(ただし、前半は軽く流せというアドバイス付き)。




負けるな日本

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image0198.png公開年:2005年 
公開国:アメリカ
時 間:114分
監 督:スベネット・ミラー
出 演:フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナー、クリフトン・コリンズ・Jr、クリス・クーパー、ブルース・グリーンウッド、ボブ・バラバン、エイミー・ライアン、マーク・ペルグリノ、アリー・ミケルソン、マーシャル・ベル、R・D・レイド、アダム・キンメル 他
受 賞:【2005年/第78回アカデミー賞】作品賞主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)
【2005年/第40回全米批評家協会賞】作品賞、主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)
【2005年/第72回NY批評家協会賞】新人監督賞(ベネット・ミラー)
【2005年/第31回LA批評家協会賞】男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)、助演女優賞(キャサリン・キーナー:「ザ・インタープリター」「40歳の童貞男」「The Ballad of Jack and Rose」に対しても)、脚本賞(ダン・ファターマン)
【2005年/第63回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](フィリップ・シーモア・ホフマン)
【2005年/第59回英国アカデミー賞】主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)
【2005年/第21回インディペンデント・スピリット賞】主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)、脚本賞(ダン・ファターマン)
【2005年/第11回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)
コピー:何よりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む。

1959年、カンザス州の田舎町で一家4人惨殺事件が発生。翌日、新聞でこの事件を知った作家カポーティは、この事件を題材に作品をつくろうと思い立ち、ニューヨークから現地へ向い、同行したネルと共に事件現場を訪れ、関係者や警察への取材を重ねる。やがて2人の容疑者が逮捕されると、彼らへの接近を試み何度も取材を行うが、カポーティは、容疑者の一人であるペリー・スミスに得体の知れない魅力を感じ、創作意欲を刺激されてしまう。そして、さらなる面会を重ね、次第に彼の信頼を得ていくカポーティだったが、同時に、いくつも重ねた嘘の上に成り立った信頼関係が苦痛になり…というストーリー。

先日、『エクソシスト ビギニング』を先に観てしまったので、改めて観直したことを書いた。同様に、本作も『冷血』を観る前に先に観てしまったことを後悔していた作品。もう半年も前になるけど、やっと『冷血』を観たので改めて鑑賞。

やはり『冷血』⇒本作の順に観るのが正解。外国人が、日本の三億円事件をテーマにした作品を観ても、おそらくピンとこないに違いない。それと同じで、私も“事実”としてのこの事件をよく掴めないまま観ていたので、しっくりきていなかったのだ。その事件に対するリアルな空気感(仮に、その事件発生時に成人でなかったとしても、噂レベルで感じる雰囲気)を知っているか否かで大きく違うと思う。
本作のデキは非常によろしいとは思うが、この『カポーティ』で唯一不足しているのは、社会の反応がどれほど過敏だったかという点が、それほど伝わってこないことだね。『冷血』を観ることで、この動機を理解しがたい不条理な事件に対峙させられた社会の空気が補完された。

取材というものが客観的であるのに越したことはないが、実際のところ、ハイゼンベルグの不確定性原理のごとく、結局、取材する側が対象者に影響を与えてしまう。そして逆もしかり。ノンフィクションノベルの草分けということで何もかも手探りだし、心構えもできていないカポーティ。それに加えて、嘘をついてネタを得たという罪悪感や、弁護士を付けて死刑を延期させる行為が道義的にどうなのか?という自分への問い。万が一、釈放されてしまったら社会的批判にさらされる恐怖。さらに、生い立ち的に共通する何かまで感じ取ってしまった上に、元々同性愛性向の持ち主ときている。反対に、作品は大衆に受け入れられ、自分の本分は全うできてしまうという矛盾。これらが複合的にあいまってしまい、もう、マトモな精神でいられるはずがない。そして、それらの感情が整理されないまま、執行の現場を見てしまっては、そりゃあ立ち直れるはずがない。『冷血』の執筆で筆を折ってしまったのも、理解できる。

そして、この自分は天才だと言わんばかりの行動をとりながらも、分裂した内面に疲弊していく彼を、フィリップ・シーモア・ホフマンをよく演じていると思う。個人的には、はっきりいって気持ち悪く感じたけどいけど、そう感じられたこと自体、秀逸な演技ということだろう。彼に隠れぎみだけど、ネルを演じたキャサリン・キーナーの演技も、カポーティとネルとの微妙な関係を静かながらも良く表現できていると思う。

いまでこそ、シリアルキラーをはじめ、人間として立っている地平が違う奴らの所業に恐ろしさを覚える作品は数々ある(『ノーカントリー』とかね)。まあ、その走りのような事件で、アメリカ社会の転換期を見たような感覚になる作品。もう一度、言うが、『冷血』⇒本作の順に観ることをお薦めする。




負けるな日本

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image0686.png公開年:1997年 
公開国:アメリカ
時 間:136分
監 督:ジャン・ジャック・アノー
出 演:ブラッド・ピット、デヴィッド・シューリス、B.D.ウォン、マコ(岩松信)、ダニー・デンゾンパ 他
ノミネート:【1997年/第55回ゴールデン・グローブ】音楽賞(ジョン・ウィリアムズ)
【1997年/第21回日本アカデミー賞】外国作品賞
コピー:愛のぬくもりが世界へ広がる


1939年。ヒマラヤへの登頂を目指す登山家ハラーだったが、第二次世界大戦の勃発によりイギリス軍の捕虜となり、インドの軍施設に収容されてしまう。登山仲間とともに脱走を強行し、ヒマラヤ山脈を越える決死の脱出を図るが、仲間の多くは死ぬか病気で再び捕虜になってしまい、ハラーとアウフシュナイターに2名だけになってしまう。2人は中国を目指し、途中のチベットにたどり着くが、チベットは外国人の入国を認めておらず、インドへ戻されてしまい…というストーリー。

冒頭の登山シーンは、高所恐怖症でなくても、お尻のあたりがヒュンとするね。このまま登山アクションが展開されるのかと思いきや、あっさりと異文化との遭遇映画に早替わり。テイストとしては『ラスト・エンペラー』の部類だ。

まあ、今の中国人は、日本人は中国を侵略したと、いつまでもいい続けるが、自分達も同じことをやってるのを認めないわけで、この映画の描写だって、すべてでっち上げだ陰謀だと絶対に認めない人たち。はい、ご苦労さん。
そして、他者の瑕疵を永遠に攻め続ける精神構造。犯罪者の子孫も永遠に犯罪者。自分の下僕にならない限り永遠に犯罪者扱い。そんなことをしてたらいつかは全員が犯罪者になっちゃうじゃないか…って普通は想像できると思うけれど、そこまで知恵が廻らない。そんな自分の姿を正視したら、気が狂うんじゃなかろうか。まあ、本当の意味で“赦し”のない国家に未来はないわ。はい、ご苦労さん。

まあ、あと20年もすれば、中国は毛沢東時代を総括せざるを得ないだろう。宗教は毒だと言い放ちながら、一人の思想を崇め、鶴の一声に言いなりになり、鉄を供出しろと言えば鍋釜まで接収して粗悪な鉄をつくって何の役にも立たなかったなんて逸話は枚挙に暇ない。そんな裸の王様を作り出し、百万単位の死者を出した歴史は、公になることもないし、子供に教育されることもない。そんな国が他国の歴史教科書にクレームつけてるんだもの、笑う以外にどうしろと。同じ轍は踏まないように気を付けることしかできまへんな。
#他者に尊敬のない行いをする者は、その報いを必ず受ける。

かといって、かわいそうだとは思えど、個人的にはチベットに対しても親近感も共感もない。この映画の影響だと思うけど、欧米で仏教といえばチベット仏教のイメージが強い。でも、はっきりいって私はこういう上座部仏教を認めていない。本当にそういう教義なのかどうかは知らないけど、本作中で、ダライ・ラマは仏陀なんちゃらかんちゃらの生まれ変わりで…という彼の生母のセリフがある。アホか。仏陀となって悟りを開いたら、輪廻転生のサイクルから解脱するのだから生まれ変わるわけがない。トンチンカンも甚だしい。それって仏教の基本じゃねえの?

今のダライ・ラマは、亡命生活も長いし知見もあるので、民主化を押しし進めていて、『リトル・ブッダ』で扱われた継承制度もおしまいにしようとしている。知名度もあり尊敬もされている今はいい。しかし、そろそろいい年齢である。あまりこういう予測はしたくないが、彼の死後亡命政権はかなり危険は状況になるだろう。本作でもチベット側が切り崩しにあって中国に占領されてしまうわけだが、それ以上のことが発生するはず。自滅、介入、混乱。おそらく文化的資料の保持すら難しい展開もありうる。そういう意味で、描写に若干の誤りはあるかもしれないが、本作はチベット文化的資料として有益だとと思われる。
#カリスマ指導者がいる仏教組織というのは、似たような末路なのかな。

ということで、面白いとか面白くないとか、そういう次元で愉しむ映画ではないのかなと思う。同じ時代を描いた作品ではあるが、映画としては『ラスト・エンペラー』に劣るかと…。





負けるな日本

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image1230.png公開年:2007年 
公開国:フランス、アメリカ
時 間:112分
監 督:ジュリアン・シュナーベル
出 演:マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリ=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシニ、パトリック・シェネ、ニエル・アレストリュプ、オラツ・ロペス・ヘルメンディア、ジャン=ピエール・カッセル、イザック・ド・バンコレ、エマ・ドゥ・コーヌ、マリナ・ハンズ、マックス・フォン・シドー 他
受 賞:【2007年/第60回カンヌ国際映画祭】監督賞(ジュリアン・シュナーベル)
【2007年/第60回カンヌ国際映画祭】撮影賞(ヤヌス・カミンスキー)
【2007年/第65回ゴールデン・グローブ】外国語映画賞、監督賞(ジュリアン・シュナーベル)
【2007年/第61回英国アカデミー賞】脚色賞(ロナルド・ハーウッド)
【2007年/第23回インディペンデント・スピリット賞】監督賞(ジュリアン・シュナーベル)、撮影賞(ヤヌス・カミンスキー)
【2007年/第13回放送映画批評家協会賞】外国語映画賞
【2007年/第33回セザール賞】主演男優賞(マチュー・アマルリック)、編集賞(ジュリエット・ウェルフラン)
コピー:ぼくは生きている。話せず、身体は動かせないが、確実に生きている。
ジャン=ドミニク・ボビー ELLE編集長、42歳、子供3人の父親。ある日倒れ、身体の自由を失った。そして左目の瞬きだけで語り始める。蝶のように飛び立つ想像力と記憶で──。

雑誌ELLEの編集長ジャン=ドミニク・ボビーは脳梗塞で倒れ、病室で目覚めると全体の自由を奪われた閉じ込め症候群となっていた。意識は鮮明だが、体が動かず、自分の意思を伝えることができない。言語療法士アンリエットや理学療法士マリーらの協力で、唯一動く左目の瞬きでコミュニケーションをとる方法を試み、ゆっくりではあるが意思を伝えることができるようになっていく。そして、彼はこれまでの仕事だけを重視してきた生き方を悔やみ、家族の大切さをを痛感する。やがて、彼は自伝を書こうと決意し、これまでの日々や思い出を綴っていくのだった…というストーリー。

実話だけに、とてつもなくゾっとする話。金縛りになった経験がある人はわかるだろうけど、脳だけ活動して体がまったく動かないあの感じが永遠に続くわけだからね。始めは、人間性を維持していくのは、とてつもなく大変なことだ…なんて感じで観ていたけれど、やっぱり実話ってのは、最後の20分はふわっとしちゃう。残念ながら、明るい未来がないことが見えているので、どうしてもダレる(昨日の『マグダレンの祈り』も同じ)。
#この主人公が原作者なんだけど、もちろん最後は他者による想像だね。

フランス語のアルファベットを順番に言っていき、該当したら瞬き…って、すいぶん効率が悪そう。本当にこの方法しかなかったのだろうか。私は、早々に自分が同じように左目だけが動く状態になったら、どうコミュニケーションをとろうか…と、ず~~~~~っと考えていた。だから、あまり映画の内容は真剣に観ていなかったかも(途中で、その女性がどの役だったかわからなくなってしまったよ)。

日本語の50音がマトリックス状態なのは幸いだ。私なら、
時計まわりに、上、右上、右、右下、下、左下、左、左上、正面を、それぞれ、ア行、カ行、サ行、タ行、ナ行、ハ行、マ行、ヤ行、ラ行に割り当てて、それそれ瞬き1回、2回、3回、4回、5回をア段、イ段、ウ段、エ段、オ段にして、さらに、右にぐるっと輪をかくとワ、左にグルッと輪をかくとンとする。YESは上下に動かす。NOは左右に動かす。濁点は左上から右下に動かす。拗音は右上から左下に動かす。撥音は大きい文字で予測してもらおう。

だから、例えば“カスタネット”は、右上でまばたき1回、右でまばたき3回、右下でまばたき1回、下でまばたき4回、右下でまばたき3回、右下で5回。そんな感じ。もし私がこの症状になったら、これでよろしく。
#って、本当に50分くらい、こんなことを考えていたよ。だって、映画自体は、特別な展開があるわけじゃないんだもん。

で、作品としてはこの特殊な状況をうまく表現できていて、かつ壮絶であることを常に感じさせ続ける演出は技ありといってよいと思う。能力のない監督がやったら、もっと早い段階で飽きがきていたに違いない。
ただ、「ふ~ん、なるほどね」の域は出なかった思う。なにか自分の人生について考えさせられるような、そんな気持ちが涵養されるか?というとそこまでのモノもなかったと思う。色々受賞していて評価は高いんだけど、私はあまり高く評価しない。だって、夢が無さすぎるんだもの。人間の想像力の素晴らしさまで感じさせてくれるとはいえないよ。これならドキュメンタリー番組にしてもらったほうがスッキリ感心できると思う。



負けるな日本

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image1614.png公開年:2002年 
公開国:イギリス、アイルランド
時 間:118分
監 督:ピーター・ミュラン
出 演:ノラ=ジェーン・ヌーン、アンヌ=マリー・ダフ、ドロシー・ダフィ、ジェラルディン・マクイーワン、アイリーン・ウォルシュ、イーモン・オーウェンズ、キアラン・オーウェンズ、フランシス・ヒーリー、エンヤ・マクギネス、フィリス・マクマホン、メアリー・マーレイ、ブリッタ・スミス、クリス・シンプソン、ダニエル・コステロ、ショーン・マクドナー、ショーン・マッキン、ピーター・ミュラ 他
受 賞:【2002年/第59回ヴェネチア国際映画祭】金獅子賞(監督:ピーター・ミュラン、出演:ジェラルディン・マクイーワン、Nora-Jane Noone)
コピー:前を見続ける、何があっても。
アイルランドの修道院。3万人の少女たちの隠された真実の歴史。

アイルランドにあるマグダレン修道院は、性的に“堕落した”女性たちを矯正する施設。1964年、3人の少女が収容される。その美しさゆえにしばしば少年たちの心を惑わせていた孤児バーナデット。従兄弟にレイプされたマーガレット。未婚のまま子供を産んだローズ。それぞれが罪を負った女とされ、悔い改めるために、自由を奪われ、過酷な動労を強いられ、修道女たちから極限までに非人間的な扱いを受けるのだった…というストーリー。

カトリックの人は、こんなのはイエスの教えとは正反対です!とか言うんだが、部外者の私から言わせれば、だからカトリックの教義はイエスからは乖離してるんだっつーの。カトリックの闇歴史のほんの1ページでしかないよね。いくらアイルランド社会が保守的だからって、そういう社会だからこそ未婚の女性や子供達を守る、それこそイエスの教えだろう。そんな迫害の舞台がマグダラのマリアの名前を冠してるなんて、タチの悪いジョークとしか思えない。
そして本作に対してクレームを付けるバチカン。笑わせるぜ。のべ3万人以上の女性が収容されていたんだぞ。なんの言い訳ができようぞ。なんのフォローの必要があるのか。おぞましすぎる。こんな組織が1996年まで存在し得ること考えられん。

主人公達を苦しめる修道女達の所業。シナリオとしては出来すぎなくらいの悪役っぷり。これがフィクションならば、修道女たちに地獄の報いを受けさせるところなんだろうが、残念ながらこれはほぼ実話。だから、最後も溜飲が下がるようなエピソードはない。おまけに、こんな目にあっても死ぬまでカトリックだったというローズのその後に、ゾっとしてしまう。カトリック社会の業の深さよ。
#なんか、もっと最後の字幕は内容があると思うんだけど、翻訳の語彙が足りなくない?なんでちゃんと訳さないのかね?

往々にして実話ベースの場合は、その制約ゆえに踏み込みが甘かったりするんだけど、本作の場合は、4人の女性たちを襲う過酷な修道女の仕打ちに、観ている側が飲み込まれてしまい、あっという間に世界に引き込まれてしまう。鈍痛のする映画だけど、表向きの教義とは裏腹にカトリック社会にはびこる、その不寛容と無慈悲さを、改めて認識させられる映画。お薦めするとかしないとかじゃなく、宗教とはなにか?権威とはなにか?という視点において、観る意味のある映画だと思う。



まけるな日本

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image0255.png公開年:2006年 
公開国:アメリカ
時 間:129分
監 督:オリバー・ストーン
出 演:ニコラス・ケイジ、マイケル・ペーニャ、マギー・ギレンホール、マリア・ベロ、ジェイ・ヘルナンデス、マリア・ベロ、スティーヴン・ドーフ、ジェイ・ヘルナンデス、マイケル・シャノン、ニック・ダミチ、ダニー・ヌッチ、フランク・ホエーリー、トム・ライト、ドナ・マーフィ 他
コピー:勇気そして生還――これは、真実の物語。


2001年9月11日の早朝。世界貿易センタービルに旅客機が激突する大惨事が発生したとの連絡が港湾警察に入る。港湾警察官たちに緊急招集がかけられ、ジョン・マクローリン巡査部長を班長とした救助チームが結成される。現場の惨状に言葉を失う彼らだったが、マクローリンと新人警官ヒメノを含む4人の警官がビル内に救出に入る。すると、直後にビル全体が崩壊し始め…というストーリー。

これまで、何度も観ようと試みたが、あまりのつらさに毎回断念している(事件が発生する手前で観るのを止めていた)。でも、今回の震災を受けて、気持ちが座ってしまったのか、いけそうな気がして鑑賞に到る。

残念ながら、映画作品としては本当にデキが悪かった。事件の記憶が生々しい中で作成されたので、各方面へ色々な配慮が必要だったろうし、脚色もしにくかったろう。おかげで、ドキュメンタリーとしても一つの物語としても、到っていない部分が多々ある。オリバー・ストーンをしてもこのおよび腰状態では、誰がやっても無理なのかもとすら思えてくる。まだ映画として扱ってはいけない内容だったのかもしれない。

早々に瓦礫の中に埋まり、主人公たちの動きはまったくないので、それが事実でどれだけ過酷であろうとも、そしていくら回想シーンを繋げようとも、飽きてしまうのはどうしても避けられない。
#同様に今も東北の瓦礫の下でがんばっている人がいると思うととてもつらいが…
こういう内容ならば、ドキュメンタリーとしてしっかり作成したほうが、よっぽどよかっただろう。様々な隊員や職員達、その家族におこった出来事を淡々と羅列して、我々に考えさせる演出をしたほうが良いものになったと思う(でも、多くの人たちが映画で扱われることを拒否したであろうことは、想像に難くない)。

一つ、考えされたのは、事件に巻き込まれた人の家族や友人は、情報が少ないことにイラついてしまい、わざと情報を隠蔽しているとまで考えてしまうのだな…ということ。
そしてどういう可能性があるのか?となんとか情報を聞き出そうとするが、可能性を聞いたところで、悪い方の可能性ばかりが耳に残るわけで、さらに不安になるだけ。事実を淡々と待つしかない(だから、アナウンサーやコメンテーターが憶測のような可能性は話すことは、よくよく考えて行わなければいけない)のだな…と。

繰り返しになるが、残念な出来ばえなので、お薦めしない。



負けるな日本。

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image1098.png公開年:2004年 
公開国:イギリス、イタリア、南アフリカ
時 間:122分
監 督:テリー・ジョージ
出 演:ドン・チードル、ソフィー・オコネド、ニック・ノルティ、ホアキン・フェニックス、デズモンド・デュベ 他
受 賞:【2005年/第18回ヨーロッパ映画賞】音楽賞(ルパート・グレグソン=ウィリアムズ、アンドレア・グエラ)
コピー:愛する家族を守りたい。」ただ1つの強い思いが、1200人の命を救った…


1994年、ルワンダで多数派のフツ族が少数派のツチ族を一斉に襲撃し始め、大虐殺に発展する。ベルギー資本の4つ星ホテルで支配人として働くポールは、自分はフツ族だったものの、妻がツチ族だったために、迫害の対象となってしまう。当初が国連の平和維持軍により何とか安全は保たれていたが、突然撤退が決定。同様に迫害されたツチ族も次々と集まり、ホテルは難民キャンプと化してしまう。やがてフツ族側へのワイロの品も無くなり、とうとうホテルへの攻撃が始まり…というストーリー。

100万人が虐殺されたとも言われるルワンダで発生した実際の内戦。人類の歴史において大量虐殺が行われたことは数あれど、短期間にそれも大量虐殺兵器が用いられることもなく、ひたすらマンパワーで実行されたという事実。たしかに西洋諸国の失策も遠因だろうが、それにしても実に恐ろしい。

この争いの大本である両部族の区別自体が、外部から与えられたものあること。白人による黒人の差別のように、外面的に明らな違いが元で発生すると思っていたが、認識を改める必要があると思う。“差”があるから差別が発生するのではなく、差別をしたくなったので後から“差を探す”ということを行っているのだ。争いそして抹殺するというなんらかのDNAが人間の中に潜んでいるということを感じざるを得ず、たとえ大して根拠のない差であってもそのDNA発動のきっかけになりうるという人間の本質の一部に驚愕すると共に、それが自分にもおそらくあるという事実に怖れを覚える。

とはいえ、政治や理屈で止められないうねりのように巻き起こる虐殺に対して、負けずにできることをやりとおした主人公ポールの行動も、同様に驚愕に値する。この胆力にはひたすら感服し共感する。昨今の震災のこともあるので、自分でできることは何とか解決し、周りの人たちにひたすら手をさしのべ続ける、このような人物の存在には、勇気を与えられる。
映画上の演出かもしれないが、どんな時でも知的で紳士的なポールの物腰は、人とはこうあるべきというお手本だと感じる。それを演じきったドン・チードルも見事。

この重く厳しい事件を扱った割には“映画らしく”仕上がっており、誤解を恐れずにいえばとてもおもしろく演出されている。あえて行っていると思うのだが、雑な編集が効果的だと思う。

この震災のさなか、若干ツラく感じるところはあったが、それ以上に、心の中にふつふつと湧く何かを感じさせてくれる一本だと思う。強くお薦め。




#負けるな日本

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image1270.png公開年:1978年 
公開国:アメリカ
時 間:121分
監 督:アラン・パーカー
出 演:ブラッド・デイヴィス、アイリーン・ミラクル、ランディ・クエイド、ジョン・ハート、ポール・スミス、ボー・ホプキンス、マイク・ケリン 他
受 賞:【1978年/第51回アカデミー賞】脚色賞(オリヴァー・ストーン)、作曲賞(ジョルジオ・モロダー)
【1978年/第4回LA批評家協会賞】音楽賞(ジョルジオ・モロダー)
【1978年/第36回ゴールデン・グローブ】作品賞[ドラマ]、助演男優賞(ジョン・ハート)、脚本賞(オリヴァー・ストーン)、音楽賞(ジョルジオ・モロダー)、新人男優賞(ブラッド・デイヴィス)、新人女優賞(アイリーン・ミラクル)
【1978年/第32回英国アカデミー賞】助演男優賞(ジョン・ハート)、監督賞(アラン・パーカー)、編集賞

アメリカと中東諸国との関係が険悪な1970年代。アメリカ人旅行者ビリー・ヘイズはイスタンブール空港から大麻樹脂を運び出そうと試みる。しかし、搭乗前にトルコ当局に発見・逮捕され、麻薬不法所持、密輸の罪で現地の刑務所に拘留されてしまう。所内の過酷な環境や拷問の恐怖に疲弊する一方のビリーだったが、所内で知り合ったアメリカ人ジミーとエリックに励まされ何とか乗り切っていく。しかし、駆けつけてきた父や弁護士、アメリカ領事官の“すぐに出してやる”という言葉を信じて望んだ裁判で、4年の刑を宣告されてしまう…というストーリー。

どれだけフィクションが加わっているのかよくわからないが、逮捕されてから脱獄をするまでの基本的な流れは事実らしい。それについては実に驚きだ。

オリヴァー・ストーン脚本なので、そう深くない部分で政治メッセージが含まれているに違いないと予測するのは、理解できる。けれど、本作を観て、中東の人権意識がどうだとか、当時のアメリカの姿勢がよろしくないだとか、そんなところに気が行ってしまったら、おもしろくもなんとも感じられないのではなかろうか。
また、このような状況になった最大の原因は、間違いなく主人公の不法行為なので、これって自業自得じゃんか!てな感じで、“誰が悪いのか探し”をしていると、同じようにおもしろく感じられないだろう。
本作がつまらなく感じた人は、そういう部分に頭が向かってしまって抜け出せなかったからではないかな…と考える。
とにかく、何はどうあれ、こういう状況になりました。観ているあなたもいっしょにドキドキしよう。そういう観方をすべき映画だと思う。そうすれば、彼の葛藤や苦悩・決断に、感情移入して、手に汗を握りながら愉しめはずである。
#特に、後半はものすごく惹きこまれた。

確かかにこの出来事自体はスゴい話なのだが、じゃあ、その事実だけでここまでおもしろくなったかいわれると、それは否だと思う。仮にこういうフィクション原作を与えられたとしても、私にはここまで惹きつける脚本は書けない。ひとえにオリヴァー・ストーンの脚本力のなせる業だと、ひたすら感服するのである。とてもハードな作品だが、未見の方には強くお薦めしたい一本だ。#深夜特急で旅をする話ではないので、そういう勘違いはしないで観てほしい(ゴメン。私、実はちょっと勘違いしてた(笑)。ミッドナイト・エクスプレスって脱獄の隠喩なんだって)。

まあ、とはいえ、異文化を甘く見ないほうがいいというのは強く感じざるを得ない。オーストラリアなんかに旅行に行ったとして、私を気に喰わないと思った人が、私のかばんにひょいっと白い粉なんかを放り込んだ日にゃあ、私もオーストラリアで長期休暇を過ごすハメになる。決して昔の話じゃないんだよね。トルコは親日的だと聞くけれど、この映画をみたら怖くなっちゃうのは仕方ないよね。
#って、オマエ、海外旅行なんかしたことないし、予定も無いんだから、心配無用だろ!ってね。

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image1209.png公開年:1999年 
公開国:アメリカ
時 間:119分
監 督:キンバリー・ピアース
出 演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード、ブレンダン・セクストン・III、アリシア・ゴランソン、アリソン・フォーランド、ジャネッタ・アーネット、マット・マクグラス、ピーター・サースガード、ブレンダン・セクストン三世 他
受 賞:【1999年/第66回NY批評家協会賞】女優賞(ヒラリー・スワンク)
【1999年/第25回LA批評家協会賞】女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演女優賞(クロエ・セヴィニー)
【1999年/第57回ゴールデン・グローブ】女優賞[ドラマ](ヒラリー・スワンク)
【1999年/第15回インディペンデント・スピリット賞】主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演女優賞(クロエ・セヴィニー)
【1999年/第5回放送映画批評家協会賞】主演女優賞(ヒラリー・スワンク)
コピー:自分自身を 見い出すための 勇気を描いた 衝撃の実話。

1993年、ネブラスカ州リンカーン。性同一性障害の女性テーナは、男性の格好をしてブランドンと名乗り生活していたが、軽犯罪を重ねたため街にいられなくなり、フォールズ・シティという街に向かう。ブランドンは、そこのバーでラナという女性に出会い、すぐに恋に落ちる。その後、彼女だけで彼女の友人や家族に対しても男性と偽って付き合いを続けていたが、とある事件がきっかけとなり、秘密が明るみになってしまい…というストーリー。

性同一性障害という医学的な疾患をテーマにした作品としては、いささか不真面目な気がするなぁ…と思いながら観ていた。一見理解のあるラナの行動だけど、それは家族でもなんでもない距離感だからだろうし。こういう症状の人を家族に持ってしまった人の苦悩とか、そういうことを考えると理解してくれた人が見つかってよかったね…なんて手放しで喜べない。
#もちろん、ラナの母親の態度や、アホ二人の行動が肯定するつもりはない。

作品自体も、性同一性障害というものの存在とか苦悩に対する理解を深めさせたいのか、人の不寛容というものを表現するツールとして単に登場させただけのことなのか、意図が見えてこない。それに加えて、可愛そうな状況だってのはわかるんだけど、性同一性障害の部分を除いても共感できない主人公像。同様のことを『僕を葬る』のときにも言ったけど、バーで不特定の相手を物色することに執着するわ、犯罪を犯すことも厭わないは、性がどうのこうの以前の問題かと。そんなになっちゃったのも、性同一性障害について周囲の理解がないからだから、理解しろよ!と押し付けているのなら、それを受け止めることを私は拒否する。

それに、アホ二人の所業も、あまりにひどくて、こんなに不条理で救いがない展開にする意味があるのかよ!という気持ちになるほど(何故にその人まで死なねばならんか!?)。

どうも釈然としなかったんだけど、途中で確認したら実話ベースだった(ラストでわかるんだけど)。実際の事件がベースならしょうがない…(と、思うしかない)。セミドキュメントだとすれば大変デキは良い作品だろう。ズドーンとみぞおちに衝撃をくらった感じはする。でも、フィクションとかノンフィクションとかカテゴリを超越して純粋な作品として括って評価するならば、あくまで“実話ベース”ならば…という注釈付きの評価にならざるを得ず、手放しですごく良い作品!とは言い難い。
もしかすると、冒頭で「この作品は実話に基づいています」とはっきり入れてくれれば、おもしろくなったのかもしれない(もしかして見落としてる?)。

本作のヒラリー・スワンクの演技の良し悪しを私は評価できない。難しい役を演じきったのは明らかなんだけど、そういうがんばったで賞的な部分を差し引いて、純粋に演技が素晴らしかったのかどうか、私にはわからないから(ハードさに目がいってしまって演技がどうのこうのという観点で観られなかった)。

これから観る人は、実際の事件がベースだ!ということを認識した上で観よう。ひたすら重いし、腹立たしいし、どうにもできないもやもやが心に渦巻くけれど、“納得”はできると思う。条件付きでお薦め。

#コレを観た後に、TVのチャンネルをひねると、オネエキャラの人が普通にコメントとかしてる…という状況のほうが、よっぽど味わい深い空気だったけどね。

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image0288.png公開年:2003年 
公開国:イタリア
時 間:102分
監 督:マルコ・ベロッキオ
出 演:マヤ・サンサ、ルイジ・ロ・カーショ、ロベルト・ヘルリッカ、ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ、ジョヴァンニ・カルカーニョ、パオロ・ブリグリア 他
受 賞:【2003年/第60回ヴェネチア国際映画祭】芸術貢献賞(マルコ・ベロッキオ)
コピー:私は信じる。きっと自由になる日が来ると。
1978年、ローマ。これはイタリア最大の事件と呼ばれた「事実」に基づいた物語である。


1978年、イタリア。極左武装集団“赤い旅団”がモロ元首相を誘拐する。モロ元首相は、アパートの一室に監禁され、女性メンバーのキアラが身の回りの面倒を見ることに。この事件は大々的に報道されるが、自分たちの行動が社会から支持されていないことを知り、加えて、政府に対する要求がことごとく拒絶されることに、苛立ちを募らせていき…というストーリー。

イタリアの名監督らしいのだが、知らず。たしかに手練な感じはする。音楽の使い方なんかは前衛的な要素もあるが、年寄りの冷や水というか、とって付けた印象も。

連合赤軍事件の永田洋子死刑囚が獄中死亡したニュースも、耳に新しいところだが、同様の共産主義思想の過激派の話である。日本赤軍のような日本の組織を扱った作品の場合、内ゲバや粛清によって、グロい狂気描写だらけになりがちなのだが、本作にはそういうシーンはない。

赤い旅団は明確に共産主義革命を標榜する組織であるが(まあ、実際はチンピラまがいで、マフィアと手を組むなど、志は高かったとは思えないのだが)、事件の被害者となった元首相のモロ氏がキリスト教民主主義党だったことで、共産主義とカトリックとの対比がなされ、共産主義が宗教の一つであることや、それが原始キリスト教の態様に酷似している点が表現されているのが、興味深かった。

人間というものは、他者とのコミュニケーションによって、多かれ少なかれ影響を受けるものである。その変化を成長と呼び、その変化こそ“人間”の社会性動物としての存在意義の一つといって良い。しかし、彼らは、他者の意見を一切受け入れず、その偏狭な考えを決して曲げることはない。その態度は既に“人間”のそれではないと私は思う。人間ではなく且つ他の人間に危害を加えるということは獣である。そして知性のある獣は悪魔と呼ばれるのである。
とはいえ、その知性とやらもレベルが知れているのが厄介。労働者革命の先には、今とは違う階級社会が表出し、再び違う階級闘争が生じる。それが永遠の流血を意味しているという想像すらつかない。そんなポンコツ悪魔たちが、自らの稚拙な所業によって追い詰められていく様子は、不謹慎ながら非常におもしろい。このクソ野郎どもを、痛い目にあわせてやりたい!そういう気持ちが増幅する、めずらしい感情が沸く作品である。

途中で、女性メンバーの心が揺れはじめ、組織が瓦解するのか?この女は転向するのか?と、方向性が変わりそうになるのだが、さすがに史実なので曲がりはしない。ちなみに、このモロ元首相誘拐事件の結末を知っているかいないかで、かなり感じ方は違うと思う。事件を知っている人は、あまり愉しめないと思うので、知らない人はまちがってもウィキペディアで検索しないように(笑)。そのまま観よう。

残念ながら、史実の壁のせいなのか、最後は“だって史実なんだからどうしようもないじゃな~い”と言い訳を叫びながら終わった感じ。決して、良い作品とはいえないのだが、あまり存在しないタイプの作品であることや、人がドツボにはまっていく様子を愉しむという観点では、価値はあると思う。私は意外と楽しめた。

以下、事件の結末を知らない人は読まないように。

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プロフィール
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映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
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一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
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