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image1362.png公開年:2008年 
公開国:アメリカ、イギリス
時 間:115分
監 督:ジャスティン・チャドウィック
出 演:ナタリー・ポートマン、スカーレット・ヨハンソン、エリック・バナ、デヴィッド・モリッシー、クリスティン・スコット・トーマス、マーク・ライランス、ジム・スタージェス、ベネディクト・カンバーバッチ、オリヴァー・コールマン、アナ・トレント、エディ・レッドメイン、ジュノー・テンプル、トム・コックス、マイケル・スマイリー、イアン・ミッチェル、アンドリュー・ガーフィールド、ビル・ウォーリス 他
コピー:愛は、分けられない。
最初に愛されたのは妹メアリー、王妃になったのは姉のアン。世界を変えた華麗で激しい愛の物語。

16世紀、イングランド。国王ヘンリー8世と王妃キャサリンとの間には男子がなかなか生まれない。成り上がり貴族のトーマス・ブーリンは、そこに付け入り、一族の出世のために長女アンを王の愛人にしようと画策。しかし、王が見初めたのは次女メアリー。メアリーは商人と結婚したばかりだったのだが、王は王妃の侍女として宮中に入れ、結局、愛人にしてしまう。王の愛人の座を横取りされたアンは、メアリーに対して嫉妬と憎しみを抱き始める…というストーリー。

エリザベス女王とローマ教皇が会談して歴史的和解…みたいなニュースがあったと思うけれど、まさに本作はイギリス国教会事始め。世界史の授業をとった人なら、女ったらしのヘンリー8世が愛人と結婚するために離婚をしようとしたけれど、ローマ教皇庁が認めなかったために断絶し、イングランド国教会の設立につながることに…ってのは記憶の片隅にあるはず。
#いやぁ、正直にいうと、なんとなく名前だけで借りて、観進めていくうちにアン王女の話だってことに気付いたのだが…。

ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンの容姿(というか人種的特徴)があまりに異なるので、姉妹って…って思ったのだが、調べてみると実際にアンは黒髪でやせ型で、メアリーは金髪で豊満って感じだったらしい。実はバッチリなキャスティングなんだね。
どうも、最近の学説だと、メアリーが姉でアンが妹ってことらしいけど、まあ、それはどっちがどっちでも本作の面白さには影響ないかな(ハリー・ポッターの邦訳でも姉妹が逆になってって云々ってことがあったけど、大勢に影響がなけりゃ、案外どうでもいいことなのかも)。さらに、同じ名前でややこしいんだけど、ヘンリー8世と前妃キャサリンとの間の女子の名前もメアリーで、こっちが例の悪名高き“ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)”なんだねぇ。

ケイト・ブランシェットの『エリザベス』の冒頭に出てくる、メアリー王女がそれなわけだ。どうも、このあたりの複雑なドロドロの流れが腑に落ちていなくって、『エリザベス』の時はなんとなく判った気になって観ていたけど、しっかりとピースがはまっていく感じがして、けっこう心地好かった。

はじめは無邪気な兄弟が、出世の道具されていくわけなんだけど、それでもはじめは謀略のままごとみたいな感じで参加。でも不思議なことに、そのままごとみたいなノリで充分通用しちゃう世界だってのが、またおもしろい。
ナタリー・ポートマンはアン・ブーリンのクレイジーっぷりを見事に怪演(っていってもいいよね)しているし、スカーレット・ヨハンソンも、いつもどおりの、口が半開きでモッサりしたイメージが実にハマっていてよろしい。母親役しかり、かなりキャスティングはいい感じ。肝心のヘンリー8世がいまいちという声も出そうだが、ここでヘンリーまで強烈な個性を発揮しちゃうとポイントがボケそうだから、こんな感じでいいんだと思う。

ただ、不思議なのは、原題が“THE OTHER BOLEYN GIRL”で、ブーリンといえばアン・ブーリンなわけだから、そのOTHERってことはメアリーを指しているってこと。メアリー目線でハナシが進むわけでもないし、メアリーが主役なわけでもない。なんかまとはずれなタイトルな気もして、めずらしく邦題のほうが正しく思えるめずらしい例かも。ブーリンといえばアン王女のことばかり語られ、メアリーのことを語るケースが少ないってことで、それを扱ったというだけでも、注目に値するってことなんだろうか(やはりピンとこないなぁ)。

まあ、それはそれとして、基本的に実話なんだけど、ストーリー展開は流麗で飽きることはない。ポンコツ韓国ドラマのドロドロ展開なんかハナクソに思えてくるくらい、よくできていると思う。
とにかく、『エリザベス』を観なおしたくなって仕様が無い。歴史に興味のある人は、非常に楽しめると思うし、そうでない人も及第点は超えると思う。まったく受賞歴はないんだけど、お薦めできる一本。
#日本の歴史モノ映画も、技術・脚本含めて、このレベルにならないものか。
 

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image1324.png公開年:1988年 
公開国:アメリカ
時 間:163分
監 督:マーティン・スコセッシ
出 演:ウィレム・デフォー、ハーヴェイ・カイテル、ヴァーナ・ブルーム、バーバラ・ハーシー、ハリー・ディーン・スタントン、デヴィッド・ボウイ、アンドレ・グレゴリー、ジュリエット・ケイトン、ロバーツ・ブロッサム、アーヴィン・カーシュナー、ネヘミア・パーソフ、バリー・ミラー、ヴィクター・アルゴ、ゲイリー・バサラバ、ポール・ハーマン 他
ノミネート:【1988年/第61回アカデミー賞】監督賞(マーティン・スコセッシ)
【1988年/第46回ゴールデン・グローブ】助演女優賞(バーバラ・ハーシー)、音楽賞(ピーター・ガブリエル)
【1988年/第9回ラジー賞】ワースト助演男優賞(ハーヴェイ・カイテル)

どんな作品でも、カトリック信仰がベースになっているスコセッシ監督。作品のどこかに十字架を背負ったキリストが投影された人物が登場するわけだが、本作はまさに直球(ご本人登場だからね)。

スコセッシの大傑作と賞賛する人もいるけれど、ワタシはそこまでとは思わない。映像も音楽も非常によろしいと思うが、『ラスト、コーション』のセックスシーンが直球すぎて、逆になにも感じなくなっちゃうのと一緒で、本作もストレートに表現されちゃったことでスコセッシ色というか味が、いささか軽減されていると思う。
意を決して、自分の思想の中心ともいえるテーマに挑戦しておきながら、冒頭で“フィクションである”と明確に宣言し、歴史的考察や学術的議論に巻き込まれることを回避している。まあ、キリスト教関連団体からの抗議を避けようとしたんだろうけどね。タイトルの“最後の誘惑”が何かっていうのは、オチみたいなものながら言わないけれど、まあ、こういう人間的すぎる表現が宗教関係者の怒りを買ったんだろう。
自分の好きなものを扱ったのはいいが、逆に客観性の欠落につながり、トータルな質は低下しているとも感じるし、もっと短くまとめたほうが、“最後の誘惑”の部分はもっと生きただろうとも思う。

そう考えると、芸術っていうのは「うまいこと何か別のことがら表現すること」で、受けてがそれを通じて感じる(気付く)過程を愉しむものなんだなぁ…と、思うよ。言いたいこと・作りたいものを、そのままつくったら、それは演説や説教とかわらなくなっちゃう(思いが強すぎて、長くなっちゃってるのもいただけないしね)。
ワタシがカトリック社会にいる人間なら、別の感情で目が曇って、この点には気付かなかったかも。反面教師的な意味で、芸術の何たるかに気付かせてくれて、非常に勉強になった作品。

とはいえ、同じテーマの作品として、メル・ギブソン監督の『パッション』があるが、そちらよりは格段に面白い(というかよっぽど映画らしい)と思う。ウィレム・デフォーの顔力がなかなか。『ダレン・シャン』のとってつけたようなチョイ役の彼が同一人物は思えまへん。
キリスト教に造詣の深くない人にとっても及第点は超えている作品と思うが、とにかく“最後の誘惑”の場面までが長く長くつらいので、くじけずに見なければいけない。スコセッシファンで、さらにその我慢強さを持ち合わせている人に限りお勧めする。

別件。
DVDへの文句だが、映像や音楽や演技に集中したいので吹替えをつけてもらいたい。そうしてもらえればもっと評価は上がったかもしれない。本作の字幕を追うのはけっこう厳しい。

#イエスが人々の原罪を贖ったというなら、なんで我々は死ぬのだろうか。その疑問には永遠に答えてもらえそうにない…

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image1246.png公開年:1925年 
公開国:ソ連
時 間:66分
監 督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
出 演:アレクサンドル・アントノーフ、グリゴリー・アレクサンドロフ、ウラジミール・バルスキー 他





1905年6月、戦艦ポチョムキンは、労働者のゼネストが行なわれているオデッサ港付近に碇泊。食料の牛肉に蛆が沸いていたことから、水兵たちの怒りが爆発したが、士官のギリヤロフスキーにより鎮圧され、食卓には腐肉のスープが並べられる…というストーリー。

何でこんな古い映画をいまさら観るかというと、映画検定的な目線…というか、映画のお勉強のため。常々観たいと思ってはいたのだ。『アンタッチャブル』の乳母車が階段を落ちるシーンが本作のオマージュだというのは有名な話。モンタージュ手法を確立した作品として映画史に輝く作品であるが、少し観ただけで、オマージュを捧げたくなる理由、その偉大さにすぐ気づく。アップショットのカット割りや、現在では当たり前の細切れのシーンを編集する方法が、1925年の段階で“完全に”確立されているということだ。要するに、今、我々がいうところの“映画”は、この作品が始まりだったといってよいのである(本作の前の『ストライキ』という作品も同様の手法らしいのだが、レンタルしていないので確かめる術が無い)。
ストーリーは、あくまでソ連のプロパガンダ映画なので極めて政治色が強く、決して楽しめる内容ではないのだが、とにかく技法の面では、驚きしか感じない。1925年って大正14年だからね。エイゼンシュテインという人、天才だよ。もっと広く評価されてもいいのにね。

ただ、そのストーリーも、今観れば、逆に革命思想の馬鹿らしさを揶揄しているように見えるのが不思議。とことんまで過剰に表現することで、遠い将来、逆の見方がされてもおかしくないように仕込んでいたとしたら、エイゼンシュテイン恐るべしなのだが(まあ、違うだろうけど)。

いやいや、久々に驚いた。娯楽作品としては一切お薦めできないが、学術的な価値はあまりにも高いので、映画を語りたいならば、見ておくべきかも。

#本作に登場するオデッサの階段が、セットではなく実物なら、行って記念写真と撮ってみたいね。

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image1464.png公開年:2006年 
公開国:アメリカ、スペイン
時 間:114分
監 督:ミロス・フォアマン
出 演:ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン、ステラン・スカルスガルド、ランディ・クエイド、ミシェル・ロンズデール、ホセ・ルイス・ゴメス、マベル・リベラ、ブランカ・ポルティージョ、ウナクス・ウガルデ、フェルナンド・ティエルブ、デヴィッド・コールダー 他
コピー:それは、立ち入り禁止の、愛。



18世紀末、スペイン国王の宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤは、裕福な商人の娘で天使のように魅力的な少女イネスと、ロレンソ神父の肖像画を手がけていた。そんな中、カトリック教会は、ロレンソの提案によって異端審問を復活。そして、居酒屋で豚肉を嫌ったイネスは、ユダヤ教徒の嫌疑を懸けられ審問所へ収容されてしまう。イネスの父ビルバトゥアは友人ゴヤを介してロレンゾを家に招待し、娘を返してほしいと懇願するが…というストーリー。

美術に関する知識が乏しくて、ゴヤが活躍した時代すらピンときていない状態で鑑賞。タイトルから、家政婦は見た的な感じの宮廷スキャンダルものだと思っていたが全然違い(笑)、骨太の歴史ドラマだった。ナポレオン登場前後のスペインが舞台の映画は初めてで、当地の歴史にも詳しくないので、私にとっては興味深い教材である。所々に差し込まれるゴヤの作品を見て、美術の副読本の記憶が蘇る。

主役のゴヤは完全に狂言回し。王妃をブサイクなまま描き不評を買っても、なんで?という表情のゴヤ。この正眼ゆえに歴史を見つめる適任者ということだろう。

スペイン国王カルロス4世はフランス人。次にナポレオンが王を立て、続いてイギリスのウェリントン公が王を立て、その都度、解放を名目とする兵は民衆を虐殺・凌辱する。ロレンソはスペインを称して"売春婦"と言うが、次々と違う男が上にいる売春婦と一緒だっていう意味。それが証拠に、革命軍が上に立とうが、教会が上に立とうが、民衆は同じように熱狂する。さらに古くはイスラム教徒に支配されていた時代もあるし、ゴヤの絵にも中東系の顔立ちの人々がたくさんでてくる。近現代においても共和制時代やらファシズム体制時代と、不安定な政情が続くスペイン。その国としてのアイデンティティとは何か?歴史的には非常に難しい国。

侵略と殺戮の歴史が繰り返される不安定なヨーロッパでは、“普遍”を求める民の心の上に、一神教のキリスト教が君臨するのも致し方ないとは思うが、本作で見られるカトリックの所業には実にうんざりさせられる。昨日は書かなかったが、『81/2』では随所にカトリック批判表現が散見された。本作ではそれ以上に直接的にカトリックのダークな側面が描かれている。

演者で特筆すべきは、ナタリー・ポートマン。特殊メイクのおかげといってしまえばそれまでだが、痩せこけみすぼらしくなったイネス役は鬼気迫る熱演だった。配収も低調だったようだし、全然受賞もしていないのだが、作品自体の評価がもう少し高ければ、彼女もなんらかの賞レースにノミネートくらいはされていたと思う。

世に評価されてこそいないが、なかなかの良作。飽きることなく最後まで観終えることができ、そこそこお薦め。

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image1275.png公開年:2007年 
公開国:ドイツ、ロシア、カザフスタン、モンゴル
時 間:125分
監 督:セルゲイ・ボドロフ
出 演:浅野忠信、スン・ホンレイ、アマデュ・ママダコフ、クーラン・チュラン 他
ノミネート:【2007年/第80回アカデミー賞】外国語映画賞
【2007年/第21回ヨーロッパ映画賞】撮影賞(セルゲイ・トロフィモフ)
【2007年/第14回放送映画批評家協会賞】外国語映画
コピー:闘って、生きた。
守るべきは、この愛しきもの

12世紀のモンゴル。キヤト族の頭領イェスゲイの長子テムジン。9歳の時、他部族の娘ボルテと出会い婚約するも、その帰路にイェスゲイが他部族に毒殺されると、部下のタルグタイの裏切りにより家財を奪われ放浪の身となり、さらに命を狙われ続けることとなる。そんな逃走の中、凍てつく池に落ちたテムジンは、少年ジャムカに助けられ、2人は盟友(アンダ)の誓いを交わす…というストーリー。

『蒼き狼 チンギス・ハーン』とは大違い。好感が持てる点が多々ある。
『蒼き狼 チンギス・ハーン』で鼻についた中華目線はもちろんなし。ある時点で囚われの身になったテムジンが回想する形式で話は進むのだが、そう言うと『蒼き狼 チンギス・ハーン』と同じく一人称目線じゃないかというかもしれないけれど、そうではない。自分の回想とはいえ客観的な目線で展開するし、後の中華的価値観でモンゴルの風習を野蛮だと思ったり、大人(タイジン)ぶって説教臭いことを吐いて言動不一致になったりはしない。

歴史書によってまちまちだったり食い違うところは、おもいきってばっさりと扱わなかったり、逆に謎の期間は、大胆にフィクションにしてみたり(だからといって歴史的にむちゃくちゃだってわけじゃない)と、歴史劇としてはものすごく評価できる。
口伝のためものすごくあいまいな、出自にまつわるところは扱っていないし、文書によって扱ったり扱わなかったりの(私的にはおそらく創作と思われる)弟を殺害して母に叱責されるシーンもなし(その経験から同族は殺さないと誓ったなんて、後の行動と矛盾するんだよね)。メルキトにさらわれて妊娠したボルテについて悩む部分もなし。本作では、メルキトの子か自分の子か微妙…というのではなく、“誰の子だろうとまったく気にしなかった説”を採用しているのもよいと思う。
大胆なフィクションだなぁと思うのは、西夏に奴隷として囚われたというくだり。ジャムカとの激突は、明確に敗北したという記述はないのだが(状況的に敗北だと思うが)、敗北後に西夏あたりを放浪していた時期は、文献的には空白。それを逆手にとって奴隷になっていたと大胆に創作している。さらにその間にボルテは商人の愛人になり、その間に一子もうけた末にテムジンを救出。明らかに他人の子だけどあっさりとまるごとと受け入れる。ボルテがそんな行動をしたのも、そんな出自の娘がいたことも聞いたこともないんだけど、“妙技”だと私は思う。識者と脚本家がかなり練ったと予想する。とにかく現代人の常識・モラルでは受け入れがたい(理解しがたい)行動様式もそのまま表現しようという姿勢がよい。

実際に囚われてばっかりの人生だったテムジン。映画にする場合、かっちょわるいのであまり表現することがないんだけど、本作ではしつこいくらいに囚われる(笑)のもよし。
風俗的には『集史』の挿絵と現在のモンゴルの衣装の折衷した感じで、事実か否かはさておき、違和感はない。浅野忠信は、恰幅のいいテムジン像じゃなく『集史』の挿絵にある細身のイメージで、こちらもあり。

若干微妙なのは、ストーリーを集約するために、ラストの史実をかなりはっしょっている点。西夏時代にテムジン勢力は急拡大するんだけど、なぜ急拡大するのかっていう部分。本作では神だのみと掟を定めるシーンの後、その信念の元に大勢力が集まったとなってる。ここはジャムカの人望の無さに嫌気がさしてテムジン側に人が流れたり、テムジンよりも権力のあった別のハーン(オン・カン)との関係や、金(中国の王朝ね)との関係とか色々あるんだけど、あえてジャムカとの対立軸だけ残してあとは捨象している。

総じて、歴史ドラマとしてかなりおもしろく観れるのでお薦めする。余計なことを考えずに(というか考えることが無駄に思えるような生い立ちで)一心に目的にむかって進んでいく、本当の狼みたいに研ぎ澄まされた人格を浅野忠信はうまく演じていると思う。

#ボルテ役の人は民族色強すぎですかな…。
 

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image0012.png公開年:1998年 
公開国:中国
時 間:110分
監 督:サイフ・マイリシ
出 演:テューメン、アイリア、バヤェルツ、ベイスン、キナリツ 他






モンゴル。ボルジギン氏の長の子として生まれたテムジン。他部族との同盟のために人質になっている最中に、他部族との抗争によって父が殺害されると、テムジンの家族は部族から見捨てられるという苦難を味わう。成長した後、部族長として返り咲くも、夫人ボルテをメルキトに略奪されてしまう。テムジンの小部族だけでは対抗できず、父の友人のワン・ハンや幼馴染のジャムハと連合するが…というストーリー。

『モンゴル』を観る前に、そういえば別のチンギス・ハーン映画があったなぁと思い、先にこちらを観る。というか、観てしまった…かな。先にいってしまうけれど、本作はダメだめですな。

映画として、一番引っかかるのはテムジンの一人称で語られているところである(それも中途半端なんだけどね)。なぜそれがダメなのかというと、まず、当時のモンゴルの風習・風俗は、本作でも表されている他部族の嫁を奪う風習しかり現代人の感覚では理解も共感もまず不可能なものなのに、現代人目線(それも今の中国人の価値観)で語られている点。弟を殺したことを反省しもう一族を殺さないと誓った…とか、元朝を立派な中国の一王朝として扱おうという意図のためなのだろうが、元々は野蛮人だったが改心してまともな人間になった…そういう人物が中国の王朝の祖ですよ…というロジックに見えて仕方がない。歴史映画の姿勢としては、若干醜く感じる。横山光輝のマンガのように、できるだけ第三者視点で淡々と出来事を語らないといけないところだと思うのだが。
本作はテムジンの出自からジュチが生まれるまのでエピソードで、“ハーン”となるかなり前の範囲までが扱われているのだが、ここで終わるのも、中国王朝の祖としての人間の器を表現したいがためだろう。普通ならこの後の統一過程のエピソードや、それこそジュチをはじめとする子供達の活躍だって見所のはずだから。

なんで私が、こうも作り手の意思を重要に思うのか。それは、『元朝秘史』なり『集史』で伝えられているテムジンの出生をはじめモンゴル諸族にまつわるエピソードは、詰まるところ口伝だし、遺跡的なものも決して多いわけではないので、正確性は低く諸説もバラバラだから。チンギス・ハーンの伝記には必ずでてくる長男ジュチの出自の秘密についてもそう。自分の子ではないと悩んだという出典は『元朝秘史』から。『集史』ではメルキトに奪われた時期にはボルテはすでに妊娠していたので、自分の子であることを疑っていなかったとされる。さらに研究によっては、元々、倒した他部族の子を自分の子として育てる風習があったので、メルキトの子だからといって悩むことは無かった…というものもある。要するに諸説紛々なので、作り手が“どうするか”で、どうにでもなると言い切っていいくらい。しかし、本作ではこの有様ということだ。

頭髪の処理や衣服など、同じ騎馬民族系と観点からなのか清族のものに近かったような気がするが、これは歴史学的に正しいのだろうか?さかやき状にそり上げて落ち武者のようなざんばら髪(そのまま結えば辮髪みたいだけど)。歴史に詳しい方は、この表現に根拠があるのか教えていただけると助かる。

あと個人的に不快だったのは、矢に射られて倒れる馬を表現するために、馬を落とし穴に嵌める手法と使っていること。痛々しく感じて仕方なくて、撮影手法としては非常に悪質と感じる。

私のように、何の気なしに気まぐれで観てしまうと、時間を無駄にしてしまうので、本作は観なくてよい。とにかく中国側が扱っちゃいけないテーマですな。

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image1410.png公開年:2008年 
公開国:イギリス、イタリア、フランス
時 間:110分  
監 督:ソウル・ディブ
出 演:キーラ・ナイトレイ、レイフ・ファインズ、シャーロット・ランプリング、ドミニク・クーパー、ヘイリー・アトウェル、サイモン・マクバーニー、エイダン・マクアードル、ジョン・シュラプネル、アリスター・ペトリ、パトリック・ゴッドフリー、マイケル・メドウィン、ジャスティン・エドワーズ、リチャード・マッケーブ 他
受 賞:【2008年/第81回アカデミー賞】衣装デザイン賞(マイケル・オコナー)
【2008年/第62回英国アカデミー賞】衣装デザイン賞(マイケル・オコナー)
コピー:18世紀にも、スキャンダル。

18世紀後半のイギリス。スペンサー家の令嬢ジョージアナは、名門貴族のデヴォンシャー公爵と結婚することになり、その美しさからロンドン中の注目の的になる。しかし、デヴォンシャー公爵の望みは男子の後継者だけであり、彼女を愛そうとはしない。その後、3人の子供を授かるがすべて女の子で、ますます孤独感が募るジョージアナ。そんな時、エリザベスという女性に出会い、その不幸な身の上に同情したジョージアナは、彼女を自宅に招き入れ一緒に暮らすようになるが…というストーリー。

『恋におちたシェイクスピア』とイギリス繋がりでチョイス。とはいえ、マリー・アントワネットのころなので時代は全然違うけれど。それにしても、この手に作品に衣装デザイン賞をあげるパターンは、もう飽きましたな。手がかかるのはわかるけれど、中世の衣装を揃えること自体は、以前ほど大変でもないでしょう。もっと今までにない創造性や、新たな観点で選出して欲しいものである(まあ、とはいえセットを含めて、素晴らしいデキではあるんだが)。

さて、内容とはそれるが、ちょっと考えされたことが一点。はたして「この映画は実話である」と映画内で表明する意味ってあるのだろうか、という点。“実話です”っていわれて、“ぎゃ”ってなることはたしかにある(『ベティ・サイズモア』とかね)。でも、結局は本編の内容が面白いかどうか。大抵は、いまいちな内容の“言い訳”にしか聞こえないのは私だけだろうか。“実話”は免罪符にはなり得ない。
仮に実話だったとしても、よほどの必要がない限り、言わないのが、マトモな創作者のセンスだと思うのだが、皆様はいかがだろう。で、本作は、初っ端に、実話であることが表明されるのだが、その効果はいかなるものか。

不仲な公爵夫妻の元に潜り込んだエリザベスは、『エスター』のように夫婦を壊して自らの家庭にして……なーんて展開にはならない。
息の詰まるような貴族社会において、ひどい仕打ちを受けたジョージアナは、その復讐のために、したたかで且つ綿密な計画を密かに遂行するのだった…なーんて展開にはならない。
家庭に失望したジョージアナは、公爵を含めた貴族社会を憎み、政治運動に没頭し、やがて市民革命のエンジンとして活動し、フランス革命の一助となったのであった…なーんて展開にもならない。

ネタバレだから言わないけれど、「あ、そう」って内容でしかない。とても豪奢な牢獄でしたね…と。私が脚本家なら、最終的なオチの状況は史実を同じにしながらも、その経過や裏側は創作に創作を重ねるけどね。途中、なんとか持ち直して、面白くなりそうな気配にはなるんだけど、女性の歴史教科書の1ページに成り下がってしまった。お薦めしない。

昨日の『恋におちたシェイクスピア』もそうだったけれど、共通して引っかかるのは、主人公の母親の行動だ。自分も同じように、イヤな思いをしてきただろうに、自分の子にも同じ思いをさせることは厭わない。部活の先輩が、後輩いびりをして、その後輩がイヤだと思っても自分が先輩の立場になったら、同じようにイビリはじめるのと一緒。どうも、多くの人間に同じように備わっている傾向らしい。
貴族、それは永遠の昨日を生きる者。そして、現代においてその役を担うのは官僚である。さてさて、歴史を紐解けば、貴族や官僚は永遠にいなくなることはなそうである。そうなると、いかにそれをコントロールするか。三権分立ですな。ああ、すべての映画は民主主義の教科書か(なーんてね)。
 

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image1155.png公開年:1986年 
公開国:イギリス
時 間:125分  
監 督:ローランド・ジョフィ
出 演: ロバート・デ・ニーロ、ジェレミー・アイアンズ、レイ・マカナリー、エイダン・クイン、シェリー・ルンギ 他
受 賞:【1986年/第59回アカデミー賞】撮影賞(クリス・メンゲス)
【1986年/第39回カンヌ国際映画祭】パルム・ドール(ローランド・ジョフィ)、フランス映画高等技術委員会賞(ローランド・ジョフィ)
【1986年/第12回LA批評家協会賞】撮影賞(クリス・メンゲス)
【1986年/第44回ゴールデン・グローブ】脚本賞(ロバート・ボルト)、音楽賞(エンニオ・モリコーネ)
【1986年/第40回英国アカデミー賞】助演男優賞(レイ・マカナリー)、作曲賞(エンニオ・モリコーネ)、編集賞

1750年、イエズス会の神父ガブリエルは、インディオ達に神の教えを伝道するため、南米イグアスの滝の上まで訪れ、苦労の末、深い信頼を得る。一方、インディオ達を捕獲しては売買を繰り返してしていた奴隷商人メンドーサは、諍いの末に弟を殺した罪に苦しんでいたが、ガブリエルの元で伝道の道に入り、インディオ達と和解、心静かな生活を送るに至った。しかしポルトガル政府がその地の征服を企て、大量の軍を送り込み、神父側との壮絶な戦いが始まってしまう…というストーリー。

まあ、華々しい受賞歴なのだが、キリスト教社会の人にとっては随喜の涙を流すほど感動する作品なんでしょう。私にはさっぱりです。

というか、まるでキリスト教の教えに反して、政府が残虐行為をしたみたいな書き方になっていること自体が逃げに見えてしかたがない。南米における虐殺にあたって侵略した人たちは、その欲望に任せていきなり虐殺したわけではなく、大概が教会に御伺いを立てている。「この原住民は“人間”か?」と。侵略者だって人の子なので、同じ人を殺すのは罪だと思っているので、確認するわけである。で、結果は、(若干御幣はあるかもしれないが)大抵は「原住民は聖書でいうところの“人間ではない”」という回答の元、心置きなく虐殺されているのである。
ジェノサイドは、聖書を読めば普通に見られる行為で、同じ人間でなければ別に罪でもなんでもない。だから、現在の価値観をむりやり当時の状況にあてはめている本作の内容は、実にご都合主義だと私には映った。

また、土着的な信仰を持っているインディオに一方的にキリスト教を教えて、それが“ミッション(使命)”という考え方に、欧米の人たちは一抹の懐疑も抱いていないことが、この受賞歴からよくわかる。イエズス会は世界中でこれをやってきた。日本人なら、それってどうなの?と思う人が多数いるだろう。
若干脱線するが、中国の人が、日本を訪れた感想の中に、“民度が高い”という表現がある。何を指しているかというと実は単純で、道で痰を吐かないとか、どこにでもごみを捨てないとか、公共の場で大声で話さないとか、赤信号を守るとか、そのレベルの話をしているのだ(まあ、日本だって40年くらい前は、できていなかったことなのだが)。で、彼らは“民度が高い”という表現をするだけで、なんでそうなるかがわかっていない。なぜか。“自分がいやだと思うことは他人にしない”という意識が根付いているからだ。

なんで、この話をしたかというと、人間には、ある2つのルールがある。一つは今挙げた“自分がいやだと思うことは他人にしない”。もう一つは“自分がいいということは他人もいいと思うはずだからしてあげる”というルールだ。日本人は圧倒的に前者の下に行動するが、欧米の人間は、圧倒的に後者なのだ。だから自分が良いと思うキリスト教を他者に押し付けることは、良い事をしたとは思っても、もしかして自分の勝手な思い込みなのでは?など、微塵にも髪の毛ほども思わない。結局、この発想は、今のシーシェパードの論理と同じ。自分が鯨やイルカがかわいそうと思えば、それは他人だって同じことだから、押し付けてなにが問題があろうか!そういうロジックなのだ。相手の文化なんかお構いなし。要するに、植民地時代の思想の原点は今になっても何一つ変わっていないという証拠で、自分達の根底に流れるロジックに気付きもしないで、本作を評価している様は、私からみると滑稽でならないのだ。

だから、映画の質云々とは、別の意味で、私にとっては実にムカつく映画だった。だから、モリコーネのすてきな音楽など耳に入らず、その点はもったいなかったかもしれない。
最後の30分は、正直言って宗教的な感慨は何一つもないので、つまらないだけだった。歴史的な事実の確認としてもわかりきった話で改めて参考にするような点もないと思うので、お薦めはしない。

#20年以上前の作品で、文化の圧倒的な隔たりを痛感させられるとは…。私にとっては心が沈む作品だったよ。

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image0253.png公開年:2005年 
公開国:アメリカ
時 間:145分  
監 督:リドリー・スコット
出 演:オーランド・ブルーム、エヴァ・グリーン、ジェレミー・アイアンズ、デヴィッド・シューリス、ブレンダン・グリーソン、リーアム・ニーソン、エドワード・ノートン、マートン・ソーカス、ハッサン・マスード、アレクサンダー・シディグ、ヴェリボール・トピッチ、ジョン・フィンチ、イアン・グレン、マイケル・シーン、ブロンソン・ウェッブ 他
コピー:守りたいのは、父の夢。見つけたいのは、真の平和。


12世紀のフランス。妻子を失い悲しみに暮れる鍛冶屋の青年バリアンの前に、十字軍の騎士としてエルサレムへと赴く途中の騎士ゴッドフリーが現われ、バリアンが自分の息子であると告白し、バリアンに帯同を求める。一度は拒否するも結局参加したバリアンは、長い旅の道中でたくましい戦士へと成長し、幾多の困難を乗り越え、ついにエルサレムへ到着く。重い病のため常にマスクをしているエルサレム王と面会したバリアンは、その平和主義に感銘を受け、彼に忠誠を誓う。しかし、エルサレム王の妹シビラの夫で好戦的なギーは、サラディンへの挑発を繰り返し、微妙に保たれていた均衡を崩し交戦状態にしようと画策する。そんな中、バリアンはシビラと禁じられた恋に落ちるのだったが…というストーリー。

歴史の授業では、十字軍はイスラムに奪われた聖地エルサレムを奪回するために、欧州連合軍の形で出征した…と教えるわけだが、この映画を見るかぎりは、かなり様子が違う。十字軍の綺麗事意外の部分も描かれいて、逆にイスラム教徒の視点からも公平に聖地回復運動という十字軍の正義を問い正しているといえ、聖地エルサレムを巡って敵対するキリスト教とイスラム教という、中世から延々と続けられる構図を解りやすく観せてくれているのだが、いずれにしろ、この歴史背景とか宗教的感心の薄い部分なので、日本人にはわかりにくいはずである。

私は、どうも頭の中にある十字軍のイメージとズレていたので、すべてフィクションなのかなと思っていたが、バリアンが十字軍に参加するまでの前半がフィクションで、後半は、史実に沿っているらしい(つまりバリアンも実在の人物ということですな)。

雰囲気は『アラビアのロレンス』となぜか『サテリコン』をうっすら感じた。セット・戦闘シーンについては『グラディエータ』と同じく、感嘆すべきスケールで表現できているのだが、トータルで失敗作と感じさせてしまう理由はなんだろう。
最初はイスラム教徒の脅威からエルサレムを守るために生まれた十字軍が、次第に兵士の堕落や権力闘争によって崩壊する様子は、現在のアメリカに通じる。火玉が飛び交う戦闘シーンは、現代の湾岸戦争や諸々の中東での戦闘と重なる。宗教指導者のエゴ、権威主義、支配欲。戦争を止めない愚かな現代人に対する監督からのメッセージが滲み出ているといえるのだが、そのメッセージ性の割りに、映画的な見所はかなり希薄なことが理由かもしれない。
戦闘の勝利こそが真の勝利ではないという、もっともなのだが映画としてはカタルシスを感じない部分。バリアンのその前半フィクション部分に見られる非現実的キャラクター(簡単に強くなったり出世しちゃう)。さらに、オーランド・ブルームのいかんせん力不足な演技。引き算される部分が多々ありすぎるということだろう。

ただ、個人的には「時代のせいで正しい行いができませんでしたという言い訳は通用しない」とか、「私は先人の戦いを背負わされて何の恨みもない敵と闘うのだ」という端々のセリフには重いものを感じたので、やはりもったいないとしか言いようが無い。

強くお薦めはしないが、及第点といえる。テーマ的に興味を感じた人は見て欲しい。

#ただ、コピーは、歴史的センスのかけらもないなく且つインパクトもないという。苦笑するしかない。

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image0248.png公開年:2004年 
公開国:アメリカ
時 間:126分  
監 督:アントワーン・フーク
出 演:クライヴ・オーウェン、キーラ・ナイトレイ、ヨアン・グリフィズ、ステラン・スカルスガルド、スティーヴン・ディレイン、マッツ・ミケルセン、ジョエル・エドガートン、ヒュー・ダンシー、レイ・ウィンストン、レイ・スティーヴンソン、ティル・シュヴァイガー、イヴァノ・マレスコッティ、ショーン・ギルダー、チャーリー・クリード・マイルズ、ケン・ストット、デヴィッド・ウィルモット 他
コピー:すべての英雄は彼より生まれ、すべての伝説はこの戦いから生まれた。

ローマ帝国の支配下にあったかつてのイギリス・ブリテンでは、ローマからの独立を求めるブリテンと侵略者サクソン人との間で激しい戦闘が繰り返されていた。ブリテンの血をひくアーサーは、ローマ軍の司令官として円卓の騎士たちを率いて戦っていたが、帝国はブリテンからの撤退を決定。アーサーたちを解放する条件として、サクソン人に包囲されているローマ人一家の救出指令が下される。その指令遂行の過程で、ローマ人に囚われていたブリテン人の勇猛なな女性グウィネヴィアを救出するが、彼女は、帝国に仕えるアーサーを非難、サクソン人の侵攻で滅亡の危機に瀕するブリテンのために戦うよう迫る…というストーリー。

私、アーサー王伝説(よくエクスカリバーとかでてくるやつ)自体をよく知らないのだが、どうもその伝説の映画ではないようで、アーサー伝説のモデルになった実在の人物の話らしい。学問上、その実在のアーサーさんの業績がわかってきたので、それを映画にしてみました…的な説明が冒頭にあったような気がする(気がするだけで、見返す気なし)。でも、残念ながら、サクソンだーブリテンだーイギリスの歴史にはトンと疎くて…。

これを観る人は、とにかく元気で、今日は眠くなりそうもないという時に観たほうがよい。簡単に言ってしまうと、ローマから解放されるためにサクソン人と戦って仲間を失い、解放された後も責めてくるサクソン人と戦って仲間をなくして、最後は俺たちブリテン人~!っていう話。どんよりとしたイギリスのお天気の下で、延々と戦っているだけの印象。戦闘シーンも目を惹くほど工夫もないし、映像自体が単調。よほどイギリスの歴史に興味でも無ければ、意識を強く保って見るのは難しいだろう。男臭い映画だと褒める人もいるようなのだが、どうも私の趣味には合わない。

ただ、どうやら、ディレクターズカット版というものが存在するらしく、そっちのほうは、見ごたえがある模様。『ロード・オブ・ザ・リング』も劇場で観たときはピンとこなかったが、後にエクステンデットエディション版DVDで観ると、ストーリーが腑に落ちて満足できた例もあるので、機会があればディレクターズカットを見てみたい(レンタルしてるのか???買う気はない)。

とりあえず、劇場公開版はわざわざ観る価値はないと思う。
#本作のキーラはものすごく綺麗だけれどストーリー的に絶対不可欠かどうかは甚だ疑問。
 


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image0186.png公開年:2006年 
公開国:アメリカ
時 間:112分  
監 督:ラッセ・ハルストレム
出 演:ヒース・レジャー、シエナ・ミラー、ジェレミー・アイアンズ、オリヴァー・プラット、レナ・オリン、オミッド・ジャリリ、 チャーリー・コックス、ナタリー・ドーマー、スティーヴン・グリーフ、ケン・ストット、ヘレン・マックロリー、リー・ローソン、ティム・マキナニー、フィル・デイヴィス 他
受 賞:【2000年/第58回ゴールデン・グローブ】男優賞[コメディ/ミュージカル](ジョージ・クルーニー)
コピー:恋愛至上主義 100万もの恋か、ただひとつの愛か・・・

18世紀のヴェネチア。どんな女性も虜にしてしまう究極のプレイボーイ、カサノバは、修道女との逢引が役人に見つかり逮捕されるも、総督の計らいでなんとか無罪放免。しかし、総督の保護の条件は結婚して身を固めること。さっそく富豪の娘ヴィクトリアを口説き落とし婚約を取り付けるが、そんな彼の前に、男勝りの剣の腕前と知性を兼ね備えるフランチェスカが現われ、彼女に対する恋の炎がを燃え上がってしまう…というストーリー。

ギロチンが人名だっていうのと同じで、カサノバって実際の女たらしの名前なのね…っていうトリビア的なハナシは脇に置いておいて…。

実は、ハルストレム監督作品ということは、観終わってから気付いたのだが…。とても場面場面の展開がスムーズでムダがない。職人芸ともいえる編集(だと私は思う)。もし自分が映画を作ることがあるならば、本作の編集を参考にしたい。ジゴロの話などに興味なんて微塵も無いので、簡単に飽きてしまいそうなものだが、そうならなかったのは、この編集のおかげである。

ルネサンス時代、マキャベリの『君主論』の舞台、そして本作の18世紀もそうだが、都市国家の集まった、イタリアという土地は、今の国家の感覚からするとわかりにくいのだが、そういうことは一切知らずとも、本作は楽しめる(当時のイタリア半島は、教会というタガの中に都市国家が集まっていて、さらに自由を主張する民衆とのカウンターバランスの元に成立しているとでも、認識しておけばいいんじゃないかな)。

作品の質としては、はじめの「気球でふわり」が全体のノリを象徴している。重めのテイスト作品が多い監督なので、あえてこういう舞台喜劇みたいなノリに挑戦してみたのかもしれない。しかし、“パブリッツォの看板”とか、“デブ専の母親”とか、すこし都合よすぎる場面も多い。彼なりにわざと娯楽作品の方向に軸を倒している様子が伺える…と好意的に受け取っておこう(結果として『恋におちたシェイクスピア』みたいなノリになってしまい、男装シーンで若干既視感すら覚えるというマイナス面も生じているのだが…)。

ストーリーは進むにつれて尻上がりにボルテージがあがり、ラストは急速にギア比がアップ。非常におもしろい展開だが、やっぱり“家族”の話になってしまうところがハルストレム監督らしい(もし彼の作品だと知っていたら、読めていたかもしれないので、気付かずに観てよかった)。ネタバレなのであまり言わないでおくが、回想しているのは実は…という着想もとても面白い。

結論からいうと、観る前の「まあ、多分、こんなもんなんだろうな…」という漠然とした予想は、いい意味で裏切られた。あまり期待しないで、ハードルを下げて気楽に観ると、ちょっとした拾い物と感じられるに違いないので、軽くお薦めしておく。

#それにしても、ヒース・レジャーはもったいない。
 

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クボタカユキ
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出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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