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公開年:2004年
公開国:日本
時 間:125分
監 督:北村龍平
出 演:松岡昌宏、菊川怜、宝田明、ケイン・コスギ、水野真紀、北村一輝、ドン・フライ、船木誠勝、水野久美、佐原健二、泉谷しげる、伊武雅刀、國村隼、四方堂亘、長澤まさみ、大塚ちひろ、須賀健太 他
コピー:さらば、ゴジラ。
20XX年。突如、世界各地に怪獣たちが現れ暴れ始める。地球防衛軍は、超能力を持った人間“超人類”を集めたミュータント兵士部隊・M機関を創設しており、彼らを対応を命ずる。しかし、突然、X星人と名乗る宇宙人が飛来し、怪獣たちを消滅させてしまう。救世主の登場に地球人たちは歓喜。X星人は地球に妖星ゴラスが迫っており、それから救うためにやって来たという。怪獣消滅は友好の証だと語るのだった。国連事務総長の醍醐も、X星人との友好を推進する姿勢をアピールする。しかし、X星人の態度に疑問をもったM機関の尾崎と分子生物学者の美雪は、美雪の姉でテレビ・キャスターの杏奈を使って、X星人の企みを生放送で暴く。うろたえるX星人司令官を参謀が射殺し実権を奪取すると、消滅させた怪獣たちを再び出現させ地球侵略を開始するのだった…というストーリー。
冒頭に回想シーンとしてゴジラが登場するが、本編に入ると、まあ、ゴジラが出てこない、出てこない。しかし、全シーリーズを通して最後の打ち上げ花火ということで、数々の前座が必要なので、致し方ない。
平成ゴジラは、『ゴジラVSスペースゴジラ』に見られるようにサイキック路線が存在する。襲われるだけの人間という姿だけ描くわけにもいかないし、武力的にも限界がある(宇宙人とか出てくると太刀打ちできないのが明白だし)ので、超能力というギミックに頼るのは致し方ない。
#あれ、致し方ないことばかりだな……
ファイナルでは、超能力と武力を融合&拡大化し、ミュータント部隊を登場させる。Tプロジェクトからの流れをきちんと踏襲しているといえるので、ある意味正しい続編の姿。ファイナルとしては悪くない設定だと思う。
さらに、ファイナルなので次のことを考える必要がないため、“20XX年”というぼんやり設定も可能に。近未来。便利だね。
ゴジラとは無関係の『海底軍艦』の轟天号や、『妖星ゴラス』を登場させるも、コアな特撮ファン以外はピンとこなかったか。
#マンダについては、『怪獣総進撃』でゴジラと競演済。
X星人の正体がバレて、怪獣総進撃状態になるまでのシナリオは悪くないと思う。子供も理解できるし、大人も許容できる丁度いい具合の展開だと思う。
ただ、後半になると、怪獣をこれでもかー、これでもかーと登場させるだけの展開になる。アメリカ版ゴジラの登場は、思い切ったことをしたもんだと当時は思ったものが、今観ると、ちょっとイヤミがすぎるかも。出すなら出すで、魅せ方はもっとあったと思う。
さらに、北村一輝演じる悪虐なX星人が、コミカルな演技や、メタ視点の台詞を吐きはじめ、これまで培ったノリを崩壊させる。彼のせいではない、監督がさせている。
怪獣たちまでもが、コミカルな動きをし始めてしまう。昭和ゴジラシリーズが、子供ウケを狙ってコミカルな動きをしていたのを、ファイナルなので踏襲してみたとか?いやいや、そんなことはしなくてよろしい。
もっと、バトル展開自体がおもしろい、怪獣同士のぶつかり合いを、最後だからこしそ観たかった。
で、どうやって、X星人との攻防にケリを付けるのかと思っていたら、松岡昌宏演じる尾崎が、スーパーサイヤ人的な覚醒をするという展開。『マトリックス』というか『リベリオン』というか、チートな動きの連発で興醒め。
なんとか、ドン・フライ演じるダグラス・ゴードンの馬鹿っぷりで、無理やり最後まで持っていった感じ。
でも、ゴードンと杏奈のラブ設定はいらないわ。ほとんど一瞬しかコンタクトしてねーじゃねーか。
馬鹿をやるのは結構なのだが、本気で馬鹿になりきれなかった作品かな。後半は、夢から醒めてるのに夢を見続けているふりをして人を見ているようだった。
公開年:1978年
公開国:日本
時 間:110分
監 督:野村芳太郎
出 演:緒形拳、岩下志麻、小川真由美、大滝秀治、加藤嘉、田中邦衛、蟹江敬三、穂積隆信、大竹しのぶ、浜村純、鈴木瑞穂、山谷初男、石井均、江角英明、岩瀬浩規、吉沢美幸、松井範雄、三谷昇、山本勝、鈴木誠一 他
受 賞:【1978年/第2回日本アカデミー賞】主演男優賞(緒形拳)、監督賞(野村芳太郎『事件』に対しても)
【1978年/第21回ブルーリボン賞】主演男優賞(緒形拳)、監督賞(野村芳太郎『事件』に対しても)
印刷屋を営む竹下宗吉と妻のお梅。最近、火事をおこしてしまい再建の費用を要したことに加え、注文も減ってしまい火の車。やむを得ず、組合のルールを無視したダンピング受注で凌ぐ自転車操業。そんな中、宗吉の愛人・菊代が三人のの隠し子を連れて押しかけてくる。寝耳に水のお梅は激昂し口論となるが、結局お梅は子供を残して蒸発してしまう。手が掛かる上にかわいげのない子供たちをお梅がかわいがるわけもなく、自分が子供を作れなかったという負い目と嫉妬が加わり、宗吉と子供達に当たり散らす地獄の日々が始まる。一切の子供の面倒は宗吉が行ったが、育児などしたことがない彼が満足にできるはずもなく、とうとう末っ子のの庄二が栄養失調で衰弱してしまう。その後、療養を続ける中、庄二の顔の上にシートがかぶさりるという事故で死んでしまう。はたしてそれは事故だったのか故意だったのか…というストーリー。
決して庄二に直接手をかけたわけではない…ということで生じる不穏さ(シートか被さったことが原因ともいえず、あくまで栄養失調を原因とする衰弱死として処理されている)。さらに、良子がその後どうなったのか語られないことで生まれる濃霧のようなモヤモヤ感。
岩下志麻演じるお梅が、明確に鬼女として描かれていれば、観客の憎悪はそこに向うであろうが、稼業が火の車のときに突然夫の隠し子を3人も押し付けられ、その心中を察っするのが容易であると同時に、自分も同じように冷たくあたってしまうのではと幾ばくか共感してしまうというところが、この話の恐ろしさ。そして、岩下志麻が鬼女の形相をしようとも、おそらく視力が悪いためであろう、微妙に焦点がずれているような目つきが一層その魅力を増し、シビれるほどの綺麗さに目を奪われてしまうという罠。
その分、矛先は、愚鈍に振舞いながらも、こつこつ小金を掠めて愛人に貢いでいた宗吉に向く。愚鈍も愚鈍の宗吉だが、彼の心の中は明確に語られないまま話は進んでいく。何を考えているかわからない夫…というのも、実にありがち。
さて、いよいよ、利一に手をかけようかと連れ出すときに、旅館で酔っ払いながら、利一に、自分のおいたちを語る。ここで、彼がどういう人間なのか…が垣間見える。
まともな家族というものを知らなかったから家族が欲しかった…と、でもいざ家族を持ってみるとどうしてよいのやらわからず破綻していくという、なんとも、そこら辺にありがちな話ではないか。虐待された子は、成長した後、結局同じことを自分の子供にしてしまう…というのは、昨今あたりまえに語られる例である。
同じ緒方拳主演の犯罪サスペンスである『復讐するは我にあり』に比べると、その犯罪行為の鬼畜加減は格段に低い(そういう類の、得体の知れない恐怖とは違う)。でもあえてタイトルは“鬼畜”なのだ。あなたの中にも鬼畜っぷりは、あるんじゃないですか?たまたま今、その鬼畜要素が発現されない環境なだけなのでは?と、そう問いかけているようにも思える。
公開年:1981年
公開国:イギリス
時 間:103分
監 督:テリー・ギリアム
出 演:ショーン・コネリー、クレイグ・ワーノック、ラルフ・リチャードソン、シェリー・デュヴァル、ジョン・クリーズ、イアン・ホルム、デヴィッド・ワーナー、キャサリン・ヘルモンド、ピーター・ヴォーン、デヴィッド・ラパポート、ケニー・ベイカー、マイケル・パリン 他
イギリスの住宅地に暮らす家族。両親は息子のケヴィン少年のことを相手にせず、新しい電化製品やクイズ番組にご執心。そんなある日、ケヴィンの部屋に、突然、馬に乗った騎士が出現し、壁を通り抜けて消失する。おどろいたケヴィンは両親にそのことを話すが、まったく相手にされない。ケヴィンは懐中電灯とポラロイドカメラをこっそり持ち出しベッドに入り、再び騎士の出現を待った。しかし、煙の中から現れたのは6人の小人。彼らは創造主から、タイムホールの場所を示している地図を盗み出し、それを使って時空を移動して、お宝を盗み出そうとしているという。すると、ケヴィンの部屋に創造主が出現し、地図の返却を迫る。ケヴィンは6人と一緒にタイムホールを通過。初めて辿り着いたのは、1796年のイタリアの町。この町はナポレオンに征服されており…というストーリー。
その後、シャーウッドの森、ギリシャの砂漠、タイタニック号などなど、色々な世界を旅する。いかにもテリー・ギリアムらしい陰湿なファンタジーと、いかにもイギリスらしいコメディの融合作品。
脈絡のない展開というか、取り止めもないないというか、とても愉快な時空の旅で、子供でも十分に楽しめそうな内容なのだが、要所要所でなにかひっかかる。そのひっかかる部分を真剣に考えると、あまりに難解でさっぱり答えが見えない。特にテリー・ギリアム作品が大好きというわけでもないので、全作品観ているわけでもないし、真剣に考察したわけでもないのだが、彼のすべての作品に通じる何かが、本作に潜んでいる気がしてならない。テイストの違う『12モンキーズ』の萌芽ですら、本作にを感じてしまう。それは何だろう…
両親は息子のケヴィンに対して、ああしろこうしろと文句は言うけれど、基本的に愛情を注いでいない。それどころか、根本的に興味がないように見える。息子よりも新しい家電製品のほうに興味がある模様。ある意味、ネグレクト状態。その寂しさをなんとか補おうとするケヴィン。
そんな彼の元に突然、煙の中から小人の集団が登場。オチを言ってしまって申し訳ないが、タイムホールの旅の後、自分の家は火事で煙が充満。煙繋がりをどう解釈するか。
さらにラストでケヴィンを救い、ウインクして去っていくのはショーン・コネリー。ショーン・コネリーは、アガメムノン王も演じている。アガメムノン王はケヴィンを自分の後継者にしようとまでしていた。なぜこの二つの役をショーン・コネリーが演じている。この繋がりをどう解釈するか。
登場した創造主は小人たちを元の世界に連れて帰ろうとする。ケヴィンも一緒にと小人は言うが、創造主は「彼は自分の戦いを続けるのだ」…と。はて、何と戦うというのだろう。親から虐待された末、家も無くなり両親も死んでしまうという辛い現実に対峙しなければいけなくなるということ?それとも、逆に、再びつらい現実を忌避するための旅を続けるということ?わからん。
多重人格者は、とても耐えられない虐待などを受けたときに、それを専属的に受ける役回りの別人格を構築する。ケヴィンの旅も、つらい現実からの忌避ということなのか?
いや、もしかして、調理器具に細工をして、火事をおこしたのはケヴィンなのではないか?それを忘却するための、幻想の旅だったのでは?
わからん。どうとでも解釈できるような気もするが…もっとヒントがあるようにも思える。正直、この明確な手がかりの見つから無さ加減は、失敗作といわれても仕方が無いレベル。でも、やはりどうにも引っかかる。いままで、他のギリアム作品を観るとき、このような、現実と夢想の世界の関係性について考えながらみたことがなかった。この観点でもういっかい他の作品も観直したほうがいいのかも…。『未来世紀ブラジル』『バロン』『フィッシャー・キング』を観直しますかな。
#でも、この難解さ加減が、商業的に失敗しちゃう要因なんだろうなぁ。
公開年:1994年
公開国:日本
時 間:108分
監 督:山下賢章
出 演:小高恵美、橋爪淳、米山善吉、柄本明、中尾彬、佐原健二、吉川十和子、斉藤洋介、大沢さやか、今村恵子、上田耕一、宮坂ひろし、木下ほうか、小堺一機、松村邦洋 他
G対策センターでは、二つのプロジェクトが遂行中。一つはテレパシーによってゴジラを操作しようとするTプロジェクト。南洋のバース島にリトルゴジラが生息していることから、ゴジラ出現の可能性高しということで、Gフォースの結城が常駐していた。そこに、Gフォースの新城と佐藤、Tプロジェクト側からは未希と千夏、大久保が派遣される。ほどなく、結城が仕掛けた罠にリトルゴジラがかかり、その悲鳴に呼び寄せられてゴジラが出現。Tプロジェクトメンバーは、ゴジラの高等部にテレパシー受信装置を打ち込むことに成功。さらに未希のテレパシーでゴジラをコントロールすることにも成功する。しかし、大久保の操作ミスにより未希が意識を失ってしまい、制御を失ったゴジラは海中へ退避してしまう。もう一つのプロジェクトは、戦闘ロボット・モゲラによるゴジラ制圧作戦で、すでに建造に成功。時を同じくして、地球に向って飛来してくる謎の物体があり、訓練飛行を兼ねてモゲラはその物体の調査に向う。しかし謎の物体はモゲラを退け、地球に急接近。とうとう地上に降り立り、怪獣の姿となって周辺を破壊しはじめる。接触時にモゲラに付着した物質の調査により、謎の物体がなんらかの理由により宇宙に飛び出したゴジラの細胞(G細胞)であることが判明。Gフォースは、スペース・ゴジラと命名された怪獣をを倒すべく、福岡に向うのだったが…というストーリー。
博多に出張に行ったので、博多が舞台の作品をなんとなくチョイス。なんでゴジラやねんというツッコミはあるだろうが、咄嗟に思い出したので。でも、20年前の博多の様子は全然違う。博多駅から天神方向の様子の街並みも雰囲気が違うし(ちょうど今回出張にいった場所だった)、バトル地の福岡タワーがあるシーサイドあたりもなにか、スカスカな印象。福岡ドームは1993年だから、この作品の製作年には存在するはずなんだけど、完全に無かったなぁ。Wikipediaをみたら“福岡ドームは同時期に製作中であった『ガメラ 大怪獣空中決戦』に登場するため造られなかった”の意味がわからん。名所なんてゴジラに壊されてナンボじゃろ。別の映画に出てたらなにが悪いんじゃ。よっぽど、スペゴジが神戸の街を壊すほうが問題だったろうに。
#鹿児島→熊本と北上していったが、ゴジラの歩く速度、どんだけ早いねん!というツッコミは無用(笑)
内容だが、大筋のプロットにヒネリもユニークさもない。新たな敵が来たので、ゴジラが迎え撃つだけ。それに、モゲラという懐かしロボットを登場させるというオッサンホイホイが加えられているだけ。ただ、製作側は、ゴジラと人間の心は通じ合えるか?というテーマを含めようとしていたと思われる。しかし、テレパシーでコントロールするという一連のくだりが、あまり効果を生んでいないため、そのテーマは死んでいる…といっても良いと思う。シナリオの練りが非常に甘い。
バース島で受信装置を打ち込み、結局は失敗したもののテレパシーを送り込んだことで、ゴジラと人間が通じ合えるようになった…という流れを作りたかったように思うが、ラストバトルでも、そのような描写をうまく作れていない。モゲラとのタッグマッチなわけだから、あれ?もしかして人間の気持ちが通じてるのか?という微妙な所作や、通じ合ってないとそんな連携できないっしょ!的なシーンを差し込むことはできたはずだが、普通のバトルに終始したと思う。挙句の果てには、バーサーカー状態のゴジラをリトル・ゴジラが沈めるというオチ。せめて、そこで、リトル・ゴジラと人間の思いが、テレパシーを通じてゴジラに伝わり…という感じにしないとね。
いや、たぶん、私が指摘したように作っているつもりなんだと思う。表現が稚拙で判りにくいだけ。その伝わらなさのおかげで、最後の受信機ポロリもただ取れただけで無意味になり、ゴジラがただの大魔神と化してしまっている。
しかし、最大のウリであるバトルシーン自体は、なかなか評価できると思う。ガツガツぶつかり合って、なんだかわからないが結局ゴジラが勝ちましたとか、後出しじゃんけんのように秘密兵器がでてくるとか、偶然の勝利とか、そんなのではなく、戦術的にスペゴジをコツコツを攻略。説得力のある倒し方という意味では、ゴジラのバトル史上、上位にくると思う。
とはいえ、取り立てて、ゴジラ好きじゃない人にお薦めするようなレベルではないが。ご当地ムービーとして、もっといろんな街並みや観光地を観せて欲しかったわ。
公開年:2004年
公開国:日本
時 間:116分
監 督:那須博之
出 演:伊崎央登、伊崎右典、酒井彩名、渋谷飛鳥、宇崎竜童、阿木燿子、冨永愛、ボブ・サップ、KONISHIKI、夢野まりあ、小倉一郎、洞口依子、松本博之、小林幸子、今井雅之、大沢樹生、金山一彦、モロ師岡、きたろう、的場浩司、嶋田久作、鳥肌実、清水宏、染谷将太、布川敏和、船木誠勝、本田博太郎、永井豪 他
コピー:人間は庇護(まも)るにたるべき存在か。
4年前に両親を事故で亡くし、クラスメイトである美樹の家族に引き取られた高校生の不動明と、父・飛鳥博士の下で何不自由なく育った飛鳥了は、無二の親友。了は、明に危害を加えようとするものが現れると、見境無く凶暴性を発揮し、しばしば取り返しのつかない行動をとる。そしてその暴走を止められるのは明だけだった。ある日、新エネルギーを探していた飛鳥博士は、南極地底湖をボーリング調査している時に、“デーモン”を目覚めさせてしまう。デーモンは、他の種族の体を乗っ取り姿を変え続ける邪悪な生物。次々と人間を乗っ取ったデーモンは、明も餌食にする。しかし、明の心は乗っ取られることなく、人間の心を残したデーモン“デビルマン”となるのだった。明は運命を受け入れ、愛する人々を守るために、デーモンと戦うことを決意する。しかし、デーモンの存在を怯えた人間たちは、“デーモン狩り”を開始。明確なデーモンの特徴もわからぬまま、変わった様子の者や、気に喰わない者を殺戮しはじめ…というストーリー。
『幻の湖』『北京原人 who are you?』と観たので、続いて『シベリア超特急』と思ったのだが、近所のレンタルビデオ屋には置いていなかった。何箇所か廻ったが置いていない。扱っていない所が多いみたい。でも、なんとか探してみる。ということで、代わりといっては何だが、本作を。
まあ、散々、笑いの種になった作品なので、いまさらという感があるが、今回は、逆にちょっとフォローしてみたいかも。
まず、原作無視も甚だしいという意見があるが、それは、アニメ版と比べてのことではなかろうか。本作は、原作漫画の流れをそれなりになぞっていると思う。原作者の永井豪が出演しているほどなので、プロット的にむちゃくちゃということはないだろう。
漫画単行本は、たったの5巻で、たしかに一本の映画にまとめられそうに感じるかもしれない。でも読めば判るが、それは無理。巻数に不釣合いなほどの深遠さと、カトリック的な宗教感をベースにした天使と悪魔の戦い。さらに善悪とは何なのか…という哲学的な思索まで喚起してくれる作品なのだ。それをたかだか120分程度でまとめようというのが無謀だった。
よく揶揄されるのが、整合性のない編集や場面転換というのがある。例えば、友人の牛久がジンメンに襲われた後のシーン。ショッピングモールで助けを呼ばれたのに、なぜか海を探し、その後なぜか山でジンメンを見つけるという流れ。もっともらしい指摘だが、別に変ではない。襲われた牛久はジンメンに乗っ取られ、ジンメンは移動。デビルイヤー(?)で牛久の声を聞いた明は、その声の方向を探しただけ。海のあたりで聞こえたから海を探した。海に顔を突っ込んだ様子をみて、そんなところにいるわけねーだろー!とツッコむ人が多かったが、デビルマンの能力を持ってすれば海の中の有る程度の範囲を確認できる。その後、すぐに山にいったのはおかしいというツッコみもあった。しかし、海の傍に山がある地形などゴマンをあるだろう。何が変なのか。
問題はそこじゃないのだよ。先ほど行ったように、本作は原作を凝縮しすぎていて、展開を丁寧に描くことを放棄している。その凝縮具合が甚だしすぎて、展開が突飛に見えるだけなのだ。
あれ、だんだんフォローできなくなってきたぞ。
どうしても許せないのは、寺田克也の無駄遣い。デビルマンやシレーヌなどコンセプトデザインは彼が行っている。ちょっと前に、京都のマンガミュージアムで寺田克也の展示を見てきた。デビルマンの絵も展示されていたが実にすばらしいものだった。あのイメージのまま忠実に本作が作られていたなら、何の問題もなかっただろう。しかし、本作は、寺田克也の味わいをまったくといっていいほど反映していない。シレーヌのスクール水着に羽毛をつけたような衣装は最悪。ヒールってなんだよ(てか、シレーヌとの戦い、中途半端で終わってるじゃん)。
明とデビルマンの中間体のデキの悪さも、かなりヒドい。
ラストのサタンとの戦いは、本当にパチンコ台のアニメみたい。さらに動きも変。どうしようもない。これなら手書きアニメのほうがマシ。散々、アメコミみたいなカットを差し込んで、ユニークな演出を狙っていたのに、それも台無し。
明と了を演じている役者は同じ苗字。どうやら双子らしい。なんで?原作でも似ているという設定はないし、本作のストーリー上も似せる意味はない。むしろ似ていたら混乱するわけで、結局、髪の色やらメイクの具合など、はっきり区別を付けているように見える。双子にこだわらず、もっと骨太で熱い演技ができる役者を使うべきではなかっただろうか。
もう一人のデビルマンであるミーコは、デーモンに変身するが、全然デーモンらし風体じゃなかったのも納得できず。なんで、そこで力を抜くのか。演じた渋谷飛鳥は、マトモな演技だったのに実に残念。
まとめよう。
①原作の2巻くらいまでのお話でまとめるべきだった(成功したら続編を…くらいのノリで)。
②デーモン族の造型はもっとしっかり作りこむべき。
③主役の選定をやり直す。
この3点だけ直せば、もうすこしまともになったと思う。やっぱ、フォローするのは無理だった。
#KONISHIKIとか、カメオ出演がすべて裏目になて作品に悪影響をおよぼしてるって、スゲーよな。
公開年:2011年
公開国:ベルギー
時 間:95分
監 督:ニコラス・プロヴォスト
出 演:イサカ・サワドゴ、ステファニア・ロッカ、セルジュ・リアブキン、ティボ・ヴァンデンボーレ、デュードネ・カンボンゴ 他
アフリカから地中海を渡って密入国してきた男アマドゥ。その後、悪質な斡旋業者の元で不法労働していたが、一緒に入国してきた仲間のシアカが病気になって働けなくなってしまい、アマドゥは彼の分まで働いていた。しかし、満足に薬も与えられないれないため、このままでは死んでしまうと考えたアマドゥは、こっそりと抜け出し、廃棄物を転売してなんとか薬を調達する。しかし、戻ってみるとシアカの姿が無い。雇い主に抗議にいくとシアカは逃げたというが、身動きの取れないシアカが逃げることなど不可能で、死んだことは間違いなかった。さらに、雇い主はシアカの在留許可やパスポートのために使った4000ユーロをアマドゥに払えと言う。憤慨したアマドゥは雇い主の高級車を破壊し、そのまま逃亡。あてもなく逃亡したアマドゥは、とある建物に進入。置いてあった服に着替え、金目の物を物色していると、男女が言い争う声が聞こえる。アマドゥはその女の姿に惹かれ、部屋を出て行った彼女を追いかけるのだったが…というストーリー。
タイトルのインベーダーが何を指すのか?という所が、重要なポイントだろう。密入国した黒人が不法労働をするという展開なので、昨今のヨーロッパ諸国での移民問題に焦点を当てた作品なのだろうと、誰しもが思う。密入国者である弱みにつけこまれ不当な待遇で働かされ続けるアマドゥ。怒りを爆発させ、大暴れして逃げてしまう。普通に考えれば、あのいかにも悪そうな雇い主から、追われる展開になると考えるだろう。
ところがどっこいそっちの方向には展開しない。逃げている時に見かけた、金持ちそうな白人女性を執拗に追いかける。逃げている時に何を呑気な…というか、性欲を爆発させている場合じゃなかろう…と思うのだが。
不当に働かされているということで、きっと、この黒人は、かわいそうな境遇なんだろう。友達思いでマジメなんだろう…と考えてしまうが、その観客の頭の中で構築された観念が壊される。何が移民問題だ。その後、危険な情事という、思いも寄らぬ展開を見せてくれる。
これがこの作品の特徴で、この展開のパラダイムシフトがおきるのは、この一回だけではなく、20分程おきに続くのだ(詳細は観て欲しい)。
で、インベーダーが何を指すのか?なワケだが、途中、あれ、インベーダーっていうのはアマドゥのことじゃなく女のことなんじゃね?なんて、見立てが変わっていったりする。で、ラスト。
(ちょっとネタバレしちゃうが)やっぱりインベーダーはアマドゥのことを指していた。え?え?って感じになる展開。あの状況で、気付かれもせずに間にいられるってことは…ってことだよね。
そして、よーく考えると、はじめに考えた移民問題がテーマなのでは?という所に戻っていく。安い労働力という側面はあるにせよ、自国では稼ぐことができない人に手を差し伸べて受け入れてあげたにもかかわらず、最終的にはその手に噛み付く移民たち。結局、自分の欲望のまま行動し、我々の生活を腐食していくインベーダ以外の何者でもないのでは?っていうね。
ヨーロッパの中規模国の国民が潜在意識として感じている移民に対する恐怖が、アマドゥという怪物の姿を借りてうまく形になっている。他に類を見ない構成の作品だと思う。もうちょと評価されてもいい作品かな。
公開年:1974年
公開国:イギリス、西ドイツ
時 間:129分
監 督:ロナルド・ニーム
出 演:ジョン・ヴォイト、マクシミリアン・シェル、マリア・シェル、マリー・タム、ノエル・ウィルマン、デレク・ジャコビ、ピーター・ジェフリー 他
コピー:全世界を震撼させた恐るべき秘密-《オデッサ》 その謎を追って展開する息づまる超サスペンス! 〈ジャッカルの日〉のフレデリック・フォーサイス原作〈ポセイドン・アドベンチャー〉のロナルド・ニーム監督
1963年。ルポライターのペーター・ミラーは、ガス自殺の現場に遭遇。現場には、学校時代の友人でハンブルグ警察のブラント警部補がいた。翌日は、ブラントはミラーに、昨日自殺した老人が遺した日記を手渡す。老人はマルクスをいう名前のドイツ系ユダヤ人で、その日記には、ラトビアのリガにあったナチ収容所での地獄のような生活、特にガ収容所長だったSS大尉ロシュマンの残虐な行いが綴られていた。それを読んだミラーは、ショックを受け、殺人鬼ロシュマンを捜そうと決心する。まず、日記に記されていた組織“オデッサ”を探る。オデッサとは、元ナチスSS隊員で作った自衛組織で、ナチ狩りから逃れた元ナチスSS隊員に偽名を与えて社会に潜り込ませ、法廷にかけさせないことを目的としていた。調査を進めると、自殺した老人の知り合いから、マルクスがロシュマンを見掛け警察に通報したという証言を得る。一向に捜査を進めない警察に不信感を抱いたミラーは、警察に乗り込むが署員に軽くあしらわれてしまう。その時、署員の机にあった“ジークフリード師団”のパーティ案内に臭いものを感じたミラーは、そのパーティに潜入するが、禁止されている写真を撮ったために追い出されてしまう。数日後、ミラーが恋人のジギーと地下鉄に乗ろうとすると、何者かに線路に突き落とされ…というストーリー。
ちょっと、演出が綱渡りすぎるのがたまに傷か。例の一つ。自殺した老人マルクスと一緒に年金を受け取っていた浮浪者がいる ⇒ 浮浪者はマルクスがロシュマンのことを警察に通報したと証言 ⇒ 警察にいくと“ジークフリード師団”のパーティ案内 ⇒ そこに行く。わらしべ長者ばりに線が細いし、封筒には場所と日付は書いていたようだが時刻は書いていない(まあ、調べたんだろうけど)。元SSが集まる会に案内状もなしで入れるのか?という疑問も。
全体の話の流れはダイナミックだと思うのだが、このように展開を繋ぐ糸が細すぎるし、一瞬しか画面に出てこないことも多々あって、ちょっと見逃すと訳がわからなくなることも。“観せ方”に多分に問題があると思う。
(ちょっとオチに触れてしまうので、未見の人はご注意)
ただ、本作のシナリオは、ある意味、大仕掛けである。
なんで、ペーター・ミラーは、自殺した老ユダヤ人の日記を読んで、あそこまで記者魂が燃え上がったのか。オデッサの調査をするとミラーがいうと、周囲の人間はみんな反対する。その反対は、危険だから…というよりも、いまさらナチスのネタか?というもの。老人の日記の内容を知った上で、周囲の人の目は冷ややかなのである。この温度差は何なのか。非常にひっかかるわけだが、まあ、平和になりつつある世の中において、過去をほじくりかえすことが不快なんだろうな…と解釈していた。ミラーが自分の母親に戦争当時のことを聞くシーンがあり、そこでも母親はつらくて思い出したくないような雰囲気を醸しだしていた。実は、これが伏線でもありミスリードにもなっているという、実に巧みなポイントだったりする。そして、巧みすぎて、最後の最後まで全然思い出されることもないし、寝かせすぎて人によってはピンとこないレべルだったりする。
後半、SS残党に偏変装して、オデッサに侵入までする。いやぁ、すごいジャーナリスト魂だなぁと。
そして、オデッサファイルを発見。イスラエル側の組織に、ファイルを渡すのかと思いきや何故か渡さない。挙句の果てに「ロシュマンだけは俺が殺す!」と。いやいや、、老人の日記を読んだりしてロシュマンの悪行に憤ったからって、自分で手を下しちゃったら、もう、ジャーナリスト失格でしょ?どういうことなの?この展開は無いわ~、ああ駄作だったか…とがっくりしていたら、最後に仕掛けが発動する。
いや~、梯子はずされて、がっかり残念ってことは多々あるけど、逆に、急に持ち上げられちゃった感じだね(詳細は観てくれたまえ)。この、仕掛け一本で逃げ切った作品。
公開年:2012年
公開国:日本
時 間:117分
監 督:細田守
出 演:宮崎あおい、大沢たかお、黒木華、西井幸人、大野百花、加部亜門、林原めぐみ、中村正、大木民夫、片岡富枝、平岡拓真、染谷将太、谷村美月、麻生久美子、菅原文太 他
ノミネート:【2012年/第36回日本アカデミー賞】アニメーション作品賞
【2012年/第22回日本映画プロフェッショナル大賞】 ベスト10(第10位)
コピー:私は、この子たちと生きていく。
東京郊外の大学通う花は、教室でとある男性と出会う。彼は在校生ではなく、興味があり勝手に進入して徴候しているだけだった。興味をもった花は彼に声をかけ、一緒に勉強するなどして、次第に惹かれるようになる。ある日、その男は、自分がニホンオオカミの末裔“おおかみおとこ”であることを打ち明ける。はじめは驚いたもののそれを受け入れた花は同棲をはじめ、やがて“おおかみこども”である姉の“雪”と弟の“雨”が生まれる。感情によって狼の姿に変貌する二人のこどもに注意しながら、ひっそりと都会の片隅で暮らす4人。しかし、ある日突然、男は交通事故で死んでしまう。しばらくはなんとか生活していた花だったが、隠し通すことは困難と判断。都会からの移住者を募集している田舎へ移り、山奥の古民家を借りて生活を始めるのだったが…というストーリー。
興収42.2億円とことなので、文句なしの大ヒットってことでしょう。細田監督は、その名声で客が呼べる、数少ないアニメクリエイターですな。しかし、あえて苦言を呈そう。本作は、個人的には正直がっかりである。いや、アニメーションの技術、諸々の描写については、何一つ文句をつける部分は無し。狼人間の子を生んで、困難ながらも生きていこう、子供を育てていこうをいう、生きるということをユニークな角度から考えさせる基本プロットも良いと思う。昨今の近所付き合い、親戚付き合いの希薄な中、子供を育てていくというのは、狼人間を育てるのと何一つ変わらないわけで、そういう共感も得られたに違いない(逆に言えば男ウケは悪い作品かもしれない)。
ただね、シナリオにしっくりこない部分がある。不満は、本作の脚本にも細田監督が携わっているという点においてである。
こういう、異種間交配物語というのは、民話レベルでは少なくないので、どうということはないのだが、現代社会を舞台にこういう絵柄でやられると、はっきりいって生々しい。貞本義行の絵柄でやることで、さらにグロさが増していると思う。
#あえて、異種間交配という観も蓋もない書き方をしているのは、それを描写するシーンがあるからだ。実は、先に本屋でマンガ版をパラリと見ていたのだが、そのなんともいわれぬ気持ち悪さは、映画の3倍増しくらいだった。
男目線でもうしわけない。この姉弟、年子だよね。一人目で狼人間であることはわかるよね。ちょっと一人目を分別がつくまで次は間を開けようかとか考えないのか?何、おおかみ人間は、毎年、サカりが付いたら子づくりせんといかんの?もしかして、男が死ななかったら毎年生まれてたのか?(笑)
ちょっとネタバレ入っちゃうけど…。
小学校高学年の男児が行方不明になって、お咎めもなく生活できるわけがないよね。田舎に行ったのも、役所の人間から、ネグレクトを疑われたのが一つの理由でしょ。あの役所の人間が押しかけてくるシーンが、観客の頭にはしっかりこびりついている。姉が学校に通えるようになったのも、自分が仕事に付いたのも、役所のおかげ。この作品、要所要所でお役所が登場してくる。だから、弟がいなくなったときに、役所や警察が黙っているわけがないし、どうやって誤魔化したのかって、気になるに決まってるじゃない。
で、特に説明は入らないよね。村の人たちにあれだけやさしくしてもらった描写を入れているわけで、はい、いなくなりましたよ、わかりまへ~んが通用するわけなかろう。遠くの親戚に預けた…なんて言い訳は通用しないわけで、もう、あの嵐で発生した崖崩れで死んだこと(失踪宣告扱い)にでもしないと、まとまらない。
そんなことを考えるのは野暮だ?何いってんだ。そこまで考えさせたそのはそっちじゃねえか!とキレたくなる。
娘の語りで綴られるものだから、母親は死んでいるのだろうと思ったが、そうではなく健在。別にダメなわけじゃないけど、なんで娘目線で語られるのか、いまいち理由も効果もわからん。人間として生きることを選んだ狼人間ということで、人間と狼の両方の気持ちがわかる立場で語る…という演出なのかもしれないが、そうだとすると、終盤は、弟とほとんど心を通わせていないからなぁ…。なんかしっくりこない(弟が行ってしまったことを淡々と語ってるのもちょっと気持ち悪いような)。いっそこのことナレーションはいらなかったのではないかと…。
なんだろう。姉弟の片方が人間を選び、片方が狼を選びました。折半、折半。丸く収まりましたよね?的な、ピントのずれた講釈をタレられたような不快感。いや、正直、弟が死んだ後の整合性だけ取ってくれさえすれば、満足できたとは思うよ。
公開年:1998年
公開国:イギリス
時 間:92分
監 督:カーク・ジョーンズ
出 演:ニイアン・バネン、デヴィッド・ケリー、スーザン・リンチ、ジェームズ・ネスビット、フィオヌラ・フラナガン、モーラ・オマリー、ロバート・ヒッキー 他
コピー:ネコばばる?
南アイルランドの小島にある過疎で老人だらけの小さな村タリーモア。この村のだれかが宝くじに当選したことを地方紙の記事知ったジャッキーは、おこぼれにあずかろうと、友達のマイケルと一緒に当選者を捜し始める。何かを購入したりいつもと様子の違う村人を見つけては探りを入れるが一向に当選者らしい人間が見当たらない。業を煮やしたジャッキーは村中の人集めてチキン・パーティを開いてさらに探りを入れるが、さぱり判らない。お手上げかと思ったが、このパーティにネッドだけが来ていないことに気付く。早速、チキンを手土産にネッドの家を訪問するジャッキー。しかし、いくら呼びかけても返事がないので家に入っていくと、たりくじを握りしめたままショックで死んでいるネッドを発見する。賞金は無効になってしまうとがっかりしたジャッキーは、とりあえず家に帰り就寝。しかし、ネッドが自分にチキンをすすめてくる夢を見たジャッキーは、きっと賞金を無駄にせずに村人たちで分け与えよというネッドの意思だと解釈。マイケルをネッドに成りすまさせて、賞金を貰おうとするのだが…というストーリー。
とことん突っ走り系のコメディではある。老人がヨタヨタとがんばっちゃうのがおもしろんだろう。全体のテンポも良い。ただ、村人に宝くじが当たったヤツがいるから捜そうぜ!にはじまり、当選者が死んでいたから成りすまそうぜ!となり、さらに村人を全員巻き込んで平等に分割しようぜ!だからみんな一緒に演技しような!という展開。下衆、下衆、下衆アンド下衆。別に老人に清廉さを求めているわけでもないし、自分がモラリストだとも思わないけど、ちょっと下衆すぎやしないかと。
本作、結構評判がいい。でも、おもしろくないわけじゃないけど、そこまでか?と。
村人が葬式を出しておしまいって所を見ると、公式には子孫はいなかったってことか。こういう場合は、相続者のいない財産ということで国庫に入るんだろう。それを、俺たちが受け取ったってだれも不幸にはならんだろ?という発想はわかるのだが、彼らを応援しながら観る気にまではならなかった。ジャッキーの奥さんは、マイケルに悪事をさせることが許せないといっていたが、そういう問題ではなく、根本的にやってはいけないことだろう。
なんだろう、このイギリス辺りの、政府なんか楯突いてナンボじゃ!みたいな、ベース思考。“お天道様が見ている”という感覚が皆無なんだろうな。このまま生活してたって、こんな田舎の小さな村で余生を過ごす意味なんかない。搾取するだけ搾取して、老後はこの有様かよ!政府め!っていうのがイギリス人の普通の感覚で、あえて説明するまでもないってことなのかもしれんが。
本作をおもしろいと思えるかどうかは、彼らを素直に応援できるか、それとも最後はおじゃんになることを期待するか…が境目かと。前者は愉しめるだろうし、後者はノリきれないだろう。欲に目がくらんだのかもしれんが、ある意味いちばん正論だった足の悪いばあさんを、事故で電話ボックスごとぶっ殺してしまう演出。私は後者だったので、インパクトこそあったけど笑えはしなかったわけだ。“正義<政府への不満”だとしてもその演出でいいのかよ!と。
並行して展開する、豚飼育業の男の恋のお話。宝くじの話と何の関係があるのやら…と、最後まで疑問だったが、最後の最後でやっと繋がる。まあ、ネッドが実は…というオチはチョッピリ不意を付かれた(というか、あまりにもラスト間際だったもので)。この仕掛けがなかければ、愚作だったと思う。
ネッドはなかなかのプレイボーイだったってことか…。あれ、そういえば、ジャッキーの奥さんがマイケルを悪事に巻き込んだことを怒ってたのって…。なんか、けっこう裏ではドロドロした村なのかも…。
公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:95分
監 督:ネヴェルダイン、テイラー
出 演:ニコラス・ケイジ、イドリス・エルバ モロー、ヴィオランテ・プラシド、キアラン・ハインズ、クリストファー・ランバート、ジョニー・ホイットワース、ファーガス・リオーダン 他
ノミネート:【2012年/第33回ラジー賞】ワースト主演男優賞(ニコラス・ケイジ『ハングリー・ラビット』に対しても)、ワースト・リメイク・盗作・続編賞
コピー:そいつは俺の中にいる
制御不能、地獄の炎で悪を滅ぼせ
父親を死から救うために悪魔と契約し、ゴーストライダーとなった男ジョニー・ブレイズ。本人の意思とは無関係に、怒りや憎しみの感情が増すと、ゴーストライダーに変身してしまい、そのことがジョニーを苦しめ続けていた。そんな中、僧侶モローから、悪魔との契約によって生まれた少年ダニーを守って欲しいと依頼される。ダニーは、魔界の王メフィストが、次の人間体の器として狙われているとのこと。今、憑りつい人間の体が崩壊しつつあり弱体化しているメフィストが、ダニーの体に乗り移れば力は極大化し、世界はメフィストの手に堕ちてしまう。しかも、メフィストは、ジョニーを騙して契約しゴーストライダーにした、あの悪魔だった。モローは、ダニーを助けることができれば、ジョニーの呪いを解くという。意を決して、宿敵メフィストの陰謀を阻止するために、ダニーに接触するジョニーだったが…というストーリー。
前作『ゴーストライダー』のレビューの時に、別の監督でリメイクしたら面白いとは描いたが、続編を作れとは言っていない(笑)。
アイアンマンの方は『アベンジャーズ』で盛り上がったが、同じマーベル・コミックのゴーストライダーは蚊帳の外。っていうか、アベンジャーズ祭の最中に、わざわざこんな続編を作る必要ないでしょ。マーケティング的に意味不明。前作で書いたけど、ゴーストライダー自体はただの骸骨だから、ダークヒーローとしても格好悪いのよ。動いても所詮骨格のみだから、表現にも限界があるし。
#アクションのCG部分については、レベルダウンしたようにも思える。
“2”となってはいるが、前作ではメフィストのしもべ同然に行動していたのに、今回は完全に忌避・対立する関係に。肝心の契約関係の根本設定がズレてしまったように思える。やっぱり、なんで、メフォストがダニーと契約したのか、意味がボケている。
ライダーに変身してしまいそうになり、苦しみ、変身しかけたり戻ったりの表現は、なにか陳腐。また、ダニーとその母親という、ジョニーがシンパシーを感じられる存在を登場させて、それを守るという展開が、いささかチープ。前作でも恋愛ネタがなかったわけではないけれど、お互いの正体を知った上の恋愛、それも子持ちの女性との恋愛は、いまいち盛り上がりに欠ける。
ダニーとその母親もバトルに参加するが、二人は所詮生身なので、見栄えもしない。僧侶さんも前半はなかなかの戦闘っぷりだったのに、後半は出てこないし。ヒーロー物がよくわかっていない監督さんなのかも(『アドレナリン』の監督さん)。
ラストも“天使の要素がちょっぴりあったんやぁ”的な、無理矢理な勝ちパターン。それを持ち出しちゃったら、なんでもアリの無双状態になってしまうけど、それでいいんか?この展開を使ったら、続編は無理じゃないか?(できるとも思っていないか…)。
せめてバトルシーンで興奮させてくれれば良かったんだけど、そうでもないし。ギリギリ凡作ってレベル。ニコラス・ケイジの“アメコミ愛”も前作ほど伝わってこず。
公開年:2013年
公開国:アメリカ
時 間:133分
監 督:シェーン・ブラック
出 演:ロバート・ダウニー・Jr、グウィネス・パルトロー、ドン・チードル、ガイ・ピアース、レベッカ・ホール、ステファニー・ショスタク、ジェームズ・バッジ・デール、ジョン・ファヴロー、ベン・キングズレー、ウィリアム・サドラー、デイル・ディッキー、タイ・シンプキンス、ミゲル・ファーラー、ショーン・トーブ、ビル・マー、ジョーン・リヴァーズ、スペンサー・ギャレット、トム・ヴァーチュー、レベッカ・メイダー、スタン・リー、マーク・ラファロ、ポール・ベタニー 他
コピー:「さらば――アイアンマン。」
「アベンジャーズ」の戦いから1年。――すべてが変わってしまった。
人類滅亡の危機を救った“アベンジャーズ”の戦いから1年後。その戦いで心に深いダメージを受けたトニー・スタークは、見えない敵に怯えて、アイアンマンのスーツを次から次へと開発していたが、それでも心が休まることはなく、悪夢や発作に襲われ、普段でもスーツを着用するまでに。その頃、“マンダリン”率いるテロリスト組織テン・リングスによる連続爆破テロが発生。マンダリンは、電波ジャックによる犯行声明で合衆国政府を挑発。ローズ大佐は、改良型ウォーマシンの“アイアン・パトリオット”を装着し捜査を進めていたが、まったく犯人の正体がつかめない。そんな中、トニーの恋人ポッツの元に、巨大シンクタンクの主催者キリアンが現れ、人間の脳の未使用領域を活性化し、能力を向上させるウイルスの研究を共同で行わないかと提案してくる。軍事転用の可能性を嫌ったポッツは提案を拒否。キリアンの行動を不審に感じた警備主任のホーガンは尾行を開始。怪しい取引の現場を押さえると、一帯が突如爆破。一般人を巻き込み大惨事となり、ホーガンも意識不明の重態となってしまう。キリアンとマンダリンが繋がっていると確信したトニーは、自宅の住所を公表し、マンダリンに宣戦布告するのだったが…というストーリー。
2と3の間に『アベンジャーズ』が挟まるだけならいざしらず、『アベンジャーズ』のラストが、がっちり本作の内容のベースとなっており、観ていないとさっぱりわからない(ハズ)。アイアンマンを3まで観ちゃうような人は、マーヴェル好きに決まってるんだから、当然『アベンジャーズ』も観てるでしょ?という、なんとも豪腕シナリオである。
#本作の配給はディズニーだったりする。今、ディズニーが関わると豪腕マーケティングでイケイケになっちゃうのかな。
元々、精神を病みぎみのトニー・スタークだったが、『アベンジャーズ』での経験で完全に病んでしまう。そりゃ、宇宙から飛来した神様と戦い、死ぬ目にあって間一髪で助かった人だもの、病んで当然ではある。
(ちょっぴりネタバレあり)
その設定は良いとしても、ストーリーが煩雑すぎる。あらすじを書くと判るのだが、非常に筋をまとめにくい。むやみにこねくりまわされているのが良くわかる。キリアンの後を追ったホーガンが被害に遭うのだが、その時点では一連のテロに巻き込まれたのだとトニーは考え、マンダリンに宣戦布告するわけだ。キリアンとマンダリンが繋がっていることを観客は判っているが、トニーは判っていないという状況。モヤモヤするけど、ドキドキはしない、あまりおもしろくない演出に思える。
また、宣戦布告中にトニーの家に現れる女性マヤ。過去の経緯との絡みを考えるとキャラクターの存在意義はあるが、役割的にうまく使いきれておらず、そんな扱いで終わらせるなら、出さないほうがマシだったように感じる。
スーツがリモート機動できることが、一つのストーリー上のポイントになっている。荒唐無稽と思いつつも、一番盛り上がるのが、飛行機から投げ出された13人をトニーが救うシーンだろうね。遠隔操作っていう設定は、そのシーンについては生きている。対して、最後の旧機種勢ぞろいが、そのせいで味気ないものになってはいないだろうか。
コピーにある“さらば”の意味は、現代の医学では取り出し不可能といわれていた、胸に埋まっている金属を今回のラストで取り出すから。科学は進歩している…的なもっともらしいナレーションが入るわけだが、正直、そんな設定忘れていたね。
元々、胸で発光している電磁石は、取り出せない金属の破片を固定しておくためのもの。別にローズ大佐は生身でスーツを着ているわけだし、トニーの胸にそれが埋まっていなきゃいけない理由はすでに無い。だから、トニーの胸の金属を取ってしまったからって、アイアンマンよさようなら…ってわけでもないので、どうでもいいエピソードになってしまったのは残念。今回の戦闘によって、取り出さざるを得ない展開になって、一か八か…のほうが面白かったような…。
#もし『アベンジャーズ』の続編ができるとしてら、アイアンマンは別の人が装着する流れかな。
テロ攻撃はフェイクですっかり騙されるアメリカ。まあ、そこにベン・キングズレーを持ってくるもんだから、観ている方も騙される贅沢な配役だけど。今のシリアへの対応を見ていてもわかるように、“弱いアメリカ”は既定路線。映画は社会を写す鏡だな…と痛感する。
この手の作品で、私はいつも言っているけど、敵が弱そうだとダメ。燃えるおっさんキリアンはラスボスとしてはイマイチ。あの状態でアイアン・パトリオットを装備して、燃えるアイアン・パトリオットで戦えば、見映えしたのに。
エンドロール後のオマケシーン。トニーがカウンセリングを受けているんだけど、相手の先生は居眠りしてるわけ。その先生って、ハルクに変身する博士ね(『アベンジャーズ』に最後でトニーの命を救ったのがハルクだからね)。覚えてないよね、普通。
まあまあの満足度。シナリオはもうちょっとすっきりブラッシュアップさせるべきだったかな。
公開年:2012年
公開国:アメリカ
時 間:101分
監 督:リッチ・ムーア
出 演:ジョン・C・ライリー、サラ・シルヴァーマン、ジャック・マクブレイヤー、ジェーン・リンチ、アラン・テュディック 他
受 賞:【2012年/第18回放送映画批評家協会賞】長編アニメ賞
コピー:いま、ゲームの世界の“裏側”で“悪役キャラ”ラルフの冒険が始まる!
「誰だって、ヒーローになりたいんだ…」
とあるゲームセンター。営業時間中は客を楽しませているゲームキャラクターたちは、閉店後“ゲーム・セントラル・ステーション”に集まって、他のゲームキャラクターと楽しく交流していた。しかし、このゲームセンターで30年も稼動しているアーケードゲーム“フィックス・イット・フェリックス”で悪役を演じる大男ラルフは不満だった。ゲームの世界では与えられたキャラクターに徹するのが掟だったが、本当は心の優しいラルフは、いつも厄介者扱いされることに耐えられず、みんなに愛されるるヒーロー・キャラになりたいと願っていたのだ。そんな中、自分以外のキャラクターが集まって稼働30周年記念パーティを開いているのを目撃。無理矢理押しかけてみたが、やっぱり邪魔者扱い。思い切って自分もヒーローになりたいといってみるが、悪役だからダメだとの一点張り。とうとう、自分もヒーローのメダルを手に入れてヒーローになってやると大見得を切ってしまう。そして、ルールを破ってシューティングゲーム“ヒーローズ・デューティ”に潜入し、何とかヒーローの証明であるメダルを獲得。自分のゲームに凱旋しようとしたが、ちょっとした事故で“シュガー・ラッシュ”というレースゲームに紛れ込んでしまい…というストーリー。
『トイ・ストーリー3』でチラりとトトロが出ていたのが布石だったか。本作では、様々な実在ゲームのキャラクターが登場する。すべて架空のゲームでも問題は別に無かったと思うが、ある意味ノスタルジーを醸しだしているということだろう。スト2にしてもマリオにしても日本発ゲームのキャラは長く愛されているな。それにしても、権利をクリアするために相当な金銭が動いているんだろう。ディズニーの潤沢な資金力による豪腕のおかげだな。
ベガが悪役なのはわかかるが、ザンギエフって悪役か?選択できるだろ。プレーヤーがチョイスする頻度はすくないと思うが…、そう考えると不憫なやつか。ブランカとかダルシムは、悩んでセラピーに来たりはしないんだろうな(笑)。
では、実在のゲームキャラ以外が従来のピクサーらしいかといわれるとそうでもなく、メイン舞台の“シュガー・ラッシュ”というゲームのキャラクターは、アジア人がデザインしたようで、無駄にかわいらしさを強調していていまいちしっくりこない。
カルホーン軍曹とフィックスの恋愛模様も、これまでのピクサーには無かった展開だな。おもしろかったけど、ワーナー系のアニメのノリみたい。
まあ、ピクサーらしさはちょっと薄れたと思うが、複数のゲーム世界を旅するというSFチックな舞台設定や、差別の打破と自己実現、困っている人と手助けして成長するという、子供向けアニメの王道だと思う。ラスボスの伏線も、ヴァネロペの正体も、ヒネリこそないが悪くない。
じゃあ、手放しでおもしろいか…というと、個人的にはあまり作品に入り込めなかった。それは、自分のゲームの中で受ける、生まれ付いての身分は変えることができないという差別。それを変えようと必死でがんばるけれど、そのがんばりの先に待っているのは自分のゲームの世界の崩壊(故障⇒廃棄)を意味する。ヴァネロペを助けることも、結果オーライではあったけど、当初ヴァネロペは“シュガー・ラッシュ”の世界を壊す存在とされていた。ラルフが良かれを思ってやっていることが、世界の破壊だという流れ…というのがどうもねぇ。
さらに、結局、自分を差別していた他のキャラと折り合いを付けて元の世界に戻る。これって、すごく大人の世界の折り合いの付け方。舞台は夢満載だけど、お話は夢が無いように思えるのよねぇ。
子供ウケは実際どうだったんだろうね。
公開年:2012年
公開国:アメリカ
時 間:172分
監 督:ラナ・ウォシャウスキー、トム・ティクヴァ、アンディ・ウォシャウスキー
出 演:トム・ハンクス、ハル・ベリー、ジム・ブロードベント、ヒューゴ・ウィーヴィング、ジム・スタージェス、ペ・ドゥナ、ベン・ウィショー、ジェームズ・ダーシー、ジョウ・シュン、キース・デヴィッド、デヴィッド・ジャーシー、スーザン・サランドン、ヒュー・グラント 他
受 賞:【2012年/第18回放送映画批評家協会賞】メイクアップ賞
【2012年/第70回ゴールデン・グローブ】音楽賞(ラインホルト・ハイル、ジョニー・クリメック、トム・ティクヴァ)
コピー:いま、<人生の謎>が解けようとしている。
1849年、南太平洋。妻の父から奴隷売買を託された弁護士ユーイングは、旅の途中で寄生虫に侵され、医師ヘンリー・グースの治療を受けるが一向に回復しない。そんな彼の元に密航した黒人奴隷が近づき…。1936年、スコットランド。ユーイングの航海日誌を愛読する作曲家フロビシャー。同性愛者であることが発覚し父親に勘当された彼は、作曲家エアズに採譜者に採用される。才能の枯れていたエアズはフロビシャーの曲を自分の成果として発表する。はじめはそれに甘んじていたフロビシャーだったが、自分の入魂作“クラウド アトラス六重奏”をエアズが自分の物にしようとし…。1973年、サンフランシスコ。女性ジャーナリストのルイサは、とある物理学者から人命に関わる原発の報告書を託されたことで、殺し屋から命を狙われることに…。2012年、ロンドン。自分の著書を酷評した評論家を殺害した作家ホギンズは、収監されるもカルト的な人気を博す。おかげで出版元のカベンディッシュは大儲けするが、ホギンズの弟たちに恐喝されるハメに。カベンディッシュは兄に相談すると、一時的にとある施設に隠れることを勧められ…。2144年、ネオ・ソウル。人間は遺伝子操作で複製人間と作り労働させていた。複製人間ソンミ451は、カベンディッシュ原作の映画を観て自我に目覚めてしまう。革命軍チャンとであった彼女は、反乱軍に身を投じるが…。文明崩壊から100年以上たった頃。ソンミが女神として崇められる土地に、進化した人間コミュニティからやって来た一人の女が舞い降り…というストーリー。
1849年、弁護士ユーイングの奴隷売買の話。もちろん黒人差別。
1936年、同性愛者フロビシャーの作曲家の話。同性愛者差別。音楽家フロビシャーはユーイングの航海日誌を愛読。彼が作曲するのが「クラウド アトラス六重奏」で本作のタイトル。
1970年代アメリカのジャーナリストの話。移民差別。フロビシャーの恋の相手シックススミスが物理学者になっていて、とある秘密を女性ジャーナリストに渡そうとする。この二つの話だけは人物で直接繋がっている。
2012年のロンドン。編集者のお話。老人差別。この話だけが、ちょっと異質な気がする。
でも、『ソイレントグリーン』についてのカベンディッシュのセリフ。ちょっとした映画ファン向けの小ネタかと思ったが、がっちりとネオソウルの話に繋がる。
2144年のネオソウル。複製人間ソンミが差別される。ソンミはカベンディッシュ原作の映画を観る。
すっかり文明が荒廃した未来。そのソンミが土着宗教の神となっている。
6つのエピソードが、こんな感じで大きく繋がっていくだけでなく、各々を交互に、ちょっとしたセリフの共通点でフラッシュバック的に編集されている。これが、けたたましいほど前後する。各時代の役者が一緒なので、いくら特殊メイクで印象を変えているといっても、同じ役者の挙動で繋がれると、なかなか混乱する。この表現で輪廻転生を表現しているのかな?とも思ったが、観進めていくうちに、そこに執着はしていない気がしてきた。『マトリックス』も極めて仏教的なテーマが根底にある気がしていたが、2、3と進んで、掻き消えたのと一緒で、仏教ネタを深めるほど、彼らに造詣も思いいれも無いんだと思う。
6つのエピソードはすべて差別というキーワードで貫かれる。不寛容なんていう言葉は不似合い。直球で理不尽な差別がテーマだと思う。これらが入り乱れるので、長いのは仕方が無い。はじめの20分くらいは、ずっと混乱しっぱなしだが、何とかついていこうという気力は維持させてくれるのが救い。さすが、『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟。ネオソウルの様子など、実に良い出来映え。
あ。兄ラリーは『スピード・レーサー』の後に性転換しているから、ウォシャウスキー姉弟だ。ウォシャウスキー姉弟としてははじめての監督作品のはず。別に原作があるとしても、脚本はラナ・ウォシャウスキーがメインで携わっているので、そういう、先入観を除いて観ろといわれても無理。自分の経験が深く反映されているのは間違いないだろう。
そう考えると、最後のザックリー老人のシーンは、差別の歴史の答えになっているだろうか。答えがボケている…というか、明確な答えは製作陣も持っていなかったように思われても仕方が無いというか…。これが、本作の評価のすべてな気がしてならない。
ペ・ドゥナは、アメリカ進出ということで、気合をいれてメンテナンスしちゃったのか、鼻筋がちょっと不自然に。まあ、合成人間の気色悪さはうまく表現できている。白人女性、中米系女性と特殊メイクでがんばったけど、ペ・ドゥナだとまったく判らなければ無意味だから、どうしても微妙になってしまうのはし方が無いか。
でも、白人役者たちが、蒙古ひだの特殊メイクをして、はい、未来のソウルの姿でございます~って、韓国人は怒らんのかい?
ヌードも濡れ場もあった本作だが、『空気人形』を観てのオファーだろうね。堂々とした演技だったので、今後もオファーはあるだろう。チャン・ツィイーの二の舞にならないようにがんばって欲しい(無理かもしれんけど…)。
公開年:1988年
公開国:アメリカ
時 間:73分
監 督:ジョージ・スクリブナー
出 演:ベット・ミドラー、ジョーイ・ローレンス、ドム・デルイーズ、ビリー・ジョエル、リチャード・マリガン、ロスコー・リー・ブラウン、シェリル・リー・ラルフ、ドム・デルイーズ、トーリン・ブラック、カール・ウァイントローブ、ロバート・ロッジア、ナタリー・グレゴリー 他
ノミネート:【1988年/第46回ゴールデン・グローブ】 歌曲賞(“Why Should I Worry?”)
ペット屋で売れ残り、マンハッタンの片隅に捨てられた子猫。通りかかった野良犬のドジャーに、生き抜くコツを教えてやるといわれて付いていくが、ホットドッグ屋からソーセージを盗む片棒を担がされただけ。おまけに分け前も貰えなかったため、ドジャーを追跡。ドジャーと仲間たちが住みかにしている港の隠れ家に辿り着く。その隠れ家は、フェイギンという男の住処で、彼は借金取りのサイクスからの督促に苦しんでいた。犬たちは主人のために、小さな盗みを重ねていたが、集めてくるのはガラクタばかりで返済の足しにはならない。そんな中、2匹のドーベルマンを連れてサイクスがやって来て、「3日以内に金を返さないと命はない」と最後通告するのだった。ドーベルマンの顔を引っかいて抵抗した子猫は、犬たちの仲間になり、彼らの盗みに協力することになった。しかし、盗みを働こうとした車には、金持ちの家の娘ジェニーが乗っており、子猫を見つけると家に連れて行ってしまう。そして“オリバー”と名付け、飼いはじめるのだが…というストーリー。
『オリバー・ツイスト』を原作としているようだが、欧米では、純真な極貧の子供が金持ちの家に拾われ…というストーリーが多いような…。立身出世物語とは違うこの手のプロットに、個人的には魅力を感じない。まあ、金持ちが貧乏になって苦労する…という『小公女セーラ』とかのほうがまだピンとくる(いや、最終的には『オリバー・ツイスト』も実は…ってオチだから同じか)。
とはいえ、それほど直球で、『オリバー・ツイスト』って感じではないので、気にすることはないか…。まあ、子供向けアニメでエグい犯罪行為をやるわけにもいかないか。
ドジャーの吹き替えは、松崎しげる。80年代、積極的に役者としての仕事をしているけど、劇場アニメの吹き替えは先日観た『コブラ SPACE ADVENTURE』と本作くらいではなかろうか。一本調子でさすがにプロの声優のレベルには達しているとはいい難いが、非常に味のある声で、昨今のいっちょ噛みのタレント声優よりは遥かに優秀。もっと声優の仕事をしてもよいのでは?と思うが、ギャラに見合わないんだろうね。
#あ、他にも木の実ナナ、尾崎亜美と本作はなかなか豪華。
絵の線が荒くて、従来のディズニー作品とはイメージが異なる印象。低予算で少しリミテッドな感じかしら…なんて思っていたが、どうしてどうして。CGか?と見まごうほどによく動く。車の周囲をパーンする画など、おそらくフィルムから原画をおこしているのか、模型を角度を変えて見ながら描いたんだろう。今時の、適当にフレームワークで原画を描いてみました的ものとは、質というか他の絵との親和性が違う。こういう執着を感じられる仕事は、観ていて気持ちが良い。技術的には快作である。
ただ、ストーリー的に疑問なのが、フェイギンというダメ人間(というか半分犯罪者)を何であの犬たちは慕って尽くしているのか。ユニークで愛嬌のある5匹なので、悪い犬に描く気はないはず。そんな犬たちが、当たり屋をやっちゃうくらいなんだから、よっぽど恩義があるんだろう。『オリバー・ツイスト』では窃盗団の頭だからわかるんだけど、犬たちにやさしい…以外になにか過去のエピソードの説明場面がないと、ちょっと説得力に欠けるような。逆に、犬もフェイギンが犯罪者だとわかってくっついているっていう方に倒してもよい。
途中で話は、金持ちの女の子の誘拐に展開して、その辺はうやむやになちゃうんだけど、やっぱ、ベースのキャラ設定は明確じゃないとダメだよね。フェイギンの改心の意味が薄まっちゃってる。
まあ、難点はここだけなんだけど、このせいで、私はストーリーに入り込めなかったかも。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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