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image1836.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:102分
監 督:トッド・フィリップス
出 演:ブラッドリー・クーパー、エド・ヘルムズ、ザック・ガリフィナーキス、ケン・チョン、ジェフリー・タンバー、ジャスティン・バーサ、ポール・ジアマッティ、ジェイミー・チャン、メイソン・リー、マイク・タイソン、サーシャ・バレス、ジリアン・ヴィグマン、ニルット・シリジャンヤー、ヤスミン・リー、ニック・カサヴェテス、ブライアン・カレン 他
ノミネート:【2011年/第32回ゴールデン・ラズベリー賞】ワースト前編・リメイク・盗作・続編賞
コピー:飛べ、異国の地へ!! 飛ぶな、昨夜の記憶!!

2年前にベガスでとんでもない騒動を巻き起こしたフィル、ダグ、ステュの3人。歯科医のステュがタイ出身の女性と結婚することになり、式をタイで挙げることに。同じ過ちを繰り返したくないステュは、一番の問題児アランを招待しないことにしていたが、ダグに説得されて渋々了承することに。花嫁の弟テディも加わり、タイへ降り立った一行は、このまま滞りなく2日後の結婚式を迎えるはずだった。しかし、その夜、彼らは焚き火を囲んで軽くビールを口にしただけのはずが、目覚めてみると見覚えのない場所に。なぜかアランは坊主頭で、ステュは顔にタトゥ、部屋には洋服をきた猿がいる。最悪なのは義父が溺愛するテディが行方不明なこと。結婚式が明日に迫る中、とにかくテディを探すことにするのだったが…というストーリー。

二番煎じだってツッコミたくなる人がいるかもしれないが、そんなこと判ってやってる。ただただ、エスカレートさせるしかない一方通行の地獄道。それなりの覚悟で二番煎じをやってるんだから、野暮なことは言わないこと。とはいえ、アランが行かないなんて選択肢は有り得ないし、酩酊することは判りきっているので、さすがにどこかで目覚めるまでのくだりは、正直鬱陶しかったが、通行税みたいなモノだと割り切って我慢するしかない。通過したら、そこから先は見ごたえ充分。話にのめりこめる面白さ。

さすがに異国の地のできごとゆえに、その絶望感たるや前作を遥かに超える。私は、見知らぬ土地で、どこかに向かっているがなかなか到達できないという夢を見ることがあるので、妙にしっくりくる内容だったりする。下品でお馬鹿なシチュエーションであること極まりないのだが、小さなヒントを頼りに謎解きしていく展開は、前作同様にきっちりとミステリーに仕上がっているのが秀逸だ。
意外と英語が普通に使えてしまっているのが、ちょっと腑に落ちないが、そこまで制限を付けてしまうと逆につまらなくなったかもしれない。その他諸々、おかしな表現はある。最後も無理やりまとめた感じもある。だけど、細けーこたぁどーでもいいんだ状態。一緒になって“バンコクに囚われ”りゃあいいんだ。

やっぱりあの中国人は出すんだな…と思ったら、いきなり死亡(まあ、その先にひと展開あるけど)。さらにテディの指が落ちてるなんて、そういう一線は超えない作品なのかと思ってたけど、お構いなしだった。

ネタ晴らしはエンドロールで…ってのも前作と同じだが、下品さはグレードアップ。何だよ、指、自分で切てやがんの、アホか…って、腰砕ける。
まあ、さすがに続編はないだろう(やったら大した勇気だよ。失敗しても感心するわ)。花火が消える間際の最後の輝きに近い、おもしろくなりゃ何でもいいじゃないか! っていうなりふりかまわずさ。そういう感じかな。お薦め。
 

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image1861.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:111分
監 督:ジョー・ライト
出 演:シアーシャ・ローナン、エリック・バナ、ケイト・ブランシェット、トム・ホランダー、オリヴィア・ウィリアムズ、ジェイソン・フレミング、ジェシカ・バーデン 他
受 賞:【2011年/第37回LA批評家協会賞】音楽賞(ケミカル・ブラザーズ)
コピー:16才、罪を知るには若すぎる。



フィンランドの山奥で人間と接触することもなく、父に育てられた少女ハンナ。幼い頃から戦闘テクニックだけでなく、どんな国に潜入してもよいように言語や知識を叩きこまれている。現在16歳で、その戦闘能力は父をも凌ぐレベルになっていた。ある日、ハンナは父のもとから巣立つことを決意する。そんな娘に父は、自分たちはこれからかつてCIAの同僚だったマリッサという女性に命を狙われることになると告白する。そして、一旦別行動をとってからおちあう約束をして、先立つ父を見送ったハンナだったが、夜半に突然襲撃してきた何者かに拘束されてしまい…というストーリー。

主演は『ラブリーボーン』の面長の女の子だが、DVDジャケットの画像は彼女に見えない。ちょっと詐欺っぽい(さらに別人が登場するんだろうと思ってたくらい違った)。それにしても、アメリカ人は面長の女性好きだよね。シェールとかサラ・ジェシカ・ パーカーとか、一定の需要があるんだろうな。
ケイト・ブランシェットは大好きな女優なんだけど(見た目も)、私の中では、彼女がが髪の毛の色が濃いキャラを演じるとハズレという法則ができつつある。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』とかね。

女の子が隔絶された場所で工作員として教育されて、実際外界に出てみると殺傷能力とは裏腹に世間知らず全開という展開は、『ニキータ 』に近い。ただ、ハードな展開と並行して、はじめて接する世界で友情や家族愛を経験して戸惑ったりする様子を見せるというのは、けっこうありがちな設定。コレだけだと正直飽きるし、実際飽きた。

なぜイマイチおもしろく感じられないか。アクションがぜんぜんワクワクしない点が一番の敗因だと思う。あれあけ冒頭で鍛えまくっていたし、一旦拘束された後の脱出っぷりを見て、こりゃあイケイケドンドンのアクション展開を期待したんだけど、一人旅の流れになっちゃうと、急にトーンダウン。終盤になってアクション再開するけれど、あまり工夫したところがみられないので、やっぱり飽きる。ゲイのキャラクターも中途半端で、父親とのバトルなんか見てられないくらいつまらない。

このジョー・ライトという監督さんは、『つぐない』とか『路上のソリスト』の人じゃないか。これまでの作品からするとアクションとはまったく畑違いだよね。やっぱり向いてないんだと思うけど、なんで彼なのかしら。

あと、胎児への操作によって、感情や他者への共感を抑えた人間になってる…って。教育によって感情を抑えられているならば、抑えられていた感情が戻るとか、内なる心の叫びに苦悩するとか、そういう設定ならまだ共感できる。でも、科学的に操作されちゃってるなら、観客とはまったく別個の人外だもの。そんなキャラクターの抱く苦悩なんて共感できるはずもない。その証拠に、彼女の正体が明かされてから、スーッと醒めていく感じを覚える。
大体にして、向こうから復讐しようとやってくるんだろうし、この子供が世の中にいたからって即座に困るわけでもないのに、なんでマリッサはこんなに慌てて追いかけるのかよくわからん! とか考えたら、ますます醒めてしまった。
そして、冷め切ったあとに、ドヤ顔よろしく“HANNA”の赤文字で締められても。肝心の本編に様式美みたいなものがないのにさ、こういうことやられてもね。ダサいよ…。

ただ1点、BGMはなかなか興味深い。今までに無かった手法だとは言わないけれど、キャラクターの行動や効果音にリズムを合わせていて、すごく新鮮だった。それ以外は、極めて平凡な作品。旧作料金ならセーフ。

#で、拉致られた家族は、どうなったんじゃ。そういうところ、もっとしっかり描こうよ。

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image1809.png公開年:2010年
公開国:イギリス、アメリカ
時 間:116分
監 督:マーティン・キャンベル
出 演:メル・ギブソン、レイ・ウィンストン、ダニー・ヒューストン、ボヤナ・ノヴァコヴィッチ、ショーン・ロバーツ、デヴィッド・アーロン・ベイカー、ジェイ・O・サンダース、デニス・オヘア、ダミアン・ヤング、カテリーナ・スコーソン、フランク・グリロ、ウェイン・デュヴァル、ベンガ・アキナベ、トム・ケンプ 他
コピー:娘の仇は、俺が撃つ!
愛する娘の命を奪った巨大なる陰謀、男は今、すべてを捨てて怒りの引き金を引く…。

ボストン警察殺人課のトーマス・クレイブン刑事は、疎遠だった娘エマの突然の帰郷に喜んでいた。しかし、帰宅後に娘が突然嘔吐したため、病院へ連れて行こうとすると、玄関先で何者か発砲。エマに命中するとそのままトーマスの腕の中で息を引き取った。事件は、刑事である父親をターゲットにした狙撃に、娘が巻き込まれたと報道される。責任を感じ捜査に参加したいと申し出たが、被害者の親族が捜査に関わることは叶わず、休職を薦められる。諦めきれないトーマスは独自に捜査を開始。エマの周辺を洗っていくうちに、エマが勤務していた企業の姿が浮かび上がり…というストーリー。

主演は2002年の『サイン』以来だし、刑事アクションはもっともっと久々。諸々の舌禍騒動やら粗相の連続で、主演映画のオファーがくるだけ良しと考えるべきなんだろうが、『リーサル・ウェポン』とまでいわないが、それに近いハジケっぷりをどうしても期待してしまう。

しかし、刑事アクションというよりも、サスペンス寄りのお話だった。娘は誰に何で殺されたのか?という謎を、執念で追う父親のお話。では、サスペンスよりということなら、謎が謎を呼ぶような展開になっているか?というと、悪人は見た目も行動も悪人そのもので、犯人さがしという意味での、謎解きの楽しみは薄い。そのくせ、犯人陣営は無駄に人が多い。元はTVドラマだったらしいのだが、なにやら余命の少ない人やら、会社側の人も似たような立場の人が複数いるなど、映画としてはブラッシュアップが必要な感じ。
以前にも言ったが、敵がぼんやりしていると主人公までぼんやりするという悪例の見本だと思う。

そういう構成の稚拙さを補うかのように、“死ぬ”シーンだけはsuddenly。ギョっとはするので、かろうじて眠気を醒ましてくれる効果はあったが、それ以上アクション要素は膨らんでいかない。やっぱりつまらくしている原因を元から断たないと、どうしようもない。

一番残念だったと感じるのは、トーマスという主人公の心に共感できない点。陰謀に巻き込まれた娘への復讐…ということだが、冒頭に娘との思い出のビデオが流れはするが、遠地に勤務する娘とはずっと疎遠だったという彼氏の指摘もあって、娘への感情が純粋な愛なのか罪悪感なのか、いまいちピンとこない。

大体にして、メル・ギブソンのくせに(?)、終盤になるまで結構理性的で、ぜんぜんキレない。やっとキレたか!と思ったら、なんかフラフラしてるから、ノリきれない。タリウム中毒になってるっていうことなんだろうけど、映画のなかでは、復讐の鬼としてバリバリと動いて欲しいものだ。よろよろしたおっさんに共感できるようなアクション映画はなかろうて。
実行犯であることを確信するのが、その男の叫び声だけっていうのも、実に乱暴なのだが、演出として許されないわけではない。しかし、それに違和感を感じさせないためには、主人公が究極的にブチ切れていることと、追いこまれていることが条件。本作の場合、その両方も満たしきれていない。だって、追い込まれているように感じなくもないけど、例の映像を然るべきところに渡して公開してもらうなど(当然、身柄の確保してもらえるだろう)、まだ残された手段はあるんだもの。それこそ、現代となっては、YOUTUBEに公開するとか選択肢は山ほどあり、同僚に寝返られたくらいで、追い詰められた気持ちになられてもねぇ…。
いや、娘への愛ゆえに、特攻しかなかたのだ! と解釈しようとしたけれど、やっぱり疎遠だった娘との絆が描ききれていないから、それも納得できない。その結果として、最後の妄想シーンもいまいち感動がついてこない。
…等々、色々考察すると、やはり、父親と娘の関係を、子供の頃のビデオひとつで表現しようとしたのが、過ちってことになるんだろう。

おそらく、無人島に30本映画を持っていってよいといわれたら『リーサル・ウェポン』シリーズを選んでしまう私なので、メル・ギブソンのアクション映画に過剰な期待をかけてしまい、ハードルが上がっているのだと思われる。普通のサスペンス映画として観れば、それなりに愉しめるんだろう。それなりに。私は再鑑賞することはないと思うけど。

#タリウムって結構早めに効いてくるらしいんだけど(それこそ2,3日で)、そんなに髪の毛に放射性物質が含有するものだろうか…。

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image1858.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:90分
監 督:ジェニファー・ユー・ネルソン
出 演:ジャック・ブラック、アンジェリーナ・ジョリー、ダスティン・ホフマン、ルーシー・リュー、ジャッキー・チェン、セス・ローゲン、デヴィッド・クロス、ジェームズ・ホン、ゲイリー・オールドマン、ミシェル・ヨー、ジャン=クロード・ヴァン・ダム、ヴィクター・ガーバー、デニス・ヘイスバー、ダニー・マクブライド 他
ノミネート:【2011年/第84回アカデミー賞】長編アニメ賞
【2011年/第17回放送映画批評家協会賞】長編アニメ賞
コピー:「僕が世界を救うんだ!」

伝説の龍の戦士となり、“マスター・ファイブ”と一緒に、平和の谷を守る日々をおくるパンダのポー。そんな彼らの前に、カンフーを抹殺して世界征服を目論むシェン大老が現れる。彼は、どんなカンフーの技も吹き飛ばすことができる武器を開発。かつて彼の両親が治めていた国を襲撃し、その国を守護していたマスター・サイ、マスター・ウシ、マスター・ワニの攻撃を封じ、制圧してしまう。シーフー老師は、シェンの野望を阻止するためにポーとマスター・ファイブを派遣。シェン一派と対峙したポーは、微かに残る赤ん坊の時の記憶が蘇り…というストーリー。

1作目がなかなかのデキだったので、続編ができるのは当然か。前作ではポンコツパンダが修行で成長していく過程を愉しめたわけだが、“マスター”になっちゃったからどうなるかな…と危惧したが杞憂だった。本国の興収はイマイチだったらしいけど、前作よりデキは良い気がする。
メタボリック人間が溢れるお国なので、共感を得られるのかと思いきや、コンプレックスを突っつかれた気分になっちゃうのかな(テキトー)。

導入部の童話チックな敵役シェンのエピソードは、クレイジーなキャラすぎてちょっと強引だったけど、主人公チームが強くなり過ぎてるから、圧倒的な勢力を作るしかないので致し方ない所か。でも、シェン大老の個性だけに頼っているだけでなく、敵も味方もキャラクターはしっかり立っている。悪役一派の隊長オオカミさんも、“部下は守る”というキャラが表現できていていた。
内容については、これ以上触れないが、ちょっと間抜けなデブキャラが、モコモコとコミカルに動くのは、アニメらしいアニメになっていて、やっぱり愉しい(カマキリとヘビがメインキャラとしていまいちピンとこないんだけど、それは前作から)。
ジャック・ブラックの演技にあわせてつくったかのような、コミカルさも堂に入っている(吹き替え音声のTOKIO山口達也も悪くない)。

前作もそうだったが、他の3Dアニメよりも陰影を強くつけており(常に朝焼けが当たっているような感じ)、メリハリがはっきりしており結構好みの画調。過去の記憶シーンを2Dアニメするというのもいいアイデア。実写作品で回想シーンなどをアニメにする手法はあったが、アニメ内でこれをやるのは無かったかと。
今回はもちろんレンタルなので2Dでみたのだが、これは3Dで観る効果がある作品な気がするぞ。家電量販店の3D展示は本作を流すといいような気がする。
タイガーとのちょっとした恋愛模様や、実父健在を匂わせて終わるなど、さらなる続編を作る気マンマン。期待してよいとは思うが、パワーのインフレをおこすのではなく、謎解きや成長物語に比重を置いたストーリーを目指して欲しい。

#「元号を変えたら今年は短くなっちゃいますよ!」って、アメリカ人はギャグのつもりかもしれないが、元年の存在もわかっていないし、元号の存在意義もわかっていないなら、中途半端な他文化の揶揄は止めたほうがいいだろう。

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image1811.png公開年:2010年
公開国:アメリカ
時 間:95分
監 督:ディート・モンティエル
出 演:チャニング・テイタム、トレイシー・モーガン、ケイティ・ホームズ、レイ・リオッタ、ジュリエット・ビノシュ、アル・パチーノ 他
コピー:揉み消された二つの事件 鍵を握るのは“相棒”



殉職した父親と同じくニューヨーク市警の警官となったジョナサン・ホワイト。これまではコンビニやレコード店の店員などをやってきて、30歳を過ぎてから警察官になるというめずらしい経歴。妻と持病を抱える幼い娘との3人暮らしだが、通勤に2時間もかかるクィーンズ署に転属となってしまい、家族を顔をあわせる時間がめっきり減ってしまい、夫婦の仲はぎくしゃくしはじめている。クィーンズはジョナサンの育った地域で、そこには彼が思い出したくない過去があったが、そのことについて何者かから脅迫状が届くようになる。忘れかけていたその事件が蒸し返されそうになることで、彼の心の傷は疼きだすが、さらに、その脅迫状は警察の汚職を暴こうとする新聞社にも送られ、記事になってしまう。ジョナサンは、警察のスキャンダルに神経をとがらせる上司から、掲載を阻止するように指示さる¥れるのだったか…というストーリー。

DVDジャケットにはアル・パチーノがど真ん中でデカデカと鎮座しているが、途中までカメオ出演かよ! と思うほど出番はない。終盤になるとうやうやしく連投してくるが、その役がパチーノである意味は、ほとんど無い。むしろかえってビッグネームが邪魔臭い。
レイ・リオッタも、こんな役ばっかり。もうすこしヒネってくるのかとおもったけど、イメージどおりの役柄でおもしろくない。本人もいい加減に飽きてこないのかね。好きな部類の役者なんだけど、それどもうんざりしてくるって相当だと思う。

アメリカ人ワイフっていうのは、ちょっとストレスがかかると狂ったようにぎゃあぎゃあ喚くというのが、様々な映画で観られて、お約束表現になってきた。こういう妻のキャラクター設定もそうだが、娘の持病の設定も、ストーリー上、全然生きていない。
ストーリーは、なんで“ミルク”の過去がばれたのか? 脅迫してるのは誰なのか? っていう謎解きで進むわけだが、レイ・リオッタとアル・パチーノが絡んでるのは明々白々なので、ドキドキ感が薄い。
子供時代のストーリーも、もっと驚くような内容なのかと思いきや、想像の範囲を超えないので、ただダラダラと生い立ちを観せられている感じ。追い詰められている様子も、ただ追い詰められているというだけで、それ以上の何があるわけでもなく、主人公が主人公の役目を果たせていない印象。

アメリカは殺人に時効がないので、主人公が怯えるのはわかる。だが、当時も捜査をきちんとしていないならまともな証拠もないだろうから、立件のしようがないと思う。それにジャンキーと頭のネジが飛んだ奴が死んだ事件について、こんなメモみたいな手紙がきたからって新聞が一面で取り上げるというのがわからん(いくらタブロイド紙レベルだったとしてもね)。もうちょっと確固たる証拠があるならわかるのだが…。

久々に再会したホワイトとヴィニー(『コップ・アウト』に出てた出川哲郎みたいな人ね)。なんでヴィニーは「俺はばらしてない」と一言言わないのか。彼は俺のことを信じられないのか? 的な感情とか、言っても信じてもらえるわけでもないだろう…と考えて無言だったと考えられなくもないが、やはり一言いえばそれで済んだような気がして、最後までそれが引っかかり続ける。だから、最後の死ぬ間際になって自分はバラしてないと言ったところで、ぜんぜん感動できない。

また、リークしてたのはあの人でした…というオチが中途半端(一応誰かなのかは書かないでおくけれど)。途中で不自然にチラりと出てくるから大半の人が気付いてしまうしなぁ。また、なんでその人がそこまで警察権力打倒を心に決めたのかというバックボーンが描かれていないから、ピンとこないし。おかげでグチャグチャなオチ。ヴィニーが濡れ衣を着せられて死ぬという結末に、カタルシス皆無がもとより不快感を覚えるレベル。

良い面はもちろん、悪い面についてもあまり語る気がおきない作品。もうちょっとどうにかならんかったのか…と。

 

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image1829.png公開年:2010年
公開国:スペイン
時 間:112分
監 督:ギリェム・モラレス
出 演:ベレン・ルエダ、ルイス・オマール、パブロ・デルキ、フランセスク・オレーリャ、ジョアン・ダルマウ、ボリス・ルイス、フリア・グティエレス・カバ 他
コピー:視力を失い、恐怖がはじまった




先天的な病気で視力を失う運命にあるフリア。双子の姉サラも同じ病気だったが、フリアより症状が進行しており、既に角膜手術を行い回復中だった。しかし、サラが自殺したという連絡が届き、フリアはショックを受ける。地元警察は、自殺として処理しようとするが、フィリアは不審なものを感じたため、独自に調査を開始すると、驚くような事実が次々と明らかになってくる。そんな中、フリアの視力はどんどん低下していくき、焦りと恐怖を感じたフリアは…というストーリー。

白濁した目の女性がいたぶられて殺害されるシーンに続いて、双子の姉妹とおぼしき人が急に発作をおこし「きっと姉が…」みたいな展開で始まる。こういう冒頭だと、オカルトとかスピリチュアルとか、そっち方向の内容なのかと思いウンザリしてしまう。しかし、すぐに神秘的な臭いは消えて、純粋な殺人ミステリーの様相に。焦点は、犯人は夫なのか第三者なのか、もしかして主人公なのか?という部分に移行。その後は、ヒントをくれる人物が次々現れて、そのヒントを元に次の展開が始まる…といった感じで、『レイトン教授』とか古くは『ポートピア連続殺人事件』みたいなアドベンチャーゲームのような、ノリになっている。
漂う空気感は、『永遠のこどもたち』みたいに、カビ臭さと埃っぽさが混ざったような。ちなみにどちらもスペイン映画ですな…なんて思って調べてみたら、カメラマンが一緒だった(私の眼力もなかなかのレベルになってきたな)。

本作で秀逸だな…と思うのは、“主人公の目が見えない間は、接触する人間の顔が画面に映らない”という演出。
主人公目線で表現しようにも、目が見えないわけだから、その様子を映像にすれば客観的な視点にならざるを得ない。そこで、主人公の目が見えない間は、誰の顔もわからないようにしているのだが、見えているときの映像と違和感を感じさせないカット割で、うまくその不安を表している。

ただねぇ…、、、

(以下ネタバレ)
その演出の流れで登場してくる犯人の出現が、いささか唐突に感じられる。たしかに“透明人間のような人”の存在をヒントをくれた人が、証言しているので、おかしくはないんだけど、そのまま出すのか…っていう、捻りの無さね。

そして、“こういう人物が犯人”というところまでしか頭がまわっていなかったようで、物語のクローズの仕方が、かなりバタバタしており、どうもいただけない。大体にして、姉サラの殺人の顛末が最後まで観てもよくわからない。犯人は人々から無視されたことが苦痛だと。でも、盲人だけは私の存在に気付く。ちょっと屈折しているとはいえ、まあそこは理解できない感情ではない。それに、自分は介護人という職業についている。そういう人たちに接することができるわけで、自分の偏った性格傾向をうまく昇華したってことで、それは褒められることなわけだ。
で、犯人はサラの介護人をやったけど、視力が回復しそうだったんで、わざと目が見えないようにしたのか?それは、サラにだけやったことなのか、それとも何度も同じことをやってるのか?
まず、サラをなんで殺さなくてはいけなかったのか。目が見えないなら、そのまま介護し続ければいい。それで満足じゃないのか?バレたのか?殺すところまでセットで、シリアルキラーとしてのパターンだということなのか。その辺、はっきりしてくれないと。犯人がぼんやりしている殺人事件なんておもしろくないじゃん。

また、フリアの目が見えているんじゃないかと、冷蔵庫の中を見せるくだり。どう考えたって、なにか驚くようなものを見せようとしているのに決まってるんだから、フリアは何を見せられても絶対反応しないぞ! と覚悟を決めるはず。だってバレたら殺されちゃうんだぜ? なのに、中をみて「ひゃ!」だって。馬鹿馬鹿しい。それに映画の演出としても、冷蔵庫の中は、普通のものでした…って一旦スカしといて、タイミングずらして驚かすでしょ。このシーンを見て、この監督センスねえなあ…と思ったね。

また、裏に住んでる盲目の老婆の件は、もっと膨らませばよかったのにね。もったいないよ。

犯人がわかるまでは、なかなか観ごたえあったので、なかなかやるじゃん!って褒めようとおもったんだけどねぇ。殺人ミステリーでありながら、犯人が出てきた後が、格段につまらなくなるという、トホホな作品。がっかり。

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image1828.png公開年:2010年
公開国:イギリス、アメリカ
時 間:118分
監 督:マーク・ロマネク
出 演:キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ、シャーロット・ランプリング、イゾベル・ミークル=スモール、チャーリー・ロウ、エラ・パーネル、サリー・ホーキンス、デヴィッド・スターン、ナタリー・リシャール、アンドレア・ライズブロー、ドーナル・グリーソン 他
ノミネート:【2010年/第26回インディペンデント・スピリット賞】撮影賞(アダム・キンメル)
コピー:この命は、誰かのために。この心は、わたしのために。


郊外にある寄宿学校ヘールシャム。そこは、自然に囲まれた環境で一般の世界からは完全に隔絶されていた。そんな中で、幼い頃からずっと一緒に育ってきたキャシー、ルース、トミーは、仲良く成長していったが、彼らにはその出生に秘密があった。彼らは、ヘールシャムを卒業すると、とある農場のコテージで共同生活を送ることに。初めて接する外界に戸惑いながらも喜びを感じてい3人だったが、ルースとトミーが恋中になたことで、彼らの関係も終わりを迎えてしまい…というストーリー。

日本からイギリスに帰化した人が原作者とのこと。その人のことも知らないし原作も読んでいない。

まず、1952年にすごい治療法があみだされて、1967年には人類の平均寿命が100歳を超えた…という説明から本作は始まる。たった15年で世界の平均寿命が100歳を超えるってどういうこと?15年なんだから最大でも15歳しか延びようがないんじゃね?1952年時点で85歳だったとでも? などと馬鹿なことを言うつもりは無い。平均余命計算っていうのは、その年に死んだ人の割合を年齢別に集計していって、今年産まれた0歳の子供が何歳まで生きられるのか…っていう感じで集計していくものらしいから(数学も統計も不得意なのでスマン)。

でもね……(以下ネタバレ注意)

この画期的な治療法って、クローンをつかって移植をするってだけのことなのよ。クローンの成長はものすごく早いとかそういうことじゃないの。だったら1952年に始めたからって、使えるところにまで成長するまでに時間がかかるんだから15年間でそんなに平均寿命が延びるわけないじゃん。それまでは普通に人は死ぬでしょ。大体にして、いくら管理してるっていったって、ただのクローンなんだからクローンが死ぬ確率だって相当あるんだし。

いや、クローンは複数いるんだ…って好意的に考えたとしても、現行人口の数倍の人間をどうやって養うんだよ。まさか、「劇中でなにか白い飲み物飲んでたでしょ。あれは高栄養で病気にもかかりにくいんだよ~」ってか?じゃあ、人間もそれ飲めよ!って話になるわな(笑)。
クローンだから臓器の拒否反応は無いとしても、手術のミスやら回復がうまくいかない場合もあるし、大体にして事故や災害や戦争での死亡者だって、平均余命の計算には含まれるんだから、100歳超えは無理あるわ。

それに、特別な教育を施しているようにも見えないので、彼らが何で理不尽な運命に全く抗おうとしないのか…が理解できない。説明不足。だから、全然、話に入り込めない。はじめの方こそ、この子供たちは何なのか?ってことで、興味を持って観ることができるが、ネタばらしが終わった後は、微塵もおもしろくない。同じ仲間から“介護人”を調達するのはわかるけど、そういう運命を持った人と一般社会で共存していることも、そういう人たちを“人間”と見なさずにコミュニケーションをとっていること等々、リアリティを感じない要素のオンパレード。

先日の『アジャストメント』と同じなのだが、SF要素が放棄されると、突然、恋愛要素やせつなさ演出で溢れてくる。いや、溢れてくるというか誤魔化してくる。昔のグリコのキャラメルのオマケじゃないんだから、男の子むけと女の子むけを無理に分ける必要はない。SF要素と恋愛要素やせつない要素は共存できる。
では、そういう破綻したディテールなんか気にならないほど、3人の人間模様はおもしろいのか?っていわれるとそうでもないところが、また虚しい。

最後の「私たちと提供を受ける者の違いは…」と疑問を投げかけて終わるのだが、これって、「リッチな人と貧乏人、どちらも同じ人間なのに、なんでこうも違うんだー」ってのと同レベルの叫びに聞こえてきて、なんかいまいちしっくりこなかったりする。
駄作というつもりはない。だけど“愚作”だと思う。もしかすると、恋愛ものが好きな人は愉しめるのかもしれないが、SF映画がお好みの人は、間違いなくイラっとくるはず。

#キーラに見えんかった。

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image1809.png公開年:2010年
公開国:イギリス、オーストラリア
時 間:118分
監 督:トム・フーパー
出 演:コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター、ガイ・ピアース、ティモシー・スポール、デレク・ジャコビ、ジェニファー・イーリー、マイケル・ガンボン、ロバート・ポータル、エイドリアン・スカーボロー、アンドリュー・ヘイヴィル、ロジャー・ハモンド、パトリック・ライカート、クレア・ブルーム、イヴ・ベスト 他
受 賞:【2010年/第83回アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(コリン・ファース)、監督賞(トム・フーパー)、脚本賞(デヴィッド・サイドラー)
【2010年/第45回全米批評家協会賞】助演男優賞(ジェフリー・ラッシュ)
【2010年/第77回NY批評家協会賞】男優賞(ジェフリー・ラッシュ)
【2010年/第36回LA批評家協会賞】男優賞(ジェフリー・ラッシュ)
【2010年/第68回ゴールデン・グローブ】男優賞[ドラマ](コリン・ファース)
【2010年/第64回英国アカデミー賞】作品賞、主演男優賞(コリン・ファース)、助演男優賞(ジェフリー・ラッシュ)、助演女優賞(ヘレナ・ボナム=カーター)、オリジナル脚本賞(デヴィッド・サイドラー)、作曲賞(アレクサンドル・デスプラ)、英国作品賞
【2011年/第24回ヨーロッパ映画賞】男優賞(コリン・ファース)、編集賞(タリク・アンウォー)、観客賞(トム・フーパー)
【2010年/第26回インディペンデント・スピリット賞】外国映画賞(トム・フーパー)
【2010年/第16回放送映画批評家協会賞】主演男優賞(コリン・ファース)、オリジナル脚本賞(デヴィッド・サイドラー)
コピー:英国史上、もっとも内気な王。

英国王の次男次男ジョージ6世は、吃音というコンプレックスを抱えている。そのため、幼い頃から人前に出ること嫌がり、内向的な性格となってしまった。とはいえ、王室の一員としての役目を果たさねばならないため、吃音を克服しようと、これまで何度も治療を受けたのだが、一向に改善する様子は見られなかった。そんな夫のために、妻エリザベスがが見つけたのは、スピーチ矯正の専門家という看板を掲げるオーストラリア人ライオネル。彼は、たとえ王子であっても、患者と医者が対等な態度で接することを条件に治療を請け負う。その風変わりな治療法は、時に王子の怒りを買うこともあったが、継続されてていった。そんなある日、父王の退位後に即位した兄エドワード8世が、王室が認めない女性と結婚をするために、突如王位を返上してしまう。王位の継承など望んでいなかったジョージは困惑してしまい…というストーリー。

今のエリザベス女王のお父さんのお話。コピーには“内気”とあるけど、そうではないでしょ。どちらかといえばナイーブという表現が近いのでは。吃音という症状は、その生い立ち・原因を聞くと、フロイトが診たら小躍りして喜びそうな症例だ。王室なんだからもっと王子の生活くらいしっかり監視してやれよ…と思うのだが、まあ、とにかく、そんな状態になるの仕方がないな…と。

殺すだ死ぬだ…でもなく、惚れた腫れた…でもなく、飛んだり跳ねたり…でもなく、お涙頂戴でもない。そういう要素が一切皆無の映画が存在するだけでも素晴らしいと思うのに、ここまで観ている者の心を繋ぎとめるのだから。
おっさんがドモリを治療しているだけなので、こじんまりとした印象に感じられても仕方がないかもしれない。しかし、ナチス禍が吹き荒れる世界という大きな波と、王族とはいえ一人の男の吃音治療というプライベートな事柄のコントラストが実におもしろい。そして、それらは否応なしに絡み合う。

そのシチュエーションの妙を際立たせているのが、ジェフリー・ラッシュ演じるライオネルのキャラクター。実際にこういう人物だったかは知らないけれど、治療士としての信念だけではなく、愛すべき隣人のためになら自分の立場が危うくなってもかまわないという、主従関係とも単なる友人関係とも異なる稀有な感情が、非情にうまく表現できている。

本人は決して王になどなりたくないというナイーブさと同時に、家族や民への愛も持ち合わせる、アンビバレントでありながら胆力を兼ね備えた王子を演じきったコリン・ファースも見事だが、兄のエドワード8世の放蕩っぷりを見事に演じたガイ・ピアースも褒めたい。こういう王族のスキャンダルもしっかりと描けるイギリスが羨ましい。オープンな王族が必ずしも好ましいとは思わないけれど、こういう卑近なネタが完全にタブー状態の日本の皇室が、いいとも思えない。50年くらい経過すれば、日本でもこのくらいオープンに表現しても、問題ない空気を寛容してもらいたいものだ。
#まあ、イギリスの場合、性的に逸脱していない男系の人を探すほうが難しいけどね。“善良王”なんて称されるジョージ6世の方が珍しい。

クライマックスはジョージが原稿を読むだけなのに、何、この盛り上がり。それもひとえに、ジョージ6世とライオネルの人物像、それぞれの弱さが魅力的に表現できているから。そしてそれぞれが、身近な人のために、他人からみれば小さな障害物だが、それを一生懸命越えようと真摯に向き合っているのが伝わり、私たちも思わず応援してしまうからに他ならない。ドラスティックさ皆無の展開ながら、受賞のオンパレードなのも肯ける。

きれいにまとまりすぎの感じはするが、文句なしの名作。イギリス王室の、映画界への貢献が実にうらやましい。
 

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image1848.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:106分
監 督:ジョージ・ノルフィ
出 演:マット・デイモン、エミリー・ブラント、アンソニー・マッキー、ジョン・スラッテリー、マイケル・ケリー、テレンス・スタンプ、ローレンス・レリッツ、スティーヴ・ソーレソン、フローレンス・カストリナー、フィリス・マクブライド、ナタリー・カーター、チャック・スカーボロー、ジョン・スチュワート、マイケル・ブルームバーグ、ジェームズ・カーヴィル 他
コピー:操作された《運命》に、逆らえ。


有望な若手政治家デヴィッドは、いつも肝心なところで感情を抑えきれないことが玉に瑕。上院議員に立候補した今回も、このままいけば当選確実というところで、パブで尻を丸出しにするという馬鹿な行動をとってしまい、そのせいで落選してしまう。自分が嫌になりながらも落選演説に望もうというそのとき、会場で美しい女性エリースと出会い心惹かれてしまう。その時は連絡先も聞かずに別れたが、その後、偶然バスで再会。しかし、彼女との仲が深まりそうになった途端、デヴィッドは突如出現した黒ずくめの男たちに拉致されてしまう。彼らは“運命調整局”員を名乗り、人々があらかじめ定められた運命から逸脱しないよう監視・調整を行っているという。そして、デヴィッドが本来出会うはずのないエリースと関係することを阻止しようとする…というストーリー。

なんか『マイノリティ・リポート』みたいなノリだな…と思っていたら、原作者が同じだった(フィリップ・K・ディック)。基本的に彼が原作の映画は好きなものが多い。『ブレードランナー』『トータル・リコール』『スキャナー・ダークリー』とかね。

何がおこっているのか先が読めない展開。謎の男たちがデヴィッドの周りで何をやっているのかさっぱり見えない。彼らが“調整員”なるものだということが判っても、彼らの目的は見えない。彼らが何で二人を引き離そうとしていることが判っても、なんでそうするのかは見えない。まるでたまねぎの皮を剥くように、剥いても剥いても次が見えない。非情に興味深い巧みなプロットである。
さあて、これからどうなるか…(以下、ネタバレ注意)。

この巧みさに輪をかけて、そのままクライマックスに向かうことを期待したのだが、終盤になるとSF要素の面白さは薄まって、ウェットなラブロマンス要素で溢れてくる。これを愉しめるかどうかは、好み次第。もちろん、私が求めた展開とは違う。

調整員さんたちは、空間を曲げたり(どこでもドア状態)と、なんでもあり状態なのに、なんで、一人の人間ごときに一喜一憂するのか。結局、彼らの究極的な目的は何も明かされず終い。そりゃあ、“神の遍在”を匂わせてしまったら、彼らの目的を明かすことは不可能。それを説明するということは、神の存在意義を語ることになってしまうからね。神の御意思なぞ、説明しようものなら教会から大目玉を喰らってしまうわ。
大いなる神を恐れ多く思い、ありがたく思う方々にはそれでいいのかもしれないが、キリスト教徒でもない私にゃあ、消化不良以外のなにものでもない。大方の人は、私と同じだろう。

もっとSF直球で勝負してほしかった(『マトリックス』のスピンオフ作品とでも思えば、愉しんで観られるかもしれんけど)。せっかく面白くなりそうなSFが、神の御名の前に萎んでしまった残念な作品。監督の力量の問題かもしれない。残念だったしお薦めもしないが、極めて凡庸ではあれ、決して悪い作品ではない。

#サラリーマンはどの世界でも小物だのぉ…。





負けるな日本
 

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image1856.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:124分
監 督:ジョー・ジョンストン
出 演:クリス・エヴァンス、トミー・リー・ジョーンズ、ヒューゴ・ウィーヴィング、ヘイリー・アトウェル、セバスチャン・スタン、ドミニク・クーパー、トビー・ジョーンズ、スタンリー・トゥッチ、ニール・マクドノー、デレク・ルーク、ケネス・チョイ、リチャード・アーミテージ、JJ・フィールド、ブルーノ・リッチ 他
コピー:なぜ彼は、世界最初のヒーローと呼ばれたのか――。


1941年。ヒトラー率いるナチスドイツに押され、ヨーロッパは危機を迎えていた。アメリカは連合国側として多くの兵士を派兵していたが、愛国青年スティーブ・ロジャースは入隊を希望。しかし、彼のあまりにも虚弱な体は入隊基準を満たすことができず、経歴をごまかして何度も試験を受けるがことごとく不合格になっていた。そんな中、軍医アースキン博士から、ある特別なプロジェクトに参加することを条件に、入隊の誘いを受けるスティーブ。晴れて入隊した後、“スーパーソルジャー計画”の被験者第1号となるが、実験は見事に成功。彼は超人的な肉体と運動能力を獲得する。しかし、その実験に紛れ込んでいたナチス内の一派の“ヒドラ党”のスパイによって、博士は暗殺され装置も破壊されてしまったため、計画は頓挫。後ろ盾を失ったスティーブは、彼の意に反して軍のマスコット“キャプテン・アメリカ”として、戦時国際のキャンペーン活動に利用されてしまうのだたが…というストーリー。

ある意味、キャプテン・アメリカさんも『ハンサム★スーツ』みたいなもんなんだけど、変貌と遂げる主人公の心根が違う。ここは重要。

単なるコンプレックスや虚栄心なんじゃないか? と思われそうなるけど、あくまで、他人のために尽力したいという純粋な人なのだ…というラインを決して外れることがなかったのが良い。いや、そこだけは死守しないと、アベンジャーズのリーダーとして不適格になるのがわかっていたから死守せざるを得ない。

全面戦争に突入すると何故かそれほど愉しくなくなるのも、残念。戦争が始まるまで、始まる当初はどうなっちゃうんだろうとハラハラするけど、いざ開戦してしまうと、打算と虚しさと傲慢さしか見えてこないのは、実際のアメリカさんの戦争と一緒。107連隊とやらの恨みという部分に焦点を当てるとか、これまでの緒戦についても言及するべきだったか。
また、バトルが盛り上がらないのは、敵の魅力が低いからかもしれない。もうちょっと特徴というか味のあるデザインにしてほしかった。ヒドラ党のタコさんマークのデザインなど、秀逸な部分もあったのに、そこ以外のデザインは凡庸だった。

『猿の惑星:創世記』のCGもすごかったが、本作もすごい。
クリス・エヴァンス本人は、基本ムキムキさんなので、冒頭のヒョロヒョロのほうがCGである。こういう表現をする場合は、まるごとCGだったりすることも多いのだが(『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』なんかはそういうアプローチ)、本作で演じているのは間違いなく本人。本人で撮影した後(もちろん背も低いので、頭の位置はかなり低くなるように撮影しているだろう)、体の部分をCGに置き換えている。これだけ長い時間、それも裸のシーンも多いのに、モヤシ男部分に何の違和感も感じられない出来映えに、驚きを隠せない。健全かつ善良でウブな主人公というのも、案外久しいし、ダメな子が成長していくのは、純粋に観ていて愉しいわけで、そこをまったく毀損していないだけでも優秀といえる。これを仕上げた会社の技術はズバ抜けているわ。

これで、『アベンジャーズ』に向けての準備はこれでおしまい。はっきりいってエンドロール後の『アベンジャーズ』の予告映像のほうがアドレナリンが出る。さあ、盛り上がってまいりました~!といいたいところなんだけど、日本では仮面ライダーと戦隊シリーズの合体映画のほうが盛り上がってるような気がしないでもない。それくらい一般の知名度はイマイチ。子供づれで観にいく内容でもないしね。

決してつまらなくはないのだが、アベンジャーズに向けて、置きにいった感は否めない。70年も眠っていたことに対する切なさとか侘しさとか、そういうのは表現する気すらない(徐々に理解させようとして、当時の環境を再現しておく意味がわからんし)。
まあ、アメコミに興味はない人は、観なくてもよし。興味がない人は「ふ~ん」で終わると思う。



負けるな日本

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image1351.png公開年:2008年
公開国:日本
時 間:115分
監 督:英勉
出 演:谷原章介、塚地武雅、北川景子、佐田真由美、池内博之、大島美幸、本上まなみ、佐々木希、山本裕典、伊藤明賢、住田隆、ブラザー・トム、温水洋一、中条きよし、伊武雅刀 他




海外で修行したほどの腕前を持ちながら、母親が遺した定食屋“こころ屋”を営む琢郎・33歳。料理の味もさることながら心優しい性格でご近所では人気者。しかし、その容姿はデブでブサイクなため、女性にはまったく縁がない。ある日、突然美人の寛子がバイトに申し込んでくると、一目惚れして即採用。勢いで告白してしまうが、あっさりフラれてしまう。落ち込んだ琢郎が、友人の結婚式のために紳士服店にスーツを買いに行くと、そこの店長が、着るだけでハンサム男に変貌できる“ハンサム・スーツ”を薦める。とりあえず試供品を使ってみるのだが、ハンサムの恩恵により今まで味わったことのない経験の連続で、舞い上がってしまう。そして、街中を歩いていると、モデルにスカウトされて、光山杏仁という名前でデビューすることになり…というストーリー。

リアリティがどうのこうのいうような話ではないのは、DVDジャケットの画像を見れば判るわけで、そんなことは期待していない。むしろマンガチックに振り切れてくれれば良い。しかし、笑いたくてもひっかかりが多すぎて、如何ともしがたい。

ブサイクな自分にうんざりするのまではわかる。ハンサムになれるスーツを着ておもしろいと思うのも判る。今まで自分が経験できなかったことをやってみようと思うのもわかる。しかし、それで「オレってすげー」みたいな感覚になるのがわからん。
「よーし、いい物もらったから、ストレス解消しちゃえ!」とか「悪いことしちゃおう」ならわかる。でも、他人の容姿で好きな人に告白してしまうのって、変じゃないか? だって、モテても自分じゃないのはわかってるわけだから。そういう態度って、自分自身の完全否定。主人公のアイデンティティの崩壊でしょう。
アイデンティティが崩壊しているということ、そしてそれを愉しんでるってことは、自分を捨てたのと同意。つまり自殺したのと同意である。自殺した人間に共感できるか? できるわけがない。だから、観ていても話に入り込めない…というあたりまえな話。ちょっとしたイタズラ心で他人になりすまして、戻るに戻れなくなっちゃった的な展開にすべきだった。

そういう根本設定の問題だけでなく、ストーリー展開でもイマイチな点が満載。
カリスマモデルという設定でありながら、友達の友達でした…っていう、無理やりな設定。いくら、変身後と変身前が対面させられそうになるピンチな状況をつくりたいからといって、稚拙すぎる。

北川景子もが逆スーツを着てるってのは、森山中・大島が登場したところで、9割の人間が判る。別に判ること自体は(まあ稚拙な演出だとは思うが)問題はない。しかし、まるでそれをこの物語の最大のドンデン返しみたいな感じで、長々とネタばらしするラストのくだりは、うんざりする。言わずもがなでサラっとうまいこと表現できないことが、シナリオとしてレベルが低い。

後、勝手に他人をパシャパシャ写真に撮るんじゃねえっ!とか、買ったばかりのガリガリ君が溶けかけとか、小道具くらいちゃんと仕込めや!とか、東京ガールズコレクションのステージで、モデルが立ち止まったから音楽が自然に消えるとかありえねえだろ! とか…。このシナリオに対して誰も指摘しないとか、ありえないでしょ。

バラエティ番組で、笑おうと思っても、ちょっとそれはイジメなんじゃないの?とか、やりすぎて笑えないんだけど…とか、配慮が無さすぎなんじゃない?とか、多々見られるでしょ。あれと一緒。考えが浅いんだと思う。って思って調べたら、原作も脚本も鈴木おさむだった。だれも、鈴木おさむにツッコむ人いないんだな。王様状態かよ。クリエイターとしては、かえって不幸だよなぁ。

でも、最大のトホホポイントは、北川景子が美人のアイコンとして登場するのに、森山中・大島演じる本江さんのほうが、完全に魅力的に見えてしまっているというところか。むしろ、ブスーツを脱いだほうがガッカリするという、ある意味ものすごいシュールさ(夫としてはしてやったりか?)。大体にして、本当の自分を見て欲しかったといっても、その“本当の自分”とやらを寛子の時に発揮できていないだけにしか思えないんだけどね。

日本コメディ映画で、最低の部類かもしれない(実は、途中で観るのを何度も止めてる。ブログに書くネタがなくなるから仕方なく最後までつきあっただけ)。




負けるな日本 

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image1853.png公開年:2011年
公開国:アメリカ
時 間:106分
監 督:ルパート・ワイアット
出 演:ジェームズ・フランコ、フリーダ・ピント、ジョン・リスゴー、ブライアン・コックス、トム・フェルトン、アンディ・サーキス、デヴィッド・オイェロウォ、タイラー・ラビーン、ジェイミー・ハリス、デヴィッド・ヒューレット、タイ・オルソン、マディソン・ベル、マケンナ・ジョイ、カリン・コノヴァル、テリー・ノタリー、リチャード・ライディングス 他
受 賞:【2011年/第17回放送映画批評家協会賞】視覚効果賞
コピー:これは人類への警鐘

サンフランシスコの製薬会社でアルツハイマー治療の研究をするウィル。新薬の実験でチンパンジーの知能が驚異的に向上したことから、人間への治験の許可を得ようとするが、そのチンパンジーが突如暴れだして警備員に射殺される事件が発生してしまい、プロジェクト自体が中止になってしまう。しかし、射殺されたチンパンジーは妊娠中で、赤ん坊はなんとか一命を取り留める。発見されれば会社から処分を命じられることから、ウィルは自宅に持ち帰り育てることに。そのチンパンジーはシーザーと名付けられたが、並外れた知性を発揮し、手話でコミュニケーションをとれるまでになる。成長したシーザーはある日、ウィルの父を助けようとして隣人とトラブルを起こしてしまい、類人猿保護施設に収容されることになる…というストーリー。

『猿の惑星』のビギニングエプソードとしては4作目の『猿の惑星・征服』がそれにあたるわけだが、まあ、それはそれということで、まったく別次元・別解釈で製作されたお話。だからといって、前シリーズを無視しているわけではなく、『猿の惑星・征服』で人間に反乱する猿のお名前はシーザーだし、行方不明になった宇宙船の名前もイカルスだし、“STOP”だったし、明確な繋がりが示唆される。でも、『猿の惑星・征服』では、犬や猫が死ぬ病気が蔓延して猿がペットの主流になってるとか、そういうSFシチュエーションだったりする。また猿の反乱は人種対立の投影だった。細かいパーツは揃えてきたけど、大筋の話は再構築した…というのが正しいかな。
#ティム・バートンによるリメイク版は黒歴史扱いなのか? ティム・バートン好きとしては、擁護してあげたいところなんだけど、ちょっと…なデキだったからなぁ。

まあ、この辺の“繋がり”部分については、知らない人には「はぁ?」なわけだが、この作品を評価したいのは、そんなことを知らなくても、充分に愉しめる仕上がりになっているという点である。はじめは主人公たち人間側の視点で鑑賞していたものが、いつのまにかシーザをはじめ猿目線で観ているということ。そして、最後は猿の気持ちになって、一緒にカタルシスを覚える。いつのまにか観客の心を誘導し、パラダイム・シフトしていることに気付かせずに且つ愉しませるという、優秀なシナリオだと思う。

その後の話にどう繋がっていくか? ばかりに注力していたら、絶対につまらなくなったと思う。そこを、一旦忘れたことのようにして、疾走感のあるシナリオに構築できたのが、勝因だろう。
CGの違和感の無さは今や当たり前の域に達しているけれど、ここまで個々の猿の感情を表現できると、もう特殊メイクやマペットの出番はないのかもしれれない(若干、アクションの動きが滑らかすぎる点は、これからの技術課題だと思うけど)。
うまくまとまった良作だと思う。類人猿には効かず人間にだけ重篤な症状が出る病原菌の存在を最後に匂わす。続編への布石と捉えることももちろんできるが、仮に続編がなくても、ああこのまま人間が滅びていくのかもな…と余韻を残すだけでも充分な効果はある。

先にも書いたが、前シリーズの各作品は、社会状況のなんらかの投影なわけだが、では本作は何か。
科学の暴走という、古臭いテーマが見えるのだが、この部分が日本人にとってはいまいち不満な要素かもしれないなと思っている。何故、日本人にとっては…と表現するかというと、日本人には単なるSFにしか映らないけど、カトリックからすれば“神の領域”を犯すとんでもない所業だと思われていると思うのだ。なんてったってマジめに進化論を否定するレベルだもの。主人公の彼女がその点を連呼し続けることからもわかる。そういう共和党的な価値観と、無神論的な思想の相克が入り乱れた空気の中を、渦中の猿が疾走していく、そんなイメージ。新作料金で観ても後悔はしないと思う。米アカデミー賞とか、賞レースからは総スカンに近いけど、気にすんな。

#マルフォイ…、、、、、。しばらく小悪人役の需要はつづくんじゃないかな。滲み出る小物臭いがハンパない。ある意味才能だと思う。




負けるな日本

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image1757.png公開年:2009年
公開国:アメリカ
時 間:91分
監 督:ルイ・シホヨス
出 演:シャルロット・ゲンズブール、ウィレム・デフォー、ストルム・アヘシェ・サルストロ 他
受 賞:【2009年/第82回LA批評家協会賞】ドキュメンタリー長編賞(ルーイー・サホイヨス)
【2009年/第35回アカデミー賞】ドキュメンタリー賞
【2009年/第15回放送映画批評家協会賞】ドキュメンタリー賞

60年代に「わんぱくフリッパー」の調教師として活躍したが、その後イルカの保護に目覚め活動をしているリック・オバリー。和歌山県太地町で行われているイルカ漁を収めるべく、地元民との攻防をくりひろげた様子を綴ったドキュメンタリー。

下種な映画だろうと思っていたが、ここまでヒドいとは。

論理破綻がヒドくて、ちょっと精神を病んでいるのではないかと思える部分が多々ある。
「①水銀の残留濃度が判れば日本人はイルカの肉を買わなくなるはずだ」 → 「②わからせるためには、大地の入り江の様子を見せるしかない」…って、①から②の流れがまったく意味不明。流通しているイルカ肉の水銀濃度が問題なら、市場から妥当な数の抜き取り調査をして、その肉に含まれる残留水銀値を第三者機関に測定してもらって、その結果を日本人に公開するのが、正しい流れだろ。

自分が悪いと思ったことはだれしも悪いと思って然るべきだという発想のみで邁進し続ける。そして、その邁進が具合が「ヒャッハーッ!」状態のアドレナリン全開で、オレこんなことやったるんだぜ~~っ見せびらかし状態。こんなカメラつくってやったぜー!(ヒャッハー) etc…
こいつらの中にある戦闘DNAはどうしよもないな。戦う相手がいなかったら、むりやり相手を作ってでも戦う。そりゃイラク戦争もおこすわ。9.11もおきるわ。イラク戦争の失敗を経てもまだイランを攻撃する気マンマンでっせー!とか平気で言うもんな。クレイジー。「子供を殺されたイルカはそれを認識できている」。家族を殺されたイラク人やベトナム人も、それを理解してるけどね。

賢いイルカは喰うべきでないってことは、賢くない生き物を喰っても問題なしってことになる。じゃあ賢くない人間は“喰う”のだろうか?確かにヤツラは歴史上喰ってきた。
かつて、白人さんたちは、ラテンアメリカ米を発見し上陸する際に、ローマ教皇に確認したそうな。「ここにいる人間の姿をした生き物は、我々と同じ人間でしょうか?」と、同じ人間(隣人)であればもちろん殺すはずはないわけだが、その後先住民がどうなったかという結果を見れば、その時の回答がどうだったかわかるだろう。彼らは「半人間」だと。だから生かすも殺すも自由だ…となった。人間は神から自由に行動することを許されている(神に背かない範囲で)。自然も生物も自由にしていいんだ。そういうこと。まあ、後になって新大陸の人間も同じ人間だ…と訂正されるが、時既に遅しである。
で、本作の白人さんたちが何をやっているか。私たちがかわいいと思っているイルカちゃんを殺すなんて、こいつらは人間じゃねえ。こんなやつらには何やってもいいんだ…ってロジックは変わりない。

私はイルカもクジラも喰わんからどうでもいいんだけど、賢い賢くないの問題じゃなんだよ。私らは他の生き物を喰らわないと生きていけない業を背負ってる。だから、クジラだろうが、チキンだろがポークだろうがビーフだろうが野菜だろうが、すべてに感謝して食べる。殺していい生き物なんかいないけど、そうせざるを得ないから、「いただきます」「ごちそうさま」と毎回感謝しながら喰うんだ。ヤツラは根の部分で違うんだよなぁ。
#まあ、もっと速やかに殺してやれや…という指摘は、謹んで承るけどな。

「日本には出る杭は打たれるという諺がある。だから日本には環境保護団体は存在しない(キリッ!)」んだってさ(笑)。

こういう作品に長編ドキュメンタリー賞なんぞを与える、米アカデミー賞をはじめアメリカの映画賞自体がクソってことだと思う。ほとんどが自分たちがやっていることを追っていて、自分たちの行動を追ったドキュメンタリーになっちゃってるんだけど、こういうのもアリなのか?(まあ、マイケル・ムーアの『華氏911』がドキュメンタリーなんだから、同じっちゃあ同じか)。
私が米アカデミー賞の何かを受賞したら、受賞のステージ上で、「私の作品を評価してくれた方々には深く感謝をします。しかし、2006年に『THE COVE』に賞を与えたような団体からの賞を私が受け取るわけにはいけません。謹んでお返しします…」と、その場にオスカー像を置いて帰ってきたい(誰かやれ)。

観ないで批判するのはフェアじゃないから観るべきっていうけど、これは観る必要ないかな。WASPと私たちが別の生き物であることを痛感させられるだけ。巻き込まれないように注意しないといかんな(いまさらながら)。ここまでコケにされたら戦争してもいいレベルだけど、それは相手の望むところだから毅然&冷静に…ってところだな。

IWCでのブラジルの発言はおもしろいな。クジラの増加が漁獲量に影響するなんて非科学的だそうだ。南米の漁業はどうなっていくかねぇ…。



負けるな日本

 
 

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image1814.png公開年:2009年
公開国:デンマーク、ドイツ、フランス、スウェーデン、イタリア、ポーランド
時 間:104分
監 督:ラース・フォン・トリアー
出 演:シャルロット・ゲンズブール、ウィレム・デフォー、ストルム・アヘシェ・サルストロ 他
受 賞:【2009年/第62回カンヌ国際映画祭】女優賞(シャルロット・ゲンズブール)




セックスの最中、目を離した隙に幼い息子がベビーベッドから出て窓へよじ登り、転落死してしまう。妻はその哀しみと自責の念から心を病んでいく。セラピストである夫は、自ら妻の治療にあたろうとするが、懸命な努力は実らず妻の症状は悪化する一方。夫は、彼女の心の中の闇を克服するために、森の奥深くにある山小屋に連れて行くことにするのだが…というストーリー。

前々から観ようと思っていたが、聞き及ぶ内容からすると、気力・体力ともに整えておかないとヤられてしまいそうだったので、これまで延び延びに。昨日の緩い映画は、ワンクッション置いたと思っていただければ。

相変わらずのラース・フォン・トリアー監督。キッついシチュエーションで、観ているだけでつらくなるにもほどがある。内容は、もうSM映画なんじゃないかと思えるほどエスカレートしていく。おそらくボカしが入っているのは日本版だけなのだと思うが、見えないせいでかえって怖い。

妻も夫婦間のカウンセリングはよろしくないといっているし、夫自身もやるならやるで厳格なルールが必要があるといっているわけで、根本的に危うい状況。途中からその厳格なルールは破られても、“治療”は続けられるのだが、その前からまともなカウンセリングになっていないように思える。大体にして、夫も子供の死のダメージを受けているはずなので、治療を施される側のはずなのに。

“アンチクライスト”とは何なのか。正直、一回この作品を観たくらいで、トリアー監督が何を言いたいのか、整理できないので、以下は思ったままの走り書きみたいなものだと思って欲しい(結論はない)。

アンチクライストは直訳すれば反キリスト者なのだが、それは大抵“悪魔”であるとされる。では、その悪魔とはなんなのか。DEVILとはちょっと違う。だって彼らは元々神なのだから。単なる違うということは、キリスト教の埒外にいる存在ということではなかろうか。

妻は、「自然は悪魔の教会」と言う。これはどういう意味か。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教において自然とはどういう存在か。実は、単純に“母なる大地”というイメージではない。これは、これら一神教が湧き出た土地が、肥沃な土地ではないから。基本的に自然は人間に対して仇なすものという前提だ。いやいや、カトリックだって収穫物に感謝したりするでしょ…と思うかもしれないが、それは土着の宗教を吸収した結果(シンクレティズム)でしかない。だから、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教において輪廻転生という概念はない。死んだ人間は、この世が終わりがくるまで“どこか”にモラトリアムしていて、いざその時になるまで審判を待つ。だから生まれ変わりなんてのは、教義に反する。
さて、豊かな森は、生き物の集合であり、その死は生に直結する。我々日本人には、永遠に引き継がれる命という概念があっさりと腑に落ちる。でも、彼らはそうではない(すくなくとも教義上は)。つまり、森=非一神教=アンチクライストの象徴てことか。

ANTICHRISTのTが♀である点。本作では、妻の宿る悪魔性が刻々と描かれている。「フロイトは死んだ」。確かに現代心理学において、フロイトの夢診断レベルをそのまま適用するなんてことはない。そんなことをしたら馬鹿にされるし、実際的外れな治療になる。でも“死んだ”か? まるでニーチェが「神は死んだ」というのと同じレベルでまことしやかに用いられるが、死んではいないだろう。フロイトは事象を分析し、仮定を挙げて、当時のできる範囲で実証を試みただけであり、後の研究者たちが別の発見や結論に至ったからといって、彼の行いや視点が“死んだ”わけではない。
フロイトといえばヒステリーの研究がある。当時は女性特有の病といわれたが、彼は、ヒステリーの原因は幼少期に受けた虐待等が引きおこす精神病理だといった。これを否定するならば、本作で夫がやっている治療は何だ? という話になる。病理として片付けられない人知の埒外の問題だということになる。つまり悪魔。そういうことか。
本作には過激シーンをカットした“カトリック版”なるものが存在するらしい。はたしてカットされた“過激”とは何なのだろう。多分、文字通りの肉体損壊がらみのシーンだけではないと予測する。カトリックは三位一体が教義だが、四位一体だという指摘もある。父・子・精霊に加えてマリア信仰がそれだという。その根源は母性である。でも、本作の妻は子の死を悲しむ傍らで、虐待を続けていたと示唆される。それどころか、その死は未必の故意であったとも。そのような母像はカトリックでは受け入れられないはずだ(『カントリー・ストロング』においても、子殺しだとバッシングされ続けていたのは、そのためである)。

ふと、♀は女性記号なのか? と頭をよぎる。もしかしてエジプト文字のアンク記号だったりして。アンクの力を信じる者は一度だけ生き返ることができるとか。ここでも、輪廻転生に繋がるなぁ。
私には、他の宗教と一神教とのコントラストしか見えてこなくて、本作が、特にキリスト教社会の限界を主張しているように思えて仕方が無いのだが。
#まあ、トリアー監督の場合、自分の出生の秘密とか、母性に疑問を抱くだけの理由があるからなぁ…。

自分で投げ捨てたレンチの在り処がわからなかったり、一瞬にして性格が切り替わるところなど、妻が多重神格に犯されているような表現。だが、やはり単なる多重神格とは違うような…。
森にいった後は、何が現実で何が幻想なんだか判然としない。これは夫も、徐々に精神的に影響を受けた…と判断してよいのか否か。私は森にいったこと自体、夫の幻想なんじゃないと思えるほど。なぜか、床下にレンチがあると疑うことなく、床を破る夫。どうして判る? 現実ではありえない。やはりこれは幻想の中の出来事か。幻想だとしてもむしろ夫側の幻想という暗示か?出産しながら逃げる鹿、喋るキツネ、頭を砕いても鳴き続けるカラス、これを見たのは夫だしな。

大体にして、三人の乞食とは何ぞや。もう、ここまできて、私の脳は力尽きたみたいだ。同じように、カトリックの人が観て失神したという『パッション』と比較すると、私の脳は100倍くらいフル回転した。これだけのことがちょっと思い出しただけでつらつらと浮かんでくるほど。
エグい描写(チョッキンとか)があるので、また観る気がおきるかどうかわからないが、その他の要素だけなら間違いなく2年に一回は見直すレベル。好きか嫌いかどちらか選べといわれれば“好き”といわざるを得ない。
なぜかわからないが、キリスト教圏に産まれなくてよかった…という思いが頭を去来する。とにかく観る前は、体調を万全にしておくべし。私が皆さんにいえることはそれだけだ。




負けるな日本

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クボタカユキ
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男性
趣味:
映画(DVD)鑑賞・特撮フィギュア(食玩/ガシャポン)集め
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一日一シネマ。読んだら拍手ボタンを押してくだされ。
出張とか入ると、投稿は遅れてしまいますわ。
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